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  日の丸と君が代


 この回は、日の丸と君が代について考えました。1990年に文部省が学校での式典に日の丸・君が代を義務づけたことによって、この問題をめぐっては緊迫した議論がおこなわれてきました。多くの学校で教員と管理職との間ではげしい議論が行われ、毎年、3月4月になると都道府県別の日の丸・君が代の実施率が新聞の紙面をにぎわせています。1998年には広島県の県立高校の校長が、卒業式での日の丸・君が代の取り扱いをめぐって、県教育委員会と県教職員組合との板挟みにあって自殺したという痛ましい事件にまで発展しました。そうした緊迫した状況がある一方で、生徒たちはこの問題について蚊帳の外におかれています。議論に参加する機会がないばかりか、ほとんどの学校で日の丸と君が代の歴史的背景すら知らされていません。しかし、式典の主人公は彼ら生徒たちであるはずです。式典の主人公であるはずの生徒たちが、議論において蚊帳の外におかれ、この問題の歴史的背景も知らされないまま決定事項に従わされるというのは、きわめて非民主的な状況です。その背景には、政治が国民世論の議論によって動くのではなく、政府の決めた方針を「国策」として国民に徹底させてきたという日本社会の体質があります。また同時に、こうした社会問題について、生徒が自律的に判断するのではなく、学校の方針に従っていれば良いとしてきた教育現場の問題もあります。
 そこでこの回の授業では、日の丸・君が代をめぐる状況や歴史的背景を解説し、賛否両論を紹介した後に生徒たちに考えてもらうことにしました。日の丸や君が代を前にしたときに、「起立せよ」と号令をかけたり、あるいは「立つな」と命じるのではなく、ひとりひとりが自分の頭で判断できるようにしていくことこそ民主社会の基本ではないでしょうか。
 
 
1.資料 日の丸と君が代
 
●日の丸 (おなじみ旗の紹介)
 
●「君が代」の歌詞と意味
 
きみがよは
ちよにやちよに
さざれいしの
いはほとなりて
こけのむすまで

天皇(の治める世の中)は
千代に八千代に(永遠に)続く。
それは小さな石が
大きな岩になり、
こけがむすほど末永く。

 
『日本教科書大系近代編第二十五巻唱歌』講談社1965(P66)より。

 此歌ハ、古今集中ノ古歌ニ、「わが君は、千世に八千代に さざれ石の、いはほとなりて、苔のむすまで」トアルト、或ル唄ヒ物ニ 、「君が代は、千世に八千世に、云々」ト改メテ、用ヒ来リタルヲ、 終ニ其楽譜ヲ作リテ、 天皇陛下ノ万歳ヲ祝スルノ歌曲ト作シタルモノナリ。此曲ハ、今日、殆ド我国歌トシテ、祝日祭日ナドニ、一般ニ 用ヒラルルコトトナレリ。故ニ何レノ学校ニ於テモ、能ク習熟セシメンコト ヲ要ス。
 
 君が代のルーツは平安時代に編纂された「古今和歌集」の和歌で、天皇または君主の治世が末永くつづくことを願う歌だった。歌のなかの「きみ」が「天皇」なのか、それともたんに「主(我が君)」を指しているのかは、はっきりとしていない。しかし、明治のはじめに君が代が国歌として用いられることになった際、政府によって、天皇の治める世が末永く続くよう願う歌と定義され、学校やその他の場で、天皇の治世をたたえる歌として教えられるようになった。1892(明治25)年に当時の文部省の音楽教科書担当官が作った教科書にも、やはり「天皇陛下の万歳を祝う歌である」と書かれており、天皇制をナショナリズムの根幹にすえた戦前の政策によって、君が代は広く浸透していった。
 

2.日の丸・君が代をめぐる状況
 
●日の丸・君が代は明治期に国旗・国歌として定められる。明治維新の後、新政府は中央集権的な国づくりをすすめていく。江戸時代の人々にとって、帰属意識の対象は「日本」ではなく、藩であり故郷の村であり、それが「くに」であった。そうした幕藩体制の中で藩や地域社会に分断されていた帰属意識を改革し、国民に「日本人」としての民族意識を根づかせていく。それは19世紀の帝国主義の時代のなかで、日本が欧米列強の植民地化という危機感をいだき、列強に対抗できる国づくりをすすめるための意識改革といえる。また、天皇を新国家の中心にすえ、天皇制を国民の求心力とすることで日本人意識の形成を促進した。天皇という主権を持ち不可侵の聖なる存在を国家の中心にすえることで、国民の意識を統合し、同時に政府の権威を高めるという二重の役割を持たせた。そのため、明治期につくられた国歌は「君が代」という天皇制をたたえる歌となる。一方、日の丸は江戸時代末期に薩摩藩の提案で日本の船に日の丸をかかげるようになり、明治初期に日本の船舶の国籍を表すものとされた。そのルーツは源平の合戦時に日の丸の扇を船にかかげたものだといわれている。(国際連盟加入時に、日本政府は皇室紋章である菊の紋を国旗のデザインにしようとしたが、ドイツ・フランスから一家系の家紋を国旗にするのはふさわしくないと批判され、取りやめたといわれている。パスポートのデザインは日の丸でなく、皇室紋章に由来する菊の紋になっている。)

●昭和初期から敗戦までのファシズムの時代に、日の丸と君が代は日本の国家主義と軍国主義の象徴となっていく。期間としては20年足らずと短いが、愛国心の高揚や尊皇の精神を高めるために日の丸と君が代は用いられ、日本の近代史の中で国旗と国歌がもっとも人々の目と耳にふれた時代だったといえる。学校では皇民化教育が行われ、天皇の臣民として天皇と国家のために命をささげることが務めとされた。また、出征兵士の送迎会では日の丸が振られ、君が代が斉唱された。そのため、この時代を経験してきた人たちには、日の丸や君が代に嫌悪感をしめす者が多い。また、日本軍によって侵略され、植民地支配を受けたアジアの国々では、日の丸や君が代は侵略者の象徴として受けとめられており、現在も不快感を持つ人たちが多い。
 
●第二次世界大戦後、新憲法が制定され、主権は天皇から国民に移り、日本は民主国家としてスタートすることになった。日の丸・君が代は法的には国旗・国歌とは定められず、あいまいなまま残されることになった。ただし、戦前からの慣習によって、国連やオリンピック等の国際大会では日本国を表すものとして、国旗・国歌として扱われてきた。
 
●いくつかの世論調査では、日の丸については国民の約90%が国旗として支持し、君が代は約70%が国歌として支持している。(ただし、この支持には「まあべつにいいんじゃない」という消極的支持もふくまれる。)敗戦から半世紀が経過し、日の丸・君が代に戦争を連想する世代よりも、オリンピックをはじめとしたスポーツの国際大会を連想する世代が増加していることがこの支持率になっていると考えられる。また、1990年代以降、野球やサッカーといったプロスポーツの試合で君が代の斉唱が行われる頻度が増加したため、支持率は上昇傾向にある。

●国旗や国歌が「自由・平等・博愛」や「民主主義」や「人民主権」といった普遍的理想を表している社会においては、政治的立場に関わりなく、人々が国旗や国歌によって表される理念へ敬意を示す場面が見られる。アメリカでは、右翼も左翼もしばしば星条旗を拠り所に自らの主張を展開し、フランスでも同様の傾向がある。しかし、日の丸と君が代にはそうした理念がなく、戦前の天皇制ナショナリズムの普及徹底をすすめる政策の一貫として国旗と国歌が用いられたため、現在でも日本では、右翼は日の丸と君が代をナショナリズムの象徴として神聖視し、逆に左翼は敵視するという政治状況が生じている。
 
●1990年、文部省は学校での式典で日の丸・君が代を義務づける。したがわない教師には罰則をもうける。

●1999年、国旗・国歌法が成立し、日の丸が日本の国旗、君が代が日本の国歌として法的に定められる。法律制定にあたって、有馬朗人文部大臣は、児童・生徒に強制するものではなく、教育現場での国旗・国歌の徹底をすすめるものでもないとしているが、この法律をきっかけに、各地道府県の教育委員会による日の丸・君が代指導が徹底されると予想される。

●外国のケースをあげると、アメリカでは社会の様々な場面で国旗や国歌にふれる機会が多い。国家行事だけでなく、プロスポーツの試合や学校行事でも星条旗がかかげられ、星条旗よ永遠なれが演奏される。また、Tシャツのデザインやカバンのデザインにも星条旗がしばしばもちいられている。こうした傾向は第二次世界大戦からの慣習で、戦時下における国威発動と愛国心の高揚としてスポーツイベント等で国旗掲揚と国歌の演奏が行われるようになったことに端を発している。第二次大戦後、アメリカはソ連との冷戦に突入し、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争と戦時体制が続く。そうした状況下で、スポーツイベントや学校の式典での国旗への敬礼と国歌の斉唱というセレモニーが慣習化し定着していった。1960年代末から70年代にかけてのベトナム反戦運動が高まった時期には、こうした慣習が批判されたが、2001年9月11日のニューヨークテロ事件とその後のアフガニスタン攻撃・イラク戦争によってアメリカ国民の愛国心が高まっており、現在、様々な場で星条旗がかかげられ、星条旗よ永遠なれが斉唱されている。ただし、公立学校で星条旗への敬礼を強制することは、信教の自由を保障した合衆国憲法の修正1条に違反するという連邦裁判所の判決が出ており、実施されていない。また、80年代のレーガン政権時代に、政府への抗議として星条旗を燃やす事件が起き、この事件を期に国旗を冒涜する行為を禁止する国旗保護法が制定されたことがあったが、1990年に連邦裁判所はこの法律が合衆国憲法に違反するものとして無効であるという判断を出している。(→ 国旗保護法が無効になった経緯はこちらのサイトで詳しく解説されている。「君が代」訴訟をすすめる会・国旗焼却事件に関する判例 http://kimigayososyo.hp.infoseek.co.jp/newpage21.htm)
 一方、ドイツでは、国旗や国歌は国家行事以外ではほとんど目にすることはない。第二次世界大戦後、西ドイツはナチス時代のハーケンクロイツを廃止し、ワイマール時代の黒赤黄の三色旗を国旗として復活させた。現在の統一ドイツもこの三色旗が国旗になっている。ドイツではハーケンクロイツだけでなく、ナチスを表現するものを公共の場に持ち出すことは法律で禁止されている。表現の自由を侵害することになるが、それよりもナチス時代を再びくり返さないことを優先し、こうした政策をとっている。現在の三色旗は国際会議やスポーツの国際試合でもちいられる程度で、ドイツの町中で国旗を見ることはほとんどない。ナチス時代にハーケンクロイツが様々な場で掲げ振られていたのとは対照的な状況といえる。祝日に国旗をかかげる家はなく、学校行事でも、国旗の掲揚や国歌の斉唱はおこなわれない。日本と違ってドイツの学校では、始業式や卒業式といった式典がなく、起立斉唱の号令をかけて国歌を歌ったり、国旗に礼を示すこともない。また、国歌の歌詞がドイツ民族の優秀さをたたえる帝国主義的な内容であることから、1番と2番は廃止されて3番だけが残っている。ただし、演奏されることはあっても歌われる機会はほとんどなく、オリンピックやサッカーのワールドカップのようなスポーツの国際大会でも、ドイツ選手が国歌を歌う姿はめったに見られない。
 
 

3.参考意見(新聞・雑誌・テレビにみられる代表的なものを授業者がまとめたもの)
 
賛成意見
 
●日の丸・君が代は、戦前より国旗・国歌として日本人に親しまれてきた。現在も多くの国民に支持されている。だから、法律には規定されていなくても、事実上、国旗であり、国歌である。オリンピックなどの国際的な場で、日の丸と君が代の他に日本の象徴は考えられないのはその証拠だ。
 
●現在、日の丸と君が代は日本人の誰もが知っている。また、多くの日本人が支持している。この状況で、新しい国旗や国歌を作る必要などない。また、日の丸や君が代に変わる旗や歌など考えられない。
 
●天皇制も多くの国民が支持しており、日本の象徴として定着している。このことは民主主義と天皇制が両立している証拠だ。そういう日本で、国歌が「君が代=天皇の歌」であることはとくに問題はないはずだ。また、民主主義の本場、イギリスでも国歌は「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」だ。
 
●国の象徴として、旗や歌は欠かせない。独立国なら、どこの国にもある。それは国旗や国歌が人々をまとめる心のよりどころになっているからだ。
 
●現在の国際社会は、国が人間の社会の大きな単位になっている。それぞれの国によって、社会制度の人々の暮らしも違っている。もし、日本人が国際社会の中で日本という国をほこれないとしたら、それは不幸なことだ。日本という国に愛着がわくように、日本独自の文化や歴史にもっと目を向けられるようにするべきだ。日ごろから国旗や国歌にふれるのは、そういうことに目を向けるきっかけにもなる。
 
●旗や歌は自分たちの社会のシンボルとして、大切なものだ。例えば、ソ連が崩壊したときに、ロシアの人たちはソ連軍の戦車に抵抗するため、ロシアの旗をかかげ、ロシアの歌を歌って、自分たちをはげました。国旗や国歌というのは、そういう神聖なものだ。日本でも、もっと大切にされるべきではないか。
 
●愛国心や民族意識と軍国主義とは別のものだ。国や民族を愛する気持ちと、軍国主義とを結びつけて考えるのは短絡的すぎる。自分の国や民族を愛する気持ちが、即、他の民族への敵意につながるというわけではない。そのふたつは本来は別々のもので、分けて考えれば、ナショナリズム(民族主義)は危険なものではない。
 
●アメリカでは、日常的に星条旗がかかげられ、様々な場所で「星条旗よ永遠なれ」が演奏され歌われる。日本でももっと日常的に日の丸や君が代に接して、もっとこの国の社会について愛情を深めて行くべきではないか。そのためにも、学校の式典などで日の丸や君が代に接するのは良いことだ。
 
反対意見
 
●戦前、日の丸は日本の国家主義・軍国主義の象徴だった。それはちょうど、ナチス時代のハーケンクロイツと同じ役割を持っていた。ドイツでは戦前の反省からハーケンクロイツは廃止され、法律で禁止されている。日本が民主国家になったというのなら、国旗も新しくするべきだ。
 
●君が代は明らかに天皇の支配をたたえる歌だ。この歌は戦前、国民に天皇崇拝を強制して、国家主義に利用されてきた。戦後、日本は天皇主権から国民主権の国にかわったはずだ。それなのに、国歌が「君が代」というのはおかしい。
 
●日の丸・君が代に反対している人は少数だが、その数は無視できない数字だ。また、「何となく賛成」という人とは対照的に、反対している人の多くははっきりと拒否している。国のシンボルである国旗や国歌について、国民の意見が分かれているのは悲しいことだ。反対している人に押しつけるのではなく、国民全員が納得できる国旗や国歌を新たに作るべきだ。
 
●愛国心や民族主義はくり返し戦争の原因になってきた。戦争になったとき、必ず政治家は国民に愛国心を強制する。ナショナリズムと軍国主義は深く結びついていて、それを別のものだというのは無理がある。
 
●国旗や国歌はナショナリズムとして悪用されることも多い。確かに、植民地から独立したばかりの国などでは、国旗や国歌が人々の心を支え、支配者に抵抗し、国をまとめていくよりどころになる。しかし、愛国心をあおることで、自分の国が最もすぐれているような錯覚を起こさせ、まわりの国を侵略したり、支配したりすることも多い。戦前の日本やドイツがその典型的な例だ。そういう歴史を持つ日本が国旗や国歌にこだわるのは、再び戦前のような過ちを犯すことになる。今、日本が日の丸や君が代にこだわり、国民に強制したりするということは、そういう歴史から何も学んでいないということではないだろうか。
 
●近年、ユーゴスラビアでおきた内戦は政治家がナショナリズムをあおりたてたことが原因だ。それがきっかけで、異なる民族同士が憎しみあい、殺しあうという悲惨な状況に広がっていった。その中で、民族の国旗や国歌は互いの憎しみをあおる働きをしていた。政治家が国民に愛国心を強制し、国旗や国歌を押しつけるというのは、非常に危険な状況だ。
 
●オリンピックやサッカーのワールドカップで、日の丸を振り回し、ナショナリズムをあおるのは決して良いことではない。確かに、「がんばれニッポン」を連呼し、ナショナリズムをあおれば盛り上がる。ヒトラーや以前の共産主義国がスポーツを政治の道具として利用してきたのもそのためだ。しかし、選手は自分自身のために競技をするのであり、「お国のために」戦う兵隊ではない。国旗を振り回し、国ごとにメダルの数を競い合うような国際大会はスポーツ本来の姿をゆがめてしまう。
 
●愛国心というのは、国民一人一人が心の中にそっと持っていればいいものだ。自分が愛国者であることを声高にとなえたり、他人に愛国心を強制したりするべきものではない。まわりから、愛国者であることを強制される社会というのは恐ろしい社会だ。
 
●確かに、日の丸や君が代が好きな人は大勢いる。しかし、そのことと学校のような場での強制とは話が違う。日本では、日の丸や君が代について、過去の歴史から抵抗を感じている人も大勢いる。にもかかわらず、一方的に日の丸や君が代を強制するのは「思想の自由」に反している。
 
●学校での日の丸・君が代の強制は行き過ぎだ。君が代を歌わなかっただけで、生徒がどなられたり、教師が謹慎させられたりというのでは、戦前の国家主義のようだ。
 
●確かに、アメリカの社会では様々な場で国旗と国歌が使われるが、学校のような場で強制してはいない。それは思想の自由を重んじているからだ。
 
●アメリカ人の星条旗への思いは、たんに愛国心と言うだけでなく、「民主主義」や「自由」への思いも込められている。アメリカは様々なところからの移民で成り立っている国だから、国旗や国歌はそういう国民をまとめていくためのシンボルになってきたからだ。それに対して、日本の場合、国の成り立ちがまるで違う。そのため、日の丸は「民族主義」や「国家主義」のシンボルという性質が強い。星条旗と日の丸を同じように論じるのはおかしい。
 

4.ビデオ
1987年沖縄国体での日の丸焼き捨て事件、2審判決
1995.10.26 テレビ朝日『ニュースステーション』)
 1987年の沖縄国体で、日の丸の掲揚に反発する沖縄の人が、競技場のポールにのぼり、日の丸を焼き捨てた。沖縄では、太平洋戦争末期の沖縄戦での悲惨な体験から、天皇制や日の丸・君が代に反発する市民が多い。そういう中で起きた事件だった。日の丸を焼いた被告は「日の丸は国旗ではなく、ただの旗にすぎない」と主張したが、裁判所は懲役1年、執行猶予3年の判決を出した。
 

5.新聞記事
卒業式と国歌 強制しないことの定着を
毎日新聞 2000.3.2
 3月の声とともに、学校の卒業式シーズンに入った。全国の多くの公立高校は今月初旬、小・中学校は、中旬以降がピークになる。広島県の県立高校の校長が、卒業式での日の丸・君が代の取り扱いをめぐって、県教育委員会と、県教職員組合との板挟みにあって自殺したのは、昨春のことだった。それが国旗・国歌法成立の引き金になった。同法施行後、初めての卒業式という巡り合わせになる。
 何より強調しなければならないのは、二度と広島のような悲劇を起こしてはならないということである。教育現場には、取り組むべき重要な問題が山積している。卒業式での日の丸・君が代に膨大なエネルギーを注ぎ込み、あげくに正面衝突をするような事態は、不毛であり、不幸である。未来に向かって羽ばたく子供たちを祝い、励ます、心のこもった卒業式にすることが大切だ。
 国旗・国歌法は、日の丸・君が代を国旗・国歌と規定しただけで、尊重規定は盛り込まれておらず、罰則もない。思想・信条の自由を侵すものでないことはもちろんで、小渕恵三首相は、「国民生活に何らかの影響が生じることとはならない」と衆議院本会議で述べている。焦点となった教育現場での指導の在り方についても、当時の有馬朗人文相らが、児童・生徒に強制するものではなく、対応いかんによって不利益を受けることはない、と再三にわたって答弁したことを忘れてはならない。そうでなければ、法の成立自体が難しかった。
 卒業式、入学式での国旗掲揚・国歌斉唱の実施を求める根拠になっているのは、学習指導要領である。以前から「児童・生徒の内心にまで立ち入って強制する趣旨ではなく、あくまで教育指導上の課題としての指導」との政府見解を示してきたが、それは、国旗・国歌法の施行によっても変わらない。文部省も「学習指導要領に基づくこれまでの指導に変化はない」と繰り返している。
 文部省調査では、すでにほとんどの学校の式で、国旗掲揚、国歌斉唱が行われている。文部省、教育委員会は、淡々と指導すればよい。学校や生徒の判断で別の形の卒業式を計画しているところに対して、画一的な横並びを強制すべきではない。特に高校生ともなると、どんな卒業式にしたいかを自分たちで考え、判断する過程、体験は重要だ。戒めなければならないのは、過剰反応である。法の成立後、「君が代を歌わない自由はない」(高松市教育長)、「国旗・国歌を尊重しない人は、日本国籍を返上していただきたい」(岐阜県知事)などの発言が相次いだ。理解を欠いた言動だ。
 卒業式をめぐっても、行き過ぎが目に付く。横浜市教委は、国旗・国歌についての教職員の対応などを調べる用紙を配布した。自民党神奈川県連は、県立高校の実施状況を調べるため県議を派遣する計画を立てた。その後、自主参加に切り替えたというが、踏み絵を迫るとも受け取られる行為は好ましくない。日の丸・君が代に反対する側についても同じことがいえる。推進にしろ、反対にしろ相手に強制すべきではない。
 卒業式は、子供も親も教師も心から祝えるものであってほしい。国旗・国歌がもとで、対立と混乱の場となったのでは、本末転倒である。



日の丸・君が代 反対する教員は処分 都教委が通達
毎日新聞 2003.10.23
 卒業式や入学式での日の丸掲揚と君が代斉唱について指導を強化している東京都教育委員会は23日、式典で校長の命令に従わない教職員は処分する方針を決め、都立学校の全校長と区市町村教委に通達した。
 都教委によると、00年度の卒業式からすべての都立高校・盲・ろう・養護学校で日の丸掲揚と君が代斉唱は行われている。しかし、実施指針は「国旗は舞台正面壇上に掲揚する」「教職員は指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」となっているのに、一部の学校では日の丸を三脚に立てたり、斉唱の際に着席したままの教員がいたという。このため、都教委はこの日、都立学校長全員を都庁に呼び出し、「従わない場合は、服務上の責任を問われることを教職員に周知するように」との通達を手渡した。
 一方、都教職員組合は通達に反発。中山伸委員長は「法的根拠のないまま力ずくで強いるのは、憲法が保障した思想・良心の自由を侵し、権力を振りかざして人の心と教育を管理・統制しようとするもので、断じて許せない」とする談話を発表した。



日の丸・君が代 強制は自由侵害で違憲と提訴 都立高教員ら
毎日新聞 2004.01.30
 卒業式などで日の丸に向かって起立したり、君が代を斉唱することを強要するのは憲法で保障された思想・信条の自由を侵害するとして、東京の都立高校などの教職員228人が30日、東京都教育委員会を相手取り、起立や斉唱の義務が存在しないことの確認を求める訴訟を東京地裁に起こした。
 都教委は昨年10月、日の丸の掲揚位置を「舞台壇上の正面」、君が代は「ピアノによる生演奏」と指定し、「教職員は国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」と決めた。職務命令に従わない教員は処分することを宣言した。これまでは、式典進行に当たって「歌うのも歌わないのも『内心の自由』です」と案内していた学校もあったが、都教委はこうした説明も禁じた。会見した尾山宏弁護団長らによると、処分後に取り消しを求めるのでなく、処分を防ぐための裁判は極めて異例という。
 東京都教育委員会の話 訴状を見ていないのでコメントできない。



都教育委 「君が代」で、高校教諭ら8人処分へ
毎日新聞 2004.02.13
 東京都教育委員会は12日、創立記念式典などで「君が代」斉唱時に起立しなかった都立高校教諭ら8人を「職務命令違反」として処分する方針を固めた。都教委は昨年10月、「命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」とする異例の通達を学校現場に出しており、通達後、初の処分となる見通しだ。都教委は卒業式シーズンを控え、日の丸掲揚と君が代斉唱の徹底を図りたい考えだが、教職員組合は「内心の自由に踏み込む行為だ」と反発している。
 都教委は通達とともに卒業式や入学式の実施指針を決め、▽国旗は舞台壇上の正面に掲揚する▽教職員は指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する――などと細かく規定した。その後、都立学校で開かれた創立記念式典などに職員を派遣し、行事の様子をチェックしていた。また、式典を開いた都立高・養護学校の校長も同通達・指針に基づき▽着席の指示があるまで起立している▽音楽教員は国歌斉唱に際してピアノ伴奏する――などの職務命令を出した。しかし、君が代斉唱時に起立しなかったり、退場した教職員がいたため、12日の教育委員会定例会で審議し、文書訓告以上の処分にする方針を決めた。
 都高等学校教職員組合(都高教)は「内心の自由は尊重されなければならず、起立しなかっただけで処分するのは不当だ」としている。



石原都知事の発言録より なぜ忌避わからない 国旗・国歌巡る訴訟
朝日新聞 2004.2.3
「彼らが国歌・国旗をなぜ忌避するかということの具体的な理由がいまだによくわからない。強制されるのはだれもみな嫌なものかもしれないけども、国歌・国旗というものを保有しない国家というのは私は聞いたことはないし、そういうものの象徴的な存在が、国家という共同体に属している人たちのエネルギーを喚起もするんで、私は国歌・国旗の存在というものを信じるし、国がそういうものを国歌として、国旗として認めた限り、私はやっぱりそういう行事の中に、先生が出席しないのは構わんかもしれないけどね、心ある先生がそれを一緒に歌う、国旗っていうものにちゃんと敬意を払うということは、私はやっぱり教育なり、重要なしつけの一つだと思いますけどもね」
(30日、記者会見で。日の丸・君が代を強制する違法な通達などで精神的苦痛を受けたとして、教職員らが都教委などを相手取り、国旗に向かって起立する義務がないことの確認などを求めて提訴したことについて、考えを問われて)



式での起立・斉唱定めた都教委通達は「違法」 東京地裁
朝日新聞 2006年09月21日15時34分
 卒業式、入学式で教職員に国旗に向かって起立しなかったり国歌斉唱を拒否した東京都立校の教員が大量処分を受けたことをめぐる訴訟で、東京地裁は21日、違反した場合に処分することを定めた03年の都教委の通達は「少数者の思想良心を侵害し、違法」とする判決を出した。難波孝一裁判長は、(1)教員らには起立、斉唱の義務はないことの確認(2)不起立・不斉唱、ピアノ伴奏の拒否によって処分をしてはならない(2)原告401人に対する1人3万円の慰謝料支払い命令――を言い渡した。
 判決はまず、日の丸・君が代の歴史的な位置づけについて「第二次大戦終了まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことは否定しがたい」と指摘。「国旗・国歌法で日の丸・君が代が国旗、国歌と規定された現在でも、なお国民の間で宗教的、政治的にみて価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と述べた。
 これを踏まえ、「教職員に一律に起立・斉唱とピアノ伴奏の義務を課すことは、思想・良心の自由に対する制約になる」として都教委の通達と校長の職務命令は違法だと結論づけた。




6.その他の新聞記事(朝日新聞データベースより)
 
▼85/10/14 日の丸・君が代の文部省方針に賛成6割、反対2割 本社世論調査
▼90/03/30 日の丸・君が代義務化、5割が「行き過ぎ」 朝日新聞社世論調査
▼94/03/20 日の丸・君が代に生徒が反対署名 卒業式は混乱なし 調布三中/東京
▼97/07/19 「君が代」不起立の教諭を初の減給処分 北九州市教委 【西部】
▼91/07/26 「日の丸・君が代」(天声人語)
▼91/11/26 「日の丸と君が代」(天声人語)
▼85/09/12 踏み絵同然の国旗掲揚強制(声) 静岡市 辻 宣道(牧師 54歳)
▼85/09/12 民主主義なら多数に従おう(声) 横浜市 兼成 勇(団体職員 54歳)
▼85/09/12 若者らの手で新しい国歌を(声) 国立市 岡田 幸一(自由業 47歳)
▼85/09/19 日の丸・君が代の歴史を教えよ(声) 札幌市 山森 聡(学生 18歳)
▼85/09/19 多数に服従と民主主義は別(声) 東京都 石川 博詞(学生 26歳)
▼85/09/19 愛国心の発露が軍国主義とは(声) 横浜市 西沢 勲(無職 65歳)
▼85/10/06 利他と謙譲の君が代に賛成(声) 千葉市 川俣 泰男(医師 34歳)
▼87/01/21 君が代歌わぬ自由あるはず(声) 京都市 飯沼 二郎(大学名誉教授 68歳)
▼90/03/29 「君が代」斉唱の意味を教えて(声) 富山市 後藤哲子(非常勤講師 40歳)
▼90/03/29 何度もやり直した「さざれ石」を思う(声) 与野市 小泉美智子(主婦 40歳)
▼94/10/21 国歌への批判、深まるドイツ 廃止訴えるB・オルトマイヤー氏に聞く
 
 
生徒のレポート(1997.12月)
 
●僕は小学校の頃、君が代を覚えさせられた。それ以後、学校では事あるごとに歌わされてきた。しかし、歌詞の意味など理解していなかったし、理解しようともしなかった。
 今回の授業ではじめて君が代の歌詞の意味を知った。この歌をめぐる歴史や対立もはじめて聞いた。
 歌詞の意味を聞いたら腹が立ってきた。「天皇の治める世の中は……」なんじゃこりゃ?日本は国民主権じゃないの?民主主義じゃないの?「千代に八千代に続く……」はぁ?これはだまされたと思った。
 僕はこの歌の意味は知らなかったが、日本の国歌ということで誇りを持っていた。卒業式で歌えたことも光栄に感じていた。それなのに、この歌詞は何だ。戦前の日本とまったく変わっていないじゃないか。日本の民主主義なんて言葉だけで、まったく中身は変わっていないみたいだ。見た目ばかりをかざりたてて、ちっともおいしくない料理みたいなものだ。
 うわべを変えるのは簡単だけど、中身を良くするのはむずかしい。だから、日本の社会はこういうことずっとをあいまいなままにしてきた。この歌にはそういう日本の状況がつまっているように思う。
 賛成派の主張は、「これが日本の伝統」とか「他に考えられないし考えたくない」とか「心のよりどころだ」とか、民主主義自体を否定しているみたいだ。日本が民主主義国家になったというのなら、それにふさわしいものに変えた方がいいと思う。とりあえず、君が代は歌いたくない。
 
●日の丸と君が代は日本の国を一つにまとめてきた象徴だと思います。
 「日の丸ときたら日本」というくらいに定着しているので、いまさら違う国旗に変えるというのは無理があると思います。ただ、君が代に関しては、少し考えた方がいいと思いました。
 なぜ、君が代をサッカーや野球の試合で歌うのか、卒業式や入学式で歌うのか、少し疑問に感じるし、義務づける必要はないのではないかという気がしました。卒業式で君が代を歌わなかった生徒が怒られたり、教師が謹慎させれたりというのはいきすぎだと思います。
 
●日の丸は親しみやすくてわかりやすいので、わざわざ変える必要はないと思う。
 君が代については、歌詞を変えた方がいいと思う。小学生が歌わされても意味が分からないだろうし、歌詞も古いので好きになれない。そもそも今は天皇の治める世の中ではないので、今の社会にあっていないと思う。学校の式典では、いつも「国歌」あつかいされているが、法律では国歌と決められていないのに、義務づけるのはおかしいと思った。
 
●たんに日の丸はセンスがないと思っていただけだったが、戦争中、日の丸がナチスのハーケンクロイツと同じ性質を持っていたと知ってびっくりした。君が代は以前から好きではなかったが、歌詞の意味を聞いてますます嫌いになった。君が代斉唱の義務づけはやめて欲しい。あんな意味の歌を卒業式やサッカーの試合で歌わされるなんて、私たちもサッカー選手もお国のために戦う兵隊ではない。アメリカの国旗と国歌は、国民が中心の国だということが伝わってきて、すてきだと思う。日本もそういう国民がみんなでいっしょに作り上げた国旗や国歌にするべきだと思う。
 
●僕としては、日の丸と君が代をとくにどーこーは思わない。日の丸はかっこわるいとしか思わない。
 君が代はけっこう好きだけど、「君が代は千代に八千代に」の部分は問題ありだと思う。
 それに、日の丸や君が代を国旗・国歌として認めるかどうかは、人それぞれでいいと思う。卒業式で起立しなかった人を処罰したりするのはまちがっている。
 
●君が代と日の丸と日本人って、セットになっているようなイメージがある。個人的には、日の丸ってかわいいと思う。なんか、プチョっとした感じ。
 私は日の丸や君が代をかえる必要はないと思う。旗や歌をかえたからって、社会や私たち自身が変わらなければ意味がないから。
 
●歴史の時間にも、戦争中に日本軍が行ったひどいことを教わった。しかしその一方で、始業式や終業式では、日の丸をかかげて、君が代を歌う。日の丸・君が代はなんだか戦争賛美に思えるし、戦前のファシズムの象徴に見える。学校のしていることは矛盾しているように思えるし、起立して君が代を歌う自分も偽善者になったような気がして、いつも始業式や終業式の時は嫌な気分になる。
 ただ、自分のなかにも日の丸への愛着心や愛国心みたいなものがある。ボーイスカウトで、日の丸をあげて敬礼したりするが、その時には、日の丸を誇りに感じることもある。(といっても、ボーイスカウトは右翼団体ではない。)もし、日本の旗が日の丸ではなく、他の旗に変わったとしたら、こういう気持ちにはならないだろうと思う。多くの人にとって、日の丸はそれくらい定着していると思う。君が代は明らかに天皇賛美の歌だが、日本人に定着しているという点では日の丸と同じで、他に変わるものはないと思う。
 そもそも、国家という存在自体、ナショナリズムやファシズムの芽を持っているものではないか。自分の国が世界一だと思いたい気持ちは、アメリカでもイギリスでもドイツでも同じだと思う。だから、旗や歌をかえるよりも、国家というものへの意識から変えてないと根本的な解決にはならないと思う。
 
●俺は日の丸や君が代をたんに旗と歌としてしか考えていない。だから、沖縄での日の丸を焼いた事件での判決も重すぎると思う。
 
●日の丸に対して、悪い気持ちを抱いている人がいることは確かなのだから、それを国旗として国の象徴にしているのは適当ではない。少数意見だからといって、切り捨てていいものではない。
 
●確かに、君が代を強制して歌わせるのはおかしいと思う。それは思想の自由に反している。
 ただ、新しく国旗や国歌を作るというのも、無理があると思う。約80%の人が日の丸や君が代を支持しているからだ。それを無視して新しい旗や歌を作るというのは民主的じゃないと思う。それに、国旗や国歌が変わっても何も変わらないと思う。だから、学校の式典では、歌いたくない人は歌わなければいい。それだけのことではないかと思う。
 
●日の丸はおぼえやすい。あんな貧相で気の抜けた国旗は他にないので、かえなくていいと思う。しかし、国歌はかえるべきだ。君が代は暗すぎる。あれじゃ葬式だ。アメリカの国歌みたいな活気があって力強い曲が国歌にふさわしいと思う。学校の式典でも、日の丸はかまわないが、君が代は勘弁してほしい。
 
●君が代は意味を理解するとムカついた。卒業式でも歌いたくない。
 
●私は今までよく考えたことがなかったが、日の丸は好きで、君が代は嫌いだった。日の丸はかわいい感じがしたし、君が代は暗い感じがしたからだ。でも、意味を考えてみると、ふたつとも今の日本にはあわないと思う。じゃあ、新しく変えればいいのかというと、これだけ定着していることを考えると、どうかと思う。私自身、あまり変えて欲しくない。
 ただ、公立学校の卒業式では、両方とも別にいらないと思う。(どうせ、みんなめんどくさいくらいにしか考えていないだろうし。)私立の場合は、やりたければやればいいと思う。
 日の丸や君が代の意味って、知らない人が大勢いると思う。こういうことは私自身もふくめて、子供も知っておかなければいけないことだと思う。
 
●日の丸の支持率が90%近いというのはおどろいた。そんなに大勢の人があの旗に愛着を持っているのだろうか。でも、日の丸や君が代の歴史的な意味を知らない人がほとんどではないだろうか。意味を知らない人が「まあ何となくいいんじゃない」くらいに思っているのだとしたら、それは支持でも何でもないと思う。新しい旗ができてそれなりのデザインだったら、「まあ別にいいんじゃない」くらいに受け入れられるだろうからだ。
 日の丸や君が代の持っている意味をよく考えた上で、賛成か反対かを判断しないと、支持率なんて意味のないことだと思う。にもかかわらず、学校でやっていることはそれの全く逆だ。日の丸や君が代の意味を教えもしないで、一方的に強制するのは、政府の人がそうやって国民を操ろうとしているからじゃないかという気がする。「考えるな、言うとおりにしてればいいんだ」って。なんだかバカにされているような気分だ。
 
●戦争中、この旗や歌のもとに、大勢の命がうばわれていった。そういう日の丸と君が代の意味を知っていれば、「別にいいんじゃない」「悪くないんじゃない」とは言えないはずだ。この旗と歌は歴史的に重たい意味をもっている。星条旗と日の丸をくらべると、明らかにその性質は違っている。星条旗にはたんに愛国心だけでなく、「自由」への思いが込められている。それに対して、日の丸は排他的な愛国心そのものだ。それは天皇をたたえ、国民を束縛する。
 僕は個人的に日の丸が好きな人に対してまで文句を言うつもりはない。しかし、学校の式典に義務づけるのと、個人として自分の家に日の丸をかかげるのとは意味合いがまったく違う。日の丸・君が代の義務化のどこに「民主政」や「思想の自由」があるというのか。日の丸の義務づけは戦争中と何ら変わりない。将来、日の丸・君が代が、法律でも国旗・国歌として定められる時が来るかも知れない。その時、ほとんどの人が日の丸・君が代を支持したとしても、僕は認めるつもりはない。それは戦争中、天皇をたたえ、日本の侵略の象徴だったものだ。
 学校で愛国心などという前に、日本の歴史(正しいやつ)を教える方が先ではないのか。
 
 

生徒のレポート(1998.6月)
 
●私は日の丸や君が代は日本になくてはならないものだと思う。いまさら、別の国旗や国歌を作るのは無理があると思う。日の丸や君が代がなくなってしまったら、学校での卒業式や入学式はどうなってしまうのか心配になる。君が代は日本だけの歌なのだから、国歌にふさわしくないなんて日本人として恥ずかしいと思う。
 国旗が燃やされた事件があったけれど、国旗を燃やしてどうなるというのだろう。それほど日本や日本の旗が嫌なら、日本から出ていけばいいと思う。
 
●日の丸や君が代にこういう意味があることを初めて知った。特に、君が代の歌詞が「天皇の治める世の中は……」という意味だと知ってショックを受けた。意味も知らずに歌わされてきたなんて。今は天皇を神として政治をする世の中ではないと思う。民衆一人一人が政治に参加する時代だというのに、こんな歌が国歌として扱われていたら、世の中良くならない。
 確かに、この旗や歌に愛着をもっている人もたくさんいると思う。でも、そういう人の多くは、たんに子供の頃から親しんでるからとか、日の丸が戦争中にもっていた役割や君が代の歌詞の意味を知らないだけだと思う。国旗や国歌を新しくするなら、今がチャンスだ。21世紀を平和の世紀にするためにも、今世紀中に戦争の影を引きずっている旗や歌に決着をつけるべきだ。今、変えることができなければ、この先もできないだろう。
 ドイツではナチスの旗を禁止している。私たちも「別にいいんじゃない」とか「自分に関係ない」とかじゃなくて、歴史や社会のことをもっと良く知り考えるべきだ。政治や社会にもっと積極的に働きかけて良い社会を作ろうとしなければ何もかわらない。このままでは、また戦争をやろうとする人間が日
本に出てくるかもしれない。
 
●日の丸も君が代も強制することはないと思う。強制には反対だが、私は日の丸も君が代も日本国を象徴しているのだから大切にするべきだと思う。ただ、君が代の歌詞は「象徴天皇」の意味から大きくはずれているし、曲だけにするといいと思う。
 
●戦前、日の丸と君が代は軍国主義の象徴に使われました。今の日本は民主国家です。国旗も国歌も変えるべきだと思います。君が代の歌詞は今まで知りませんでした。多くの人がそうだと思います。だから、もっとわかりやすく、親しみやすい歌に変えた方がいいと思います。
 所沢高校の入学式でも、校長が君が代と日の丸をやろうとして対立していたけれど、強制するのはおかしいと思います。この旗や歌を嫌だと思っている人もいるわけだから、そういう人の気持ちも考えるべきだと思います。そういう意味でも、みんなが納得できるような国旗・国歌を新しく作った方がいいと思います。
 
●今から国旗や国歌を変える必要はないと思う。
 日の丸や君が代は日本に定着しているから、オリンピックなどで使われるときも日本という感じがしてなかなかいいと思う。そういうとき、私は感動するし、日の丸や君が代じゃなければ、我が国という感じがしなくなってしまう。日の丸や君が代に戦争中の嫌な思い出がある人もいるだろうけど、それも日本という国の歴史のひとつとして、旗や歌にそういう思いが込められているのもいいと思う。今の天皇陛下はすごくいい人だし、私は反感を持っていない。
 ただ、入学式や卒業式で日の丸や君が代を押しつけるのはまちがっていると思う。それがなくたって式はできるし、卒業のお祝いや先生への感謝に日の丸や君が代は関係ないと思う。それに、君が代を押しつけるというのはやっぱり天皇主権を押しつけることになってしまうんじゃないかと思う。
 
●天皇を個人的に嫌っているわけではない。ただ、天皇をたたえる歌を国歌として、公式な場で歌うことを決めている国の方針が気にくわない。それに、学校でも君が代の歌詞の意味も教えずに、国の方針なんだからとにかく歌えというやり方も気にくわない。こういうやり方は、戦前・戦中の軍国主義とほとんど変わっていないと思う。
 民主主義は思想の自由を認めると言うことでもあるはずだ。君が代を好ましく思っていない人も大勢いるのに、そういう人を無視して天皇をたたえる歌を押しつける日本のやり方は、形は民主主義でも中身は軍国主義だと思う。
 
●日の丸は戦争中に日本軍がアジア各地を侵略したときに盛んに振られた旗だ。日の丸が軍国主義を連想させるのは当然だと思う。ドイツが戦後、ナチスのハーケンクロイツを法律で禁止したように、日本も日の丸をやめた方がいいと思う。にもかかわらず、現在、日本政府は日の丸や君が代にこだわっているというのは、過去の侵略の歴史を何も反省していないということだ。学校の式典で、日の丸と君が代が強制され、歌わなかった生徒が怒られたり、教師が謹慎処分になるというのでは、日本の政府のやり方は戦前から何もかわっていない。
 それに、君が代の歌詞は国民の歌・国歌というよりも「君歌」だ。「君歌」は国民主権の国の国歌ではない。
 
●日の丸は別にあってもなくてもいいものだと感じる。私はこだわりも反発も感じないので、わざわざかえて新しい国旗を作ることもないと思う。君が代についても同じで、新しく作り替えることもないと思う。ただ、学校で強制するのは良くないと思う。
 
●はっきり言って、君が代はいらない。日の丸はあってもいいと思う。
 君が代はいかんせん暗すぎる。変な言い方だけど、老人のための葬式の歌という感じだ。歌詞も今まで気にしなかったけど、今さら、天皇がどうしたもないだろうという気がする。もっと、厳粛でかつ若々しい感じの歌を考えるべきだろう。これからの日本を支えていくのは若い力なのだから、若い人が新しい国歌と作るといいと思う。日の丸については、「なんか日本」という感じがする。批判する理由もないと思う。
 学校の式典でわざわざ義務化したのは、そうでもしないと日の丸も君が代も影が薄くなってしまっているからだろう。義務化には疑問を感じるが、そうしなければならないほど愛国心も薄れてしまっているという感じもする。
 
●日の丸・君が代は現在の法律では、国旗・国歌として定められていないという。それなのに、入学式・卒業式で義務づけられていることに、「なぜ?」と思うのは当然のことだろう。所沢高校で生徒たちが日の丸・君が代に反発したのも当然だ。僕も反対だ。
 それに君が代を歌わされることは、歌詞の意味からいっても「天皇に従え」と言われているようで、嫌な気分になります。この歌は始めから終わりまで、国民については何も言っていなくて、「天皇の世は……こけがむすまで末永く続く」と天皇さえよければ国民はどうでもいいような感じがする。一日も早く新しい国歌を作るべきだと思う。
 
●私は小学4年の時まで、君が代という歌を知りませんでした。4年生の時に転校して、新しい学校では音楽の時間に毎時間、君が代を歌わされました。意味も知らなかったし、短い歌で楽だし、日本らしいし、別にいいと思っていました。今回、歌詞の意味を聞いて、「へー」という感じですが、この歌に反対するほどではありません。ただ、日の丸や君が代が嫌いな人もいるのだから、学校の式典で義務づけることはないと思います。一方で日の丸や君が代はこれだけ定着しているんだから、今さら新しい国旗や国歌にかえる必要はないと思います。
 あと、参考意見に「オリンピックやワールドカップで日の丸を振り回すのは良いことではなく、ナショナリズムがスポーツ本来の姿をゆがめる」とありましたが、これは深く考えすぎで、ひねくれた考えだと思います。応援している人は選手をはげましたいという純粋な気持ちで日の丸を振っているだけだと思います。
 
●戦争中、日本は天皇を頂点とする軍国主義の社会だった。そういう中で大勢の人が戦死していった。にもかかわらず、上の立場の人は命令を出すばかりで自分は生き残り、戦後もその責任をとってこなかった。君が代をきくとそのことを連想する。
 なぜ今、日の丸や君が代を強制するのか。なぜ、学校の式典に日の丸や君が代が関係あるのか。憲法に思想や信条の自由をいっているのに、実際の日本の社会ではそれが生かされていないのではないのか。
 僕は小学校のときに親から君が代の意味を教わった。僕はあまり頭の良い方ではないが、だいたいの意味は理解できた。日本人の70%が君が代を国歌として支持しているというけど、そういう人たちの多くは、歌詞の意味を知らないのではないのか。学校の式典で大声で君が代を歌っている子は、誰からも歌詞の意味を教わっていないのではないかと思う。なんだかかわいそうな気がする。
 
 

■ 授業担当者から 天皇制と日本社会について
 
 国旗がはためき、国歌が斉唱される。愛国心が唱えられ、人々は国家というワク組みを強く意識する。そういう社会状況はたいてい戦争によってもたらされます。国家間の戦争ほど、国家というワク組みをめぐって敵と味方がはっきりわかれる状況はないからです。ニューヨークの同時多発テロ後のアメリカ社会はその典型的なケースといえます。国旗や国歌はたかが旗や歌にすぎませんが、そうした状況下において、旗や歌はたんなる国の識別記号という意味を大きく越え、愛国心を奮い起こさせる政治的装置として人の心に強く働きかけます。皆でともに歌い皆で旗に敬礼することで、連帯感や大きなものに帰属することの高揚感を得ることができます。そのため、現在の国際情勢を19世紀と同様に国家同士の利益が衝突する力の関係としてとらえる人にとっては、国旗や国歌によって国民の愛国心を高め、つねに他の国への警戒を怠らないことが必要ということになります。次の産経新聞の社説はそうした主張の典型といえます。
産経新聞 2004.2.23
「国家は力と利益の体系であり、戦争行為を情緒的な正邪で語ることほど本質をぼかすものはない」
「北朝鮮の国家犯罪である拉致事件が明らかになり、国民は国家や主権を強く意識するようになった。自衛隊がイラクの復興支援のために派遣され、日本は新たな国際貢献に向けて一歩を踏み出した。学校での国旗・国歌の指導がますます重要な時代である」
 一方、現在の国際情勢を国家間の力のぶつかり合いからしだいに脱しようとしている過渡期としてとらえ、国家はやがて多様な民族がともに暮らすゆるやかな共同体になっていくと考える人にとっては、国旗や国歌で愛国心を高め国家のワク組みを強固なものにしようとする行為は時代錯誤となります。つまり「国家は力と利益の体系」であるとするヘーゲル的な一元国家観が、20世紀前半の世界にナチスドイツや日本の超国家主義をもたらし、その結果、口にするのも憚られる惨劇や侵略戦争をひきおこしたことを理解していれば、愛国心や国家への忠誠心を強調する行為には、常にそこに異質な者を排除しようとする危険性をはらんでいることに気づくはずだし、この20世紀の惨劇の歴史から少しは我々が学んでいるのならば、愛国心を強要するような愚かな行為を再びくり返すべきではないというわけです。次のオルトマイヤー氏の発言はそうした立場からのものです。
朝日新聞 1994.10.21
「私自身は国歌は無用だと思う。外国人が人口の1/4をしめるフランクフルトでは、学校によっては生徒の半分以上が外国人だ。私の学校もそうだ。その生徒たちに、なぜドイツの国歌だけを歌わせなくてはならないのか。いま、ドイツという領域には多くの民族が暮らしている。ひとつの民族の統合の象徴としての国歌は、いらない」
「世界にはいろいろな国がある。ようやく植民地のくびきから脱することのできた国では、民族主義的な国歌には意味がある。ドイツのような大国は違う。大国は侵略戦争を正当化するような国歌は持つべきではないと、私はいっている」
 現在の日本では、日の丸や君が代を意識することはめったにありません。しかし、半世紀前には、この旗と歌のもとに多くの兵士を戦場へ送り出し、アジアを侵略した歴史を持っています。第二次世界大戦後の日本社会は、戦争中の出来事をどうとらえ、後世に伝えていくのかをめぐって、常に水面下で政治的対立が続いてきました。日の丸と君が代をめぐる世論の対立もそのひとつといえます。日本社会にファシズムの熱狂がおきたのは昭和初期から敗戦までの20年足らずですが、日本の近代史の中でもっとも日の丸と君が代が愛国心を奮い起こさせる政治的装置としてもちいられた時代といえます。そのため、この時代を体験した人たちには、日の丸や君が代について、親近感を抱くか嫌悪感を示すかはっきり分かれる傾向がみられます。

 作家の城山三郎は、当時の軍国教育を受け、熱烈な軍国青年として戦争末期に海軍に志願入隊した経験の持ち主です。彼は特攻隊員として終戦を迎え、戦後、自分があれほど熱狂し、身も心もささげた天皇制や皇国という大義はいったい何だったのかと考えるようになります。そして、大義とそれを利用して自分の半生を奪い、仲間の命を奪ったものたちへ怒りを抱くようになります。その怒りが彼の創作活動の原動力になっています。彼の詩に「旗」という作品があります。

旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため
社旗も 校旗も 国々の旗も 国策なる旗も 運動という名の旗も
ひとはみなひとり ひとりには ひとつの命
走る雲 冴える月 こぼれる星 奏でる虫 みなひとり ひとつの輝き
花の白さ 杉の青さ はらの黒さ 愛の軽さ みなひとり ひとつの光
狂い 狂え 狂わん 狂わず みなひとり ひとつの世界 さまざまに 果てなき世界
山ねぼけ 湖(うみ)しらけ 森かげり 人は老ゆ
生きるには 旗要らず
旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため
限りある命のために
 明治維新後、明治の新政府は天皇制を新たな国づくりの中心に据え、制度と思想の両面で天皇制を日本社会の求心力としました。その背景には、19世紀の帝国主義の時代という中で、欧米の植民地化に対抗できるだけの中央集権的な国家にしなければならないというせっぱつまった状況がありました。この天皇制を軸に約80年にわたって日本は近代国家としての姿を形成してきたため、日の丸と君が代には天皇制の問題がついてまわります。君が代はその歌詞から直接的に、日の丸は臣民として国家の主権者である天皇に忠誠を誓うことの象徴という間接的な意味で。現在の憲法では、天皇には主権はなく、日本の象徴という役割を与えられていますが、言うまでもなくその水面下にはきわめて宗教的・思想的なものをはらんでいます。そのため、日本人が天皇制の問題に触れるとき、たんなる政治的議題ではなく、非常に神経質で激しやすい問題になります。天皇の戦争責任を主張した元長崎市長が命をねらわれたり、天皇制を批判した新聞記者が刺されたりしたのもそのためです。文部科学省が学校の式典で日の丸・君が代を強制したのも、信者による布教活動の一環と見ることができます。本気でそれを信じているのか、それとも天皇制という権威を政治に利用しているだけなのかはわかりませんが、天皇制は政治に携わる者にとってきわめて便利な存在であることはたしかです。そのため、政府としては日の丸と君が代の学校の式典での義務化も「押しつけている」という認識はなく、「良いものを広めている」という認識しかないように思います。この認識が、これだけ賛否のわかれる問題を国民的議論なしで一方的に制度化するという強引な手段につながっているのではないかと思います。
 
 ところで、イギリス人は政治ネタのジョークが大好きで、王室から福祉制度までかなり毒のあるジョークにしてしまいます。テレビドラマや雑誌には、エリザベス女王やチャールズ皇太子をネタにしたかなり下品できわどいジョークが頻繁に登場します。そんなイギリス社会でも唯一ジョークのネタにできないものがイスラム教だそうです。イスラム原理主義組織がイスラム教を批判する者の暗殺を支持して以来、イギリスのメディアはイスラム教に対して非常に神経質になっているそうです。その話をしたイギリス人は、日本のテレビ番組に政治や皇室についてのジョークが全くないのを不思議がっていましたが、日本の政治には天皇制という宗教と一体化した部分があり、そのなかには政府関係者もふくめてきわめて狂信的な信者をかかえていることがそうした状況をもたらしているといえます。そういう意味で、日本の社会は、制度的には西洋型の民主社会ですが、実態はむしろ、政教一体のイスラム社会に近いように見えます。政財界と国粋主義の思想家が結びついていたり、狂信者のテロが言論を制限している点も共通しています。そもそも、国家の象徴である天皇が同時に宗教的祭司でもあるというのは、権力の中心に常にファナティックな危険性をはらみ、同時に異質なものを排除しようとする作用をもたらすので、民主社会としてはきわめていびつな姿です。戦後の総理大臣が「日本は単一民族国家」や「日本は神の国」といった発言をくり返していることもそうした背景に由来するものといえます。(1998.6 2004.2加筆修正)

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