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  所沢高校入学式事件


 この回は1998年4月に埼玉県立所沢高校でおきた生徒による入学式ボイコット事件を取り上げ、学校における生徒の自治を考えました。

【事件の背景】 日本の高校は欧米の学校と比較して、学校運営にほとんど生徒の声が反映されることはない。多くの学校で、生徒会は学校側が定めた方針に沿って、教員の補助活動をしているというのが実状である。生徒の自治というにはほど遠く、生徒会が生徒側の声を代表して学校と交渉するというケースはほとんど見られない。欧米の学校では、1970年代の学生運動以降、学校運営における生徒の自治権が確立され、とくにフランスの公立学校では授業のカリキュラムや備品の購入を検討する会議にまで生徒側の代表が参加し、同時に生徒も学校運営の責任の一部をになっているのとは大きく状況が異なっている。こうした背景には、アジア社会に伝統的に見られる子供や若者を「半人前」の存在と見なす考え方がある。すなわち、学校を運営するのはあくまで教職員、さらにその上部組織である国家であり、あくまで生徒たちはその指導を受け、それに従う立場とされる。生徒たちは、学校運営に関して権限も責任もない状況におかれるため、学校への参加意識は生まれにくい状況にある。また、同じ理由で、欧米の高校生と比較すると、命令に従順であり、その一方で、しばしば「子供っぽい」ことが指摘されている。しかし、民主社会の基本は自治にある。制度だけ整えても、ひとりひとりが能動的に社会参加し、自治の意識を持っていなければ、民主制は形骸化する。上からの命令に従っていれば良いとする発想は、民主社会のあり方とは対極にある。「地方自治は民主主義の学校である」というブライスの有名な言葉があるが、この言葉は民主社会における自治の重要性を端的に示している。高校生という社会への参加意識が芽生える時期に、ひとつの社会的訓練として、自らの所属集団への自治を体験しないという状況は、若者の社会への参加意識を育むという点で大きなマイナスである。こうした学校の状況は、日本の政治状況が、国民による議論や世論形成を軽視し、しばしば「偉い人」におまかせになりがちという自治意識の欠如を反映し、同時に再生産しているように見える。
 今回、入学式のあり方をめぐって、生徒会と校長とが対立した所沢高校は、生徒による自治が伝統的に確立してきた数少ない高校といえる。所沢高校が進学校で、生徒の学校への所属意識が強いことがそれを可能にしてきた。その一方で、生徒の発言権が強く自由な校風は、生徒の生活態度のだらしなさや卒業後に浪人する生徒が多いというマイナス面も指摘されている。こうした特徴のある所沢高校に、埼玉県教育委員会は、1997年、教育行政出身者を校長として就任させた。教育委員会の方針を各学校に徹底させるためにおこなわれた人事といえる。就任した新校長は、「上からの改革」を進め、しばしば教職員や生徒会と対立することになった。とりわけ、入学式と卒業式は、両者の対立が表面化した。学校側の主導によって、日の丸を掲げ、君が代を斉唱する厳粛な式典を執り行おうとする校長とそれに反対する教職員と生徒会とがはげしく対立した。所沢高校では、入学式・卒業式は生徒会が主催するもので、入学式は在校生が新入生を歓迎する会であり、卒業式は卒業生を送り出し祝う会というスタイルがひとつの伝統として確立されていた。埼玉県教育委員会と新校長の方針は、この生徒主催の式典と真っ向からぶつかることとなった。1998年4月、校長は、日の丸の掲揚と君が代の斉唱に重点を置く学校側主催の入学式を断行し、それに反発する生徒が入学式のボイコットを呼びかけるという事態に発展し、多くのマスメディアの注目を集めることになった。この対立の結果、学校側主催の「入学式」と生徒会主催の「入学を祝う会」の二つが別々におこなわれることになった。この事態に対して、校長は入学式に出席しない新入生の入学を認めないという強硬な姿勢を示したが、新入生の出席率は6割程度にとどまった。一方、生徒会主催の「入学を祝う会」には、新入生のほぼ全員が参加した。入学式に出席しない新入生の入学を認めないという方針は、その後、撤回されることになった。

 事件の背景には、日の丸と君が代という問題がありますが、今回はそれには触れずに、生徒の自治というテーマに絞って考えました。学校の式典における日の丸と君が代についての考察は次のページにまとめてあります。
 → 日の丸と君が代


【資料】

●1998.4.9 テレビ朝日「ニュースステーション」所沢高校二つの入学式
 3月の卒業式と4月の入学式をめぐる校長と生徒の対立のいきさつの紹介。この日のトップニュースとして取り上げられ、生徒の声や新入生の思いなどもていねいに取材されていた。

●1996.3.7 NHK「ETV・子供の人権3」よりフランスの中学校の様子
 フランスの中学では、生徒の代表である生徒会が学校の運営に教職員と同等の権限を持っている。それは式典の演出にとどまらず、備品の購入、行事の年間計画、授業カリキュラムの組み方にもおよぶ。こうした重要事項の決定する会議は、教職員と生徒会代表者数名が参加し討論する。決定の多くは多数決で行われ、校長も教員もPTAも生徒会代表も等しく1票を投じる。生徒はそうした大きな権限を持っているぶん、その責任も厳しく問われ、生徒に学校運営への参加意識が求められる。生徒自治という権利を保障するぶん、無責任な言動は許さないというやり方である。こうしたしくみは、1970年代にフランス全土で起きた学生運動がきっかけではじまり、現在は法的な制度として確立している。

●朝日新聞 1998.4.11「声」
 読者からの投稿記事。所沢高校の生徒会を賞賛する声、また、こうした対立の中で入学する新入生がかわいそうという声の双方が掲載。

●AERA 1998.4.20 p.20 「自主入学式開いた校風」
 二つの入学式にいたるいきさつ。所沢高校の校風と対立の背景の紹介。

●週刊文春 1998.4.23 p.164 「所沢高校入学式騒動」
 所沢高校の生徒に対して批判的な記事。その批判は次の3点。

1.生徒会が日の丸・君が代に反対しているのは、生徒による自発的な活動ではなく、左翼的な組合員教師にあやつられているにすぎない。
2.所沢高校は「自由な校風」というよりも、生徒たちは自由を勘違いし、だらしなくわがまま。遅刻も多く、マナーもなっていない。注意されると「自由」や「権利」を主張し、反省の気配もない。
3.所沢高校の「生徒の権利章典」は生徒と教師とが対等であるかのようだが、生徒と教師が対等ということはあり得ない。大人の準備期間である高校生は半人前の存在であり、学校運営能力などない。こんな権利章典を認めれば、学校は成り立たない。



【生徒のレポート(1998.4)】

●所沢高校で行われてきた自主入学式や卒業式はすばらしいと思う。自分たちがやりたいと思ったことが学校の行事に反映されると言うのは楽しいし、学校への愛着もわく。
 僕たちの卒業式は、先生方が決めているのか区が決めているのか知らないけど、自分に関係のないところで一方的に決められているように感じる。自分は決められたことをやらされているだけという感じだ。それに、そういうやり方で式をやっている学校ではどこも似たり寄ったりの内容だ。「君が代」歌って、校長の言葉があって、来客の言葉があって、「蛍の光」歌って……というふうに完全に制度化されている。
 所沢高校みたいな自由な学校には、自由を勘違いした奴やだらしない奴もいるかもしれない。でも、自由には責任が伴うことをわかってる奴も多いはずだ。それに、生徒に自由や権限がなんにもなければ、責任感なんて育つはずがないと思う。

●自由すぎるのも問題ではないだろうか。所沢高校にも最低限の校則があると言うが、ゆるすぎるように見える。ここの生徒はマナーが悪いことやだらしないことを注意されても、「自由」や「権利」をたてにあやまちを認めようとしない傾向があるというのはたちが悪い気がする。
 とはいうものの、校長を支持する気にはなれない。日の丸や君が代に必要性を感じないからだ。それに、生徒会が自治を行ってきた学校で、「生徒は自治能力を備えるための準備期間」などと言い出すのはおかしいと思う。

●この学校の生徒たちが悪いことをしたとは思いません。生徒たちは意見も言うぶん責任を持って行動しているように見えます。学校は生徒があってのものです。校長が一方的に意見を押しつけて、自分の言うことを聞かないものは入学させないというやり方は変だと思います。

●この事件はどっちが悪いとか正しいとかそういうことではなく、本当にばかげたことだと思う。  確かに、所沢高校は今の時代にはめずらしく、生徒たちが意見や責任を持って学校の運営に参加している。でも、このまま校長との対立が続いて混乱が長引けば、来年また入学式で同じことが起きるだろう。そのとき、一番迷惑するのは新入生だ。二つの入学式が行われ、校長と生徒が対立するなか、新入生はどうすればいいというのか。せっかく、胸躍らせて入った高校がこういう状況ではかわいそうだと思う。生徒も校長も自分のやり方にこだわっているばかりで、新入生のことを考えて入学式をやろうとしていない。まず何より先に「どうしたら新入生が喜ぶ入学式にできるか」を考えるべきだ。

●所沢高校は今までの「生徒が自由に作る卒業式・入学式」でいいと思う。生徒たちが自主的に作り上げた「入学を祝う会」は見事だと思った。生徒会が活発で生徒が自主的に行事を作り上げる学校というのは理想的だと思う。こういう伝統を壊して、一方的に入学式を押しつけようとしている校長が奇異に見えた。それに今、所沢高校のような自由な校風の高校というのはめずらしい。校則でがんじがらめの高校よりよっぽどいい。
 ただ、生徒に自由や権限がある分、責任は重たい。その責任が果たせなければ、生徒の自主的な運営など成り立たない。生徒一人一人にきちんと判断する能力が求められる。残念ながら、所沢高校の生徒にも、自由を好き勝手と勘違いしている者がいるようだ。付近の住民から所沢高校の生徒の評判が悪いという。誤りを注意されても「生徒の人権」などと屁理屈をこねる姿を想像するとすごく腹が立つ。ただ、そういう者を基準に考えて、厳格な校則をきびしく守らせるという学校になってしまったとしたら、それは残念なことだ。生徒の権限が大きい分責任が重たいことを理解させるために、自由な学校ほど約束事を破った場合の罰は厳しくするというのはどうだろうか。

●今回の事件で、校長が批判にさらされている。しかし実際の所は、教育委員会と生徒との間に挟まれて、つらい立場なのではないか。教育委員会が何をしているところかは知らないが、生徒たちと直接話し合ってみるといいのではないか。

●所沢高校は伝統的に自由な校風で、新入生もそれを期待して入ってくるわけだから、校長先生が生徒の考えを無視して自分のやり方を押しつけてもうまくいかないと思います。「入学を祝う会」には新入生のほぼ全員が出席したのに、「入学式」には半分も出席しなかったのがその証拠です。

●ビデオにでてきた所沢高校の生徒は、自分の意見をはっきりと言っていました。きっと所沢高校の自由な校風が生徒たちを大人にしたんだと思います。そういう学校を無理矢理変えようとするのはまちがっていると思います。あと、もうひとつのビデオのフランスの中学校では、生徒会が先生方と一緒に会議をして学校を運営していて、すごいなあと思いました。

●校長先生が「入学式への出席を入学の条件とする」などと言い出したのは、生徒会との対立のなかでムキになってやったことだと思う。こういうやり方は教師失格だと思います。
 週刊文春の記事は所沢高校の生徒に批判的でしたが、だらしがない生徒やわがままな生徒がいるのは何も所沢高校だけのことありません。それを「自由な校風だから」だらしがなくてわがままであるかのように言うのはおかしいと思いました。

●生徒たちの格好がだらしないのなら、その部分を直せばいいことで、自由な校風や生徒が積極的に学校行事に取り組むのをやめさせる必要はないと思う。

●もしも僕があの学校の生徒なら、やっぱりあの入学式はボイコットすると思う。

●生徒たちを「自治能力を備えるための準備期間」として何の権利も権限も与えず、学校側が決めたことに従わせるだけのやり方では責任感もうまれないし、規則でしめつけられてストレスがたまるだけだ。こういうやり方がいじめや犯罪につながっているのだと思う。押しつけられた「厳粛な式典」に熱意を持って参加したいと思う人などいるのだろうか。そんな入学式より、在校生が暖かく迎えてくれる入学を祝う会の方がいいのは当然のことだ。

●所沢高校はすごく楽しそうな学校だと思った。制服もなく、国歌斉唱とか祝電とかきゅうくつな入学式じゃなくて、「1年生になったら」の替え歌で新入生を歓迎するなんてすごく楽しい学校生活だろうなと思った。校長先生には校長先生の考えや立場があるのかもしれないけど、入学式を押しつけるやり方は大人げないと思う。
 週刊文春の記事は「高校生活は自治能力を育てる準備期間なのだから自分たちで学校を運営できるかのように考えるのは勘違いだ。あれではただの無秩序だ」と所沢高校の生徒たちを批判していたけど、校長先生の命令や学校が一方的に決めたことに従うだけでは自治能力なんて育たないと思う。生徒たちにある程度自治をまかせて、それを先生が助けたり教えたりするというやり方がいいと思う。それができたら生徒はすごくいい大人になれると思う。みんながんばれ!!



 儒教社会やイスラム社会では、伝統的に子供を半人前の存在と見なし、彼らに自己判断を求めない慣習があります。自分に関する事柄もふくめて、子供や若者には自己決定権がなく、周囲のおとなが敷いたレールに乗って育っていくことになります。つまり、子供や若者は判断能力に欠けた存在と見なされ、大人がきびしくしつけ保護していくことが求められます。こうした社会では、子供や若者は大人に従順であることが良しとされます。教師の権威や権限も大きく、イスラム社会や儒教道徳の影響下にある東アジアでは、つい最近まで教師が鞭を振るう姿が見られました。日本でも近年、「大人は子供にガツンと言ってやらなきゃ駄目だ」式の発言を見かけますが、この発言はそうした伝統への回帰を呼びかけるものといえます。その一方で、子供や若者には、自己決定権がないわけですから当然、責任もなく、ある意味で気楽です。日本を含む東アジアで、やたらと過保護な育てられ方をしたわがままな子供が社会問題として注目されることがありますが、これは子供に自己決定権も自己責任も求めず、周囲の大人がすべてをお膳立てするというやり方が歪な形であらわれたものといえるのではないかと思います。
 それに対し、欧米の学校は、20世紀の社会変化の中で、子供や若者の主体性を重視する方向に変わってきました。自分の考えを積極的に表明することを良しとし、命令や指示にただ従順であることはむしろマイナスの評価を受けます。自分が何をやりたいのか、どうすべきだと考えるのか、くり返し問いかけ、自分で選択した行為の責任を幼いうちから要求するというやり方です。もちろん子供や若者はたびたび失敗します。ある程度の失敗は許容され、その中で試行錯誤しつつ成長していくというやり方です。そのため、一般的に欧米の若者は、日本の若者よりも大人で、同時に生意気です。1989年に国連で「子どもの権利条約」が定められましたが、この条約の最大の特徴は、子供や若者をたんに大人が保護する対象と見なすのではなく、子供や若者が自らその権利を主体的に行使できるとする点にあります。欧米社会の子供や若者への接し方が強く反映されたものといえます。
 現在、日本の学校での若者の立場はきわめてあいまいな状況にあります。生徒の権限は相変わらず小さく、そのぶん自分の行動に責任が問われることはほとんどありません。そういう彼らを前にして、とっくに権威は地に落ち、小さな権限しかもたない教師たちが手をこまねいているという状況です。そうして放っておかれた末に彼らが犯罪を犯した場合、警察の取り調べや家裁の審判を受ける段になって突如として大きな責任を突きつけられることになります。それは若者本人にとっても社会にとっても好ましいこととは言えません。こうした状況に対して、教師に体罰もふくめた大きな権限を再び与え、近代以前から続く伝統的な手法に回帰していくのか、それとも生徒の権利と自己決定権を保障することで、ふだんからそれにともなう責任を求めるという欧米的な手法に推移していくのか、現在はその分かれ目にあるのではないかと思います。
 ただ、はじめに書いたように、民主社会の基本は自治にあります。自分たちの社会は自分たちで治めるという能動的な社会参加がなければ、いくら制度を整えても民主社会は形骸化します。そのため、現在のような政治的決定権が一部の者の既得権であるという状況から脱し、日本に市民参加型の民主制を定着させていくには、若者が自分たちの集団を自分たちで治めていくトレーニングをしていく必要があります。そういう意味で、中学生や高校生が学校運営に積極的に参加するというやり方は、日本社会に民主制を定着させていくためにきわめて有効だと考えています。権限と責任はあくまで対の関係にあります。日本では、大人の役割を子供が道を誤らないようお膳立てすることと考える人が多いようですが、むしろ、誤った時に手をさしのべることこそ大人の役割のはずです。試行錯誤しながら模索し、時に誤っても許されるのが若者の特権ではないかと思います。
 現在、わずかながら、いくつかの高校では、生徒参加による学校運営がおこなわれています。ただ、そうした学校は、今回の所沢高校もふくめて、ほぼ例外なく進学校です。進学校は生徒が優秀だから生徒による学校自治が可能だと考えがちですが、学力の高さと社会への参加意識や責任感とは関係ありませんので、これは間違っています。ではなぜ、進学校に限定されているのか。進学校の場合、卒業生が将来、社会の指導者層になる可能性が高いため、将来の訓練として学校の自治運営が伝統的に生徒に認められているわけです。言い換えるとエリート意識が進学校の生徒自治を可能にしているわけです。ひとにぎりの優秀な若者が集まっている進学校にのみ、ティーンエージャーのうちから自治を体験させるという発想は、言うまでもなく日本に市民参加型の民主制を根づかせていくのとは対極にあります。民主社会のトレーニングとして学校自治を位置づけるなら、すべての学校でおこなわれるべきだし、むしろ、自分の学校に誇りを持てない生徒が集まっている所でこそ、生徒参加型の学校運営を活性化させ、同時に彼らにその責任を求めていくべきではないかと思います。 (1998.4)(2005.9加筆修正)

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