クロ箱 index   このサイトは?   サイトの制作者   メール送信


 slowdays new pieces


2010

■ A piece of moment 3/12

 夢を見た。ハカイダーが破壊のかぎりをつくしていると、ロッド・スチュワートがヒョウ柄のタイツ姿で現れ、「アイム・セクシー」を歌いだす。するとハカイダーの電子回路がぶすぶすとショートしはじめる。ハカイダーは、煙を上げている電子頭脳をかかえ、のたうちまわりながら叫ぶ。「俺にはロックが必要だ!」。

 またもや夢を見た。ハカイダーが破壊のかぎりをつくしていると、今度はバリー・マニロウが現れ、「哀しみのマンディ」を歌いだす。するとハカイダーの電子回路がぶすぶすとショートしはじめる。ハカイダーは、煙を上げている電子頭脳をかかえ、のたうちまわりながら叫ぶ。「勘弁してくれ、俺にはロックが必要なんだ!」。

 またまた夢を見た。ハカイダーが破壊のかぎりをつくしていると、今度はシャツのボタンを四つ開けたフリオ・イグレシアスが現れ、「黒い瞳のナタリー」を歌いだす。するとハカイダーの電子回路がぶすぶすとショートしはじめる。ハカイダーは、煙を上げている電子頭脳をかかえ、のたうちまわりながら叫ぶ。「たのむからやめてくれ、俺にはロックが必要なんだ!」。

 そんなロックが必要な2010年なのであった。みなさんお元気ですか。
 いくつかの文章を修正しました。
 → FAQの6番目 今度のはわりと気に入ってます
 → 永住外国人の地方参政権

 「永住外国人の地方参政権」のほうは、授業の資料に使うので、入管の統計データーを新しいものにして、会話文のくどいところやわかりにくい言い回しを修正。この文章は、なぜかリンクが多いようで、お役に立ててなによりです。ネトウヨな人との一年にわたるメールのやりとりがこうして形あるものにまとまって、俺いったい何やってんだろって厭世観も払拭されます。リンクを見ると、ナショナリズムな人からも人権派の人からもわりと好評の様子。ただ、一部ナショナリズムな人は、「同道めぐりじぇねえか」とAがBを言い負かしていないのが不満な様子。バカだなあ、どっちかが言い負かしちゃったら教材になんねえじゃんか。なにいってんだろ、この人。会話文で基本的なことをおさえておくから、みんなはこの先を自分で考えてね、あまり次元の低い議論をしても勉強にならないからねっていう目的でつくった教材なんだよ。あと、「基本的なことばかりで目新しいものがなにもない」という批判もあった。すべての情報をネットから仕入れようっていう教えて欲しがり屋の人なんだろうか。会話文はあくまでたたき台なんだから、そこから先は自分で考えろよ。言葉がたりないことやAの言い分にもBの言い分にも論理の穴があることは、書いてる本人が一番わかってるよ。その先を考えるのは面倒だからとにかく教えてっていう人は、本読め。あ、なんだかやけに上から目線の文章で我ながら感じ悪いね。ともかく、こうした問題については、いくらでもつっこんだ内容の本が出てるんだから、ネットのつまみ食いだけでなにもかも済まそうとするとバカになりますぜ。

 ただ、出版されているものもふくめて、外国人参政権に反対する声のほとんどは、ナショナリズムに由来する心情的なものだ。政治論として整合性のある主張は、「日本国籍のない者の政治参加を認め、政治的舵取りをまかせることは、国家の独立性をそこねる」という日本政府がしばしば持ち出す「当然の法理」の概念くらいしか見あたらない。私の書いたAとBの会話文でも、やはりAの言い分は弱い。日の丸ニッポンなナショナリズムでもなく、嫌韓・嫌中ナチスのゼノフォビアでもない立場から、外国人参政権に反対している人の考えを聞きたいところだ。

 永住外国人の地方参政権へリンクしているサイトはこちら。ヤフーの逆リンクサーチ、便利です。
 → Yahoo! Site Explorer 「永住外国人の地方参政権」

■ A piece of moment 3/13

 テレビでやっていた「ヒカルの碁」を見る。ライバルの少年は主人公にこう言う。「進藤、美しい一局だったよ、君の前に座っているのが僕でないってことが悔しかったよ」。ほとんど愛の告白である。バックに薔薇の花びらを散らせたいところである。そのライバルの少年は、おかっぱの髪型に半ズボンのスーツ姿で、なんだか萩尾望都のギムナジウムものの中性的な美少年によく似ている。彼は主人公のことを思い浮かべながらさらに心の中でつぶやく。「進藤、ああ、彼のことが頭から離れない」。一方、主人公は、ライバルの美少年を思い浮かべながら、こうつぶやく。「塔矢、いつかきっとお前を振り向かせてみせる」。そんなふたりの美少年が互いに惹かれあい、求めあい、時にはげしくぶつかりあう少年愛の物語なのであった。うひゃあである。

 学校で女子生徒たちに、「ヒカルの碁」はやおい漫画だと言うと、「心がけがれている」「腐女子入ってる」と物語の本質を理解していない反応。でも、彼女たちはきゃあきゃあとなんだかやけにうれしそうなのであった。

■ A piece of moment 3/19

 TBSで放送していた「CBSドキュメント」が終わってしまった。ゴールデンタイムにやらないのが不思議なくらい面白いニュース番組だったのに残念である。20年近くほぼ毎回録画して、授業の資料にもたびたび使用してきたので、私はこの番組のもっとも熱心な視聴者のひとりではないかと思う。時には15分間のニュースレポートの中に、一本の映画を見たとき以上の充実感がつまっているものさえあった。グラミン銀行のこともベネトンの広告のこともマイケル・ムーアのことも、最初に知ったのはこの番組がきっかけだった。現在、インターネットで番組再開の署名活動が行われている。署名するにはユーザー登録をしなければならないのが面倒だけど、日本語で再び「60 minutes」が見たいという人はぜひどうぞ。私は伊藤惣一の吹き替えで番組が再開されることを希望します。
 → 「署名TV」TBS CBSドキュメント番組存続要請

 すっかりネット時代なので、日本語放送にこだわらなければ、「60 minutes」の番組Webサイトから直接視聴することもできる。もちろん無料で全編視聴可能。日本のテレビ局のように、デジタル化で地上波の放送にまでコピープロテクトをかけたり、ネットでの視聴を有料化するような、けちくさいことはしていない。日本の放送局のやり方は、視聴者の利便性を無視して、著作権で囲い込むことしか頭にないように見える。
 → 60minutes

■ A piece of moment 5/16

 「ムラタセンセーのお宅でしょうか?」
 「センセーなんて上等なのはうちにはいませんが、ムラタです」

 たいていこういう電話はインチキセールスだ。最近では、「ムラタセンセーに節税と確定申告のアドバイスを差し上げようとお電話した次第です」という妙に慇懃無礼な電話ががかかってきた。年収やら勤め先やら家族構成やらといったこちらの尻尾をおさえて詐欺のネタにでもしようという魂胆らしい。税金の申告ならそういった情報を一網打尽にできるので、確定申告のアドバイスとはよく考えたもんだ。でも、見ず知らずの人間に確定申告の相談なんかするわけねえだろ。おとといきやがれってんだ。Bマイナス。

 厄介なのは学校関係者もこの手の電話をかけてくることだ。校長や教頭といった人種はたいてい権威主義者なので、ムラタセンセーですかと聞かれて、センセーなんて上等なのはうちにはいねえよと応じてしまうと、後々職場での人間関係に支障をきたすことになる。手下の教務主任を使って授業の監視でもされたらたまらないので、仕方ないから職場ではタイコに徹することにする。めんどくせえなあ。教え子からなかばあざけりの意味で「センセー」と呼ばれるぶんにはまだがまんできるが、教師同士が互いにセンセーと呼びあうのは、こっけいな権威主義まるだしで醜悪である。あなたは私の教え子ではないし、私もあなたの教え子ではない。多少の羞恥心があれば「恥ずかしいのでやめましょう」となるはずなのだが、この手の人は「互いにセンセーと呼びあうことで教員としての自覚が高まる」なんて言い出すので、もはや手に負えない。「大センセー」と呼びあったらよりいっそう自覚が高まって、偉大な教師になれるとでも思ってるんだろうか。

 先生と 呼ばれるほどの 馬鹿でなし(江戸の川柳)

 テレビの中の芸人同士がやたらと「師匠」と呼びあうようになった。相手を尊敬しているのか馬鹿にしているのかはわからない。ただ、客や視聴者にも「こちらの師匠は」と語りかける。客も視聴者もあなたたちの弟子ではない。その一方で、客や視聴者のことは「シロウトさん」「一般人」と見下ろした調子で話す。なんだろうこの肥大化した自意識は。客の前で「師匠」「にいさん」「ねえさん」を連発して同業者を持ち上げる習慣は関西の芸人だけかと思っていたら、寄席の芸人たちまで言うようになった。ふつう高座で「うちの師匠の何々は」と切り出したら、その失敗談や愚かしさを披露して客と笑いを共有するものだが、三平の息子たちや木久蔵の息子は師匠がいかに素晴らしいかを切々と語り出すありさま。アタマが痛くなってくる。田舎のじじいばばあに媚びるような芸風でNHKのレギュラーでもねらってるんだろうか。さらに談志に至っては、「立川談志さん」と紹介されたことに、礼儀がなっていない、師匠と呼ぶもんだと憤慨する始末。社員たちに自分のことを「会長様」と呼ばせていた武富士創業者を連想する。共演者も客もあなたの弟子ではありません。

 「JAROのCMと掛けてなんと解く」
 「木久扇、木久蔵親子と解きます」
 「そのこころは?」
 「どちらもきくからはじまります」
 「うまいっ!」

 親子でうまいはねえだろ。そのこころは「どちらもうんざりさせられます」が絶対正しい。

■ A piece of moment 6/2

 ここ十年くらい、生徒たちが自分を指して「うち」というのをよく耳にするようになった。とくに女の子たちは半数くらいが「うち」と言う。自分たちを表す「うちら」の使用頻度はさらに高い。たしかに舌を噛みそうな「あたしたち」よりも語呂がすっきりするし、言葉の乱れがどうこうと言うつもりもない。そもそも方言が文化の豊かさで、若者言葉がことばの乱れっていうのは、すじが通らない。ただ、東京の若者たちが「うち」「うちら」を使うようになった経緯については興味がある。しらべるのも面倒なので、ひとまず仮説を立ててみる。

 1.多摩地区の方言
 2.ギャル語
 3.関西方言由来の若者言葉
 4.ラムちゃん再ブーム

 個人的には4番を押したいところだが、彼らが「ダーリン電撃だっちゃ!」と言いあってるのは聞いたことがないので、単勝100倍の大穴。3番が本命だけど、あたりまえすぎてあまり面白くない。

■ A piece of moment 6/10

 つじあやのの歌をまとめて聴く。ポップソングの音づくりがどんどん分厚くなる中で、ウクレレ一本で弾き語りをする様子は新鮮だった。ノンビブラートのよく通る高い声もはかなげでかわいかったし、ウクレレの暖かみのあるゆるい音色も良かった。歌詞が特徴的で、デビューしてから5年間くらい、ほとんどの歌が「ぼく」の一人称で歌われている。自分が何者かわからない心細さ、未来への期待と不安、目の前の風景のあてどなさ、そんな思いをかかえた「ぼく」の「きみ」への淡い恋心が彼女のはかなげな声で歌われるので、なんだか男の子を主人公にした少女マンガを読んでいるような気分になる。ただ、まとめて聴いているとだんだん飽きてくる。どの歌も「ぼくは自転車で春風に乗ってきみに会いに行く」という調子で、「ちょっとせつなくてはかない味わい」というキャッチフレーズの炭酸飲料のCMをくり返し見ているような気がしてくる。そこで歌われているせつなさやはかなさがすべてウソだとは思わないが、それ以上に「という味わい」の作為性のほうが気になってくる。実際、彼女の歌はその収まりの良さからいくつものコマーシャルソングや映画の主題歌に使用されていて、歌の中の「ぼくときみ」の世界には妙に安定感がある。歌っている本人は飽きないんだろうか。きみへの淡い恋心をタンポポの花に託して歌った後で、ひたすら濃厚なフェラチオをくり広げる男女の煮つまった関係を歌ってみたいと思ったりしないんだろうか。よだれでべちゃべちゃになった肛門にきみが中指を突っ込んで乱暴にかき回すとぼくは立て続けに射精し、それでも萎えないぼくはきみの髪をつかんで壁に押しつけると喉の奥に挿入したまま腰をつかい、むせたきみは精液とよだれと涙と血の混じったゲロを鼻から吹き出した……なんて「ぼくときみ」の関係をこの人は歌ってみたいと思ったりしないんだろうか。不思議である。もしも自分に求められる役割だけを聴衆に提供しているのだとしたら、それは表現者ではない。

 人間は多面的なものだ。朝、見知らぬ年寄りに道を訊かれてそのまま手を引いて道案内した人物が、午後、なんだか無性に腹がたって、前から歩いてくる人間の胸ぐらを片っ端からつかんで頭突きをかましてやりたい衝動にかられたりもする。徹夜で暴力的なセックスにふけった朝に、道端の露草が小さな青い花をつけているのを見て、ふいに涙がこみあげてきたりもする。ボランティア活動に熱心で「共に支えあう社会」が口癖の女性がその一方で自分のこどもをちっともかわいいと思えず、顔を合わせる度につい辛辣な皮肉をこどもにあびせてしまうことだってある。私たちはそうした側面をいくつもかかえて生きているのではないのか。なので、創作作品の中で登場人物たちの内面の振幅を上手に描いているものは、それだけで小説でも映画でも舞台でも優れた作品だと思っている。私にとってストーリーやテーマはつけ足しにすぎない。逆にそうした振幅がなく、登場人物たちが始めから終わりまで同じ顔をしている作品は、その中でどんなに立派なことを訴えていようと、書き割りの舞台装置が喋っているようにしか見えない。コントやってんじゃねえんだよ。

 お笑いブームのせいか、高校生たちはなにかとなんとかキャラと言う。彼らにとって、生身の人間もバラエティー番組で芸人たちが演じるキャラクターのように、切れキャラだったり不思議ちゃんキャラだったりツンデレキャラだったりボケだったりツッコミだったりするんだろうか。それは実生活でロールプレイングゲームをやっているようなもので、人間を小さく規定し、過剰適応と心理的抑圧をもたらす。生きていくのは大変そうだ。私たちはいつも同じ顔をしてるわけではないし、コントのパロディとして生きているわけでもない。ネットでよく見かける「なんとかキャラ萌えー」という表現も、個々の実像よりもステレオタイプなイメージのほうに欲情するという点で、自分の変態性癖を吐露しているとしか思えない。生身の相手よりも客室乗務員姿やセーラー服やメガネといったアイコンのほうに欲情するなんて、チンポの立たなくなったじじいが抱く屈折した妄想といっしょじゃねえか……なんてことを彼女がはかなげな声でラブコメソングを歌っているのを聞きながらつらつらと思った。
 → Youtube つじあやの「風になる」ウクレレ弾き語り
 → Youtube つじあやの「お天気娘」鴨川ライブ
 → Youtube つじあやの「プカプカ」ウクレレ弾き語り

■ A piece of moment 6/16

 NHKラジオのニュース解説で、YouTubeにマンガの新刊をアップロードしていた中学生が逮捕されたことを取りあげていた。番組には著作権で儲けている人間ばかりが出演し、著作権保護がいかに重要か熱弁をふるい、もっと取り締まりを強化しろ、YouTubeは無法地帯で利用者も運営者もモラルがなってないという論調で番組はすすむ。番組のネット配信まで有料にしているNHKらしいといえばNHKらしい。それにつられてか、リスナーからのメールまで、もっと規制を強めろ、利用者の年齢制限をしろというものばかり。たしかに著作権のある作品を権利者に無断でアップロードするのは著作権法違反だけど、私はそう目くじらをたてるほどのことではないと思っている。まず、Youtubeをはじめとした動画サイトは、ダウンロードがいらいらするほど遅い。とても高解像度の動画をダウンロードする気にはなれない。さらに、動画はせいぜい十数分くらいしかないので、長めの作品は必ず細切れになってしまう。なので、YouTubeの動画を見てもつまみ食いをした程度の満足感しか得られない。だから、YouTubeを見て気に入った作品は、CDやDVDを買うなり、専門チャンネルで見なおすなりする。そういう気にならず、YouTubeでもういいやとなるのは、その程度の作品にすぎないということだ。だから、海外のドキュメンタリー作家やテレビ局は、しばしば自ら作品をYouTubeにアップロードしている。それを見て気に入ったらDVD買ってねということなんだろう。もしくは、放送の終わった番組は、バックナンバーとしてYouTubeに掲載するから、資料用に使ってねというところかもしれない。いたって良心的である。視聴者の利便性という点では、こちらの姿勢のほうが圧倒的に正しい。何十年も前のドラマのDVD化で儲けたり、ネット配信を有料にして儲けているNHKの囲い込み商法とはえらい違いである。

 以前、「立ち読みは犯罪です」という張り紙を本屋で見かけたことがある。笑わせんじゃねえよ。表紙だけを見て買うか買わないか判断させるというのでは、エロ本自販機といっしょじゃねえか。ある程度本屋で読んで、気に入ったら買うというのが本を買うときの基本的な行動のはずである。本屋へ行く楽しみの半分以上は立ち読みの楽しさであって、そのついでに本を買うのである。だから、ヨーロッパの本屋には、たいていイスが置いてあって、ゆっくり店内で読めるようになっている。日本でも、都心の気の利いた本屋にはイスが置いてあって、そんな居心地の良い本屋を見つけるとやはりうれしい。それこそが本屋のあるべき姿ではないのか。気難しい顔をしたおやじがはたきを振りまわしながら立ち読み客を追い払うようなけちくさい本屋は、今後十年以内にすべてアマゾンに駆逐されるだろうし、また、駆逐されるべきだと思っている。出版不況のせいで、出版社まで立ち読みに神経質になっているが、数十分立ち読みをしたくらいで中身がわかってしまうような薄っぺらい本ばかり作っているほうが悪い。なにかと著作権を盾にして、ユーザーや消費者のモラルを攻撃するのはお門違いである。

 グレイトフル・デッドは、もう20年以上前からコンサート会場へのカメラや録音機器の持ち込みを自由にしてきた。コンサートでの演奏を勝手に録音しても良いし、撮影しても良いし、それを勝手にネット配信してもいいよという姿勢である。だってそんなの取り締まるのめんどくさいし、取り締まったところでなにか得するわけでもないしさというところなんだろう。だから、ネットにはファンの録音したデッドのライブ演奏や映像が大量に出まわっている。で、デッドはその大量の海賊版によって大きな損失をこうむったのか。そんなことはまったくない。むしろ、ファン同士の交流をうながし、デッドのライブはどこでも常に満員だった。再結成されたザ・デッドも同じで、ライブのチケットがなかなかとれない状況が続いている。最近では、ネットで海賊動画を見たのをきっかけにファンになって、今度は生でという者も多いはずである。デジタルデーターがネットでやりとりされる社会では、パッケージ商品よりも、一回限りの生演奏のほうがはるかに重要な意味を持つようになる。デッドのやり方は、ネット時代のひとつのモデルケースではないかと思う。

 自分について書いた文章を多少手直ししました。
 → slices of time

■ A piece of moment 6/18

 生命倫理の授業を担当するとき、毎年、必ず出題している問題がある。こんな問題である。
 クローンをテーマにクラスで話し合っているとき、生徒のひとりが次のように言い出しました。

 人間のクローンづくりは倫理的に問題があるけど、羊や牛のクローンづくりはかまわないという考え方は変だよ。人間のクローンづくりが倫理的に問題だって言うのなら、羊や牛のクローンづくりだって倫理的に問題があるはずだよ。羊も牛も人間も同じ命であることには変わりないし、動物たちにも意志や感情だってある。動物たちの命を「食料資源」や「実験材料」としか見なさない考え方は、人間の思い上がりじゃないかな?

 この問いかけについて、あなたの考えを述べなさい。(300字以上)
 出題は毎年同じだが、この問いかけから考えることは毎年違う。今年は、試験後の解説文にこんなことを書いた。
 この文章の「羊も牛も人間も同じ命」という主張、言っているのはたぶん優しい人なんだろうと思います。ただ、「すべての生命は平等」ということになると、お肉も食べるのも、庭の草むしりも、ゴキちゃんに殺虫剤を吹きかけるのも、「虐殺」ということになってしまって、人間の生活が成り立たなくなってしまいます。なので、すべての生命は平等という考え方は、少々極端ではないでしょうか。
 しかしその一方で、「人間は地球の支配者なんだから何をやってもいいのだ」という主張も、やはり極端すぎて、賛成する気にはなれません。おそらく、この両極端の間に現実的な選択肢があるのではないでしょうか。
 個人的には、すべての動物実験やクローン動物づくりを禁止しろとは思いませんが、たとえばサルの脳に直接電極を刺してその反応を観察するような残酷な実験については、いくら科学研究のためであっても禁止するべきだと考えています。また、授業で見たスーパーサーモンのような、食糧増産のための遺伝子組み換え生物の製造についても基本的に反対です。現代の社会において、飢える人々がでるのは、食料の絶対量の不足のためではなく、先進国と途上国との富のかたよりのためです。この南北問題の解決こそ優先課題であって、それが解決しないかぎり、いくら遺伝子操作でスーパーサーモンやスーパーチキンを開発したところで、農作物の遺伝子組みかえと同様にバイオ産業がもうかるだけで、飢える人々はいなくならないはずです。
 いまはこんな事を考えている。よくスーパーや八百屋に、その野菜の生産者である農家のおじさんやおばさんの名前と顔写真がついていて、「私がつくりました」と書いてある。もしも、精肉コーナーのところに、牛や豚の顔写真が貼ってあって、「私のお肉です」と書いてあったら、精肉コーナーに立ち止まった消費者はそれをどう受けとめるのだろうか。「悪趣味だ」と怒るのだろうか。食欲がなくなったとげんなりするのだろうか。それを見て泣きだすこどもがいたりするんだろうか。それとも出所がはっきりしていることから「食の安心」と受けとめて、喜んで買うんだろうか。では、なぜそれを悪趣味だと思うんだろうか。その人は、野草を摘んだことも山菜を採ったこともなく、ましてや自分で鶏をしめたことも魚をさばいたこともなく、パッケージされた食品のみを「食べ物」という概念でとらえているんだろうか。それとも、牛に「私」という自己認識があるということに戸惑っているんだろうか。しかし、言うまでもなく動物にも自己認識はあり、判断能力もある。あるいは、肉を食べるときには、それが生きていたときの姿を思い浮かべてはいけないという暗黙のルールがあり、写真の掲示がその社会常識を破っていると腹をたてているんだろうか。しかし、そんな偽善的なルールがあることを私は聞いたことがない。アフリカや西アジアの遊牧民たちは、生きている羊の背中をさすりながら、「こいつはうまそうだ」とその日の「ごちそう」をつくりはじめる。大したもんだと思う。そもそも、牛の写真を見たくらいで食欲が失せるような精神の持ち主は、はじめから肉なんか食べるべきではない。にもかかわらず、日本にベジタリアンはほとんど存在していない。代わりにあるのが食肉業者に対する蔑視である。ずいぶんといびつである。そう考えていくと「私のお肉です」という写真がもたらす動揺の理由がわからなくなる。わからないので、また機会があったら、この問いかけを再び出題する予定である。

■ A piece of moment 6/22

 いつも黒い服を着ていると生徒たちから不評なので、薄いグレーのシャツに薄いピンクのワイシャツを合わせて着てみる。なんだかコスプレをしている気分。テーマはふつうの人。似合う似合わない以前に居心地が悪い。

■ A piece of moment 6/23

 録りだめておいた番組をまとめて見る。継続して見ているのは、「ジュリー・レスコー」「生存者たち」「バーナビー」「木枯し紋次郎」「黒執事」。「バーナビー」はこのところいまひとつだったけど、51話はめずらしく法廷を中心に話が展開し、緊張感が最後まで持続する。バーナビーは起訴された被告人の犯行に確信が持てず、公判がすすんでいく中で、独自に事件の再捜査をすすめていく。一方、被告人の中年女性は、裁判の中で検事から批判され、証人から罵倒されてもその言葉に耐えるように押しだまっている。被告人が何も語らない中、状況証拠は次々に積み重ねられ、彼女の有罪が濃厚になっていく。被告人は時にあきらめた表情を見せ、時におびえた表情を見せるが、やはり押しだまっている。なぜ彼女は何も語らないのか、なぜ彼女は取り調べで何度も証言を変えたのか、彼女は何を隠しているのか、バーナビーは事件の再捜査の中で、彼女を取り巻く人間関係の薄皮を一枚一枚はいでいく。ドラマを見ながら急所をぐりぐりえぐられるような感触。ひさしぶりにしびれました。ラストのエピソードも良かった。「ジュリー・レスコー」は基本的にどれもいい加減な話で一時間半の暇つぶしドラマといった感じ。名取裕子の法医学者や沢口靖子の科学捜査員が頭脳明晰口八丁手八丁のスーパーウーマンぶりを発揮して謎解きをするサスペンス劇場に雰囲気が似ている(ような気がする、たぶん)。ただ、英語圏以外のテレビドラマはめったに目にふれる機会がないので、アートムービーで描かれるおフランスなハイカルチャーとはぜんぜんちがう社会風俗を下世話にかつわかりやすく見せてくれるという意味では貴重な媒体。フランスみたいに社会保障の充実している社会でも貧富の差は歴然とあるんだなあとか、前科者へのまなざしはどこの社会でもきびしいんだなあとか、不良少年の様子は日本もフランスもいっしょだなあとか、公立学校の学費がすべてタダの社会でも親の社会階層に応じてこどもの学歴が決まっていくんだなあとか、アラブ移民がらみの組織犯罪を取りあげないのはやっぱりタブーだからかなあとか、このところ町中にプジョーがやけにふえたなああれもしかしてこれプジョーが番組スポンサーなの?といった調子で、パリ観光にやって来たおのぼりさんの気分を味わえるのであった。「生存者たち」は、新種のウィルスの蔓延によって多くの人が死に絶えた世界を舞台に、生きのびた人々の群像劇。「マッド・マックス」のようなヒーローは登場せず、「猿の惑星」や「LOST」のような観念的世界へ物語が展開することもない。ひたすら具体的に、それまでの社会システムを失った世界がどのようになっていくのか、等身大の人間たちが聖なる予言者もスーパーヒーローもいない世界でどのようにコミュニケーションをしていくのか、ひとつひとつエピソードを積み重ねて描かれていく。その様子は、まるで自然状態における人間性とコミュニケーションについての思考実験を見ているような感覚。登場人物たちは、みな複雑な内面を持った多面的な存在である。仲間への情の強さが暴力をもたらすこともあるし、正義感の強さが冷酷さと偏狭さをもたらすこともある。ホッブズのいう万人の万人に対する闘争でもなく、ロックのいう理性的存在でもなく、登場人物たちが両者の間を揺れながら互いの関係性と絆を模索していく様子が描かれる。すごく面白い。このドラマ、いま一番続きが気になっている。
 → AXNミステリー「生存者たち」

 犯罪劇の面白さは、ある特殊な状況におかれた人間がなにを考えどう行動するかにあると思っている。トリックや謎解きにはまったく興味がない。登場人物たちの心理描写と関係性がすべてだし、それが上手に描けていればすぐれたドラマだ。だから、人物描写の薄い「名探偵コナン」のようなシリーズには、まったく魅力を感じない。自分の能力を試したいだけで犯罪捜査に首を突っ込んでいく主人公の天才少年ぶりは嫌味だし、事件の背景にある社会構造の問題にはふれず、常に個人の責任だけを断罪しようとする姿勢には、作り手の人間へのまなざしの冷酷さを感じる。だから、主人公は謎解きがしたいだけで事件に関わっているにもかかわらず、彼が事件の関係者へ語りかける言葉はやけに説教くさい。「名探偵コナン」は、面白くないだけでなく、見ると嫌な気分にさせられる。

 どう受けとめたらいいのかわからなかったのが「鉄腕バーディー」。ムチムチの宇宙人美女が飛んだり跳ねたりユサユサしたりしながら大活躍するアニメ。どう見てもメインの視聴者はオタク青年で、フィギュア人形みたいな主人公のバーディーは彼らのセックスシンボルなんだろう。彼女の正体は遠い星からやって来た宇宙連邦の捜査官。ふだんはアキバ系のグラビアアイドルとして地球での生活費を稼ぎつつ、ひとたび事件が発生するとやたらと布地の面積の小さいピタピタのレオタード姿に変身し、ムチムチのユサユサで悪い宇宙人と戦ったり逮捕したりする。もうターゲット視聴者は完全にピンポイントで、小さなこどももおとなの女性も端からお呼びじゃないよハイハイあっちいってあっちじゃまじゃま。そんなオタクによるオタクのためのオタクアニメ。主人公が常に国家権力の側にいるっていうのもこの手の正義の味方ものの基本原理で、エイトマンも科特隊も光子力研究所もゴレンジャーも公安九科もみんな親方日の丸の官僚機構の一部だった。アメリカン・コミックのヒーローたちはたいていプライベーターだけど、国家主導の近代化という日本の歴史はこんな所にまで浸透しているわけだ。彼らはナショナリズムを体現する国家エリートとして、事業仕分けとも民営化とも労基法とも無関係に24時間シフトで悪の帝国との戦いつづけるのである。もちろん血税をちょろまかしてコンパニオンの女体盛りなんてこともしないんだろう、たぶん。おとぎの国のSFワールドでは、メカ描写ともっともらしい科学理論の構築についてはやたらと力が入っているけど、社会制度と人々の暮らしのほうは常に書き割りみたいにぺらぺらだ。犬の顔をした宇宙人やトカゲの顔をした宇宙人たちが現代の我々とまったく同じようにスーパーで買い物をしたり、バーで水割りのウィスキーを飲んだりしている。そんなバーディーは、一方でやたらと純情で色恋沙汰にはうとい。オタク青年のセックスシンボルが常に受け身の性というのも基本パターンのひとつ。能動的にセックスアピールするオトナのおねえさんなんてボクちゃんコワイもん、なんてね。とまあ一事が万事それを見ている自分が恥ずかしくなるような調子なので、お話も永井豪みたいに「おっぱいミサイルいくわよ〜ボヨヨーン」と脳味噌が溶け出しそうな展開をするのかと思いきや、ストーリーはやたらとシリアスで重たい。東京湾で古代の超兵器が発動し、湾岸地域にいた人々は一瞬で砂のように崩れ落ち、六本木周辺は壊滅状態になる。瓦礫になったビル群を前に、もうひとりの主人公である高校生の男の子は、初恋の少女が消えてしまった喪失感に呆然と立ちつくす。一方、主人公の幼なじみは、遺伝子操作によって生みだされた自らの生い立ちを呪いつつ、東京湾での事件で親友を失ったことをきっかけに血まみれの復讐劇へとのめり込んでいく。そんな中、主人公のバーディーは、今日もアキバ系アイドルとして生活費を稼ぎつつ、地球と宇宙の平和を守るためにピタピタのレオタード姿で昆虫型宇宙人や狼男型宇宙人と戦うのであった……ってなにこれ。バランスが悪すぎて物語として破綻していないか。動きの表現には勢いがあるし絵柄もかわいいんだけど、ストーリーがシリアスであればあるほど、古くさいスペースオペラの世界とフィギュア人形みたいな主人公が異様に見えてくる。そもそもピタピタのレオタード姿で活躍する宇宙人美女を描きたいだけなら、なんでこんな残酷な話にするんだろう。描写もまたエグくて、バーディーの養育ロボットが破壊される場面なんか、手足をもぎ取られ頭部を引きちぎられる様子がめりめりという効果音とともに克明に描かれたりする。その倒錯感は、Tバックのガードル姿をしたサイボーグ美女(やはり警察官)が遠い目をしてクラウゼヴィッツの戦争論やデカルトの認識論を語る「攻殻機動隊」といい勝負。もしかしたら、この辛気くさい舞台装置も彼女の露出過剰なコスチュームも、変身ヒーローものの文法構造へ批評性が込められているんだろうか。でも、そんなひねりがあるようには見えないんだけどなあ。いや私にはたんに悪趣味なだけにしか見えないんだけど、もしかしたらこの落差を最大限効果的に使ってなにかすごく前衛的な表現を試みているのかもしれない。わからない、さっぱりわからない。誰か見たことある人、意見聞かせてちょうだい。
 → TOKYO MX「鉄腕バーディー DECODE」
 → TOKYO MX「鉄腕バーディー DECODE:02」

■ A piece of moment 6/26

 日本で長くつづいているドラマやアニメには、永劫回帰のパターンが多い。典型的なのが「水戸黄門」であり、「ドラえもん」であり、「ケロロ軍曹」である。「水戸黄門」では、卑劣な悪代官がどんなに悪知恵をはたらかせても、最後は印籠の前にひれ伏し、懲らしめられ、次のエピソードでは、ご隠居一行は何事もなかったかのように他の土地を旅している。「ドラえもん」や「ケロロ軍曹」では、のび太やケロロの失敗によって、日本が沈没したり地球が爆発したりしても、必ず最後は丸く収まり、やはり次回のエピソードでは何事もなかったかのように、のび太は近所の空き地でジャイアンにいじめられ、ケロロはぶつぶつ文句をいいながら日向家の廊下を掃除している。こうした永劫回帰のパターンでは、設定が常に変わらないので、物語が作りやすく、見る側も話がわかりやすい。部屋の片付けをしながらちらちらテレビを見ていてもだいたいの内容は把握できるし、半年くらい見ていなくても物語世界が変化することはないからまったく問題ない。とくに長くつづいている時代劇シリーズは、すべてこのパターンである。夕方の再放送で、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」や「遠山の金さん」や「銭形平次」をやっていても、物語の世界では完全に時間が止まっているので、それが30年前のものか20年前のものなのか、私にはさっぱり区別がつかない。当然、そうした安定感は物語の緊張感をそこねる。松平健や里見浩太朗がどんなに大勢の悪党に取り囲まれようと負けるはずがないことも、どんな大事件がおきようと必ずラストでは丸く収まって、次の回ではすっかり元に戻っていることも、視聴者なら誰もが知っている。むしろ、松平健や里見浩太朗のチャンバラを毎回わくわくしながら見ていられる人のほうが特殊な才能の持ち主に思える。だから、海外のドラマで永劫回帰のパターンを採用しているのは、シチュエーション・コメディくらいしかない。スーパーヒーローものですら、おとな向けの作品では世界が変化する。「ER」のような、20年もつづいているドラマにしても、登場人物たちは結婚したり、子供が生まれたり、離婚したり、病気になったり、事件に巻き込まれたりして人間関係は変化し、登場人物も死んだり去っていったりして入れ替わっていく。「ER」では、もうスタート時のメインキャストはひとりも残っていない。

 基本的に永劫回帰のパターンには、シリアスなドラマや大がかりなスペクタクルは向かない。鈴木瑞穂が迫真の演技で悪代官の心情を訴えようと世界はなにも変わらないし、CGを駆使した迫力の映像で日本を沈没させようと地球を爆発させようと世界は必ず元に戻るからだ。むしろ、濃密なドラマが展開されればされるほど、大スペクタクルの映像に迫力があればあるほど、丸く収まる結末に向けて話は尻すぼみになり、見る側は肩すかしを食うことになる。そうした典型的な失敗例を手塚治虫の「三つ目がとおる」に見ることができる。「三つ目がとおる」は超能力を持った主人公の少年が太古の文明の力を呼び起こし、現代文明にカタストロフィーをもたらすという物語である。手塚治虫はストーリー展開がたくみなので、序盤では次々と仕掛けをくりだし、中盤ではその仕掛けをからめて物語を一気に展開させていく。読む側はその勢いに圧倒され、主人公が語る「世界の新秩序」なるものによってどんな世界を見せてくれるのか、現代文明が崩壊した後にはどんな物語が待っているのか、期待をふくらませる。ところが、読み手の期待が最高潮をむかえた終盤、物語は急速にしぼみはじめる。向こう側へ突き抜けていかないまま物語は失速し、ふくらんだ期待はそのまま棚上げされ、広げた風呂敷をたたんでいくようにそれまでの出来事は丸くおさめられる。結局、世界は破滅をまぬがれ、主人公はただの中学生にもどり、ラストでは何事もなかったかのように学園生活が描かれ、物語は終わる。読後に残るのは「なあーんだ」という失望感だけである。「三つ目がとおる」の長編は四作くらい書かれているが、すべてこれと同じパターンがくり返され、読み手はその度に肩すかしを味わうことになる。きっと手塚治虫は向こう側の世界などはじめから考えていなかったはずだ。私はそれを読んだ当時、なにも変わらない日常に閉じこめられたような息苦しさを感じている中学生だったので、「三つ目がとおる」の物語に抱いた期待と失望については、いまだに恨んでいる。手塚治虫、カネ返せ。物語は遊園地のアトラクションとはちがって、その時間ぶんだけ楽しめればそれでいいというものではない。物語の始まりと終わりとで、目の前の世界が違って見える体験ができないのなら、麻雀でもやってるほうがずっとましだ。物語の入り口と出口は違うところにあるべきなのだ。

 というわけで、なんだか文学部の学生のレポートみたいな文章を書いてみたけど、で何がいいたいのかというと「ケロロ軍曹」の映画シリーズは退屈だってこと。映画になるときまってスペクタクルをやろうとするのは、芸がないし、かえって貧乏ったらしいよ。太古の超兵器が登場しようが、巨大なドラゴンが出現しようが、巨大宇宙船が飛来しようが、すべて丸く収まって何事もなかったように元へ戻る世界なんだから、そこにどんなに大仕掛けが出てきてもハラハラもしないしワクワクもしない。それは「三つ目がとおる」の失敗と同じことをくり返しているように見える。映画だ、スペクタクルだ、CGで大爆発だっていう発想は、永劫回帰の物語の性質を理解していないのではないか。本当にスペクタクルをやりたいのならば、基本設定を壊していく覚悟が不可欠だけど、大爆発とともに地球が吹き飛ばされ、ケロロも冬樹もいなくなった「その後のケロロ軍曹」なんて展開をこどもたちが受け入れるとは思えない。はじめにキャラクターありきの世界なんだから。だったら、こけおどしのスペクタクルで客を呼ぼうとせず、テレビシリーズと同様の日常の中の少しずれた登場人物たちによる少し不思議なシチュエーション・コメディに徹するべきではないのか。こうした映画で予算をまわすべきなのは、CGではなく、シナリオじゃないの。

 「ケロロ軍曹」のはじめのテレビシリーズでは、なぜか頻繁に70年代少女マンガのパロディが登場した。「よろしくってヨ、岡さん、お手並み拝見ですワ」と金髪巻き毛のお蝶夫人に扮したケロロがテニスコートに現れ、「マヤ、木よ、いま貴女は木そのものになったのヨ」と月影先生に扮したケロロが涙を流しながら学芸会の指導をするといった調子で、あれがやたらと可笑しかった。70年代の少女マンガは奇妙な様式美の世界なので、あの大げさなセリフまわしやゴテゴテした髪型はそれだけで可笑しい。ケロロがそのパロディをするたびに笑いのツボをぐりぐり押されているような感触で笑いころげた。それまで自分が少女マンガのデフォルメされたロココ調の美意識にこんなにも愛着があるとはまったく自覚していなかった。たぶんその元ネタを知らなかったとしても笑ったと思う。金髪巻き毛のキャラクターが住宅地のど真ん中で「それでは皆様、幾千にも幾万にもごきげんよう」なんて言っている姿はやっぱりすごく変だもん。少女マンガのロココ調の世界には笑いの鉱脈があると思う。ケロロのテレビシリーズはその後しばらくしてメインライターが変わってしまったらしく、少女マンガのパロディはすっかり見なくなり、かわりにガンダムと特撮戦隊もののパロディがふえていった。しかしパロディというのは、オリジナルへの批評と文法の解体があってはじめて成立するものではないのか。二頭身の宇宙人が金髪巻き毛に扮して「幾重にも膝を折って感謝しますワ」と言えば、少女マンガの文法は完全に解体され、ロココ調の世界のこっけいさが際だつが、彼らがガンダムや戦隊ものに扮しても、もともと宇宙人なんだし、地球侵略のための特殊小隊としてSF兵器満載の秘密基地で暮らしているんだから、まったく文法は変わらない。おまけにバックについているおもちゃ屋さんまでいっしょである。ケロロたちが繰りひろげるガンダムごっこやヒーロー戦隊ごっこは、パロディではなく、オリジナルをトレースしているだけの「ごっこ遊び」にしか見えない。こういう毒も批評性もない模倣を「オマージュ」って言うんだっけ。便利な言葉ね。私はなんだか山田邦子のモノマネを思い出してしまって、ぜんぜん笑えない。あれ、なに大まじめに書いてんだろ。まあどうでもいいですね。パロディと永劫回帰の物語性について考えを整理するためにとりあえずまとめてみただけです、はいはい。

■ A piece of moment 7/5

 土砂降りの雨の中、国分寺まで往復10kmの道を歩く。夏の雨は気持ちがいい。30分もてくてく歩けばどうせ汗でべったりなんだし、ずぶ濡れになってもTシャツに短パンなんだからへっちゃら。土砂降りの雨はシャワーのようで、かえって気持ちがいい。愉快だ。道路のアスファルトだって洗われてぴかぴかだ。だから夏は傘なんかいらない。駅前で、あわててビニール傘を買い求める人たちやバス停に長蛇の列ができているのを見ながら不思議に思う。みんな、よっぽどいい服でも着てるんだろうか。

 雨の中を歩きながら、十年くらい前、近所に白と黒のぶちの仔猫が生まれたのを思い出した。野良なのか誰かに飼われていたのかはわからない。生まれてまだ半年くらいだろう。そいつは動くものがなんでも面白いらしく、草むらで跳ねているバッタに飛びつき、石の下からは出でてきたトカゲに飛びかかり、ちょこちょこと何かをついばんでいる雀に向かって突進する。通りを走り去っていく自転車やクルマまで追いかけていこうとする。なにがそんなに楽しいんだろう。クルマを追いかけちゃ危ないよ。駐車場へ連れ戻すと、そいつはとにかくじっとしていられない様子で、今度は自分の尻尾を追いかけて、ぐるぐると回りはじめた。もしかしたらこの世界は自分が思っているよりもずっとマシな所なのかもしれない、ふとそう思った。いままで気がつかなかったけどこの世界には愉快なもので満ちていて、自分には見えていないだけでこの世界は美しい姿をしているのかもしれない。仔猫はあいかわらず尻尾を追いかけてぐるぐると走り回っている。やたらと生きる力にあふれている。キミの目でこの世界を見ることができれば、毎日がさぞや愉快だろう。まもなく、ぱらぱらと雨が降ってきた。アスファルトに丸いしみをつくり、仔猫のちっぽけな頭にも雨粒が落ちてきた。その小さな山の神様は、不思議そうな顔で雨粒が落ちてきた空を見上げ、おもむろに真上に向かって跳躍した。爪の先で捕らえた雨粒はさらに細かい粒になって飛び散っていった。

■ A piece of moment 7/9

 安室奈美恵が「Fast car」を歌っているらしい。トレイシー・チャップマンのヒット曲をカバーしたのかと思ったら、ぜんぜん違った。安室奈美恵はあいかわらず安室奈美恵だった。まぎらわしいタイトルつけんじゃねえよ。

 トレイシー・チャップマンの「Fast car」はこんな歌だ。主人公はアメリカの田舎町に暮らしている若い女。彼女は高校を中退し、コンビニでバイトをしながら、飲んだくれの父親の世話をしている。父親は酔っぱらって暴れるばかりで、少しも働こうとしない。母親はそんな父親に愛想をつかし、家を出て行ってしまった。彼女の日々は、小さな停滞した街の中で、家とコンビとの往復だけですぎていく。彼女にはボーイフレンドがいる。ボーイフレンドはクルマを持っている。たぶん中古で手に入れた安いスポーツカーなんだろう。ボーイフレンドも無職だ。でも、彼女にとって、そのクルマはたったひとつの希望だ。彼女は家とコンビニを往復する日々の中で、そのクルマに乗って、ボーイフレンドといっしょにこの街から出ていくことだけを夢見ている。そのクルマに乗って走っていけば、穴ぐらみたいな希望のない街から出ていける、たどり着いた街で新しい生活をはじめよう、ふたりで仕事を見つけたら彼だってもう深酒をしなくなるだろう、きっとそこで自分は生まれ変われるはずだ、と。だから、ボーイフレンドのくたびれた中古車は、自分をここから救い出してくれる魔法の翼のように見える。彼女は歌う。

 あなたはすごく速いクルマを持っている
 それは私たちが空を飛べるくらい速いんだろうか?
 決めよう、今夜ここを発つのか、それともこのままここで朽ちていくのか
 コンビニで働いていたから、少しくらいならお金はある
 そんなに遠くまで行かなくてもいい
 州境を越えて、街へ入る
 そこでふたりで仕事を見つけて、ふたりで生きる意味を見つけよう

 あなたのクルマでいっしょにドライブしたのを思い出した
 すごいスピードで、私は酔いそうだった
 街の光が私たちの前に広がった
 肩にまわしたあなたの腕にぬくもりを感じた
 あなたのもとで、私は生まれ変われる気がした きっと誰かに

 まるでアメリカン・ニューシネマのワンシーンみたいだけど、たぶんこういう人はどこの街にもいるだろう。夜中にラジオからこの歌が流れてくると泣きそうになる。
 → YouTube「Tracy Chapman - Fast Car」

■ A piece of moment 7/15

 夜中に目が覚めたのでバイクを走らせる。4時すぎ、一面の朝焼けに染まった空を多摩丘陵の丘の上から見上げる。バイクはキャブレターを分解修理したばかりなので好調。買った当時は、こんなにボロくて無駄に大きくて複雑なバイク、持てあますに決まってると思ったが、6年も付き合っているとたいていの修理は自分でできるようになるものである。ブレーキ、電気系統、冷却の水まわり、サスペンション、キャブレターとひと通り手を入れて、この6年間でいまが一番調子がいい。とくに今年の春にフロントフォークをオーバーホールしたのが効果大で、少しくらい路面が荒れていてももうハンドルを取られなくなった。はやく高速道路が全線無料にならないものだろうか。それができないのなら上限1000円でもかまわない。現在のETCのみの割引は不公平だし、土日のみの割引は非合理的だ。私は高速道路の全面無料化に賛成である。

■ A piece of moment 7/23

 そんな話し方する奴、どこにもいねえよ

その1 年寄り「わしはゴルフの打ちっぱなしへ行くのじゃ、ヤマト発進じゃ」
その2 田吾作「おら、右も左もわかんねえだ、上も下もわかんねえだ、明日も昨日もわかんねえだ」
その3 上司または重役「キミ、これをコピーしてくれたまえ、ん、私の名前はたまえじゃなくてかなえだって」
その4 少女マンガのお姉さま「アタクシよろしくってよ、お手並み拝見ですわ、今日はつるかめ算で勝負よ」
その5 村上春樹の僕ちゃん「興味深いな、君はそれをハリセンと呼ぶのだろう、そして君はそれで僕の後頭部をたたくのさ……やれやれ」

 こういう類型化をキャラ立ちって言うのかい?こうは思わないか。いったい彼らはどこにいるんだろうって。君は実際にそういう話し方をする人間に出会ったことがあるかい?「わしは」という老人、「おら」という地方出身者、「やってくれたまえ」という上司……僕は彼らをアニメの国とコントの国でしか見たことがない。逆にアニメの国とコントの国には大勢いすぎるために類型の中へ埋没してしまうんだ。君だってさ、そこで彼らに出会うとまたかと思うだろう……やれやれって痛えーな、ハリセンでたたくんじゃねえよ。

■ A piece of moment 8/8

 おくればせながら「千と千尋の神隠し」を見る。面白かったが、それよりもラストで流れる主題歌があんまり強烈なんで本編の印象がすっかり消し飛んでしまった。ずいぶん流行った歌なのでメロディくらいは知っていたけど、こんなに壮絶なことを歌っているとは思ってもいなかった。まるで深い井戸の底をじっと覗き込んでるようだ。歌を聞きながら、死の間際にじっと自分の手のひらを見つめていた祖母のことを思い出した。祖母はぼけていて、もう自分がどこの誰で、ここがどこなのかもわからなくなっていた。でも、じっと自分の手のひらを見つめる祖母のまなざしは真剣だった。その様子は、「自分」とはなにか、「自分がここにいる」というのはどういうことなのか、「ここ」とはどういうことなのか、そうした根源的な問いを突き付けているようだった。歌はそんなこの世界から去っていく者の身体感覚と認識について、彼方からのまなざしで歌う。そのまなざしの壮絶さはあの時の祖母のまなざしを思い出させる。歌ってる人はホスピスで長いこと働いた経験でもあるんだろうか。映画が流行っていたころ、近所のこどもたちがよくあの歌を口ずさみながら通りを歩いていたけど、私にはあの歌詞を気軽に口ずさむ気にはちょっとなれない。以前、友人があの歌はテレビで放送しちゃまずいでしょと言っていた意味が今回ようやくわかったよ。葬式にでもかけるとちょうど良さそうだけど、祖母も母もどこまでも世俗的な人間だから、こんな辛気くさい歌かけないでサイサイ節でも歌えなんて棺桶の中から文句を言いそうだ。

 映画のほうは、映像的な仕掛けが盛りだくさんだったが、話自体は至ってこぢんまりとまとまっていて、バブルの上澄みで暮らしているような若い親にはこどもたちをまかせちゃおけないからワシが代わって鍛えてやるという内容。生きぬくためには腹をくくって働け、客に身体を売ることだって厭うな、ただし自分の顔ももっていないような若い男はなにをしでかすかわからんから用心しろ、そうして腰をすえて暮らしてればいつかきっと凛々しい相手にめぐり会えるぞ、と。こうして要点を書き出すとなんだかやけにおせっかいな映画である。なので、見終わった後には、ラストのテーマソングが映画からはみ出して、逆に2時間ぶんの本編を飲み込んでしまっているような印象が残る。あの歌の中には、命をめぐるいくつもの物語をはらんでいて、そのひとつとして彼岸にあるやたらと命のたぎった温泉宿のエピソードが語られているというふうに。その奇妙な構造は、映画の物語性を破綻させているととらえるべきなのか、それともひとつの物語をただ丸く収めないための仕掛けとしてうまく機能しているととらえるべきなんだろうか。

■ A piece of moment 8/13

 → YouTube「BJORK live HYPERBALLAD 」
 十年くらい前にテレビ出演したときのスタジオライブのものらしい。Hyperballadのリズムセクションは全部打ち込みなのかと思っていたら、ライブではドラムのおじさんが名人芸を披露していたりしてなかなか楽しい。「ラジオの時間」で効果音さんがザルに小豆を盛ってザザーって波の音をやる場面を思い出した。ビョークもまだ若くて、シュガーキューブスの頃のパンクねえちゃんな面影が残っている。あれほどエモーショナルな表現ができれば、レパートリーの幅を広げて歌手としての可能性を追いかけそうなものだけど、彼女はそうはせずにこの十年、新しい表現を求めて実験的な試みをくり返してきた。技術的な精度を上げることや既存の音楽を上手に模倣することよりも、なにかもっと新しいことをやりたくて仕方ないんだろう。表現者の姿勢としては買うけど、最近の彼女のステージなんかほとんど田中泯の前衛舞踏みたいだ。それでも熱心なファンたちは彼女のやることを依然として支持しつづけている。ファンえらいなあ。もっとも、彼女がラスベガスのディナーショーでバート・バカラックのスタンダードナンバーを歌ってる姿なんて誰も見たくないか。

 Hyperballadでは、現代人の生活が比喩的に歌われている(んだと思う)。私たちは山のてっぺんで暮らしている。いらなくなったものは毎朝そこから投げ捨ててみんなハッピー。クルマの部品もビンもフォークもスプーンもなんでも崖から投げ捨てる。下界のことなんか誰も気にしない。だから幸せな暮らしと美しい景色を満喫している。でも、朝早く誰もいないとき、「私」は崖の下を覗き込み、落ちていく物音に耳をすませ、落ちていく様子を目で追いながら、自分が岩にたたきつけられるところを想像する。ぐしゃぐしゃになった自分の身体が下界に落ちたとき、「私」の目は開いているんだろうか、それとも閉じているんだろうか、と。後半の落ちていく様子をねっちりと描写する箇所は面白いけど、それ以外の歌詞はいまひとつ。崖の下にある世界が「未来」や「途上国」だとすると、まるで環境問題や南北問題のキャンペーンソングみたいだ。ゴミはきちんと分別しましょうってか。あるいは逆に、現代人の生活を成り立たせるものがなにもない世界を歌っているんだろうか。山上での生活では、クルマもビンも食器もいらないから投げ捨てる。そこにあるのは、美しい景色とシンプルな暮らしとすぐ身近な死。その中で、「私」は崖の下を覗き込み、ぐしゃぐしゃになった自分の身体を思い浮かべながら「あなた」とここにいる幸せを感じる、と。こっちのほうが「ポイ捨て禁止」の前者よりずっと良いけど、歌はどちらにも解釈できる。ただ、以前テレビドキュメンタリーで見たヒマラヤ山岳民の暮らしはものすごくハードだった。インド洋からの湿ったモンスーンが吹きつけるため年間降水量は7000mmを越え、いつも霧がかかっている。町にでるには徒歩で三日がかり。細く傾斜のきびしい道しかないからクルマは入れない。平らな土地がないので食料に乏しく、男たちはシェルパの出稼ぎに出て登山隊にこき使われる。そんな転落死と隣り合わせの村の暮らしはけっして毎日ハッピーには見えなかった。もちろん、きびしい生活イコール不幸せというわけじゃないけど、その暮らしを天上の楽園に見立てるのは、おめでたいオリエンタリズムじゃないの。

 私のまわりでは、彼女の歌う身体感覚の描写と緊迫した音づくりが苦手という人が多い。おえっとくるらしい。ピーター・グリーナウェイの映画は好きだけどビョークはダメっていう人もいた。たしかに聞いてると疲れる。ただ、その身体感覚と欲求を全肯定してパーソナルなまなざしを押し通すところが彼女の魅力なわけで、私には、妙に収まりのいいグリーナウェイの映像のほうが計算高く見えて退屈だ。喩えに出すならならグリーナウェイじゃなくて、デヴィッド・リンチかメイプルソープでしょ。というわけで、ビョーク、シュガーキューブス以来けっこう長く聞き続けていて、熱烈なファンってわけじゃないけど、アルバムが出るたびに気になる存在である。
Bjork - Hyper-ballad

We live on a mountain
Right at the top
There's a beautiful view
From the top of the mountain
Every morning I walk towards the edge
And throw little things off
Like car-parts, bottles and cutlery
Or whatever I find lying around
It's become a habit
A way to start the day

I go through all this
Before you wake up
So I can feel happier
To be safe up here with you

It's real early morning
No-one is awake
I'm back at my cliff
Still throwing things off

I listen to the sounds they make
On their way down
I follow with my eyes 'til they crash
Imagine what my body would sound like
Slamming against those rocks
When it lands
Will my eyes
Be closed or open?

I go through all this
Before you wake up
So I can feel happier
To be safe up here with you

Safe up ( here with you ) ...

■ A piece of moment 8/15

 毎年、八月になるとテレビでは戦争関連の番組が放送される。ヒロシマ・ナガサキの被爆体験、東京大空襲の体験、元学徒兵の話、サイパン島やアッツ島での玉砕、特攻隊員の証言、シベリア抑留のつらい体験などなど、今年はとくに多かった気がする。そうしたドキュメンタリー番組では、きまってそれを体験した人たちがカメラの前で当時の状況を語り、そのひとりひとりのつらい体験を通して、人道主義的な立場から、戦争の愚かさと平和の大切さが呼びかけられる。その番組構成を悪いとは思わないし、それ自体を批判するつもりはない。ただ、「戦争の体験」として取りあげられるのがきまって日本人の被害体験であるという点は気になる。日中戦争と太平洋戦争によって、数百万人の日本人が死んでいったが、その一方で数千万人のアジアの人たちを殺している。「戦争の体験を語り継ぐ」というのならば、日本軍の侵略を体験したアジアの人々の声にも耳を傾けなけないと戦争の全体像はとらえられないはずである。しかし、連日のように放送された戦争関連のドキュメンタリーの中に、中国や東南アジアでの虐殺事件を取り上げたものはひとつもなかった。同様に、朝鮮半島での過酷な統治も強制連行による奴隷労働も731部隊による人体実験の様子も泰緬鉄道での奴隷労働もなかった。日本人にとって八月の戦争報道は、自分たちがひどい目にあったこと「だけ」を思い返す年中行事なのかもしれない。

 日本人の戦争体験で問題なのは、被害については、ひとりひとりのつらい体験が人道主義的な立場から語られるのに対して、加害の問題になるととたんに視点は180度変わり、国際政治や軍事戦略といったマスの視点のみによって解釈しようとすることである。そうしたマスの視点から加害が語られることで、日本軍による虐殺も過酷な植民地支配も奴隷労働も「戦争だから仕方なかった」で片付けられていく。そこには、日本の侵略によって、アジアの人たちひとりひとりがどういう目にあい、いまどう思っているのかというパーソナルな視点はない。そうして「やられたこと」と「やったこと」とを分け、別の文脈で語っているかぎり、戦争の体験からなにかを学ぶことなどできるはずがない。もしもそこから得られる教訓があるとしたら、「次は負けない」ではないのか。

 たしかに戦争体験をめぐる被害と加害とのあいだの意識のズレは多くの国で見られる。アメリカでは、パールハーバーの奇襲やノルマンディー上陸作戦やバターン半島での日本軍による捕虜虐待といった出来事については、それらを体験したひとりひとりのパーソナルな視点からそのつらい思い出が語られる。その一方で、原爆投下や東京やドレスデンの無差別爆撃については、軍事戦略の問題で片付けられ、その犠牲になった人たちがどういう目にあったかに目を向けることはない。だから、ほとんどのアメリカ人はキノコ雲の下で被爆者たちがどういう目にあったのかすら知らない。1995年のスミソニアン原爆展をめぐってアメリカで大きな論争になったのは、それまで軍事戦略上の問題としてのみ語られてきた原爆投下について、被爆者たちの体験を紹介し、人道上の問題として原爆投下の是非を考える文脈を示したためである。すなわち、原爆投下が日本の無条件降伏をうながし、日本本土での地上戦を回避させ、結果としてそれ以上の戦死者を出さずにすんだという主張は、軍事戦略的な解釈では正しいかもしれないけど、だからといって小さなこどもたちもふくめて十万人も無差別に焼き殺したことは、人道的には大きな問題をはらんでいるんじゃないの、それにもし同じような状況になったらアメリカはまた同じように核兵器を使うの、という問いかけである。それは核兵器の問題の本質を突く問いかけだが、第二次大戦に参加した退役軍人たちとっては、自らの正当性を否定されることにもなりかねない。彼らは展示会に対して「アメリカを侮辱する内容」として猛反発し、その結果、スミソニアン原爆展は中止に追い込まれた。こうした世論の傾向はイギリスでもフランスでも同様で、ナチス占領下のつらい体験や東南アジアでの日本軍による強制労働の体験が語られることはあっても、彼らの植民地支配の弾圧によって、地元の人たちが体験したことへパーソナルなまなざしが向けられることはない。

 加害に目を向けるのは後ろめたさをともなう。「やられたこと」には共感し涙を流せても、「やったこと」によってひどい目にあわされた人たちには感情移入するのがむずかしくなる。とくにナショナリズムを強く抱き、国家に自己投影している人たちには、まるで自分が批判されているような印象をもたらす。そのため、戦争の加害を取りあげるテレビ番組では、彼らからの強い反発に配慮し、ただひたすら「客観的」に、つなぎ合わされた記録フィルムによって出来事だけを羅列する内容になる。被害者たちの個人的な体験が失われた番組構成は、たとえ番組制作者にその意図がなかったとしても、結果としてよりいっそう「戦争だから仕方なかった」というマスの視点からの解釈を強化することになる。東京の大空襲はおじいさんやおばあさんの「つらい体験」であっても、中国・重慶での無差別爆撃は「客観的」に解釈されるべき歴史のヒトコマとされる。そもそも、東京は「空襲」で、重慶は「爆撃」と表記されること自体、視点の使い分けが現れている。しかし、そのズレがあるかぎり、いくら戦争の体験が語られても空虚なものでしかない。また、ズレがある以前に、加害について報道されること自体がほとんどない。加害の歴史を取りあげると保守派は自虐的な歴史認識だとして批判するが、知らないのでは歴史認識をどうこういう以前の問題である。被害と加害とでメディアのあつかいにこれほど差があると、広島や長崎で被爆者がどういう体験をしたのかをやたらと詳しく知っていても、その一方で、日本が無差別爆撃をしたことも虐殺をしたことも捕虜や地元の人たちに強制労働させたこともまったく知らないという人は多いのではないかという気がしてくる。

■ A piece of moment 8/16

 甲子園の高校野球中継をテレビでやっている。ときどきスタンドの応援団が写る。テレビカメラがズームし、アップで抜かれるのはきまってかわいい女の子である。カメラマンの趣味全開。かわいい女子生徒が熱心に声援を送っている姿は絵になるし、熱戦を演出する格好の素材というところなんだろう。こうした傾向は高校野球のテレビ中継だけでなく、アメリカのプロスポーツやサッカーのワールドカップでもいっしょで、アップで抜かれるのはきまってブロンド美女である。スタンドに大勢いるはずのヒゲもじゃのおっさんや太ったおばさんがビールをがぶがぶ飲んでる姿がアップになることなんてまず見かけない。ビールを飲みながら試合を楽しんでいるおじさんやおばさんたちの様子だって、日常生活の中にスポーツ観戦がとけ込んでいるのが感じられて悪くないと思うんだけど。

 興味深いのはテニスのテレビ中継で、緊迫した場面になるときまってスタンドのファミリーボックスが映しだされる。そこには選手の家族やコーチとともに、たいていシャネルで着飾った「ガールフレンド」が座っていて、でっかいサングラス越しに冷ややかなまなざしをコートに注いでいる。彼女たちはときにはアップで抜かれていることにも気づかず、大あくびをしていたり、携帯メールに夢中になっていたりすることもある。見る者に選手たちのその後の人生のきびしさについて思いをめぐらせてくれるいい場面である。スポーツシーンのクライマックスはかくあるべきだと思う。そうして祗園精舎の鐘の声を聞きながら試合は幕を閉じ、人生は回る。すべてのスポーツ中継はあのテニス中継を見習ってほしいものである。スタンドにならんで座っている選手の元妻と現妻と愛人とが互いに無言のプレッシャーをかけあっていたり、時にシャネルバッグで殴りあっていたりするのも沙羅双樹の花の色。ぜひスポーツ中継ではアップで抜いてほしいスタンド風景である。

■ A piece of moment 10/28

 今年はやたらと夏が暑かったので、永遠に夏が終わらないような気がしていたが、10月も終わりになってそれなりに寒くなった。本日、ファンヒーターを押し入れから引っ張り出して点火。

 ポルシェのスポーツカーにケイマン(Cayman)というのがある。Wikiの解説によるとワニのカイマンにちなんでのネーミングだという。でも、ワニはカイマン(Caiman)だよ。ケイマンといったら、タックスヘブンで有名なカリブ海の島でしょ。なので、「ポルシェ・ケイマン」と聞くたびに、マネーゲームとマネーロンダリングでひと財産築いた連中のためのうさんくさい高級車というイメージがわいてくる。それは同時に、このクルマのオーナーたちが「なんで俺の払った税金で見ず知らずの貧乏人を救ってやらなきゃならないんだ」と社会保障と累進課税の悪口を声高にとなえている姿を連想させる。もしかしてクルマ自体も税金対策?実際に乗ってる人、どうよ。

 母が網膜剥離で入院した。ボクサーがよくなるアレである。一階の住人と殴りあいでもしたのかと聞くと、歳をとると硝子体との癒着で網膜がはがれることがあるんだおまえバカじゃないのと母。昔から母は自分を笑えない。いやあクロスカウンターの打ち合いになってさあくらい言ってくれればいいのに。病院で母は看護士さんたちから「おばあちゃん」と呼ばれていた。母も歳をとった。

 ここ数年、夏になるたびに小説の朗読が聞きたくなる。音として聞いていて心地良いのは中島敦や森鴎外のような漢語調のごつごつした文体のもの。江守徹が例の大げさな調子で朗読している「牛人」と「名人伝」はとくにお気に入り。そういえば江守徹はNHK教育で漢詩の朗読もやっていたが、彼の大げさな話し方は漢詩や漢語調の文体と相性が良いのかもしれない。そうしてイヤフォンを片耳に押し込み、散歩したりバイクに乗ったりしながらごつごつ文体による浮世離れした物語を聞いていると、目の前の風景が遠ざかっていくような感覚を覚える。いま、itunesの半分くらいは、朗読とラジオドラマと落語で占められていて、40GBのipodには入りきらなくなってしまった。160GBの新型に買い換えるかどうか悩んでいる。逆に冬になると、休日、家にこもってゲームがやりたくなる。「Civ」シリーズや「Anno」シリーズのようなじっくり腰をすえてやるゲームが好み。どちらも活劇調のヒロイックな演出ではなく、皮肉の効いた演出とブラックなユーモアに満ちていて、やるたびにオトナのゲームだなあと思う。そういう人たちの購買層が海外では確立しているんだろう。ただ、「Civ」シリーズは、ゲームとしてはよくできているんだけど、根底にある社会ダーウィニズム的な文明観には違和感を覚える。「すすんだ文明」「おくれた文明」で社会を序列化する文明観は19世紀帝国主義の発想そのもので、「すべての社会は独自の価値と発展性を持つ」と言ったレヴィ=ストロースの言葉はゲームの世界にはとどいていない。たしかに「競争とかけひき」はすべてのゲームの基本要素であり、「すべての社会は独自の価値を持つ」としてそれぞれが別々の方向を向いていたら勝敗は永遠につかず、ゲームとして成立しない。はたして、ゲームとして成立させるために便宜的に社会ダーウィニズム的な文明観を用いているのか、それともゲームの作り手自身も19世紀的な弱肉強食思想の持ち主なのか。

■ A piece of moment 11/11

 毎年、レポートの課題がうまく設定できずに悩んでるテーマがある。所得の再分配についてである。数年前、消費税の値上げをテーマにその是非を論じたが、うまくいかなかった。まず、税のしくみは複雑で、直間比率を解説し、それぞれの税の問題点を指摘するだけでもう手一杯。生徒も税のしくみを理解するので精一杯で、肝心の「ではどうすればいいのか」というところまで考えが行かないという様子だった。また、同じ消費税の値上げを支持する立場でも、小さな政府を支持する立場から直間比率を消費税へシフトするのを主張する者もいれば、逆に社会保障の充実のために消費税値上げを支持する者もいて、ディスカッションしてもなかなか話がかみ合わない。で、去年は小さな政府と大きな政府の是非をテーマにしたが、こちらはテーマが大きすぎて、具体的な議論にはなりにくい。きまって「社会保障もやり方しだいだねえ」で終わってしまう。具体的で、かつ、ピンポイントに所得の再分配の是非を考えるテーマはないものか。入り口の敷居は低く、具体的に考えることができ、行き先は深い所までたどりつけることが好ましい。

 考えた末に、今年は所得税の累進課税制度をテーマにした。累進課税と一律課税とでは、どちらがより公平なしくみなのかという問いである。今回のアメリカの中間選挙でも、一律課税はティーパーティをはじめとしたリバタリアンたちがさかんに主張していたし、古くて新しいテーマである。出題はこんな感じ。

所得の再分配 所得税の累進制は公平なのか?

 現在、所得税は、ほとんどの国で累進制というしくみが取り入れられています。この累進課税制度は、たくさん所得のある人には高い税率を、所得の少ない人には低い税率を適用するというものです。
 日本では、国に収める所得税の最高税率は1986年まで70%でしたが、その後しだいに引き下げられて、現在は40%になっています。現在の日本の所得税は6段階の累進制で、次のような税率です。

・195万円以下の所得 → 5%
・195万円を超え330万円以下の所得 → 10%
・330万円を超え695万円以下の所得 → 20%
・695万円を超え900万円以下の所得 → 23%
・900万円を超え1800万円以下の所得 → 33%
・1800万円超える所得 → 40%

 年間の所得が150万円の人の場合、150万円×5%で、だいたい7万円が国に納める所得税ということになります。もしこの人にこどもがいたり、高齢の親を介護していたり、健康保険を支払ったりしていれば、そのぶん税は控除されます。年間所得2000万円の人だと、300万円〜400万円くらいの所得税になります。「あれっ、2000万円×40%だから800万円じゃないの?」と思うかもしれませんが、40%というのはあくまで1800万円を超える部分にかかる税率で、2000万円全体に40%が課税されるわけではありません。1800万円以下の部分については、それぞれもっと低い税率で計算されます。また、扶養控除、住宅控除、医療費控除などによって税額が控除されるので、300万円〜400万円くらいが国に納める所得税ということになります。(なので、テレビでタレントやスポーツ選手が「日本ではいくら稼いでもほとんど税金にとられちゃう」とぼやいているのをときどき見かけますが、あれは大げさな表現。現在の税の仕組みでは、年収1億円の人でも国に納める所得税は多くて3000万円程度で、地方税とあわせても半分以上を所得税に取られるようなことはありません。)
 こうした累進課税のしくみは、高額所得者に多く課税することで所得の再分配をうながすために採用されていますが、はたして、富裕層がより多くの税を負担するというこのしくみは、公平なのでしょうか。次のAとBの文章を参考にして、あなたの考えを述べなさい。

A 不公平である。
 たしかに年間所得が5000万円も1億円もある人たちにとって、2000万円や3000万円を税にとられたからといって、生活には困らないだろう。しかし、生活に困るかどうかと、社会的に公平かどうかとは別の問題である。
 累進課税制度は、次のふたつの点で問題をかかえている。まず、社会を支える責任はすべての人に等しくあるということをあげられる。だからこそ、基本的人権はすべての人に等しいのであり、所得に関係なくすべての人の参政権は一票なのである。高額所得者に高い税率を課すのならば、税率に応じて、二票三票ぶんの参政権が保障されなければ、公平な社会とは言えない。逆にすべての人の参政権が等しく一票ならば、所得に関わりなく、税率は一定にすべきである。
 もうひとつの問題として、高い税率を課すことで勤労意欲を低下させてしまう点をあげられる。所得というのは、その人が仕事につぎ込んだ努力と才能と時間の成果である。もしも、何億円稼いでもそのほとんどが税に持っていかれてしまう社会だったら、がんばって仕事に打ち込もうという気力が失われてしまうだろう。それのようなやり方は、仕事につぎ込んだ努力と才能と時間が本人自身のものでなく、国のものだというのと同じであり、きわめて全体主義的なやり方である。人々の仕事に対する努力や情熱を失わせないために、仕事で成功した人たちがむくわれる社会でなければならない。一律課税を「金持ち優遇」と批判する人は多いが、このしくみはたんにひとにぎりの高額所得者を優遇するものではない。誰もが努力し幸運に恵まれれば経済的に成功する可能性をもっている。そうなったときに所得の多くを税にとられてしまうのでは、仕事で成功しようという意欲や夢が失われてしまうはずである。オバマ大統領による保険制度改革や税制改革で増税されるのは上位20%くらいの高額所得者にすぎなかったが、それにもかかわらず、多くのアメリカ人がオバマ大統領の改革に反対の声をあげた。その中には年収2万ドル(約160万円)以下の低所得者たちも大勢ふくまれていた。彼らは仕事で成功したいという意欲とアメリカンドリームを失わないために反対したのである。
 豊かな者が貧しい者を支えるというしくみは、本人の自発的な善意で行われるならば、大いに賛成である。しかし、高額所得者に対して、政府が強制的に高い税率を課すというのは、臓器提供を強制させるのと同じである。たしかに、臓器提供は人助けであり、腎臓ならばひとつ失っても生きていくことはできる。しかし、その人の身体が本人自身のものである以上、臓器提供を政府が強制することは社会正義として認められない。それと同様に、所得もまた本人自身の努力と才能と時間の成果であり、その人のものである。したがって、政府が高額所得者に高い税率を課し、強制的に所得の再分配をうながすやり方はまちがっている。所得税はすべての人に等しい税率を課すべきである。

B 公平である。
 所得の格差は、本人の努力や才能よりも、おもに社会的格差によって生じるものだからである。
 まず、人生のスタートラインは人によって異なり、ふぞろいである。前の総理大臣である鳩山由紀夫氏のように、祖父は総理大臣、父は外務大臣、母はブリヂストン会長の娘で、母親から毎月1000万円も「おこづかい」としてもらっている人もいれば、ホームレスとして道端で暮らしている親から生まれた人もいる。人生のスタートラインがそろっていないのに、その結果である所得についてだけ一律に課税すべきというのは矛盾している。
 また、社会的地位や所得の格差は、多くの場合、親から子へ引きつがれる。社会階層の固定化はどこの国でも見られるが、日本やアメリカのような貧富の差の大きい社会では、とくにこの傾向がはっきりあらわれている。日本の場合、高額所得者のほとんどは、働いて稼いだ「勤労所得」ではなく、不動産や株式から得られる「財産所得」を主な収入源にしている。例えば、鳩山家の場合、一切働かなくてもブリヂストン株の配当金だけで年間3億円近い所得がある。鳩山家はそれ以外にも莫大な不動産や株式を所有しているので、財産が生みだす所得は毎年十数億円にものぼる。勤労意欲を下げるという点では、このようなお金がお金を生みだす社会の仕組みのほうがよほど悪影響をおよぼしているのではないだろうか。たしかに、貧しい家庭に生まれ、苦学して学び、努力の末に社会的に成功したという人物もごくわずか存在する。しかし、こうした人たちは例外中の例外だからこそ、美談としてもてはやされるのである。彼らを指して「ほら見ろ」という発想はまちがっている。こうした人たちは生き方の手本にはなるが、例外的な存在を基準にして社会政策のあり方を考えるべきではない。
 「そうは言っても、成功した人は努力も勉強もしているし、現代社会は封建社会みたいに、なにもせずに親の社会的地位を引き継げるわけではない」という人もいるかもしれない。しかし、そもそも、努力しようという意欲や「やればできる」という価値観は、家庭環境をはじめ、まわりから与えられたものである。東大生の親の平均年収が1000万円を超えており、他の大学よりも際だって高いのもそのためである。もしも、父親は強盗で刑務所に服役中、母親は麻薬常用者という家庭に生まれ、幼い頃から親に虐待され、「どうせお前なんか」となじられて育ったとしたら、「自分だって努力すればできるんだ」という価値観を抱けただろうか。
 さらに、才能や努力は本人のものだとしても、それを生かせる社会環境にめぐりあったことはたんなる偶然にすぎない。たとえば、イチローの年俸は約1800万ドル(約15億円)である。彼がすぐれた野球選手であることに疑いの余地はないし、彼が野球選手として恵まれた才能を持ち、日々努力していることもまちがいないだろう。しかし、野球が人気スポーツで、プロ野球選手に高額の年俸が支払われている時代にイチローが現役選手としてプレーしていることは、たんなる偶然にすぎない。現在、メジャーリーガーの平均年俸は240万ドル(約2億円)にのぼり、アメリカ人の平均年収の50倍にも達するが、メジャーリーガーが昔から高額所得者だったわけではない。1975年の平均年棒は4万5千ドルにすぎず、アメリカ人の平均年収の3倍程度にとどまっていた。スポーツビジネスはこの40年間で大きく変化し、野球選手の年棒も近年になって急激に高騰したのである。イチローが1975年ではなく、2010年の現在に現役選手であることは、本人の才能や努力とはまったく関係のないことであり、たまたまそういう社会状況に巡りあっただけのことである。さらに野球以外のスポーツ、例えばカーリングやアーチェリーのようなマイナースポーツの場合、選手たちは競技だけでは生活できないので、たとえ世界大会一位の選手でも、コンビニやスポーツクラブでアルバイトをしていることも多い。彼らとイチローとでは、千倍近くの所得格差があるが、その才能や努力や情熱に千倍もの差はないだろう。
 つまり、高額所得者というのは、恵まれた家庭環境に生まれ、「やればできる」と親や教師からはげまされて育ち、その才能や努力が社会的に評価される時代にたまたまめぐりあった幸運な人たちである。こういう人たちがそうでない人たちを支援するために、税をより多く負担するというのは、けっして不公平な社会のあり方ではないはずである。
 う〜ん、Aが弱い。納税と参政権とを同列に論じるのも乱暴だ。参政権は基本的人権で平等原理に由来する事柄だが、納税はそうではない。一律課税を擁護する説得力のある主張はないものでしょうか。で、生徒の反応は、一割ちょっとくらいが一律課税を支持、九割弱が累進課税を支持という感じだった。Aのお粗末な立論にもかかわらず、一律課税の支持者が一割以上もいることに少々おどろいている。十年後には、日本にもティーパーティーのような団体が登場するかも知れない。

■ A piece of moment 11/22

 日本シリーズを見た。千葉マリンスタジアムでは、女性の場内アナウンスで、「四番ライト、サ〜ブゥ〜ロォォォ〜〜〜〜」ってお祭りの「あたぁ〜りぃ〜」みたいな調子で選手がコールされる。猛烈に独特である。テレビを見ながらイスから転げ落ちそうになった。以来、「四番ライト、サ〜ブ〜ロォォォ〜〜」と「五番サード、イ〜マ〜エェェ〜〜」のフレーズがアタマから離れない。彼女の場内アナウンスはマリンスタジアムの名物らしいが、まあそうだろう。あれは「名物」でなければなかなか受け入れられるものではない。あの場内アナウンスは今年もっとも衝撃的な体験だった。ちょっと生で聞いてみたい気もする。

 ロッテは川崎球場時代の殺伐とした雰囲気が好きだった。スタンドからのヤジに選手が本気で怒って怒鳴り合っていたり、サインちょうだいという子供をチンピラまるだしの選手が「じゃまだよオイ」と怒鳴り飛ばして泣かせちゃったり、アメリカから呼んだ助っ人選手が「便所が臭い」と文句を言って帰国してしまったり、秋風が吹いてペナントレースから完全に脱落するとがらがらのスタンドでは試合そっちのけでおっちゃんたちが一升瓶を片手にモツ鍋をつついていたり麻雀で盛りあがっていたりして(おっちゃんたちはスタンドにコタツまで持ち込んでいた)、もうなんでもありのアナーキーな空間だった。その光景を見るたびに俺もはやくオトナになってアナーキーな世界の住人になりたいものだと思っていた。あの雑然とした川崎時代の風景を思うと、みんなで仲良く声援を送っているファンたちも、なにかと「応援よろしくお願いします」と言う選手たちも隔世の感がある。プロ野球ってもっと不健全な娯楽じゃなかったの。いつからボーイスカウト大会になったんだ。

 CSで放送されている「無口なウサギ(Untalkative Bunny)」というカナダ製のアニメーションが気に入っている。主人公のウサギは人間社会に完全にとけ込んでいて、ひとりでタクシーに乗って運転手の愚痴に付き合ったり、自動車運転免許の更新をしたり、おいしいコーヒーを求めて友だちのリスと喫茶店めぐりをしたり、やはり友だちのビーバーとアイスホッケーの観戦をしたりしながら日々を過ごしている。タイトルどおりウサギはひと言も話さないが、表情とボディランゲージが豊かでけっこう愛嬌がある。ウサギの絵柄があまり可愛くないのも良い。性格は好奇心旺盛で照れ屋でシャイ。そんな無口なウサギの目から見たカナダ社会の生活マニュアルというかカナダ人の観察日記といった感じ。昔うちにいたひと言も鳴かない猫もあと十年くらい生きていたらあんなふうに社会生活をしていたんじゃないかと思ったりしながら見ている。
 → Wikipedia「Untalkative Bunny」

■ A piece of moment 12/1

 「惑星ソラリス」で有名なポーランドの作家スタニスワフ・レムの作品に「泰平ヨン」シリーズというのがある。はるか未来を舞台に宇宙飛行士ヨンが体験する奇妙で不条理なエピーソードが短編連作の形式でつづられていく。SF小説ということになっているが、テクノロジーを主題にした未来小説ではなく、人間の認識と物理現象との関係をめぐる思考実験であり、その主題は「惑星ソラリス」と共通している。ただし、シリアスな「惑星ソラリス」に対して、「泰平ヨン」の世界はまんが的にぶっ飛んでいる。その点で、未来世界を舞台にした「ガリバー旅行記」か「ほら吹き男爵」という感じ。

 「ガリバー旅行記」の系譜にある寓話は、日本でも、芥川龍之介の「河童」から「銀河鉄道999」や「キノの旅」まで数多い。私はどれも好きだが、共通して「ガリバー旅行記」よりも叙情的でおとぎ話的だ。本家の「ガリバー旅行記」には、明確な社会批評の意図があり、登場人物やエピソードが何をカリカチュアしたものかわかるように描写されている。小人の国はトーリー党とホイッグ党による当時のイギリスの政治状況を、巨人の国はイギリスの宮廷社会を、空飛ぶ島はイギリス王立アカデミーの学者たちを、言葉を話す馬の国はイギリスの貴族社会をそれぞれ下敷きにしたものであり、それらをほのめかすことで現実の社会へ乾いた笑いをあびせる。一方、「河童」も「999」も「キノ」も、そこに風刺としての乾いた笑いは存在しない。物語としては面白いが、それはあくまで奇妙な体験を通して語られる主人公のまなざしの物語である。

 で、「泰平ヨン」はなにかの風刺なのかというと、これがさっぱりわからない。おまけに主人公自身もエピソード以上にぶっ飛んだキャラクターで、そのまなざしに感情移入することも拒否する。カフカ的な不条理な話が奇妙な未来世界を舞台に奇妙な登場人物たちによって繰りひろげられるので、もうなにがなにやらという感じ。ただ、人間の認識をめぐる思考実験としては面白い。翻訳は次の4冊が早川から出版されていたが、現在はすべて絶版。古本屋にはまだけっこう残っていると思う。
 「泰平ヨンの航星日記」
 「泰平ヨンの回想記」
 「泰平ヨンの現場検証」
 「泰平ヨンの未来学会議」

 と思っていたら、去年、「泰平ヨンの航星日記」が新訳版でやはり早川から出版されたらしい。根強いファンがいるんだろう。よっ御同輩って感じでちょっと嬉しい。一人称は新訳版でも「吾輩」なんだろうか。
 「泰平ヨンの航星日記〔改訳版〕」スタニスワフ・レム 深見弾・大野典宏訳 ハヤカワSF文庫

 ところで「ヨン」という奇妙な名前、ポーランド語では「Ijona」と表記される。旧約聖書に出てくる予言者「ヨナ」に由来する名前とのこと。あの巨大な魚に飲まれて、魚の腹の中で一週間暮らした人物である。正教では「イオナ」とも表記されるという。(「イオナ」って化粧品の印象が強いので、女の人の名前かと思っていたら、魚に飲まれた「ヨナ」のことだったのね。)レム自身もユダヤ系なので、主人公の名前に聖書的な寓意が込められているのかも知れないけど、こちらもさっぱりわからない。どなたか詳しい方、教えてちょうだい。

■ A piece of moment 12/8

 自分の頭の中にある地図では、阿久悠の歌と中島みゆきの歌に登場する人たちは同じ町に暮らしている。東京や大阪のような大都市の住人ではないが、伝統的村落共同体の住人でもない。ローカル線にガタゴトと長時間揺られていくとたどりつく地方都市で、二時間も歩けば町の端から端までたどりつくくらいの小さな町の住人たちだ。町の中心部には少しうらぶれた繁華街があって、そこでは若い沢田研二がやけにギラギラした目つきで壊れたピアノとナイフをもてあそんでいたり、一見純朴そうな顔をした新人歌手が「嫁に来ないか」とキャバレーで客に歌いかけていたり、わかれ歌を歌う女が道端で酔いつぶれていたり、その女を振った伊達男が売れっ子ホストとして名をあげていたり、仕事の上がったボーイとホステスが夜明け前の吉野家で牛丼をビールで流し込んでいたりする。学生街の安アパートでは、同棲生活を解消した若い男女が部屋の表札をはずし、ふたりでドアを閉めていて、そのアパートの並びにある喫茶店では、学生たちが夜遅くまで恋愛話や政治談義に花を咲かせていて、すっかり貧乏学生たちのたまり場になっている。小さな商店街の突き当たりにはローカル線の駅があり、深夜のホームでは、仕事に疲れた若い男が次の最終列車に乗ってこのままふるさとへ帰ってしまおうかと思いつめた顔で線路の向こうを見つめていて、駅の向こう側にある町外れの古い一軒家には、ヒッピー暮らしのアザミ嬢が少し前から住みついていて、訪問者たちを自家製ハーブでつくった不思議な味のお茶でもてなしている。さらにその向こうの二駅三駅先にある港町には、マリーという名の女がいまも五番街のアパートに暮らしているといった具合。

 両者ともある人たちのある瞬間の情景を切り取った歌が多いからなのか、あの時代の記憶のせいなのか、そんな少しうらぶれていて少しいじけていて少し感傷的なイメージを思い浮かべる。夜、行き先も確認せずにローカル線に飛び乗り、てきとうな駅でその四両編成のやけに揺れる汽車を降りると、そんな町にめぐり会えるんじゃないかと思う。本当に行きたかどうかは別にして、いまもどこかにそんな町はあるような気がしている。

 最近の中島みゆきの大げさな歌い方が苦手だ。「ロックっていうのは、悲しいできごとを楽しく歌う音楽なんだよ」、ボビー・アン・メイソンの小説「インカントリー」で登場人物のひとりがそう話す。私もそう思う。悲しい出来事ほど軽やかに、思いを込めた言葉ほど彼方からのまなざしで歌にのせてほしいと思う。最近の彼女の自己演出過剰でわざとらしいしゃべり方も竹中直人やゆうこりんといい勝負。いや三人の中でも中島みゆきが一番重傷に見える。30年前、深夜のラジオ放送で喋っていた彼女はただの陽気なお姉さんだったんだけど、なんでああなってしまうんでしょうねえ。あんな時代もあったのさときっと笑って話せる日はいつかくるんでしょうか。

■ A piece of moment 12/10

 先日書いた文章を読み返して、昔、中年太りでぶよぶよになったプレスリーをテレビで見ながら母が「なんでああなっちゃうんだろうねえ」と嘆いていたのを思い出した。うーむ、危険な傾向である。なので、中島みゆきの1970年代の曲をまとめてアマゾンで買って、30年ぶりに聞きなおしてみようかと思ったけどやっぱりやめた。感傷に浸る懐メロおじさんはちょっとねえ。流行歌は流れ去っていけばいいのだ。

 期末試験を採点しながら録りだめたニュース映像を見る。「クローズアップ現代」で遺伝子組み換え生物を取りあげていて、アメリカで開発された遺伝子操作による低アレルギー猫や成長の早いスーパーサーモンが紹介されていた。どちらも授業であつかった素材で、改めて映像を見ながら考え込む。これありなんでしょうか。以前書いた遺伝子組み換えペットについての文章をついでに書き改めてみた。
 → 遺伝子組み換えペット

■ A piece of moment 12/19

 今年の夏、我が家ではセンチニクバエが大量発生した。黒い縦縞の目立つ大型の蠅である。イエバエよりもひとまわり大きく、平べったい体型をしている。8月末から9月はじめにかけて、毎日数匹、多い日には十匹近く、このシマシマの蠅を古新聞やぞうきんを振りまわして駆除した。床下に猫か鼠の死骸でもあるのかと思い、床下を懐中電灯で照らしながら覗いてみたが、それらしいものは見あたらない。どうやら洗濯機の排水のために下水のふたを開けっぱなしにしていたことが原因で、下水の汚物に蠅が卵を産み付け、発生源になっていたらしい。ニクバエの大量発生なんて水洗化の進んだ現代ではめずらしいことだが、ボロアパートの我が家では今も六本脚の生き物たちは身近な存在なのである。興味深いのは、9月の2週目に入るとセンチニクバエの発生がぴたりと止まり、それに代わって大型の蟻に似た黒い蜂が部屋の中を飛びまわるようになったことである。体長は10mm弱、胴体は黒く脚は茶褐色をしており、後ろ脚の股部分が太くなっていて下向きに湾曲しているのが特徴。ネットの検索によると「アカアシブトコバチ」という蠅の蛹につく寄生蜂の一種らしい。この寄生蜂の9月2週目からの発生数はそれまでの蠅の発生数とほぼ同数。つまり、蠅の半数は寄生蜂にやられたわけである。寄生蜂が下水溝の蛆をどうやって探し当てるのかはわからないが、自然はすごいなあとファーブル先生の気分で感心する。
 → 田中川の生き物調査隊「アカアシブトコバチ」

 ちくま新書の「害虫の誕生」を寝ころがって読む。ナチュラリストの生物学者による昆虫エッセイかと思って読みはじめたらぜんぜん違った。フーコーの「監獄の誕生」や「狂気の歴史」のように、近代の知識体系が「虫」という身近にいる小さな生き物へのまなざしをどう変容させ、虫と人間社会とのかかわりをどう変えていったのかを追っていくという内容。著者は生物学者ではなく社会学者。大量の文献から科学史にまつわる資料を掘り出し、江戸から明治、大正、昭和に至る自然を見るまなざしと知識体系の変遷を読み解いていく。江戸時代以前、「虫」のような小さな生き物たちは、卵から生まれるのではなく、ある状態から自然発生的に生じるものだと思われていた。イナゴやニカメイチュウは稲のある状態から、ミミズは土のある状態から、ナメクジは湿ったある状態から、シラミやノミは人間や動物の身体のある状態から、「涌いてくる」と思われていた。それは民間伝承としてだけでなく、李時珍や貝原益軒の「本草学」にも同じように記されている。だからこそ、稲につく虫たちは日照りや長雨と同様に人知を超えた災害であり、虫送りの祈祷によってのみ「鎮める」ことができると思われていた。まるで、マンガの「蟲師」の世界のようだが、小さな生き物たちがさらに小さな卵から孵化することを知らない人々にとって、ある特定の状態からなんらかの自然の力によって小さな生命が宿るという考え方は広く受け入れられてきた。この本では、そうした前近代の知のあり方から、いわゆる「科学的な知のあり方」へ、知識体系が組み換えられていく様子を大量の文献から読みとっていく。新書本にしてはずいぶんと手間のかかっているカタイ内容である。後書きによると著者の博士論文が元になっているとのこと。そうか構造主義の手法は虫へのまなざしにまで用いられるようになったのか。なかなか読みごたえがある。
 → Amazon 瀬戸口明久「害虫の誕生」ちくま新書 756円

2011

■ A piece of moment 1/3

 最近のアメリカのテレビドラマを見ていると、多チャンネル化の影響なのか、視聴者をピンポイントでしぼっているという印象を強く受ける。たとえば「デスパレートな妻たち」では、ネクラでオタクのキモワル男が登場すると必ず犯罪者である。十中八九、彼らは死体を地下室に隠しているか、盗撮マニアの変態である。女の視聴者だけをターゲットにしてつくっているんだろう。子育ての苦労や職場での軋轢といった描写はやけにリアルだが、登場する男たちはみな類型的で薄っぺらくてオタク野郎とぶ男は全員死んじゃえの世界。「セックス・アンド・ザ・シティ」もターゲット視聴者は女限定。こちらはもう少しターゲット年齢層低めで、オンナはいつもお洒落で輝いてなきゃいけないのよのブサイク全員死んじゃえワールドが繰り広げられる。男であのドラマが大好きっていうのは全員ゲイにちがいない。えっ、アナタの彼氏はキャリーの大ファン?あらまあお気の毒に。逆に「名探偵モンク」はオタク男限定ドラマ。自信満々でイケメンでプレイボーイのやり手実業家が登場して主人公の奇妙な言動をからかったりバカにしたりすれば、十中八九そいつは殺人犯である。オタク男のルサンチマンまる出しといった感じで、自信過剰のイケメンと口うるさいリベラル派はみんなブタ野郎の世界。主人公のモンクは偏狭な性格の中年男で、重度の潔癖性と強迫神経症を患っているため常に挙動不審。「デスパレートな妻たち」だったらまちがいなく死体をホルマリン漬けにして地下室に隠しているタイプである。ところが彼は一度見たことはすべて憶えているというカメラみたいな記憶力と抜群の洞察力の持ち主で、事件捜査を通じて自信家のイケメンやキャリアウーマンをやりこめていく。アメリカ社会って、高校時代にフットボール選手やチアリーダーだったかそうでなかったかで両者の間には巨大な溝が横たわっていて、卒業後もずっとそのルサンチマンを引きずっている社会なんだろうか。モンクは精神疾患のために社会生活に支障をきたしているので、日々のあれこれをやたらと美人のアシスタントに世話してもらっている。安い給料にもかかわらず、美人で気立ての良い彼女は「はいはいモンクさんダメですよ、はいティッシュ、手をふいてね、あ、ミネラルウォーター買っておきましたよ」とまるで赤ん坊の世話をするように甲斐甲斐しく中年男の世話を焼き、主人公は「駄目だよ、このミネラルウォーター銘柄が違う、私はこれでないと駄目なんだ、ほらこれ、取り替えてもらってきてよ」と節操なく甘える。そりゃさ、実際に美人で気立ての良いおねえさんがあれこれ世話を焼いてくれてさ、彼女に節操なく甘えられれば毎日が楽しいだろうけどさ、でも、そういうムシのいい願望をそのままドラマにして映像として見せられると醜悪さにめまいがするのである。うちの母は「名探偵モンク」を見ると主人公を殴り飛ばしてやりたくなると言っていたが、もしあのドラマを受け入れられる女性視聴者が存在するとしたらメンタリティーは完全にオヤジである。えっアナタの彼女がモンクの大ファン?あらまあお気の毒に。

 商業作品は需要と供給の関係でできていると言えばそれまでだけれど、こうしたドラマは作品としてその質をどうこういうような次元のものではないのではないか。お好み味のキャンディーのようにピンポイントの視聴者層に心地良いファンタジーを45分間供給する。それだけ。だから視聴者が求めるファンタジーを裏切らない。オタク野郎はみんな死んじゃえの世界ではネクラのキモワル男は必ず地下室で死体を切り刻んでいるし、ブサイクはみんな死んじゃえの世界ではださいスーツのおはさんたちはきまって陰湿な嫌がらせをするし、自信過剰のイケメンはみんな死んじゃえの世界では元クォーターバックのやり手実業家は必ず連続殺人犯である。登場人物たちが最後まで見る側の思い描く人物像から一歩もはみ出さないというのは、はっきり言って物語としては最低である。視聴者層を限定する手法は、一見、創作の自由度を上げそうに思えるが、その視聴者層の好みに寄り添って創作されるためドラマはパターン化していく。もしも視聴者の多数決で展開が決まるとしたら、みんな同じようなストーリーになるはずである。ドラマをただ消費されるだけの娯楽と割り切ればそれはそれで良いのかもしれないが、囲い込んだ視聴者層の外側にはまったく訴求力を持たないので長期的には袋小路に陥る危険性が高い。

■ A piece of moment 1/5

 年末に「刀語(かたながたり)」というアニメをCSでまとめて放送していた。部屋の片付けをしながら見る。舞台になるのは江戸時代ふうのファンタジー世界で、登場人物たちはマンガ的にデフォルメされていて、みなテンション高め。忍者に至っては全員着ぐるみを着ている。「忍者ミツバチ」はハチの着ぐるみを着た青年で、「忍者ペンギン」はペンギンの着ぐるみを着た小さな男の子。そんなアニメ的記号に満ちた世界にもかかわらず、ストーリーはかなり込み入っていてシリアスで悲劇的。血まみれの殺戮シーンも多い。おまけにどうも因果ものの話のようで、親の因果が子に報いぃ〜べんべんべんと要所要所に因果話が差し込まれる。なにやら途中から飛び飛びで見ていてもさっぱり理解できない。このお店は一見さんお断りですか。気になるので動画サイトでダウンロードして改めて見てみる。全12話10時間、今度はかなり集中して一気に見た。ストーリーはほぼ理解できたけど、でも、やたらともやもやしたものが残る。作り手はいったい何がやりたかったんだろう。

 物語の舞台は「尾張時代」という江戸時代ふうの架空の世界。その世界では戦国の動乱をへて幕府が成立するが、失政によってまもなく崩壊し、旧幕府に代わってあらたに「尾張幕府」というのが成立する。それから約百五十年が過ぎ、尾張幕府を率いる家鳴将軍も八代目と代を重ね、すっかり天下泰平の世をむかえている。ところが、将軍の信頼の厚かった出羽の大名、飛弾鷹比等(ひだたかひと)が突如尾張幕府に反旗をひるがえす。飛弾鷹比等は「歴史を本来あるべき姿にもどす」として挙兵し、その反乱はやがて日本全土を巻き込み、幕府もあわやというところまで追い詰められる。追い詰められた幕府は、反乱鎮圧の切り札として「虚刀流(きょとうりゅう)」という刀を使わない暗殺剣の達人、鑢六枝(やすりむつえ)を送り込む。彼の超人的な活躍によって戦況は逆転し、飛弾鷹比等も鑢六枝によって討ち取られる。反乱鎮圧後、今度は虚刀流の力を恐れた幕府は、大乱の英雄である鑢六枝を彼のふたりの幼いこどもとともに無人島へ流刑する。それからさらに二十年が過ぎ、再び天下泰平の世を取り戻していた……と、ここまでが物語のバックストーリー。独自の歴史を持った架空のファンタジーワールドなので、かなり細部まで設定されていてややこしい。こういう入れ物先にありきのRPGみたいな物語ってまだ流行ってるの?

 物語はひとりの若い女が鑢六枝の流された離れ小島へ訪れるところからはじまる。鑢六枝はすでにこの世になく、島には成人した彼の遺児たち、病弱な姉、鑢七実(やすりななみ)とたくましい弟、鑢七花(やすりしちか)のふたりが自給自足の暮らしをしている。「とがめ」と名乗る若い女は、ふたりに自分が幕府の命によって十二ふりの刀を集めていると話す。十二ふりの刀はいずれも四季崎記紀(しきざききき)という戦国時代の刀鍛冶によって作られた業物「変体刀」で、それはくり返し動乱の火種となってきたいわくつきの刀であり、現在の所有者たちも一筋縄でいかない連中だという。当初彼女を手伝っていた忍者集団は刀の価値に目がくらんで幕府を裏切り、やはり彼女を手伝っていた東西随一といわれる剣士はあまりの業物である刀に魅入られ、そのひとふりを手にした途端、姿を消した。そこで刀を使わない虚刀流に自分の役目を手伝ってもらいたいのだと言う。手伝ってもらえれば島送りの罪も不問に付すと。「南総里見八犬伝」かはたまた「雨月物語」かって調子で、伝奇ものの出だしとしてはなかなか良い感じ。十二ふりの刀のいわくとやがてむかえる対決に胸が躍るでしょ。でもね、とがめちゃんは幕府の重役にもかかわらずロリロリでツンデレのステレオタイプなアニメヒロイン。上記の話を早口のアニメ声でまくしたてるのである。敷居が高いなあ。彼女の様子にあっけにとられている弟へとがめは言う。「金で動く忍者は信用できない、名誉で動く剣士も駄目だ、愛で動く者だけが信用できる、虚刀流七代目当主、鑢七花、私に惚れて良いぞぉ〜」。うーん、どうしよう……。

 近代の作劇は紋切り型を避ける。例えば、悲しい場面で登場人物たちが同じように一斉に泣くのではなく、ある者はただ呆然と立ちつくし、ある者はどうにもならない状況に憤り、またある者はあまりにも悲しくて笑いだす。そうして紋切り型を避け、登場人物たちの差異を提示することで、作りものにすぎない世界があたかもそこに実在するかのように見せる。もしも悲しい場面で登場人物たちが一斉にハンカチを取り出してよよよと大げさに泣きだしたら、それは喜劇か大衆演芸だ。ところがここではそうした作劇の基本的な仕掛けが放棄され、おそらく意図的に類型化された登場人物によってアニメ的記号のパロディが演じられる。アニメ的コスチュームを着た彼らは、常にオーバーアクションで大げさに語る。彼らはたびたび「ここでの私の役割は」と口にする。自分は物語の都合上ここに登場したにすぎないと。彼らの会話は漫才のようにボケとツッコミの役割をなぞる。(個人的には駄洒落よりも漫才もどきの予定調和の会話のほうが苦手。)それは明らかに喜劇の文脈なんだけど、その中で彼らは次々と血まみれの姿で殺され、非情で残酷な運命論めいた物語が展開される。そうやってありえない世界をいっそうありえないものとして描くことで、作り手はいったい何がしたいんだろう。それは現実よりもアニメ的世界に親近感をおぼえる人たちのために、居心地の良い舞台をつくって遊んでいるだけなんだろうか。それとももっと何か別の意図があるんだろうか。

 主人公のつかう虚刀流は、刀剣を用いず、自らの心身そのものを「刀」とする殺人剣である。それは素手で人体を破壊し、刀も粉砕する。ただし、鑢一族のみに伝えられる血族の技であるため、戦国の世や大乱での活躍は知られていても、その実態はほとんど知られていない。弟の鑢七花は、父・六枝によって七代目の伝承者になるべく鍛えられ、幼いうちからひとふりの刀として生きることを説かれてきた。ただ鋭い刀になることだけを教えられてきた彼は、自らの意志や他者への情、善悪の観念といった基本的な人間性が欠落している。隔離された島の環境の中、やはり鋭い刀である父と姉との三人だけで暮らしてきたことがその傾向に拍車をかけている。性格は温和で一見ごくふつうの木訥とした若者だが、人を殺すことになんのためらいも葛藤もない。彼はとがめを探って島に来た忍者蝙蝠(もちろんコスチュームはコウモリふうの着ぐるみ)を一撃で仕留める。対決の最中、彼はとがめの正体と彼女の真の目的を蝙蝠から聞かされる。とがめは大乱の首謀者、飛弾鷹比等のひとり娘であり、十二ふりの刀あつめは、表向き幕府にとっての動乱の火種を事前につむためとされているが、それは彼女にとって口実に過ぎない。とがめは刀あつめを成功させることで将軍つきの側用人へ取り立てられ、将軍の暗殺と幕府の転覆の機会をねらっているのだという。そうして父親の無念を果たすことこそが飛弾鷹比等のひとり娘である彼女の真の目的なのだと。それを聞いて主人公の表情が変わる。彼の父親、鑢六枝もまたとがめの仇である。忍者蝙蝠を仕留めた後、蝙蝠が所有していた変体刀を手に彼はとがめへ言う。「とりあえず一本、金のためでも名誉のためでもなくアンタのためにしたくなった、俺はアンタに惚れることにしたよ」。こうして殺人剣の使い手である心を欠落した若者と目的のためなら手段を選ばないお姫様との刀集めの旅がはじまる。ややこしい架空世界が舞台になっているけど物語の骨格はきわめて古典的。剣士とお姫様の妖刀狩りの道中なんてまるで古い時代劇のようだ。

 コミカルな表現が多いにもかかわらず、マンガやアニメで多用されるモノローグや心の声による心理描写はほとんど用いられない。だから、主人公の若者がなぜヒロインの復讐に手をかすことにしたのかも説明されない。彼女に同情したのか、罪悪感を抱いたからなのか、それとも目的を果たすために手段を選ばない強い決意に心うたれたからなのか、場面をよく見て、ストーリーを理解して、あとは見る側が想像してくれというわけだ。ともかく主人公はヒロインの「刀」になることを決意する。心理描写については、登場人物たちの表情やしぐさやなにげないひと言が伏線になっていることが多い。いくつもの伏線がパズルのピースのようにはめ込まれていて、アニメにしてはずいぶんと映画的。登場人物の奇妙な名前が伏線や暗喩になっていることも多い。見る側に集中力を要求するが、なんでもセリフとモノローグで説明されるよりはずっと良い。説明的なモノローグを多用されるほどしらけるものはない。また、カットバックを多用し、肩透かしや人を食った仕掛けも盛りだくさん。ぼんやり見ていると出し抜かれる。とくに四話目の展開には、まんまと一杯食わされ、腹をかかえて笑った。演出のテンポも良いし絵も良く動く。作画やアートワークも凝っていて七話目ではその内容にあわせて絵のタッチまで変えている。残酷で猟奇的な描写が多いのは「八犬伝」や「雨月物語」みたいな伝奇ものだと思うことにして受け入れよう。これはこどもが見るアニメではない。ヒロインのお姫様がニーソックスをはいてツンデレロリロリなのもまあ見てるうちに慣れる。あれはあれで三時間も見ていれば、わがままで自分勝手で焼きもちやきのヒロインがなんだか可愛いような気がしてくる。忍者が着ぐるみを着てるのも一種の様式だと解釈して受け入れよう。「ヤッターマン」の三悪にしても「ポケモン」のロケット団にしてもアニメの敵役はみんな妙なコスチュームを着ていたし、それは本質的な問題ではない。ただそうして好意的に見たとしても、釈然としないものが残る。主人公とヒロインを縛っている歴史の因果の正体が最後まで明らかにされないのだ。だから、十二話見終わった後でも、物語の完結を見とどけたという充足感が得られない。どうしてそうなるのというもやもや感だけが残されることになる。

 全十二話の物語は、刀をめぐる歴史の因果を全体を通じての縦糸に、主人公の成長とヒロインとのラブコメを横糸に、各一話ごとにそれぞれの刀の所有者との対決がつづられていく。因果話は猟奇的で残酷に、ラブコメはコミカルに、両者の間を大きく振幅しながらふたりの旅は描かれる。旅がすすむにつれて、主人公はヒロインとの交流や刀の所有者との出会いと別れによって少しずつ人間性を身につけていく。怒り、喜び、悲しみ、後悔といった感情を体験し、自らの意志を自覚するようになる。それは同時に一本の刀として主人公の虚刀流が研がれ、完成していく過程でもある。また、旅がすすむにつれて、十二ふりの刀の正体も明らかになっていく。刀の制作者である四季崎記紀は古くからの占術師の家柄で、彼の一族は代々予知能力をもっている。それはたんに未来を見通せるというのではなく、「風吹けば桶屋儲かる」式の因果の連鎖を俯瞰的に知覚できるものなんだろう。四季崎の一族はその力を生かし、たんなる未来の託宣ではなく、歴史を積極的に改ざんし、本来あるべき歴史の姿に修正することを役割としてきた。彼らは因果の種をまくことで歴史の向かう方向を修正する。戦国の世に生まれた四季崎記紀は、刀を因果の種として歴史の修正を図った。まもなく戦国の世を統一することになる将軍家と幕府は本来の歴史には存在しない。本来あるべき歴史の中では、戦国の世は統一されず、将軍も幕府も存在せず、数百年もの泰平の世がつづくこともない。幕府の存在する歪んだ歴史の先には遠い未来においてこの国が異国の軍隊に滅ぼされる世界へたどり着くという。その歪んだ歴史を修正し、幕府の成立を阻止するための因果の種が彼の制作した異形の刀である。

 四季崎記紀は戦国の世に千におよぶ刀をばらまく。未来の技術や異なる世界の技術によってつくられた彼の刀は戦場で絶大な威力を発揮し、戦乱の中でさらなる殺戮をもたらした。四季崎の刀の存在が戦の勝敗を大きく左右したことから、やがて彼の刀を多く手にした大名こそが戦国の世を支配するという噂が広まる。大名たちはこぞって四季崎の刀を求め、刀の存在がさらなる戦乱をまねいていった。その後、戦国の世を統一した旧将軍は、四季崎の刀を恐れ、総力を挙げて刀狩りをはじめる。収集された刀は十万にのぼり、四季崎の刀もそのほとんどが回収されたが、どうしても十二ふりの刀だけは回収できなかった。その十二ふりの刀こそが特別に強い力を持った「完成形変体刀」と呼ばれる異形の刀だという。なんだか使い古されたSFな仕掛けで少々安っぽいけど、これが十二ふりの刀のいわく。強引な刀狩りを実施した旧将軍は国力を疲弊させ、その天下はごく短期間で崩壊する。幕府の成立を阻止するという四季崎のもくろみは成功したかに見えたが、旧将軍の家臣だった家鳴家がその跡を継ぐ形であらたに尾張幕府を開き、その後、泰平の世を築くことになる。歴史の修正は四季崎の子孫の引きつがれ、残された十二ふりの刀による幕府の転覆を画策している。ヒロインの父親である飛弾鷹比等が二十年前におこした大乱もそのひとつ。劇中でくわしく描かれていないためはっきりしないが、飛弾鷹比等の大乱も四季崎による歴史改ざんのシナリオの影響下にあることを匂わせている。また、主人公とヒロインは気づいていないが、ふたりの刀集めの旅も四季崎の子孫である若い女の描いたシナリオの中にある。問題なのは、劇中で語られる「あるべき歴史」や「歪められた歴史」というのが何かはっきりしない点である。それらは思わせぶりなセリフでほのめかされるだけで、「あるべき歴史」って具体的にどういうことなのかが最初から最後まではっきり示されない。尾張幕府は本来の歴史では存在しないという。では、「本来の歴史」とは一体どのようなものなのか。ここは物語全体の核になっている箇所できわめて重要なはずである。これを明らかにしないと、さんざん張りめぐらした伏線は回収されないまま終わってしまうし、この物語全体があいまいなものになってしまう。

 ヒロインの回想の中で、父親の飛弾鷹比等はまだ幼い彼女に語りかける。反乱は失敗し、幕府の軍勢に追い詰められた彼は、火の海となった城内で最後の時を迎えようとしている。「君は歴史とはなんだと思う?僕は歴史とは人間の生きた証だと思う。精一杯生きた人間の証だと。だからあるべき姿であるべきなんだと。それなのにこの歴史は本来あるべき歴史とはまるで違う。僕はその間違いを十分に示せただろう。ここでひとまず僕の役割は終わりだ。こうやって最後に君に伝えるべきことを伝えられたんだからそれで良しとしよう。もしもこの歴史が僕の思っているとおりなら君だけは死なないはずだ。君はこの過酷な歴史に生き残ることになる。武士道にしたがうなら僕はここで君を殺してあげなきゃならないんだろうけど、いくらそれが歴史の間違いを正すことだとしても、それだけはできない。自分の娘は殺せない……」。謎かけ問答のようだけど、彼が何を言ってるのかわかりますか?ヒロインが本来あるべき歴史には存在しないってことだけはわかる。歪められた歴史の因果の中にのみ存在するのだと。では、彼が語る歴史の「あるべき姿」とは、「精一杯生きた者がむくわれる世界」のことなのか、それとも「行為の結果としてただあるがままに生じる世界」のことなのか。前者ならばある価値観にもとづく歴史の修正を肯定し、後者ならばすべての修正を否定することになる。また後者ならば尾張幕府の存在自体、四季崎とは別の歴史の外部からの干渉によってもたらされたことを示唆する。だとしたらそれは誰?なんのために?あるいは、戦乱の世の中で、ひたすら殺戮の連鎖がつづく万人の万人による闘争の歴史こそが「あるべき歴史」だというのか。でもそれはたんにひとつの価値観にすぎない。それを歴史のあるべき姿という根拠は何なのか。はたまた彼は「この世界は架空の世界だ」とメタフィクションについて語っているんだろうか。ニーソックスをはいたロリロリヒロインも着ぐるみの忍者たちも存在するはずのない本来ありえない登場人物たちなんだと。だとするとまったく違う意味になるけど、でも、そんなもん原作者がぜんぶ創作してるに決まってるわけで、物語も終盤になっていまさら劇中の人物にメタフィクションを指摘されてもさあって感じ。

 飛弾鷹比等が娘にそう話した直後、筋骨たくましい大男が彼の元へせまってくる。大乱の首謀者を討ち取りに来た虚刀流六代目、鑢六枝である。燃えさかる城の広間でその大男は、小柄な飛弾鷹比等を見下ろし、手刀を一閃させる。ふすまの影に隠れていた幼い娘は、噴き出す血しぶきとともにゆっくりと落下していく父親の首を凝視する。込み上げてくる怒りと恐怖で、彼女の長い髪はまっ白に変わっていく。以後、彼女は自らの名前と素性を隠し、人生のすべてを費やして父親の復讐への長い道のりを「奇策士とがめ」として歩きつづけることになる。

 たしかに物語の何から何までを見る側にわからせる必要はないし、これはどうしてと想像の余地が大きいほど物語の余韻は残る。しかし、劇中で語られる「あるべき歴史」が何かというのはそういうたぐいのものではない。ここがはっきりしないことには、すべての登場人物たちの行動原理が意味不明のものになってしまう。「あるべき歴史」とその因果こそが物語全体のカギになっていて、主人公とヒロインの刀集めの旅もその中にあるんだから、これについては見る者の想像にゆだねますってわけにはいかないはずだ。四季崎記紀は大勢の人間が死んでいくのを楽しんでいるようなニヒリズムを抱いた人物として描写される。彼にとっては自分の作った刀をめぐってどれだけ大勢の人が死のうがいっこうにかまわない。ならば、幕府ができようが、遠い未来でこの国が滅ぼされようがそんなこと彼にはどうでもいいのではないか。むしろ、そんな彼が「あるべき歴史」にこだわり、幕府の成立を阻止しようとするほうが不自然に見える。彼は、虚刀流開祖、鑢一根との出会いでこう話しかける。「俺も世の中なんてものには興味はねえ、俺が相手取ってるのはなんたって歴史って奴だからな、世の中やら世界なんてものは、歴史全体から見たら表面のほんの上澄みみてえなものにすぎねえ」。では、彼は何がしたくて歴史を相手取っているのか。また、飛弾鷹比等もなぜ自らの命と大勢の人々を犠牲にしてまで「あるべき歴史」の実現に執着したのか。我々に見える「歴史の上澄み」ではなく、その深淵をのぞき込んだ者たちの意識の世界がきっちりと描写できていなければ、よくわからない架空の世界のよくわからない歴史の因果によって登場人物たちが振りまわされ死んでいくだけのよくわからない物語になってしまう。主人公がいくら必殺技をくりだそうが、ヒロインとのラブコメでいくらいちゃいちゃしようが、世界はすべて茫洋として霧の中。だから十二本全部見終わっても充足感は得られない。ただもやもやが残されるだけだ。ここでひとまずそのもやもやを整理してみよう。

 ・劇中で語られる「本来あるべき歴史」っていったい何なのさ?
 ・四季崎記紀の言う「本来あるべき歴史」と飛弾鷹比等の言う「本来あるべき歴史」って同じものなの?
 ・予言者の存在する劇中の世界では、歴史は行為の結果として生じるのでなく、あらかじめ定められているの?
 ・尾張幕府の存在は、何者かによる歴史への干渉によってもたらされたの?なら誰が何のために?
 ・尾張幕府の転覆さえ実現すれば「本来あるべき歴史」に修正できるの?

 劇中の様々な箇所で「歴史のあるべき姿」は思わせぶりに語られ、十二話全体をつらぬく縦糸として、主人公とヒロインの刀集めの旅もその因果の中にあることが示唆される。ところがこのさんざん思わせぶりに語られてきた歴史の因果は、結局、最後までその正体が明かされない。本来あるべき歴史とは何なのか、主人公たちがいる世界とは何か、歴史とは結果の積みかさねによって生じるのか、それともあらかじめ定められた流れの中にあるのか、何も明らかにされないまま主人公とヒロインの旅は終わり、物語は幕を閉じる。登場人物たちを動かしてきた運命論めいた歴史の因果は最後まで霧の中にあり、見る者は物語が終わってもその霧の中に取り残される。年末にまるまる一日費やして付きあってきたふたりの旅の行き先がこれかい。

 そして結末。以下ネタバレって奴です。旅の終わりで主人公とヒロインは、虚刀流もまた四季崎記紀によって作られた「刀」であることを知る。二百年前の戦国の世に四季崎記紀によって鑢一根に植えられ、血族の技として受けつがれていく過程で根をはり枝をのばし、七代目の主人公によって花を咲かせ、完成に至る「刀」だと。そして、虚刀流もまた歴史を「あるべき姿」に修正するための因果の中にあると。主人公は言う。「俺が四季崎の作りし変体刀の一本ねえ、ぜんぜんピンと来ないなあ、まあいい、俺はとがめのために戦う、それが俺の出した答えだ」。それはそれでいい。主人公の七花くんはこの旅を通してなかなかいい男になった。ヒロインは彼のまっすぐな言葉に顔を赤くする。ならばふたりのラブコメがこの悲劇的な因果話に終止符を打つのか。そうはならない。ヒロインは最後まで父親の復讐にこだわりつづけ、最終回で四季崎の縁者によって殺される。四季崎の縁者がなぜ彼女を殺害したのか、やはりここでも説明されない。彼女もまた主人公との一年におよぶ旅によって変わった。もう以前のような、目的を果たすためなら手段を選ばず、誰も信用せず、一切の隙を見せず、容赦のない人間ではなくなっていた(ヒロインの実の名は「容赦姫」という)。だからもう幕府の転覆に役にたたないと暗殺者に判断されたからなのか。それとも、彼女が飛弾鷹比等のひとり娘ならば本来あるべき歴史には不要の存在だと見なされたからなのか。暗殺者は「すべてお前のせいだ、虚刀流」とだけ言い残し、去っていく。死に際、ヒロインは主人公にこの旅が終わったらそなたを殺すつもりだったと告白する。主人公は血まみれの彼女を抱きしめて叫ぶ。「いちばん傷ついてるのはアンタじゃないか!傷ついて傷ついてこんな道半ばで撃たれて、アンタ、いったい何やってんだよ!」。ヒロインは言う。「でも、いま幸せだよ、道半ばで撃たれたおかげで、もうそなたを殺さずにすむのだから、やっとこれで全部やめることができるのだから……」。こうしてヒロインは彼女を縛ってきた因果の鎖から解放され、彼女の復讐劇は道半ばで幕を閉じる。一方、主人公は彼のすべてを失う。事ここに至って四季崎記紀による虚刀流の因果は完成する。主人公は死に場所を求めて尾張城へ乗り込み、刀として完全無欠の存在となった彼は殺戮の限りを尽くす。復讐ではなく、ただ死ぬために。押しとどめようとする幕府の家来衆たちを皆殺しにし、四季崎の刀を手にした暗殺剣の使い手たちもすべてなぎ倒し、いままで集めてきた十二ふりの変体刀もことごとく破壊する。天守閣にたどり着いた彼は、御簾の向こうにいる八代将軍に言う。「とがめはアンタみたいな奴のせいで人生を棒にふっちまった」。そして、命乞いをする年老いた八代将軍を絶叫とともに葬り去る。でもそれは逆恨みじゃないの、七花くん。完璧な刀となった主人公の戦いぶりは圧巻だけど、カタルシスはまったくない。だって将軍も幕府の家来衆もべつに何も悪くないんだもん。彼らがいったい何をしたっていうのさ。「歴史の深淵」も「あるべき歴史の姿」も見えない我々には、幕府や将軍がなぜそれほど否定されるのか最後までさっぱりわからないよ。結局、主人公は死に場所を求めたにもかかわらず、死にきれず、瓦礫と化した尾張城を去っていく。

 八代将軍と大勢の家来衆を失った尾張幕府だが、最後の最後で四季崎記紀による歴史の改ざんは実現しなかった。まもなく九代将軍が就任し、何事もなかったかのように再び尾張幕府による泰平の世を取り戻した。破壊された尾張城と殺された大勢の命以外、歴史は何も変わらなかったのである。四季崎記紀の末裔である若い女が主人公に言う。「四季崎記紀は結局負けちゃったのよぉ、計算違いは旧将軍からはじまった、そして飛弾鷹比等、そしてその娘……容赦姫が決定的だったわねぇ」。彼女はしたり顔でそう語るが、それらがどういう因果で結ばれているか、歴史の外から何らかの介入があったのかは語られない。歴史の改ざんとは結局何だったのか、あるべき歴史の姿とはいったいどういうものか、幕府さえ転覆すればあるべき歴史になったのか、肝心の部分は最後までわからない。この期におよんで謎かけはもういいよ。もはや、架空の世界の架空の歴史の「尾張幕府」が残ろうが消えようがどうでもいい。それがどうしたって感じ。尾張城から姿を消した主人公はそのまま旅路を歩き始める。ヒロインとふたりで行くつもりだった旅へ、彼女の追憶とともに。どよよよーん、おしまい。おしまいったらおしまい。終わっちゃうのである。肝心なことは何も明らかにされず、全十二話を通してふたりがやってきたことは何も報われず、カタルシスもなく、我らの愛すべきツンデレヒロインはすでに舞台から去り、主人公は彼女の追憶を抱いて道の彼方へ消えていく。ああもう原作者が執筆中に大失恋でもしたのかってくらい何がやりたかったのかさっぱりわからないのである。あーもやもやする。もやもやするでしょ。十話目あたりまで話はうまく展開して感心していたのに、それまでに張りめぐらした伏線がまったく回収されないっていうのはちょっとあんまりじゃないの。だから物語はこんなナレーションで幕を閉じる。「復讐を果たせなかった者、目的を果たせなかった者、志なかばで倒れた者、思いを遂げられなかった者、負けた者、挫けた者、朽ちた者、一生懸命がんばって、他のあらゆるものを犠牲にして踏ん張って、それでも行為がまったく結果につながらず、努力はまったく実を結ばず、理不尽に、あるいは不合理に、ただただ無惨に、ただただ不様に、どうしようもなく後悔しながら死んでいった者たちの夢と希望に満ちあふれた前向きな物語、「刀語」は、ここで静かに幕を下ろすのでございます」。私には、さんざん思わせぶりに引っぱってきた伏線を最後まで回収できなかったことへの作者の言い訳のように聞こえる。

 というわけで見た人の感想も気になったのでネットで検索してみたところ、ヒロインの髪型がどうこうとか紫のニーソックスが萌え萌えだとかおねえさんはどうやって島を出たのかとか四つ目の刀を使いこなすための技はどうなってるのかとかって枝葉の話題ばっかり。そんなのどうでもいいじゃねえかこのおたくども。そうじゃなくてアンタはこの物語のドラマツルギーをどう思うかってんだよ。ああもやもやする。えっこれはおたくによるおたくのためのおたくアニメだからそんなこと気にすんなって?だったら私が悪うございました。というわけで私はあなたの感想もぜひ聞きたい。自分だけもやもやさせられてるのも癪なので、ぜひあなたにもこのもやもやを味あわせたい。私はここにこうして長々と吐きだしたおかげで少しすっきりしました。ご静聴どうも。

 → 公式サイトによるプロモーションビデオ1 約3分
 → Anitube スペイン語だかポルトガル語だかの字幕つき海賊版(各50分、全12話そろってます)
 → Amazon ムカツク奴にこのDVDを送りつけてやりたいっていう人はどうぞ、べつに止めません
 → Wikipedia「風が吹けば桶屋が儲かる」

■ A piece of moment 1/10

 年末に友人宅の猫が死んだ。家族で犬や猫を飼ってるなら、あいつも長生きしたねと皆でその死を受けとめられるものだが、ひとり暮らしの友人は、もう十五年もマンションの一室で猫との一対一の関係をつづけてきた。全部ひとりで背負い込んでいるためにその不在を受けとめられないといった様子だった。彼女の猫は、この十五年間、一歩も室内から外へ出ることはなかった。2Kのフローリングの空間が世界のすべてで、夜遅く飼い主が帰ってくるまで、動くものが何もない中で毎日のほとんどの時間を過ごしてきた。そのせいか、動くものを見れば飛びつき、新聞紙やコンビニ袋ががさがさ音をたてれば前肢で押さえ込み、ときには自分の尻尾を追いかけてぐるぐる走り回るといった有様で、いくつになってもまるで生きるすべを知らない仔猫のようだった。その様子は姿形は猫でも、むしろ水槽の中を回遊している小さな魚や回し車の中でからから走っているハムスターを連想させた。昔うちにいた大きなとら猫や隣家の床下に住みついていたやせた野良猫は、いつも生きる力にあふれていた。藪に入ってはドバトやアオダイショウを狩り、定期的になわばりをめぐってはどこに何があるかを確認し、床下で仔猫たちを育て、人間や他の猫と出くわしたとき、どう距離をとり、どう対処すればいいのかよく理解していた。彼らが自信に満ちた様子で悠然と裏庭を歩いていく姿は、まるで山から下りてきた神様のようだった。高校生だった私は、彼らの暮らしぶりを見ていると自分の無力さやふがいなさを思わずにはいられなかった。山の神様は丸い頭をなでられると嬉しそうに目を細めたが、仔猫みたいにじゃれたりはしなかった。逆になでているこっちの方がおいしっかりしろよと背中をたたかれているような気がした。私は長年、猫というのはそういう生きものだと思っていたので、いつまでもやや様のような友人宅の猫がおよそ猫とは別の生きもののように思えた。猫のほうも私には最後までなつかなかった。

 ペット斎場で焼いてもらった後もべそべそ泣いている友人に、死んだ猫のことを時々思い出しながら酒を飲むのも良いもんだよと話す。きっとあいつも死んで山の神様になったはずだ。

■ A piece of moment 1/19

 バイクで長い距離を走るとき、片耳にイヤフォンを入れてラジオドラマを聞いている。案外ラジオドラマは集中力を要求する。家で聞いていると集中力が持続できなくて、ついついお湯をわかしたり冷蔵庫の中を漁ったり部屋を片付けたりと結局途中で聞くのをやめてしまったりすることがある。逆に運転中に聞くラジオは妙に集中力が高まる。深夜の閑散とした国道を走りながら聞いていると物語に吸い込まれるような感覚になる。最近聞いた中では、NHKでやっていた「薔薇のある家」という作品が良かった。(検索すれば動画サイトにアップされている海賊版が見つかると思います。)
 → NHK FMシアター「薔薇のある家」

 登場人物はふたり。一幕物の芝居のように場面転換は一切なく、マンションの一室でのふたりの会話だけでドラマは展開していく。登場人物のひとりは往年の大女優という高齢の女性。もうひとりはその付き人の中年女性。往年の大女優を奈良岡朋子が、その付き人を大竹しのぶが演じている。女優は銀幕のスターとして華やかな過去を持っているが、年齢による衰えと怪我のため、役者としての出番はもうなく、実質的に引退生活を送っている。そのせいで、少々愚痴っぽく付き人にあたり、華やかだった頃の思い出を語るときは夢見る乙女のような口ぶりになる。その様子は切なくて少し怖い。付き人の中年女性は、そんな彼女のことを「先生」と敬意を込めて呼び、長年にわたって献身的に支えている。女優の愚痴や思い出話にも一定の距離をとりながらつきあい、相手のわがままをいさめるように対応する。ところがふたりの会話がすすむにつれて、付き人の女性には「先生」に対してふくむところがあること、さらにふたりの関係はたんに女優とその付き人ではないことがわかってくる。このあたりの会話の転がり方がうまい。やがてふたりのやりとりは、互いの心の急所をぐりぐりえぐるような調子を帯びてくる。あの時あなたはこう言った、いやあの時私はこう言ったつもりだった、でもそれならどうして……と。怖い、とくに大竹しのぶが怖い。ふたりの関係や相手に抱いているコンプレックスや後ろめたさは、イングマール・ベルイマンの「秋のソナタ」によく似ている。表面的には穏やかに接していているふたりがふとした一言で、それまでため込んできたわだかまりや嫉妬心が吹き出す。「秋のソナタ」のイングリッド・バーグマンとリヴ・ウルマンのやりとりも、互いの心のもろい部分をえぐるような会話がえんえんと続いて、見ながらのたうち回った記憶がある。

 ドラマは終始マンションの一室でのふたりの会話によって進行し、ナレーションもモノローグも一切入らない。会話だけで心の中をひたすら縦に掘り下げていく感覚。最後まで聞いて打ちのめされてもうぐったり。ラジオドラマは会話が際立つぶん、一幕物の心理劇に向いていると思う。脚本はオカモト國ヒコという関西の小劇場で活動している人。憶えておこう。こういうシナリオは舞台中心に活動している作家でないと書けないんじゃないだろうか。
 → Blog オカモトの「それでも宇宙は広がっている」

■ A piece of moment 1/26

 以前書いた所得の再分配についての課題文を書き直してみる。こんな感じ。
所得の再分配 所得税の累進制は公平なのか?

 現在、所得税は、ほとんどの国で累進制というしくみが取り入れられています。この累進課税制度は、たくさん所得のある人には高い税率を、所得の少ない人には低い税率を適用するというものです。
 日本では、国に収める所得税の最高税率は1986年まで70%でしたが、その後しだいに引き下げられて、現在は40%になっています。現在の日本の所得税は6段階の累進制で、次のような税率です。

・195万円以下の所得 → 5%
・195万円を超え330万円以下の所得 → 10%
・330万円を超え695万円以下の所得 → 20%
・695万円を超え900万円以下の所得 → 23%
・900万円を超え1800万円以下の所得 → 33%
・1800万円超える所得 → 40%

 年間の所得が150万円の人の場合、150万円×5%で、だいたい7万円が国に納める所得税ということになります。もしこの人にこどもがいたり、高齢の親を介護していたり、健康保険を支払ったりしていれば、そのぶん税は控除されます。一方、年間所得2000万円の人だと、300万円〜400万円くらいの所得税になります。「あれっ、2000万円×40%だから800万円じゃないの?」と思うかもしれませんが、40%というのは、あくまで1800万円を超える部分にかかる税率で、2000万円全体に40%が課税されるわけではありません。1800万円以下の部分については、それぞれもっと低い税率で計算されます。また、扶養控除、住宅控除、医療費控除などによって税額が控除されるので、300万円〜400万円くらいが国に納める所得税ということになります。(なので、テレビでタレントやスポーツ選手が「日本ではいくら稼いでもほとんど税金にとられちゃう」とぼやいているのをときどき見かけますが、あれは大げさな表現です。現在の税の仕組みでは、年収1億円の人でも国に納める所得税は多くて3000万円程度で、地方税とあわせても半分以上を所得税に取られるようなことはありません。)
 こうした累進課税のしくみは、高額所得者に多く課税することで所得の再分配をうながすために採用されていますが、はたして、富裕層がより多くの税を負担するというこのしくみは、公平なのでしょうか。次のAとBの文章を参考にして、あなたの考えを述べなさい。

A 不公平である。
 たしかに年間所得が5000万円も1億円もある人たちにとって、2000万円や3000万円を税にとられたからといって、生活には困らないだろう。しかし、生活に困るかどうかと、社会的に公平かどうかとは別の問題である。
 累進課税制度は、次のふたつの点で問題をかかえている。まず、社会を支える責任はすべての人に等しくあるということをあげられる。だからこそ、基本的人権はすべての人に等しいのであり、所得に関係なくすべての人の参政権は一票なのである。高額所得者に高い税率を課すのならば、税率に応じて、二票三票ぶんの参政権が保障されなければ、公平な社会とは言えない。逆にすべての人の参政権が等しく一票ならば、所得に関わりなく、税率は一定にすべきである。
 もうひとつの問題として、高い税率を課すことで勤労意欲を低下させてしまう点をあげられる。所得というのは、その人が仕事につぎ込んだ努力と才能と時間の成果である。もしも、何億円稼いでもそのほとんどが税に持っていかれてしまう社会だったら、がんばって仕事に打ち込もうという気力が失われてしまうだろう。それのようなやり方は、仕事につぎ込んだ努力と才能と時間が本人自身のものでなく、国のものだというのと同じであり、きわめて全体主義的なやり方である。人々の仕事に対する努力や情熱を失わせないために、仕事で成功した人たちがむくわれる社会でなければならない。一律課税を「金持ち優遇」と批判する人は多いが、このしくみはたんにひとにぎりの高額所得者を優遇するものではない。誰もが努力し幸運に恵まれれば経済的に成功する可能性をもっている。そうなったときに所得の多くを税にとられてしまうのでは、仕事で成功しようという意欲や夢が失われてしまうはずである。オバマ大統領による保険制度改革や税制改革で増税されるのは上位20%くらいの高額所得者にすぎなかったが、それにもかかわらず、多くのアメリカ人がオバマ大統領の改革に反対の声をあげた。その中には年収2万ドル(約160万円)以下の低所得者たちも大勢ふくまれていた。彼らは仕事で成功したいという意欲とアメリカンドリームを失わないために反対したのである。
 豊かな者が貧しい者を支えるというしくみは、本人の自発的な善意で行われるならば、大いに賛成である。しかし、高額所得者に対して、政府が強制的に高い税率を課すというのは、臓器提供を強制させるのと同じである。たしかに、臓器提供は人助けであり、腎臓ならばひとつ失っても生きていくことはできる。しかし、その人の身体が本人自身のものである以上、臓器提供を政府が強制することは社会正義として認められない。それと同様に、所得もまた本人自身の努力と才能と時間の成果であり、その人のものである。したがって、政府が高額所得者に高い税率を課し、強制的に所得の再分配をうながすやり方はまちがっている。所得税はすべての人に等しい税率を課すべきである。

B 公平である。
 所得の格差は、本人の努力や才能よりも、おもに社会的格差によって生じるものだからである。
 まず、人生のスタートラインは人によって異なり、ふぞろいである。前の総理大臣である鳩山由紀夫氏のように、祖父は総理大臣、父は外務大臣、母はブリヂストン会長の娘で、母親から毎月1000万円も「おこづかい」としてもらっている人もいれば、ホームレスとして道端で暮らしている親から生まれた人もいる。人生のスタートラインがそろっていないのに、その結果である所得についてだけ一律に課税すべきというのは矛盾している。
 また、社会的地位や所得の格差は、多くの場合、親から子へ引きつがれる。社会階層の固定化は多くの国でも見られるが、日本やアメリカのような貧富の差の大きい社会では、とくにこの傾向がはっきりあらわれている。日本の場合、高額所得者のほとんどは、働いて稼いだ「勤労所得」ではなく、不動産や株式から得られる「財産所得」を主な収入源にしている。例えば、鳩山家の場合、一切働かなくてもブリヂストン株の配当金だけで年間3億円近い所得がある。鳩山家はそれ以外にも莫大な不動産や株式を所有しているので、財産が生みだす所得は毎年十数億円にものぼる。勤労意欲を下げるという点では、このようなお金がお金を生みだす社会の仕組みのほうがよほど悪影響をおよぼしているのではないだろうか。たしかに、貧しい家庭に生まれ、苦学して学び、努力の末に社会的に成功したという人物もごくわずか存在する。しかし、こうした人たちは例外中の例外だからこそ、美談としてもてはやされるのであり、彼らを指して「ほら見ろ」という発想はまちがっている。こうした人たちは生き方の手本にはなるが、例外的な存在である彼らを基準にして社会政策のあり方を決めるべきではない。
 「そうは言っても、成功した人は努力も勉強もしているし、現代社会は封建社会みたいに、なにもせずに親の社会的地位を引き継げるわけではない」という人もいるかもしれない。しかし、そもそも、努力しようという意欲や「やればできる」という価値観は、家庭環境をはじめ、まわりから与えられたものである。東大生の親の平均年収が1000万円を超えており、他の大学よりも際だって高いのもそのためである。もしも、父親は強盗で刑務所に服役中、母親は麻薬常用者という家庭に生まれ、幼い頃から親に虐待され、「どうせお前なんか」となじられて育ったとしたら、「自分だって努力すればできるんだ」とはなかなか思えないだろう。
 さらに、才能や努力は本人のものだとしても、それを生かせる社会環境にめぐりあったことはたんなる偶然にすぎない。たとえば、イチローが野球選手として恵まれた才能を持っていることも、日々努力していることも疑う余地はないだろう。しかし、野球が人気スポーツで、スター選手に高額の契約金が支払われるという社会状況は、イチロー自身の才能や努力とは関係のないところで決まる事柄である。現在、イチローの年間契約金は1800万ドル(約15億円)であり、メジャーリーガー全体の平均は240万ドル(約2億円)である。240万ドルという額は、アメリカ人の平均年収の50倍にも達する。しかし、メジャーリーガーが昔から高額所得者だったわけではない。1975年の平均は4万5千ドルにすぎず、当時のアメリカ人の平均年収の3倍程度にとどまっていた。アメリカのスポーツビジネスはこの40年間で大きく変化し、野球選手の契約金も近年になって急激に高騰したのである。イチローが1975年ではなく、2010年の現在に現役選手であることは、本人の才能や努力とはまったく関係のないことであり、たまたまそういう社会状況に巡りあっただけのことである。さらに野球以外のスポーツ、例えばカーリングやアーチェリーのようなマイナースポーツの場合、選手たちは競技だけでは生活できないので、たとえ世界大会で一位になった選手でも、コンビニやスポーツクラブでアルバイトをしていることもある。彼らとイチローとでは、千倍近くの所得格差があるが、その才能や努力や情熱に千倍もの格差はないはずである。
 つまり、高額所得者というのは、恵まれた家庭環境に生まれ、「やればできる」と親や教師からはげまされて育ち、その才能や努力が社会的に評価される時代にたまたまめぐりあった幸運な人たちである。こういう人たちがそうでない人たちを支援するために、税をより多く負担するというのは、けっして不公平な社会のあり方ではないはずである。
 メジャーリーガーの1975年の平均年棒が4万5千ドルで当時のアメリカ人の平均年収の3倍程度というのは、先日NHKで放送していた「メジャーリーグ アメリカを映す鏡」というドキュメンタリー番組から。ベーブ・ルースもジョー・ディマジオも大スターであったわりには、野球選手としての収入は大したことなかったという話はあちらこちらでよく見かける。

 文章を書きながら、年末にたまたまテレビで見た「ドラえもん」のことを思い出した。勉強も野球もサッカーも駄目なのび太にとって、唯一の取り柄はあやとりが上手なこと。でも、のび太が得意のあやとりを学校で披露してもクラスのみんなは冷ややかな反応しかしてくれない。そこでのび太は「もしもボックス」をドラえもんに出してもらって、「もしもみんながあやとりに夢中の世界だったら!」と叫ぶ。するとその瞬間から世界は一変する。学校へ行くとあやとりのテストがあり、休み時間にはスネ夫が得意げな顔で「ぼくの開発した新技なんだ」とあやとりを披露してクラスの人気者になっている。テレビでは「あやとり世界選手権」が中継されており、お父さんもお母さんも夕食を食べながら、プロ選手がくりだす華麗なあやとりの技に夢中になっている。お母さんはため息をついて言う。「はあー、のび太も少しはあやとりの才能があったらねえ、学校の宿題なんていいからもっとあやとりの勉強をしなさい、こんなことじゃ大学へも行けないわよ」。その世界では、大学入試にもあやとりの実技試験があり、あやとりのプロ選手になれば何億円も稼げるという。お父さんは苦笑いしながら言う。「おいおいお前、あんまりのび太に無理言うなよ、あやとりのプロ選手なんて雲の上のほんのひとにぎりの特別な才能の持ち主だけがなれるんだからさ、ははは」。のび太は、プロ選手の技をその場でやって見せ、「あんなの大したことないよ」とさらにアレンジを加えたあやとりをふたりに披露する。目を丸くするお父さんとお母さん。のび太の天才少年ぶりはまたたく間に町中の噂になる。のび太が町を歩けば知らない人たちから次々とサインを求められ、「ぜひうちとプロ契約を」とスカウトだかエージェントだかが野比家を訪問して一億円の契約金を提示する。しずかちゃんをはじめ女の子たちはみなあこがれのまなざしでのび太を見つめ、いじめっ子のジャイアンまで「今度オレにもあやとりを教えてくれよ」と羨望と尊敬のまなざしをのび太に向ける。のび太は上機嫌で言う。「いやあ、なんて素晴らしい世界だろう、世界は本来こうあるべきだったんだよ」……。

 30年ぶりに見たテレビシリーズの「ドラえもん」は、予想外に風刺のきいたセンス・オブ・ワンダーの世界だった。原作よりもシナリオが緻密に作られていて、主人公ののび太は小学5年生の少年としてそれなりに複雑な内面をもった存在として描かれていた。以前のテレビシリーズののび太は、ジャイアンやスネ夫にからかわれるとすぐにべそをかいてドラえもんに泣きつくだけだったが、新しいシリーズではちゃんと言い返すのだ。さらにむくれたりおろおろしたりと表情も豊かで精神年齢が以前よりもぐっと上がった感じ。驚いたことにのび太が生身の男の子に見えるのだ。一方、ドラえもんは以前よりもちょっと駄目な相棒として描かれている。めんどくさがりでだらしなくて気に入らないことがあるとすぐ押入にこもってふて寝してしまう。そこでのドラえもんは、あくまで不思議な世界を開いてくれるのび太の友だちであって、けっして何でも夢をかなえてくれる保護者ではない。その解釈は物語の方向性として正しい。だって、ドラえもんが道具を出してすべて事件を解決してくれるのなら、それで話が終わっちゃうじゃない。道具は入り口にすぎず、その先に広がっている不思議な世界を主人公ののび太の視点を通して体験し、そこで彼が何を考え、どう行動するのかにこそ、この物語の魅力がある。のび太が近所の公園の池で恐竜の赤ちゃんを育てる話や死んだおばあちゃんにタイムマシンで会いに行く話は、読んでからもう30年以上たっているににもかかわらず、いまだに印象に残っている。ところが、はじまった当初のテレビシリーズでは、10分くらいの短編3本構成で、エピソードはきまってのび太が例の土管のある空き地でジャイアンたちにいじめられてドラえもんに泣きつくというものだった。「のび太のくせに生意気だぞー」「ドラえもーん!」というお馴染みのやりとりではじまる一連のエピソードを起承転結で示すと次のようになる。

 起 → のび太がジャイアンとスネ夫にいじめられる
 承 → のび太がドラえもんに泣きつく
 転 → ドラえもんの道具によって、のび太の望みは一時的にかなえられる
 結 → のび太は道具の使い方をまちがえてしまい、最後にしっぺ返しを食う

 ほとんどのエピソードでこのプロットがくり返される。その記号化された世界では、のび太もドラえもんもジャイアンもスネ夫も書き割りか舞台装置にしか見えない。君たちは虫かよって感じ。10分程度の短い時間では、ドラえもんがポケットから取り出す道具は、話の山場であり、同時に話のオチでもある。そこから先に物語が展開していくことはない。もう30年以上もつづいているテレビシリーズなので、テレビアニメから「ドラえもん」に入ったこどもたちのほうが多いのかもしれないが、原作の愛読者だった小学生の私は、すぐにを見るのをやめてしまった。道具の向こう側に物語のない「ドラえもん」なんて、鼻でもほじって寝てるほうがずっとマシだった。ところが、先日見た新しいテレビシリーズでは、その後の30年間の変化なのか、リニューアルされた影響なのか、登場人物たちは生身の人間として動いていて、「その先にある不思議な世界」がていねいに描かれていた。驚きである。新しくなった主題歌も良かった。テレビの「ドラえもん」、少し見なおしました。

■ A piece of moment 2/19

 1989年、リトアニアの首都ヴィリニュスに64体の遺体が空輸された。50年前、スターリンの強制移住によってシベリアへ送られた男たちが、今度はゴルバチョフのペレストロイカによって祖国への帰還が認められたのだった。棺の中の男たちはみな若いときの面影をそのままとどめていた。彼らはシベリアでの過酷な強制労働でまもなく死亡し、永久凍土の中で半世紀の間眠っていた。しかし、棺の前で泣き崩れる妻たちには、50年の歳月が刻まれている。深いしわと曲がった腰と白くなった髪。棺の中の男たちは、戦後のリトアニアで妻がどのように生きてきたかを知らないまま、無邪気な若者の姿で眠っている。母親に付き添っていた息子は、自分よりも若い父親の姿を不思議そうに見つめていた。

 「百万本のバラ」という歌がある。女優に恋をした貧しい絵描きがかなわぬ思いをバラの花に託し、家財を売り払って集めた赤いバラの花で町中を埋め尽くそうとする歌である。日本では加藤登紀子が歌ってヒットした。私は古いシャンソンかロシア民謡が元になっているんだろうと思っていたが、実際は1982年にソ連で流行ったポップスだそうで、そう古い歌ではない。ただ、このロシア語の歌にはさらにオリジナルがあって、前年にラトビアで作られた歌が元になっている。この「マーラ(マリア)が与えた人生」というタイトルのラトビア語盤には、まったく違う歌詞がつけられている。「こどもの頃、泣かされると、母に寄り添ってなぐさめてもらった、そんなとき母は微笑みを浮かべてささやいた、神は娘に命を与えてくれたけど幸せはあげ忘れた……」。そんな娘の幸せへの願いが歌われている。以前、「世界ふれあい街歩き」というテレビ番組を見ていたら、この歌を作詞したというおじさんが出てきて、この歌はラトビアの歴史をひとりの娘の人生にたとえて歌っているんだよと話していた。周りの国々の思惑に振り回され、大国に支配されてきた小さな国の悲しい歴史の歌なんだと。
 →「マーラが与えた人生」 ラトビア語の歌詞と解説、原曲のMP3ファイル

 1989年、バルト三国では、「人間の鎖」というデモが行われた。ソ連からの独立と言論の自由を求めるこのデモは、エストニア、ラトビア、リトアニアで同時に行われ、あわせて約200万人が参加したといわれる。通りに出た人々は互いに手をつなぎ、バルト三国を横断する600kmにおよぶ鎖をつくった。バルトの人々の連帯を示すその行為は、ソ連の戦車隊の侵入を拒否する意思表示でもあったのかもしれない。ハンガリー動乱やプラハの春の時と同じように再び戦車隊が投入され、軍によるデモの制圧が行われるのか、連日テレビニュースはバルト海の小国の緊迫した状況をトップニュースとして報道しつづけた。結局、クレムリンは軍事制圧を断念し、バルト三国は東欧革命と呼応して独立の道を歩んでいった。圧政に抵抗して立ち上がる人々の姿は常に胸をうつ。ただ、難しいのは、安心して暮らせる自分たちの国がほしいという願いは、しばしば自分たち「だけ」の国がほしいというナショナリズムに飲み込まれてしまうことだ。実際に第二次大戦下のリトアニアでは、親ナチスの民族主義政権によって、20万人のユダヤ人が虐殺されている。その数は当時リトアニアに暮らしていたユダヤ人の9割にものぼる。ナチスの圧力に屈して嫌々やったわけではない。リトアニア人「だけ」のリトアニアを建設するためには、ユダヤ人は排除すべき異分子だったのである。このころのバルト三国では、親ナチスの民族派と親ソ連の共産党員との間で権力の綱引きが繰り返されていて、民族派が権力を握れば、ユダヤ人の虐殺と共産党員の弾圧が行われ、共産党が権力を握れば、共産主義に批判的な人々は「人民の敵」と見なされ、刑務所かシベリアでの強制労働が待っていた。それを思うと「圧政に抵抗する民衆」というナイーブなイメージは、おとぎ話の中のものに見えてくる。ソ連からの独立をはたしたバルト三国では、再び民族主義的な政策がとられており、ソ連時代に移住してきたロシア人たちを追い出すため、独立から20年がすぎたいまも彼らに国籍を与えていない。
 → Wikipedia「人間の鎖」
 → Wikipedia「リトアニアにおけるホロコースト」

■ A piece of moment 2/25

 夜中に古いCDを引っ張り出してトム・ウェイツを聴く。
 トム・ウェイツ1985年のヒット曲「Downtown Train」はこんな歌詞。

Downtown Train  Tom Waits 1985

Outside another yellow moon
Punched a hole in the nighttime, yes
I climb through the window and down the street
Shining like a new dime
The downtown trains are full
With all those Brooklyn girls
They try so hard to break out of their little worlds

You wave your hand and they scatter like crows
They have nothing that will ever capture your heart
They're just thorns without the rose
Be careful of them in the dark
Oh if I was the one
You chose to be your only one
Oh baby can't you hear me now

Will I see you tonight
On a downtown train
Every night its just the same
You leave me lonely, now

I know your window and I know its late
I know your stairs and your doorway
I walk down your street and past your gate
I stand by the light at the four way
You watch them as they fall
They all have heart attacks
They stay at the carnival
But they'll never win you back

Will I see you tonight
On a downtown train
Where every night its just the same
You leave me lonely
Will I see you tonight
On a downtown train
All of my dreams just fall like rain
All upon a downtown train


外には黄色い月
夜空に丸い穴を開けている そうさ
俺は窓から通りへ出る
通りは真新しい10セント硬貨みたいに輝いている
ダウンタウン・トレインは満員
ブルックリンの女たちで
彼女たちは自分の小さな世界から抜け出そうと必死だ

君が手を振ると連中はカラスのように散っていく
連中は君の心をとらえるものを何ももっていない
連中は棘だけの茨みたいなものだ
暗闇の中で連中に出くわしたときは気をつけたほうがいい
ああ もし俺がその中のひとりなら
君の特別な男になれるのに
ああ愛しい女よ もう俺の声が聞こえないのか

今夜 君に会えるだろうか
ダウンタウン・トレインで
毎晩ずっと同じだった
君が去ってから俺はずっと孤独だった

どれが君の窓か知っている もう遅いことも知っている
どれが君の階段かどれが君のドアかも知っている
君の通りを歩いて門を通り過ぎる
俺は四つ角の街灯のところに立ってる
君は連中が倒れるのを見ている
連中はみんな心臓発作だ
大騒ぎの中で
でも 誰も君を取り戻せない

今夜 君に会えるだろうか
ダウンタウン・トレインで
毎晩ずっと同じだった
君が去ってから俺はずっと孤独だった
今夜 君に会えるだろうか
ダウンタウン・トレインで
俺のすべての夢が雨のように降っている
すべてのダウンタウン・トレインの上に

 歌の中の「ダウンタウン・トレイン」は通りで客引きをしている娼婦たちのことなんだろう。ブルックリンの夜の女たちは、まるで列車のように通りにずらっと並んで派手な化粧と安っぽい色気で客を誘っている。通りを行く男たちはひやすばかりで客はなかなかつかまらない。ああ、俺がそこにいたら、きっとおまえの特別な男になれるのに。なんでこんなことになっちまったんだろう、あの時、なんであんなくだらないことでおまえを罵って殴っちまったんだろう。でも、男は自分の思いがもう届かないことも、やりなおすにはもう遅すぎることもわかっている。そんな愛すべきアバズレ女とろくでなし男の場末の恋の物語。トム・ウェイツの代表曲で、その後、何度もカバーされた。訳は「君」より「おまえ」のほうがいいかな。あと、最初の「they」を「ブルックリンの娼婦たち」、二つ目以降を「その客たち」と解釈して訳したけど、微妙に意味がとれない。「棘だらけのイバラ」はブルックリンの女たちにこそふさわしいと思うんだけどどうでしょう。歌詞を訳しながら、以前アパートの隣の部屋にすんでいた土建屋のにいちゃんと彼の恋人のことを思い出した。彼らもしょっちゅう通りに響くような大声でけんかしていたけど、その後、うまくやってるんだろうか。

 夜中にトム・ウェイツのしわがれ声を聴いていたら妙に人恋しい気分になった。ジョンがこの歌を好きだと言っていたけど彼は元気だろうか。


 もう一曲、トム・ウェイツ。やはり1985年の歌。「Hang Down Your Head」。

Hang Down Your Head  Tom Waits 1985

Hush a wild violet
Hush a band of gold
Hush you're in a story I heard somebody told
Tear the promise from my heart
Tear my heart today
You have found another
Oh baby I must go away

So hang down your head for sorrow
Hang down your head for me
Hang down your head tomorrow
Hang down your head Marie

Hush my love the rain now
Hush my love was so true
Hush my love a train now
Well it takes me away from you

So hang down your head for sorrow
Hang down your head for me
Hang down your head
Hang down your head
Hang down your head Marie


静かに 野のスミレ
静かに 黄金の絆
静かに 誰かがおまえの噂をしてるのを聞いたんだ
俺との誓いを踏みにじったって
俺の心を引き裂いたって
おまえは他の男を見つけたんだな
愛しい女よ 俺は出て行かなきゃならない

悲しみでうなだれてくれ
俺を想ってうなだれてくれ
うなだれてくれ 明日
うなだれてくれ 愛しいマリー

静かに 俺の愛 雨とともに
静かに 真実だった愛よ
静かに 俺の愛 列車とともに
さあ おまえの元から遠くへ連れて行ってくれ

悲しみでうなだれてくれ
俺を想ってうなだれてくれ
うなだれてくれ
うなだれてくれ
うなだれてくれ 愛しいマリー

 これもやはり愛すべきアバズレ女とろくでなし男との場末の恋の物語。男は女の裏切りを知って去って行く。飛び乗った列車は中西部の荒れ地の風景の中を走る。女と暮らした町が地平線の彼方へ遠ざかっていく。男は心の中で語りかける。愛しい女よ、俺たちの愛が真実だったのなら、去って行った男のことを想ってうなだれてくれと。そんな寝取られ男のみじめな思いが陽気なメロディーに乗せて歌われる。さて、愛しのマリーさんはどうするんでしょうねえ。出て行ったろくでなしを想って酒場で酔いつぶれるんでしょうか、それとも清々したよと高笑いするんでしょうか。どちらにしても、トム・ウェイツの歌に登場する女には、そこでめそめそ泣くような恋愛小説のヒロインみたいなのは想像しにくい。トム・ウェイツの歌は、粗野で飲んだくれだけど妙に純情な男たちと、だらしなくて明日の見えない暮らしをしてるけど情に厚い女たちの物語だと思う。これも好きな歌で、ときどきサビのフレーズがアタマの中で無限ループすることがある。ただ、シングルカットされていないはずなので、それほど知られていないのかと思っていたら、Youtubeのコメント欄には大量の書き込みがあってちょっとびっくり。この情けなくてみじめで切ない歌を愛している人がそんなにいるなんてね。きっと全員おっさんだろう。トム・ウェイツの歌が好きだという女には出会ったことがない。ところで、ふたつめのフレーズの「a band of gold」がなにかの比喩かと思って調べてみたけどわからなかった。ここではとりあえず「ふたりの絆」と解釈して訳してみた。


 さらにトム・ウェイツ。1983年の歌で「In the Neighborhood」。これもone of the best。

In the Neighborhood  Tom Waits 1983

Well the eggs chase the bacon
round the fryin' pan
and the whinin' dog pidgeons
by the steeple bell rope
and the dogs tipped the garbage pails
over last night
and there's always construction work
bothering you
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood

Friday's a funeral
and Saturday's a bride
Sey's got a pistol on the register side
and the goddamn delivery trucks
they make too much noise
and we don't get our butter
delivered no more
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood

Well Big Mambo's kicking
his old grey hound
and the kids can't get ice cream
'cause the market burned down
and the newspaper sleeping bags
blow down the lane
and that goddamn flatbed's
got me pinned in again
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood

There's a couple Filipino girls
gigglin' by the church
and the windoe is busted
and the landlord ain't home
and Butch joined the army
yea that's where he's been
and the jackhammer's diggin'
up the sidewalks again
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood


そう 卵がベーコンをフライパンの周りで追いかけてる
それにくんくん鳴いてる犬
教会の尖塔のベルとロープの脇の鳩たち
犬たちは一晩中ゴミ箱をひっくり返していた
それにいつも工事中で悩ませられる
それがうちの横町
それがうちの横町
それがうちの横町

金曜は葬式
土曜は花嫁
セイはレジスターの脇でピストルを持っていた
それに配送のくそったれトラックがやたらと騒音をたてる
俺たちのバターはもう届かない
それがうちの横町
それがうちの横町
それがうちの横町

そう ビッグ・マンボが年寄りのグレイハウンドを蹴っとばしてる
こどもたちはもうアイスクリームをもらえない
だって市場は火事で焼けちまったから
吹きっさらしの通りで新聞紙が寝袋
それにあのくそったれトラックがまた俺を縛り付ける
それがうちの横町
それがうちの横町
それがうちの横町

フィリピン人の女の子たちが教会で笑ってる
窓は割れちまって店の主人はいない
ブッチは軍隊に入っちまった
ああ どこにあいつはいるのやら
削岩機がまた歩道を掘り始めやがった
それがうちの横町
それがうちの横町
それがうちの横町

 この南部なまりで歌われる「荒れ放題のうちの横町」で何を連想するか。もちろんトム・ソーヤーとハックルベリー・フィンの物語、それとトムやハックの目から見た南部の人々の暮らしぶり。そんなマーク・トウェインの頃と大差のない暮らしをしている南部のレッドネックたちの浮き草ぐらしがブラスバンドふうの演奏に乗せてノスタルジックに歌われる。ただ、トム・ウェイツが南部や中西部の貧乏人たちに人気があるという話は聞いたことがない。彼らにとってその荒廃はもっとリアルなものなんだろう。だから、トム・ウェイツは東部の都市部やヨーロッパで人気があって、知り合いのイギリス人はなぜかみんなトム・ウェイツの歌が好きだ。知り合いじゃないけど、ピーター・ガブリエルもエルビス・コステロもトム・ウェイツの歌を「美しい」と言う。アニマルズの「朝日のあたる家」もそうだったけど、アメリカ南部の貧乏暮らしは、ロックファンのイギリス人を惹きつけるものがあるようだ。

 ハックルベリー・フィンの物語は、この歌に限らず、すべてのトム・ウェイツの歌の根底に通じている。ハックの目から見た人々の暮らし、ハックの目に映るおとなたちの偽善と偏見、ハックの思う地平線の向こうにある自由と希望。トム・ウェイツの歌に登場する男たちは、みんなその後のハックルベリー・フィンなんだと思う。トム・ソーヤーの場合、その後ちゃっかり地元の名士に収まって「いやあ俺も昔はずいぶん悪さをしたもんだよ」なんてチョイワルを気どる嫌みなおっさんになってそうだけど、ハックがカントリークラブの会員になってゴルフをしている姿は想像できない。トムと違って帰る家のないハックルベリー・フィンは、ジムと別れた後も地平線の彼方にある自由を求め続けているはずだ。


 最後にもう一曲。1985年の「Time」。ある町での出来事を子守歌のように歌う。「子供たちをよろしく」という路上で暮らすこどもたちを描いたドキュメンタリー映画の主題歌にもなった。これもトム・ウェイツのone of the bestだと思う。他の歌より歌詞が抽象的なんで少し堅めに訳してみたけど、後半、なんの比喩を表してるのかよくわからなくなってしまった。

Time  Tom Waits 1985

Well, the smart money's on Harlow
And the moon is in the street
The shadow boys are breaking all the laws
And you're east of East St. Louis
And the wind is making speeches
And the rain sounds like a round of applause

Napoleon is weeping in the Carnival saloon
His invisible fiance is in the mirror
The band is going home
It's raining hammers, it's raining nails
Yes, it's true, there's nothing left for him down here

And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
That you love
And it's Time Time Time

And they all pretend they're Orphans
And their memory's like a train
You can see it getting smaller as it pulls away
And the things you can't remember
Tell the things you can't forget that
History puts a saint in every dream

Well she said she'd stick around
Until the bandages came off
But these mamas boys just don't know when to quit
And Matilda asks the sailors are those dreams
Or are those prayers
So just close your eyes, son
And this won't hurt a bit

Oh it's Time Time Time
And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
That you love
And it's Time Time Time

Well, things are pretty lousy for a calendar girl
The boys just dive right off the cars
And splash into the streets
And when she's on a roll she pulls a razor
From her boot and a thousand
Pigeons fall around her feet

So put a candle in the window
And a kiss upon his lips
Till the dish outside the window fills with rain
Just like a stranger with the weeds in your heart
And pay the fiddler off till I come back again

And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
That you love
And it's Time Time Time


そう ハーロウには罰金が科せられてる
通りには月がかかってる
不良少年たちはことごとく法律を破ってる
ここはイースト・セントルイスの東
風が話をしている
雨音が喝采のように響いている

ナポレオンが大騒ぎの酒場で泣いている
彼の見えない婚約者は鏡の中
バンドの連中はもう帰ろうとしている
雨は降り続いている 打ちつけるように 突き刺さるように
そうさ ここにはもう何も残っていないんだ

時よ 時よ
時よ 時よ
時よ 時よ
愛する時がきたんだ
時よ 時よ

誰もが孤児のふりをしている
思い出は列車のよう
遠ざかるにつれて小さくなっていく
思い出せないこと
忘れられないこと
そんな過去が夢の中に聖人を送り込む

そう そばにいてあげると彼女は言った
包帯がとれるまで
でも そんなママっこの少年は際限を知らない
マチルダが船乗りに尋ねる
それは夢 それとも祈り?
目を閉じろ 息子よ
少しも痛くないから

ああ 時よ 時よ
時よ 時よ
時よ 時よ
愛する時がきたんだ
時よ 時よ

そう カレンダーガールにはひどい出来事だ
少年たちは車から飛び降り
道ばたで泥をはねる
彼女は調子に乗って
ブーツからカミソリを取り出した
そして千羽のカモは彼女の足下に落ちた

キャンドルを窓辺において
彼の唇にキスしてやりな
窓の外ではいい女が雨に濡れている
君の取り巻きとは見知らぬ仲のように
俺が帰ってくるまで褒美はやらないように

時よ 時よ
時よ 時よ
時よ 時よ
愛する時がきたんだ
時よ 時よ


【おまけ】
 → Youtube : すっかり禿頭のおじいさんになったピーター・ガブリエルが歌う「In the Neighborhood」
 → Amazon : Tom Waits "Rain Dogs" べつに当方へアフィリエイトは発生しません

■ A piece of moment 2/27

 ここ数年、知らない人からの感想や文句のメールがほとんど来なくなりました。ブログとSNSが普及したせいで、知らない人にメールを送ることの敷居が高くなってる感じです。さらにツイッターの普及で、ネットのコミュニケーションとしてメールの使用頻度自体も減ってるんじゃないかと思います。このWebサイトはそれほど頻繁に更新しているわけではないので、文章を書くだけなら原始的なHTMLの「ホームページ」で十分なんだけど、あんまり反応がないのもモチベーションが低下するし、いまさらだけどこの更新記録と近況報告をブログへの移行することにしました。トラックバックや自動生成リンクといったお仕着せのつながりで囲い込まれる感じがちょっと苦手ですが、多機能で使いかっては良さそうです。コメントも投稿できます。
 → box96


●●
●●
 
・ box96 index ・