MISTRAL

Still Love 2


 土の曜日の聖殿は静かである。
 女王候補の依頼も受け付けてくれないが、聖殿にすら入ることが出来ないのが主な理由だ。
 ロザリアは、通り掛かりの男の人にアンジェリークを部屋まで運んで貰い、あとをばあやに任せて来ていた。…が、余りに慌てていた為、聖殿に行っても守護聖が居ないことを忘れていたのだ。
 聖殿の門に寄り掛かり、肩で息をする。余り走り慣れない為か、息が苦しい。
「おや、お嬢ちゃん。そんなに息を切らしてどうした?デートは明日だぜ。そんなに俺に会いたかったのか?」
 運良く通り掛かったのは、遠乗りから帰って来たオスカーだった。
「オスカー様。あの子が、アンジェリークが大変なんです!私、どうしたらいいか…」
 珍しく取り乱すロザリアに、オスカーも真剣な顔つきに変わる。とにかく落ち着かせようと、馬から降りて少女の両肩に手を置いた。
「いいか。落ち着いて話してくれ。今、アンジェリークはどこに居て、どんな状態なんだ?」
 俯きながら、涙を堪えてゆっくり言葉を探す。
「今は、寮にいます。祈りの滝の岩に触ったら、倒れてしまって…意識が戻らないんです。今はうちのばあやが看てますが、どうしたらいいか判らなくて。それで守護聖様に御相談申し上げようと伺ったのですが、今日が土の曜日だってこと忘れてまして…」
「よし、良く出来たな」
 オスカーは、サッとロザリアを抱き締めた。それが安心させる最善の方法だと、経験上知っているからだ。
「あとは、俺に任せてくれ。他の守護聖にも協力を仰ぎ、原因を究明する。お嬢ちゃんは、アンジェリークの側についててやってくれ。親友だろ?」
 オスカーの極上の笑みは、不安な気持ちを吹き飛ばす力がある。
「はい。オスカー様」
 ロザリアはいつもの気丈さを取り戻し、寮へと戻って行った。

      

 ロザリアの後ろ姿を見送りながら、オスカーは聖殿の門を開けた。
「この時間なら、ジュリアス様はまだ執務室だろうな」
 土の曜日は、視察の日だ。女王候補が視察から帰ったあとのデータの処理をしてから、私邸に帰ることを日課としている。
 愛馬を門に繋ぎ、ジュリアスの執務室へと向かう。
「ジュリアス様。お出ででしょうか?」
 軽くノックをしたあと、取っ手に手を掛ける前に扉が開いた。
「どうした?オスカー」
 いつもなら声だけ掛けて来訪者を待つジュリアスが目の前に居て、オスカーは一瞬驚く。
 休日の為か額のサークレットを外し、正装でもない。それなのに眩しく感じられるのは、身の内にある黄金のサクリアのせいか…。
「オスカー」
 いつまでも用件を言わないオスカーに、ジュリアスは苛立ちを覚えた様だ。
「すいません。ジュリアス様。実は、アンジェリークが意識不明になったという連絡を受けまして…」
「なに!緊急事態なら何故早くそう言わぬ!」
 強く叱責して、オスカーを室内へと導く。
「とにかく、報告を聞こう。対策はそれからだ」
「はい。畏まりました」

      

「ではまだどういう状態かは判らぬと言うことだな?」
 ジュリアスは執務机に着き、組んだ両手の上に軽く顎を乗せた。
「はい。私も聞いたばかりの話なので、確認は取れてません。しかし、異変が起きていると考えた方がいいでしょう。女王試験が終わるのを目前に控えた今ですから、陛下の御力も…」
 言いかけて、ジュリアスの視線に気付く。
「あっ…と、私はこれから『祈りの滝』の調査に向かいます。その後の指示をお願いします」
 オスカーは深く一礼すると、さっと踵を返した。
 パタン。
 扉が閉まるのを確認して、ジュリアスは静かに立ち上がる。
「…異変か」
 女王交代の時に必ずやってくるサクリアの不均衡。人々の不安な心と相俟って、負の力が増大する。
 闇の力が強くなったことに気付いたのはクラヴィスだけではなかった。対極する力を持つジュリアスもやはり感じ取ったのだ。
 自分とほぼ同時期、同年齢で守護聖の座に就いた彼はかなり強いサクリアを持っている。しかし、いくら許容量の大きな器でも、器で有る限り無限に入るものなど有り得ない。それが人間なら尚更だ。
 何を考えているか判らないクラヴィスは、どんな状況に置かれようと決してその態度を崩さない。
 そう例え辛くとも…。
「先にルヴァとクラヴィスに知らせねばなるまい」
 歳若い守護聖は状況を見て知らせないと大騒ぎになる。
 そう判断して、ジュリアスは執務室を後にした。

      

 女王候補の生活する寮の一室。
 最初に知らせを受けた守護聖二人が連れ立って訪れた。
「ルヴァ様、クラヴィス様…」
 ロザリアは辛そうに二人を招き入れた。
「アンジェリーク…」
 クラヴィスの吐息のような声が、切なそうな眼が、見る者を惹き付けた。静かにアンジェリークに歩み寄り、側に屈むまで…息をするのもはばかられる程に。
「あの、ルヴァ様。アンジェリークが意識を失う前に、”文字“って言ったんです。”触っちゃダメ“って」
 クラヴィスのことを気遣い、自然と小声になる。
「危ないから止めたんですけど、ちょっと目を離した隙に…。私がもう少し強く止めていたらこんなことには…」
 ルヴァは、自分を責めるロザリアの肩にそっと手を置いた。
「貴女のせいではありませんよ。それより、その文字のことを詳しく話してくれませんか?彼女を救う方法が見付かるはずです」
「はい。判りました」
 ロザリアは部屋の中央のテーブルへ着き、ルヴァにも椅子を勧めた。
「森の湖にある『祈りの滝』。その滝の向こうに岩が見えるんです。見過ごしそうな程小さく、記号か文字のような物が彫ってあって…。それに触れた途端、アンジェリークは倒れたんです」
 祈りの滝…。恋人たちの湖に近いこの滝は、神秘的な力のせいか訪れる者が多い。その滝でこのようなことが起きるなど以ての外だ。
「…それで、どんな文字でしたか?」
 ルヴァは逸る気持ちを抑えながら、ロザリアの方に身を乗り出す。
「アンジェリークは文字って言ってましたけど、なんか記号みたいな不思議な字でしたわ」
 ルヴァは持っていた手帳を取り出し、何も書いていないページを開いてロザリアに向ける。
「どんな文字だったか、ここに書いてみて下さい」
 ロザリアは手帳を受け取り、記憶を辿った。
「…確か、アルファベットのRに似てたと思うんですが…」
 縦に一本線を引いて、右側を何度か空で描く。
「そう、こんな字でしたわ」
 手帳に書かれたのは、
ラド
 発音も意味も不明な一つの文字だった。
「あともう一文字。アルファベットのXか×か判らない字があったんです」
 ロザリアは、ベッドに横たわるアンジェリークの側に歩み寄った。
「見て下さい」
 そう言って、布団に隠された少女の右手を引っ張り出す。
 その手には白い包帯が巻かれていた。
「怪我をしたんですか?」
 ルヴァは慌てて席を立つ。
「…いえ」
 ロザリアはアンジェリークの包帯に手を掛け、一気に引き抜いた。
「…これは…」
 アンジェリークの手の甲に、赤い字が浮き出ていた。アルファベットでいうところの『X』。それがマジックで書いたようにくっきりと、しかし入れ墨のように深く刻まれている。
 余りに禍々しく、見ていられないと思ったロザリアが包帯で隠していたのだ。
「アルファベットですかね。それとも別の意味が隠されているのか…」
 ルヴァがアンジェリークの手を見ながらポツリと呟く。
「アンジェリークが意識を失ってから、浮き出てるのに気が付いたんです。何の印か判らないんですけど、私、怖くて…」
ギューフ…ギューフ…」
 アンジェリークの手に触れ、クラヴィスは眉をしかめた。
「クラヴィス、今、なんて言いました?」
 ルヴァは囁くようなクラヴィスの声を聞き逃さなかった。
「古代の魔術文字で『生け贄』を意味する」
「生け贄!」
 ルヴァはことの深刻さに息を呑む。
「何者かが彼女を生け贄に選んだということですか?」
「…そういうことになるな」
 クラヴィスは両手でアンジェリークの手を包んだ。
「…何の為の生け贄なんでしょうか。一体誰が…」
「判らぬ。だが、知識を持たずに使ってるわけではないようだ」
 クラヴィスの言葉にルヴァは、ハッと顔を上げた。
「ではクラヴィス。貴方はこの文字が何を意味するのか判るのですか?」
 さっきロザリアが書いた文字を、クラヴィスの方へ向ける。
ラド…ラド。死者の復活」
 ルヴァは目を見開いた。
「…いずれにしても彼女が危険に晒されている事に変わりはないですね」
 どうしたら彼女を救えるのか…。
 コンコン。
 その時、ノックの音がした。
「はい」
 返事をしたのは部屋の主ではなく、ルヴァだった。
「失礼します。アンジェリークの様子はどうですか?」
 森の湖へ調査に行ったオスカーが心配そうに立っていた。
「オスカー、森の調査はどうでしたか?」
「…それが、何も異常がなかったんだ。湖、滝、岩など隅々まで探したんだが…」
 顎に拳を添え、不審そうに首を傾げる。
「滝の向こうの岩は?アンジェリークも私も文字が彫ってあるのを見ましたのよ。気付かないはずがありません」
 ロザリアが必死に主張する。
「…残念だが、俺には判らなかったんだ」
「…女王候補にしか見えない文字…」
 何気なく言ったルヴァの言葉に、全員が目を丸くした。
「…最初から、ターゲットは二人に絞られていた…ということか」
 もしもそうだとしたら納得がいく。
「…どちらにせよ、向こうの動きが判らないのでは対策の立てようがない。ここは様子を見るという事にしては如何でしょうか、クラヴィス様」
 クラヴィスはアンジェリークの手を布団の中へ戻して、静かに立ち上がった。
「…その方がよいだろうな」

      

 守護聖三人は、夜中まで女性の部屋にいるのは良くないということで、寮の食堂で待機することになった。ロザリアは責任を感じてか、アンジェリークの側を離れようとしない。
「…早く起きなさい。ほんと、いつまで寝てるの?いつまでもそれじゃ、補佐官なんて務まらなくてよ」
 憎まれ口を叩くが、アンジェリークの様子は変わらない。
「…クラヴィス様のあんな切なそうな顔、初めて見たわ。あれほど思われてるのに、心配ばかり掛けて…」
 ロザリアはアンジェリークの布団に頭を乗せた。
 時計の針は深夜一時を少し回っていた