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今回は、バークシャー州にあるカレッジに留学していた頃のことに触れたいと思います。当時は日本の大学にまだ在籍中で、その合間を縫っての渡英だったため2学期間だけでしたが、留学に興味のある方、向こうの学校ってどんな感じ?と思われている方の参考になれば嬉しく思います。ちょっと長い(そして重い)ですが、よろしければおつき合いくださいませ。





バークシャー留学記(Berkshire, England)

新学期が始まったのは、9月ももう終わろうとしている頃。日本ではこの時期はまだそれほど涼しくはならないが、英国では涼しいどころかかなり冷え込んでくる。たびたびしとしとと雨が降り、降るごとに冷え込みが深くなるといった感じ。


英国の天気というと大抵の人が「陰気で雨ばかり降っている」と言うけれど、日本のようにざあざあ降ったり一日中雨ということはあまりない。一日のうちに四季があると言われるように、朝起きると快晴、朝食を食べ終わった頃にはあやしげな雲が出てきて昼前にはぽつぽつ降り出し、昼食を終えて外に出ると雲が切れて青空が拡がり、ああ今日は気持ちのいい日だったね、ということもしばしば。気温の上り下がりも結構激しい。曇りのち雨のち晴れところにより雷、などという予報がしょっちゅう出ている。当たるかどうかは別として、この情況で天気予報を出す気象台の人たちは大変だろうと思う。 たまに大時代的なソフト帽(さすがにシルクハットはいない)を被ったおじさんが細身の洒落た傘を持ち歩いたりしているが、降っても長続きしないのを皆知っているので、大抵の英国人はちょっとやそっとの雨では傘をささない。初めの頃天気予報でしょっちゅう'patchy shower'という表現を耳にして??と思っていたが、つまり「ところによりにわか雨」ということで、さあっと降って終わるのでrainというよりshower。ちょっと降った後には陽が照ってきて虹がかかることもしばしば。この写真は寮の部屋の窓から取ったもの。わたしたちはよく誇らし気に「日本には美しい四季がある」と外国人に向かって言うが、英国にだってもちろん四季があるし、紅葉も美しい。



カレッジ自体はそう古くはないし規模も大きくない(その割には当時約400人の生徒がいた...)が、かつて地元の裕福な一家が住んでいたところを買取って使っているので、敷地は広い。学生は基本的には敷地内の寮に入るが、学外の一般の家庭にホームステイしたり、家を借りたりするひともいる。年齢も下は16歳くらいから50代以上の人までさまざまなので、当然結婚して子供がいる人もいる。家族と一緒にきていたり、また夫婦で学生になっている人たちは、いくつか部屋のある独立したセクションに住んでいる場合もある。左に写っている建物は当時の家をそのまま残してあるもので現在は女子寮になっているが、この建物はカレッジのシンボルにもなっていて寮長(dean(s)、男性と女性ひとりずつ専門の職業として雇われていて、それぞれ男生徒、女生徒を統括している)が住んでいるため、比較的年若い女生徒たちが入っている。



カレッジは大きな村の中にあって周りはほとんど民家しかなく、一番近くの町に行くにもバス(1時間に約1・2本、時間通りにきたら今日はとてもラッキー)に10ー15分は乗らなければならないので、娯楽があまりない。そこで夜などにいろいろとダンスやスポーツなどのお楽しみがある。左は最初の学期が始まって間もなくあった「スコティッシュ・ダンスの夜」。「保存会」のような人たちを呼んで指導してもらい、希望者は誰でもその場で参加できる。右はもっと盛大なパーティで、2月の半ば...そう、St.ヴァレンタイン。クリスマスとこの時期になるとパートナー選びで生徒たちは戦々恐々となる。狭いコミュニティの中で、カップルの数は異様に(少なくともわたしにはそう思える)多い。前の学期にはだれそれとつき合っていたのに、学期が変わったら相手も替わっていた...という例も少なくない。どこの学校もこうなのだろうか。ともかくこういうパーティでは相手がいるひともいないひとも精一杯おしゃれをする。普段はハードロッカースタイルで男生徒とつるんでいるところを見るのが多かったような子(いい子だったけど)が、目のさめるようなエレガントな淑女に変身していたのには驚いた。

先に書いたように、生徒たちは買いものや息抜きにはバスで15分くらいのB町に出かけるのが一般的だった。ここは戦後発展した町らしく、近代的なビルや大きなデパートなどもあって確かに便利だったが、結局皆行動範囲が同じなので、映画に行っても買いものをしていてもどこかで見たような顔に出会わないことはまずない。わたしは学期初めに車で送ってもらうときに銀行口座を開くために立ち寄ったロンドン寄りの、カレッジから見るとB町とは反対方向のW町に行くことが多かった。こちらはずっとこぢんまりしているが昔ながらの英国の町という感じで、落ちついていて好きだった。
わたしが見る限りほとんどアングロサクソン系の白人しかいなかったので、ちんまりしたアジア人がうろうろ買いものやお茶をしているのはさぞかし奇異に映ったろうと思うが、とくにじろじろ見られたりというようなことはなくて皆普通に親切に応対してくれたので、わたしも特に自分が異質だと感じたことはなかった。これが日本だと、東京でさえ髪と肌の色が違うだけで注目の的になることがしばしばだが、こちらの人たちは内心はどう思っているかはともかく、放っておいてくれる。わたしの場合、よきにつけあしきにつけこの「放っておいてくれる」というのが一番ありがたい。いちいち自分の行動を変に意識せずに、日本にいるときと同じように「普通」に考えて動くことができるから。これが「外国にいる」と必要以上に意識して舞い上がってしまうと、あとになって激しく後悔するようなあさはかな行動をしてしまいかねない(もっとも7ヶ月以上も舞い上がった状態で生活するのも、かなりの努力がいると思う)。自分が日本人の代表などと肩ひじを張るつもりはないが、大部分の人にとっては初めて実際に目にするアジア人だろうと思うと、少なくともあまり悪い印象を持ってほしくはないと思う。基本的に日本で非常識、失礼と思われることは、どこでやっても非常識で失礼なのだ、ということは最低限忘れないようにしていた。写真の建物はもと教会か何かだったものがそのまま使われていて、今は細かく仕切られて店鋪などが入っている。


わたしが入っていた寮は一階が男性、二階が女性の混合寮で、一番新しくてきれいだがテレビがない。夕方のニュースを見るときはいつも友人と隣の男性寮のリビングルームに行かなければならなかった。どうしても個人的にテレビが見たい、というときは先の写真の女性寮に行って申し込み、いくらか払って自分の部屋までえっちらおっちら運んでくる。ここはクリスチャンの学校なので娯楽や嗜好品(アルコールや煙草など)には厳しいのだと思うが、普通の(?)学校ではもう少し融通がきくのかも知れない。



そこの二人、カメラより手元を見なさい手元を。
各寮にはそれぞれリビングルームがあって、共用の台所もある。オーブンやガスレンジ、調理器具や食器は適当に揃っているので、みんなちょこちょこ利用している。左の写真はフィンランドからの留学生たちが開いたホーム・パーティに呼んでもらったときのもの。ピザもケーキ(冷凍市販品)もおいしかったけれど、ヨーグルトに冷凍のいちご類(ラズベリー、ブラックベリーなど)を入れて混ぜただけのもの(ボウルの中のピンクのもの)が、おいしかった。手抜きでもひと手間が大切。かなりの広さがあるエリアに住んでいた40代くらいの女性の部屋を使ったので、全部で10人弱ほどのメンバーもゆったり入れた。
年齢が上の人はあまり若いルームメイトと一緒だったりするといろいろと生活習慣の違いなどで苦労することもあるため、できるだけ一人部屋を持てるよう配慮されるようだが、なかなか希望にそった部屋を確保するのも難しく、いい条件の部屋は毎年(あるいは毎学期)獲得合戦が展開されるらしい。わたしも含めた大半の生徒は二人部屋で、部屋と部屋との間にトイレとシャワーの小部屋があって、両側から入れるようになっている。使うときは自分の部屋側だけでなく隣の部屋側の鍵も閉めないと困ったことに。ひとつのバスルームを4人で使うことになるので、朝は早い者勝ち。異教徒(!)のわたしはみんなが「日没のお祈り」に出かけている夕方、ゆっくりシャワーを使うことにしていた。


このカレッジはもともと米国に本校の大学があるので、全体の比率としてはおそらく英国人よりも米国人の方が多かったと思うが、他にも実にさまざまな国から生徒がきていた。ヨーロッパ各国はもちろん、アフリカからの留学生も多い。アジアは少なくて、最初の学期は日本人はわたしを入れて3人ほどだった。2学期になって7人に増え、話す機会が多くなったのでよく一緒に集まったりもした。英語学習の観点からはあまりよくないかとも思うが、年の若い子などはホームシック気味だったりしたので、安心して日本語を使える時間があったのはある意味でよかったのかも知れない。左の写真はみんなで「日本食の会」を開いたときのもの。ちらし寿司(米は友人が中華街で買った中国米)や肉じゃがなどを作った記憶がある。まさか英国の田舎で肉じゃがを作ることになるとは思いもしなかった。


わたしはスクール・オブ・イングリッシュに入っていたため通常の学部とは少しシステムが違うのかも知れないが、クラスの担当教員(tutor)が学期ごとに個人面談の機会を持って、勉強のほかにも学内の生活のこと、個人的な悩みの相談などにも乗ってくれる。わたしのクラスのチューターは授業は厳しいながらも「アメとムチ」の使い方をよく心得ていて教師としても優秀だったが、ジャーナリストとして仕事したこともあるということで広い見識を持っていて、人間としても尊敬できる女性だった。クラスは学期の初めに実力テストをしてその結果で分けられるが、授業を受けるうちにそのクラスよりも実力があると判断されれば学期の中途でも上級クラスに上がることができるし、もちろんその逆もあり得る。そのほかは基本的にクラスは学期ごとに持ち上がりで、例えば1学期目に中級のAクラスなら次の学期には上級のBクラスに担当教員ごと昇格する。日本の大学の英会話クラスとは違って皆「もっと英語を勉強したい、もっと知りたい」という意気込みが違うので、授業は常に活気があって質問や疑問が飛び交い、一瞬も気が抜けない。わたしのいたクラスは先生のリードがいいせいか、他に比べてもまとまりがよくいい雰囲気だったように思う。
生徒はほとんどが寮生活であまり普通の家庭の雰囲気を知る機会がないためか、チューターが自分の家に生徒たちを招待したりもする。右の写真はそのときのもの。ギターを弾いている彼はルーマニアからの留学生ですでに牧師の資格を持っていたが、英語を勉強するためわたしと同じクラスに入っていた。ユーモアがあって話題も豊富だった彼とは授業の合間などによく話したが、この頃のルーマニアはチャウシェスク政権崩壊から日が浅かったので、国内の情勢も今に比べてもまだだいぶ不安定だったらしい。2学期目には奥さんと小さい娘さんも来て一緒に住んでいたようだった。英国よりも経済状態のよくない国などから来ている生徒たちの中には、勉強を続けたくても学費が払えなくて国に帰らざるを得なくなる人も少なくない。親の全面的援助でなんの心配もなく勉強に専念できた自分は、とても恵まれて、またとても甘やかされているのだと思う。

彼が初めて「素敵」に見えたとき。





というわけで、滞在中に体験したことや思ったことなどの一部分を思い出すままに記してみましたが、いかがだったでしょうか。もし(もし、ですが)ほかにも「こんなときはどうするのか」「こういう面はどうなのか」など知りたい、というご意見などあれば、続編もあるかも...また「わたしが見た英国はもう少し違った」と思われる方もぜひご意見をお寄せくださいね。



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