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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

◆ カナヤマ 天璋院 ・篤姫ガイドブック。

     KANAYAMA’S LADY ATSUHIME 

     GUIDEBOOK

 

 

   (Kjhh)41524

  カナヤマ  

  天璋院・篤姫

  関連 年代順

  出来事ブック。 』

 

 

  ■ パソコン(PC)、 携帯用パソコン(PC)、

     タブレット端末(PC)(iPad、他)、

     スマートフォン(iPhone、他)、

     ウェアラブル端末、 スマートテレビ用

        インターネット向 電子書籍。

 

 

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メ ニュー (目次)。    

■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。

 

 

 □ 天璋院・篤姫・大奥

    関連年代順 出来事

       ブック (総合)

 

 

 □ 天璋院 篤姫 関連

       年代順出来事

       (各年・詳細)

 

 

 □ 天璋院 篤姫 関連

    出来事(概要・総合)

 

  □ 天璋院篤姫 関連出来事

        (概要・テーマ別各事柄)

 

   □ 天璋院・篤姫の活躍

     (各時期別・詳細)

 

    □ ≪1835年〜1856年≫

       徳川将軍家輿入れ前の篤姫

 

    □ ≪1856年〜1858年≫

       13代将軍 ・家定の正室夫人

      時期の天璋院 ・篤姫

 

    □ ≪1858年〜1866年≫

      14代将軍 ・家茂治世時期の

      天璋院・篤姫

 

    □ ≪1866年〜1868年≫

      15代将軍・慶喜治世時期の

      天璋院・篤姫

 

    □ ≪1868年〜1883年≫

      江戸城無血開城後の天璋院 ・

      篤姫

 

   □ 江戸幕府・大奥の概要。 

 

   □ 幕末、明治初期の情勢

      (1853年〜1877年)

 

 

  □ 天璋院・篤姫 ガイドブック

 

   □ 璋院・篤姫の一族。

 

 

 ■ 天璋院・篤姫と同時代近くの関係史料。  

 

   □ 天璋院 (島津篤子、篤姫) 

          画像  No.1

 

   □ 明治維新活躍人物 

      画像アルバム No.1

 

   □ 江戸幕府・大奥 ガイドブック。 

   □ 江戸幕府 大奥 関連年代順

       出来事

 

   □ 江戸幕府ガイドブック

    □ 江戸幕府 関連年代順出来事

           ブック。 

 

   □ 西郷 隆盛ガイドブック。    

   □ 西郷隆盛 関連年代順出来事

     ブック

 

 

 

 □ 天璋院・篤姫 関連出来事

    の内容

 

 

 

   

   ○ 幕末の江戸幕府の大奥の実力者の

      天璋院・篤姫 (てんしょういん・あつ

      ひめ、篤姫役:宮崎あおい)。  

   ○ ドラマ「篤姫」での天璋院・篤姫フォト

           (宮崎あおいが演じる天璋院・篤姫)。

   ○ テレビ局のドラマ「篤姫」の出版本の

      書籍販促用PRフォト。

   

 

 

 ■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

          ホームページ。   

 □ (Cse)  国際理解総合サイト     > 

         われら地球市民。 

 □ (Ke)   百科事典。           >

 □ (Khh)  歴史学ハンドブック      > 

 □ (Kjhh) 日本史ハンドブック。     > 

 □ (Kjhh)  天璋院・篤姫 ガイド      > 

          ブック。  

 □ (Kjhh)  天璋院・篤姫 関連      > 

         年代順出来事ブック。  

 □ (Kjhh)  この日本語ページ。

 

 ■ カナヤマ 主要 公式ホームページ

    略語一覧表。

   KOH  CSE   UCF   KHAS (KASH)

    CCF  KBIH   KPH    HCF  KANH

      QGN  KWDB  TTFW  TTWH  AWM

      KGJ   KJHH  KH H   KCB  KCTS

      I MB  KHIB  RH  KIOS  KE LKOH 

    GIMEH   ETCSS   GIMJH    JTCSS

 

   □ 主要サイトの略語・説明表

 

 

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□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ

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#jpcontentsofthisbook

 

◆ 天璋院・篤姫 ガイドブック

   の内容 :

 

   ■ 初学者・初心者用 オンライン 天璋院・ 

     篤姫ガイドブック (要覧)。

 

   ■ パソコン(PC)、携帯用パソコン、タブレ

     ット端末(PC)、スマートフォン、ウェアラ

     ブル端末、スマートテレビ 用電子書籍。

 

   ■ 天璋院 ・篤姫 (てんしょういん・あつひ

     め) ガイド ブック。

 

   ■ 天璋院 篤姫 の 入門 ガイド ブック。

 

   ■ 天璋院 篤姫 ガイド 初心者向 インタ

      ーネット用 オンライン 書籍 (ブック)。

 

   ■ この電子書籍1つで (この本1冊で)、 

      天璋院 篤姫のこと(概略)が、 一通り、

    わかる。

 

   ■ 江戸時代、 江戸幕府の、将軍が、

     日本を支配していた。 

         そして、大奥にいる、将軍の母

     や 夫人も、将軍と共に、日本の政治

     を動かしていた。

 

   ■ 天璋院・篤姫は、 幕末の3人の将軍

     の、13代将軍・徳川家定(いえさだ)、

     14代将軍・徳川家茂(いえもち)、15

     代将軍・徳川慶喜(よしのぶ) の良き

     相談役、後見人となり、日本の政治を

     動かした女性である。

 

   ■ TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

     ブック。

 

 

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#jphappenings

 

 

◆ 天璋院 篤姫

   関連 出来事ブック

  (総合)。

 

 

#jphappenings

 

 

   Kjhh) 

   天璋院 篤姫 関連

   年代順出来事

   ブック (総合)。

 

 

#jphappenings/eachyear

 

 

◆ 天璋院 篤姫 関連

   年代順出来事

     (詳細・各年)。

 

 ■ 天璋院 篤姫 関連年代順

    出来事 (詳細項目)。

 

  □ 1818年ー1853年の出来事

 

  □ 1853年ー1858年の出来事

 

  □ 1858年ー1864年の出来事

 

  □ 1864年ー1866年の出来事

 

  □ 1866年ー1867年の出来事

 

  □ 1867年ー1868年の出来事

 

  □ 1868年ー1871年の出来事

 

  □ 1871年ー1872年の出来事

 

  □ 1872年ー1873年の出来事

 

  □ 1873年ー1877年の出来事

 

  □ 1877年ー1878年の出来事

 

 

 

 

 

  □ 天璋院・篤姫の活躍

     (各時期別・詳細)

 

    □ ≪1835年〜1856年≫

       徳川将軍家輿入れ前の篤姫

 

    □ ≪1856年〜1858年≫

       13代将軍 ・家定の正室夫人

      時期の天璋院 ・篤姫

 

    □ ≪1858年〜1866年≫

      14代将軍 ・家茂治世時期の

      天璋院・篤姫

 

    □ ≪1866年〜1868年≫

      15代将軍・慶喜治世時期の

      天璋院・篤姫

 

    □ ≪1868年〜1883年≫

      江戸城無血開城後の天璋院 ・

      篤姫

 

 

  □ 江戸幕府・大奥の概要。 

 

  □ 幕末、明治初期の情勢

     (1853年〜1877年)

 

 

  □ 天璋院・篤姫 ガイドブック

 

   □ 璋院・篤姫の一族。

 

 

 ■ 天璋院・篤姫と同時代近くの関係史料。  

 

   □ 天璋院 (島津篤子、篤姫) 

          画像 No.1

 

   □ 明治維新活躍人物 

      画像アルバム No.1

 

   □ 江戸幕府・大奥 ガイドブック。 

   □ 江戸幕府 大奥 関連年代順

       出来事

 

   □ 江戸幕府ガイドブック

    □ 江戸幕府 関連年代順出来事

           ブック。 

 

   □ 西郷 隆盛ガイドブック。    

   □ 西郷隆盛 関連年代順出来事

     ブック

 

 

 

 

 ■ 備考。

 

  ■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H

    (いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの

    ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因

    理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理

    由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か

    り易く、説明している。

 

■ より理解を深めるために、 本史辞典の、 

  『 島津斉彬 (しまづなりあきら)、

        西郷隆盛 (さいごうたかもり)、

    大久保利通 (おおくぼとしみち)、

    木戸孝允 (きどたかよし)、

    阿部正弘 (あべまさひろ)、

    井伊直弼 (いいなおすけ)、

    勝海舟 (かつかいしゅう)、

    徳川家定 (とくがわいえさだ)、

    徳川家茂 (とくがわいえもち)、

    徳川慶喜 (とくがわよしのぶ)、

    岩倉具視 (いわくらともみ)、

    孝明天皇 (こうめいてんのう)、

    明治天皇 (めいじてんのう)、 』

   の項目も参照してください。

 

 

  ■ 西暦・和暦の記載。

  ● この年代順出来事は、

    西暦を先に、その後ろの( )内に和暦を記載

    している。 

  ● この年代順出来事に記載されている日付(年

    月日)は、 一般の歴史書で使用されているの

    と同じように、1872年(明治5年)以前は旧暦

    (太陰太陽暦)を用い、 1873年(明治6年)

    以後は新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)を用いて

    いる。 

 

  ◆ では、天璋院 篤姫 (てんしょういん・あつひ

     め)に関係する出来事を、年代順に、見てみ

    よう。

 

  ■ さあ、天璋院 篤姫に関する様々な出来事を

    見てみよう。

 

  ● 歴史学の立場から、天璋院 篤姫の生涯や

    実像(真実の姿)を見てみよう。

 

  ● 歴史学の立場から、年代を追って、天璋院

    篤姫の実像 (歴史的有名な人物には、

    虚像と実像があるが)を見てみよう。

 

  ● 現代も、過去の時代も、人間は、利害と感情

    (友愛)と理性等で行動し、富、名誉、権力等

    を手に入れるために努力する。 

       人類の歴史は、 平和と戦争の歴史で

    ある。 人は、美しき者、平和を好む者であり、

    人は、醜き者、争う者でもある。

 

 

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#jphappenings-1818

 

 

 

 ■ 1818年 (文化15年・文政元年)。 

 

   ● 文化年号から文政年号に改元。

      文政年号1818年ー 1830年。

  ■ 1818年(文化15年・文政元年)に、

    文政(ぶんせい)年号に改元。 

  ● 1818年(文化15年・文政元年)4月22日

    和暦の「文化」(ぶんか、

    文化元年・1804年〜文化15年 ・1818年

    が、

    和暦の「文政」(ぶんせい、

    1818年・文政 元年・ 4月22日

    1830年・文政13年・12月10日) に

    改元される。 

 

  ■ 江戸時代後期の各年号。

    暗記法: 文天弘嘉安万文元慶明

    (ぶんてんこうかあんまんぶんげんけいめい)。

  ● 文政(ぶんせい)年号 1818年ー 1830年。

  ● 天保(てんぽう)年号:  1830年ー 1844年。

  ● 弘化(こうか)年号   1844年ー 1848年。

  ● 嘉永(かえい)年号   1848年ー 1854年。

  ● 安政(あんせい)年号:   1854年ー 1860年。

  ● 万延(まんえん)年号:   1860年ー 1861年。

  ● 文久(ぶんきゅう)年号 1861年ー 1864年。

  ● 元治(げんじ)年号    1864年ー 1865年。

  ● 慶応(けいおう)年号:    1865年ー 1868年。

  ● 明治(めいじ)年号   1868年ー 1912年。

  ● TKKI カナヤマ著 天璋院篤姫ガイドブック

 

 

 

 ■ 1827年 (文政10年)。   

 

   ● 西郷隆盛の誕生。

  ■ 1827年(文政10年)に、西郷 隆盛  (西

    郷吉之助、生没年:1827年ー1877年)が、   

    薩摩藩 (さつまはん、現・鹿児島県の相当

    地域)の下級武士の子と して、産まれる。

  ● TKKI カナヤマ著 天璋院篤姫ガイドブック

            

 

 

 ■ 1830年 (文政13年・天保元年)。 

 

   ● 文政年号から天保年号に改元。

      天保年号1830年ー 1844年。

  ■ 1830年(文政13年・天保元年)に、

    天保(てんぽう)年号に改元。  

  ● 1830年(文政13年・天保元年)12月10日に

    和暦の「文政」(ぶんせい、

    1818年・文政 元年1830年・文政13年

    が、 

    「天保」 (てんぽう、

    天保 元年・1830年・12月10日〜

    天保15年・1844年・12月 2日) に

    改元される。 

 

  ■ 江戸時代後期の各年号。

    暗記法: 文天弘嘉安万文元慶明

    (ぶんてんこうかあんまんぶんげんけいめい)。

  ● 文政(ぶんせい)年号 1818年ー 1830年。

  ● 天保(てんぽう)年号:  1830年ー 1844年。

  ● 弘化(こうか)年号   1844年ー 1848年。

  ● 嘉永(かえい)年号   1848年ー 1854年。

  ● 安政(あんせい)年号:   1854年ー 1860年。

  ● 万延(まんえん)年号:   1860年ー 1861年。

  ● 文久(ぶんきゅう)年号 1861年ー 1864年。

  ● 元治(げんじ)年号    1864年ー 1865年。

  ● 慶応(けいおう)年号:    1865年ー 1868年。

  ● 明治(めいじ)年号   1868年ー 1912年。

  ● TKKI カナヤマ著 天璋院篤姫ガイドブック

 

 

 

 ■ 1835年 (天保6年) 11月。 

 

   ● 坂本龍馬の誕生。

  ■ 1835年(天保6年)11月15日に、坂本龍馬 

    (さかもとりょうま、生没年:1835年ー1867

    年)が、 土佐国 (とさのくに、現・高知県の

    相当地域)の土佐郡上街本町(現・高知市

    上町)の土佐藩郷士の坂直足(さかもとなお

    たり、坂本八平)の子(次男)として、産まれる。

 

 

 

 ■ 1844年 (天保15年・弘化元年)。 

 

   ● 天保年号から弘化年号に改元。

      弘化年号1844年ー 1848年。

  ■ 1844年 (天保15年・弘化元年)に、

    弘化(こうか)年号に改元。  

  ● 1844年(天保15年・弘化元年)12月2日に

    和暦の「天保」(てんぽう、

    天保 元年・1830年〜天保15年・1844年)

    が、

    和暦の「 弘化」(こうか、

    弘化 元年・1844年・12月 2日〜

    弘化 5年・1848年・ 2月28日) に

    改元される。 

  ■ 江戸時代後期の各年号。

    暗記法: 文天弘嘉安万文元慶明

    (ぶんてんこうかあんまんぶんげんけいめい)。

  ● 文政(ぶんせい)年号 1818年ー 1830年。

  ● 天保(てんぽう)年号:  1830年ー 1844年。

  ● 弘化(こうか)年号   1844年ー 1848年。

  ● 嘉永(かえい)年号   1848年ー 1854年。

  ● 安政(あんせい)年号:   1854年ー 1860年。

  ● 万延(まんえん)年号:   1860年ー 1861年。

  ● 文久(ぶんきゅう)年号 1861年ー 1864年。

  ● 元治(げんじ)年号    1864年ー 1865年。

  ● 慶応(けいおう)年号:    1865年ー 1868年。

  ● 明治(めいじ)年号   1868年ー 1912年。

  ● TKKI カナヤマ著 天璋院篤姫ガイドブック

 

 

 

 ■ 1847年 (弘化4年)。 

 

   ● 徳川慶喜が一橋家の養子

    となる。

  ■ 1847年(弘化4年)に、 徳川慶喜 (とくが

    わよしのぶ)が、 水戸藩主の男子であるが、

    徳川御三卿(とくがわごさんきょう)の1つの、

    一橋家(ひとつばしけ)の養子となる。

 

 

 

 ■ 1848年 (弘化5年・嘉永元年)。 

 

   ● 弘化年から嘉永年号に改元。

      嘉永年号1848年ー 1854年。

  ■ 1848年(弘化5年・嘉永元年)に、

    嘉永(かえい)年号に改元。  

  ● 1848年(弘化5年・嘉永元年)2月28日に

    和暦の「弘化」(こうか、

    弘化元年・1844年〜弘化5年・1848年)

    が、

    和暦の「嘉永」(かえい、

    嘉永 元年・1848年・ 2月28日〜

    嘉永 7年・1854年・11月27日) に

    改元される。

  ■ 江戸時代後期の各年号。

    暗記法: 文天弘嘉安万文元慶明

    (ぶんてんこうかあんまんぶんげんけいめい)。

  ● 文政(ぶんせい)年号 1818年ー 1830年。

  ● 天保(てんぽう)年号:  1830年ー 1844年。

  ● 弘化(こうか)年号   1844年ー 1848年。

  ● 嘉永(かえい)年号   1848年ー 1854年。

  ● 安政(あんせい)年号:   1854年ー 1860年。

  ● 万延(まんえん)年号:   1860年ー 1861年。

  ● 文久(ぶんきゅう)年号 1861年ー 1864年。

  ● 元治(げんじ)年号    1864年ー 1865年。

  ● 慶応(けいおう)年号:    1865年ー 1868年。

  ● 明治(めいじ)年号   1868年ー 1912年。

  ● TKKI カナヤマ著 天璋院篤姫ガイドブック

 

 

 

 ■ 1848年 (嘉永元年) 12月。 

 

   ● 琉球貿易を行なっていた、

    薩摩藩の調所広郷が自害。

  ■ 1848年(嘉永元年)12月に、薩摩藩の

    調所 広郷 (ずしょ ひろさと)が、 琉球貿易

    の責任を問われて、自害する。

 

 

 ■ 1851年 (嘉永4年) 1月。 

 

   ● 中浜万次郎がアメリカから

    帰国し琉球(沖縄)に上陸

  ■ 1851年(嘉永4年)1月に、中浜万次郎

    (ジョン万次郎)がアメリカ船に送られ、琉球

    (沖縄)に上陸する。

 

 

 

#jphappenings-1853

 

 

 ■ 1853年 (嘉永6年)。  

 

   ● 徳川家定が江戸幕府の

    第13代将軍となる。 

  ■ 1853年(嘉永6年)に、徳川 家定 (とくが

    わいえさだ、将軍在任:1853年〜1858年、

    徳川家慶(いえよし)の四男) が、 

    江戸幕府の第13代将軍となる。 

 

   ● 一橋派と紀州派との対立が

    始まる。

  ■ 一橋派と紀州派との対立が起こる。

    (1853年〜1859年頃)。

  ● 1853年(嘉永6年)以後、 江戸幕府 ・第

    13代将軍の徳川家定は体が弱かったため、 

    次期14代将軍継嗣(けいし)問題が起こり、 

    日本各地で、雄藩連合政治を望み江戸幕府

    の次期14代将軍に一橋慶喜(ひとつばし

     よしのぶ、水戸藩出身一橋家当主)を擁(よ

    う)する、一橋派(ひとつばしは) と、 

    徳川独裁政治を望み江戸幕府の次期14代将

    軍に徳川 慶福(よしとみ、紀伊藩藩主)を擁す

    る、紀州派(きしゅうは、南紀派) とが、対立

    する (1853年〜1859年頃)。

  ● TKKI カナヤマ著 天璋院篤姫ガイドブック

 

 

 ■ 1853年 (嘉永6年) 6月。 

 

   ● 黒船来航。

   ● 米ペリー艦隊が来航し

    開国を要求。

  ■ 1853年(嘉永6年)6月に、アメリカのペリー

    艦隊が日本に来航し、開国を要求する。

  ● ペリーは、浦賀に来航し、久里浜に上陸する。

 

  ● 1854年(嘉永7年)1月に、アメリカのペリー

    艦隊が日本に再来航し、開国を要求する。

 

 

 ■ 1853年 (嘉永6年)。     

 

   ● 尊皇(王)攘夷派開国派

    の対立が始まる。

  ■ 尊皇(王)攘夷派開国派との対立 が起こる。

    (1853年〜1867年頃)。

  ● 1853年(嘉永6年)に、 江戸幕府の老中

    首座・阿部正弘 (あべまさひろ)が、 

    挙国的な対策を立てようと、 開国について、

    諸大名や様々な人物に、意見を求めたため、 

    これ以後、日本各地で、外国勢力を武力で追、

    い払うことを主張する尊皇(王)攘夷派  (そ

    んのうじょういは) と、 開国し外国勢力と協

    力して先進の西洋文化 を採り入れて国を発展

    させる ことを主張する開国派(かいこくは) と

    が対立する (1853年〜1867年頃)。 

 

 

 ■ 1854年 (嘉永7年) 1月。 

 

   ● 米ペリー艦隊が再来航し

    開国を要求。

  ■ 1854年(嘉永7年)1月に、アメリカのペリー

    艦隊が日本に再来航し、開国を要求する。

  ● ペリーは、浦賀に来航する。

 

 

 ■ 1854年 (嘉永7年)。 

 

   ● 日本の幕府は米英露蘭と

    和親条約を締結。

   ● 日本は部分的開国を行なう。

  ■ 日本の江戸幕府は、1854年(嘉永7年

    から1855年(安政2年)にかけて、

    欧米列強の米英露蘭と和親条約を締結し、 

    日本は、部分的開国に踏み切る。

 

   ● 日本の幕府は日米和親条約

    を締結。

  ■ 日本の部分的開国。 日米和親条約締結。 

  ● 江戸幕府・老中首座の阿部正弘 (あべま

    さひろ)は、 1854年(嘉永7年)3月に、

    アメリカと、日米和親条約を締結する。

 

   ● 日本の幕府は英露蘭とも和親

    条約を締結。

  ■ その後、日本の江戸幕府は、

    1854年(嘉永7年)から1855年(安政2年)

    にかけて、英露蘭(えいろらん、イギリス、ロ

    シア、オランダ)とも和親条約を締結する。

 

                                   

 ■ 1854年 (嘉永7年) 4月。  

 

   ● 西郷隆盛が薩摩藩主の

    庭方役となる。

  ■ 1854年(嘉永7年)4月に、西郷隆盛は、 

       薩摩藩主の島津斉彬 (しまづ なりあきら)

   の庭方役 (にわかたやく、秘書役)となる。 

   ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 ■ 1854年 (嘉永7年)。     

 

   ● 西郷隆盛が、天璋院・篤姫の

    輿入れ支度係、連絡係となる。

  ■ 1854年(嘉永7年)に、西郷隆盛は、 

    島津斉彬(しまづ なりあきら)の命(めい、命

    令)により、江戸に赴(おもむ)き、 天璋院・

    篤姫 (てんしょういん・あつひめ、島津篤子、

    近衛敬子)の、輿入 れの支度係(1854年〜

    1856年) や 天璋院・篤姫(島津篤子、近

    衛敬子)との連絡係(1854 年〜1859年) 

    となる。  

 

 

 

 ■ 1854年 (嘉永7年・安政元年)。 

 

   ● 嘉永年から安政年号に改元。

      安政年号1854年ー 1860年。

  ■ 1854年(嘉永7年・安政元年)に、

    安政(あんせい)年号に改元

  ● 1854年(嘉永7年・安政元年)11月27日に

    和暦の「嘉永」(かえい、

    嘉永元年・1848年〜嘉永7年・1854年)

    が、

    和暦の「安政」(あんせい、

    安政 元年・1854年・11月27日〜

    安政 7年・1860年・ 3月18日) に

    改元される。 

 

  ■ 江戸時代後期の各年号。

    暗記法: 文天弘嘉安万文元慶明

    (ぶんてんこうかあんまんぶんげんけいめい)。

  ● 文政(ぶんせい)年号 1818年ー 1830年。

  ● 天保(てんぽう)年号:  1830年ー 1844年。

  ● 弘化(こうか)年号   1844年ー 1848年。

  ● 嘉永(かえい)年号   1848年ー 1854年。

  ● 安政(あんせい)年号:   1854年ー 1860年。

  ● 万延(まんえん)年号:   1860年ー 1861年。

  ● 文久(ぶんきゅう)年号 1861年ー 1864年。

  ● 元治(げんじ)年号    1864年ー 1865年。

  ● 慶応(けいおう)年号:    1865年ー 1868年。

  ● 明治(めいじ)年号   1868年ー 1912年。

  ● TKKI カナヤマ著 天璋院篤姫ガイドブック

 

 

 

 ■ 1854年 (安政元年) 12月。     

 

   ● 下田、長崎、箱館が外国に

    開港。

  ■ 1854年(安政元年)12月に、日本の江戸

       幕府は、 下田、長崎、箱館(はこだて、函館)

      を開港する。

 

 

 ■ 1855年 (安政2年) 10月。

 

  ● 堀田正睦が幕府の老中主座

    に就任。

  ■ 1855年(安政2年)10月に、堀田正睦 

    (ほったまさよし)が、 江戸幕府の老中

    主座に就任する。

 

  ● 1858年(安政5年)2月に、堀田正睦は、

    和親条約の勅許を得られず。

 

 

 ■ 1857年 (安政4年) 6月。 

 

   ● 一橋派の幕府の老中・阿部

    正弘が急死する。

  ■ 1857年(安政4年)6月に、江戸幕府の、

    老中・阿部 正弘   (あべまさひろ、一橋派の

    中心人物) が急死する。

 

 

 

#jphappenings-1858

 

 

 ■ 1858年 (安政5年) 4月。 

 

   ● 井伊直弼が幕府の大老

    に就任する。

  ■ 1858年(安政5年)4月に、 井伊 直弼 

    (いい なおすけ、紀州派(南紀派)) が、 

    江戸幕府の大老に就任する。

 

 

 ■ 1858年 (安政5年) 6月。 

 

   ● 幕府の次期14代将軍が紀州

    藩主の徳川 慶福(後の家茂)

    に決定。

  ■ 1858年(安政5年)6月25日に、江戸幕

    府の次期14代将軍が、 紀州藩主の徳川

    慶福 (とくがわよしとみ、後の徳川 家茂

    (いえもち))に決定する。 

 

   ● 1858年(安政5年)6月に、江戸幕府・

    大老の井伊 直弼(いいなおすけ)は、 

    江戸幕府の次期・第14代将軍を、徳川

    慶福(よしとみ)に決定する。 

 

 

 

 ■ 1858年 (安政5年)。 

 

   ● 日本の幕府は米蘭露英仏と

    不平等な修好通商条約を締結。

  ■ 「安政の5カ国条約」締結。 

  ● 江戸幕府・大老の井伊 直弼は、 1858

    年(安政5年)6月から9月にかけて、 天皇

    の勅許を得ず、 欧米列強の米蘭露英仏

    (べいらんろえいふつ、アメリカ、オランダ、

    ロシア、イギリス、フランス)と不平等な

    「安政の5カ国条約」(修好通商条約)を締

    結する。 

 

   ● 日本の幕府は日米修好通商

    条約を締結。

  ■ 1858年(安政5年)6月に、

    江戸幕府・大老の井伊 直弼(いいなおす

    け)は、 勅許を得ず、アメリカと日米修好

    通商条約を締結する。 

 

 

 ■ 1858年 (安政5年) 7月。 

 

   ● 幕府の13代将軍・家定が

    急死する。

  ■ 1858年(安政5年)7月に、江戸幕府・

    第13代将軍の徳川家定(いえさだ)が、

    急死する。

 

 

 ■ 1858年 (安政 5年) 7月。 

 

   ● 幕府の大老の井伊は、一橋派

    の徳川一族を蟄居・謹慎にする。

  ■ 1858年(安政5年)7月に、江戸幕府・

      大老の井伊 直弼は、 一橋派の、徳川斉昭

    (なりあき)、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、

    松平慶永(春嶽)(まつだいらよしなが(しゅ

    んがく))らを、蟄居・謹慎 (ちっきょ・きんし

    ん)などの処分する。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 ■ 1858年 (安政5年) 9月。 

 

   ● 安政の大獄が始まる。

  ■ 安政の大獄

    (1858年〜1859年)。

  ● 1858年(安政5年)9月に、安政の大獄 

    (あんせいのたいごく、1858年〜1859年、

    反井伊勢力や一橋派の一掃) が始まる。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 ■ 1858年 (安政5年) 12月。 

 

   ● 幕府の14代将軍に徳川家茂

    が就任する。

  ■ 1858年(安政5年)12月に、徳川家茂 

   (とくがわいえもち、紀州藩主・徳川慶福(よし

   とみ)) が、 江戸幕府の第14代将軍となる。

 

 

 ■ 1858年 (安政5年) 12月。 

 

   ● 薩摩藩の島津斉興は、一橋派

    の活動家だった西郷隆盛

    死んだこととする。

  ■ 1858年(安政5年)12月に、

    薩摩藩の実権を持つ島津斉興 (しなづな

    りおき)は、 江戸幕府の追求をかわすため、

    一橋派の活動家で安政の大獄で追われて

    いる西郷隆盛を、死んだことにし、 潜伏生

    活(潜居)させることとした。 

  ● 西郷隆盛は、鹿児島を出帆し、奄美大島へ

    向かう。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷隆盛ガイドブック。

 

 

 ■ 1859年 (安政6年) 1月。 

 

   ● 一橋派の活動家だった西郷隆

    は、奄美大島に潜伏する。

  ■ 西郷隆盛の第1次島流し

    (奄美大島で約3年間、

    1859年1月ー1862年1月)。

 

  ● 西郷隆盛は、 死んだこととされ(潜居処分

    とし)、1859年(安政6年)1月から、 奄美

    大島で潜伏生活を送る。

 

  ● 西郷隆盛は、 1858年(安政5年)12月

    末に、菊池源吾と改名して、船で鹿児島を

    出航し、1859年(安政6年)1月12日に、

    潜居地の奄美大島に到着する。

 

 

 ■ 1859年 (安政6年) 2月。 

 

   ● 山内容堂が土佐藩主を辞任

    し、隠居する。

  ■ 1859年(安政6年)2月に、 土佐藩・第

    15代藩主の山内容堂 (やまうちようど

    う、豊信)が、 土佐藩主を辞任し、隠居する。

 

 

 ■ 1859年 (安政6年) 10月。 

 

   ● 幕府の大老・井伊が橋本左内、

    吉田松陰らを死罪。

  ■ 1859年(安政6年)10月に、 江戸幕府・

      大老の井伊 直弼は、 橋本左内、吉田松陰

    らを死罪とする。

 

 

 ■ 1860年 (安政7年) 1月。 

 

   ● 安藤信正が幕府の老中に

    就任。

  ■ 1860年(安政7年)1月に、 安藤信正

    (あんどうのぶまさ)が老中に就任する。

 

 

 ■ 1860年 (安政7年) 3月。 

 

   ● 桜田門外の変で、幕府大老の

    井伊が暗殺される。

  ■ 桜田門外の変。 

  ● 1860年(安政7年)3月3日に、江戸幕府の

    大老・井伊 直弼(いいなおすけ)が、暗殺され、

    「桜田門外の変」が起こる。 

 

   ● 桜田門外の変後、幕府は公武

    合体政策をすすめる。

   ● 尊皇(王)攘夷派・急進派 と 

    公武合体派・佐幕派と対立が

    始まる。

  ■ 尊皇(王)攘夷派・急進派 と 公武合体派・

     佐幕派との対立 (1960年ー1864年頃)。

  ● 1860年(安政7年)3月以後、江戸幕府は

    公武合体政策をすすめ、 尊皇(王)攘夷派・

    急進派 と 公武合体派・佐幕派 とが対立

    する (1960年ー1864年頃)。

 

 

 

 ■ 1860年 (安政7年・万延元年)。 

 

   ● 安政年から万延 年号に改元。

      万延年号1860年ー 1861年。

  ■ 1860年(安政7年・万延元年)に、

    万延(まんえん)年号に改元

  ● 1860年(安政 7年・万延元年)3月18日に

    和暦の「安政」(あんせい、

    安政元年・1854年〜安政7年・1860年)

    が、

    和暦の「万延」(まんえん、

    万延 元年・1860年・ 3月18日〜

    万延 2年・1861年・ 2月19日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 ■ 1860年 (万延元年) 10月。 

 

   ● 桜田門外の変後の幕府の公武

    合体政策で、和宮降嫁が決まる

   ● 皇女和宮と徳川家茂の婚儀が

    決まる。

  ■ 1860年(万延元年)10月に、 和宮

         降嫁(かずのみやこうか)が勅許される。

 

  ● 公武合体策のため、 孝明天皇の妹の

    和宮 と 江戸幕府・将軍の徳川家茂と

    の政略結婚が決まる。

 

 

 

 ■ 1861年 (万延2年・文久元年)。 

 

   ● 万延年から文久 年号に改元。

      文久年号1861年ー 1864年。

  ■ 1861年(万延2年・文久元年)に、

    文久(ぶんきゅう)年号に改元

  ● 1861年( 万延2年・文久元年)2月19日に

    和暦の「万延」(まんえん、

    万延元年・1860年〜万延2年・1861年)

    が、

    和暦の「文久」(ぶんきゅう、

    文久 元年・1861年・ 2月19日〜

    文久 4年・1864年・ 2月20日) に

    改元される。 

 

  ■ 江戸時代後期の各年号。

    暗記法: 文天弘嘉安万文元慶明

    (ぶんてんこうかあんまんぶんげんけいめい)。

  ● 文政(ぶんせい)年号 1818年ー 1830年。

  ● 天保(てんぽう)年号:  1830年ー 1844年。

  ● 弘化(こうか)年号   1844年ー 1848年。

  ● 嘉永(かえい)年号   1848年ー 1854年。

  ● 安政(あんせい)年号:   1854年ー 1860年。

  ● 万延(まんえん)年号:   1860年ー 1861年。

  ● 文久(ぶんきゅう)年号 1861年ー 1864年。

  ● 元治(げんじ)年号    1864年ー 1865年。

  ● 慶応(けいおう)年号:    1865年ー 1868年。

  ● 明治(めいじ)年号   1868年ー 1912年。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 

 ■ 1861年 (文久元年) 9月。 

 

   ● 武市が「土佐勤王党」を結成、 

    坂本龍馬も参加。

  ■ 1861年(文久元年)9月に、土佐の下士(か

    し、下級武士)の尊皇(王)攘夷派は、  武市

    半平太(たけちはんぺいた、武市瑞山)をリー

    ダーに、「土佐勤王党」を結成する。 

        坂本龍馬は、「土佐勤王党」に、9番目

    で参加する。

 

 

 ■ 1862年 (文久2年) 1月。 

 

   ● 西郷隆盛は、奄美大島を

    脱し、その後、薩摩藩の

    任務に就く。

  ■ 1862年(文久2年)1月に、西郷隆盛は、 

    潜伏していた奄美大島から船で出航し、 

    2月に、鹿児島に到着し、その後、薩摩藩

    の任務に就(つ)く。

 

  ● 1861年(文久元年)10月に、薩摩藩の

    国父の島津久光 (しまづひさみつ)は、

    西郷隆盛に召喚状を出した。

       西郷隆盛は、1862年(文久2年)1月

    14日に奄美大島を船で出航し、1862年

    (文久2年)2月12日に鹿児島に到着する。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 ■ 1862年 (文久2年) 2月。 

 

   ● 幕府・将軍の徳川家茂と皇女

    和宮が婚儀を結ぶ。

  ■ 1862年(文久2年)2月に、公武合体政策

    のため、江戸幕府・14代将軍の徳川家茂

    (いえもち) と、 孝明(こうめい)天皇の妹・

    皇女和宮(こうじょう・かずのみや)との婚儀

    が行われる。

 

 

 ■ 1862年 (文久2年) 6月。 

 

   ● 西郷隆盛が島津久光の命令

    に背き、遠島処分となる。  

  ■ 西郷隆盛の第2次島流し

    (徳之島と沖永良部島で、

     1862年7月ー1864年2月)。

  ● 1862年(文久2年)6月に、薩摩藩の実権

    を持つ、国父(こくふ、現藩主の父)の島津

    久光(しまづひさみつ)は、 西郷隆盛が自

    分の命(めい、命令)に背(そむ)いたため、 

    西郷隆盛を遠島(えんとう)処分とした。  

       西郷は、再び、島流し(遠島)となり、

    鹿児島を出帆する。

 

  ● 1862年(文久2年)6月11日に、西郷隆盛

    は、船で鹿児島を出航し、1862年(文久2

    年)7月2日に、徳之島に到着する。

 

 

 ■ 1862年 (文久2年) 7月。 

 

   ● 文久の改革で、一橋慶喜が

    将軍後見職になる。

  ■ 1862年(文久2年)7月に、文久の改革が

    行われる。 

  ● 江戸幕府の、文久の改革で、一橋慶喜(徳

    川慶喜)が将軍後見職に、松平慶永(松平

    春嶽)が政事総裁職に任命される。

 

 

 ■ 1862年 (文久2年) 7月。 

 

   ● 西郷隆盛が島流しとなり、

    徳之島や沖永良部島で

    生活する。

  ■ 西郷の第2次島流し:

    1862年7月〜1864年2月。

  ● 西郷隆盛は、 薩摩藩・国父の島津久光に

    より、遠島処分となり、 1862年(文久2年)

    7月より、徳之島(とくのしま)や沖永良部島

    (おきのえらぶじま)で、生活をする。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 ■ 1862年 (文久2年) 閏8月。 

 

   ● 松平容保が京都守護職に就く。

  ■ 1862年(文久2年)閏8月に、江戸幕府は、

    松平容保(まつだいらかたもり)を京都守護

    職に任命する。

 

 

 ■ 1862年 (文久2年) 12月。 

 

   ● 坂本龍馬が勝海舟の弟子

    となる。

  ■ 1862年(文久2年)12月に、坂本龍馬は、

    勝海舟の弟子となる。   

 

  ● 松平慶永(まつだいらよしなが、春嶽(しゅ

    んがく))の紹介状を携(たずさ)えて、

    勝海舟(かつかいしゅう)に面会し、勝海舟

    の弟子となる。

 

 

 ■ 1863年 (文久3年) 3月。 

 

   ● 幕府将軍の徳川家茂が上洛。

  ■ 1863年(文久3年)3月に、江戸幕府・14代

    将軍の徳川家茂(いえもち)が、上洛(じょうら

    く)する (京(都)を訪ねる)。 

        将軍の上洛は230年ぶりであった。

 

 

 ■ 1863年 (文久3年) 4月。 

 

   ● 幕府将軍の徳川家茂が攘夷を

    5月10日にする旨を天皇に奏

    上。  

  ■ 1863年(文久3年)4月に、江戸幕府・14代

    将軍の徳川家茂(いえもち)は、 攘夷を18

    63年(文久3年)5月10日にする旨を、孝明

    天皇に奏上する。

 

 

 ■ 1863年 (文久3年) 5月。 

 

   ● 長州藩が外国船を砲撃する。

  ■ 1863年(文久3年)5月に、長州藩外国船

    砲撃事件が起こる。

 

 

 ■ 1863年 (文久3年) 5月。     

 

   ● 勝海舟が海軍塾を大阪で開設、

    後に神戸に移る。

   ● 神戸の勝海軍塾では、坂本龍

    馬が塾頭を務める。

  ■ 1863年(文久3年)5月に、勝海舟により、

    海軍塾が開設される (大阪で開設、その

    後、9月に神戸に移る、1863年5月ー1865

    年3月)。

       勝海軍塾で、坂本龍馬は、神戸では塾

    頭をつとめる。

 

  ● 勝海舟は、 日本を欧米列強から守るため

    軍艦の操船技術を習う海軍伝習所に誰でも

    入学させたかったが、 名目上(表向き)、

    幕府から資金を得るため、2つの海軍伝習所

    を設立する。

        1つは、1864年(元治元年)5月に

    神戸に設立した、幕臣のための海軍伝習所

    である神戸海軍操練所である。

        もう1つは、1863年(文久3年)9月に

    神戸に設立した、幕臣以外の者の海軍伝習

    所である、勝海軍塾である。

        神戸の勝海軍塾と神戸海軍操練所は

    600mしか離れていなかった。

 

 

 ■ 1863年 (文久3年) 7月。 

 

   ● 薩摩藩で、薩英戦争が起こる。

  ■ 1863年(文久3年)7月に、薩摩藩で、

    薩英戦争が起こる。

 

 

 ■ 1863年 (文久3年) 8月。 

 

   ● 八月十八日の政変が起こる。 

  ■ 八月十八日の政変。  

  ● 1863年(文久3年)8月に、孝明天皇の意

    向により、会津藩や薩摩藩の公武合体派は、

    京(都)から長州藩主体の急進的尊攘派 

    (そんじょうは、尊皇(王)攘夷派)を駆逐(く

    ちく)する(追放する)。

 

 

#jphappenings-1864

 

 

 ■ 1864年 (文久4年) 2月。 

 

   ● 西郷隆盛の遠島処分が解か

    れる。

   ● 西郷隆盛が薩摩藩の軍賦役

    (軍司令官)となる。

  ■ 1864年(文久4年)2月に、薩摩藩の実権

    を持つ、国父の島津久光が、西郷隆盛を赦

    免召還し、遠島処分を解く。 

 

  ● 西郷隆盛は、 1864年(元治元年)2月21

    日に沖永良部島を出帆し、1864年(元治元

    年)2月28日に鹿児島に到着し、その後、

    1864年(元治元年)3月19日に 薩摩藩の

    軍賦役(軍司令官)に任命され、任務に就(つ)

    く。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 

 ■ 1864年 (文久4年・元治元年)。 

 

   ● 文久年から元治年号に改元。

      元治年号1864年ー 1865年。

  ■ 1864年(文久4年・元治元年)に、

    元治(げんじ)年号に改元

  ● 1864年(文久4年・元治元年)2月20日に

    和暦の「文久」(ぶんきゅう、

    文久元年・1861年〜文久4年・1864年)

    が、

    和暦の「元治」(げんじ、

    元治 元年・1864年・ 2月20日〜

    元治 2年・1865年・ 4月 7日) に

    改元される。 

 

  ■ 江戸時代後期の各年号。

    暗記法: 文天弘嘉安万文元慶明

    (ぶんてんこうかあんまんぶんげんけいめい)。

  ● 文政(ぶんせい)年号 1818年ー 1830年。

  ● 天保(てんぽう)年号:  1830年ー 1844年。

  ● 弘化(こうか)年号   1844年ー 1848年。

  ● 嘉永(かえい)年号   1848年ー 1854年。

  ● 安政(あんせい)年号:   1854年ー 1860年。

  ● 万延(まんえん)年号:   1860年ー 1861年。

  ● 文久(ぶんきゅう)年号 1861年ー 1864年。

  ● 元治(げんじ)年号    1864年ー 1865年。

  ● 慶応(けいおう)年号:    1865年ー 1868年。

  ● 明治(めいじ)年号   1868年ー 1912年。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 

 ■ 1864年 (元治元年) 5月。     

 

   ● 勝海舟が指導する神戸海軍

    操練所が設立される。

  ■ 1864年(元治元年)5月に、勝海舟が指導

    する神戸海軍操練所 (こうべかいぐんそう

    れんじょ、1864年5月ー1865年3月)が設

    立(開校)される。

 

  ● 江戸幕府は、 幕府軍艦奉行の勝海舟の建

    言により、 1863年(文久3年)4月に神戸村

    に海軍操練所の設置を発令し、 1864年(元

    治元年)2月に海軍操練所を完成し、 1864

    年(元治元年)5月に海軍操練所を開講する。

       海軍操練所は、海軍士官養成機関であり、

    海軍工廠であった。

 

  ● 勝海舟は、 日本を欧米列強から守るため

    軍艦の操船技術を習う海軍伝習所に誰でも

    入学させたかったが、 名目上(表向き)、

    幕府から資金を得るため、2つの海軍伝習所

    を設立する。

        1つは、1864年(元治元年)5月に

    神戸に設立した、幕臣のための海軍伝習所

    である神戸海軍操練所である。

        もう1つは、1863年(文久3年)9月に

    神戸に設立した、幕臣以外の者の海軍伝習

    所である、勝海軍塾である。

        神戸の勝海軍塾と神戸海軍操練所は

    600mしか離れていなかった。

 

 

 ■ 1864年 (元治元年) 6月。

 

   ● 新選組の襲撃によって池田屋

    事件が起きる。

  ■ 1864年(元治 元年)6月に、新選組の襲

    撃によって、池田屋事件が起こる。 

 

  ● 池田屋事件で、京(都)の尊王攘夷派(そ

    んのうじょういは)の過激派は、大打撃を受

    ける。

 

 

 ■ 1864年 (元治元年) 7月。

 

   ● 禁門の変が起こり、上洛した

    長州藩勢力は、敗退する。

  ■ 禁門の変。

  ● 1864年(元治 元年)7月に、 禁門の変 

    (きんもんのへん、蛤御門の変(はまぐりご

    もんのへん))が、起こる。

 

  ● 長州藩は、1864年(元治元年)6月の

    池田屋事件に憤慨(ふんがい)し、 勢力回復

    をねらい、1864年(元治 元年)7月に、京

    (都)へ攻めのぼり、 禁門の変 (蛤御門の

    変)が起こる。 

 

  ● 禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩・薩摩

    藩などの幕府勢力により、上洛した長州藩は、

    敗退する。 長州藩兵を率いていた久坂玄随

    等が自刃(じじん、自害)する。

 

  ● 禁門の変では、薩摩藩は、幕府軍の一翼と

    なり、薩摩藩の西郷隆盛は、 薩摩藩の軍賦

    役(軍司令官)として、薩摩藩兵を率い、活躍

    する。

 

   ● 禁門の変で、京(都)市街地の

    約6割が焼ける。

  ■ 禁門の変時の戦いに伴い、1864年(元治元

    年)7月に、京(きょう、京都)の市街地に火災

    が起こり、京の市街地の約6割が焼ける。

 

 

 ■ 1864年 (元治元年) 7月。 

 

   ● 第1次長州征討で長州藩は

    恭順する。

  ■ 第1次長州征討(1864年7月〜12月)。

  ● 1864年(元治元年)7月に、江戸幕府は、

    第1次長州征討(1864年7月〜12月)を

    開始する。

 

  ● 第1次長州征討では、幕府軍は、長州藩の

    近くの広島まで軍を進めたが、1864年(元

    治元年)11月には、長州藩は、恭順(きょう

    じゅん)し、 1864年(元治元年)12月に、

    幕府軍は、引き揚げる。

 

  ● 第1次長州征討で、、薩摩藩は、幕府軍の

    一翼となり、 薩摩藩の西郷隆盛は、薩摩藩

    兵を率い、 第1次長州征討の幕府軍参謀と

    して、交渉で活躍する。

 

 

 ■ 1864年 (元治元年) 9月。 

 

   ● 幕府は、参勤交代制を廃止

    する。

  ■ 1864年(元治元年)9月に、江戸幕府は、

    参勤交代制を廃止する。

 

 

 ■ 1864年 (元治元年) 12月。  

 

   ● 長州藩で高杉晋作が挙兵し

    勝ち、藩論が討幕へ転換。

  ■ 1864年(元治元年)12月に、長州藩では、

    高杉晋作(たかすぎしんさく)が、奇兵隊等

    の民兵諸隊を率いて、江戸幕府に恭順した

    長州藩の保守派を退(しりぞ)け、長州藩

    藩論を、討幕へ転換させる。

 

   ● 尊皇(王)討幕派と公武合体派・

    佐幕派との対立が始まる。

  ■ 尊皇(王)討幕派と公武合体派・佐幕派と

     の対立が起こる (1864年〜1866年頃)。

  ● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討幕派 

    と、 公武合体派・佐幕派 とが対立する

    (1864年〜1866年頃)。

 

 

 ■ 1865年 (元治2年) 3月。     

 

   ● 海軍塾や神戸海軍操練所が

    閉鎖される。

  ■ 海軍塾や神戸海軍操練所の閉鎖。

  ● 1865年(元治 2年)3月に、勝海舟が指導

    する海軍塾や神戸海軍操練所は、 池田屋

    事件や禁門の変に参加した志士がいたため、

    勝海舟は江戸幕府から追及され、危険視さ

    れ、閉鎖される。  

 

  ● 海軍塾や神戸海軍操練所にいた坂本龍馬

    ら20数名は、勝海舟の紹介で西郷隆盛を頼 

    って大阪の薩摩藩邸に保護される。

 

 

 

 ■ 1865年 (元治2年・慶応元年)。 

 

   ● 元治年から慶応 年号に改元。

      慶応年号1865年ー 1868年。

  ■ 1865年(元治2年・慶応元年)に、

    慶応(けいおう)年号に改元

  ● 1865年( 元治2年・慶応元年)4月7日に

    和暦の「元治」(げんじ、

    元治元年・1864年〜元治2年・1865年

    が、

    和暦の「慶応」(けいおう、

    慶応 元年・1865年・ 4月 7日〜

    慶応 4年・1868年・ 9月 8日) に

    改元される。 

 

  ■ 江戸時代後期の各年号。

    暗記法: 文天弘嘉安万文元慶明

    (ぶんてんこうかあんまんぶんげんけいめい)。

  ● 文政(ぶんせい)年号 1818年ー 1830年。

  ● 天保(てんぽう)年号:  1830年ー 1844年。

  ● 弘化(こうか)年号   1844年ー 1848年。

  ● 嘉永(かえい)年号   1848年ー 1854年。

  ● 安政(あんせい)年号:   1854年ー 1860年。

  ● 万延(まんえん)年号:   1860年ー 1861年。

  ● 文久(ぶんきゅう)年号 1861年ー 1864年。

  ● 元治(げんじ)年号    1864年ー 1865年。

  ● 慶応(けいおう)年号:    1865年ー 1868年。

  ● 明治(めいじ)年号   1868年ー 1912年。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 

 ■ 1865年 (慶応元年) 5月。 

 

   ● 坂本龍馬は長崎で、「亀山社中」

    を設立する。

  ■ 1865年(慶応元年)5月に、薩摩藩の援助

    により、 坂本龍馬は、海軍塾や神戸海軍操

    練所の仲間らと共に、長崎で、「亀山社中」

    (かめやましゃちゅう、後の海援隊)を組織し、

    物産や武器の貿易を行う。

 

 

 ■ 1865年 (慶応元年) 9月。 

 

   ● 第2次長州征討(長州藩再征)

    が始まる。

  ■ 1865年(慶応元年)9月に、江戸幕府・将軍

    の徳川家茂(いえもち)は、 孝明天皇より、第

    2次長州征討(長州藩再征)の勅許を受ける。

 

 

 ■ 1865年 (慶応元年) 10月。 

 

   ● 幕府は、孝明天皇より、「安政の

    5カ国条約」の勅許を得る。

  ■ 1865年(慶応元年)10月に、 江戸幕府は、

    孝明天皇より、「安政の5カ国条約」(1858年

    の修好通商条約)の勅許を得る。

 

 

#jphappenings-1866

 

 

 ■ 1866年 (慶応2年) 1月。 

 

   ● 薩長同盟が成立する。 

   ● 坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩と

    長州藩が密約軍事同盟を結ぶ。

  ■ 薩長同盟成立。 

   薩長の反幕府軍事同盟の密約の締結。

   1866年(慶応2年)1月に、 坂本龍馬ら

    の斡旋で、京(都)で、長州藩の桂小五郎

    (後の木戸孝允(きどたかよし)) と、 

    薩摩藩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟

    (薩長連合)が結ばれる。

      薩長同盟は、薩長の反幕府軍事同盟

    の密約であった。

 

   ● 尊皇(王)討幕派と公議政体派

    佐幕派との対立が始まる。

  ■ 尊皇(王)討幕派と公議政体派・佐幕派と

     の対立が起こる (1866年〜1867年頃)。

  ● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討幕派 

    と、 公議政体派・佐幕派 とが対立する 

    (1866年〜1867年頃)。

 

 

 ■ 1866年 (慶応2年) 1月。 

 

   ● 寺田屋事件が起こり、龍馬は

    幕吏の手から逃れる。

  ■ 寺田屋事件が起こる。 

  ● 1866年(慶応2年)1月に、寺田屋事件

    が起こる。 坂本龍馬は、寺田屋で幕吏

    に襲撃され、妻のお龍(おりょう)の助けで、

    龍馬は、幕吏の手から逃(のが)れる。

       坂本龍馬は、薩摩藩邸へ逃れ、その

    傷を癒(いや)すため、 お龍と共に鹿児島

    を旅行する。

 

 

 ■ 1866年 (慶応2年) 5月。 

 

   ● 幕府は、改税約書に調印。

  ■ 1866年(慶応2年)5月に、江戸幕府は、 

    改税約書(かいぜいやくしょ)に調印する。

 

 

 ■ 1866年 (慶応2年) 6月。 

 

   ● 第2次長州征討が始まる。

  ■ 第2次長州征討 (1866年6月〜8月)。

  ● 1866年(慶応2年)6月に、江戸幕府は、

    長州藩に対し、第2次長州征討 (長州再征、

    1866年6月〜8月)を開始する。

 

  ● 第2次長州征討では薩摩藩は参加しなかった。

 

  ● 第2次長州征討では、 坂本龍馬は、長州藩

   の海軍を支援する。

 

 

 ■ 1866年 (慶応2年) 7月。 

 

   ● 幕府・将軍の徳川家茂が

    病死する。

  ■ 1866年(慶応2年)7月に、江戸幕府・

    14代将軍の徳川家茂(いえもち)が、 

    死去(病死)する。

 

 

 ■ 1866年 (慶応2年) 8月。 

 

   ● 第2次長州征討が終わる。

  ■ 第2次長州征討の終了。

  ● 1866年(慶応2年)7月の江戸幕府・将軍

    の徳川家茂(いえもち)の死去(病死)により、 

    第2次長州征討(長州再征、1866年6月〜

    8月)は、中止となる。

   ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 ■ 1866年 (慶応2年) 12月。 

 

   ● 徳川慶喜が幕府の第15代

    将軍となる。 

  ■ 1866年(慶応2年)12月5日に、徳川慶喜

    (よしのぶ、一橋慶喜)は、 征夷大将軍、

    内大臣となり、 江戸幕府の第15代将軍 

    (将軍在任:1866年12月5日〜1867年

    12月9日) となる。 

 

 

 ■ 1866年 (慶応2年) 12月。 

     

   ● 倒幕を好まず、公武合体論

    の立場をとる、孝明天皇が

    死去する。

  ■ 1866年(慶応2年)12月25日に、倒幕を

    好まず、公武合体論の立場をとる、孝明(こ

    うめい)天皇が、急死する。 

 

 

#jphappenings-1867

 

 

 ■ 1867年 (慶応3年) 1月。 

 

   ● 睦仁天皇(= 明治天皇)

    が即位する。

  ■ 1867年(慶応3年)1月9日に、 睦仁天皇

    (むつひとてんのう、= 明治天皇) が、践祚

    (せんそ)の儀を行う (事実上、即位する)。  

 

 

 ■ 1867年 (慶応3年) 4月。 

 

   ● 坂本龍馬は、脱藩の罪を許され、

    土佐藩との関係を修復。

  ■ 1867年(慶応3年)4月に、坂本龍馬は、

    土佐藩より、脱藩の罪を許され、土佐藩と

    の関係を修復する。

 

  ● その後、亀山社中は、土佐藩に付属する

    外郭機関として、「海援隊」と改称される。 

      また、岩崎弥太郎 (いわさきやたろう、

    三菱財閥の創始者)が、土佐藩の藩命に

    より海援隊の会計係となる(経理を担当す

    る)。 

 

  ● その後、海援隊は、中岡慎太郎の作った

    陸援隊と共に、行動する。

 

 

 ■ 1867年 (慶応3年) 5月。 

 

   ● 薩摩藩主導で、四侯会議が

    設置されたが、崩壊する。

  ■ 1867年(慶応3年)5月に、  薩摩藩主導で、

        四侯会議が設置されたが、短期間で崩壊

    する。

 

 

 ■ 1867年 (慶応3年) 6月。 

 

   ● 坂本龍馬が船中八策を

    策定。

  ■ 1867年(慶応3年)6月に、長崎を出航し、

    京(きょう、京都)に向かう、土佐藩船の

    夕顔丸の中で、上洛中の洋上で、 坂本

    龍馬は、「船中八策」を策定する。

 

 

 ■ 1867年 (慶応3年) 6月。 

 

   ● 薩土盟約が、土佐藩と薩摩藩

    との間で、結ばれ る。

  ■ 薩土盟約

  ● 1867年(慶応3年)6月に、大政奉還の行

       方がわかるまでは、武力討幕は見送るとい

       薩土盟約が、土佐藩と薩摩藩との間で、

    結ばれる。

 

  ● 坂本龍馬は、既にある、薩摩の西郷隆盛と

    土佐 の討幕派の乾退助 (いぬいたいすけ、

    板垣退助)との間で交わされ た武力討幕の

    薩土密約を思いとどまらせるため、 1867

    (慶応3年)年6月22日に、京(きょう、京都)

    の三本木の料亭で、坂本龍馬や中岡慎太郎

    の仲介により、 土佐の後藤象二郎 と 薩

    摩の西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通が、

    会談する。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

  ■ 1867年(慶応3年)6月22日に、武力に

    よらない倒幕をめざす、公議政体派の土佐

    藩の後藤象二郎、坂本龍馬は、

    武力討幕派の薩摩藩の西郷隆盛や大久保

    利道と会い、江戸幕府・将軍の徳川慶喜が

    大政奉還を受け入れたら、武力蜂起しない

    と2人に約束させる。

 

  ● 一方、武力討幕派の薩摩藩の西郷隆盛

    や大久保利道は、

    徳川慶喜が易々と大政奉還を受け入れ政

    権を手放すはずがないと考え、1867 年

    (慶応3年)10月14日に、討幕の密勅(み

    っちょく)  (朝廷が薩長藩主に出した討幕

    の密勅)を得るが、徳川慶喜が大政奉還を

    受け入れたため、一時的に武力討幕を中止

    する。

 

 

 ■ 1867年 (慶応3年) 10月。

 

   ● 幕府・将軍の徳川慶喜が

    大政奉還を行なう。

  ■ 大政奉還(たいせいほうかん)とは、

    江戸幕府(徳川氏)の朝廷への政権返上

    である。

  ● 徳川慶喜は、 大政奉還 によって、江戸幕府

    (徳川氏)は政権を朝廷に返上し、 列藩会議

    を設置し、  徳川氏宗家当主の徳川慶喜が諸

    侯の一員(盟主)として、その列藩 会議に参画

    (を主導)することを望む。

 

  ■ 大政奉還の実施。

  ● 1867年(慶応3年)10月15日に、江戸幕府・

    第15代将軍の徳川慶喜は、大政奉還 (たい

    せいほうかん、江戸幕府の政権を朝廷へ返上)

    を行う。  

 

  ● 徳川慶喜は、 1867年(慶応3年)10月14

    日に、政権返上を睦仁天皇(むつひとてんのう、

    = 明治天皇)に奏上(そうじょう)し、10月15日

    に勅許(ちょっきょ)される。

 

  ■ 一方、武力討幕派の薩摩藩の西郷隆盛や大

     久保利道は、徳川慶喜が易々と大政奉還を受

    け入れ政権を手放すはずがないと考え、1867

    年(慶応3年)10月14日に、討幕の密勅(みっ

    ちょく)(朝廷が薩長藩主に出した討幕の密勅)

    を得るが、徳川慶喜が大政奉還を受け入れた

    ため、一時的に武力討幕を中止する。

 

  ■ 坂本龍馬の提案(船中八策等)をもとに、土佐

    藩参政・後藤象二郎が前土佐藩主・山内容堂

    を説いて、土佐藩の進言により、徳川慶喜は、

    大政奉還を行う。

 

  ■ 徳川慶喜は、 江戸幕府(徳川氏)の政権返上

     後、政治運営や外交のノーハウがない朝廷は、 

    旧江戸幕府の徳川氏に政権を任せると考え、 

    徳川慶喜の狙いは、政権返上後の実質的 な

    徳川氏支配の再構築にあり、 徳川慶喜は、

    列藩会議を主導して、 日本の政治の主導権

    を握れると考えていた。 

       ところが、1867年(慶応3年)の12月9日

    の王政復古のクーデターにより、薩長の武力討

    幕派が、政治の主導権を握ってしまった。

             

 

 ■ 1867年 (慶応3年) 11月。   

 

   ● 坂本龍馬は、新政府綱領ハ策

    を作成。

  ■ 1867年(慶応3年)11月に、坂本龍馬は、

    「新政府綱領ハ策」を作成する。 

 

 

 ■ 1867年 (慶応3年) 11月。   

 

   ● 近江屋事件で、坂本龍馬が

    暗殺される。

  ■ 1867年(慶応3年)11月に、坂本龍馬が

    暗殺される。  

  ● 坂本龍馬は、1867年(慶応3年)11月15

    日に、 京都の近江屋(おうみや)で、何者

    か(江戸幕府の見廻組(みまわりぐみ)?)

    に急襲され、殺害される。 同席していた

    中岡慎太郎も殺害される。                

 

 

 ■ 1867年 (慶応3年) 12月。   

 

   ● 王政復古の大号令が出される。 

   ● 日本近代政府(明治新政府)

    が樹立される。

  ■ 1867年(慶応3年)12月9日に、王政復古

    の大号令が出される。 

 

  ■ 王政復古の大号令により、 日本近代政府

    (明治新政府)が樹立される。

  ● 王政復古の大号令により、江戸幕府排除 と

    王政復古がなり、近代日本政府 (明治新政

    府)が樹立される。

 

  ■ 王政復古の大号令により、 江戸幕府の廃

    絶と新政府の樹立が宣言され、政権運営は、

    新たな三職 (さんしょく、総裁(そうさい)、

    議定(ぎじょう)、参与(さんよ)) によって行

    う事が決定された。

 

  ■ 12月9日の新政府の初めての会議である、

    小御所会議(こごしょかいぎ)で、新政府は、

    旧幕府・将軍の徳川慶喜の官位剥奪と領地

    没収を決定した。

 

  ● しかし、その後、12月24日に、新政府は、 

    徳川慶喜の、官位辞退、領地保有、新政府の

    議定(ぎじょう)職就任を決定し、徳川慶喜は、

    安心する。

             

 

#jphappenings-1868

 

 

 ■ 1868年 (慶応4年) 1月。   

 

   ● 戊辰戦争が起こる。

  ■ 戊辰戦争。

  ● 戊辰戦争 (ぼしんせんそう、1868年1月ー

    1869年5月)が始まる。

  ● 1868年(慶応4年)1月3日に、鳥羽伏見の

    戦い (とばふしみのたたかい、1868年1月

    3日ー1月8日)が起こる。

 

  ■ 戊辰戦争 (ぼしんせんそう、1868年(慶

    応4年)1月3日ー1869年(明治2年)5月

    18日) が始まる。  

  ● 西郷隆盛が、戊辰戦争で、明治新政府

    (近代日本政府)の軍を主導する。

 

  ■ 鳥羽伏見の戦い。

  ● 1867年(慶応3年)12月25日に、旧幕府勢

    力の庄内藩(しょうないはん)による薩摩藩江戸

    屋敷焼き打ち事件が起こり、 その事件以後、

    旧幕府勢力の薩摩藩への怒りを徳川慶喜が押

    さえきれず、 1868年(慶応4年)1月2日に、

    徳川慶喜の「討薩の表」(とうさつのひょう)を京

    (きょう、京都)の朝廷に提出し、 薩摩藩を朝廷

    より排除するため、 指揮が低い(混乱した)寄

    せ集めの軍の約1万5000人の旧幕府軍が、

    大坂城より京(都)へ進軍し、

       1868年(慶応4年)1月3日に、京都御所

    へ行く途中の鳥羽と伏見の2カ所で、旧幕府軍

    の進軍を阻止しようとする、指揮が高く最新鋭

    の武器で武装した約5000人の薩長軍と衝突し、 

    鳥羽伏見の戦い (1868年(慶応4年)1月3日

    〜6日)が起こる。 

       1868年(慶応4年)1月5日に、鳥羽伏見

    の戦場で、薩長軍は「錦の御旗」(にしきのみは

    た)を掲げ、戦況が薩長軍に有利となり、

       1868年(慶応4年)1月6日に、戦況が

    不利となり、また、賊軍となったことを知った徳

    川慶喜は、大坂城から脱出し船で江戸に向い、

    旧幕府軍も、敗走を続け、敗戦する。

  ● TKKI カナヤマ著 天璋院篤姫ガイドブック

 

 

 ■ 1868年 (慶応4年) 4月。   

 

   ● 江戸城が無血開城される。

  ■ 江戸城無血開城。

  ● 1868年(慶応4年)4月に、江戸幕府の

    本拠地の江戸城が、無血開城され、討幕軍

    (= 明治新政府(近代日本政府)の軍)が、江

    戸城に入る。

 

  ● その後、明治新政府(近代日本政府)の統治

    (支配)に不満をもつ旧幕府勢力が起こした

    上野戦争が1868年(慶応4年)に江戸(東

    京)で起こり、 討幕軍(= 明治新政府(近代

    日本政府)の軍)が勝利した後、  江戸(東

    京)は、明治新政府(近代日本政府 )の統治

    (支配)下に入る。

  

 

 ■ 1868年 (慶応4年) 5月。   

 

   ● 上野戦争で、旧幕府勢力の、

    江戸の彰義隊が壊滅。

  ■ 1868年(慶応4年)5月に、上野戦争で、

    旧幕府勢力の、江戸の彰義隊(しょうぎた

    い)が壊滅する。

 

  ● 明治新政府(近代日本政府)の統治に

    満をもつ旧幕府勢力が起こした上野戦争が

    1868年(慶応4年)に江戸(東京)で起

    こり、 討幕軍(= 近代日本政府(明治新政

    府)の軍)が勝利した後、  江戸(東京)は、

    明治新政府(近代日本政府)の統治下に入

    る。

 

 

 ■ 1868年 (慶応4年) 5月。   

 

   ● 旧幕府勢力の奥羽越列藩同盟

    が成立する。

  ■ 1868年(慶応4年)5月に、

    明治新政府(近代日本政府)に対立する、

    旧幕府勢力の奥羽越列藩同盟(おおうえ

    つれっぱんどうめい)が、成立する。

 

 

 ■ 1868年 (慶応4年) 7月。   

 

   ● 江戸を東京に改称する。

  ■ 1868年(慶応4年)7月に、明治新政府

   (近代日本政府)は、 江戸を東京と改称す

   る。

 

 

 

 ■ 1868年 (慶応4年・明治元年)。   

 

   ● 慶応年から明治 年号に改元。

      明治年号1868年ー 1912年。

  ■ 1868年(慶応4年・明治元年)に、

    明治(めいじ)年号に改元

  ● 1868年( 慶応4年・明治元年)9月8日に

    和暦の「慶応」(けいおう、

    慶応 元年・1865年〜慶応4年・1868年

    が、

    和暦の「明治」(めいじ、

    明治 元年・1868年・ 9月 8日〜

    明治45年・1912年・ 7月30日) に

    改元される。 

 

  ■ 江戸時代後期の各年号。

    暗記法: 文天弘嘉安万文元慶明

    (ぶんてんこうかあんまんぶんげんけいめい)。

  ● 文政(ぶんせい)年号 1818年ー 1830年。

  ● 天保(てんぽう)年号:  1830年ー 1844年。

  ● 弘化(こうか)年号   1844年ー 1848年。

  ● 嘉永(かえい)年号   1848年ー 1854年。

  ● 安政(あんせい)年号:   1854年ー 1860年。

  ● 万延(まんえん)年号:   1860年ー 1861年。

  ● 文久(ぶんきゅう)年号 1861年ー 1864年。

  ● 元治(げんじ)年号    1864年ー 1865年。

  ● 慶応(けいおう)年号:    1865年ー 1868年。

  ● 明治(めいじ)年号   1868年ー 1912年。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 

 ■ 1869年 (明治2年) 5月。   

 

   ● 戊辰戦争が終わる。

  ■ 1869年(明治2年)5月18日に、

    戊辰戦争 (ぼしんせんそう、1868年(慶

    応4年)1月3日ー1869年(明治2年)5月

    18日) が終わる。

 

 

 ■ 1869年 (明治2年) 6月。   

 

   ● 西郷隆盛は、明治新政府の

      軍の職を辞し、鹿児島へ戻る。

  ■ 1869年(明治2年)6月に、西郷隆盛は、

    明治新政府(近代日本政府)の軍の職を

    辞し、鹿児島へ戻る。

 

 

 ■ 1869年 (明治2年) 6月。   

 

   ● 明治新政府は、版籍奉還を

    実施する。

  ■  1869年(明治2年)6月に、明治新政府

    (近代日本政府)は、 版籍奉還(はんせき

    ほうかん)を実施する。

 

 

 ■ 1869年 (明治2年) 8月。   

 

   ● 蝦夷地は北海道と改称される。

  ■ 1869年(明治2年)8月に、明治新政府

    (近代日本政府)は、蝦夷地を北海道と

    改称する。

 

 

 ■ 1869年 (明治2年) 12月。   

 

   ● 東京・横浜間で電信が開通。

  ■ 1869年(明治2年)12月に、東京・横浜

    間で電信が開通する。

 

 

 

#jphappenings-1871

 

 

 ■ 1871年 (明治4年) 1月。   

 

   ● 明治新政府は、郵便制度を

    実施。

  ■ 1871年(明治4年)1月に、明治新政府

    (近代日本政府)は、 郵便制度を実施

    する。

 

 

 ■ 1871年 (明治4年) 2月。   

 

   ● 明治新政府は、薩長土3藩

    より、兵を徴集。

  ■ 1871年(明治4年)2月に、明治新政府

    (近代日本政府)は、 薩長土3藩より、

    親兵を徴集する。

 

 

 ■ 1871年 (明治4年) 5月。   

 

   ● 明治新政府は、新貨条例

    (円・銭・里の10進法通貨)

    を公布。

  ■ 1871年(明治4年)5月に、明治新政府

    (近代日本政府)は、新貨条例 (しんかじ、

    ょうれい、円・銭・里の10進法通貨)を公布

    する。

 

 

 ■ 1871年 (明治4年) 6月。 

 

   ● 西郷隆盛が、明治新政府に

    復職。

  ■ 1871年(明治4年)6月に、西郷隆盛が、

    鹿児島より東京へ出て、参議として、明治

    新政府(近代日本政府)に復職する。

 

 

 ■ 1871年 (明治4年) 7月。   

 

   ● 明治新政府は、廃藩置県を

    実施。

  ■ 1871年(明治4年)7月に、 明治新政府

    (近代日本政府)は、廃藩置県を実施する。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 ■ 1871年 (明治4年) 11月。   

 

   ● 明治新政府は、府県制を実施

    し、府知事、県令を設置。

  ■ 1871年(明治4年)11月に、 明治新政府

    (近代日本政府)は、 全国を、1使3府72県

    とし、府知事、県令を設置する。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 ■ 1871年 (明治4年) 12月。   

 

   ● 岩倉使節団が日本を出発。

  ■ 1871年(明治4年)12月に、大久保、木戸

    ら岩倉使節団(1871年12月ー1873年9月)

    が、外遊のため、日本を出発する。

 

 

 ■ 1871年 (明治4年) 12月。   

 

   ● 西郷の留守政府が始動。

  ■ 留守政府 (1871年12月ー1873年9月)

     が始動する。

  ● 1871年(明治4年)12月より1873年9月

    まで、 西郷隆盛が、大久保、木戸ら岩倉使

    節団外遊中の留守政府(1871年12月ー

    1873年9月) を指導する。

 

 

#jphappenings-1872

 

 

 ■ 1872年 (明治5年) 1月。   

 

   ● 明治新政府は、戸籍法(壬申

    戸籍)の実施。

  ■ 戸籍法(壬申戸籍)の実施。

  ● 1872年(明治5年)1月に、明治新政府

    (近代日本政府)の西郷の留守政府は、 

    戸籍法(壬申(じんしん)戸籍)を実施する。

 

 

 ■ 1872年 (明治5年) 8月。   

 

   ● 明治新政府は、学制の公布。

  ■ 学制の公布。

  ● 1872年(明治5年)8月に、明治新政府

    (近代日本政府)の西郷の留守政府は、 

    学制を定める。

 

 

 ■ 1872年 (明治5年) 9月。   

 

   ● 鉄道が開業。

  ■ 鉄道開業。

  ● 1872年(明治5年)9月に、明治新政府

    (近代日本政府)の西郷の留守政府は、 

    鉄道を開業する。

       新橋・横浜間鉄道が開業される。

 

 

 ■ 1872年 (明治5年) 12月。 

 

   ● 明治新政府は、暦、時刻の

    切り替えを行なう。

  ■ 1872年(明治5年)12月に、明治新政府

    (近代日本政府)の西郷の留守政府は、 

    暦(こよみ)、時刻の切り替えを行なう。

 

   ● 旧暦を新暦に切り替える。

  ■ 1872年(明治5年)12月に、明治新政府

    (近代日本政府)の西郷の留守政府は、 

    旧暦(きゅうれき、太陰太陽暦)を新暦(しん

    れき、太陽暦、グレゴリオ暦)に切り替える。

 

  ● 太陽暦の採用(太陽暦への切り替え)。 

    明治新政府(近代日本政府)の西郷の留守

    政府は、

    旧暦(太陰太陽暦)の明治5年(1872年)

    12月3日を、 新暦(太陽暦)の明治6年

    (1873年)1月1日(元旦) とする。

 

   ● 十二支表示時刻を西洋式時刻

    に切り替える

  ■ 1872年(明治5年)12月に、明治新政府

    (近代日本政府)の西郷の留守政府は、 

    十二支表示時刻(1昼夜12等分時間制)を

    西洋式時刻(1昼夜24等分時間制)に切り

    替える。

 

 

#jphappenings-1873

 

 

 ■ 1873年 (明治6年) 3月。 

 

   ● 明治新政府は、徴兵令を公布。 

  ■ 1873年(明治6年)3月に、明治新政府

    (近代日本政府)の西郷の留守政府は、 

    徴兵令を公布する。

 

 

 ■ 1873年 (明治6年) 7月。 

 

   ● 明治新政府は、地租改正条例

    を公布する。    

  ■ 1873年(明治6年)7月に、明治新政府

    (近代日本政府)の西郷の留守政府は、 

    地租改正条例を公布する。

 

 

 ■ 1873年 (明治6年) 9月。 

 

   ● 岩倉使節団が帰国する。

  ■ 1873年(明治6年)9月に、大久保、木戸

    ら岩倉使節団が 外遊から戻る。

 

 

 ■ 1873年 (明治6年) 10月。   

 

   ● 「明治六年の政変」が起こり、

    西郷が政府を辞職する。 

  ■ 「明治六年の政変」が起こる。 

  ● 1873年(明治6年)10月に、西郷隆盛、

    板垣退助らが、 下野する (政府の役職・

    参議(さんぎ)を辞職する)。 

 

  ● 西郷隆盛は、鹿児島へ戻り、これ以後、

    鹿児島の私学校で教育に専念する。

  ● TKKI カナヤマ著 西郷 隆盛ガイドブック

 

 

 ■ 1873年 (明治6年) 11月。 

 

   ● 大久保が、政府に内務省を

    設置する。

  ■ 1873年(明治6年)11月に、明治新政府

    (近代日本政府)は、内務省を設置する。

 

 

 ■ 1876年 (明治9年) 3月。 

 

   ● 明治新政府は、廃刀令を公布

    する。 

  ■ 1876年(明治9年)3月に、明治新政府

    (近代日本政府)は、廃刀令(はいとうれい)

    を公布する。

 

 

 ■ 1876年 (明治9年) 8月。 

 

   ● 明治新政府は、金禄公債証

    書発行条例(家禄・賞典禄

    の廃止)を公布。

  ■ 1876年(明治9年)8月に、明治新政府

    (近代日本政府)は、 金禄公債証書発行

    条例(家禄・賞典禄の廃止)を公布する。

 

 

 ■ 1877年 (明治10年) 2月。   

 

   ● 西南戦争が起こる。

  ■ 1877年(明治10年)2月に、西南戦争

    (1877年2月ー9月)が、起こる。 

 

  ● 1877年(明治10年)2月に、鹿児島の

    私学校生徒が、暴動を起こす。 

      1877年(明治10年)2月に、西郷隆盛

    は、不平士族に擁立されて、明治新政府

    (近代日本政府)に反乱(西南戦争)を起こ

    す。

 

 

#jphappenings-1877

 

 

 ■ 1877年 (明治10年) 9月。   

 

   ● 西郷隆盛が、西南戦争で敗死

    する。

  ■ 1877年(明治10年)9月に、西郷隆盛が、

    享年51歳で、西南戦争で、死去(敗死、自

    害)する。

 

 

 ■ 1878年 (明治11年)。     

 

   ● 政府を主導する大久保が

    暗殺される。

  ■ 1878年(明治11年)に、明治政府(近代

    日本政府)を主導する、大久保利道が、

    東京で、暗殺される。

 

 

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#jphappenings/summary

#jphappeningsbytheme

 

 

◆ 天璋院 篤姫 関連

   出来事 (概要)。

 

   ■ 江戸幕府・大奥の詳細については、

     『  江戸幕府 大奥 ガイドブック 』 を

     参照してください。

 

   ○ 『 さあ、江戸幕府の大奥に関

       する様々な出来事を見てみ

       よう。 』

   ○ 『 では、歴史学の立場から、

       大奥の真実の姿を見てみよ

       う。 』

   ○ 『 現代も、過去の時代も、人は、

       利害 と 感情(友愛)で、行動

       する。 』

 

   

   〇 ドラマ「大奥・もうひとつの物語」で

     の大奥の奥女中フォト 

   ○ ドラマ「大奥・もうひとつの物語」の

     DVD販促用PRフォト)。

 

 

#jphappenings/summary-a

 

 

◆ 江戸幕府・大奥

   関連出来事

   (概要・各事柄)。

 

 

  □ 幕末、明治初期の情勢

     (1853年〜1877年)

 

  □ 璋院・篤姫

     時期別各編

   

 

#jphappenings/summary-per2110

 

 

#jphappenings/summary-k1000

#jpinnerpalace

 

 

◆ 江戸幕府・大奥 

   (総合)。

 

 

 ■ 江戸幕府で政治力をもっていた

    大奥の女性。

 

   ■ 実は、 江戸時代、 江戸幕府の将軍と

     共に、大奥にいた、将軍の母 (生母、乳

     母、義母) や 夫人 (正室夫人、側室

     夫人) も大きな政治権力をもち、 日本

     の政治を動かしていた。

 

   ■ 大奥は、 江戸幕府の官僚組織として、

     機能していた。

 

   ■ 江戸時代、 男性の将軍、幕閣(幕府重

     臣)、藩主と並んで、 実質的に、 大奥

     の女性の、将軍の母、夫人やその側近、

     大奥・監督者も、 日本の政治を動かし、 

     日本を支配していた。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 日本の歴史の中でも、 女性の地位が極

     めて低かった江戸時代にあって、大奥の

     女性 (将軍の母、夫人やその側近、大奥・

     監督者の御年寄)は、例外として、極めて

     地位が高かったと言える。

 

   ■ 将軍と共に、大奥にいる女性の、将軍

     将軍の母、夫人やその側近、大奥・監督者

     の御年寄(おとしより、大奥上級幹部)も、 

     日本の政治を動かしていた。

 

   ■ 例えば、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠・

     正室夫人のお江与(おえよ、お江(おごう))、

     3代将軍・徳川家光・乳母(うば)の春日局、

     5代将軍・綱吉生母の桂昌院(けいしょうい

     ん)などである。   

       将軍と共に、将軍の母、夫人やその側

     近、大奥・監督者も、幕府の役人や各藩主

     の人事を左右することもできた。 

        江戸幕府の幕閣(重臣)や各藩主は、 

     大奥にいる女性の、将軍の母、夫人やそ

     の側近、大奥・監督者の一言で、任命・解

     任されることもあった。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

 

 ■ 江戸幕府の徳川将軍家。 

 

   ■ 江戸幕府では、15代の徳川氏将軍が、

          擁立(ようりつ)され、江戸幕府は、1603

     年より、1867年まで 約265年間存続し、

     日本を支配した。

   ● 江戸幕府の将軍は、江戸時代(1603 年

     〜1868年)、日本の政治の最高権力者

     であり、将軍は、徳川 氏の世襲制であった。

 

   ■ 徳川将軍家の15代(15人)の将軍名、

      就任期間に関しては、 日本史辞典の

     『 徳川将軍家 』 を参照して ください。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド ブック。

     

 

 

 ■ 徳川将軍家の大奥。

 

   ■ 広義の大奥。

   ● 大奥は、 江戸城の、本丸の大奥、二の 

     丸の大奥、 西の丸の大奥 の3箇所に

     位置しており、 本丸の大奥には、現将軍

     の正室夫人・側室夫人や子供が住み、 

     二の丸の大奥には、将軍の生母や元将軍

     側室夫人が住み、 西の丸の大奥には、

     将軍世子夫婦や大御所夫妻が住んでいた。

 

   ■ 江戸城の本丸。

   ● 江戸城の本丸は、 表(おもて) と 中奥

    (なかおく) と 大奥(おおおく) に分かれ

    ていた。

 

   ■ 江戸城の本丸の大奥。

   ● 徳川将軍家の、「江戸城本丸の大奥」とは、 

     1603年から1867年までの約265年間

     日本を支配した、徳川将軍家15代の 

     将軍の、 夫人、子とその家臣(奥女中)が

     住む生活空間(場所)で あった。 

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

 

 ■ 儒教思想の本格的な導入と普及。

 

   ■ 江戸時代、日本を徳川氏の下(もと)に

     統治するため、徳川 氏独裁政権を長期に

     維持するため、 江戸幕府は、 儒教思想

     (特に朱子学)本格的に導入し、普及さ

     せ る。 自由・平等主義に逆行し、 江戸

     幕府は、儒教思想の基づく、 法令上、道

     徳上、不平等な身分社会を形成する。

 

 

 ■ 「身分重視」、身分階級制中心の

    社会。

 

   ■ 自由・平等主義の現代の日本と違い、

          江戸時代の日本社会は、 厳しい身分階

      級制の社会であった。 儒教思想により、

     能力より、階級 (上下級武士、士農工商)、 

     家柄、 家格、 生まれた順番 (例、長子

     相続)、 性別(男女) など、生まれなが

     らの身分が重要であり、 主に、身分でそ

     の人が評価された。  

 

   ■ 実力主義と人の身分が変動した安土桃山 

        時代 (例、農民・足軽出身の秀吉が武家関

    白政権をつくる) と違い、 日本の歴史の

    中でも、江戸時代は、 比較的争いの少ない

    平和な時代であったが、江戸時代の日本 社

    会は、身分が固定された、超・不平等社会

    であった。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

 

 ■ 「お家第一」、

    家父長制中心の武家社会。

 

   ■ 現代日本と違い、江戸時代の武家社会

     では、 儒教思想により、「家」が個人より

     大事であり、 個人は、「家」のために、全

     てを犠牲にした。

 

   ■ 江戸時代の武家社会では、 武家は、

     「家」意識が非常に強く、「家」に対する忠

     誠心が重んじられ、 また、「家」を存続さ

     せるため、あらゆる努力をはらった。 

 

   ■ 「家」と「家」との結婚。  

   ● 武家の女性は、 家長、親の命令に従う。 

     武家の女性は、男性を選べず、家長、親

     の決めた相手と結婚した。

       武家の女性は、 個人の男性でななく、 

     「〇X△家」の男性と婚儀を結んだ。

 

 

 ■ 「一夫多妻制」、

    一夫多妻制の武家社会。

 

   ■ 家を存続させるための武家の「一夫多

      妻制」。

   ● 江戸時代は、 医療未発達病気等で

     の子供成人死亡率が高かったため、 

     将軍や上級武士は、 徳川将軍家(徳川

     宗家)や名家という家を存続させ、 家の

     「お血筋」を絶(た)やさぬため、 多くの

     夫人を持ち、多くの子をつくり、 男子の

     跡継ぎを確保しようとした。 

 

 

 ■ 大奥の使命。

 

   ■ 江戸城本丸の、大奥の使命とは、 

     徳川将軍家(徳川宗家)の世襲制の将軍

     の「お血筋」を絶(た)やさぬことであった。  

     将軍のお世継ぎを誕生させ、元服(成人)

     まで、養育することであった。

 

   ■ 江戸城本丸の大奥とは、将軍の世継ぎ

     誕生・養育システムを担う、江戸幕府の

     機構(官僚組織)の1つであり、 大奥は、

     江戸時代、事実上、日本政治(行政・司

     法・立法)  将軍継嗣 に深く関与

     た。

 

 ■ 将軍のプライベート空間の大奥。

 

   ■ 江戸城の本丸の大奥とは、 将軍のプラ

     イベート空間であり、将軍の正室夫人の

     御台所(みだいどころ)から雑用係まで

     が居住し、 奥女中・約1000人の女性が 

     大奥で、勤務していた。

 

 ■ 大奥の支出。

   ■ 江戸幕府の大奥は、幕府財政の4分の1

     以上を支出し、約1000人の奥女中がい

     る、巨大で、特殊な組織であり、 世継ぎ

     を誕生させ、養育する、幕府の政府機関

     であった。 

         江戸幕府の本丸の大奥の侍女(奥

     女中)は、 将軍の跡継ぎの出産や養育

     に熱心に取り組んだ。

         江戸時代、時期により金額は異なる

     が、だいたい、江戸幕府財政の年間一般支

     出80万両(約640億円)の4分の1の20

     万両(約160億円)が、大奥に支出され、 

     そのうち半分の10万両(約80億円)が大

     奥の女性の服飾代 (服代・装身具代等) 

     であった。 

   ● 現代の女性も、ドレス、靴、ブランドバック、

     アクセサリーにお金をかけるが、女性の本 

     質は、今も昔も変わっていない。 大奥の

     女性も、当時のトレンディーな衣類、履物、

     服飾小物、装身具等にお金をかけ、オシャ

     レに夢中になる現代女性とあまり変わらな

     い。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

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 ■ 将軍の世襲と大奥。

   ■ 世襲制の将軍継承者を誕生させ、

     養育する場所の、大奥。

   ● 江戸城の本丸の大奥は、世襲制の将軍

     の後継者を生み、育てる場所であった。

 

   ● 江戸城本丸の大奥で、将軍が、誕生し、

     長く養育されることにより、大奥の女性が、

     次期将軍を決定したり、現将軍を操ったり、

     幕閣(幕府重臣)人事を左右する場合も

     あった。

 

   ■ 将軍世襲制の江戸幕府では、 将軍は、

     徳川氏の「御血筋(おちすじ)」が第一で

     あり、 次期将軍を生み、育てる大奥の

     女性が、 次期将軍の決定権を左右する

     ことも多く、 キングメーカーとして、江戸

     時代の日本の政治に絶大な影響を与え

     た。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

 

 ■ 「禁断の園」、「謎の女性集団」の

    大奥。

 

   ■ 江戸城の本丸の大奥は、 江戸城の本丸 

     (現、皇居東御苑、1万坪、約33000平方

      メートル) の一部にあり、 1590年の家

     康の関東領地換え後、江戸時代初めまで

     は、 単に将軍の夫人(正室や側室)や子

     供が暮す場所であった。

        しかし、 お江与(おえよ、お江、徳川

     秀忠の正室夫人、徳川家光・生母)やお福 

     (おふく、春日局(かすがのつぼね)、徳川

     家光の乳母(うば)) が、 1618年(元和

     4年)に大奥法度(おおおくはっと)を定め

     て以後、 通常、将軍以外男子禁制となり、 

     大奥内は、将軍の夫人や子供と、奥女中

     (将軍臣下の女性)・約1000人で構成さ

     れる「女の園」となった。 

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 一般的に、大奥の内情は、江戸時代、

     秘密とされた。 但し、「徳川実記」、その

     他の書物には、大奥に関する記録もある。

        江戸幕府の公式記録である「徳川実

     記」 や 「続徳川実記」(未完成)は、 江

     戸幕府が対面を保つため、史実と異なり

     都合よく書かれた箇所もあり、 現在は、

     他の、多くの江戸時代の書物、資料、発掘

     調査結果等と照合して、内容が、判断され

     ている。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 大奥の内情・実態が詳しくわかるようにな

     ったのは、 明治期以降であり、 1868年 

     (慶応4年)の江戸城開城で、大奥より暇を

     出された奥女中の女性が、 記録を残し、明

     らかになった。 

 

   ■ 江戸時代は、 江戸幕府の大奥の約定で、

     「守秘義務」があり、 江戸幕府が日本を支

     配していた江戸時代の間は、 大奥の奥女

     中は、退任後も、 奥のことは、公式には話

     せなかった。

 

   ■ 大奥を描いた、興味深いドラマ。

  ■ 『 大奥・もうひとつの物語 』。 

     (フジテレビの2006年制作テレビドラマ)。

   ■ 江戸時代・中期の大奥を描く。

   ■ 江戸幕府の第6代将軍・徳川家宣(いえ

     のぶ)時代 と その時代の大奥を描いた

     ドラマ。

 

   ● 深田恭子、高島礼子、井川遥、浅野

     ゆう子などが出演。

  

   

   〇 ドラマ「大奥・もうひとつの物語」での

     江戸幕府・大奥の奥女中フォト。 

     (フォトの上部は深田恭子が演じる奥女中)。

   ○ ドラマ「大奥・もうひとつの物語」の

     PRフォト (DVD販促用PRフォト)。

     

 

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#jphappenings/summary-s

#jpsituationofthelateedoeraand

earlymeijiera

 

 

◆ 幕末、明治時代

   初期の日本の

   情勢。 

        (1853年〜1877年)。

 

 

 ■ (1) 「 軍事力なき軍事政権 」

             (軍事弱体)の江戸幕府。

   ■ 幕末、 日本は、まだ産業革命は起きて

     おらず、近代化していなかった。 欧米諸

     国に比べ、 工業力、軍事力で遥(はる)

     かに、劣っていた。

 

   @ 幕末や明治時代初期に、 イギリス、フラ

     ンス、アメリカ、ロシアなどの欧米列強が、

     日本を植民地にしようと狙っていた。 

 

   A しかし、 弱肉強食の世界情勢の中で

     幕末日本を支配していた江戸幕府は

     欧米列強を追い払い、 欧米列強に対

     抗できる 軍事力を持っていなかった

 

   B 幕末、 日本を支配する江戸幕府は、 

     欧米列強から軍事力で脅(おど)かされ、

     欧米列強との戦い(全面戦争)を避けるた

     めに、 欧米列強の要求をのみ、 不平等

     条約 (安政の5カ国条約、1858年)を結

     び、かろうじて、一時的に、欧米列強の植

     民地になるのを免(まぬが)れた。

 

   ● もし、幕末や明治時代初期に、 日本を支

     配する江戸幕府や明治新政府が、欧米列

     強と全面戦争をしていたら、 完全に敗北し、 

     当時の清国(中国)やインドのように、 欧米

     列強の植民地 になっていたであろう。

 

   ● 不平等条約 (安政の5カ国条約、1858年) 

     を結び、かろうじて、一時的に、 欧米列強の

     植民地になるのを免(まぬが)れていたとはい

     え、 不平等条約は、植民地化の第一歩であ

     った。

 

   ■ 幕末、明治初期、 その後も、 欧米列強は、 

     隙(すき)さえあらば、日本を本格的に植民地

     にし、搾取(さくしゅ)しようと、狙(ねら)ってい

      。  

       欧米列強は、 日本で全面戦争の内乱(内

     戦)が起こり日本全体の軍事力が更に弱体化

     した時には、 抵抗が少なくなり、 日本領土を

     容易に奪えると考えて、 その機会をうかがっ

     ていた。 

        しかし、 戊辰(ぼしん)戦争 (新政府軍

     と旧幕府一部残存勢力との争い) や 西南戦

     争 (新政府軍と一部不平士族勢力との争い) 

     という部分戦争 (大勢力が中小勢力と戦う戦

     争) は、起きたが、 全面戦争の内戦 (大勢

     力同士が戦う戦争) (新政府軍と旧幕府勢力

     軍との全面戦争、 明治新政府機関内同士の

     全面戦争) は、起こらず、欧米列強は、日本

     を植民地にする機会を失った。

 

   C そのような弱肉強食の国際情勢の中で、

      幕末や明治時代初期、 日本は、欧米列

      強の植民地にならないためにも、 一刻

      も早く、 殖産興業、富国強兵を行い、

      大きな工業力、軍事力をもち、 更に、欧

      米列強と肩を並べられる近代国家になる

      必要があった。

 

   ● 幕末、 幕政改革という幕府内(日本政

      府内)の改革では近代国家はできず、 

      封建的な幕府という日本政府では近代国

      家の建設はできず、近代国家の建設には、

      江戸幕府は邪魔(じゃま)であり、 幕府を

      倒して、新政府を作り、 近代国家を成立

      させようという勢力(薩長連合等)が、幕末

      に出現した。

 

 

 ■ 下級武士等下層身分の人々が、

    幕藩体制の打倒を切望。

   ■ 江戸時代、 江戸幕府の将軍を頂点として、 

     ピラミッド社会がつくられていた。

   ● 江戸時代は、江戸幕府の幕藩体制の下に、 

     生まれながらに、日本の全ての人々は、身

     分が固定され、 農工商民は、武士に服従

     し、 下級武士は、上級武士に服従し、 上

     級武士は、藩主に服従し、藩主は、江戸幕

     府の将軍に服従していた。 

 

   ■ 江戸時代は、 生まれながらの「身分」に

     よって、生き方が決まってしまう構造の社

     会であった。

   ● 能力や実力があっても、 多くの下級武

     士は、上級武士になれなかった。 また、

     下級公家(くげ)も上級公家にはなれな

     かった。 

       それらを打破するには、 旧秩序を崩

     壊させる必要があった。 

       幕末に、身分の固定が、大きな不満と

     なり、爆発した。

 

   ■ (実例) 

   ○ 下級武士 : 西郷隆盛 (さいごうもたか

     り)、大久保利通 (おおくぼとしみつ)、 

     坂本龍馬 (さかもとりょうま)。 

   ○ 下級公家 : 岩倉具視(いわくらともみ)。

 

   ■ そこで、下級武士や下級公家は、 自分達

     の社会的地位を上昇させるため、 旧体制

     や封建体制を打破し、 日本を支配する江

     戸幕府を倒し、 新政府を樹立する動きに

     出る。

 

   ● 幕末、 西郷隆盛、大久保利通、坂本竜馬

     などの下級武士 や 岩倉具視などの下級

     公家が、 旧体制や封建体制打破、倒幕、

     新政府樹立を行う改革の中心勢力となる。

 

   ■ 幕末、 農工商民や女性も、 不平等な旧

     体制や封建体制に不満をもち、 その改革

     の動きを支持する。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

 

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#jphappenings/summary-j5000

 

 

◆ 璋院・篤姫 の

   活躍。 

 

 

#jphappeningsbyperiod

 

◆ 璋院・篤姫

    時期別各編

 

 ■ 璋院・篤姫 

    関連年代順出来事

     (各時期詳細)。

 

  ○ 『 さあ、天璋院・篤姫に関連

      する様々な出来事をみてみ

      よう。 』

 

 

   □ ≪1835年〜1856年≫

       徳川将軍家輿入れ前の篤姫

 

   □ ≪1856年〜1858年≫

       13代将軍 ・家定の正室夫人

      時期の天璋院 ・篤姫

 

   □ ≪1858年〜1866年≫

      14代将軍 ・家茂治世時期の

      天璋院・篤姫

 

   □ ≪1866年〜1868年≫

      15代将軍・慶喜治世時期の

      天璋院・篤姫

 

   □ ≪1868年〜1883年≫

      江戸城無血開城後の天璋院 ・

      篤姫

 

 

 

 

◆ 天璋院 篤姫関連

   年代順出来事

   (各時期・詳細)。

 

 

#jphappeningsbyperiod-1835

 

◆ ≪1835年〜1856年≫

   徳川将軍家輿入れ前の

   璋院・篤姫

 

   

   ○ 幕末の大奥の実力者の天璋院・篤姫

     (てんしょういん・あつひめ、篤姫役:

     宮崎あおい)。  

   ○ ドラマ「篤姫」での天璋院・篤姫フォト

     (宮崎あおいが演じる篤姫)。 

   ○ テレビ局のドラマ「篤姫」の出版本の

      書籍販促用PRフォト。

 

 

   ■ (1) 篤姫は、 薩摩藩の島津(しまづ)家

     の分家・今和泉(いまいずみ)・島津家の女

     性(姫君)として生まれ、育ち、 その時の

     名前は、於一(おかつ)であった。 

 

   ■ (2) 篤姫は、 薩摩藩藩主・島津斉彬(な

     りあきら)に気に入られ、島津(しまづ)家本

     家の養女となり、 名前を、島津(源)篤子

     (あつこ)、通称・篤姫(あつひめ)と改める。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。 

 

  ■ (3) 篤姫は、 薩摩藩藩主・島津斉彬(なり

    あきら)の政治工作により、 婚儀のため、

    近衛家養女となり、 近衛(藤原)敬子(すみこ) 

    と名前を改め、1856年に、 江戸幕府の第

    13代将軍・徳川家定 (いえさだ、在任:18

    53年〜1858年)の正室夫人 (御台所(み

    だいどころ)) となる。 

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 徳川家定に関しては、 日本史辞典の 

     『 徳川家定 (とくがわ いえさだ) 』 を

     参照して下さい。

 

   ■ 島津斉彬(なりあきら)のバックアップによ

     る篤姫の輿(こし)入れでは、 薩摩藩の島

     津家が、徳川将軍家と姻戚関係を結び、 ま

     ず、薩摩藩・島津家の家格を上げ、 密貿

     易等の藩の問題を回避させ、 幕府での発

     言力を増すことが 斉彬(なりあきら)の第1

     の狙い(目的)であった。 

        次に、 斉彬(なりあきら)の野望は、 

     一橋慶喜を幕府の次期将軍にたてて、 

     水戸藩をはじめ雄藩と組んで、 江戸幕府の

     政治の実権をにぎることで、 幕府の政局に

     大きな力をもつことであった。  次期14代

     将軍を一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に擁

     立するという将軍継嗣(けいし)問題は、2次

     的な目的であった。 

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 島津斉彬一橋慶喜に関しては、 日本史

     辞典の 『 島津斉彬(しまづなりあきら)、 

     徳川慶喜(とくがわよしのぶ) 』 の各項目

     を参照してください。

 

 

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#jphappeningsbyperiod-1856

 

◆ ≪1856年〜1858年≫

   13代将軍・徳川家定の

   正室夫人時期の璋院・

   篤姫

 

   

   ○ 幕末の大奥の実力者の天璋院・篤姫

     (てんしょういん・あつひめ、篤姫役:

     宮崎あおい)。  

   ○ ドラマ「篤姫」での天璋院・篤姫フォト

     (宮崎あおいが演じる篤姫)。 

   ○ テレビ局のドラマ「篤姫」の出版本の

      書籍販促用PRフォト。

 

 

   ■ (1) 次期14代将軍継嗣問題とは、 江戸

     幕府の第13代将軍家定は、 病弱で、 

     跡継ぎの子がなく、 江戸幕府の次の

     14代将軍を誰にするかという問題である。

 

   ■ 前水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の7男

    で、一橋家へ養子に行った一橋慶喜(よし

    のぶ)を次の将軍に推(お)す一橋派 と、 

    11代将軍家斉(いえなり)の孫で、紀州藩

    主・徳川慶福(よしとみ)を推す紀伊派(南

    紀派)が、 対立した。

 

   ■ 有力大名合議制の日本政治を目指す一

    橋派と、 徳川氏独裁体制の従来型の日本

    政治をめざす紀州派(南紀派)とが、対立し

    た。

 

   ■ 島津斉彬一橋慶喜に関しては、日本史

     辞典の 『 島津斉彬(しまづなりあきら)、 

     徳川慶喜(とくがわよしのぶ) 』 の各項目

     を参照してください。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 一橋慶喜徳川慶福に関しては、日本史

     辞典の 『 徳川慶喜 (とくがわよしのぶ)、 

     徳川慶福(とくがわよしとみ) 』の各項目

     を参照してください。

 

   ■ 江戸幕府の、11代将軍・徳川家斉(いえ

     なり)の子には、 2男の徳川家慶(いえよ

     し) と、 7男の徳川斉順(なりゆき)がい

     た。 

   ● 徳川家慶(いえよし)は、 江戸幕府の 第

     12代将軍となり、その子家定(いえさだ)

     が、13代将軍となる。

   ● 一方、徳川斉順(なりゆき)は、紀州徳川

     家へ養子に入り、12代紀州藩主となり、

     その子が、 13代紀州藩主・徳川慶福(よ

     しとみ)(在任:1849年〜1858年、4歳

     〜13歳) となる。

   ● 徳川慶福(よしとみ)は、  江戸幕府の第

     13代将軍・徳川家定(いえさだ)の従兄

     弟(いとこ)である。

        江戸幕府の、13代将軍・徳川家定に

     一番「御血筋」(おちすじ)が近いのが、

     川慶福(よしとみ)であった。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ (2) 1856年(安政3年)11月に、

     璋院・篤姫(てんしょういん・あつひめ)

     は、 養父の島津斉彬(なりあきら)の密

     命を受け、次期将軍の決定権を左右す

     る徳川宗家に嫁つぎ、江戸城の大奥へ

     入る。 

        島津斉彬(なりあきら)の密命とは、

     江戸幕府の次期14代将軍を一橋慶喜

     (ひとつばしよしのぶ)にするというもの

     であった。

        徳川幕府の江戸城で、 篤姫は、篤

     姫側近の御年寄(おとしより)・幾島(いく

     しま)と共に、 一橋慶喜(よしのぶ)を次

     期14代将軍にする活動を行う。 

        幾島(いくしま)は、 薩摩藩主・島津

     斉彬の意を受けて、 世話役の西郷隆盛

     から軍資金(月平均1千両(現在の約1億

     円)を得て、 大奥で、お化粧料などの名

     目で、賄賂(わいろ)工作を展開するが、 

     大奥のほとんどの上級奥女中は、一橋慶

     を次期14代 将軍として支持せず、 そ

     の上、1857年(安政4年)に、 篤姫の

     輿入れをバックアップし、大奥の奥女中

     に非常に人気のあった、一橋派の中心

     人物の老中の阿部正弘( あべまさひろ)

     が急死し、不利となり、 家定の母・本寿

     院(ほんじゅいん)や家定の乳母・歌橋

     (うたはし)の意のままのマザ・コンの夫

     の将軍家定(いえさだ)も 一橋慶喜(よ

     しのぶ)を次期(14代)将軍として支持せ

     ず、うまくいかなかった。

         結局、1858年(安政5年)5月に、 

     次期14代将軍が徳川慶福 (よしとみ、

     後の家茂(いえもち))に決定してしまい、 

     篤姫は、将軍継嗣(けいし)の政治工作

     に失敗する。 

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 幾島に関しては、 日本史辞典

     『 幾島 (いくしま) 』 を参照してくだ

     さい。

                

   ■ 大奥の、家定の母・本寿院、家定の乳母・

     歌橋、上級奥女中が、慶喜を次期(14代)

     将軍として支持しなかった理由は、 次の

     ようなものであった。

 

   ● 水戸藩の徳川斉昭(なりあき)は、 大奥

     に悪龍として嫌われていて、 その悪龍の

     子(斉昭の子)である一橋慶喜(よしのぶ)

     を、 家定の生母・本寿院(ほんじゅいん)

     をはじめ、大奥のほとんどの上級奥女中

     が、 次期14代将軍として、支持しなかっ

     たためである。

 

   ● 当時、本寿院 (ほんじゅいん、13代将

     軍・家定の生母)、 歌橋 (うたはし、

     13代将軍家定の乳母、上臈御年寄)、 

     御年寄の滝山 (たきやま、大奥監督者

     (大奥の実務の実権をもつ人))、 その

     他大奥のほとんどの上級奥女中は、 水

     戸藩の徳川斉昭(なりあき)を、 非常に

     嫌っていた。

 

   ■ 滝山(瀧山)に関しては、 日本史辞典

     の『 滝山 (たきやま) 』を参照してく

     ださい。

 

   ■ 当時の大奥の将軍の生母・乳母及び

     上級奥女中が水戸藩の徳川斉昭を

     嫌う理由。

   ● (理由1) 徳川斉昭の、大奥への予算

      削減や大奥女性への暴言。

   〇 徳川斉昭(なりあき)は、幕政参与とし

     て、 大奥に倹約を求めた。 また、斉

     昭は、大奥の奥女中に対し、セクハラ

     まがいの発言も多かったのである。 

   ○ 水戸関係者による大奥予算カットへの

     恐れ。

     水戸の家風(水戸藩の水戸・徳川家の家

     風) は、 質素倹約を旨とし、緊縮財政

     をモットーとし、 水戸の関係者が、将軍

     になると、 江戸幕府の大奥の予算が 大

     幅に削減(カット)され、 大奥の奥女中

     は、贅沢(ぜいたく)華美な暮らしができ

     なくなる恐れがあった。 

         『 男女の欲を抑えて、男子禁制の

     大奥で仕(つか)える、大奥の奥女中に

     とって、 贅沢(ぜいたく)華美の暮らしが、

     実際、 そのはけ口、唯一の楽しみ 』 と

     なっていた。 

         これは、12代将軍・徳川家慶(いえ

     のぶ)時代、 大奥の監督者(大奥の実務

     の実権を握る人)で美女の御年寄(おとし

     より、大奥上級幹部)の姉小路(あねこう

     じ)が、 大奥予算カットを迫った老中・

     水野忠邦に述べた言葉である。 

         それは、現代的に言いますと、

     男女が結婚後、夫が仕事で忙しく、夫

     にかまってもらえない妻が、 高価なショ

     ッピングで気分を晴らすようなものである。

 

   ● (理由2) 徳川斉昭のスキャンダル。 

     斉昭(なりあき)による唐橋(からはし)懐妊

     事件。

   ○ 水戸藩の徳川斉昭(なりあき)は、大奥

     の掟(ルール)無視の行動をとる。 

 

   〇 江戸幕府の大奥の掟(ルール)では、 

     たとえ将軍といえども、大奥の実務幹部

     の御年寄(おとしより、大奥上級幹部)

     には、 手を出せなかった。 

        好色の11代将軍・徳川家斉(いえ

     なり)も、 後の12代将軍になる徳川

     家慶(いえよし)も、 大奥の掟(ルール)

     により、 絶世の美女で大奥実務幹部の

     御年寄の唐橋(からはし)には、手を出

     さなかった。

        但し、秘密裏に、将軍が、実務幹部

     の御年寄と閨(ねや)をともにした例は

     ある。

 

    〇 11代将軍・徳川家斉(いえなり)の7女

     の峰姫が、 大奥・実務幹部の御年寄の

     唐橋(からはし)を伴って、 江戸幕府の

     大奥より、水戸徳川家の水戸藩8代藩主・

     徳川斉脩(なりのぶ)に嫁いだ時、 こと

     もあろうか、 大奥の実務幹部の上臈御

     年寄(じょうろう・おとしより、大奥・上席

     上級幹部)で絶世の美女の唐橋(からは

     し)に、 水戸藩邸にいた藩主斉脩の弟

     の、徳川斉昭 (なりあき、当時部屋住み、

     後の9代水戸藩主)が、一目ぼれし、無

     理矢理手込めにし、懐妊(妊娠)させてし

     まった。  当時、部屋住みの権力のない、

     若かった徳川斉昭(なりあき)にとって、 

     その方法以外に、一目惚(ほ)れした絶世

     の美女の唐橋を手に入れる方法はなか

     たようである。

         現代では許されないが、 女性の意

     志に関係なく、女性を無理矢理手込めにし

     て結婚するこの方法は、 人類の古来から

     あり、 「原始時代の結婚形態」から始まっ

     ている。

           「原始時代の結婚形態」とは、 男性

     は、好きな女性を見つけたら、女性の頭を

     ポカンと叩(たた)き、気絶させて、女性の

     長い髪をつかみ、気絶した女性を引きずっ

     ていき、 住んでいる洞穴(ほらあな)に連

     れて行って、夫婦になるという結婚形態で

     である。

 

   〇 前代未聞の、その大奥の掟(ルール)を

     無視した徳川斉昭 (なりあき)の行動に、 

     (唐橋の姉で美女の大奥・奥女中で後に

     御年寄りになる)姉小路(あねこうじ)をは

     じめ、 大奥の奥女中は、皆、徳川斉昭 

     (なりあき)に怒り、嫌うようになる。  

        それ以来、大奥の奥女中 は、皆、徳

     川斉昭嫌い(水戸藩嫌い)となる。

 

   〇 (注意) 『 篤姫(あつひめ) 』 (2008

     年NHK大河ドラマ、宮崎あおい主演) に

     登場する、篤姫側近の老女(上級奥女中)

     の唐橋 (幾島が大奥を去った後の篤姫

     の側近)とは、 同名であるが、別人である。

 

   ■ 徳川斉昭、唐橋に関しては、日本史辞典

     の『 徳川斉昭 (とくがわなりあき)、 唐橋 

     (からはし) 』 の各項目を参照してください。

 

 

   ■ (2) 体の弱い13代将軍・徳川家定の治

     世(時代)に、次期14代将軍継嗣問題が

     起こり、有力大名合議制の日本政治を目指

     す一橋派と、徳川氏独裁体制の従来型の

     日本政治をめざす紀州派(南紀派)とが、

     対立した。

         一橋派の島津藩主・島津斉彬(な

     りあきら)の意向で動く、天璋院・篤姫は、 

     次期14代将軍に徳川慶福(よしとみ、

     後の家茂(いえもち))を支持する、紀州

     派(南紀派)の、家定生母・本寿院 (ほ

     んじゅいん) や 親藩大名・彦根藩主の

     井伊直弼 (いいなおすけ)に対抗して、 

     (輿入れの時からの世話・監視・連絡係

     の)同志の西郷隆盛を通じて、島津斉

     彬(なりあきら)と連絡をとり、大奥で活

     動する。 

        しかし、 大奥のほとんどの 大奥上

     級奥女中は、大奥や大奥女性を軽視す

     る一橋慶喜の父・水戸斉昭(なりあき)を

     嫌い、一橋慶喜を支持せず、紀州派を支

     持する。 更に、天璋院・篤姫の夫の将

     軍・徳川家定も一橋慶喜を支持せず、

     一橋派の天璋院・篤姫は、将軍継嗣(け

     いし)活動で、紀州派の反対を抑えきれ

     ず、大奥で味方を得られなかった。

         西郷隆盛は、次期14代将軍に一

     橋慶喜(よしのぶ)を支持する、一橋派の

     幕臣、諸大名、天璋院・篤姫と も連携して、

     活動する。

        一方、1857年、一橋派の中心人物

     の老中の阿部正弘(あべまさひろ)が急死

     し、一橋派は不利となり、更に、一橋派の

     島津藩主・島津斉彬も急死し、 譜代大名

     の多くが、従来のような徳川氏独裁体制を

     望み、紀州派を支持し、一橋派は紀州派

     に対し、敗退する。   

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

   

   ■ 西郷隆盛に関しては、 日本史

     辞典の 『 西郷隆盛 (さいごう たかも

     り)』 を参照してください。

 

 

   ■ (3) 天璋院・篤姫(てんしょういん・あつ

     ひめ)は、 政略結婚で嫁いできたが、 

     病弱な夫・徳川家定(いえさだ)に、次第

     に、愛情をいだくようになる。

 

 

   ■ (4) 1858年(安政5年)4月に、 江戸

     幕府の13代将軍・徳川家定が、 紀州派

     (南紀派)の井伊直弼(いいなおすけ)を、 

     大老に就任させる。 

 

   ● 結局、1858年(安政5年)5月に、紀伊派

     (南紀派)の大老・井伊直弼(いいなおすけ)

     が推(お)す紀州藩主・徳川慶福 (よしとみ)

     が、 江戸幕府の次期14代将軍となること

     が決まる。

 

   ● 徳川慶福 (よしとみ)は、徳川家茂(いえ

     もち)と改名して、江戸城へ入 る。

 

   ● その後、 数え年13歳の徳川家茂(慶福) 

     は、 現将軍・徳川家定(いえさだ)と養子

     縁組をして、 形式的に、家定は、家茂(慶

     福)の父(養父)、 家定の正室の篤姫は、 

     家茂(慶福)の母(養母、義母) となる。

 

   ● そして、璋院・篤姫、 現将軍・徳川

     家定の正室夫人であり、 次期14代将軍

     の数え年13歳の家茂(慶福)の母( 養母、

     義母)となり、 皮肉なことに、 江戸幕府

     で、大きな発言力を持つこととな る

     これ以後、 幕末の江戸幕府の実力者(女

     帝)として、 その発言が幕政にも影響を

     与えることとな る

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

   

   ■ 井伊直弼、 徳川慶福(家茂)に関しては、 

     日本史辞典の 『 井伊直弼 (いいなおす

     け)、 徳川家茂 (とくがわいえもち) 』 

     の各項目を参照してください。

 

 

   ■ (5) その後、璋院・篤姫の夫の徳川

     家定(いえさだ)が、1858年(安政5年)

     7月に、 篤姫の嫁いだ後1年9ヶ月で、 

     病死する。

        死因は、脚気(かっけ)による心不全

     (しんふぜん)であった。

        篤姫は、悲しみにくれ、 夫・徳川家定

     の死去に伴い落飾して、天璋院 (てんしょ

     ういん)と名乗る。 数え年・23歳の若さで、 

     未亡人となる。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ (5) 天璋院・篤姫の変身。

   ● 天璋院・篤姫は、 「薩摩の女」から「徳川 

     の女」へと変身する。

 

   ● 13代将軍・徳川家定(いえさだ)の死後、 

     1858年(安政5年)10月に、 徳川家茂

     (いえもち、徳川慶福)が 江戸幕府の14

     代将軍となる。

 

   ● 1858年(安政5年)7月に、 夫の江戸

     幕府・将軍の徳川家定 と 養父の薩摩

     藩主島津斉彬(なりあきら)が急死する。 

        その後、璋院・篤姫は、考えを変え、

     嫁ぎ先の徳川宗家、江戸幕府に味方し、

     尽くす。 そして、倒幕(幕府打倒)をめざ

     す実家の薩摩藩の出身の人達と敵対し、

     一時期、不和になるが、その後、和解する。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ● 天璋院・篤姫は、 落飾後、静かに、 亡

     (な)き将軍・徳川家定の菩提(ぼだい)を

     弔(とむら)う暮らしをするつもりであった。  

        しかし、井伊直弼(なおすけ)に擁立

     されたお飾り将軍の数え年13歳の少年

     で、性格の良い14代将軍・徳川家茂(い

     えもち)が、 天璋院・篤姫を 「母上(は

     はうえ)」と呼び、 天璋院・篤姫を、公私

     ともに、非常に頼りにするに及んで、 母

     性本能に目覚めて、考えを変え、 天璋

     院・篤姫は、 徳川宗家の人間として、 

     これ以後、大奥や幕政を支える決意を固

     める。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ● 天璋院・篤姫は、 自分の後ろ盾となって

     くれた3人を急死で、失う。 即ち、徳川家

     定との縁談を求め自分を輿入れさせ支え

     てくれた老中・阿部正弘(まさひろ)を18

     57年に失い、 夫の13代将軍・徳川家

     定(いえさだ)を1858年7月に失い、 

     自分を輿入れさせ自分を支えてくれた薩

     摩藩主・島津斉彬(なりあきら)も、1858

     年7月に失う。 

        そして、夫を愛し、子供を生み育て、

    幸せな家庭を実現できなかった、失意の

    中の篤姫にとって、自分をいたわり、自分

    を「母上(ははうえ)」と呼び、 公私ともに

    非常に頼りにしてくれる、性格の良い少

    年の14代将軍家茂(いえもち)を、 篤姫 

    は、 自分の子供のように思え、将軍の母

    (養母、義母)として、 徳川家茂(いえもち)

    を助け、 大奥や幕政を支える決意を固め

    る。 

 

   ● 天璋院・篤姫は、 江戸幕府の14代

     将軍の徳川家茂(慶福)が、形式的に、

     自分の養子になったとはいえ、 まさか

     政敵の家茂(慶福)が、 自分を「母上

     (ははうえ)」と呼び、 自分に近づい て

     くるとは、 篤姫にとって夢にも思わな

     かった、想定外の事であり、 それだけ

     に天璋院・篤姫には熱い思いが込上げ

     てきた。 子供を持てなかった篤姫は、

      母としての喜びを味わい、 母性本能

     を刺激されて、 篤姫は、残りの人生を、

     養子の徳川家茂(いえもち)や 徳川宗

     家、江戸幕府のために、身をささげる

     決意を固める。 そして、後に、討幕

     (幕府打倒)派となる薩摩藩の人々と

     一時期、敵対することとなる。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

 

 ■ 家茂、家茂生母の実成院 と 

    天璋院・篤姫との利害の一致。

   ● 「 昨日の敵は、今日の友 」。 

   ● 紀州派(南紀派)の徳川家茂、家茂生母・

     実成院 と、 一橋派の天璋院・篤姫の

     仇敵の両者が、 利害が一致し、手を組

     む。

 

   ■ 徳川家茂や家茂生母の実成院の思惑。

   ● 1858年、徳川家茂は、大老・井伊直弼

     に擁立されて江戸幕府の14代将軍にな

     るが (大老・井伊直弼のおかげで将軍

     になれたが)、 政治の実権は、大老・井

     伊直弼(いいなおすけ)がすべて握(に

     ぎ)り、 徳川家茂も、家茂生母・実成院

     も、2人とも、江戸幕府を全く自分達の思

     うようにできず、 また、紀州藩出身であ 

     り、当初、江戸幕府の政治のことはよく

     わからなかった。 

        そこで、徳川家茂や家茂生母・実成

     院は、かって政敵だった、政治に長 (た)

     けた璋院・篤姫に目をつけ、 璋院・

     篤姫を自分達の政治的な協力者とし、 

     大老・井伊直弼を牽制(けんせい)するこ

     ととする。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 天璋院・篤姫の思惑。

   ● 一方、璋院・篤姫は、 自分の後ろ盾と

     なってくれた3人を急死で失い、 政治的

     に無力になってしまった。

        即ち、天璋院・篤姫は、  徳川家定と

     の縁談を求め自分を輿入れさせ支えてく

     れた老中・阿部正弘(まさひろ)を1857

     年(安政4年)に失い、 夫の13代将軍・

     徳川家定(いえさだ)を1858年(安政5

     年)7月に失い、 自分を輿入れさせ自分

     を支えてくれた薩摩藩主・島津斉彬(なり

     あきら)も、 1858年(安政5年)7月に

     失う。

 

   ● 1858年(安政5年)に、篤姫(天璋院)

     は、 徳川家茂や家茂生母・実成院から

     手を組みたいとの申し出があったので、 

     篤姫(天璋院) は、 政治権力を再び手

     に入れるため、かって政敵だった徳川 

     茂や家茂生母・実成院と手を組むことに

     した。 そして、大老・井伊直弼と対抗す

     ることにした。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

 

   ■ (6) 一方、天璋院・篤姫の実家である薩

     摩藩では、 1858年(安政5年)7月に、

     薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)が急死し、 

     斉彬の遺言により、腹違いの弟・島津久光

     の子の、島津茂久(もちひさ、後の忠義

     (ただよし))が、薩摩藩主となる。 

        ところが、(島津斉彬に藩主の地位を

     おわれた) 斉彬の父の元薩摩藩主で島津

     茂久(忠義)の祖父である、島津斉興(なり

     おき)が、 島津茂久(忠義)が若年である

     ことを理由に、 薩摩藩の実権を握ってし

     まった。 しかし、薩摩藩の実権を握った

     島津斉興が、 翌年1859年(安政6年)

     に死去し、 今度は、島津久光(ひさみつ)

     が、 1859年(安政6年)に、藩主・島津

     茂久(忠義)の父として、国父として、薩摩

     藩の実権を握る。 

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 島津斉彬 島津斉興、 島津久光に関し

     ては、 日本史辞典の 『 島津斉彬(しま

     づなりあきら)、 島津斉興(しまづなりおき)、 

     島津久光 (しまづひさみつ) 』 の各項目

     を参照してください。

 

 

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#jphappeningsbyperiod-1858

 

◆ ≪1858年〜1866年≫

   14代将軍・徳川家茂の

   治世時期の璋院・篤

   姫

 

   

   ○ 幕末の大奥の実力者の天璋院・篤姫

     (てんしょういん・あつひめ、篤姫役:

     宮崎あおい)。  

   ○ ドラマ「篤姫」での天璋院・篤姫フォト

     (宮崎あおいが演じる篤姫)。 

   ○ テレビ局のドラマ「篤姫」の出版本の

      書籍販促用PRフォト。

 

 

   ■ (1) 就任した14代将軍・徳川家茂を

         璋院・篤姫が支援する。

   ● 13代将軍・徳川家定(いえさだ)の死後、 

    1858年(安政5年)10月に、徳川家茂(い

    えもち、徳川慶福)が 江戸幕府の14代将

    軍となる。

 

   ● 14代将軍となった徳川家茂(いえもち)は、

     すなおで、人に優しく、思いやりのある性

     格であった。 権謀術数(けんぼうじゅっ

     すう)の政治家には向いていなかった。 

        後に、公武合体の政略結婚で、徳川

     家茂を形式的な夫と考え、いやいやながら、

     徳川宗家に嫁いできた和宮(かずのみや)

     も、徳川家茂を知るや、恋に落ちてしまう

     ほどの良い人柄であった。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 徳川家茂、和宮に関しては、 日本史辞典

     の 『 徳川家茂(とくがわいえもち)、 

     和宮 (かずのみや) 』 の各項目を参照

     してください。

 

   ■ 璋院・篤姫 と 徳川家茂、徳川慶喜 

     との利害が一致。

   ● 14代将軍となった数え年13歳の徳川

     家茂(いえもち)は、 元紀州藩主で、紀

     州(和歌山県)出身であり、 将軍就任当

     時は少年で、 江戸は見知らぬ土地であ

     り、 江戸(東京)、江戸城、江戸幕府、

     幕政のことは、 ほとんどわからず、 自

     分を将軍として擁立してくれた井伊直弼

     (いいなおすけ)も自分をお飾り将軍とし

     か思っていないのを知り、 心細く感じた

     将軍・徳川家茂(いえもち)は、 これ以 

     後、政治に長(た)けた天璋院・篤姫を、

     「母上(ははうえ)」と呼び、 母(養母、

     義母)である天璋院・篤姫を、公私とも

     頼りにし、私的な政治顧問としても頼り

     にすることとなる。 そして、14代将軍の

     後見職で 次期の15代将軍の一橋慶喜

     (よしのぶ)も、天璋院・篤姫の政治的能

     力を知り、天璋院・篤姫を、私的な政治

     顧問として、頼りにすることとなり、 天璋

     院・篤姫は、 幕末の江戸幕府を支える

     こととなる。 

        但し、天璋院・篤姫は、 個人的には、 

     徳川家茂は好きであったが、 徳川慶喜

     は嫌いであった。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ (2) 璋院・篤姫の夫・将軍の徳川家定

     の死後、 薩摩藩は、天璋院・篤姫の薩摩

     帰国を江戸幕府に願い出るが、 天璋院・

     篤姫本人が拒否し、 天璋院・篤姫は、薩

     摩へ帰国せず、 考えを変え、 そのまま 

     江戸幕府の江戸城に留まり、 嫁ぎ先の 

     徳川宗家のために尽くし、江戸幕府の将軍

     (14代家茂、15代慶喜)を補佐・助言し、

     1868年(慶応4年)4月11日の江戸城無

     血開城まで、江戸城に留まる。 

         一説には、井伊直弼が、一橋派の邪

     魔な天璋院・篤姫を、江戸幕府の大奥から

     追い出すために、薩摩藩に圧力をかけ、薩

     摩藩に天璋院・篤姫の薩摩帰国を幕府に願

     い出るようにさせたと言われている。

 

   ■ (3) 1858年(安政5年)の安政の5カ

     国条約で日本も外国諸国と貿易を開始し、

     日本は、本格的に開国し、 1860年の

     桜田門外の変で、大老・井伊直弼の死去

     以後は、 朝廷内も各藩内も、今までの 

     「攘夷派と開国派の対立や紀州派(南紀

     派)と一橋派の対立」から、 「尊王(勤皇)

     攘夷派と公武合体派の対立」へと政治情

     勢が変わっていく。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

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   ■ (4) 篤姫と和宮の対立と和解。

   ■ 和宮(かずのみや)は、公武合体のため、 

     江戸幕府から降嫁を要請され、 1861

     年に江戸へ下向、 翌年、将軍・徳川家

     茂と婚儀を結ぶ。

 

   ■ 和宮一行は、1861年10月に江戸に向

     けて出発し、 尊王攘夷派の襲撃を警戒

     しながら進み、 1862年(文久2年)2月

     に江戸に着き、 1862(文久2年)年2月

     に家茂と和宮の婚儀が 江戸城にて挙行

     され、 皇室より降嫁(こうか)し、ここに、

     公武合体が完成する。 

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   ■ 和宮 と 和宮の生母・観行院(かんこう

     いん)は、 1862年(文久2年)より、 江

     戸城の大奥にて、 大奥の最高権力者の、

     天璋院・篤姫 (てんしょういん・あつひめ)

     や実成院(じつじょういん)、 大奥の監督

     者(大奥の実務の実権をもつ人)の滝山

     (たきやま) と共に過ごすこととなる。

 

   ● 江戸城大奥へ入った、和宮、観行院(か

     んぎょういん) 及びお付の京都方の女

     官(奥女中)は、 宮中風の生活習慣を守

     り、大奥 側は 大奥になじまない和宮

     一同に不遇な待遇をしていじめるなどし、

     当初は険悪な空気であった。  しかし、

     人格に秀で他者への気遣いが巧みだっ

     た将軍・徳川家茂(いえもち)の機転で、 

     後に和宮側と大奥側は、和解する。

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   ● 和宮 と 和宮の生母・観行院(かんぎ

     ょういん)は、 現将軍・徳川家茂の義

     母(養母)の天璋院篤姫(てんしょういん

     あつひめ)、 家茂の生母・実成院(じっ

     せいいん、じつじょういん)、 13代将

     軍・家定(えいもち)の生母・本寿院(ほ

     んじゅいん)と対面し、 3人より、京風

     から江戸風の生活に慣れるようにと言

     われ、 その後、御年寄(おとしより)の

     滝山(たきやま)より、京風から江戸風

     の生活に改めるようにと言われる。 

        幕府に御所風(京風)の生活を保

     障すると言われていた和宮と観行院と 

     京都方の女官(奥女中)は、 当初は、

     大奥側の意向を無視し、 御所風(京風)

     の生活を重視し、 江戸風の生活に慣

     れようとはしなかった。 そのため、大

     奥側といざこざも少なくなかった。 

        大奥での生活で、和宮、観行院(か

     んぎょういん)及びお付の京都方の女官

     (奥女中)は、 大奥側の天璋院篤姫、 

     実成院、滝山、江戸方の奥女中 と、当

     初は、対立した。

 

   ■ 1866年、将軍家茂が、大阪城で、急死

     し、和宮は、落飾して、静寛院宮(せいか

     んいんのみや)と称す。 数え年・21歳の

     若さで未亡人となる。

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   ■ (4) 公武合体から倒幕へと政治情勢

     が変化。

   ● 1866年に、薩長同盟が結ばれ、これ

     以後、薩摩藩、長州藩が倒幕勢力の中

     心となり、 公武合体から倒幕へと政治

     の流れが変わる。

        朝廷内も各藩内も、今までの勤皇

     攘夷派と公武合体派の対立から、 王政

     復古派と公議政体派の対立、 倒幕派と

     佐幕派の対立へと政治 情勢が変わって

     いく。

         天璋院・篤姫も和宮も、まさか、自

     分の実家の薩摩藩や朝廷(皇室)が、自

     分の嫁ぎ先の徳川宗家(江戸幕府)の敵

     になろうとは考えてもいなかった。

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#jphappeningsbyperiod-1866

 

◆ ≪1866年〜1868年≫

   15代将軍・徳川慶喜の

   治世時期の璋院・篤

   姫

 

    

   ○ 幕末の大奥の実力者の天璋院・篤姫

     (てんしょういん・あつひめ、篤姫役:

     宮崎あおい)。  

   ○ ドラマ「篤姫」での天璋院・篤姫フォト

     (宮崎あおいが演じる篤姫)。 

   ○ テレビ局のドラマ「篤姫」の出版本の

      書籍販促用PRフォト。

 

 

   ■ (1) 篤姫は、 徳川家のため、戊辰

     戦争(1868〜69年)では、徳川氏の

     存続に尽力(じんりょく)する。

 

  ■ 「女性が、実家(生家)をとるか、

     嫁ぎ先(婚家)をとるか」。

   ● 古くて新しい問題。 女性が、実家(生家

     (せいか))生家をとるか、 嫁ぎ先(とつ

     ぎさき、婚家) をとるか。  

   ● 実家 (薩摩藩や朝廷)が 嫁ぎ先(徳

     川宗家の江戸幕府)を攻撃してきた時、 

     薩摩藩出身の天璋院・篤姫も、 皇室

     (朝廷)出身の和宮も、二人とも、 嫁ぎ

     先(徳川宗家の江戸幕府)をとった。

 

   ■ 天璋院・篤姫は、 勝海舟や和宮と協力

     し、江戸幕府の徳川宗家を存続させるた

     め、 朝廷や薩摩藩や江戸攻撃の東征軍

     へ働きかけ、 天璋院・篤姫和宮

     戸幕府の徳川宗家を存続させたいという

     思いが、 結果として、 旧江戸幕府(徳

     川宗家)の持つ実権(権限、領地、城等)   

     の明治新政府への平和的移譲に貢献し

     また、  旧江戸幕府(徳川宗家)軍 と 

     明治新政府軍 との本格的な全面戦争

     (内戦、内乱)を回避させ、日本の近代化

     に貢献する。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ● 江戸総攻撃については、 明治新政府の

     東征軍の江戸到着前に、勝海舟が、東征

     軍の江戸総攻撃を躊躇(ちゅうちょ)させ

     た。

        勝海舟の策により、明治新政府 の東

     征軍は、江戸到着前に、江戸総攻撃を 躊

     躇(ちゅうちょ)する

        というのも、明治新政府の東征軍が

     江戸(東京)へ向かう途中の時期に、

     幕府代表の勝海舟が、江戸(東京)をアジ

     ア貿易のよい市場・拠点にしようと思っ

     ていたイギリスに、東征軍の江戸攻撃

     があれば、幕府が自ら火をかけて「江戸

     を焼きつくす」と言ったため、 驚いたイギ

     リスが東征軍の江戸総攻撃に反対の立

     場をとったため、 当時イギリスの全面援

     助を受けていた明治新政府の東征軍は、 

     江戸到着前に、 江戸総攻撃を躊躇(ちゅ

     うちょ)する。

 

   ■ 幕末や明治時代初期、 欧米列強は、  

     隙(すき)あらば、 日本を本格的に

     植民地にし、搾取(さくしゅ)しようと、狙

     (ねら)っていた。  欧米列強は、 日本

     で全面戦争の内乱(内戦)が起こり日本

     全体の軍事力が更に弱体化した時、抵

     抗が少なくなり、 日本の領土を容易に

     奪えると考えて機会をうかがって

     いた。 しかし、 戊辰(ぼしん)戦争、

     西南の役という部分戦争は、起きたが、

     全面戦争の内戦(内乱)は、 起こら

     欧米列強は、 日本を植民地にする機

     会を失う。 

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

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   ■ 日本は、 幕末や明治時代初期に、欧米

     列強の植民地化を免(まぬが)れ、 難局

     をのりきり、その後、明治時代に、殖産興

     業、富国強兵を行い、 欧米列強に対抗

     できる強力な軍事力を持つ近代国家とな

     る。 

 

   ■ 朝廷(皇室)出身の和宮も、 薩摩藩出身

     の天璋院・篤姫も、 実家 (朝廷、薩摩藩) 

     が 嫁ぎ先(江戸幕府の徳川宗家)を攻

     撃してきたとき、 嫁ぎ先の江戸幕府の徳

     川宗家を守る立場にたった。

 

   ● 江戸攻撃の東征軍の、リーダーは、 

     大総督は、 有栖川宮熾仁親王 (ありす

     がわのみや たるひと しんのう)で、和宮

     の元許婚(いいなずけ)であり、 東征軍

     参謀は、西郷 隆盛(たかもり)で、天

     院・篤姫の盟友、苦楽を共にした元同志 

     (天璋院・篤姫の輿入(こしい)れをとりし

     きり、一橋派の天璋院・篤姫の連絡役)で

     あった。 

        有栖川宮も西郷も二人とも、 江戸

     幕府の徳川宗家に味方をした和宮や篤

     姫がたてこもる、江戸城を攻めるのには、 

     躊躇(ちゅうちょ)したであろう。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

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   ■ 江戸城の明け渡しに一時反対した天

     院・篤姫

   ● 1868年(慶応4年)の、3月の西郷・勝

     会談で、 徳川宗家の存続(減封・転封、

     領地縮小・移動) と、 4月の江戸城の

     開城・明け渡し (徳川宗家・本拠地引渡

     し) が決まった。

 

   ● しかし、天璋院・篤姫は、  旧江戸幕府

     の徳川宗家の減封(領地縮小)存続には

     賛成したが、 徳川宗家の居城の江戸城

     の明け渡しに反対だったので、明治新政

     府・東征軍に、江戸城を明け渡さない、

     大奥から出て行かないと言い出し、天

     院・篤姫は、 自分は徳川の女であり、 

     江戸城の大奥から退去するなら自害す

     ると言い張ったが、 幕閣の勝海舟が、

     熱心に天璋院・篤姫を説得し、やっと、

     璋院・篤姫は  江戸城・大奥からの退

     去に同意した。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

 

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#jphappeningsbyperiod-1868

 

◆ ≪1868年〜1883年≫

   江戸城無血開城後の

   璋院・篤姫

 

 

    

   ○ 幕末の大奥の実力者の天璋院・篤姫

     (てんしょういん・あつひめ、篤姫役:

     宮崎あおい)。  

   ○ ドラマ「篤姫」での天璋院・篤姫フォト 

     (宮崎あおいの演じる篤姫)。 

   ○ テレビ局のドラマ「篤姫」の出版本の

      書籍販促用PRフォト。

    

 

   ■ 江戸幕府滅亡後、明治期に、天璋院・篤

     は、 勝 海舟と協力して、 徳川宗家

     (とくがわそうけ、徳川本家)を維持し(支

     え)、徳川宗家・16代当主の幼年の徳川

     家達を養育する

 

   ■ 璋院・篤姫は、 江戸幕府の大奥の旧

     奥女中の世話に奔走(ほんそう)し、 大

     奥の旧奥女中の受け入れ先を見つける

     ことなどを積極的に行う。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

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   ■ (1) 江戸城無血開城時、璋院・篤姫

     は、  江戸城を去り、東京の邸宅(初め

     一橋邸、その後、他4邸宅)に移る。 

 

   ■ 明治期に、天璋院・篤姫は、 旧大奥・

     奥女中、旧幕臣の世話をしたり、 徳川

     宗家の跡継で幼少の徳川家達 (いえ

     さと、生没年:1863年〜1940年、 

     田安徳川家の亀之助、 徳川宗家・

     16代当主:1868年〜1940年、後の

     帝国議会・貴族院議長) を養育したり、 

     明治新政府の要人や明治維新の改革

     者とも親しく交わる。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

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   ■ 徳川宗家(旧江戸幕府の徳川宗家)の

     存続。

   ● 徳川宗家(旧江戸幕府の徳川宗家)の

     存続については、 1868年(慶応4年)

     に、 江戸薩摩藩邸での勝・西郷会談後、 

     璋院・篤姫 、和宮、勝海舟の望んだ、

     徳川宗家(本家)の存続は成功する。

         1868年(慶応4年)に、 徳川宗

     家(徳川本家)は、滅亡を免れ、「縮小

     (減封)存続」となる。 即ち、 徳川宗

     家(徳川本家)は、 領地(400万石)と

     本城(ほんじょう、本拠地の城)の江戸

     城)を、 明治新政府に移譲し、 旧幕府

     15代将軍(15代徳川宗家当主)・徳川

     慶喜を助命し、水戸で謹慎処分とし、 

     徳川宗家(徳川本家)は、田安徳川家の

     亀之助 (徳川家達(いえさと))が、 次

     の16代徳川宗家当主となり、 静岡藩

     (領地70万石、本城・駿府城)を与えら

     れ、 1868年(慶応4年)に、徳川家達

     は、そこへ移る。 

 

   ● しかし、1871年(明治4年)、 廃藩置

     県で、他の藩同様に、静岡藩は、消滅す

     る。

        璋院・篤姫のかわいがっていた

     徳川家達(いえさと)は、 再び、東京(江

     戸)の璋院・篤姫の元に戻ってきた。 

     その後、璋院・篤姫は、将来の徳川宗

     家のことを考え、徳川家達を欧米に留学

     させる。 

        そして、留学先から戻った家達を、

     (篤姫の養父の近衛忠煕の)近衛家の出

     身の女性と結婚させる。

        江戸幕府滅亡後、璋院・篤姫は、

     このように、徳川宗家の存続と繁栄をはか

     るため尽力する。 

        後に、 徳川家達(いえさと)は、帝国

     議会の貴族院議長にな る。

 

   ■ (2) 1883年(明治16年)に、璋院

    篤姫は、東京の邸宅で、享年48歳で、死

    去する。  東京の寛永寺(台東区上野)に、 

    夫の将軍の徳川家定の墓と並んで、埋葬さ

    れる。

   ● TKKI カナヤマ著 天璋院・篤姫ガイド

      ブック。

 

   ■ 徳川将軍家の15代(15人)の将軍名、

     就任期間に関しては、 日本史辞典の

     『 徳川将軍家 』 を参照して ください。

     

 

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#jphappenings/summary-per2110

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』

 

 

 

以  上。