- 1988年
- シュネクタディ準決勝進出、デトロイト準々決勝進出。
- プロ2大会目のインディアンウェルズにおいて、1回戦で37位ラメシュ・クリシュナン、2回戦で25位(第10シード)エリオット・テルシャーを下す。この勝利により、高校を中退してプロ転向を決意。
- 初のグランドスラム大会・USオープンに出場。1回戦でハイメ・イサガ(ペルー)に7-6, 7-6, 4-6, 5-7, 2-6で敗れる。
- 年末の「ナビスコ・マスターズ(ATPファイナル)」大会中、コネチカット州グリーンウィッチにあるイワン・レンドルの自宅で、1週間共にトレーニング・練習を積む。「イワンの食事の取り方や、大きな大会中に毎日いかに準備するかを知るのは興味深かった。彼はいかにすべきかを僕に教えてくれ、1位でいるためには何をしなければならないか、僕は学んだ」
- 年末順位97位。

- 1989年
- USオープン4回戦で、ディフェンディング・チャンピオンのマッツ・ビランデルを下す--トップ10選手に対する初勝利。
- アデレードとインディアナポリスで準々決勝進出。
- クーリエと組んで「イタリアン・オープン」ダブルス優勝。
- 年末順位81位。

- 1990年
- 優勝 4回
- フィラデルフィア
- マンチェスター
- USオープン
- グランドスラム・カップ
- オーストラリアン・オープン1回戦で70ゲームを戦った末、ティム・メイヨットを下す。4回戦進出。
- 2月、フィラデルフィアでキャリア初優勝を遂げる。
- 第12シードでUSオープンに優勝し、19歳28日で最年少チャンピオンとなる。準々決勝でイワン・レンドル、準決勝でジョン・マッケンロー、決勝でアンドレ・アガシを下す。
- USオープン大会中、100本のサービスエースを放つ。アガシとの決勝では13本。
- 両親は不安のあまり試合を見ず、近所のショッピング・モールに出かけていたが、電機屋やテレビで息子の優勝を知る。
- 初のトップ10入りを果たす。
- 初開催の「グランドスラム・カップ」で優勝。200万ドルの賞金の内25万ドルを脳性マヒ基金へ寄付。彼の父はこの病気で2人の姉妹を失っている。
- ATPツアーの「最も進歩した選手」に選出。
- ATPファイナルではラウンドロビン敗退。
- 年末順位5位。

- 1991年
- 優勝4回
- ロサンジェルス
- インディアナポリス
- リヨン
- ATPファイナル
- 向こう臑、足、膝の後ろの腱など、数々の怪我に苦しむ。
- 2月にツアーに復帰するも、フィラデルフィア決勝でレンドルに敗れる。
- ディフェンディング・チャンピオンとして臨んだUSオープン準々決勝でジム・クーリエに敗れる。「プレッシャーから解放された」という記者会見での正直な発言により、クーリエ、コナーズ等の批判を浴びる。
- 20歳でATPファイナルに優勝。1979年ジョン・マッケンロー以来の最年少優勝。
- リヨンで行われたデビスカップ決勝・対フランス戦に出場。初のデビスカップ参加。初日にアンリ・ルコント、優勝決定戦でギー・フォルジェに敗れる。
- 年末順位6位。

- 1992年
- 優勝5回
- フィラデルフィア
- キッツビューエル
- シンシナティ
- インディアナポリス
- リヨン
- フィラデルフィア優勝後、初のトップ3入りを果たす。
- 7月、キッツビューエルにて初のクレー大会優勝を遂げる。
- USオープン準決勝でジム・クーリエに勝利し、決勝進出。決勝でエドバーグに4セットで敗れる。ピートはこの敗戦をキャリアの転換点と位置づけている。「あの時点では、決勝進出は僕にとっては良い成績だった。しかし負けた時、もはや決勝進出では満足できない事を悟った」<USオープン決勝・記者会見>
- テキサスで行われたデビスカップ決勝・対スイス戦ダブルスに、ジョン・マッケンローと組んで出場。2セットダウンから逆転勝ちを収める。アメリカは優勝。
- 10月5日、エドバーグを抜いて初めて2位になる。
- 年末順位3位。

- 1993年
- 優勝8回
- シドニー
- キービスケーン(マイアミ)
- 東京
- 香港
- ウインブルドン
- USオープン
- リヨン
- アントワープ
- 4月12日、東京で初の1位となる。1973年にランキング制度が確立して以来、11人目。
- ウインブルドンとUSオープンで優勝する前は、1990年以来グランドスラムでの優勝がない事により、1位の正当性に疑問を呈する批判が起こる。
- 7月4日、アメリカ独立記念日にウインブルドン決勝が行われ、1984年以来のアメリカ人対決。トップ4シード---サンプラス、クーリエ、エドバーグ、ベッカーが準決勝に進出。
- 準々決勝でディフェンディング・チャンピオンのアガシ、準決勝で3回優勝のベッカーを下しての決勝進出。
- ダイアナ妃がロイヤルボックスから彼を応援していた事に気付いたか質問され、笑って「多分、彼女は僕にまいっちゃったんだろう」
- 1984年ジョン・マッケンロー以来の、同一年にウインブルドンとUSオープンで優勝したアメリカ人となる。
- 8月22日、19週続いた1位の座を失うも、9月13日に再び取り戻す。
- リプトン・東京・香港の3大会連続優勝を含む8タイトルを獲得。
- 83試合に勝利。1985年にレンドルが84勝して以来の年間最多勝。
- ATPファイナル決勝でミハイル・シュティッヒに敗れる。
- 「ATPツアー年間最優秀プレーヤー」「ESPY男子テニス年間最優秀プレーヤー」に選出。
- 年末順位1位。83勝15敗。


- 1994年
- 優勝10回
- シドニー
- オーストラリアン・オープン
- インディアンウェルズ
- キービスケーン
- 大阪
- 東京
- ローマ
- ウインブルドン
- アントワープ
- ATPファイナル
- キャリア最高の10大会優勝。ハード・クレー・芝・カーペット4つ全てのサーフェスでの優勝を果たす。
- 1987年レンドル以来、年間を通じて1位の座を守る。
- 1969年ロッド・レーバー以来、3連続グランドスラム大会で優勝(93ウインブルドン、93USオープン、94オーストラリアン・オープン)。94オーストラリアン・オープン決勝ではトッド・マーチンを下す。
- ワールド・チーム・カップで2位のシュティッヒに敗れるまで、29試合連続勝利を収める。
- 6月13日には、2位のシュティッヒとの差を過去最大の2412ポイントとする。
- ゴラン・イバニセビッチとのウインブルドン決勝で、2回ブレークポイントを与えただけで、一度もサービスブレークを許さず。
- 1985〜1986年のベッカー以来、ウインブルドン連続優勝を遂げる。
- ウインブルドン終了時、既にATPファイナル出場権獲得。過去最早。
- イタリアン・オープン決勝にてベッカーを6-1, 6-2, 6-2で下し、クレー2回目の優勝を遂げる。
- キービスケーン決勝にてアガシを5-7, 6-3, 6-3で下して優勝。試合前、胃痛に苦しみ、アガシの承諾を得て試合開始を遅らせてもらう。
- 左足の腱炎、および右膝後ろ腱の怪我で6週間ツアーを離れ、USオープン前の4大会を欠場。
- 準備が整わないままUSオープンで復帰し、4回戦でハイメ・イサガに6-3, 3-6, 6-4, 6-7, 5-7で敗れる。
- デビスカップ準決勝・対スウェーデン戦で、怪我のため途中棄権。
- ナイキと契約し、バギーショーツを着用。
- 「ATPツアー年間最優秀プレーヤー」「ESPY男子テニス年間最優秀プレーヤー」に選出。
- 年末順位1位

- 1995年
- 優勝5回
- インディアンウェルズ
- クウィーンズ
- ウインブルドン
- USオープン
- パリ・インドア
- オーストラリアン・オープン最中にコーチのティム・ガリクソンが脳腫瘍で倒れ、辛い年となる。準々決勝クーリエ戦で、2セットダウンからの逆転勝ちを収める。ファイナルセットの始めに観客から「コーチのために頑張れ!」と声がかかり、不覚にも泣き出す。
- オーストラリアン・オープン決勝進出するも、アガシに敗れる。
- インディアンウェルズでこの年初優勝。しかし4月10日、82週続いた1位の座をアガシに奪われる。
- 挫折感に満ちたクレーシーズンを送る。モンテカルロで右足首捻挫のため棄権、5月にハンブルグで復帰。
- フレンチ・オープン1回戦でジルベール・シャラーに敗れる。
- クウィーンズで単複同時優勝。
- 1本のブレークポイントも与えず、決勝でベッカーを下し、3年連続ウインブルドン優勝。「残念だが、ピートがセンターコートを所有している。かつては僕のものだったが、今は彼のものだ」とベッカーは敗戦後に語る。
- この優勝により、フレッド・ペリー(1934〜36)、ビヨン・ボルグ(1976〜80)に並び、第一次大戦後、3年以上連続してウインブルドンで優勝した選手となる。アメリカ人としては単独。
- USオープン決勝にてアガシを6-4, 6-3, 4-6, 7-5で下して優勝。第1セット5-4アガシのサービスゲームにおける2回目のブレークチャンスで、両者はパワーとアスレティシズムに満ちた息詰まる22本のラリーを展開……バックハンド・クロスウィナーで打ち勝ち、このセットを奪取。
- 11月6日、パリ・インドア優勝後1位の座を取り戻す。アガシは胸の筋肉の怪我でこの大会を棄権、および年の残りを戦線離脱。
- アガシとの間で1位と2位の座が頻繁に入れ替わる。1973年確立のATPランキング史上初めて。
- 決勝進出9回のうち5回優勝。
- 年間賞金500万ドルを獲得した初の選手となり、生涯賞金総額2,170万ドルで史上最多賞金獲得者となる。
- デビスカップ決勝・対ロシア戦では、3試合に出場して優勝の原動力となる。第1日目のシングルスではチェスノコフを5セットで下し、最後は全身ケイレンを起こし、引きずられるようにコートを去る。翌日マーチンと組んだダブルスで、カフェルニコフ/オルホフスキー組を下す。最終日のシングルスでカフェルニコフをストレートで下し、優勝を決める。
- 「ATPツアー年間最優秀プレーヤー」「ESPY男子テニス年間最優秀プレーヤー」に選出。
- 年末順位1位。


- 1996年
- 優勝8回
- サンノゼ
- メンフィス
- 香港
- 東京
- インディアナポリス
- USオープン
- バーゼル
- ATPファイナル
- オーストラリアン・オープン3回戦でマーク・フィリポウシスに敗れ、アガシ、ムスターに次いで3位に転落。
- サンノゼとメンフィスに優勝し、2月12日1位に返り咲き。
- 足首の怪我でロッテルダムを欠場。
- 香港と東京で連続優勝し、再び1位に戻る。
- 5月3日、脳腫瘍でティム・ガリクソン死去。イタリアン・オープン欠場。葬儀の場で特別の友情について述べる。「僕達は大勢の人に囲まれていても、互いに見返し、微笑むだけで、考えている事が分かる…」ここで涙にむせび、続けられなくなる。
- フレンチ・オープン前にクレーで2試合しかできなかったが、準決勝に進出し、カフェルニコフに敗れる。カフィは優勝。準決勝までの過程で元フレンチ優勝者のブルゲラ、クーリエを下す。
- 疲労困憊のためクウィーンズを欠場。
- ウインブルドン準々決勝でリチャード・クライチェクに敗れる。
- インディアナポリスで4月以来の優勝を遂げる。
- USオープン準々決勝でアレックス・コレチャと4時間9分の死闘。第5セットタイブレーク1-1の時点で吐き、主審からタイム・ワーニングを受ける。コレチャにマッチポイントを握られるも、体をいっぱいに伸ばしたフォアボレーで逃れる。次のポイントで時速90マイルのセカンドサーブ・エースをコレチャのフォアに放ち、マッチポイントを握る。最後にコレチャがダブルフォールトを犯し、かろうじて勝利を収める。
<USオープン準々決勝・記者会見>
- 試合後、ガールフレンドのデレイナに「これはティムへの勝利だ。ティムは僕と共にいた」と語る。
- 決勝でチャンを下し、USオープン優勝。勝利をコーチに捧げる。「今日はティムの誕生日だった。45歳になる筈だった。一日中彼の事を考えていた。試合中は彼が僕に教えてくれた事を思い出していた。今でも彼のスピリットを感じる。彼は僕の心の中にいる」
- ハノーバーで行われたATPファイナル決勝にて、素晴らしい5セットマッチの末ベッカーを下し、3回目の優勝を遂げる。「なんて試合なんだ! 彼の母国でベッカーと5セットだなんて。簡単ではなかった」ベッカーが加える。「これ以上いいプレイはできない。これは僕にとって究極の試合だ。このような試合は僕のキャリアにおけるハイライトの一つだ」<ATPファイナル決勝・記者会見>
- ジョン・マッケンロー、ベッカーと並び、ATPファイナル3回優勝。イリー・ナスターゼは4回、レンドルは5回優勝。
- 「ATPツアー年間最優秀プレーヤー」「ESPY男子テニス年間最優秀プレーヤー」に選出。
- 年末順位1位。

- 1997年
- 優勝8回
- オーストラリアン・オープン
- サンノゼ
- フィラデルフィア
- ウインブルドン
- シンシナティ
- グランドスラム・カップ
- パリ・インドア
- ATPファイナル
- オーストラリアン・オープン2回目の優勝を含む17連勝で、素晴らしいスタートを切る。
- 4回戦で当時無名のドミニク・ハバティ相手に、第5セット2-4、15-40ダウンのピンチを逃れる。
- 決勝では気温33度の下、カルロス・モヤに1時間26分で勝利。1989年レンドルが第9シードのミロスラフ・メチールをストレートで下した試合、1982年ヨハン・クリークがノーシードのスティーブ・デントンを下した試合と並び、過去15年間で最短の決勝の一つ。
- 4月28日、1位在位171週となる。
- フレンチ・オープン3回戦でマグナス・ノーマンに敗れる。
- ウインブルドン決勝でセドリック・ピオリーンをストレートで下し、4回目の優勝を遂げる。1回戦から準決勝まで、97連続サービスゲームでブレークを許さず。
- ウインブルドン後1カ月の休養を取り、シンシナティ優勝。10年前のエドバーグ以来、1セットも落とさず優勝。
- グランドスラム・カップを含めて決勝進出8回、全て優勝。
- 年末までに通算52タイトル獲得。
- USオープン4回戦、5セットタイブレークでペトル・コルダに敗れる。
- ワシントンDCで開催されたデビスカップ準決勝・対オーストラリア戦で、USオープン優勝のパトリック・ラフターを 6-7 (6-8), 6-1, 6-1, 6-4 で下し、アメリカを3年の間に2回目の決勝に導く。この勝利でデビスカップ・シングルス8連続勝利を収める。
- ATPファイナルで、ラウンドロビン1試合目でモヤに敗れるも、残りを勝ち抜き、4回目のタイトルを獲得。
- デビスカップ決勝・対スウェーデン戦、シングルス第2試合・ラーソン戦でふくらはぎの筋肉を痛め、途中棄権。アメリカは0-5で敗れる。
- オフコートでは、「1977いすず有名人ゴルフ大会」のドライブ・コンテストで332ヤードを打ち優勝。
- 「ATPツアー年間最優秀プレーヤー」「ESPY男子テニス年間最優秀プレーヤー」に選出。
- 現在・過去の選手およびメディア、大会ディレクターによる投票で「過去25年間の最優秀テニスプレーヤー」に選出。
- USオリンピック委員会の「年間最優秀スポーツマン賞」を獲得した初めてのテニス選手となる。1990年代、この賞はレスリングのジョン・スミス(1990)、陸上のカール・ルイス(1991)、水泳のパブロ・モラレス(1992)、陸上のマイケル・ジョンソン(1993、95、96)、スピードスケートのダン・ジャンセン(1994)が受賞。
- 年末順位1位。年間を通じて1位の座を守る。


- 1998年
- 優勝4回
- フィラデルフィア
- アトランタ
- ウインブルドン
- ウィーン
- 前年デビスカップ決勝で痛めたふくらはぎの怪我のため、充分な準備ができず、オーストラリアン・オープン準々決勝でカロル・クチェラに敗れる。
- フレンチ・オープンでは2回戦敗退。
- グランドスラム決勝でピート初の5セットをゴラン・イバニセビッチ相手に戦い、優勝。5回目のウインブルドン優勝で、11個目のグランドスラム・タイトル獲得。
- 連続ではないが、ビヨン・ボルグと並び、ウインブルドン優勝5回となる。
- USオープン準決勝、ラフターに7-6, 4-9, 6-2, 4-6, 3-6で敗れる。第3セット最中に大腿四頭筋を痛める。
- 102週連続1位の座を守る。コナーズの160週、レンドルの157週に次ぐ3番目に長い連続在位。
- 3月30日、1位の座をリオスに奪われる。
- 4月27日、1位に返り咲くも、8月10日、トロント準々決勝でアガシに敗れ、再び1位の座を失う。この大会は足の魚の目除去手術後、初の出場大会。
- 8月31日、再び1位となる。
- コナーズ保持の5年連続年末1位の記録更新を目指し、6週連続でヨーロッパの大会に出場(バーゼル、ウィーン、リヨン、シュツットガルト、パリ、ストックホルム)。
- ベッカーがウィーンのワイルドカードを譲ってくれる。
- 1位の座はATPファイナルまで決まらず。2位のリオスがラウンドロビン1試合後に棄権し、ピートはラウンドロビン全試合勝利。準決勝でコレチャに敗れるも、6年連続年末1位の記録を樹立。<記者会見> <1位の選手>
- 「1998年マルカ・レジェンド賞」を受賞。この賞を受賞した10人目のアスリートとなる。過去にはマイケル・ジョーダン、ペレ、カルロス・セインツ、ミゲル・インデュライン、ゲイリー・カスパロフ、マイケル・ドーハン、アルベルト・トンバ、アランチャ・サンチェス-ビカリオ、マヌエル・エスティアルトが受賞。「マルカ」はスペインで最高発行部数の新聞。
- 「ATPツアー年間最優秀プレーヤー」「ESPY男子テニス年間最優秀プレーヤー」に選出。
- 年末順位1位。

- 1999年
- 優勝5回
- クウィーンズ
- ウインブルドン
- ロサンジェルス
- シンシナティ
- ATPファイナル
- 前年末の心身共の疲労困憊により、オーストラリアン・オープンを欠場。スロースタートとなる。
- ウインブルドン準々決勝でフィリポウシスと対戦。フィリポが膝の怪我で棄権するまで4-6, 2-1 のダウン。決勝ではアガシ相手に芝での至高のプレーを披露。「ピートが少しばかりミスをするようになるまで、彼は水の上を歩いていると人々は考える。しかし今日は違った。彼は本当に水の上を歩いていたんだ」
- 12回目のグランドスラム優勝で、ロイ・エマーソン保持の最多優勝記録に並ぶ。
- オープン化以来初のウインブルドン6回優勝。
- ボストンで開催されたデビスカップ準々決勝・対オーストラリア戦では、ダブルスのみに出場して勝利。<記者会見7月15日、7月17日>
- ロサンジェルス準決勝勝利後、レンドル保持の270週1位在位記録を破る。ピートは286週1位在位記録を樹立。
- 練習中に椎間板ヘルニアを起こし、USオープンを欠場。<USオープン記者会見>
- 回復期間中、将来の妻ブリジット・ウィルソンと出会う。
- 11月パリ・インドアでツアー復帰するも、2回戦勝利後に棄権。
- ATP最終戦、ラウンドロビンでアガシに6-2, 6-2で敗戦後、決勝ではアガシをストレートで下し優勝。レンドル保持のATPファイナル最多優勝(5回)に並ぶ。<ドロー・セレモニー記者会見、決勝後記者会見>
- 年末順位3位。
- 「ATPツアー20世紀最優秀プレーヤー」に選出。
- USテニスマガジン読者投票で「20世紀最優秀男子プレーヤー」に選出。
- USテニスマガジン記者による「20世紀の偉大な男子プレーヤ10人」に選出。他はビル・チルデン、フレッド・ペリー、ドン・バッジ、ケン・ローズウォール、ロイ・エマーソン、ロッド・レーバー、ジミー・コナーズ、ビヨン・ボルグ、ジョン・マッケンロー
- スポーツ・イラストレイテッドの「20世紀最優秀男子テニスプレーヤー」に選出。

- 2000年
- 優勝2回
- オーストラリアン・オープン準決勝、フルセットの末アガシに敗れる。第1セット前半に大臀筋一部断裂を起こし、デビスカップ1回戦欠場。監督ジョン・マッケンローは、公にピート不参加への失望を語る。ピートは準々決勝・対チェコ戦でチームに復帰し、勝利を収める。
- 準決勝ヒューイット、決勝クエルテンを下し、マイアミで優勝。
- フレンチ・オープン1回戦でフィリポウシスと対戦。ファイナルセット6-8で敗れる。
- 6月、ブリジット・ウィルソンとの婚約を発表。
- 7年連続ウインブルドンで第1シードとなり、グランドスラム最多優勝記録となる13回目の優勝を目指す。クチェラとの2回戦から左向こう臑の腱炎に苦しみつつも、決勝でラフターを4セットで下し、薄暮の下トロフィを掲げる。観客席に上り、両親と感動的に抱き合う。「ここで起こったあらゆる事を考えると、これは今までの僕の人生で最高の瞬間の一つだ。この2週間は最も困難で、最も喜ばしいものだった。両親が来てくれ、素晴らしい筋書きで、僕にうまく働いてくれた」<ウインブルドン決勝記者会見>
- USオープン準々決勝で長年の天敵クライチェクを下し、準決勝でヒューイットを破って決勝進出するも、疲労の色が濃く、決勝でマラト・サフィンにストレートで敗れる。
- 9月30日、ブリジットと結婚。
- リスボンのATPマスターズカップまで全大会欠場。リスボンでは準決勝でクエルテンに敗れ、クエルテンは優勝して1位の座に就く。
- GQマガジンの「最優秀個人アスリート賞」受賞。
- 「ESPY90年代男子テニス最優秀プレーヤー賞」受賞。
- 13大会に出場し、41勝12敗。
- 「栄光の中にも怪我に苦しんだ年」となる。
- オーストラリアン・オープンで大臀筋一部断裂
- 3月初めに背中の靭帯を痛める
- デビスカップのスラバ・ドゼデル戦で大腿四頭筋を痛める
- ウインブルドンで向こう臑の腱炎に苦しむ
- USテニスマガジン「2000年男子最優秀プレーヤー賞」受賞。
- 年末順位3位。

- 2001年
- 優勝なし
- オーストラリアン・オープン4回戦でマーチンに敗れる。
- ESPYアワードにて「男子テニス年間最優秀プレーヤー賞」「記録更新パフォーマンス賞」受賞。
- フレンチ・オープン2回戦でガロ・ブランコに敗れる。
- 8年連続ウインブルドンで第1シードとなるも、4回戦でロジャー・フェデラーに敗戦を喫する。
- ロサンジェルス決勝でアガシに、ハムレットカップ決勝でトミー・ハースに敗れる。
- 史上初めて3人の過去の優勝者(ラフター、アガシ、サフィン)を連続して下し、決勝進出。ヒューイットにストレートで敗れる。
- 最終順位10位。1989年以来最低。
- 引退の噂がまき散らされるが、ピートは自分の考えで辞めると発言。
- 年末までに7年間一緒にやってきたコーチ、ポール・アナコーンと別れ、トム・ガリクソンと組む。

- 2002年
- 優勝1回
- オーストラリアン・オープン4回戦でサフィンに敗れる。
- デビスカップ1回戦・準々決勝に参加し、アンディ・ロディック、ジェームズ・ブレイク等若い選手達と交流を持つ。準々決勝では芝のサーフェスでコレチャに敗戦を喫する。
- ヒューストンのクレーコート大会でマーチン、アガシを下して決勝進出。ロディックに敗れる。
- クレーシーズンを前に、再びコーチ変更。ホセ・ヒゲラスと組む。
- フレンチ・オープン1回戦でアンドレア・ガウデンツィに逆転負け。
- ウインブルドン2回戦でラッキールーザーのジョージ・バストルに、フルセットの末ショッキングな敗戦を喫する。
- カフェルニコフを始め、引退談義が喧しくなる。
- ヒゲラスと別れ、ポール・アナコーンがコーチに復帰。
- USオープンで奇跡的な復活を遂げる。1回戦アルベルト・ポルタス、2回戦クリスチャン・プレス、3回戦グレッグ・ルゼツキー、4回戦ハースを下す。準々決勝ではロディックを寄せ付けず、準決勝でシェーン・シャルケンを下して決勝進出。決勝ではアガシを4セットで下し、5回目の優勝を果たす。コナーズと並びオープン化以来USオープン最多優勝。グランドスラム最多優勝記録を14に伸ばす。スタンドに上がり、妊娠中の妻ブリジットと抱き合う。<USオープン決勝記者会見>
- 以後一切の大会出場をキャンセル。
- 11月21日、長男クリスチャン・チャールズ誕生。
- 年末順位13位。

- 2003年
- 年頭から大会を欠場し続ける。
- 5月にフレンチ・オープン、ウインブルドンの欠場を表明。
- 8月25日、USオープン初日、公式に引退を発表。<USオープン引退記者会見>
センターコートのナイトセッションで引退セレモニーが行われ、長い長いスタンディング・オベーションに迎えられる。アナコーン、クーリエ、ベッカー、マッケンローの送る言葉、記念プレートの贈呈に続き、別れの挨拶を述べる。最後に愛息クリスチャンを腕に、コートを1周。

成績
年 |
順位 |
タイトル数 |
全豪 |
全仏 |
全英 |
全米 |
1988 |
97 |
0 |
-- |
-- |
-- |
-- |
1989 |
81 |
0 |
R1 |
R2 |
R1 |
R16 |
1990 |
5 |
4 |
R16 |
R2 |
R1 |
Win! |
1991 |
6 |
4 |
-- |
-- |
R2 |
QF |
1992 |
3 |
5 |
-- |
QF |
SF |
F |
1993 |
1 |
8 |
SF |
QF |
Win! |
Win! |
1994 |
1 |
10 |
Win! |
QF |
Win! |
R16 |
1995 |
1 |
5 |
F |
R1 |
Win! |
Win! |
1996 |
1 |
8 |
R3 |
SF |
QF |
Win! |
1997 |
1 |
8 |
Win! |
R3 |
Win! |
R16 |
1998 |
1 |
4 |
QF |
R2 |
Win! |
SF |
1999 |
3 |
5 |
-- |
R2 |
Win! |
-- |
2000 |
3 |
2 |
SF |
R1 |
Win! |
F |
2001 |
10 |
0 |
R4 |
R2 |
R4 |
F |
2002 |
13 |
1 |
R4 |
R1 |
R2 |
Win! |
合計 |
|
64 |
|
|
|
|

|