前のページに戻る

---------------------------------------------------------------------------------------------
■ 「愚痴の空回り。」 (作者経歴の添付文)
---------------------------------------------------------------------------------------------

私は美術家でも芸術家でもありません。
機械の開発、設計を生業とする個人であって、「○○家」ではなく、名乗る肩書きはありません。
以下は部外者の発言であって、業界やその周辺で過去に語られた論説/文脈/用語を私は知りません。

■ 芸術の果たす機能について (東京国立市でのグループ展参加に寄せて)

芸術を行う主体、芸術を受容する社会(観客)にとって、芸術の果たす機能は下記3つであると思います。

(1) 装飾/設計(design)

   主体/観客にとって、既に価値/存在/構造や細部などの有様が確定している事物/事象/状況を
   認識/使用/利用しやすくする様に整理/抽象/再構築すること。

(2) 表現/具体化 (不定のもの/ことに「かたち」を与えること。)

   主体/観客にとって、価値/存在/構造や細部などの有様が把握出来ていない事物/事象/状況に、
   何らかの形/構造または仮定のモデルを与え、主体/観客がその事物/事象/状況を把握しようと
   すること。(把握出来れば、事物/事象/状況に対応、対処出来る様になる可能性が生まれる。)
   一般には既に把握済みとされる対象であっても別な視点、別な構造モデルを提示する行為は、(1)とは
   せず、これに含む。
   
(3) 技法開発/技巧錬磨

   (1)(2)の行う為の手段の幅を広げ、また、深化させること。
   本来は(1)(2)の手段として間接的に主体/観客の要求を満たす機能だが、人間の他の行為と同様に
   技芸自身が競技と化し、巧みさや新規さ、超絶的努力をもって作品として提示されることもある。

「(1)装飾/設計」は芸術家が顧客(クライアント)の要請をもって、プロフェッショナルな行為として果たす
機能であって、私の立場では担えません。行ってもそれは「自身で消費する」為です。
(機械は「設計」します。私の生業は機械設計ですから。)
「(3)技法開発/技巧錬磨」は本来業界内で消費される機能であって、業界外の私は誇示/競い合いに参加
出来ません。そんな技量も才能も教育もありません。(自分で使う範囲での技能/工法の開発は行います。)

生きていく主体として、生業を営む主体として、経験する様々な物事やその関係の前で、私は唯々狼狽し、
うろうろするばかりです。そんな私は、狼狽の度に吐瀉物のごとく、落書きや立体や言葉を吐き出します。
それらは他者/観客に示すものではなく、唯、自分自身が事物/事象/状況を把握、得心したいが為です。

よって、行う主体も受容する観客も自分自身でしかない、そんな私が行うのは「(2)表現/具体化」のみです。
私は「芸術家」ではありません。
自分自身のキャラクターにテーマ/コンセプトを貼り付けて、「芸術家になる」わけではありません。

ただ、生きていく主体として、未消化の経験を「表現/具体化」して吐き出し、自身で再消化するのみです。

生体が睡眠時に「夢」を見るのは、覚醒時の雑多な経験を整理、抽象し、有用な情報として統合する為だと
いう説を聞いたことがあります。(現代の学説では否定されていますが。)
「芸術」の「表現」のもつ目的/価値とは、そんな「夢の機能」の様なものかもしれません。
「表現-すること=夢に見ること=対象を捉えようとあがくこと」は「芸術家」の行為とは限りません。

社会人としての二十数年、私の「表現」は、私の中に閉じていました。
議事録の裏に、PCのデータに、計算書の端に、台風跡の海岸に、音響データに、一人で見返す写真の中に。
吐き出される「表現」は公開されず、主体/観客の関係は閉じていました。

回路を他者に開くのは二十数年ぶりです。


前のページに戻る