聖書の福音

弁解の余地


 私は毎日車で通勤していますが、ある朝いつものように狭い道に入っていくと、向こうから自転車に乗ったおじさんが手を振りながらやってきました。私は何のことか分からず、あのおじさんは朝から酔っ払っているのかなと思いながらそのまま進んでいきました。すると、しばらく行ったところにおまわりさんが待っていて、車を止められました。なんとそこは朝の時間帯のみ一方通行の道だったのです。もちろん私はそんなことは知りませんでしたが、後でその道の入り口を見てみると、しっかりと標識が立っていました。それまで毎日通っていたし、他にも何台も同じように走っていたので、何の疑いもなくその朝も入っていったのですが、しっかりと切符を切られる結果となってしまいました。私には全く弁解の余地はありませんでした。そしてあのおじさんは親切にも私に教えようとして下さっていたのでしたが、その親切も無駄に終わってしまいました。
 聖書に次のような言葉があります。

 「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ人への手紙1章20節) 

 神のご存在は、広大な宇宙、大自然、美しい花、精巧にできている人体など、神がお造りになった様々なものによって私たちに示されているというのです。この世のすばらしいものを見て考えるときに、その背後に偉大なお方の存在を覚させられることがないでしょうか。
 また次のような言葉もあります。  

 「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。」(ヨハネの福音書15章22節) 

 これはイエス・キリストが語られた言葉です。聖書を読むと人間の罪がよく教えられます。ある個所には全ての人が罪人であるとはっきりと書いてあります。  全ての人が神の前に立たなければならない時がやがてやってきます。その時に、自分は知らなかったとか、教えられなかったなどと言い訳をしても神の前には通用しません。
 神は何千年も前から今日にいたるまで、聖書を通して、またクリスチャンを通して唯一の救い主であるイエス・キリストを私たちに示してこられました。もしあなたがこの救い主を受け入れないなら、やがてくる裁きの時には弁解の余地はありません。たとえ悪意を持って拒んだのでなくても、受け入れないならばみな同じように裁かれなければならないのです。その時になって後悔してももう手遅れです。今のこの時、神が忍耐して警告しておられるこの時に、どうか救いを受け入れてください。私も全てのクリスチャンもそのことを望んでおります。そして誰よりも神ご自身が望んでおられます。あなたを愛して。その愛の警告を無駄にしないでください。  

 「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(ペテロの手紙第二3章9節)