聖書の福音

行いと信仰


 
 世の中には、厳しい修行や良い行い、多くの献金など、行いによって救いや祝福が与えられるという宗教が多くあります。しかし、聖書には、誰も神の前に自分の行いによって救われることはできないと記されてあります。もし人が行いによって神に認められようとすれば、完全な行いをしなければなりません。しかし、本当の意味での完全な行いは誰もできません。ですから、誰も行いによって救われることはできないのです。

 旧約聖書の時代に、神はモーセを通して人間に律法を与えられました。
 その律法は人に救いを与えるものではなく、人に罪を教えるものでした。神に認めてもらうため、律法を完全に行おうと努力すればするほど、それを行えないことを思い知らされ、自分が神の基準に達しない罪人だと気づかされるのです。

「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。
律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」
(ローマ人への手紙3章20節)

 では、私たち人間は救いを得ることができないのでしょうか?
 いいえ、神は行いによっては決して救われることのできない私たちのために、行いではなく信仰によって救われるという方法を用意してくださいました。
 ご自分のひとり子であるイエス・キリストを私たち罪人の身代わりとして十字架で裁いてくださいました。ですから、このイエス・キリストを自分の救い主として信じ、受け入れれば救いを得ることができるのです。

 行いによっては誰も救われることはできませんが、信仰によれば誰でも救われることができます。子どもからお年寄りまで、ただイエス・キリストを信じるだけで救われることができます。これが神の用意してくださった救いであり、聖書の語る福音です。
 どうぞ、素直にイエス・キリストを信じて救いを得る方となられますように。

「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神に義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」
(ローマ人への手紙3章21,22節)