欧米列強の圧力で開国を迫られた日韓両国であるが、近代化への取り組みが一歩進んでいた日本は、帝国主義全盛の世界の潮流のなかで、韓国に対する影響力を強めようとしており、日清・日露の戦争の目的のひとつにそれがあった。併合への動きは日露戦争開戦直前に、韓国がその領土内での日本軍の行動を支援することを取り決めた「日韓議定書」に始まり、その後、段階的に外交権など韓国政府の権限を取り上げる「日韓協約」を締結、最終的に1910年に欧米列強の承認のもと併合を果たした。
併合後、韓国内では反日活動が活発になったが、日本はそれを抑える一方、鉄道・道路などのインフラ整備、工業化推進、教育の普及などを進めた。また、「皇民化政策」として日本語の普及、創氏改名、徴兵や労働力調達なども行った。
こうした併合政策によって、日韓の国民相互に相手を蔑視・敵視する感情が蓄積され、それらは現在に至っても残っている。
図表2.15 韓国併合
19世紀後半、朝鮮半島は500年以上続く李氏朝鮮と呼ばれる王朝が、儒教を国教とした専制君主制の国家を維持していたが、姻戚が勢威をふるう政治の腐敗により、民衆の生活は困窮を極めていた。近代化による改革も試みられたが、旧来の規範と政治制度から抜けられないなかで、朝鮮を勢力下に置こうとする日本の触手が伸びていった。 ここでは、併合に至る前段階の朝鮮をみていく。
朝鮮半島の歴史は、紀元前の古朝鮮に始まり、高句麗・百済・新羅の三国時代、統一新羅、高麗を経て、1392年に李成桂(いそんげ)が創建した「李氏朝鮮」と呼ばれる王朝が500年に渡って続いていた。李氏朝鮮は当時、中国を支配していた"明"を華夷秩序※1における宗主国として、儒教(朱子学)、科挙制度、衣冠制度など国家理念や政治制度は"明"の制度を採用していた。"明"が満洲民族の"清"に変わったあとも関係は維持されたが、明朝中華を慕い、朝鮮こそが明朝中華を正統に継承する、と自負する「小中華思想」が強くなった。
李氏朝鮮の政治は文人が取り仕切っていた。軍を保持して武人もいたが、大規模な軍事力は中国に依存しており、豊臣秀吉の朝鮮侵略を撃退したのは明軍だった。
19世紀になってキリスト教など西洋の文化が入ってくると、衛正斥邪(えいせいせきじゃ)という思想が支配的になっていた。衛正斥邪とは、正学すなわち儒教を正統として衛(まも)り、それ以外の思想・価値観を邪(異端)として斥ける、というものである。衛正斥邪にあっては、宗教や思想のみならず、科学技術や西洋事情の研究なども危険視され、朝鮮は孤立化を深めていくことになった。
※1 華夷秩序; 中国を文明の中心(中華)とし、それ以外の国を未開国とする思想。詳しくは、本レポート1.2.3項 を参照。
19世紀の朝鮮では、国王の外戚(王妃の一族など)が、その一族の者を要職につけ、国王をロボット化して売官売職・賄賂・陰謀などにより私腹を肥やすという「勢道政治」が行われており、それは最終的に庶民の生活を苦しめ、農民一揆が慢性化していた。
1863年、国王の哲宗が後継ぎがないまま亡くなった。「勢道政治」を憂いた傍系王族の興宣君は、手を回して自分の11歳の息子(のちの高宗)を次期国王とすることに成功した。李朝では生存する国王の父を「大院君」と称したので、興宣は興宣大院君と呼ばれて政治の実権を握り、内政改革を進めた。
しかし、大院君の改革は旧来の儒教的な王政の復活とその強化であり、李朝本来の専制君主制の復興であった。
大院君は、自身の妃の実家の近縁の娘である閔妃(みんぴ/びんひ)を息子の妃に選んだ。閔妃は、幼い時に両親をなくしており、外戚の専横を招くことはないだろうと考えたからだった。しかし、閔妃は父の家系を継いだ養子で義兄にあたる閔升鎬(みんすんほ/びんしょうこう)と手を組み、大院君の専制に不満を持つ両班※2たちを糾合して、反大院君の勢力を成長させていった。その結果、高宗が即位してから10年後の1873年、大院君は摂政の座を降りて引退することを余儀なくされた。閔氏一族は、勢道政治を復活させる一方、対外政策においては、清国との宗属関係を保ちながら、自らの特権と矛盾しない範囲で「開国策」をとった。
※2 両班(やんばん); 朝鮮の高麗・李朝時代における文・武の官僚の総称。文官を文班、武官を武班と称し、あわせて両班とよぶ。両班の多くは地方の地主層でもあり、力役や軍役の重い負担を免除される特権をもち、中央・地方の支配者として勢力を振るった。武班よりも文班の地位が高かった。(コトバンク〔日本大百科全書〕<要約>)
日本にペリーが来航したのは1853年であるが、朝鮮に欧米列強が訪れ始めたのは、1863年のロシアからである。1866年になるとドイツ、フランス、アメリカが来航して通商を求めたが、この頃政権を握っていた大院君はこれらをことごとく拒否している。
フランスは1866年、7隻の軍艦を派遣し、フランス人宣教師殺害に対する賠償や通商を要求して江華島に上陸したが、朝鮮側はこれを撃退した。同年、アメリカの商船シャーマン号が平壌を訪れて通商を要求、断られて戦闘になり、シャーマン号は炎上・沈没して朝米双方に多数の死傷者が出た。アメリカは1871年にも軍艦5隻で江華島を攻撃したが、朝鮮は反撃して艦隊は引きあげていった。
フランス・アメリカの軍艦を撃退したことは、大院君に自信を与え、朝鮮を外圧から守るためには、鎖国攘夷政策の強化こそ唯一の道であると、誤信した。
なお、日本は朝鮮の政権が大院君から閔氏に変わったあとの1875年9月、江華島を攻撃して軍事的圧力をかけた後、翌1876年2月に不平等条約である日朝修好条約を締結、日朝間の通商関係を構築することに成功した。江華島事件及び日朝修好条約の詳細については、本レポート1.8.6項 を参照願いたい。
1882年7-8月に首都漢城周辺で起きた壬午(じんご)軍乱は、朝鮮軍の兵士たちが給与不払いに抗議して政府高官の屋敷を攻撃し、それに贈収賄など官吏の不正に怒った民衆が合流して暴動を起こしたもので、清および日本が軍隊を派遣して鎮圧し、日清両国が朝鮮の政治に関与するきっかけとなった。
甲申(こうしん)政変(1884年12月)は、朝鮮の近代化を目指した金玉均らのグループが日本の支援のもとで起こしたクーデターであったが、清軍に制圧されて失敗に終わった。
壬午軍乱と甲申政変の詳細については、本レポート2.3.1項 を参照願いたい。
1894年2月、日清両国との貿易や官吏の汚職によって貧窮化していた農民が決起(甲午農民戦争)したが、6月11日に全州和約が成立した。しかし、開戦の口実を作りたい日本は7月3日に朝鮮の内政改革を要求、続いて7月23日に漢城の王宮を占領、閔氏一派を追放して大院君を擁立し、開化派の金弘集を首班とする政権を発足させた。25日、清国の艦隊を攻撃(豊島沖海戦)して日清戦争が始まった。
7月27日、金弘集をトップとする軍国機務処が設置され、内政改革に取り組み始めた。1896年2月まで続いたこの改革を甲午改革と呼ぶ。軍国機務処は、様々な近代化のための改革――清国への宗属の廃止、科挙の廃止と人材本位による官吏登用、司法権の独立、租税の金納化、貨幣制度の整備、度量衡の統一、人身売買の禁止、早婚の禁止、近代的学校制度の実施、など――を行った。こうした改革は人民の要求を反映したものであったが、日本と結託した改革というイメージを払拭できず、民衆の支持を得ることはできなかった。 また、高宗はじめ政権中枢は、このような近代化改革には消極的で清国との関係断絶も願ってはいなかった。
日本は「朝鮮の独立」を掲げて日清戦争に勝利し、下関講和条約で朝鮮が独立自主の国であることが承認されたが、朝鮮国内では反日感情が広がっていった。
甲午改革と日清戦争の詳細については、本レポート2.3.4項~を参照願いたい。
日清戦争後、朝鮮国内ではロシアに接近しようとする勢力が伸長し、高宗や閔妃もこれに同調した。こうした動きに危機感を持った日本の三浦公使は閔妃の排除を計画し、1895年10月、日本軍や日本人浪士が王宮を襲って閔妃を殺害したが、反日感情はさらに悪化し、同年12月に出された断髪令をきっかけに、各地で反日・反近代化を掲げた義兵闘争が活発化した。高宗は日本に対して恐怖と憎悪を抱き、ロシアと提携してロシア兵の護衛のもと、1896年2月、ロシア公使館に移った(露館播遷)。高宗は1年後の1897年2月に王宮に戻っているが、この間に朝鮮の親日派は一掃され、ロシアの影響力が強まった。
閔妃殺害と露館播遷の詳細については、本レポート2.3.6項 を参照願いたい。
ここでいったん、朝鮮国内の動きから離れて、日露朝3国の外交関係について記述する。
露館播遷が起きた後の1896年6月、ニコライ2世の戴冠式に出席のためロシアを訪問していた山県有朋は、ロシア外相ロバノフとの間で「山県・ロバノフ協定」を結んだ。この協定は、表向きは朝鮮に対する財政援助などを規定していたが、秘密条項で日露両軍の朝鮮駐屯を認め、朝鮮軍が組織されるまで高宗の護衛はロシア軍が担う、などと記載されていた。のちに西徳二郎駐露公使はこの交渉について、「ロシアは単独による朝鮮保護国化を望み、日本との共同による朝鮮半島の南北分割統治にはその意志がなかった」と振り返っている。
ニコライ2世の戴冠式には朝鮮の閔泳煥(ミンヨンファン_閔妃の甥)も派遣され、次の5項目をロバノフ外相に要請、外相はこれを受け容れた。①数百名のロシア近衛兵による国王護衛、②ロシア軍事教官団の派遣、③ロシア人顧問官の派遣、④電信線の連結、⑤対日負債返済ための300万円の借款。
1898年4月には、西徳二郎外相とローゼン駐日ロシア公使との間で「西・ローゼン協定」が締結された。日本はロシアの満州支配とひきかえに朝鮮支配を認めさせよう(満韓交換論)としたが、ロシアは拒否した。結局、日露両国が韓国の独立を認め、内政干渉は行わない、などを決めた上で、ロシアの遼東半島進出に見合う対価として、朝鮮での商工業上の利益の認知と支持をロシアから獲得するにとどまった。
高宗がロシア公使館に居を移した後、朝鮮国内では近代化に向けた動きが高まりつつあった。
独立協会は徐載弼(そじぇびる)が、1896年4月に「独立新聞」を発刊したことに始まる。徐載弼は1864年生まれ、甲申政変に主役の一人として参加、政変が失敗した後、日本に亡命、その後はアメリカに滞在していた。ハングルだけで記した「独立新聞」の反響は大きく、短期間のうちに3000部にまで達し、漢文を読めない庶民にも民族的自覚と民権思想を浸透させた。
1896年7月、国家の独立と近代化を追求する政治団体として独立協会を設置、自主独立の近代国家を目指して啓蒙活動を行った。初期の独立協会は王室や高級官僚などとも友好的な関係を築いていたが、1897年8月から定期的な討論会を開催するようになると、政府との距離が広がっていった。1898年になると独立協会は議会の導入と立憲君主制を主張し始め、高宗とも対立するようになって、同年12月25日に解散させられた。
{ 独立協会は朝鮮ではじめて公然と、そして明確に立憲君主制(内実は自由主義政治)を主張した市民的政治結社であった。 … 1898~99年における独立協会と守旧派の対立は、議会政治か絶対君主制か、という2つの政治路線をめぐる政争であった。}(姜在彦「朝鮮近代史」,P136-P137)
1897年2月、ロシア公使館に播遷していた高宗は、独立協会などの要請をうけて王宮に戻った。それを契機に、官僚や儒者から「建元称帝」(元号を建て、皇帝を称する)を求める上疏が続いた。高宗はこれらの上疏に応えて、1897年8月に新たな元号を「光武」とし、同年10月に皇帝に即位、国号を大韓帝国(韓国)に改めた。これにより大韓帝国は、中国や日本をはじめ各国と同格の独立国となった。
1899年4月27日、高宗は大韓帝国の宗教を儒教とすることを宣言し、続いて同年8月17日、憲法にあたる「大韓帝国国制」を制定した。9か条からなる国制は、大韓帝国が専制君主国であることを宣言し、皇帝が大権として統帥権、立法権、恩赦権、官制の制定権、行政命令権、栄典授与権、外交権を持つとされた。西洋の憲法を参照しているものの、三権分立や国民の権利の保障はなく、絶対君主主義体制の憲法であった。
{ この規定はのちに、日本による主権の剥奪を容易にした。すなわち国王個人に対する脅迫とその決断によって、それは可能であったからである。}(姜在彦「朝鮮近代史」,P138)
大韓帝国は成立後、「光武改革」と呼ばれる近代化に向けた改革を行った。財政・金融制度については、甲午改革の成果を継承しているものが多い。土地の測量・調査により正確な土地台帳を作成し、税の徴収や所有権の保護を行えるようにした。また、殖産興業にも力を入れ、官営の鉄道、電力、電信・電話、各種学校、模範工場、鉱山事業などに取り組んだ。
韓国を中立化しようという構想は、19世紀末にドイツやイギリスから提示されていた。日本でも1882年の井上毅や1890年の山県有朋の意見書などにあったが、ロシアや清国の朝鮮侵略を抑制するための政治的道具に過ぎなかった。1901年1月にロシアも日本に対して韓国の中立化を提議したが、日本は拒否している。
日露戦争が迫りつつあった1903年8月、韓国は戦時局外中立の承認を諸国から得るための活動を開始した。高宗の命を受けた特使が、オランダ、フランス、ロシアなどを訪問して承認の見通しを得ると、1904年1月21日、各国に戦時局外中立を宣言する電信を送った。これに対して承認の回答を送ったのは、英・仏・独・伊・デンマーク・清だけで、日本とロシア及びアメリカは回答しなかった。
1904年初頭、日本は韓国とのちに「日韓議定書」となる密約の交渉を行っていたが、この韓国の中立宣言により交渉は進展しないまま、2月8日の対露開戦を迎えることになる。そして、日本軍が漢城を占拠した後の2月23日、韓国内での日本軍の自由行動などを認めた「日韓議定書」が結ばれ、これが韓国併合への端緒となるのである。
姜在彦「新訂 朝鮮近代史」,P9・P35 森「韓国併合」,P5-P7 呉善花「韓国併合への道 完全版」,P15-P17・P40
姜在彦「同上」,P20-P23 呉善花「同上」,P30-P33
姜在彦「同上」,P36-P37 呉善花「同上」,P49-P51
姜在彦「同上」,P25-P35 呉善花「同上」,P36-P39 海野「韓国併合」,P6 森「同上」,P9
森「同上」,P92-P94 横手「日露戦争史」,P23 呉善花「同上」,P177-P178・P182 海野「同上」,P115
{ 日本は…対露外交交渉によって…既得権を維持するために血眼になった。1896年には京城において小村=ウェーベル仮協定、モスクワにおいて山県=ロバノフ協定を結び、98年には東京において西=ローゼン協定を結んだ。これらの諸協定は、…若干の差異はあったが、基本的には朝鮮及び満州をめぐる両帝国主義国家間の侵略的取引に過ぎなかった。}(姜在彦「同上」,P127-P128)
{ 西徳二郎外相は、ローゼン駐日ロシア公使との間で4月25日に「西・ローゼン協定」を結ぶ。日本はロシアの遼東半島進出に見合う対価として、朝鮮での商工業上の利益の認定と支持をロシアから獲得した。この日露交渉で西外相は、日本に大韓帝国への助言と助力を与える全権を一任するのであれば、満州およびその沿岸を日本の利益範囲外と認める、いわゆる「満韓交換論」を提案したが、ローゼンは拒絶していた。}(森「同上」,P93-P94)
森「同上」,P78-P88・P94-P97・P101-P110 姜在彦{同上」,P131-P136 呉善花「同上」,P179
海野「同上」,P111-P113 森「同上」,P98-P100・P112-P116 姜在彦「同上」,P137-P138
海野「同上」,P113-P118 森「同上」,P134-P144 呉善花「同上」,P184-P185 姜在彦「同上」,P151
{ 【日韓交渉を担当した林権助駐韓日本公使は】高宗を「決心に乏しい」と表現する。「優柔不断な高宗像」は、朝鮮史研究でも長い間共有されてきた。…日韓両国代表による日韓議定書の交渉が大詰めを迎えるなかで発せられた大韓帝国の局外中立宣言は、日本政府、特に駐韓日本公使館員に大きな失望を与えた。外交交渉の失敗ではあるが、彼らには大韓帝国の裏切りに見えたであろう。}(森「同上」,P144)