日本の歴史認識近代日本の歩み第2章 大日本帝国 / 2.4 日露戦争 / 2.4.8 総括

2.4.8 総括

大国ロシアとの戦争に国力をギリギリまで使い果たした上で辛勝した日本は、ロシアの報復を恐れる一方で世界の「一流国」をめざしてさらなる拡大を目指そうとする軍部などと、国民の政治参加を求める動きの両方が加速することになる。

 図表2.8(再掲) 日露戦争

Jfg208

註) 参与者数/戦死傷者/戦死者は、横手「日露戦争史」,P194-P195による。

(1) 犠牲者数註248-1

上表のように、日露戦争に参与した軍人は日本軍が108万人、ロシア軍はわかっていないが、シベリア鉄道で戦場に輸送された者だけで129万人を超えている。

日本軍の死者8.4万人のうち25%の2.1万人は病気によるものだが、90%近くが病死だった日清戦争と比べると大幅に削減されている。日露戦争では日清戦争の経験をもとにして様々な衛生管理や防寒対策などが実施された結果であろう。病死者の多かった病気は多い順に、①腸チフス、②脚気、③赤痢、であった。一方で、戦闘による死者は日清戦争では、動員数40万人に対して2千人強の0.5%であったのに対して、日露戦争では108万人に対して6.3万人の5.8%と10倍以上の大幅増加になっており、戦闘の激しさがうかがえる。

(2) 戦費註248-2

日清戦争の戦費が2.2億円だったのに対して、日露戦争のそれは約20億円と言われている。日露戦前の一般会計規模は最大でも2.9億円程度しかなく、大半の13億円は内外の公債に頼るしかなかった。すでに戦争中から非常特別税として、所得税、地租や酒税などの増税のほか、相続税の新設、タバコ・塩の専売化などが行われた。これら増税のほとんどは公債返済のために戦後も継続されたが、所得税の増税により、直接国税10円以上という投票権の資格をクリアした有権者が倍増したという。

(3) 兵力の補充註248-3

開戦当初、日本陸軍が保持していた野戦師団は全部で13個師団であり、1904年6月時点で2個師団が内地に残り、残り11個師団はすべて戦地に派遣されていた。内地にいた2個師団も、9月に遼陽、11月に旅順に、それぞれ1個師団ずつ送ることになった。

開戦後から、戦闘は熾烈を極め、将兵の戦死・戦傷は予想をはるかに超えて激増したため、次のようにして欠員の充足をはかった。

まず、大尉以上の上級将校については、予備役・後備役※1から補充したが、それだけでは間に合わず、士官が進級するために必要な最低在任年数を半減させて、進級しやすくした。
次に、中尉以下の初級士官については、予備役・後備役※1からの編入のほか、准尉、曹長などの准士官からの登用や1年志願兵と呼ばれる制度を活用して士官への登用を促進した。なお、1904年11月の士官学校卒業予定者は1カ月卒業を早めて10月卒業になった。

上記以外の下士官や兵卒の補充は、予備役、後備役※1などから行われた。1904年9月に徴兵令を改正し、後備役をそれまでの倍の10年間に延長し、37歳までの入営経験者を召集することにしたため、兵士の平均年齢は上がり、戦闘力も低下しただけでなく、軍紀・風紀の弛緩をもたらした。

{ 奉天会戦を画期として、日本陸軍は、すでに現役将校はおろか、予後備役将校さえ底を尽き、もしもう一度会戦を戦えば受けたであろう損害を補充する能力は、こと将校、特に初級士官については枯渇しきっており、戦力を回復する展望はまったく失われてしまったのであった。}(大江志乃夫「日露戦欧の軍事史的研究」,P214)

※1 予備役・後備役; 徴兵検査合格後、全日勤務に服するが、これを「現役」と呼ぶ。所定の年限を経由した後、平時は勤務せず有事に召集される「予備役」となり、予備役を終えると「後備役」となる。この呼称は時期によって異なるが、内容はほぼ変わらない。徴兵令が施行された1873年は、現役3年→予備1年→後備3年だったが、1883年に現役3年→予備4年→後備5年、1905年に後備役を10年とし、1907年に現役勤務は2年在営+1年帰休となった。戦時などで召集されて服役する場合、後備役より予備役の方が召集の優先度が高く、後備兵は後方配置が多かったという。(コトバンク〔世界大百科事典〕、Yahoo AIなど)

(4) 捕虜註248-4

この戦争で日本軍の捕虜となったロシア軍将兵は7.9万人にのぼった。特に捕虜が大量に出た戦いは、旅順攻囲戦で約4.4万人、続いて奉天会戦の約2万人、日本海海戦の約6千人、樺太戦の4.7千人などである。これらの捕虜は日本各所にあった26カ所の捕虜収容所に収容されていた。

捕虜の取扱いは、日露両国ともに1899年の「ハーグ陸戦規則」に基づいて行うことが決められたので、両国は「捕虜情報局」を設置して、捕虜に関する情報交換を行っていた。さらに、ロシア人捕虜についてはフランス政府、日本人捕虜についてはアメリカ政府が、それぞれ捕虜収容所を訪れ、その扱いについて圧力をかけていた。そのせいか、日露ともに捕虜に強制労働を課すことはなく、捕虜の虐待も報告されていない。ただ、戦場においては降伏した捕虜から金品を盗んだり、殺害したり、という事件が起きていた。

ロシア軍の捕虜になった日本軍将兵は 2088人で、うち44人は非戦闘員として開放され、抑留中に死亡した者が44人、講和成立後に2000人(うち215人は傷病者)が引き渡しを受けている。日本軍捕虜へのロシアの対応は、将校に対しては優遇されたが、下士卒に対する待遇はよくなかった。ロシア軍では将校は貴族出身者が多く、兵卒は平民出身者であったため、その扱いがそのまま日本軍将兵にも適用されたと思われる。

{ 日露戦争段階では、のちの「戦陣訓」にいう「生きて虜囚の辱めを受けず…」という思想は軍の公式の思想ではなかった。… 問題は、戦勝気分の中で、戦後の軍備拡張を実現するために、軍が積極的に軍国主義イデオロギーを鼓吹し、幾百幾千の「忠勇美談」を虚構するなかで、郷党の「名誉」としての「美談」の主人公の対極に俘虜の「不名誉」が位置づけられていったことであろう。}(大江「日露戦争の軍事史的研究」、P381-P382)

(5) 軍紀・風紀註248-5

兵営生活の慣習を知るベテラン兵士である後備兵の大量動員は、厭戦気分の万延とあいまって、軍隊内の犯罪を増加させた。窃盗が最も多かったが、殺人、傷害、強姦なども少なくなかった。中立国である清国民に対する「徴発」という名のもとでの強奪やそれに関連して起こる強姦や殺傷などは、日中戦争時のそれと変らない。以下は、当時の軍人の記録の一部である。

{ 将校斥候が … 界隈の村落に寄って、物資の徴発をした。「没有(メユー)々々」と首を振る土人を寛めながら、穀物倉の底積みの中や、時によると穴倉に埋めた鶏卵、鶏、それから菜園の白菜などを、鬼ヶ島退治宜しくといった風で、車に載せて帰ってきた。 (「兵卒の見たる日露戦争」,P31-P32)(大江「同上」,P280)

兵卒個人の自発的意思や義務感ではなく、強制力を伴う統制によって軍紀維持をはかる日本軍においては、守りの戦いではなく、集団の高揚感や個人の名誉意識によって自発性を発揮できる攻撃において、名誉意識や集団的興奮を得やすい。日本軍の戦法が攻撃中心の思想に据えられるようになったのは、このような特質が影響していると思われる。

(6) 弾薬不足註248-6

開戦にあたって、銃弾と砲弾は日清戦争での実績をもとに充分と考えられる備蓄量を保有していた。ところが、遼東半島上陸後5月の南山要塞攻略戦では、日清戦争で消費した銃弾・砲弾を超える量を1日で消費してしまった。銃や砲が日清戦争からの10年間で飛躍的に高性能化したためと思われる。陸軍当局は早くも6月には東京と大阪の砲兵工廠に増産を指示し、民間工場の利用も許可した。しかし、7月下旬からの旅順要塞攻囲戦、8月下旬からの遼陽会戦でも大量の銃弾・砲弾を使用し、かつ戦争がまだまだ続くことが明らかになったため、イギリスやドイツなど海外のメーカにも注文を出した。戦闘現場では、無駄な砲撃をしないよう指示がでた。

東京、大阪の両工廠共に、生産設備を拡張して、稼働時間を12時間から24時間稼働とし、多数の工員を投入して増産に努めた結果、辛うじて需要に応じることができた。しかし、熟練工員の不足に悩み、安全無視の作業強行と徹夜作業の連続は、工場災害の多発と、工員の病気欠勤の増加をもたらした。
戦時需要に対しては、これ以外に、馬匹、被服、軍靴、食糧などについても増産に苦しんだ。

{ 本格的帝国主義国相互間戦争を戦うにあたっての日本資本主義は、生産力水準の劣弱さゆえにこそ、…強力な軍需動員体制に編制されなければ、その機能を発揮することができなかった。…日露戦争はすでに早熟的な国家総力戦であり、国家総力戦の端緒的な諸特徴を明らかに示していた。}(大江「日露戦争の軍事史的研究」、P493)

なお、ロシア側も大量の武器弾薬の費消に悩まされたが、もともとの経済規模が大きかったのでその範囲で吸収することができた。ロシア側の問題は、鉄道輸送の能力補足と社会の組織能力の弱さによるものであった。

(7) 世界から見た日露戦争註248-7

アジアという欧米諸国から見たら「未開発地域」の小国日本が大国ロシアに勝利したことは、世界中に大きな衝撃を与えた。欧米諸国から見れば、日本は経済規模も小さい「後進国」であることに変わりはなかったが、かといってその軍事力をアジアに集中することは不可能であり、アジアのリーダと認めて関係を維持しようとした。それを最初に実践したのがイギリスであり、1905年8月に改訂された第2次日英同盟では、より緊密な軍事同盟の関係になった。

一方、アジア諸国では、有色人種で立憲国家である日本が、白人の専制国家であるロシアに勝利したことを歓迎し、日本への期待と関心が集まったが、日露戦争後にとったアジア政策――韓国併合、満州への進出、欧米列強によるインドやフィリピン、ベトナムの支配の容認など――によってその期待は失望に変わっていった。しかし、日露戦争がアジアの民族独立運動を刺激したことは間違いなく、インド、ビルマなどの独立運動指導者などに希望を与えた。また、東欧や中東諸国、中国、フィリピン、ベトナム、などで日本に興味を示す人たちが少なくなかった。

(8) 戦後の日本とロシア

日露戦争後、日本は軍国主義への道をあゆみ始め、ロシアは革命へと突き進んでいった。

日本註248-8

陸軍は、山県有朋の「ロシアはいずれ復讐的南下を開始する…」との主張をもとに兵力の大幅増員を計画し、海軍は満洲への進出を図ろうとするアメリカを仮想敵国とした大建艦計画をたてていた。この陸海軍の計画に基づいて、1907年4月、政府は大規模な軍拡計画「帝国国防方針」を決定する。日本は大陸へ進出して大陸国家を目指すか、通商主体の海洋国家を目指すか、という選択において前者の大陸国家化を選んだのである。ただ、日露戦争から得た教訓として、日本の国力では消耗戦には耐えられないことが分かっており、それを精神力で補うしかないという方針が採られた。

1910年に行った韓国併合はその第一歩であったが、しばらくの間は、大衆の社会的圧力を背景にして欧米的な政治体制の確立を目指す政治家と、影響力をさらに高めようとする軍部の対立が、1920年代の大正デモクラシーあたりまで続くことになる。ただ、この時代の大衆は、圧政に対して厳しく反発する一方で、国権の膨張を求めており、そこには大陸国家化を受け入れやすい状況があった。こうして日本は軍国主義への道を歩み始めたのである。

ロシア註248-9

帝政ロシアでは1861年に農奴解放が行われたが、農民の生活環境の改善は進まず、都市では劣悪な労働環境に労働者の不満が蓄積していた。日露戦争の開戦当初こそ、愛国的興奮をみせたものの、戦闘の劣勢が続き、物価高騰や物不足に悩まされるようになると、社会主義者や自由主義者に指導された反政府デモが全国に広がっていった。

1905年1月9日、首都ペテルブルクで「血の日曜日事件」が起きた後、6月、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こし、10月には全国にゼネストが拡がり、立憲政治を求める運動が知識人階級に広がっていった。ポーツマス講和会議から帰国したウィッテの進言により、10月17日、皇帝は「10月詔書」を発布して、国民に言論・集会・結社の自由を与え、国会の創設を認めた。1906年4月に国会は開設されたが、議員たちが提示した法案は拒絶され、皇帝は議会を解散してしまった。1906年7月、内相だったストルイピンが首相に任命され、改革に取り組んだが、民衆の不満は解消されないまま、1911年9月、ストルイピンはテロで殺害された。

1914年8月、第1次世界大戦が始まり、ロシアは英仏とともに、独墺伊の同盟国側と戦ったが、1917年2月、専制政治への反発に戦争指導への不満が重なり、ロシア革命(2月革命)が勃発、皇帝は革命軍により監禁され(のち家族ともども殺害)、同年10月の10月革命によりレーニンやスターリンが率いるソヴィエト政権が誕生した。


2.4.8項の主要参考文献

2.4.8項の註釈

註248-1 犠牲者数

横手「日露戦争史」,P165-P167 大江「日露戦争の軍事史的研究」,P129-P131・P169-P183

「参与者数」について、横手氏は{ 日本側の戦闘に参与した軍人と軍属の総数は「日露戦争統計集」によれば、戦地と後方勤務の双方を合わせて、108万人を超えていた。}(横手「同上」,P194) とするが、大江氏は「戦役統計 第4巻第12編」の表(大江「同上」,P129) を根拠に、陸軍の軍人数1,088,996人、同軍属数154,176人、としている。おそらく、108万人は大江氏の言うように陸軍の軍人数であろう。

戦闘による死者数の割合=(死者数ー病死者数=戦闘による死者数)/参与者数

註248-2 戦費

山室「日露戦争の世紀」,P125 小林「近代日本と軍部」,P281

註248-3 兵力の補充

横手「同上」,P127・P133 大江「同上」,P199-P200・P204-P212・P226-P231 原田「日清・日露戦争」,P210

註248-4 捕虜

横手「同上」,P177・P180 黒岩「日露戦争 勝利のあとの誤算」,P261-P262 大江「同上」,P368-P382

註248-5 軍紀・風紀

大江「同上」,P269-P272・P280-P281・P310

註248-6 弾薬不足

横手「同上」,P134・P136 大江「同上」,P401・P411-P412・P425-P435・P492-P493

註248-7 世界から見た日露戦争

山室「同上」,P164-P170・P202-P203 横手「同上」,P199-P200

註248-8 戦後の日本

山室「同上」,P212-P213 大江「同上」,P612 半藤「日露戦争史3」,P413-P414 横手「同上」,P196-P197 成田「大正デモクラシー」,P9-P10

註248-9 戦後のロシア

栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P93・P108-P123

詳しくは、拙サイト「日本の歴史認識>ヨーロッパが歩んだ道>4.5.2項及び4.5.3項」を参照。