日露戦争の開戦が迫る中で、朝鮮半島を重要な戦略拠点としたい日本は、韓国の中立宣言を無視して、日本への軍事的協力などを定めた「日韓議定書」を締結させた。この議定書が、その後の日韓協約のベースとなり、改定を重ねるたびに日本の権利が拡大され、最終的に併合条約となった。
図表2.15(再掲) 韓国併合
日露関係の緊張が高まるなかで、日本政府は1903年暮れから韓国と「密約」の交渉を始めていた。独立の保障を求める韓国側と攻守同盟又は保護条約を求める日本側との乖離は大きかったが、韓国政府要人に対する買収・脅迫などにより1904年1月20日までには協定案がまとまっていた。しかし、韓国は1月23日、欧米諸国などに局外中立を宣言したため、日韓の交渉はいったん中断した。2月10日、日露両国が宣戦布告して日露戦争が始まると日韓の協議も再開し、2月23日、韓国内で高まった反対論を抑えて議定書が締結され、新聞などを通じて公開された。その内容は次のようなものである。
日本の対ロシア戦の陸軍作戦は、朝鮮半島南部に上陸、北上してロシア軍と戦う、とされており、朝鮮半島での行動の自由と韓国の支援が不可欠だったのである。
日露戦争開戦後、日本軍が占拠した漢城は比較的平穏だったが、地方では朝鮮民衆が日本人を殺害するなどの事件が多発していた。また、ロシアとの条約の廃棄やロシア公使館の撤去も行われた。こうした状況のなか、1904年8月22日、日本政府は韓国の保護国※1化を目指して第1次日韓協約を承諾させた。その内容は以下のとおりである。
※1 保護国; 外交用語としての保護関係は、第三国から独立を脅かされる状態にある国家の独立を保障するため、ある特定の国が保護を与える関係である。本書では、帝国主義国の植民地獲得過程で隷属国の外交など統治機能の一部を行使する保護関係として使う。(海野「韓国併合」,P126-P127<要約>)
日本政府は1901年6月成立の桂太郎内閣で韓国を保護国化する方針を掲げていたが、1905年4月8日に改めてそれを閣議決定した。ここでいう保護権とは韓国の外交権を全面的に奪うことであり、そのためには、その時点で韓国と外交関係をもつ諸外国の承認が必要になる。
1905年5月下旬、日本海海戦でバルチック艦隊を日本が破ると、7月29日、桂太郎首相は来日中のアメリカ陸軍長官タフトと会談し、アメリカのフィリピン支配と日本の韓国保護国化を相互に承認する「桂=タフト協定」を結んだ。続いて、イギリスとは8月12日調印の第2次日英同盟においてイギリスのインド領有の引換に日本の韓国の保護権が承認された。
そして、8月10日からポーツマスで始まったロシアとの講和会議でも「日本が韓国に対して必要と認める指導、保護、および監理の措置をとること」が承認された。
こうして米英露3大国の承認を取り付けた政府は、他国もこれにならうとみた。
米英露の承認を受けて、日本は1905年10月27日の閣議で韓国の保護国化を決定し、その交渉の特使に枢密院議長の伊藤博文が選ばれた。
伊藤は11月9日漢城に入り、15日、高宗に面談して、外交権を移譲するよう強要したが、高宗は「外交権を失い、独立国家でなくなることはアフリカの植民地にひとしい」とまで言って拒絶した。伊藤は、これに応じなければ「いっそう困難な境遇に陥る」と威嚇し、速決を促した。高宗は「政府臣僚の意見を聞き、人民の意向も察する必要がある」と述べたが、伊藤は「貴国は、万機親裁の君主制国家ではないのか」と返した。
17日、日本軍が漢城に入り、要所を固めるなかで、林公使は大臣たちを日本公使館に招いて予備交渉を行ったのち、御前会議の開催を要求した。高宗も臨席した御前会議は夕方から夜に及んだが、条約反対の意見が強く、結論を得るに至らなかった。伊藤は午後8時頃、日本軍憲兵を帯同して参内し御前会議の再開を求めたが、高宗は病気を理由に出席を拒んだため、閣議形式の会議が開かれた。
伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問、8人の大臣のうち伊藤の一方的判定で賛成とみなされた者も含めて5人が賛成、反対2名、1人は半狂乱状態で回答不能となった。1905年11月17日午後11時半、条約案は若干の文言修正の後、林公使と朴斉純外相がサインし、第2次日韓協約が成立した。日本は外交権を掌握し、統監府を設置して内政全般にも関与することになり、大韓帝国は日本の保護国となった。初代統監には伊藤博文が任命され、1906年2月、漢城に統監府が開庁した。
このように脅迫、強制のもとで締結された第2次日韓協約は、1952年以来の日韓交渉においても係争点となったが、1965年の日韓基本条約調印時に「1910年8月22日以前に日本と韓国の間で締結されたすべての条約・協定は無効」とされただけで、いつから無効なのかは曖昧なままになっている。
1907年6月15日からオランダのハーグで第2回万国平和会議が開催された。この会議に大韓帝国が参加することを危惧した日本政府は、関係各国に「大韓帝国は日本の保護国となった以上、参加は認めない」と伝えたため、韓国は招請状をうけとることができなかった。しかし、高宗は3人の密使をハーグに送り込んだ。
6月25日にハーグに到着した密使は、ロシア人の議長をはじめ、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの代表を訪ねて、日韓協約が不法、無効であることを訴えて参加を申し入れたが、拒否された。各国はすでに大韓帝国の外交権が日本へ移譲されたことを認めていたのである。
上記の密使とは別に高宗は、ハルバートというアメリカ人教師を派遣して万国裁判所への提訴を試みているが、この時代は国家間紛争を国際裁判で解決する制度は未確立で、高宗の目論見は失敗した。
統監府設置後、伊藤博文統監は韓国の内政監督の強化を進め、1907年6月には内閣の権限を強化、総理大臣には親日派の李完用を据えていた。ハーグ密使事件が起きると、李完用を中心に韓国内では高宗を退位させる動きが出てくる。日本側は譲位に関与しない形で進められたが、日本側が裏から圧力をかけた可能性は否定できないであろう。
李完用は7月16日から連日、皇帝に譲位を奏請し、皇帝は当初は拒否していたが、19日、息子の純宗に皇位を譲ることを決断した。20日には譲位式が挙行され、高宗には「太皇帝」の尊称が贈られた。なお、19日から20日にかけて民衆や近衛兵は大韓帝国の大臣たちを殺害しようと激昂し、李完用の邸宅が放火された、という報告もある。21日夜には、日本軍歩兵が王宮に入り、譲位に反対していた閣僚らを逮捕した。なお、純宗の即位式は1カ月後の8月27日に行われた。
伊藤博文は密使のことを知っていたが、高宗に警告したにも関わらず実行されたことで感情的になっていた。1907年7月3日、伊藤は「此際、韓国に対して局面一変の行動を執るの好時期なり…」との電報を林董外相あてに発信し、7月7日には対韓処理方針の政府決定を促す電報を送った。これに対して日本政府は閣議を開いて、次のような要綱を決定し、12日に天皇の裁可を得た。第2次協約で日本は外交権を奪ったが、第3次では内政権も日本が握ることになる。
上記方針に基づき、第3次日韓協約の条文が渡韓した林外相と伊藤によって作成された。協約は7月24日、李完用首相に提示され、その日のうちに調印された。大韓帝国の名前は残しつつ、日本が韓国の内政権も全面的に掌握することになった。
日露戦争後の1905年以降、韓国には3つの大衆運動が発生した。①日韓合邦を推進した「一進会」、②韓国の独立自強・近代化を目指した「大韓自強会」、③反日義兵運動(武力闘争)、である。
一進会は1904年8月、宋秉畯(そんびょんじゅん)が組織した旧独立協会系の維新会と東学教徒李容九(いよんぐ)が組織した進歩会とが合同して結成された親日団体で、会員数は約10万人、元官吏、儒学者、地方士族、農民、商人などで構成された。1907年には日本の国家主義団体黒龍会主幹の内田良平を顧問に迎えており、1907年5月に組織された李完用内閣に宋秉畯は農商工部大臣として入閣している。
一進会は日本との合邦を求めて声明書を出したが、それは対等合併ないしは連邦形式の連合国家であり、日本側思惑とは隔たりがあった。韓国内でも反発が強く、民衆の反感をかった。韓国併合後には日本政府により解散させられた。
1905年頃から1910年にかけて、知識人たちは教育や産業の振興を通して民力を養い、国家の自強と独立を果たすことによる「国権回復」を求めた「愛国啓蒙運動」を展開した。その活動の中心になったのが、1906年4月に設立された「大韓自強会」である。彼らは保護国化の原因を朝鮮政治・社会の旧習にあるとみて、日本との同盟をもって独立・自強・近代化を目指したが、しだいに日本の保護政治に対する批判を強めた。1907年以降は主として反日運動を展開するようになり、1907年8月に解散させられた。
義兵とは、国の危急に際して、民衆が義をもって自発的に組織する民衆軍のことで、韓国では豊臣秀吉の朝鮮侵攻時や1860年代の米英仏などに対する攘夷行動、1895-96年の断髪令など近代化施策への反発や閔妃殺害への抗議でも決起している。リーダとなったのは、儒学者や両班、軍人などが多く、兵士の大半は農民で、儒教を基盤とした伝統的価値観に共鳴していた。
義兵運動が抗日運動として広がるのは、高宗が退位し、韓国軍解散の詔勅が出された1907年7月頃からで、各地で数千名が散発的に日本軍と戦闘を始めた。1907年12月には1万余名が連合して漢城に進撃しようとしたが、日本軍の反撃などから団結を維持できず、敗退した。それ以降、義兵運動はゲリラ化し、最高潮に達するが、日本軍は討伐作戦を展開してこれらの義兵を殲滅した。残った義兵部隊は朝鮮東北地方から満洲へ逃れ、そこでの独立運動に継承された。
ハーグ密使事件後の1907年7月14日、日本の対外強硬派の議員や右翼団体は、韓国を併合する建言書を政府に提出した。同様の強硬論を主張する政党もあり、新聞にも併合を目指すべしとの強硬論が多数掲載されていた。統監の伊藤博文は併合には消極的で、韓国の「独立富強」を目指し、日本の監理・指導・保護による振興政策として、司法制度の整備、韓国中央銀行の設立、教育振興、殖産興業などを実施していった。
1906年頃から、民衆が武器をもって反日を叫んで蜂起する「義兵運動」が活発化していくと、伊藤は1908年末から統監辞任をほのめかすようになった。1909年4月10日、一時帰国していた伊藤を桂首相と小村外相が訪問し、韓国併合案を提示すると、伊藤はそれにあっさり合意した。伊藤は同年6月に統監を辞任し、後任には副統監だった曾禰荒助が昇格した。
1909年7月6日、「韓国併合に関する件」が閣議決定され、実施時期は「適当の時機」ではあるが、韓国併合が正式に日本政府の方針となった。
1909年12月4日、日本の右翼の肩入れもあって韓国の親日的政治団体である一進会が、純宗皇帝ならびに日本政府に対して「韓日合邦」を提議したが、韓国内の反応は冷淡で、日本政府も動かなかった。
統監を辞した伊藤は、後藤新平逓相の勧めにより朝鮮・満州問題についてロシア蔵相ココフツォフと非公式会談を行うために満洲のハルビンに赴いた。1909年10月26日朝9時過ぎ、ココフツォフと列車内で挨拶をかわし、プラットフォームを歩き出したところを朝鮮人独立運動家の安重根が放った銃弾が伊藤に命中し、間もなく息を引き取った。
1910年5月30日、曾禰にかわって陸軍大将 寺内正毅が第3代統監となると、併合に向けての動きが加速する。6月3日、「併合後の韓国に対する施政方針」が決定され、併合後の朝鮮では当分の間、憲法を施行せず天皇大権によって統治すること、などが決った。7月8日の閣議で併合条約案が決定され、8月16日、寺内統監は李完用首相に併合条約を受諾するよう求めた。そのとき、寺内は併合の理由として、「日本は韓国擁護のために2回の大戦を行ったが、施政改善の目的は達成できていないので、併合する」という趣旨を述べ、併合は強制的ではなく合意によるものだと強調したという。
李完用には拒否する力も勇気もなく、国号として「韓国」の存続と、退位する皇帝に「王」の称号を与えることを求めた。前者は認められず、大韓帝国の地域は「朝鮮」と呼ばれることになったが、後者は認められ、天皇に冊封されて純宗は「昌徳宮李王殿下」、高宗は「徳寿宮李太王殿下」と称することになった。
併合条約は韓国の閣議では反対者がいて可決されなかったが、御前会議で純宗皇帝が承認し、8月22日、日韓両国が調印して成立した。25日に朝鮮在住の各国領事に通告され、29日に公布された。
なお、併合条約締結にあたって、日本はロシアとイギリスの了承を得ている。
併合直後の有力新聞や雑誌のほとんどすべてが、日本の韓国併合を美化、正当化している。ただ、武人による支配批判する新聞・雑誌はあった。また、新渡戸稲造でさえ、「…今や我が国はヨーロッパの諸国よりも大国となった…」と喜んでおり、大半の日本国民も大喜びしていた。
海野「韓国併合」,P123-P131 森「韓国併合」,P139-P147 呉善花「韓国併合への道 完全版」,P185
海野「同上」,P139-P142 森「同上」,P148-P151 山室「日露戦争の世紀」,P128-P129
海野「同上」,P125・P144-P153 森「同上」,P154-P155 山室「同上」,P129-P131
{ ポーツマス条約においても遼東半島の租借権などを、主権をもっていたはずの清国の意思とは無関係に、ロシアから譲渡させました… 日本は日露開戦直後、清国に対して「戦争の終局において毫も大清国の土地を占領するの意志なき」(…)旨を通告していたのですから、これにも違約します。}(山室「同上」、P130-P131)
海野「同上」,P157-P165 森「同上」,P155-P164 山室「同上」,P132-P134
{ 伊藤博文などと交流があったドイツ人医師ベルツは、1904年11月16日の日記で、第1次日韓協約以降の東アジア情勢に関し、清国が日本に不信感を抱いているとして、…「日本は不可解な失策をやった。真実、東アジアの民族の盟主たるの地位を目指していたのであれば、まず温情により、清・韓両国を味方につけ、その信頼を固めなければならなかった。支配するのではなく、指導すべきだった」と日本が孤立化していく危険性を指摘していた。}(山室「同上」,P133-P134)
海野「同上」,P157-P165 森「同上」,P155-P164 山室「同上」,P132-P134 姜在彦「新訂 朝鮮近代史」,P154
海野「同上」,P180-P182 森「同上」,P172-P174 山室「同上」,P220-P221 姜在彦「同上」,P154-P155・P165 伊藤之雄「伊藤博文」,P582
海野「同上」,P182-P184 森「同上」,P179-P181 山室「同上」,P221 姜在彦「同上」,P152-P153
森「同上」,P185-P189 海野「同上」,P205-P206 呉善花「同上」,P194-P211
森「同上」,P189-P191 呉善花「同上」,P191-P193 姜在彦「同上」,P172-P173
森「同上」,P191-P194・P202-P204 呉善花「同上」,P188-P191 姜在彦「同上」、P163-P170 海野「同上」,P167-P170・P185-P196
{ 漢城進攻が失敗したのは、先遣部隊が日本軍の先制攻撃を受けて敗退したため、とされているが、問題はそれだけではない。今まさに進軍しようとしたとき、総大将の父親死去の知らせが入り、総大将は喪に服するため戦線を離脱してしまったのである。孝を第一の徳目とする李朝の伝統からすれば、それは当然のことだった。}(呉善花「同上」,P190<要約>)
海野「同上」,P199-P203・P206-P208 森「同上」,P205-P206
海野「同上」,P208-P211 森「同上」,P206-P207
伊藤之雄「同上」, P618・P624-P625 森「同上」, P207-P208
海野「同上」,P212-P221 森「同上」,P208-P215 山室「同上」,P221 姜在彦「同上」、P152-P153
海野「同上」,P225-P227 成田「大正デモクラシー」,P52-P54