金大フィルの50年


創立第一回演奏会

 

 金沢にも早くからオーケストラ活動があり、戦前には金城団、戦後の金沢交響楽団が活躍していた。それらは「石川県の弦の父」といわれる篠原虎一氏に育てられた人達が主体となって戦後の荒廃期にも市民に潤いを与えていた。


 そして昭和24年には全国大学令によって各県に大学が発足し各地で大学オーケストラが誕生した年であった。第四高等学校、各師範学校、金沢医科大学を包括してできた金沢大学においても遅れることなくオーケストラ胎動が始まった。当時既に、大学オーケストラとしては、東京、京都、九州、東北各帝大が盛んに活躍していた。金沢では、金沢交響楽団の他、医大の洋楽部が管弦楽を持ち音楽会を開いていた。我が金沢大では第一回入学生棚倉昭美氏、川崎直由氏ら好楽な諸氏とともに、教育学部音楽家の佐々木宣男教授によって形成の基礎が築かれ、弦は篠原氏の教えを受けたものを中心に16名からなる管弦楽団が結成された。翌年(昭和25年)の10月7日にこの管弦楽団は産声を上げた。


 その第一回演奏会は理学部講堂で行なわれたが、管弦楽独自の演奏会というよりむしろ音楽部としての演奏会であり、ピアノ独奏、ソフラノ、バリトン独唱も並ぶプログラミングであった。管弦楽としてはベートーヴェンのロマンス(ト長調)とバッハの組曲第二番が演奏されたが、その年はちょうどバッハの200年祭に当っている。指揮台には佐々木氏、棚倉氏が登っており、両氏の棒によって創設の頃から数回に渡る演奏が行なわれ音楽的にも発展した。また部長には教育学部教授の難波得三氏が就任した。

 オケの主力メンバーが集まり協議の結果、「金沢大学フィルハーモニー管弦楽団」と名称が決定され、一方、演奏会で賛助出演などでかつてから協力を得てきた旧医大の管弦楽団との合併の話がまとまり部員も40数名に増えて文字通りオーケストラとして成長した。この名称は第三回演奏会から登場し、またこの演奏会からは定期となった。編成はトロンボーン、チューバはないにしても、ほぼ二管編成を完成しており古典の名曲を演奏するのに十分となっている。そして、金大フィル初めてのシンフォニーとして、第三回にシューベルトの「未完成」交響曲が演奏されている。その頃北陸の地、金沢ではまだ生のオーケストラによる演奏は珍しく、多くの聴衆を集め好意を持って市民に迎えられた。金大フィル創立は、ただ学生オケの誕生と言った意味でなく、金沢交響楽団の衰退期に金沢唯一のオケ、つまりは金沢のオーケストラとして存在意義を持ち、金沢の音楽史において特筆すべきモニュメントであったと言うことができよう。




オーケストラとして

 
 第4回定期(昭和27年)からは指導陣に安藤芳亮教官を加え、演奏会も正統的なプログラムをとるようになり、また金大フィルも次々と名曲、大曲を手掛けていくようになった。まずその初めとして川口恒子女史(現教育学部助教授、金大フィル顧問)を迎えたシューマンのピアノ協奏曲、ベートーヴェンの第五「運命」の全曲演奏が行なわれており、翌年には篠原氏の紹介によってN響のヴァイオリ ニスト斉藤裕氏を招き、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏している。理学部講堂一杯に聴衆が入り、同夜のメンデルスゾーンの「イタリア」交響曲と共に素晴らしい演奏であったといわれる。これは金大フィルの歴史の中でこの頃が一つの頂点であったことを示している。これよりも以後も、年2回のペースで定演が行なわれていく。


 第20回までの特色として協奏曲が必ずといってよい程プログラムに含むことがあげられる。珍しいものとしては第9回における釣谷雅楽女史を迎えての平井康三朗の「筝協奏曲」第一番。これは金大フィルにとって初めての本格的な邦人作曲家の作品演奏である。他、ソリストには団員の中から、或いは教育学部関係などから招いて協奏曲に取り組んでいる。プログラムもベートーヴェンのピアノ協奏曲、モーツァルトの管楽器の協奏曲などがとりあげられている。ティンパニーを受け持っていた高泰夫氏はピアノ・ソリストとしても創立の頃から活躍した。指揮台には、佐々木、安藤、高氏が立ち、佐々木氏が愛媛大へ転地されたりして指揮台が空いた時には、合唱団を指導していた現在金沢市音楽文化協会々長である中村外治氏がその任にあたった。また、バロック音楽を奏する際は必ず篠原氏を招いているが、当楽団の篠原氏に対する敬愛が窺われよう。金大フィルの発展に佐々木宣男助教授の尽力は大きく、氏の熱意と大学側の理解もあって楽器も揃うようになり、シンフォニー・オーケストラとして定着していった。


 交響曲ではベートーヴェンの第一、第二、第五「運命」、第六「田園」、第八、モーツァルトの後期交響曲、およびハイドンとドイツ古典で飾られている。また、第11回にはモーツァルトの生誕二百年にあたっているのでモーツァルトの作品が中心に演奏された。一方、昭和26年に行なわれた北陸三県大学合同音楽会を初めとして他大学との交流も持たれ、さらに拡大して北信五県の連合音楽にも発展している。昭和31年には名古屋大学管弦楽団との合同演奏会が北陸学院栄光館で実現した。


 現在全国的に見て各地方の大学間の交流が薄れているなかで、北陸は年に一度ではあるが、三県大学を主体に芸交祭が開かれ互いに交流をもち、演奏を聴き合っている。またこの頃特筆すべきことは開学記念祭に参加し、合唱団とも合同演奏をしていることである。第17回には開学記念として定期を一括して行なっており、合唱団とヘンデルのハレルヤ、ハイドンのオラトリオ「天地創造」を演奏した。 この記念祭は現在では行なわれていない。尚、昭和29年から難波氏の後を継いで岩崎二郎氏が部長に就任し、31年からは木村久吉氏、後に佐々木宣男氏、橋本秀次氏、川口恒子氏が顧問となって川口氏は現在に至っている。





山下成太郎を迎えて


 昭和37年、東京芸術大学作曲科出身の山下成太郎氏が玉川学園から金沢大学へ赴任し、同時に金大フィルの常任指揮者に就任した。氏は音楽的にも確実なものを持っており、あくまでも音楽の流れに主体を置く指揮者であった。その点において技術的な指導をするのでなく、つまりはトレーナ的指揮者ではなく音楽の本質的なものを金大フィルに教えられたのではなかろうか。山下氏は時々抽象的な表現を使った。・…‥「ソコはなつかしい音が欲しいんだョ。」…・‥従って氏に学生オケだからといった甘えはなく金大フィルがそれに充分応え得たか否かは別として氏自身の音楽を強く要求したのではあるまいか。この山下氏の音楽に対する情熱とある程度の強引さが団員の氏への信頼と「成ちゃん」と親しく呼ばせるものとなったのであろう。氏の金大フィルにおける処女演奏はその年の開学記念演奏会のシューベルト「未完成」に始まっている。

 その時のコンサートマスターはやはり山下氏の率いる現金沢交響楽団のコンサートマスター石黒泰治氏であった。同年第23回定期にはハイドンのロンドン交響曲がとりあげられ全プロを山下氏が指揮している。以後三年間氏と金大フィルのコンビが続き昭和39年の教育学部音楽教室との合同演奏を境にして一時指揮を退いている。この間浅地修氏と遠藤智憲氏が棒を振った。浅地氏はトランペットを専攻しており金沢の管楽器活動および指導者として見逃せない存在である。現在金大教育学部講師であり県音楽文化協会の重職でもある。第26回定期では浅地氏の独奏、遠藤氏の指揮でハイドンのトランペット協奏曲が演奏された。また第28回では当時の団長鵜飼信彦氏の高校時代の友人、芸大在学中の田中雅氏の独奏によるボッケリーニのチェロ協奏曲という友情の協演が実現した。


 翌年金大フィルは再び山下氏を常任指揮者に迎え、大曲ドボルザークの新世界交響曲に取り組んでいる。この頃ファゴットもやっと揃い金管も充実して金大フィルは編成において室内的な古典からコンサートホールのロマン派あるいはそれ以降へと成長した。定演も年1回ペースに集中しプログラミングも協奏曲こそないが序曲−組曲−大曲のシンフォニーと充実したものになっている。また山下氏の新世界に打ち込む意気は盛んなものであったという。この新世界交響曲は金大フィルにとって古典、ロマン派ごく初期の交響曲から初めて脱出した試みだった。この頃から定演の場として旧理学部講堂、栄光館、北国講堂から大舞台の金沢市観光会館へと移されている。文字通り、シンフォニーオーケストラへの発展を遂げたわけだ。


 また、昭和40年ごろからほとんどオーケストラの生演奏を聞けない能登地方へ演奏旅行に出かけるようになった。これは地元の支持を受けほとんど毎年続けられている。プログラムもポピュラーなものを組み、単に学生オケに留まらず公共的性格も持ち始めたといえる。これは自分達の演奏欲求だけを満足するものではもちろんないであろう。事実、能登の小学生や中学生が拙い演奏ではあっても目を輝やかせて喰い入る様に聞いてくれるのを前にしたときの感激はひとしおであろう。そしてその時、地方文化への貢献などという大義名分がなくとも翌年また我々のオーケストラが来ることの意義が認められるであろう。実際能登への演奏族行は毎年金大フィルの課題として検討される。


 昭和44年は創立20年にあたり、また定演もちょうど30回を迎えた。この演奏会のパンフレットのなかで、第一回卒業生で定演のたびに賛助出演されてきた川崎直由氏は感慨深く述べている。…‥早いものでもう20年、30回、私個人としては29回の定期出演の中には思い出も悔いも多いが、何と言ってもこのオーケストラが誇れるのは、金大フィルの歴史は金沢のオケ文化史そのものであるという事、(中略)金沢のオケとして活動して来た点でなかろうか。又このオケを育てた演奏家、演奏会も多かった。メサイア、金沢弦楽合奏団、金沢放送管弦楽団、衰退した金響を一時支えていたもの、ここで育ったフィルハーモニアンであり、最近では才能教室にと、活躍しているのもこの仲間である。又よく協演したピアノの矢原さんがプロとして活躍なさったり、東京OB交響楽団に金大OBが多かった一時期、川崎交響楽団の棚倉君等、全国にも多くの仲間がいる。然しこの金大オケも一時は活動出来ない様な時もありましたが、中村外治先生、客演、OBの努力で毎年の活動が続けられ、昨年の「新世界」、本年の「英雄」30回定演にこぎつけたのです。・・・・・・この定演に誰にも親しみやすく、かつ勇気付けられるものとして、過去30年の締めくくりとして、また、ベート-ヴェンなら是非やってみたいものとして、(当時のプログラムから引用)ベートーヴェンの英雄が取り上げられた。


 ところで、この年は大学立法問題の嵐が吹きまくり、金大学内も騒然とした。オケにもこの問題が波及して活動できないような状況になったが連日の討論会が行なわれ、結局音を絶やすべきではないと結論され、活動が続けられ、演奏旅行、芸交祭も実施された。






情熱の第七、そしてブラームス

 
  山下氏と金大フィルのコンビは第31回、第32回定期で黄金期を築く。31回のベートーヴェンの第七は感激的なものであった。音楽に対する憧れ、そこから迸る情熱が技術を超越し、音楽が躍動して楽聖の心を語る、その夜の第七はまさにそう評価すべきものであったろう。第七の持つリズムの熱狂とオケの情熱が混然となった演奏であったという。また聴衆の反応も大きかったといわれる。この演奏会には篠原氏とコントラバス奏者として協力を得て来た松中久儀氏を指揮者に招いた。その興奮が治まるにつれ翌年の次の交響曲へと気運が高まった。


 金大フィルが始まって以来、ドイツ古典が中心であったが、大学オケが次に目指すシンフォニーが何であるか。ベートーヴェンのシンフォニーのゲルマン的性格による力感、重量感は確かに大学オケにとって遣り甲斐のあるものだろう。その性格を持ち備えかつ手ごたえのあるものは、ベートーヴェンの後に続くものは。第32回定期演奏会には、大ホールにあの劇的なティンパニーの規則正しい、強打が鳴り響く。そう、この年我々金大フィルは念願のブラームスに真正面から取り組んだのだ。この金大フィルによる第一交響曲は北陸において地元オーケストラのブラームスのシンフォニーを決定することに危惧を持つ者も多かったが、山下氏の情熱と団員の努力によって演奏が実現したのである。時のコンサートマスタ大峡星夫氏のソロで第二楽章を飾った。また多くのOB、賛助の方々が駆けつけ総勢70名に及ぶ編成となった。


  この定演のプログラムに山下氏は述べている。

  ・・・・「ブラ一」をここでフィルが演奏することにどんな意義があるか。そのことはフィル22年の定演史をひもとくと明白になるのである。というのは金大フィル22年の定演の中で、ブラームスの交響曲を演奏したことは一回もないからである。この間、ブラームスの交響曲が何度か候補にあがったことと思うが、種々の理由(その中には、この曲をこなし切る自信がないということも大きな一つにかぞえることができる)によってとりやめて来たのである。言を進めていえば、この22年間金大フィルに在籍した多くの人は、その間に一度は定演にブラームスの交響曲をと考え、夢みたと言ってよいであろう。だから、今宵はそのような意味をこめてのブラームス、そして「ブラ一」の初演の日なのである。・・・・

  こうして金大フィルはブラームスのシンフォニー演奏という実績をつくることができた。さらにオープニングには同じくブラームスの「悲劇的序曲」がおかれ、まさにその年の夏から冬にかけて金大フィルはブラームスに明け暮れたといってよい。


  しかし、金大フィルは再び第33回定期にブラームスのシンフォニーを取りあげる。「ブラ一」に続く「ブラニ」の選曲は山下氏の意向も強かったと思うが、やはり団員のいわばオケマンとしてのブラームスヘの執着のあらわれであろう。山下氏は「ブラ一」と「ブラニ」をベートーヴェンの「ワルトシュタイン」と「熱情」との関係にたとえてその意向を作曲家らしいアプローチで述べている。「ブラニ」は金大フィルのブラームスに対する新鮮さはやや薄れていたとはいえ、のどかな「花の園」(山下氏)のように演奏された。


 こうしてベートーヴェンの第七からブラームスヘと質・量共に増してきた金大フィルであるが、OBの賛助、各方面からの客演を迎えて大曲に取り組むと言った肥大化は学生オケとしての素朴な問題を萌芽し、新たな疑問を生み出すことになった。助け船を出さずに学生自身のみで個性ある良い演奏は出来ぬものであろうか。これは第34回定期に向っての課題として討議され、金大フィルは新しい方向へと漕ぎ出した。しかし、昭和37年に山下氏が再度、常任指揮者に就任して以来、「新世界」から「ブラニ」に至るまで、それ以前の金大フィルの流れを変え、山下氏とのコンビはフィルの歴史において重要なページをなすものであり、ブラ−ムスへの発展は金大フィル定演史のエポックとなったのである。




独自の演奏を


  金大フィルという河は「ブラニ」の終わった時点で大きく流れを変え新しい水路を見い出した。48年に入って発足した執行部、パートリーダー会議は「エキストラを呼ばない定演」を目標に活動を開始した。山下氏に顧問をお願いし、団員の中から前定期で学生指揮として棒を振った藤島季敏氏を正指揮者、竹内正士氏を副指揮者として総会にて選出した。ここで以前から問題となっていたオケ内の組織について語らねばならない。金大フィルも発足当時の十数名から現在の八十数名になり、ひとつの社会を形成するに至った。金沢にも石川県内の音楽団体を抱括する音楽文化協会が結成され多様化し、対外的にもそれなりの組織無くしては身動きが取れなくなってきた。そこで藤島氏、岩佐らが主体となって規約、組織に関する青写真が提出され、総会にて修正を加えほぼ基礎が出来上った。内政・外政他総括的な事を受けもつ団長の下に執行部、指揮者を含む音楽、練習面に責任を持つパートリーダー会議、備品、会計を管理する財務委員会、最高決議機関である総会などそれら役割と性格がほぼ明確化された。現在(49年)には新しく音楽監督がおかれている。こうした機構の下で、様々な問題点を含みながらも新たな企画をもりこんだ新入生歓迎演奏会、演奏旅行、芸交祭と実行していった。

 そして定演にはパートリーダーによる選曲会議の総力をあげて客演なしというハンディキャップを抱えながらロマン主義の爛熟したシューマンの第4交響曲を選んだ。藤島氏の繊細にてエレガンスな指揮の下、現役学生のみによる編成(弦6,6,5,4,2,)でどのように表現されたであろうか。第34回の定期は一つの理想を目指すと共に冒険を含んでいた。しかし団員の心には何かが残ったに違いない。エキストラを加えて金大フィルそのものの音は多少薄れてもシンフォニーの持つ重量感、音のカオスを求めることが、音楽に対する正しい姿勢であろうか、それともあくまで独自でやるべきか。どちらも正当でありそれ故大きなジレンマであるが、その年金大フィルは後者を採った。
 

  25年周年を迎えた1975年、第35回定期演奏会、メイン曲は「エロイカ」。創立20年を祝った第30回でも「エロイカ」が演奏されている。しかし現団員はその当時の演奏がどんなものであったか知る由もなく、またその様な事実すら知る者は少ないであろう。過去にそうした事があった事を知って初めて感慨を改たにするものであり、元来歴史とはその様なものであったろう。いわばこのときの「エロイカ」は新しい体制の下での、また新しい金大フィルによる「エロイカ」であった。このとき、国立音大卒業後、ウィーンで指揮法の研鑚を積んで帰朝し、石川フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者として活躍する本多敏良氏を音楽監督とし、また「エロイカ」の指揮者として選んだ。学生指揮者の竹内正士、河原啓一両氏の棒での文字通り学生のみの第1回サマーコンサートを成功させ、定演を迎えていた。一年生もヴァイオリンなど経験者を含めて数多く入部し、特殊楽器を除いてはエキストラの需要もなくなっていた。本第35回定演は、観光会館、小松市公会堂での2公演を持った。若き本多氏の指揮する「エロイカ」、情熱の籠った力強いものとなって25周年を飾った。


 この2年で金大フィルの体制は大きく変わり、昭和48年学生オケ(学生だけのオーケストラ)として再出発した金大フィルは様々な形で前進を重ねて行く。編成においても2管編成のフルオケとして整いOBの藤島氏を客演指揮者に迎え第36回定演には、ドボルザークの第八交響曲を演奏した。こうしたなかで、団員の願いとして、さらに団の根強い意識として"プロ指揮者の下で演奏をしたい”そんな願いが一貫し続けた。こうして、金大フィルは新しい局面を迎える。




プロ指揮を迎えての10年

        
 そして、第37回定演(S52)に伴有雄氏という、願ってもない指揮者を迎えることができた。不安と期待を持って迎えたプロの指揮者、当時の人はどのように感じたのであろうか。続く第38回定演(S52)には藤島氏の指揮で、学生オーケストラでは至難と言われたブルックナー第4番「ロマンティック」をとりあげた。北陸初演であった。


 第39回定演(S54)には佐藤功太郎氏を迎えブラームス第4番を演奏した。この頃、団員も100人を超える大所帯となった。続く第40回定演(S54)、再び佐藤功太郎氏を招き、30周年のこの年、初めてチャイコフスキーの交響曲(5番)をとりあげた。


 
石丸寛

 以後、定演ではプロ指揮が定着し、第41回定演には石丸寛氏、第42〜第44回定演には堤俊作氏、第45、46定演には末廣誠氏、第47〜49回定演には金洪才(キム・ホンジェ)氏を客演指揮に招いた。第41回定演(S56)には石丸氏の指揮によりシベリウス第2番を演奏、シベりウスの交響曲をとりあげたのはこれが初めてである。第43回定演(S58)には堤氏の指揮でマーラー第1番「巨人」、第45回定演(S60)には末廣氏によるブルックナー第4番「ロマンティック」、第47回定演(S62)には金氏の指揮でベルリオーズ「幻想交響曲」がそれぞれ演奏された。これらはほとんど取りあげられることのなかった曲であり、様々な大曲に挑戦しているということがこの頃の特徴としてあげられる。
 また、第12回サマコン(S62)のコープランドのバレエ組曲「ビリー・ザ・キッド」、第49回定演(H1)のプーランクのバレエ組曲「牝鹿」など、ちょっと変わった、珍しい曲も演奏されている。


 第28回定演(S42)以来、定演のプログラムにあがることのなかった協奏曲が、約10年ぶりに登場したのは、第3回サマコン(S52)のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲であった。独奏者には相野田秋子女史を招いた。以後、協奏曲が約2年おきに登場している。最近では、第45回定演(S60)に、米田ゆり女史を招いて、グリーグのピアノ協奏曲を演奏した。

 さらに、サマーコンサートが大きな行事として定着し第5回以降はすべて学生指揮者の手によって行われている。サマコンでは、ドボルザーク第8番、第9番「新世界より」、ベートーヴェン第3番「英雄」、第5番が主なレパートリーになっている。また、第5回サマコン(S55)のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、第11回サマコン(S61)のブラームスのヴァイオリン協奏曲では、さらに、第6回サマコン(S56)ではメインにブラームス第1番を取りあげるなど、形式、内容ともに充実したものとなってきている。


 昭和55年には、宮崎理恵女史(S58卒、Vn)が金大フィル初のコンサートミストレスとなった。女性団員の数も増え、近年では、毎年、女性のPLが登場するなど、女性の活躍が目ざましい。

 そして、第50回記念定期演奏会(H2)、客演指揮に再び、堤俊作氏を迎え、マーラー第5番を演奏、第3楽章は、当時の団長でもあった澤田豊伸氏(在団中、Hn)のソロで飾った。さらに、独奏者に尾花氏店村眞積氏(読売日本交響楽団ソロヴイオラ奏者)を迎えてのモーツァルトのヴァイオリンとヴィオラと管弦楽のための協奏交響曲を演奏した。
 オープニングのエルガー「威風堂々第1番」には、3年ぶりに弦楽器初心者の1年生が出演し、総勢90名以上による大編成の演奏となった。この定演は、多くの聴衆を集め、形式、内容ともに、金大フィル創立以後40年、50回の定期演奏会の総決算ともいうべき演奏であったといえよう。




角間キャンパスへ大移動

 
 第51回定演以後も、団員数は順調に推移し、演奏する曲も大編成の曲が目立ち、第52回には堀俊輔氏指揮でブルックナー交響曲第7番、第54回には小松一彦氏指揮でラフマニノフ交響曲第2番を演奏している。

 
堀俊輔
小松一彦

 平成6年、金沢大学の長きにわたり親しまれた城内キャンパスから角間キャンパスへの移転に伴い、金大フィルの部室も角間キャンパスの課外活動施設に大移動することになった。城内の練習環境に比べると角間の課外活動施設は練習場が狭く、しかも他団体と共用を余儀なくされるというあまり良い環境とは言えなかった。その後、大学会館の整備等により、若干練習環境は改善されている。しかし、角間キャンパスは都心からかなり離れた山の中にあり、バスは9時過ぎには終了してしまうので、自家用車を持っていない限り自由な移動は困難で、夜通し練習する音が聴こえたという話は語り草になってしまった感がある。さらに、工学部、医学部、薬学部は従来の場所にあるため専門課程に進んでからの移動が困難で、理系の団員が減少するという現象が生じている。さらに、多くの資料が移動の際に紛失してしまったのは非常に残念である






念願の第9演奏

 金洪才
 

 角問へ移動し、慣れない練習環境にも慣れ、落ち着きを取り戻しつつあった平成7年の第56回では、久しぶりに金洪才氏を迎え、シベリウスの交響曲第1番を演奏した。そして平成9年の第58回は、同じく金氏を迎えてベートーヴェン交響曲第9番「合唱付」を演奏した。学生だけで第9を演奏するのは技術的にも経済的にも困難とされたが、「唱合唱団」という特別な合唱団が金大フィルの定演のために組織され、金氏の指導とPL陣の努力で技術的課題を克服し、本番は近年まれにみる観客を動員し、演奏会は大成功となった。合唱団は小編成ながら大きな歌声で観客を魅了した。このときのコンサートマスターは初心者で入団した荒木来太氏であった。







60回定演へ


 第59回定期演奏会は金大フィルでは始めてとなる磯部省吾氏を迎え、ブラームスの交響曲第4番と、NHK交響楽団コンサートマスターの篠崎史紀氏のソロによりブルッフのヴァイオリン協奏曲卜短調を演奏した。この演奏会で特徴的だったのは磯部氏の紹介により、録音エンジニアが呼ばれ、本番ステージには見慣れないマイクが林立した。

 
佐藤功太郎

 そして平成12年1月、第60回定期演奏会が行われた。奇しくも20世紀最後の金大フィルの定演である。指揮は第40回定期でもご指導いただいた佐藤功太郎氏を20年ぶりに迎え、マーラーの交響曲1番「巨人」、シューベルトのロザムンデ序曲を演奏した。本番は本学合唱団定演と同日開催というハンディももろともせず、大勢の観客を動員し、4楽章のフィナーレでは猛烈な盛り上がりを見せた。なお、この演奏会では団員の総意により多数のエキストラが呼ばれた。しかしこれは第60回定演だからとこだわった訳ではなく、あくまで「マーラーをやりたい」という強い意志から生れたものである。  





21世紀へ

 
 大学独立行政法人化、課外活動支援予算の削減など、大学を中心とした社会の動きは決して先行きの明るいものとはいえない。しかし、そんなことで挫折する金大フィルではない。時代の変化に柔軟に対応し、これからも金沢の音楽史に輝かしい足跡を遺して行くだろう。