4分の1世紀、金沢大学
フィルハーモニー管弦楽団
の歴史をふりかえって



金沢大学教育学部助教授(注) 川 口 恒 子 女史
 

  金沢大学フィルハ−モニー管弦楽団は本年創立25周年を迎えることとなりました。金沢大学が新制大学として発足した昭和24年5月の当時、音楽研究室をもつ教育学部は旧石川師範男子部(現在泉中学の地)の校舎を使用しておりました。県立第一高女から佐々木宣男、女子師範から今井松雄、男子師範から石本一雄、供田武嘉津の諸先生がたによって音楽研究室が組織され、発足1年後に私はピアノの担任として就任したわけです。記録によると第1回金大フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会は昭和25年10月7日とあります。佐々木助教授を中心に棚倉氏など旧四高生たちも参加して金大フィルハーモニー管弦楽団は結成されたように思います。

 金沢は伝統的な文化都市でしたが、ことに敗戦後の虚脱状態から立ち上るには音楽や芸術を振興することが第一というので、一種の熱気をもって市民に迎えられたようです。
 第3回定演は、昭和27年5月31日金大開学記念日に金大フィルハーモニー管弦楽団部長、難波得三教授の夫人、難波菊江女史(元東京音楽学校(今の芸大)教授)のソロで、ウェーバーのピアノ小協奏曲が演奏されています。同年秋11月8日佐々木助教授が金大フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、私がシューマンのピアノ協奏曲を演奏いたしました。会場は理学部講堂(旧四高講堂)でした。その前夜の総練習の折の団員の熱気は、今も暖かく背中に感ずるほど忘れがたいものでした。この第3楽章はピアノとオケのリズムが違っていてなかなかの難曲です。「あれ!3楽章こんなに早いの。今何処やっているのかな・‥‥・。」とつぶやいている管の人の声が聞えました。その頃金沢へ演奏会のために、こられた井口基成教授(桐朋学園大学長)は、このコンチェルトの演奏で指揮の近衛秀麿さんが棒立ちになられたこともあるようなお話をなさっていました。そしてとても大へんだったでしょうと指揮者の苦労をねぎらっていらっしゃいました。団員の高泰夫さん・矢原幸江嬢なども度々ベートーヴェンのピアノ協奏曲を、村杉弘氏(現在信州大教授)はモーツァルトのピアノ協奏曲を協演しています。今は東京にかわられましたが当地で戦前からの音楽好きのお医者の横井氏が急患の知らせをうけて、こまりはてたような顔をしてベートーヴェンのロマンスを弾いておられたのもなつかしく思い出されます。

  昭和32年北国講堂落成のこけらおとしの披露に私が金沢交響楽団とグリークのコンチェルトを演奏したことも思い出されます。その後オケの演奏会はこの北国講堂を会場とすることになったと思います。佐々木宣男・安藤方虎・中村外治・山下成太郎・浅地修・松中久儀の諸氏、ならびに団員の中から選ばれた指揮者が次々とバトンタッチされてきました。熱心な金大6学部の音楽に情熱をもつ多くの学生たちに支えられ、次々にバトンタッチされて、金大フィルハーモニー管弦楽団は生命の火をもやしつづけてきたのです。金大フィルハーモニー管弦楽団の歴史はある意味からそのまゝ石川県のオーケストラの歴史でもあると思います。


  昭和37年秋、1年間のヨーロッパ留学から帰った私に、佐々木教授の担任、橋本秀次教授は、金大フィルハーモニー管弦楽団の顧問になりなさいといいつけられました。ヨーロッパの経験も生かして、一人の人のひとり合点にならないように、井の中の蛙にならないようにしなさいというようなことだったのでしよう。単身赴伊の橋本教授は金大の音楽を特設課程にしたいと大へんなはりきりようで夜おそくまで仕事にはげんでおられましたが、三八豪雪のさなか、突如心臓マヒでなくなってしまわれました。私どもが学生の頃、芸大で声楽を教えておられ、石本教授の恩師でもあり大へん惜しい先生でございました。その前年、橋本教授は道化師の衣裳をつけて、レオンカワルロのトニオの詠唱を自ら独唱し、音楽研究室の第1回の定期演奏会を観光会舘の大ホールで聞いたことも記憶に新たなことでございます。その情熱の影響をうけてとでも申しましょうか、よりよい演奏会をするため金大フィルハーモニー管弦楽団と金大教育学部音楽研究室との合同演奏会が昭和39年12月5日観光会館ホールで開かれました。この時はパート譜の準備などに早々ととりかかり十分な練習時間をかけて一同は必死にはげんだものでした。芸大指揮科の金子登教授を迎え、バッハの3台のピアノコンチェルトを音研の学生3人がピアノのパートを受けもって演奏しました。これはなかなかきけないめずらしいグランドピアノを3台並べての演奏です。その他、オペラの2重唱、交響曲、プーランクのアカペラコーラスなど、指揮も、石本・山下・今城と音楽研究室の男子全教官があたり、最後はへンデルのハレルヤコーラスで客席からも潮のように拍手が湧き立つありさまで、石橋学長はじめ、たいへんなカのいれようでした。この時のコンサートマスターは現在の金響のコンサートマスター石黒さんです。ここに至るまでの苦労は並大抵ではありません。いろいろな考えをもつた人がいるのですから。反対をとなえていた学生も演奏会が終ってから、ほんとうによかったと裏方役の私に泣いて告げにきたりしたものです。

 その後はそれぞれの定演にもどり、昨年はOBの客演もことわり、指揮者も全部学生のみで、楽器をにぎってまもない1年生も必死で頑張ってロマンの香り高いシューマンの交響曲にとり組んだようです。本年は、ウィーンで指揮を専門に研鑚された、金子登教授の弟子でもある本多敏良氏を指揮に迎えることとなり、学生たちの努力精進とあいまって充実した演奏をきかせてもらえることと期待しております。金大フィルハーモニー管弦楽団がここまで育ったのは、団員一同の努力と共に、歴代の指揮者の御苦労に負うところも大きいと思います。金沢こは戦前に金城団、戦後に金沢交響楽団の伝統が金大フィルハーモニー管弦楽団の育成に役立ったことと思います。殊に金沢弦楽合奏団、篠原虎一先生の指導で弦の水準がどんなにか向上したことかを思わずにはおられません。また大学当局がよく理解して、オケのために楽器をそろえていただけたことも有難いことです。熱心なOBの方々、しごともなげうって賛助出演された客演の方々、皆様のお力添えのたまものと感謝のことばもございません。管には浅地教官・コントラバスには松中教官、弱いといわれた低音も強くなり豊かなハーモニーがきかれるようになりました。

 石川県にオケは金大フィルハーモニーだけだったこともあります。現在は石川県フィルハーモニー交響楽団も出来ました。しかし若人の情熱と団結により、文化のにない手としてますますより高き目標をめざしてはげんでいただきたいと思います。他の関係の方々もそれぞれの立場で執筆されることと思い私の知っていることをエビソードをまじえて拙い文を綴ってみました。 4分の1世紀の金大オケの歴史。25周年を皆さまと共に心からよろこびたいと思います。


 (注:川口氏は長年金大フィルの顧問をされて、金大フィルへの支援を続けられました。25周年当時(1974年)金大教育学部助教授)



 




「私と金大フィル」

金沢大学教育学部助教授  山下 成太郎
 
     
  金沢に赴任した年に、金大フィルの指揮を引受けることになった。その時からはや13年の月日が過ぎ、今年は金大フィル創立25周年をむかえている。13年間のことを思いつくままに番いてみよう。
 赴任の年のコンマスは、現在金響のコンマスとして活躍している石黒泰治さんであった。又、マネージャーが雑賀さんであった。バイクに乗ってよく打合せに見えたものである。その頃の練習は主として音研ホール(現在はとりこわされてしまった)を使っていた。暗い電燈のもとで、5人でも10人でも練習したあの頃はなつかしい。当時の写真を出してみると、客員を含めてもやっと35名ぐらいでステージに立ったこともあるのである。現在80名に及ぶ団員を擁するオケラに成長したことを思うと隔世の感がふかい。この間シューベルト「5番」「8番」ハイドン「ロンドン」ベートーヴェン「1番」等が主だった演奏曲目であった。そして3年目の音研との合同演奏会で、観光会館への進出を果たした6年を境として、常任指揮の座をしばらく去ることになるのである。その後は、浅地さんと学指揮の遠藤さんがタクトをとることになった。そして3年の歳月が流れた。当時、新4年生になった鵜飼、早川、寺田、孫崎、折坂、中村の7人から再度常任指揮の依頼を受け、私はそれを引受けて、新たな5年間が始まったのである。この年の4月初旬からはじめて新歓祭への「カルメン組曲」の練習、又、夏の能登演奏旅行、そして12月の「新世界」の初演までの日々は今も鮮かによみがえってくる。そして期待と不安の演奏会が成功裡に終った。その夜のコンパ会場高岸寺の門を家内と一緒にくぐると、皆が熱気を持って話し合っている声が、夜の庭に明るく響き渡ってくるのである。寺自身が唸っている感じであった。

 その年オケに私が捧げたすべての労苦、いや赴任以来のすべてが、あのコンパで癒されたといっても過言ではない。まったく異常な雰囲気につつまれたコンパであった。私はその時に、これから毎年このようなコンパが味わえるものと思った。しかしその後オケ以外のものも含めて、これを凌駕するものに出会えない。これは私にとって一生に一度の体験だったのだと今つくづく思うのである。こうして書いていると心がなごみ、あの夜を得させてくれたものすべてへ、そしてそれは自ずと神へ(私は仏教徒でも、キリスト教でもないが)心からの感謝を捧げずにはおかせないのである。

 さてその年に、私とオケの有志とで手がけたものは、パート練習の確立ということであった。現在のようにそれが、定着してしまった形をみている団員にとっては、実に不思議な話とうつるかも知れないけれども、それはやはり無から作っていったものなのである。今日までのオケの足跡を発展と呼べるならば、その基礎は、このパート練習の確立にあったといっても過言ではないと思う。そしてこれを育ててきた人は、歴代の団長、永野・加藤・清水・秋山・河原・そして大峡君それに孫崎君、乗富君によって代表される歴代コンマス及びパートリーダーの人々であったと思う。私はここで心から感謝の意を表し、皆様からも心からの拍手を送っていただきたいと念じるのである。

 さて、翌年は7月に「英雄」を柱として定期がもたれた。その後エロイカは夏の演奏旅行、又、12月の田鶴浜高校での演奏会、そして翌年夏のペギ一葉山と児童合唱団の演奏会へと持ちこされた。おそらく、25年の歴代を通じて、定演後に同じ曲を1年間も練習したことは皆無ではあるまいか。この時のエロイカの演奏は非常に純度の高いものになっている。録音もよく、私の大切なテープの1つになっている。

 さて、石の上にも3年のたとえの如く、この年の暮の定期の「7番」(団長清水・コンマス大峡のコンビ)そして翌年のブラ「一」(コンマス大峡・団長秋山)の演奏会は、この5年間の頂点であったと思っている。ここで客演について書くと、最初にも書いたように、以前は客演のいない演奏会は成り立たなかったのである。従って、金大フィルは市民オケの役目を果しながら、徐々に発展して来たのである。そういう意味をこめて、すべて理想の形で開花したのが「7番」の時であった。加うるに、この25年のほとんどの演奏会を体験された、ヴィオラの鈴木氏とオーボーの川崎氏はともに金大フィルの生きた歴史と考えることが出来るし、この方達の文は25周年誌にかかせないものなのである。又「1番」の演奏は、現在迄の金大フィルの力量からいって、外国の高い山への登頂に比すことが出来ると思っている。この時は12月初旬が定期の日であった。その丁度1ヶ月前に、1楽章から4楽章までの一応の形が整い、演奏の目処が立ったのである。私は1人、11月3日文化の日に、手取川の堤防に立っていた。1ヶ月後のこの演奏会のことを思うと身内に喜びがみなぎって、おのずとあの4楽章のテーマを口ずさんでいた。そしてプラームスへ深い感謝を捧げたのであった。皆さんには一言も云わなかったが、毎回の練習が終る度に、私はブラームスへの感謝を忘れたことはなかった。その夜のコンパは卒業生が多数みえたが、いつになく静かなものであった。その時、4年生の村田信子さんが挨拶にみえた。定期そして「ブラ一」の成功が嬉しくて涙が止まらないとのこと、その瞳とその一言で、私は、わだかまっていたすべてが流されて行く気持がした。

 「新世界」と「ブラ一」のコンパとは、私とオケを結ぶ大きな支点となっているのである。さて、翌年のブラームス「2番」のステージを最後にオケの練習所から遠のいている昨今である。今年の定期演奏会の成功を願って、この文をとじることとする。






私の敬愛する楽団


金沢弦楽合奏団指揮者 篠原 虎一



  金沢大学フィルハーモニー管弦楽団は私の敬愛する楽団です。元来私の門下生達の弦を中心に創立された楽団ですので特に愛着を感じております。
 この団にも長い間には浮き沈みがあったことは事実ですが現在県下唯一の自主的交響楽団であるという誇りを持って団員諸君が各自熱意を団にかけての御努力には敬意を表します。
 又常に御助力を続けられているOBの方々をも立派だと思っています。
 今回本多さんが指揮の一端を受け持たれる由同年輩の団員共々若さ一杯のエネルギッシュな演奏を心から期待し楽しみにしております。
  御成功を祈ります。







あの頃

金沢市音楽文化協会会長  中村 外治

 創立25周年記念を迎えられた由、誠におめでとうございます。
 公演記録を見ますと、私の関係したのは第13回〜第20回定期演奏会であったようです。昭和32年、マネージャーの座主晴二君から「指揮者がなくて困っている。やってほしい。」と頼まれました。その頃私は金沢大学合唱団の指揮をしていたのでお断りしたのですが、是非にと言われてお引きうけしました。そして昭和36年(?)山下成太郎先生が金大に着任されたのを機に、先生に交替をお願いしました。
 その間印象に残っている曲目は、ピアノ協奏曲のベートーヴェン第4とシューマン、およびベートーヴェン第5交響曲です。いずれも難しくて四苦八苦したので、いまだに印象に残っているわけです。そしてベートーヴェンの第4協奏曲第2楽章の最後の部分が、練習のときはいつも合っていたのに、演奏会では3回とも(出演および出張演奏)合わなかったという不思議なこともありました。

 練習は大変楽しい思い出となって残っています。団員の出席は必ずしも良くはなかったような記憶がありますが、みなさん一生懸命にがんばったように思います。定演が近づくにつれ活気を呈し、顧問の木村久吉先生(金大薬学部)が暖かい肉まんじゅうを差し入れされたことも昨日のように思います。木村先生といえば別の思い出があります。私が10数年の胃弱で練習の合い間に、いつも薬をのんでいたのを見られて、「西洋の薬は副作用があって危険だ。」とおっしゃられ、休憩時間に私を診察されて漢方薬の処方箋を作って下さいました。それで永年飲み続けた薬は思いきってやめ、漢方薬に切り替えました。2、3ヶ月で良くなり、半年で完全に直りました。その後只今まで薬の世話にはなっておりません。
 当時のメンバーはすっかり忘れてしまいました。現役では横田維弥(ヴァイオリン)座主晴二(ティンパニー)矢原恒美(チェロ)矢原幸江(ピアノ)加藤恒(ティンパニー)鈴森進(ヴァイオリン)の諸君を、OBでは小幡隆(バス)木村久吉(チェロ)鈴木博(ヴイオラ)田中六郎(トランペット)藤本始(トランペット)中田昭(フルート)川崎直由(オーボエ)米島作三郎(バス)等の諸氏が僅かに思い出されます。OBのみなさんは学生と同じ気持で演奏し、応援して下さいました。
 その頃のみなさんは何か名人気質のようなものがあって、自分のパートについては他人の意見には安易に妥協せず、そのかわり他から文句をいわれないようによく練習しておくというような風がありました。コーラスと違ってオケにはこのような傾向があるようですが、金大フィルにもこの傾向が強かったように思います。

 練習場所は主に教育学部音楽ホールでした。今の音研・美研等の建物の前庭のあたりだと思います。木造の200〜300人収容のホールでした。石炭ストープが2つ(?)ありましたが、寒い夜は中々大変でした。又午後九時に消燈になるのですが、練習に熱が入ってくると時間が分らず、突然まっくらになって楽器を片付けるのに苦労したこともあります。又同じく九時には石川門がしまるので小立野に家のある私などは、大手門から遠回りして帰ったことも今となっては懐しい思い出です。

 最近の金大フィルは私の頃とは比べものにならない位立派になられました。演奏もそうですが、団の運営も意欲的な姿勢が窺われ頼もしい限りです。
 今後ますます御発展されるようお祈りいたします。