二つの「壮大さ」
−ブルックナーとワーグナー−
              「第52回定演プログラム」より





  今日の演奏会の曲目は、ブルックナー(1824−96)とワーグナー(1813−83)の作品である。この2人の音楽は、とてもBGMとして気楽に聴きながせるような音楽ではない。身も心も、すべてをひっくるめてわれわれをその世界へ引きずり込まずにはおかない音楽である。
こうした音楽は取っつきにくいし、付き合いにくい。音楽の一部だけを聴くと、思わず耳を覆いたくなるような音の氾濫だったり、音が鳴っているか鳴っていないか分からない位、繊細微妙な音の連なりだったりして、音楽を続けて聴く勇気が失われる。そこで今度は、そこに何かが表現されているのではないかと期待して我慢して聴いてみても、その音楽はとうてい頭で理解するようなものではないことが分かる。感性でも知性でも太刀打ちできないものは、趣味に合わないものとして片付けられざるを得ない。

 しかし、体験から何かを得るには、ともかく体験してみなければならない。
ブルックナーの交響曲について人は、どこか遥かな異郷に連れ去られるような不安を感じると言い、その不安が徐々に期待に変わっていき、やがてその期待が、広く澄んだ世界へ到達することによって解放感と充実感となって結実する至福を語る。実際その過程をたどるのは初め長く退屈に感じるが、それを歩み通してみると、その歩みが決して無駄ではなかったことが分かる。結末に向かって進む歩みが、発端から続く長い道のりをつなぎ止め、結末に至って道のりの全体を生き生きと蘇らせる。ブルックナーの音楽の醍醐味は正に、こうした時空の拡がりを拡がりとして体験させてくれる点にある。瞬間々々を過ぎ去るがままに生きているわれわれは、だから、ブルックナーの音楽に「壮大さ」を感じるのだ。

  
結末に至ってはじめて、そこに至る過程がすべて無駄ではなかったことを知る。そこでわれわれは、そうであると分かっていれば、もう一度始めから、そうした充実したものとしてその過程を歩んでみたいと切望せざるをえなくなる。ブルックナーの音楽はわれわれに、あらゆる真の芸術作品がそうであるように、もう一度新しく生きることを教えてくれるのだ。
 ちなみに、『第8番』が清澄な大気に包まれながら雄大な山々を俯瞰するような気分に誘う曲だとすれば、『第7番』は悠久の時を越えて広大な大陸を満々と流れ下る大河を彷彿させる曲とでも言えようか。峻険な峨々たる岩塊を滴り落ちる水は、谷間を下るにつれ水量を増し、勢いを増していく。山肌を襲い岩を食む急流は、瞬時のためらいも見せずせめぎあいもつれあう。しかし山間の奔流も平野に出ると悠々たる流れに変わる。その流れは、遮るものによって初めて流れていることが知られる程、静かでゆっくりとした歩みだ。やがて、その河は次第に河幅を増していき、河口に至って、河と海の境を分からせぬまま天地の果てに消えていく・・・。

  ところで、ブルックナーは『第7番』(1883)の交響曲をワーグナーの死を予感しながら作曲したと言われる。そして、その第2楽章を、実際にワーグナーの訃報(1883/2/13)に接して、その追悼として書いたと言う。ワーグナーを尊敬していたブルックナーが、1873年9月パイロイトにワーグナーを訪ね、『第2番』と『第3番』の献呈を試みたこと、そして、後の『第3番』が実際にワーグナーに献呈され、その結果「ワーグナー」の名で呼ばれるようになったこと、これらの事実もよく知られている。だから、今回の演奏会の曲目は、決して偶然的な取り合わせではなく、伝記的な事実に基づいた意図的な組み合わせということになる。

  そこで、もう一つの「壮大さ」、ワーグナーの音楽の「壮大さ」であるが、ここではもう、言葉は音楽に容易には追いっけない。むしろ、言葉によって説明し理解しようとすれば際限がなくなる位、その音楽は巨大である。もっとも、同じ「壮大さ」とは言っても、二つの「壮大さ」は根本的に異なっている。ブルックナーのが「澄んだ」壮大さであるとすれば、ワーグナーのは「底の知れない」壮大さである。ワーグナーの音楽が陶酔と熱狂を誘う毒と言われる所以である。しかし、毒はまた薬である。深淵をのぞいて死を垣間見る者は、硬直した生を死ぬことによって再生を体験するからである。歌劇『ローエングリン』「第1幕への前奏曲」(1848)も、崇高な静けさによって神秘的な世界の開幕を告げる曲であり、聴く者を知らぬ間に異郷奥深くに連れ去る魔法の杖のようである。

                   金沢大学教養部助教授  菊地恵善



プログラム表紙
演奏会データ

第52回定期演奏会 92/01/25 観光会館
指揮:堀 俊輔 コンサートマスター:林 磨理

ブルックナー/交響曲第7番 ホ長調
1楽章より