![]() 昭27年度卒 棚 倉 昭 美 |
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金沢大学フィルハーモニー管弦楽団!この輝かしい名称を引継いでくれている後輩諸君になんとお礼を申してよいやら・・・。金大フィル差出しの郵便物を受取る度に、自分がまだオケに所属している錯覚に陥るほど在学中のオーケストラ活動についての強烈な印象が甦ってくる。もう20数年前になる創設期について語るとすれば、紙面がいかにも不足するが、いざ語るとなれば−−−何から語ってよいやら? 名称の由来 −「これについては私の同期生と誰も知っている者は少い。当時(昭和25年)マネージャーも兼任していた私は、コンサートマスターを中心とした有力なメンバーと名称について協議した。交響楽団とつけるには当時の団の楽器編成が小さ過ぎる、ただ、単に管弦楽団では理想がなさすぎる、われわれのオケは、ウィーンフィル、ベルリンフィルまたはニューヨークフィルを目指そう!それには少し長ったらしくなるがフィルハーモニーという名称を付したら!−--ということになり、第2回定期以後(金沢大学フィルハーモニー管弦楽団)と名称を設定した。 第1回の定期演奏会について語ろう。曲目はハイドンの驚愕シンフォニーの第2楽章とバッハの組曲第2番(序曲を除く)、そして指揮は私。組曲第2番のフルートは同級生薬学部の神田進君 − 彼は当時金沢では傑出したフルート奏者だった。この2曲では定期演奏会は組めず、「金沢大学音楽会」のプログラムの一部をうめたに過ぎなかったが、戦後ようやく混乱期を脱したとはいえ、まだまだ生のオケの音に接する機会の少なかった金沢市民には大いにアピールしたことをいまでも覚えている。会場は、いまはなくなった理学部講堂(旧四高講堂)で、立見の人もいた位だったので聴衆は凡そ1,200人位だったろう。昭和25年のことで私たちが2年生の頃だった。 その頃、まだ旧金沢医科大学のオケが併存していて、医大オケのメンバーもこの第1回演奏会に応援に来てくれていたところから、合併して合同のオケをつくろうという話が持ち上り、翌昭和26年からは金沢大学フィルハーモニー管弦楽団として発足した。ただし常任指揮者は、金沢大学からは私、医大からは飯森氏(医大の先輩)が棒をふることになった。この昭和26年の新入生の中に、当時、金沢で随一のピアニストといわれていた高君(工学部)の入部をえて、私は自分が一番好きだったべ一トーヴェンのピアノ協奏曲第4番を協演することを決めた。オケ結成2年目でべートーヴェンの交響曲は楽器編成と技術からいって無理なこともあって、ピアノコンチェルトにしたことを覚えている。(医大の指揮者である飯森さんは、ティンパニーを担当してくれた)飯森さんの指揮はシューベルトの序曲「ロザムンデ」で、私自身この時、生れて始めてチェロを担当したが、物凄くむずかしくて相当ごまかしたことを今でも覚えている。 あれこれ思い出していると20数年前がなつかしい。パート譜 − これは当時いまのような複写機が全然なく、私が全部写譜したものを使ってもらった。この写譜は、私が休暇で東京へ帰っている時の私の仕事だった。私が全パート譜を写譜した覚えのある曲目は、シューベルト「未完成」、ベートーヴェン「運命」、モーツァルト交響曲40番、シューマンピアノ協奏曲イ短調、メンデルスゾーン交響曲「イタリア」、ベートーヴェンヴァイオリン協奏曲etc。昔の情熱をほめられることがあるが、私にとって写譜をするということは、指揮をする上にも管弦楽法を勉強する上にもいい勉強になったので、今でも決して苦痛だったとは思っていない。 決して忘れられないこと − 私のように文科系もさること乍ら、理科系の楽友が、自分の学業成績にひびく実習を犠牲にしても、演奏会間近かの練習には必ず出てきてくれたこと‥‥‥だった。こんな美しい仲間と人生の一番大切な時期に一緒に音楽を追求できた喜びを共に味わいえたことを考えてみると、楽友との練習は、今後2度と私の人生で体験しえない貴い経験そのものであったと思う。この音楽美への飽くことはなき没我の心は、即、現在、私のチェロ音楽への追求となって私の心を支えてくれている。
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![]() 昭29年度卒 相沢 英紀 |
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私が入学した当時のオケは創設間もない揺藍期で棚倉先輩を中心に前田、鈴木(博)、内田、田中(克)(Violin)鈴木(浩)(Viola)、本江、沢技(Violin−Cello)、神田(Flute)、川崎(Oboe)等の諸先輩が活躍して居られました。 部屋は現在の部屋(当時は理髪室でした)の向い側(教育学部寄)に掘立て小屋があり、それを間仕切してラクダの会(演劇部)と折半して使用し棚倉先輩がよくホルンを吹いたりセロを弾いていたことが思い出されます。 創設間もない学生のオケとして一番のなやみは楽器とメンバーの足らないことでした。特にティムパニーは高価なこともあり教育学部の備品として購入されるまで演奏会の都度金沢交響楽団のものを借りに行きました。 メンバーについても木管楽器のバスーンなど当時北陸三県下には富山の吉田忠正氏しか居られないこともあってずっと客員としてお願いして居ました。その他のパートも坊主頭の高校生、チョビひげの紳士が窮屈そうに学生服を着用して助っ人として参加して演奏会を開いていたことも懐しい思い出です。 それでも第5回定期演奏会の頃からメンバーも増え助っ人に頼らなくても演奏が出来るようになりましたが学生のオーケストラがすべて自前で二管編成というのは中々難しいことでした。 私は第2回定期から第8回定期演奏会まで2ndViolinを弾きましたが篠原虎一先生のレッスンに通った甲斐もなく技術も向上せず時には雑音発生源として不協和音を出し口の悪い仲間は3rd Violinとか愛称していたようです。 定期演奏会以外にも北陸学院のメサイア、石川、富山県下の中学校でのピアノ披露の演奏会に招かれたり(当時地方では生のオーケストラ演奏は珍しく喜ばれました)、療養所へ慰問演奏に行ったりして行事も仲々多くNHKの放送に出演したこともありました。 私にとってはメサイア公演に2度参加する機会があったことは貴重な体験だったと思います。 音楽会にはプログラムがつきものですが、このプログラムの表紙のデザインにはいろいろ苦労するものです。私がマネージャーをしていた頃作ったプログラムについてエピソードがありますのでご紹介します。 F君は私の友人で一般教養部在籍中はほとんど私と行動を共にした仲間です。彼はカメラに凝っており当時ライカ、ローライコード、スピグラ、ソンホフテヒニカ等学生としては不似合な高級カメラを常用し気候のよい時節は講義をさばり兼六園卯辰山等と被写体を求めて散索し私も彼に同行することがありました。、 彼は専問課程は私と同じ経済でしたが、ますます写真に情熱を傾注し遂には中途退学しN大学写真科に再入学することになりました。 彼が金沢を離れる前プログラムの表紙としてデザインしてくれたのが第5回定期演奏会のプログラムです、青地に譜面台をデザインしたシンプルでありながら中々印象的なものです。 このデザインは評判がよく第10回定期演奏会まで緑地に変更されただけで連続使用されましたので古い方はご存知だろうと思います。 彼の名は福井鉄也君…といっても皆さんにはお判り頂けないでし上うがテレビのコマーシャルでサミーデービスジュニアーが軽快なアドリブでタングラーを叩きオーサントリーで結ぷ有名なCMでブルーリボン賞を受賞したサントリーのプロデューサーが彼なのです。 プロのカメラマンとしてサントリーに入社し現在広告、宣伝部門で活躍している彼の若き日の作品が当オケのプログラムの表紙として使用されたことをお知らせして私のオケの想い出の記といたします。 |