21
次の日の三日目も四日目も大体二日目の繰り返しだった。しかし私と洋子は少しジャングルに慣れてきた。
四日目の昼食時の大休止の時、私が洋子に言った。
「金子光晴って知ってるかい?」
「あの『マレー蘭印紀行』を書いた詩人でしょう?」
「ああ。戦前に一人でマレーシアを回った人だ。金子光晴もジャングルは歩かなかっただろうが、当時は飛行機も車もほとんど無かったんだ。彼も僕たちみたいに、歩きっぱなしだったんだろうな」
「『貨幣と時計、それは、馬来人たちの生活の中で、いきいきと活動していない。』と言うくだりを覚えてるわ」
「昭和三年から七年の間だったかな。そもそも金子は、出奔した妻の後を追ってパリに出掛けるために、資金作りをしようとマレーに来たんだ。当地の日本人や金持ちの華僑などを訪れて似顔絵を描いたりしていたそうだね」
「今ではマハティールによる急激な工業化のもとで、貨幣と時計はマレー人の生活の中で、いきいき過ぎる程活動している様に見えるわ」
「でも、昔のマレー人みたいな人達がまだいるじゃないか。他でも無い、このロイだよ」
日本語で話しているので、ロイは何の事かわからずきょとんとして私と洋子を見つめた。その様子が可笑しくて私たち二人は声を上げて笑った。
夕食の後、洋子は例の二重底になっている象牙のシガレット・ケースを取り出して、煙草にマリファナを加え吸い出した。
「何をしてるんですか、洋子さんは?」
ロイが私に訊ねた。ロイはジャングルの奥地で育った人間なので、マリファナは知らなかった。
「なに、ちょっとした上手い煙草の吸い方さ」
「へえー。そうですか」
私はロイに本当の事を話して、心配をかけたくなかった。ここは街中から遠く外れたジャングルだ。洋子は人の目を気にせずに、おおっぴらにマリファナが吸える。
「マリファナ吸ってどんな気持ちだい?」
洋子は煙を大きく吐き出して答えた。
「リラックス出来るわよ。トリップとか、そういう事じゃ無いの。あなたも吸う?」
「僕はこのガラムで充分だ」
そう言って私はガラムを吸った。ロイにも勧め、ロイはガラムを吸った。
満天の星空の下、私たちは横になった。ジャングルでも夜は少し気温は下がって、楽だった。
私たちは煙草を何本か吸い終わると、テントに潜り込み、眠りについた。
22
ジャングルに入って五日目。私たち三人は再びひたすら歩いた。三人も歩いてるうちに、気心が知れて呼吸が合ってきたようだった。
午後になって私たちが歩いている時、洋子が言った。
「人がいるわ!あそこに」
私とロイも驚いて洋子の見つめる先を見た。
それは確かに人だった。ただし森の人だった。木々の間から親子二人でこちらを見つめ返して来た。
「オランウータンだ!マレー半島に生き残っていたとは驚きだ」
「オランウータン……?!」洋子はびっくりして見つめ直した。
たぶん母親とその子供だろう。母親の方は体長一メートル以上。子供の方は体長四十センチ位で、ちょうど人間の赤ん坊ぐらいだった。子供のオラン・ウータンは実に愛くるしい顔をしていた。
暫く見つめ合っていたが、親子は奥の森へ逃げて行ってしまった。
「ロイ、ここらへんのジャングルには、オラン・ウータンがまだいたのかい?」
「いや。俺も初めて見ます。このマレー半島では絶滅したと聞いていましたが」
「じゃ、僕らはとっても貴重な体験をした訳だ」
洋子も口を開いた。
「わたしオランウータンを見たのは、小学生の頃、東京の動物園で見て以来だわ。野性のオラン・ウータンを見るなんて感激!」
「オランは人と言う意味で、ウータンは森と言う意味だ。マレー語で『森の人』と言う訳さ」
私たちは暫く感嘆し合っていたが、また歩き始めた。
私たちがオラン・ウータンに会ってから二時間後に、小川にさしかかった。水も綺麗で川幅もある。
私たちは三日ぶりに入浴できる事になった。まず水筒に各自が水を補給した。それから男である私とロイが裸になって思いきり体の汗や垢や汚れを落とした。洋子はそこから三十メートル位離れた所でやはり入浴した。
「アリーさんは、オラン・アスリについて調べてどうするんです?」
ロイが私に問いかけた。
「君の村の方面のセノイ族については知られていない事が多い。それを自分の足で確かめ、学会に発表する。こう言うのを、フィールドワークと言うんだ」
「へえ。フィールドワークですか」
嘘をつくのは心苦しかったが、この際仕方ない。
ロイは再び口を開いた。
「そのう。アリーさんと洋子さんはどういう関係なんですか?」
「どういう関係も無い。同じ大学の教授と助手の間柄さ」
「それだけですか?」
「そうだ。何が言いたいんだ?」
「いや、俺は田舎者なんで、洋子さんみたいに綺麗な女の人見た事無いんですよ。アリーさんと恋人同志なのかと思いまして」
私は笑い出した。
「そうか。君は洋子に惚れたのか?心配するな、僕たちは恋人同志じゃ無いよ」
「そんなんじゃないです」
ロイは顔を赤らめ、石鹸で体をごしごし洗い、黙ってしまった。今時、珍しくナイーブな青年だと思った。ロイはジャングルの事に関しては超人的とも言える働きをするが、一人の男性として洋子の様な美人の前では純朴な中学生といったところだった。
水浴を済ませて着替えた私たち三人は、再び歩き始めた。
夜になって私たちは歩みを止め、テントをはった。今日の夕食のメインはロイが素手で捕まえた野鳥だった。羽をむしって、内臓をとり、丸焼きにした鳥をナイフで切って分け、三人で食べた。
夕食が終わった後、三人は煙草を吸った。洋子はまたマリファナ煙草を吸った。
「『ハリマオ』って言う、テレビ番組を知ってるかい?」
私は洋子に問いかけた。
「見た事は無いけど、何となく知ってるわ。何でも実在の人物をモデルにした冒険活劇らしいじゃない」
「そうだ。〃ハリマオ〃つまりマレーの虎と恐れられた男の本名は谷豊。太平洋戦争中、ジャングルでのゲリラ戦で、日本軍のマレー作戦に多大の功績を残した実在の人物だ。谷豊は明治の末に日本からマレーに移住して来た日系二世で、床屋の息子だった。満州事変の翌年に、マレーの中国系社会に排日の気運が高まる中、豊の妹は中国系の暴漢に誘拐、殺害された。この出来事から谷豊は華僑に対する復讐を決意してマレー人のゴロツキを集めては掠奪・殺害を繰り返してまもなく部下三千人を従える頭目になったんだ。そこを日本陸軍の藤原中佐率いるF機関が働きかけて〃ハリマオ工作〃つまりゲリラ戦に利用したと言う訳だ」
「ちょっと話が上手く出来すぎていない?」
「その通りだ。大戦中に、日本国民を鼓舞させるために作った大袈裟な話だと言う説もある。谷豊は昭和一七年、シンガポール陥落からわずか一ヵ月後、三十二歳で死んだんだ」
「でも、大袈裟かもしれないけど、私たちの何十年も前にこのマレーシアのジャングルを歩いた日本人がいた訳ね」
「ああ。それに、マレーの虎と言えばもう一人の男、山下奉文の事も忘れちゃいけない」
「山下奉文?」
「そう。開戦と同時にマレー半島を制圧し、シンガポールを陥落させた有名な将軍だ。イギリスのパーシバル将軍に『YESかNOか』と迫った大男さ」
「ああ、その山下将軍。知ってるわ」
「山下の兵団はタイ領のシンゴラとパタニー、英領マレーのコタバルの三箇所から主に自転車でマレー半島を南下して英連邦軍を打ち破っていったんだ。戦車とかも少しはあったらしいけどね。有名な〃銀輪部隊〃さ」
「その人達も、もしかしたらこのジャングルを抜けて戦争したのかもしれないわね。昔の日本人はタフだったのね。私たちは戦争してるわけでも無いのに、こんなにぐったり疲れてるのにね」
「全くだ。でも、いくらタフでも日本人にとっては初めてのジャングルだ。今僕たちが体験しているような感じだったと思うよ。中国の海南島で鍛えてたらしいけどね」
私と洋子が日本語で話していると、ロイが私にマレー語で話しかけた。
「アリーさん。明日からはいよいよ山岳地帯を歩きます。同じジャングルでも少し涼しくなりますよ。ちょうど今日歩いた時点で、タマン・ミニまでの半分の距離です」
「それは良かった」と言って、私は洋子に日本語に訳して話した。
眠気が襲って来た。私たちは火を消し、テントに潜り込んで眠りについた。
23
私たちがジャングルに入って六日目。朝食を終えた私たちはジャングルをひたすら歩き続けた。雨期の間に生い茂った草や木の枝をジャングルナイフで切り分けながら進んだ。
歩いていると、自分が段々登っていく感じがした。私たちは山岳地帯に入ったのだ。時折、急勾配の坂を登る場所があって、私たちは今までの倍ぐらい疲れた。
木々の種類も平野部のものと変わってきた気がする。ロイは相変わらず平気な様子で歩いて行くが、私と洋子は明らかに山を登って行くのに疲れていた。ロイに頼んで小休止を多くしてもらった。
それでも何とか頑張って午後六時まで歩き続けた。再びテントを張った。今日の夕食のメインも、やはりロイが捕まえた野豚だった。毛を取り、内臓をとって丸焼きにした。マレーシアの野豚は猪の様に皮にも毛が沢山生えているのだった。
はんごうで炊いたご飯と粉末スープを食べ、やはりロイが集めてきた野生のランブータンをデザートに食べた。
夜の帳が降りると、標高の高くなった分涼しくなってきた。私と洋子はサファリジャケットとTシャツの間にセーターを着た。ロイもTシャツの上に、安っぽいセーターを着た。
熱帯でも標高の高い場所は、日本の秋ぐらいの涼しさになるのである。昼間は日差しが強いせいで摂氏三十度前後あるが、夜は十五度くらいに気温は落ちるのだった。
それでもずっと暑さと闘って来た私たちは、涼しい分気持ちが良くなり、夕食が終わると大地に仰向けに横になって満天の星空を眺めた。
今日は新月なのだろう。空も全くの快晴で雲一つ無く、星々のきらめきを邪魔するものは何も無かった。まさに満天の星空であった。空にはびっしりと星々が輝き、今にも自分のいる大地に降ってくるのではないか、という錯覚を覚えさせる程だった。
こうして大地に横になって満天の星空を眺めていると、何億何万の星々の中で自分が地球と言う一つの惑星にいるという事実がとても良く実感できた。一番目立つ筈の南十字星を探すのにすら、時間がかかるほど、他の星々がこうこうと光を放っている。
時折、流れ星が落ちた。隣でやはり無言で星空を眺めている洋子は何を祈ったのだろうか。自分の父の奪還か、それとも……。
私は東京で聴いたFMラジオ番組のナレーションを思い出していた。
「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を開けば、遙か雲海の彼方に輝く、夜のしじまの何と饒舌な事でしょうか」
確かこんなナレーションだった。東京では星が殆ど見えなかった。シンガポールやマラッカもそうだ。私は自分の仕事を忘れて、至福の境地を味わっていた。
私たちはその晩は眠くなるまで、ずっと無言で星空を見つめ続けていた。
24
ジャングルに入って七日目の朝が来た。私たちは朝食をとって出発した。歩いていくうちに、もう平地のジャングルとは昼でも気温が違う事を感じていた。昨晩着ていたセーターは脱いでいたが、サファリジャケットをあまり暑く感じない程、昼の気温は落ちていた。私にははっきりとはわからなかったが、植物も平地とは違う山岳地帯のものに変わってきた様だった。
午前十時、私たちは泥沼に足をとられ立ち往生してしまった。地盤が湿っていてぬるぬるしており、文字通りの泥沼だった。
「ロイ、ここは駄目だ。どこかに迂回出来ないか?」私が言った。
「迂回すると、とても時間がかかります。面倒ですが、ここを抜けましょう。ここら辺は、俺たちイポー村の者にとっても難所なんです」ロイが答えた。
「靴の中までどろどろになってるわ。何とかならないの?」洋子も口を開いた。
「ロイが言うには、ここを越えた方が迂回するより早いそうだ。我慢しよう」
私たちは泥につかった足を重く持ち上げて、とてもゆっくりと進んだ。
その時だった。見知らぬ声が響いてきた。
「動くな!手を上げろ!」
私たちはびっくりして後ろを振り返った。振り返ると私たちのいる泥沼の周りに五人くらいの人間が小銃を持ってこちらに構えていた。
私たちは暫く驚きの余り状況を飲み込めずにいた。良く見直すとマレー系や中国系やインド系の混成した男女だった。戦闘服こそ着ていないが、規律のとれた様子は軍隊そのものの雰囲気だった。今度は〃森の人〃では無く、正真正銘の人間だった。
「君達は誰だ?我々は怪しい者じゃ無い。僕らは……」
「黙れ!動かずにおとなしく手を上げれば良いんだ」
私の言葉をリーダー格のマレー系の大男がさえぎった。私たち三人は手を上げた。
「何と言ってるの?」マレー語のわからぬ洋子は私に聞いた。
「動かず手を上げろとさ」
「余計なおしゃべりはやめろ!こっちへ向かっておとなしく出てこい!」
またリーダー格の大男に怒鳴られた。私たちは泥沼を先に来た方向へ戻らなくてはならなかった。
リーダー格の大男の近くまでたどり着いた。年齢は三十五歳くらいで、身長一八〇センチ以上、体重八〇キロ以上ありそうなマレー系の大男だった。短い髪に、つり上がった目をしていて、口髭をたくわえ、堂々とした体格をしていて威圧感があった。
泥沼から抜けた私たち三人は、小銃を持った人間たちに、後ろから銃口を突きつけられた。
「お前たちの事は、昨晩の焚き火の跡から発見していた。お前たちの出発した二時間後に俺たちはお前らの事をつけていたんだ」大男が言った。
「誰なんだ、君達は?」私は訊ねた。
「マラヤ共産党だ」
マラヤ共産党?!マレーシアの反体制武装ゲリラ集団……。こんな所にもいたのか、と私は心の中で思った。
「これから我々のアジトの村に連れて行く。変な真似をしたら、遠慮なく撃ち殺すぞ」
大男は言った。
「ハシル軍曹、少佐に連絡しますか?」
私に小銃を突きつけている痩せた中国系の男が言った。どうやら大男は、ハシルと言う名の軍曹らしい。
「連絡しろ。それから三人のボディー・チェックをしろ」
一人の女ゲリラが無線を使って交信を始めた。他のゲリラは私と洋子とロイのボディー・チェックを始めた。ロイは恐怖で顔がひきつっていた。暫くして私のトカレフと洋子の〃パチンコ〃と三人が持っていたジャングル・ナイフや料理用ナイフなど武器になりそうな物すべてが押収された。
「それでは、アジトに向かうぞ」
ハシル軍曹がそう言って、私たちは歩き始めた。
25
それから、私たち三人とゲリラ五人は一時間ぐらいジャングルを別の方向へ歩いた。ゲリラはジャングルに慣れているらしく、歩くのが速かった。
こちらの質問は一切許されなかった。君達、マラヤ共産党が我々に何の用だ?強盗なのか?誘拐か?質問するために口を開くたびに、小銃の台尻で肩や背中を強く叩かれた。
私たち三人は、訳のわからぬままとにかく一時間歩いた。すると、小さな村のような所にたどり着いた。ジャングルを切り開いたわずかな円形の土地に、五つの小屋が建っている。小屋は木の柱の上を木の枝と葉っぱで覆うという簡単な造りになっている。
私たちが到着すると、守衛の役目を受け持っていたかのようなゲリラ二人が現れた。
「ここが我々マラヤ共産党のアジトだ。逃げられると思うなよ」
ハシル軍曹が言った。
私たち三人は村の中央の狭い小屋に連れて行かれた。ゲリラたちに、両手を後ろ手に縛られ、両足も縛られた。荷物も奪われた。
ハシル軍曹が、縛られ仰向けに横たわっている私たち三人を睨付けた。
「お前らがジェネラル・ヤマシタの宝を探しに行こうとしているのはわかっている。そこの女!あの時は良く逃げられたな」
ハシル軍曹はマレー語でがなり立てた。
「ヤマシタ?何の話だ?」私が聞き返した。
「とぼけるな!」
私はハシル軍曹に裏拳で顔を殴られ、小銃の台尻で腹を突かれた。私は呻いて、口から血をたらした。
「少佐が来るまで待てと指示されている。その時おとなしく何もかも喋るんだ。わかったな!!」
ハシル軍曹とゲリラ達は私たちの監禁された狭い小屋から出て行った。小屋の戸には鍵が掛けられた。時計を見ると午前十一時を過ぎていた。私は殴られたり、小突かれたりした痛みと闘いながら、状況を何とか把握しようと努めた。私は突然の展開に混乱していた。
26
「洋子。これはどういう事なんだ?あのハシル軍曹は君を知っていると言った。君はまた僕に隠し事をしたな。何でマラヤ共産党が僕たちを監禁するんだ。今度こそ何もかも喋ってくれ」
私は言った。そして手かせ足かせの仰向けの状態から顔を洋子に向けた。
洋子は〃ザ・ルック〃の表情を強張らせて、私を見返し、何か戸惑っている様だった。
「洋子!しゃべれ。でないと僕たちは殺されるかもしれないんだぞ」
「わかったわ。今度こそは洗いざらい本当の事を話すわ」
洋子は覚悟を決めて小屋の天井を眺めながら話し始めた。
「わたしの父は確かに麻薬商人なんだけど、誘拐されたと言うのは嘘よ。私の父はずっと山下奉文の隠し財宝を探していたわ。戦史に興味の深い人でね」
「山下奉文の隠し財宝? あれはフィリピンにある、と言う話だったじゃないか。昔、マルコス元大統領が懸賞金まで出して探させたと言う……」
「それがフィリピンではなく、マレーシアにあるらしいのよ。私の父は戦史を詳しく調べ、山下奉文が戦争末期に指揮をとっていたフィリピンの軍団の中の一つ、第七九旅団に宝を隠させたらしいという事に気づいたの。父は第七九旅団の生き残りの老人を日本で見つけ出したの。この老人は八十歳を過ぎる高齢で足が不自由なため、殆ど寝たきりの状態を送っていたの。そしていまわのきわに父に秘密をもらしたわ。宝はフィリピン山中では無く、マレーシア山中にあるという事を。第七九旅団の特命を受けた兵士たちが、フィリピンから船で宝を運び、マレー半島東海岸の都市メルシンまで運んだのよ。アメリカ軍の攻撃を受けないように民間の船を装って。それは奇跡に近い事だったと言うわ。メルシンにいる今村中佐と昭和二十年の夏に東部山中に金塊を埋めに行ったのよ。その場所は昭和十七年に〃マラッカのガルーダ〃を埋めた場所でもあったの」
「〃マラッカのガルーダ〃?何だ、それは?」
「詳しくはわからないけど、ダイヤやエメラルドやルビーを沢山埋め込んだ、神の鳥ガルーダの形をした彫像らしいわ。父がマレーシアでやはり情報を探り続け、日本軍が占領する前のイギリス人富豪の財産目録に確かにガルーダらしき物が、マラッカで日本軍に没収された事をつきとめたのよ。ガルーダと言うんだから、ヒンズー・仏教文明時代のシュリヴィジャヤ王国かマジャパイト王国の時に造られた物らしいわ。それを山下奉文がマレーを占領した時に隠したのよ」
「全く初耳だ。確かなのか?」
「私も財宝をこの目で見てないから証明はできないわ。でも、第七九旅団の生き残りの老人が言った隠し場所は、メルシンからジョホール州東部の山中に入った、オラン・アスリがタマン・ミニと呼ぶ細長い沼そしてその近くにあるバリー・キャニオンと言う鍾乳洞の中に埋めたと言う事なのよ」
「ロイ、バリー・キャニオンって知ってるか?」
それまで日本語で話していた私はマレー語でロイに聞いた。
「知りません。何を話しているんですか?どうして俺たちはマラヤ共産党に捕まったんですか?奴らはとても恐ろしい連中ですよ。こんな所にアジトがあったなんて」
ロイはひどく怯えていた。
「ちょっと待ってくれ。今、洋子に事情を聞いているから」
私は再び日本語で洋子に話しかけた。
「ロイはバリー・キャニオンなんて知らないと言ってるぞ。どういう事だ?」
「タマン・ミニはイポー村の人間なら誰でも知ってるけど、バリー・キャニオンを知っている人間は、一人の老人以外誰もいないわ」
「それでどうした」
私は話の続きを促した。
「私と父は二ヵ月くらい前に、マラッカのトライショーマンでジョホール州東部のオラン・アスリに詳しい者を探したわ。探したと言うより偶然なの。わたしたちがたまたま乗ったトライショーの運転手が、『自分はジョホール州東部のジャングルから来た。オラン・アスリに会うジャングル・ツアーに参加しないか?』と持ちかけてきたの。父がタマン・ミニを知ってるかと聞くと、『それは俺の出身のイポー村の近くだ。アスリ語で〃竜の家〃と言う意味だ。』と言って来たの。こいつは使えると言う事で父がタマン・ミニまで案内してくれるように頼んだの。そこで父と私とトライショーマンの三人で二月にこのジャングルへ宝探しに行ったわ。片道十数日かけてまずイポー村まで行き、そこからタマン・ミニと言う沼近くのオラン・アスリのセノイ族の村を訪れたわ。トライショーマンに通訳を頼んで、バリー・キャニオンと言う鍾乳洞を知っている者がいるか、と聞くと、或るセノイ族の老人が知っていると言うの。この老人は大戦中に日本軍の兵隊が何かを埋めるのを手伝ったと言うの。このバリー・キャニオンと言う名は、日本兵がつけた名でそこに沢山ある鍾乳洞の中の一つだったわ。意味は〃竜の眼〃と言うけど、何語かはわからないわ。このバリー・キャニオンにはタマン・ミニもそうだけど、ここ数十年竜が棲んでいると信じて誰も怖がって近づかないの。老人も鍾乳洞の中には入った事は無いの。鍾乳洞まで案内しただけで、何処へ埋めたかは知らないと言うの。この老人にわたしたちは鉄器を差し出して、その代わりにバリー・キャニオンまでの案内と宝を運ぶカヌーを譲ってもらう事を頼んだわ。ところがバリー・キャニオンまでたどり着くと、二月の雨期の激しい時期だったので雨量が多くて、バリー・キャニオンと言う鍾乳洞の水門は開かず諦めて帰らざるをえなかった。バリー・キャニオンは切り立った崖に三方を挟まれ、小川の注ぐ水門を持った鍾乳洞の洞窟なの。わたしたちは、カヌーを置いて老人と別れ、一ヵ月後、来ようとマラッカに向かって帰った。ところがジャングルを抜ける寸前、マラヤ共産党の襲撃を受け、父とトライショーマンは死に、わたしだけが逃げうせられたと言う訳なの。あなたたちを雇ったのは、乾期になるのを待って、山下の隠し財宝を再び取りに行こうと思ったからなの」
余りの突拍子の無い話に、私は圧倒されかかっていた。だがまだ洋子の話を信用出来ない。
「そのトライショーマンの名は?」
「アブドールよ」
「ロイ、君のイポー村にアブドールと言うマラッカに出てトライショーマンをやっていた男がいたか?」
「いました。どうして知ってるんですか?」
私は鼻を鳴らした。
「ロイによると、アブドールの話は本当らしい。しかし山下奉文の話をどうやって証明する?」
「私のサファリジャケットの胸の内ポケットにメモがあるわ。読んでみて」
私は両手両足を縛られた状態から、芋虫の様に体を動かし、口でサファリジャケットを開け、紙を拡げた。そこには古い日本語で何か書かれていた。私は声に出して読んでみた。
「特命書。現在ノ戦況及ビ内外ノ趨勢ヲ鑑ミルニ、皇軍ノ敗戦是必至ナリ。此ノ地フィリピンニ於イテモ包囲ヲ強メツツアル米軍ニヨッテ、拙軍モ間モ無ク壊滅サセラレ、バギオヨリズット所持シタル金塊モ没収サレタルモマタ避ケラレ難シ。シカレバ、何トカ此ノルソン島ヲ脱出シ、我ガ腹心ノ馬来ノ第五師団メルシン駐在ノ今村中佐ニ会ッテ、コノ金塊ヲ隠スベシ。幸イニシテ馬来ハ未ダ皇軍ハ健在デ、連合軍カラハ無害ノ地デアル。コレラノ隠シタ宝ニヨッテ、終戦後幾年カヲ経タ後、再ビ陛下ノモトニ志士ガ結集シテ、皇国ヲ再興スル元手とナルヲ切ニ願フモノナリ。昭和二十年七月十六日、日本陸軍大将山下奉文」
「今読み上げたのは特命書のコピーよ」
私は唸った。洋子の嘘つきは筋金入りだが、ここまで手の込んだ嘘は用意してないだろう。それにあのハシル軍曹はジェネラル・ヤマシタがどうのこうのと言って来た。どうやら本当らしい。
「で、どうしてマラヤ共産党が山下将軍の宝の事を知ってるんだ?」
「そこまではわからないわ。しかしわたしたちが山下将軍の秘宝の在り処を知っていると思って捕まえた事に間違いは無いと思う」
私は決断した。
「よし、わかった。こうなったらハッタリの出たとこ勝負だ。ロイはタマン・ミニまでの道を知っている。洋子はタマン・ミニからバリー・キャニオンまでの道を覚えている。僕は鍾乳洞の洞窟内の隠し場所を知っている戦史に詳しい男。これで行こう。これで三人に価値がある。これで三人とも殺されない」
私はそれからロイに洋子が語った真実を洗いざらいマレー語で話した。ロイは驚いて顔をひきつらせていた。
三人が口裏を合わせる事を確認していたところに、ゲリラが戸を開いて銃を構えて入って来た。
「少佐のご到着だ。話を止めろ!」
27
私たちの監禁されている小屋に、少佐と呼ばれた男と新しい二人のゲリラが入って来た。ハシル軍曹も一緒だった。少佐と呼ばれた男は三十歳前後の中国系の男で、髪をオールバックにして端正な顔をしていた。小銃を首から紐でぶらさげている。他の無骨なゲリラ達と違い、インテリジェンスを感じさせる雰囲気を持っていた。
少佐が口を開いた。
「私はマラヤ共産党のディック・タイ少佐だ。この地区の指揮官だ」
タイ少佐は手かせ足かせの私たち三人を順番に見た。マレー語で喋っていた。
「そこで君達の山下将軍の隠し財宝について知っている事を話してもらいたい。洗いざらい全部だ」
私たちは暫し無言だった。するとハシル軍曹が吠えた。
「言われた通りに答えろ!さもないと殺すぞ!」
ハシル軍曹は小銃を私たちに向けて脅した。
「まあまあ、穏やかに行こう。興奮するな」
タイ少佐が諭した。
「そこの男。君がどうやらリーダーらしいな。喋ってくれないか」
タイ少佐は私を見て話しかけた。
「山下将軍の隠し財宝については、三人の役割がはっきりしている」
私が口を開いた。
「ほう。どういう役割だ?」
「このマレー系の男は、名をロイと言うんだが、〃竜の家〃と言う意味のタマン・ミニと言う細長い沼までの道を知っている。この日本人の女は、名を洋子と言うんだが、タマン・ミニから〃竜の眼〃と言う意味のバリー・キャニオンまで行ったことがあり、道を覚えている。そこは鍾乳洞が幾つもあり、洋子しか知らない。最後に僕だが、名をアリーと言う。僕は鍾乳洞の洞窟内の財宝の隠し場所を知っている。僕は半分日本人の血が流れていて、日本の大学で戦史について研究し、山下財宝をずっと探していた。これが僕たち三人の役割だ」
「なるほど。それでは女に聞こう。前回は山下財宝をどうして探せなかったんだ?」
タイ少佐は英語で洋子に訊ねた。それに対して洋子も英語で答えた。
「前回は、雨期だったので鍾乳洞にそそいでいる小川の水量が増えて、水門が開かなかったから諦めたのよ。今回また来たのは、乾期になって水門が開くと思ったからよ。そして前回はジャングルを抜ける間際に、銃で父とトライショーマンをあなたたちに殺されたわ」
「余計な事を言うな!」ハシル軍曹がまた吠えた。
「軍曹、少し黙っててくれ」
タイ少佐は軍曹をたしなめる様に言った。
「その件については申し訳無く思っている。我々だって、誰彼問わず人を撃ったりするわけではないんだ。その時は、発砲も止むを得ない状況だったと報告を受けている」
タイ少佐は冷静に話した。
「君は少佐と言われているが、他の兵士たちとどこか雰囲気が違うな。マラヤ共産党は中国系が多いと聞いていたが、ここにいるのはマレー系やインド系が多く、君の様な中国系は少数派じゃないか」
私が言った。
「私は中国系とは少し違う。マラッカ・チャイニーズの子孫だ」
「偶然だな。僕の母もマラッカ・チャイニーズなんだ」
「では君は日本人とマラッカ・チャイニーズの混血。山下財宝を探していて、戦史に詳しいと言う訳だな。君の本業は何だ?」
「僕の本業は日本人を対象にした海外渡航者損害事務所のコーディネイターだ。オフィスはシンガポールにある」
「そうか」
少佐は端正な顔だちで頷いた。
「こちらも質問したい事がある。君たちはどうして僕らが山下財宝を探している事を知ったんだ?」
「余計な事を……!あっ、少佐すいません」
ハシル軍曹はまた怒鳴ろうとして途中で止めた。
「いいんだ。答えよう。マレー山中に宝を埋めた日本兵に生き残りがいた。彼らの部隊は宝を埋めた後、終戦になり、抗日ゲリラである私たちのマラヤ共産党の先輩たちに襲撃を受けたのだが、二人生き残った日本兵がいた。一人の方は知らないが、もう一人は我々マラヤ共産党の理念に共感して、マラヤ共産党に入って反英闘争に加わった。イギリス軍が撤退してもずっとマラヤ共産党に従軍していたが、一年くらい前に病気で死んだ。いまわのきわに、山下の宝がマレーにあると言う言葉を残して死んでいった。だが場所も話さなかったので、我々は情報を集めていた。ところが二~三ヵ月前にジョホール州東部のイポーと言う村から志願した原マレー人の志願兵ダフランが、イポー村の近くのオラン・アスリの村の老人から、日本軍らしき兵たちが四十年くらい前に何かを村の近くに埋めていったのを見た、と聞いたのを我々に喋ったんだ」
少佐はそこで言葉をいったん区切った。そして天井を少しの間見つめてから続けた。
「我々は真偽を確かめるために、オラン・アスリの村にダフランと兵士二人をつけ、合計三人で行かせた。するとオラン・アスリの村には疫病が蔓延しており全滅状態だった。死ぬ間際の老人にダフランが訊ねたところ、ダフラン達の来る何日か前の日に女連れの三人が来たと言うではないか。ところがそこにオラン・アスリの若者が近くからイポー村に帰って来て、村の有り様を見てびっくりしてダフランたち三人が村をおかしくしたと思い込んだ。そして怒って毒矢を三人に吹き掛けた。兵士たちは発砲して若者を倒したが、毒矢を体に受けてしまった。オラン・アスリの毒矢というやつは、すぐ人を殺すものと、体の一部を麻痺させて少しずつ体力を弱めて地獄の苦しみを味あわせるものと二種類ある。兵士二人はすぐに死んだが、ダフランは体を痺れさせて苦しみながら基地に必死の思いで帰った。そして成り行きを話して死んだ。私たちはジャングル中に警戒網を張って女連れの三人がいたら捕まえるようにと連絡した。するとジャングルを抜ける手前あたりで、この女性の三人連れを見つけた。ここにいるハシル軍曹や狙撃兵スミトロ上等兵たちと撃ち合いになったが、この女性の父親とトライショーマンは死に、この女性は逃げ失せてしまったと言う訳だ。そうだな、スミトロ」
「はい」
スミトロと言われた男はマレー系でブスッとした男だ。少佐と共にこのアジトに到着し、他のゲリラとは違う照準器付きの立派な狙撃銃を首からぶら下げている。寡黙な性格の中に殺しのプロといった迫力が伝わってきた。
「話を続けよう。そしてハシル軍曹らはこの女性の父親の遺体のポケット内から、マラッカの宿泊先を見つけ、ラマダ・ルネッサンスに泊まっている事を突き止めた。だが我々、マラヤ共産党はおおっぴらに街を歩けない。従って街のエージェントである若い男に見張りを言いつけたが、この一週間くらい連絡は無い。そして今日偶然にもハシル軍曹たちが君たち三人を見つけて捕らえたと言う訳だ。これで説明は充分かな?」
マラッカでスパルノ刑事に引き渡した、あの尾行してきた男の謎が解けた。
「ロイ。イポー村にダフランと言う男はいたか?」
私は少佐の英語の説明のわからぬであろうロイにマレー語で訊ねた。
「ダフラン?いました。俺の友達でした」ロイは相変わらず顔をこわばらせて答えた。
「わかった、タイ少佐。こうなったらしょうがない。宝の場所へ案内しよう。ただ一つお願いしたい事がある。宝は諦めるが、その代わりに僕たち三人の命を保証してほしい」
「余計な事を言うな!お前らは我々の言う通り、おとなしく宝の場所へ案内すれば良いんだ!」
軍曹がそれまでの苛立ちを爆発させる様に怒鳴った。
「ハシル、やめろ。良いだろう、アリー。宝が手に入れば、君たちの生命は保証しよう。約束する」
乱暴なハシル軍曹と対照的にタイ少佐はあくまで冷静で、誠意を感じさせる眼をしていた。
「よし、これで交渉成立だ。三人の手と足の縄をほどいてやれ。武器は別として、荷物も返してやれ」
タイ少佐はそう部下のゲリラに命じた。
28
こうして私たちは手かせ足かせを外され、荷物も返されて、再びゲリラたちと出発する事になった。
時計を見ると午後二時になっていた。メンバーは私と洋子とロイの三人に、タイ少佐とハシル軍曹とスミトロ上等兵と女兵士二人と男兵士三人のゲリラ八人の計十一人だった。アジトには守備の兵士が二人残った。
ゲリラたちの装備は、平服の上に私たちと同じ様なサファリ・ジャケットを着て、帽子をかぶり、アリスパックを担ぎ、小銃を首からぶら下げ、腰にホルスター付きの拳銃をつけ、ジャングル・ブーツを履いていた。
スミトロ上等兵だけが、照準器付きの狙撃銃を持ち、ハシル軍曹は小銃の代わりに何とロケット砲を持ち歩いていた。
私はタイ少佐に訊ねた。
「ロケット砲なんて。ここはカンボジアかい?」
「いや用心してるだけだ。我々が本拠としているマレーシア北部の山岳地帯にマハティール指揮下の秘密掃討作戦が時々展開されてるんだ。ジョホール州ではまだ無いが、用心に越した事は無い」
ロイが道案内をするために先頭に立った。その後ろに兵士一名とハシル軍曹、その後ろに洋子と女兵士二人、その後ろに私とスミトロ上等兵とタイ少佐、しんがりは兵士二人だった。
一列になって山岳地帯のジャングルを進んだ。私と洋子とロイは手かせ足かせこそ無いが、常に後ろにゲリラたちによって小銃を突きつけられている。
やがて、私たち三人がゲリラたちに捕まえられた泥沼にたどり着いた。そこを抜けるのはやはり時間がかかった。足が泥沼にとられて、思うように進めない。しかし必死の思いで何とか乗り越えた。
それからジャングルをかなり歩いたが、夜になり私たちはテントを張る事にした。
29
私たち一行は夕食を食べた。ゲリラたちは、やはり野豚や野鳥をつかまえ、毛と内臓を取って丸焼きにした。はんごうで米を炊き、我々の持っていた粉末スープの入ったコップに湯を入れて飲める様にした。私と洋子とロイにも、平等に夕食が与えられた。
夕食後、四つのテントに分かれて眠る事になった。ロイはハシル軍曹のテント、洋子は女兵士のテント、私は他の兵士のテント、タイ少佐はスミトロ上等兵のテントと分かれて眠る態勢に入った。夜は私と洋子とロイは、手かせ足かせの状態にされた。
私が手かせ足かせの状態で横になっているとタイ少佐が訪れて来た。
「君は戦史を日本で調べていたと言ったな。国籍は何処なんだ?」
「シンガポール国籍だ。父が日本人で母がシンガポールのマラッカ・チャイニーズの子孫。でも僕はシンガポール国籍をとった」
「どうしてシンガポール国籍をとったんだ?」
「日本という国は窮屈過ぎる。シンガポールも窮屈だが、僕はこっちの東南アジアの方が性に合ってるんだ」
「私もクアラルンプールのマラヤ大学を出ている。政治学をやった」
「へえー、それは驚きだな。どんな政治学をやったんだ?」
「ホッブズ、ロック、ルソー、ヘーゲル……。何でも学んだよ」
「これは意外だな。マルクス、エンゲルスじゃ無いのか?」
「そんなものをマレーシアの大学が教えて良い訳がないだろう」
「しかしどうして共産主義を信望して、マラヤ共産党に入るんだ。共産主義は少しずつほころびが見えて来たと思うが。あの中国ですら、デン・シャオピンの下で改革、開放の道を歩んでいるじゃないか?」
「君がそう思うのも無理はない。だが、逆に聞くが君はマハティールやリー・クアンユーが好きか?」
私は暫く考えた。
「好きとは言えない」
「そうだろう。たとえば日本人だったら、自分の国の最高指導者におおっぴらにそう言う事が出来るだろう。しかし我々、東南アジアの人間は、おおっぴらにそう言う事は出来ない。マレーシアで政府を批判出来るのは、マラヤ共産党だけだ」
「まあ、そうかもしれないな」
「私たちはゲリラと呼ばれているが、何の考えも無しにテロを起こしている訳ではない。理由も無くマレーシア人民を殺したり、奪ったりする訳じゃ無い。今は仕方無く君たちに手かせ足かせを強いているわけだが、これも無駄な争いを避けるためだ。革命には人の力だけではなく、金の力も必要だ。山下財宝を得る事によって、我々は政府転覆の資金を手に入れる事が出来る。言ってる事がわかるか?」
「少しはな」
「どうやら私と君とは話し合えそうだな」
ディック・タイ少佐は真顔で言った。この男は確かに、今までイメージしてきたマラヤ共産党のゲリラとは違うものを感じさせた。知性的、冷静さ、現実主義……。
少佐はおやすみと言い残して自分のテントに戻った。私も他の兵士たちと一緒に眠りについた。疲れていた。今日一日は色々な事がありすぎた。
30
朝が来た。私がジャングルに入って八日目の朝だ。朝食は、ゲリラたちが集めて来た野草のスープとご飯だった。
ハシル軍曹が私の傍に寄って来た。私はもう手かせ足かせは外されていた。
「おまえはシンガポール人らしいな。おまえの政治信条は何だ?」
私は暫く考えてから答えた。
「そうだな。自由主義と民主主義と言ったところかな」
「フン、笑わせるな。リー・クアンユーの国の何処が民主主義なんだ?自由主義で民衆が潤っているか?金持ちのブルジョワジーだけが肥る制度じゃないか」
私は黙っていた。
「コミュニズムこそが世界全ての人民を救うんだ。我々はミャンマーやフィリピンの共産主義者とも交流がある。勝利するのは我々だ。我々、プロレタリアートだ」
ハシル軍曹はタイ少佐とは違う。教条主義的なコミュニストだ。私が一九七二年に日本に留学した時も、一部の学生にこんな事を言う者がいた。久しぶりに聞く共産主義者の演説だった。
私たち一行は、午前八時には出発した。山岳地帯のため、涼しい気候は相変わらずだ。先導するロイはジャングル・ナイフを持つ事は許されないので、後ろの兵士が木の枝や高い草をジャングル・ナイフで切って進んだ。ロイにはぴたりとハシル軍曹が小銃を突きつけている。もちろん洋子と私にも小銃は突きつけられている。ジャングルを歩く肉体的な疲れに加え、精神的な煩わしさを伴う行軍だった。
午前十一時、一行は地溝にぶち当たった。
「吊り橋が壊れて落ちています」ロイが言った。
見るとなるほど、高さ約三十メートルくらいの切り立った崖っぷちで、向こうの崖までいつもなら縄で作った吊り橋がかかっているはずなのに、途中でちぎれて落ちていた。
「直すのにどの位かかる?」
タイ少佐が兵士たちに聞いた。
「最低でも二~三時間が必要です」男の兵士の一人が答えた。工兵の様だった。
「迂回すれば、ものすごく時間がかかり、面倒になるんだったな」
タイ少佐は考えながら言った。
「よし。吊り橋を直せ。それまで隊は大休止だ」
少佐は命じた。
男の兵士二人が早速、作業に取りかかった。兵士たちは、長いロープを取り出して、ロープの片方を太い木に結び付けて、ロープに沿って手慣れた様子で崖の下に降りていった。
暫くしてタイ少佐は私に向かって言った。
「時間がある。君に見せたい物がある」
そう言って今度はハシル軍曹に言った。
「軍曹。私とこの男とスミトロはジョホール・ボロブに行く。一~二時間で戻る」
「は、はい」ハシル軍曹は答えた。
私とタイ少佐、スミトロ上等兵はそう言って、隊から離れて歩き出した。
(つづく)