11
翌朝五時、私は一人眠りから覚めた。隣の二〇二号室をそっと開けた。洋子は美しい寝顔を見せ、ぐっすり眠っているようだ。昨日見た象牙のシガレット・ケースが目に入った。
そのシガレット・ケースを手にして開けてみた。スリムな女性用の煙草が入っている。私は疑問に思って、煙草を全部出して、ケースの底を押してみた。ケースは二重の作りになっていた。
案の定、ケースの奥にはマリファナが入っていた。女が咳き込んだので、私はシガレット・ケースを閉じた。私は静かに自分の部屋に戻った。
私は一人ロビーに降り、フロントの公衆電話をかけた。秘書のアルーア・グレイの自宅だった。呼び出し音が七回鳴った後、アルーアの眠たそうな声が聞こえてきた。
「はい。グレイです」
「僕だ。アリーだ」
「何ですか、こんなに早く」
「岡野洋子について情報は入ったかい?」
「岡野…洋子。ええ、井上京子と連絡がとれました。彼女、大学時代から相当な金持ちだったらしいですよ。何でもお父さんが貿易商で、その手伝いにしょっちゅう海外旅行へ行ってたみたいですね」
「何か問題になりそうな事はなかったか?」
「わたしが調べた範囲ではないみたいです。アリー、仕事はどうなんです?」
「状況が変わった。洋子の父が貿易商と言うのは嘘だ。行方不明の話も嘘だ。洋子の父はマリファナのブローカーで、ジョホール州東部の山中で取引がこじれて人質になってる。これから洋子とガイドを雇って身代金一千万円の小切手を届けに行く事になった」
「無茶苦茶、ヤバイ仕事じゃないですか!大丈夫なの?!」
「何とかなるさ。どういう訳かこの事件ではファイトがわくんだ」
「それは岡野洋子が美人だからじゃないですか?井上京子が言ってましたよ。どこへ行っても目立つ女だと」
「ハハハ。心配する事は無い。また折を見て電話する。しっかり事務所の番をしといてくれよ。ジャングルだから一ヵ月になるか二ヵ月になるか皆目見当がつかない」
アルーア・グレイは心配だと言う事を繰り返して言って来たが、私は大丈夫だと言って電話を切った。
12
私は二〇一号室に戻り、続きのドアをノックして洋子を起こした。既に午前七時になっていた。
低血圧気味の洋子は咳き込んでいて体調が悪そうだった。
「ごめんなさい。今日は風邪気味なので動く気がしないわ。あなた一人で動いてくださる?」
「仕方ないな。今日中にジャングル行きの装備や車を手配しなくてはならない」
「あなたジャングルへ入った経験は?」
「シンガポールで二年徴兵されてたから、ジャングルのサバイバル訓練は受けている。でもその程度だ」
「そう。でも経験はあるのね。ここに前回必要だった物を書いておいたわ。経費も渡しておくわ」
そう言って洋子は、必要な物の書き込まれたメモと経費の小切手を私に渡した。
「わかった。後はやっておく。君は今日は街に出ない方が良い。フロントのクマは信用できる男だから彼に君の安全について頼んでおく。僕はまずジャングルに詳しい男を探すよ」
私は再びロビーに降り、クマを呼んだ。
「おはようございます」
「ジャングルの方の荒れた道を走れる車を借りたい。ジープか、出来れば四WDが良い」
「探してみます」
「それから僕と一緒に泊まった女の安全を気づかってくれないか。彼女は体調が悪いので今日は部屋に引きこもりっぱなしになると思う。昨日まで、彼女を尾行していた男がいたんだ。サツに突き出したけどね」
「わかりました。今度もまたヤバイ事件ですか?」
「ヤバくならない様に祈ってるところだよ。ところで、リー・フーチェンはどうしてる?ラジャハバの麻薬事件で連絡係をしていた小悪党だ」
「ああ、リーですか。何でも一年間懲役して、今はマラッカで骨董品屋を開いていますよ。カタギのふりをしてますが、実際はどんなもんですかね」
私はリーの住所を聞き、クマに相当額のチップを渡した。私はホテルのガレージからビュイックで外へ出た。
13
私は午前九時の銀行の開店を待って、洋子にもらった経費の小切手を現金化した。それから私はチャイナタウンの一角に車を止めて、リーの骨董品屋を探した。骨董品屋はすぐに見つかった。
古く地味な店の作りだ。私はさり気なく店に入って行った。中にはありとあらゆる古今東西の骨董品が並んでおり、うす暗い店だった。店の奥にリー・フーチェンはいた。
「リー、おはよう」私は気軽に声をかけた。
リーはこちらを見て、ぎょっとした表情を見せた。
「あ、あなたは……!!」
「二年前は失敬したな。でもこうやってカタギになって、まずまず成功してるじゃないか」
「何の用ですか?あたしはもう……」
「わかってるよ。刑期を一年務めたそうじゃないか。立派な事だ。実は今日は頼み事があってな」
「話はこちらでお願いします」リーは店員の若い女性に店を頼むように告げ、手招きして私を裏の部屋に呼んだ。そしてドアをガチャリと閉めた。
「勘弁してくださいよ。あたしはもう悪い商売から足を洗ったんですよ」
「それはどうかな」
私はリーの顔を見てニヤリと笑った。リーはひどく汗をかいていた。
「頼みって何です?」
「まずピストルを一丁欲しい」
「何ですって?ピストルなんてありませんよ」
リーは真顔で言った。私はその真顔が気に入らなかった。リー・フーチェンは肝っ玉の点では小悪党だが、かつてはマラッカの暗黒街の中国系の顔役だった。ピストルが手に入らない訳が無い。そしてこの男は自己の保身のためなら、どんな嘘でもつく。
「もうとぼけるのはよさないか!一丁千六百マレーシアドルでどうだ。こっちはビジネスに来てるんだ!」
私の怒鳴り声にリーは震え上がった。リーは小心者だった。リーは私の名前も知らないが、二年前のラジャハバ麻薬事件のショックがあまりに大きかったと見える。それはそうだ。このマレーシアで麻薬取引に問われれば死刑だ。しかしリーが単なる連絡係だった事と、ラジャハバのギャング団の仲間について積極的に捜査協力した事で、異例の短さで刑期が終わったのだ。本人は相当肝を冷やしたに違いない。
「あなたは何者ですか。警察じゃないのですか?」
「警察じゃない。強いて言えば、探偵みたいなものだ。今回はおまえをはめに来た訳じゃ無いから安心しろ」
「ラジャハバさんが、あなたを探していますよ」
「あのチビでメガネのインド人か。そんな事は良い。早くピストルを出せ。これからの仕事に必要なんだ」
リーはようやく少し落ち着いて来て、少し考えてる風だった。
「今時、ピストルは一丁二千五百マレーシアドルしますよ」
「高いな」
「なら一丁二千マレーシアドルでどうです」
私はニヤリと笑った。
「そうこなくっちゃ。よし一丁二千マレーシアドルで買おう。それにもちろん弾丸がいる。三十発だ」
リーは私に待つように言い、別の部屋から新聞紙にくるまれたピストル一丁と弾丸を三十発運んで来た。
「トカレフか。中国製か?」
「そうです」
私はピストルと弾丸を調べ、ピストルと弾丸の料金を現金で払った。ラジャハバは笑顔になり、本来の商売人らしい顔になってきた。
「それからもう一つ。ジョホール州東部のジャングルに詳しい人間をガイドに雇いたい。プサール山の辺りだ」
「ガイドですか?それはすぐには見つかりませんよ」
「何とかしてくれ」
リーは少し思案してから答えた。
「わかりました。心当たりを探してみましょう。午後にまた店に来るか、電話してもらえますか?」
「よろしく頼むよ」
「ところで、あなたのお名前は?」
「ナカムラだ」
私は嘘をついてニヤッと笑った。ナカムラと聞いて、またラジャハバの事件を思い出したのか,リーはビクッとした。
「日本人にはナカムラと言う名は多いんですか?」
「多いな。何か袋をもらえるかな。ピストルをこのまま持っていくわけにはいかないだろう」
リーはピストルと弾丸をまた新聞紙に丁寧に包んでボストンバッグに入れ私に渡した。そして店の電話番号のメモを私に渡した。
「最後にこの男を知らないか?」
私は洋子の父の写真を見せた。
「知っています。この日本人は麻薬のブローカーですよ」
それから私はリーにこの父について知ってる事を幾つか聞き出した。
「午後にまた電話する。それじゃな」
私は店を出てビュイックに戻り、トランクにボストンバッグをしまった。
14
私はビュイックを公衆電話ボックス近くに止め、ボックスまで歩いた。まずマラッカ州警察のスパルノに電話をかけた。
「僕だ。アリーだ。昨晩の若造はどうだ?」
「あんなに口の固い男は珍しいよ。全く口を割らん。まあ拳銃不法所持で一週間ぐらい留置場にぶちこむのが関の山だな」
「何かわかった事はないのか?」
「ピストルは中国製の五四式拳銃。マラヤ共産党が良く使う事があるが、他でも出回っているのではっきりした事は言えない。ベトナム・ルートからピストルをもらったのかもしれんしな」
「マラヤ共産党か」
マラヤ共産党は、終戦になって日本の統治が終わってから、再びマレーシアに乗り込んで来た宗主国のイギリスに反英闘争を続け、マレーシア連邦独立後はマレーシア政府の反体制勢力として山岳地方に潜んでいるゲリラ組織だ。最近、勢力が弱まっていると聞いているが、元々中国系の団体だったのが、マレー系やインド系の人間も巻き込んで活動しており不気味な存在だ。
「そうか、ありがとう」
「いや、俺は二年前のラジャハバの一件でおまえに借りがある。それよりおまえ、またヤバイ仕事に首を突っ込んでいるんじゃないのか。おまえは本来探偵事務所のコーディネイターだろう。あんまり危ない橋を渡るなよ」
「ご忠告ありがとう。また電話するかもしれない。それじゃ」
私は電話を切った。続いて私のシンガポールのオフィスの秘書アルーア・グレイに電話をかけた。
「アリーだ」
「アリー?!今何してるの?」
「マラッカのリー・フーチェンを覚えているだろう。奴からピストルを一丁買ったところだ」
「リーですか?アリー、何であんな悪党をほっとくんですか?」
「いや、ああいう雑魚は泳がせておいた方が良い時もあるのさ」
「やっぱりジャングルへ行くんですか?」
「ガイドが見つかればそうなるだろう。そっちは変わった事がないかい?」
「ありませんよ。でもアリーが一ヵ月か二ヵ月いなくなると、わたしは退屈だわ」
「それはすまない。せいぜいボーナスでも待っていてくれ。できる限り連絡を入れる。それじゃ」
15
その後、私はマラッカ市内の小さな図書館に行き、ジャングルの地理やオラン・アスリなどについて調べたりして時間を潰した。
午後二時にリーに電話をした。リーによると、三人心当たりがあると言う。私は三人の名前と住所をメモした。
16
ビュイックで三人を順番に当たる事にした。
一人目は街の川沿いにあるみすぼらしい一軒家に住む、四十五歳くらいの気さくなマレー系の男性だった。良く喋り、ジョホール州東部のジャングルならまかせろと言って、自分から売り込んで来た。
しかし「〃竜の家〃を知ってるか?」と聞くと、デタラメな答えを返して来た。タマン・ミニと言う湖の名前はついに出なかった。
この男は使えないと判断して、私は去った。
二人目は街中の汚いアパートが住所だったが、もう引っ越ししていて駄目だった。
三人目は街外れの汚いアパートが住所だった。隣の部屋の住人にどこにいるか聞くと、パイナップル畑で仕事中だと言う。私はビュイックをパイナップル畑まで走らせた。
名をロイと言い、仕事を中断してもらって話をした。身長一六五センチ位の痩せたマレー系の二十歳そこそこの若い男で、どこか街に馴染めないアカぬけなさ、ぎこちなさがあった。
始めは心を開かなかったが、故郷の村の話をしているうちにボツボツ喋り始めた。
「俺は確かに、ジョホール州東部のジャングルから来ました。イポー村と言うんです。村は俺と同じ原マレー人の村で、農業をやって生計を立てています。オラン・アスリの部落も近くにありました」
原マレー人と言うのは、紀元前に元々マレー半島に住んでいた種族だ。その後、大陸から新マレー人と呼ばれる種族が渡って来た。長い歴史の中で多くが混血していったが、マレー半島東部には原マレー人だけの部落も多い。現在では、原マレー人と新マレー人を見た目では識別する事は出来ない。
「〃竜の家〃を知ってるかい?オラン・アスリがそう呼んでいる湖だ」
「タマン・ミニの事ですか?あの湖は俺の住んでいたイポー村の近くです。村の老人たちは、竜が棲んでいるから近づくなと言っていました。本当かどうか判りませんが」
ビンゴだった。
「もし君が今の仕事を休んで、タマン・ミニまで僕と連れの女を案内していってくれれば、ガイド料として四千マレーシアドル出そう。どうだい?」
「四千マレーシアドルも……!!俺は一向に構いませんが、あんな所に何しに行くんです?」
「ちょっとしたジャングル探検さ。僕はオラン・アスリの研究をしている」
私はまた嘘をついた。麻薬取引の相手から人質を取り戻すなどと言ったら、このロイはついてきてくれまい。また四千マレーシアドルはロイにとって半年分の給料に当たるのだろう。驚いて当然だった。
「やりましょう。パイナップル畑は日雇いなので、いつでも抜けられます。で、いつから?」
「今からだ」
17
私はロイが今日一日の仕事を終え、給料をもらってる間に、電話のある街までビュイックを走らせた。パレスホテルのフロントに電話した。
「クマか。アリーだ。車の方はどうなった?」
「OKです。イギリス人が売りに出した四WDが借りられそうです。かなりオンボロらしいですが」
私はクマに教えられた、レンタカーの営業所の住所をメモした。
「女の方に変わった事は?」
「ありません。ずっと部屋にこもりっきりです」
「よし、ありがとう。女を呼び出してくれ」
私は二分ほど待った。
「もしもし」
「僕だ、アリーだ。体調はどうだ?」
「そうね、少し元気が出てきたわ」
「それは良かった。ガイドが見つかった。車も手に入る。これからガイドを連れて帰るが平気かい?」
「まあこんなに早く。良かったわ。こっちは全然平気よ」
「じゃ、一時間位でそっちへ行く。それじゃ。あっ、そうそう。ガイドには麻薬や君のお父さんの話はしていない。ジャングル探検で、オラン・アスリの研究をしてるとだけ言ってある。上手く話を合わせてくれるか」
「OKよ」
私は電話を切って、ロイの働いてるパイナップル畑に戻った。
ロイをピックアップして、レンタカーの営業所に行った。言われた通り、かなりオンボロのスバルの四WDがあった。私は二ヵ月契約で四WDを借り、代わりにビュイックを預かってもらった。それから四WDでパレスホテルに戻った。
フロントでクマに改めて礼を言い、二〇二号室に上がった。
私はロイと洋子を紹介し合わせた。ロイは洋子の美しさに顔を赤くしていた。それから打合せをした。タマン・ミニの事や、ジャングルの地理、旅行に必要な物などを。
それから三人で街に出掛け、必要な物を買い出しに行った。リュックサック・方位磁石、地図、食糧、医薬品、テント用具、ジャングル用の服などを買い込んだ。食糧品は一ヵ月分位買い込んだ。
そして次の日の朝、出発する事にして、私と女はホテルに四WDで戻り、ロイはバスでアパートに帰って行った。
18
翌朝、午前七時に起きて私と洋子は一階のレストランで朝食をとった。洋子の体調はすっかり回復していた。
私はクマに挨拶して、ホテルをチェックアウトした。私と洋子のジャングル行きに不要な荷物の一部は、パレスホテルに預かってもらう事にした。
私と洋子はスバルの四WDでホテルを出て、ロイと待ち合わせのパサールまで迎えに行った。午前九時ぴったりに、ロイはリュックサックを担いで待っていた。
私たちはロイをピックアップして、ジョホール州東部の山中目指して車を走らせた。
ロイの話によれば、東部の気候は幸いもう乾期になっているので、車で半日に加えロイの足なら五日かかると言う。私たちが一緒だと、ジャングルに不慣れなため十日かかると言う事だった。
洋子も雨期だった前回やはり片道十数日かかり、往復三十日前後だったと認めた。ロイにはその事実は伏せておいた。パサールにより、食糧などをもう一度買い足して、私たちの四WDはマラッカを出た。
マラッカから幹線道路を辿って一回北上し、マラッカ州を出て、ネグリ・センビラン州にいったん入り、その後南下してジョホール州に入った。
午後一時にラビスと言う街に着いて、私たち三人は昼食をとった。マレー料理店だった。
「暫く、こんなまともな食事はとれなくなるな」
私はサテーと言う焼き鳥を食べながら言った。
「わたしでも前回耐えられたんだから、大丈夫よ」
洋子も食べながらロイに判らぬように日本語でそう言った。
「ロイ、君はどのくらい故郷の村に帰ってないんだい?」
「一年位です。村には俺の両親や、弟や妹たちが五人います。俺は大家族の長男なんです」
「大家族か。俺は一人っ子だ。洋子は?」
「わたしも一人っ子。母を早く亡くしたから父と二人家族よ」
私たちは食事を終え、ラビスの街を後にした。車を東に向けて走らせた。途中までは舗装された道だったが、途中からは舗装されていない土の道を走った。
道の両側の光景はジャングルが続き、ときどきパイナップル畑・椰子畑・ゴム園・カンポン(村)の繰り返しであまり面白くない光景だった。
途中からロイの指示でデコボコした路面の細い道に入った。四WDで無くては走れないような悪路に運転する私は苦労した。車はガタガタと激しく振動した。
「洋子、君がお父さんたちと以前来た時も、ここを走ったか?」
私はロイに判らぬように、日本語で言った。
「ここを走ったわ。父の話では、昔イギリス人がゴム園開発のために使った道らしい。だけど日本軍が攻めて来たために計画は中止して、途中で行き止まり、この道は東部の山中に行くごく少数の人間にしか使われていないらしいの」
洋子の言う通り、私たちが車で走る間は人一人見えなかった。道の周囲はジャングルだった。
二時間ばかりデコボコ道を走ったところで、道が途絶え行き止まりになった。午後五時になっていて、既に夕陽が傾いてきていた。
「ここからは歩きです。ついにジャングル入りです」
ロイが言って、私たち三人は車を降りた。
私と洋子は、ジャングルに慣れているロイに比べてかなりの重装備の服装に着替えた。Tシャツと丈夫な作業ズボンの上に、長袖のサファリ・ジャケットを身につけた。暑いのに長袖を着るのは、虫除けのためと、涼しい山地に行くためからだった。
黒い安全靴を履き、腰にデリバリー・バッグと水筒を巻き付け、サファリ・ジャケットの四つあるポケットには薬やピストルが詰めてあった。手袋をし、日除け用の帽子を被った。
リュックサック内には食糧・水筒・ジャングルナイフ・折り畳み式テント・セーター・懐中電灯・マッチ・ライター・虫除けスプレー・はんごう・鍋・下着の替えなど様々な物が入っていた。
私とロイが担いだリュックサックは二十キロから三十キロあるだろう。洋子のリュックサックも十五キロはある。
ロイはジャングルに慣れているためと、動きやすい恰好が良いとの事で、サファリ・ジャケットや安全靴は身に付けなかった。ほとんど普段着だった。
私たち三人は、車を置いてジャングルに入る事になった。
19
私たちはまずけもの道のような道を歩いた。多少の人の出入りがあるために、人の歩いた跡がけもの道の様になっているのである。夕方とは言え、気温は三十℃以上ある。重い装備をかかえて歩いているので、すぐに大量の汗をかいた。しかもサファリジャケットを着ているので、余計に暑くて苦しかった。
先導するロイはさすがに慣れているせいか、どんどん前に歩いて行ってしまう。それに続く洋子と私は何度も「ちょっと待って、もう少しゆっくり」と言わなければならなかった。
二~三時間歩くと夜の帳が降りてきた。夜歩くのは視界の悪いジャングルでは危険である。私たちはテントをはる事にした。ロイが寝るのにふさわしい場所を見つけてくれて、テントをはった。
火を起こして、はんごうで米を炊き、湯を沸かした。夕食はご飯にコンビーフの缶と粉末スープだった。
夕食が終わると三人は煙草を吸った。ジャングルの中では、沢山の虫の声が響いていた。いろんな動物がジャングルにはいる筈だった。大小様々の河川には、鯉に似た大きな魚やワニが住み、また密林には、野性の豚・水牛・蛇・猿・トカゲなどの動物がいる。今ではほとんどいなくなったが、象や虎だっているかもしれない。珍しい蝶などの昆虫や植物も溢れているに違い無い。
ロイを別にして、私と洋子もジャングルに入った経験があるとは言え、やはり夜は不安だった。
虫除けスプレーを昼に続き身体中に塗った。ジャングルで一番怖いのは、虎でも象でも無く、蚊などの虫だった。変な虫にたかられたら、マラリアなどの重い病気にかかるからである。
私たちは一つのテントで、三人が眠る事にした。私にとっては一八~二十歳の時の徴兵でサバイバル訓練を受けて以来、十数年ぶりのジャングルの夜だった。小さな国シンガポールのジャングルでは、何かあれば数時間で病院に行く事が出来たが、このジョホール州東部のジャングルでは、病院に行く事もままならない。
しかし、そんな不安をよそに昼間歩いた疲れで私は早々と眠りについていった。
20
ジャングルの朝は早い。私たちは朝からの強烈な日差しで目を覚ました。腕時計を見ると午前六時になっていた。
火を再び炊き、粉末スープとはんごうで炊いたご飯といわしの缶詰を食べた。
朝食を終え、火を消し、私たちは再びジャングルの道を歩いた。この日からだんだん道が、雨期に生い茂った草が増えていて、険しくなっていた。私たちはジャングルナイフで時折、草や木の枝を切って進まねばならなかった。
厳しい日光が容赦無く照りつけ、発汗が激しくなった。重いリュックサックも大きな負担になった。木立の高い所では日射を免れる事が出来るが、その代わりに視界の悪い足元に蛇が出てくるのに注意しなければならなかった。
蛇が出てくると、ジャングルナイフで追っ払わなければならなかった。毒蛇は本当に危険だった。薬は持ち合わせているとは言え、血清などは無かった。誰かが噛まれたら、他の者が噛まれた部分を噛んで毒を外へ捨てるしか方法は無い。
時折、猿が木々に掴まっているのを見かけた。野豚が出てくると、ロイが追いかけて素早くジャングルナイフで追いかけた。野豚と言っても、マレーシアの豚は黒くて筋肉が引き締まっており、猪の様な印象を受ける。
普通マレー系の人間はほとんどイスラム教徒なので、豚を食べるのはタブーだったが、ロイは原マレー人のジャングル奥地の村出身のため、イスラム教徒では無いので問題は無かった。
ロイは暫くすると豚を仕留め、リュックサックの後ろに紐で縛りつけて、何食わぬ顔でまた歩き始めた。私と洋子はロイの手際の良さに驚くばかりだった。
それから時折小休止を挟みながら、午前一二時まで汗だくになって歩いて、昼食のために大休止した。昼食時には、また火を炊き湯を沸かし、ココアとビスケットを食べた。また、ロイが集めてきた野性のマンゴー・ドリアン・ランブータンなどの果物を食べた。
午後一時になると、火を消し、私たちはまた歩き始めた。午後になると、私と洋子はひどく疲れ小休止をとろうと何度もロイに頼んだ。発汗で失われた塩分を補うために、私たちは塩を舐めた。氷砂糖を舐める事もあった。煙草もかなり吸った。もちろん水分補給も絶対に必要だった。
歩く途中に小川が見つかると、濁りの少ない水を探して水筒に入れた。私たちは風呂の代わりに、水浴びをして、体を洗った。
結局その日は午前七時から午後五時まで、大休止の一時間と水浴びの一時間を除いて八時間歩いた。
私たちはまたテントをはった。火を炊いてはんごうを炊き、ロイが昼間仕留めた野豚の皮を剥ぎ、内臓をとって丸焼きにした。夕食は、野豚の肉とご飯に粉末スープ、それにロイの集めた熱帯の果物だった。
これだけきついジャングル歩きをしても全く平気な様子のロイは、私と洋子にはスーパーマンの様に思えた。私と洋子はすっかりくたびれきっていた。
「ロイ。僕には君がスーパーマンの様に思えるよ」私が言った。
「そうですか?ジャングルは俺にとっては、馴染みの深い故郷の様なものですからね。アリーさんや、洋子さんは都会の人だ。無理も無いです」
「どうして、故郷を出てマラッカで働く気になったんだ?」
「どうしてですかねえ。俺の村……イポー村には何も無いんです。昔はイポー村では狩猟採集しかする事が無かったんですが、二十年位前から稲作をやるようになったんです。それを他の村に売って、物々交換しています。電気もガスも水道もありません。俺は稲作に飽きて、都会に出て仕事をしたかったんです」
「マラッカに来て良かったかい?」
「いや、そうとも言えませんよ。やっぱり俺のような田舎者は、都会の人間には馴染めません。かと言って、イポー村に戻る気にもなれません。だから俺は今とても宙ぶらりんな状態なんです。これから本当に何をして生きていけば良いのか、自分でもわかりません」
ロイはマレー語しか話せない。洋子はマレー語がわからないので、私とロイの会話を訳して聞かせてやった。
疲れた。三人はテントの中で泥の様に眠った。
(つづく)