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その日は木枯らしの吹く寒い十一月の午後だった。俺は探偵事務所の個室で、机に両足を投げ出しながら、朝刊に目を通していた。大した記事は無かった。政府の経済政策と銃の規制法案が少し興味を引いた程度だった。俺は窓を開けた。探偵事務所のある七階からは、Hamatownの混雑したダウンタウンの様子が手に取る様に見えた。世界中のあちこちから集まった様々な民族がせめぎあい、生き馬の眼を抜く様に、必死に動き回っている。今日も朝鮮系の八百屋が、通りを挟んだ向かいのパキスタン系の八百屋と商売の事で激しく言い争っている。その時チャイムが鳴った。俺はインターホンで応対した。
「はい。どちら様ですか?」
俺は廊下に備えられている防犯カメラで、チャイムの主を確認した。四十歳位の東南アジア系の女性と、七、八歳のやはり東南アジア系の少女だった。また新興宗教の勧誘だろうか?
「私はムニ・サムファンと言います。こちらの探偵事務所に調査の依頼に来ました」
その四十歳位の女性は名乗った。依頼か。三週間ぶりだな、と俺は思った。
「どうぞお入り下さい」
俺はオートロックのドアの鍵を外して、インターホンを通じてそう言った。俺は個室から応接間に移った。二人が部屋に入って来た。
「どうぞ。お座り下さい」
「失礼します」
二人はソファに並んで腰掛けた。俺は向かいのソファに座った。
「今、何か入れますが、コーヒーでよろしいですか?あっ、そちらのお嬢さんはジュースで……」
「どうぞ、お構いなく」
俺は四十歳位の女性と自分にコーヒーを出し、少女にはオレンジジュースを出した。
「それで依頼の内容とは?ええっと、ムニ……」
「ムニ・サムファンと言います。こちらは娘のアニタ、八歳です。私はカンボジアから来て、この娘を産みました」
ムニと名乗る女性はどちらかというと貧乏くさい格好をしていた。アニタと言う娘は、一言も話さず俺の眼をじっと見ていた。その少女の瞳には、あらゆる苦しみや痛みを味わった無言の訴えの様なものがあった。八歳とは思えない程、深い人生を過ごして来た瞳だった。
「依頼の内容ですが……。この娘は二歳の時、右目を悪くして失明してしまいました。医者の話によると、角膜移植手術をすれば、右目は回復するそうです。しかし私たち母子はご覧の通り貧乏です。父親もだいぶ前にどこかに消えてしまいました。私は掃除婦をやりながら家計を支えています」
俺は母親の話を聞きながら、やはり少女の瞳をすい寄せられるように見ていた。
「私は四十二歳ですが、もう自分の今後の幸せについては諦めています。私はこのHamatownで全てを失いました。しかし私は、このアニタだけには幸せになってもらいたいのです。アニタは小学校で抜群の成績を挙げています。しかし片目が不自由な事は、大変なハンディキャップを生みます。私はアニタの角膜手術のために、自分の肝臓を売ったのです」
俺はびっくりしてコーヒーを吹き出してしまった。
「し、失礼しました。今、何て言いました?」
「アニタの角膜を買うために、自分の肝臓を売って金を作ろうとしたのです」
「ハ、ハア……。もう売ってしまわれたのですか?」
「売りました。ミナミオオタの広東クリニックです。しかし初めの手付金四百ドルを渡されただけで、手術が終わっても約束の二万ドルは渡されないのです」
「二万ドル……。肝臓を売ると二万ドルですか」
「何度もクリニックに掛け合いました。しかし全く横暴な所で、全然相手にされないばかりか、また来るとタダではおかんぞ、と脅迫までして来るのです」
「ひどいですね」
「私はこのアニタのために、肝臓を売ったのです。金が入らなくてもこの娘は何も言いませんが、私はこれでは悔やんでも悔やみきれません」
母親はついに泣きだした。俺は慌ててハンカチをさし出した。母親は礼を言ってハンカチを受け取り、涙を拭った。
「それで私にどうして欲しいのですか?」
一呼吸おいてから、俺は言った。
「警察に行ったとしても、私どもの様な不法移民は全く相手にされません。お願いです。私の肝臓の代金を取り立てて下さい」
「取り立てると言っても……。お話を伺う限りでは、相当な悪徳医院の様です。簡単に取り立てられるかどうか……」
「お願いします!」
母親は涙を振り払って、きっぱりと言った。アニタと言う少女も訴える様な瞳で俺を見た。
さて、どうするか。この様な事件は今のHamatownでは日常茶飯事である。しかし上手く解決できないことも多い。しかもこの母子には、そんなに金は無いだろう。しかし……。俺はこの無言の少女の瞳に心を動かされつつあった。この少女を救わなければならないと俺は何処かで思っていた。
「もし依頼をお受けすれば、費用は一日百二十ドルにプラス経費。お払い出来ますか?」
「手術の手付金の四百ドルと私の貯金三百ドルがあります。合計七百ドルで何とかやって戴けないでしょうか」
五日分の経費だな。それまでに解決できるかどうかはわからない。
「わかりました。お引き受けしましょう」
俺は笑って母親の手を握り、娘のアニタの手を握った。とても小さな、しかし暖かい手だった。
「ありがとうございます。ぜひとも、よろしくお願い致します」
俺は広東クリニックの住所、医師名など詳しい事を母親に訊ね、手術の契約書を預かった。そして母子をドアの外まで見送った。
「調査が進展次第、連絡します。それでは気を付けて」
二人の母子は深く頭を下げて帰って行った。

俺は二人が帰ると、パソコンに向かい広東クリニックについての情報を集めた。二〇三五年に内科・小児科として開業し、院長は「陳少平」。開業日は月曜から土曜日。開業時間は九時から五時。母親を手術した医師も「陳沢民」と、院長と同じ陳という姓だった。血縁関係にあるのか、偶然の一致かはわからなかった。何しろ陳姓は世界で五番目に多い姓だ。俺は革のブルゾンとジーンズにワーキング・シューズにナップ・ザックという出で立ちで事務所を出た。時計を見ると午後一時五十分だった。階段を降りビルの外に出ると、木枯らしが容赦なく俺の身体に吹きつけた。俺は歩いて地下鉄の駅を目指した。さっき事務所から見下ろしていた、朝鮮系の八百屋は店の中がぐちゃぐちゃに壊されていた。おそらく言い争っていたパキスタン系の八百屋とその仲間にやられたのだろう。
俺は駅に入り、切符を買い自動改札を抜け、南行きの地下鉄に乗った。旧市街の地下鉄車内は恐ろしい程汚く、乗客はまばらだった。俺はいつでも自分を守れる様にナップ・ザックから電子トンファーをすぐにでも取り出せるようにした。今日も車内で猫の死骸を三匹、目にした。生きているのか死んでいるのかわからない国籍不明のホームレスも二、三人人横になっていた。
十五分程乗って、ミナミオオタの近くの駅に降りた。ここら辺は商業地域の下町で中国系とアラブ系の商店が多い。狭い道にはあらゆる民族の露店が所狭しと立ち並んでいる。俺はしつこい物売りの人並みを必死でかき分け、ムニ・サムファンに書いてもらった地図を頼りに広東クリニックを目指した。パソコンで調べた地図よりはずっと役に立った。駅から降りて三十分程して、広東クリニックを探し当てた。二〇三五年に建てたとあって、古い軒並みの中では新しく立派な黄色い九階建てのビルだった。
俺はドアを開け、中に入った。受付と待合室があり、待合室には三~四十人の患者が順番を待っていた。俺は受付にまっすぐ向かった。受付の人間は五十歳を過ぎた、度の強い眼鏡をかけた、いかめしい顔をした女だった。
「すいません。ちょっと伺います」
俺は言った。
「何ですか?」
「肝臓の摘出手術を受けたいのです。紹介状も持っています」
「紹介状を見せて下さい」
受付の中年女は無愛想に言った。
俺は事務所で作ったニセの紹介状を出した。受付の中年女は紹介状を見てビックリした声を出した。
「張玄白……!!紹介者はあの張玄白さんですか?!」
「そうです」
張玄白とはHamatown随一の中国系の実業家だった。商売は汚いがマフィアでは無く、Hamatownの中国系住民は、皆恩恵を受けていると言っても良い位の存在だった。受付の中年女がビックリしたのも当然だった。俺は過去に張の依頼を受けた時に、張のサインした領収書をもらい保管していた。ニセの紹介状には、俺の偽造のサインが書き込まれていた。俺は偽造書類を作る事に関しては抜群の腕を持っていると自負していた。
「す、少しお待ち下さい」中年女は慌てて奥へ走って行った。サインを本物かどうか確認に行ったに違い無かった。

十五分程して俺がガラムを一本吸い終えた頃、中年女が戻って来た。先程の無愛想な態度などまるでウソだったかの様に、丁寧な声を上げて言った。
「大変お待たせしました。院長がお会いになると言っています。」
俺は一人の若い看護婦に連れられ、三階の院長室へ階段を昇った。中国系で額の狭い、不細工な女だった。
途中、すれ違った若い美人の看護婦の顔を見て、俺はビックリした。その看護婦は、色白の中国系の女性で、こないだの夏に蛇のカルト教団〃拝蛇教〃を一緒に壊滅に追い込んだカリーナに間違い無かった。髪の毛を長く伸ばして黒縁の眼鏡をかけているが、カリーナに違いない。俺は一瞬、階段で歩みを止めてカリーナの瞳を見た。カリーナは俺の顔を見てほんの一瞬瞳に動揺を示したが、すぐ何事も無かったかの様に書類の様な物を抱えて下に降りて行った。わけありだな、と思った俺は敢えて口を聞かず案内の看護婦に従って階段を昇って行った。三階の院長室をノックした案内の額の狭い看護婦は、俺を連れてきた事を告げ、ドアを開けた。俺は院長室に通された。広い院長室だった。俺の探偵事務所の応接間の四倍位のスペースがありそうだった。足首まで埋まる高価な絨毯の上に、豪華なソファーセットが院長のマホガニー製の大きな机の前に置かれていた。院長は六十代半ば位で、身長は一六五センチ位の小太りな男だった。白髪の顔に金縁の眼鏡を掛けている。
「やあ。初めまして。院長の陳少平です」
陳は目を通していたパソコンの画面から目を離して、ソファーまで自分で歩み寄り俺に、にこやかな笑顔で握手を求めてきた。握った手は脂っこく、俺をどこかで早く手を洗いたい気持ちにさせた。
「君、コーヒーを」
案内の看護婦に命じて、俺をソファーに座る様に促し、自分も向かいのソファーに座った。
「張玄白氏とは、どういうご関係で?」
にこやかな笑顔の中に、油断のならない眼の光を感じた。
「以前、張氏にマーシャル・アーツを教えた事がありましてね」
俺は看護婦のさし出したコーヒーをすすりながら言った。
「ほう。マーシャル・アーツと言うと北派ですか、それとも南派?」
「そういう流派にとらわれない武術を教えています。わかりやすく言えば総合格闘術です」
「そうですか。それは、それは」
陳院長は欧米製の煙草に火を付けて吸った。
「それで、あなたはお金に困っていらっしゃる訳ですか?」
「そうです。ですから手っとり早く、金を得るために恥ずかしながら自分の肝臓を売りたい訳です」
「アハハハ。恥ずかしがる事などありません。今の時代、臓器売買が無くては医学は成り立ちませんよ」
「そこで」俺は言葉を一端区切った。「医師を指名したいのです。或る所で評判を聞きまして、是非とも」
「ほう、誰の事ですか?」
「陳沢民先生です」
「沢民ですか。ハハハ。あれは私の甥ですよ。君、沢民を呼んでみて」
陳院長は、にこやかな笑顔を保ちながら額の狭い看護婦に言いつけた。しばらくして内線で話していた看護婦が言った。
「陳沢民先生はちょうど今、手が空いていて、こちらにいらっしゃるそうです」
俺がつまらぬ雑談を陳院長と交わしている間に、陳沢民と思われる男がやって来た。
「初めまして。私が陳沢民です」
その男は四十歳位で身長一七〇センチ前後、まだ若いのに前頭部がハゲ上がっていた。
「こちらがマーシャル・アーツ指導員のハマオさんだ。沢民に肝臓の摘出手術を受けたいそうだ」
陳院長が紹介した。
「そうですか」
沢民は、無表情で俺の顔を一瞥した。
「手術を受ける前にお聞きしたいのですが」
「何でしょうか?」
沢民が応えた。
「ズバリ肝臓は幾らで買ってもらえますか?」
「そうですね。二万ドルです。手付けは四百ドル程。しかし張玄白氏の紹介ならもう少し色を付けた額にしますが……」
「ほう。二万ドルですか」
一呼吸置いて俺は続けた。
「その二万ドルは、誰にも平等に支払われるんでしょうか?」
「何の事ですか?」
陳沢民医師は相変わらず無表情で答えた。
「例えばカンボジア系の中年女性でも約束の二万ドルは払ってもらえるんでしょうね」
陳沢民医師の眼に初めて少し動揺の色が走った。
「何の事だか、私には……」
「名前はムニ・サムファン。カンボジア系の四十二歳。こちらで肝臓を売って、手付けの四百ドルは受け取ったが、残りの二万ドルはもらっていない。どういう事ですか?」
俺はなるべく静かに、しかし核心をついて言った。
「ハマオさん、どういう事ですか?」
陳少平院長が慌ててとりなした。
「私はムニ・サムファンの知り合いでしてね。残金が受け取れないと泣きつかれているんですよ、院長」
陳院長のにこやかな笑顔が初めて消えた。
「何の事かわかりませんな。私どもはそんな女は知りません」
陳沢民医師が言った。
「じゃ、この手術の契約書は何ですか?」
俺は預かった契約書のコピーを二人の眼前に突きつけた。
「払ってもらいましょうか。耳をそろえて二万ドル」
俺は二人と睨み合った。
「ハマオさん、あなたどこの人間ですか?難癖をつけてもらっては商売に差し障りますな」
陳院長は自分の営業用の仮面を剥がして、険悪な表情を作っていた。陳院長は自分のマホガニーの机に向かい、インターフォンに向かって怒鳴った。
「厄介者がいる。つまみだせ!」
間もなく院長室のドアを開けて五人の中国系の屈強な男たちが現れた。その中の一番背の高い一九〇センチ位ある鼻のつぶれた男が陳院長に訊ねた。
「こいつですかい。厄介者は?」
「そうだ。つまみ出せ!」
鼻のつぶれた男は俺の前に立った。ボクサーくずれだろうか?体重も一〇〇キロは越えていそうだ。俺より十センチ高い位置から、しわがれた声で言った。
「おとなしく出ていかねえと、痛い目に遭う事になるぞ」
俺はニヤリと笑った。
俺の笑いに侮辱を感じた鼻のつぶれた大男は「この野郎」と言って俺に右ストレートをたたき込んで来た。俺はヘッドスリップして軽くその右をよけ、男の股間を思い切り蹴り上げた。悲鳴を上げて上体を屈めた大男を首相撲の格好にとり、アゴめがけて思い切りヒザ蹴りをたたき上げた。鼻のつぶれた大男はもんどりうって倒れた。続いて、こちらに怒声を上げてかかって来た太った男の顔面に右ヒジ打ちを食らわせて倒し、背後から襲ってきた若い男の腹に強烈な後ろ蹴りを見舞って倒した。続いて襲ってきた痩せ気味の男をアッパーカットで倒し、残りのガッシリした男のヒザに関節蹴りを食らわせて倒した。これら五人の男を倒すのに三十秒もかからなかった。
「おたくらの用心棒は、大した事ないな」
俺が向き直ると、陳院長が拳銃を持って唇を震わせていた。
「う、動くと殺すぞ」
陳院長はそう言って安全装置を外した。
「脅したって無駄だ。生憎、俺は銃口を眺めるのには、慣れてるんでね」
そう言いつつ、俺は緊張しながら背中のナップ・ザックから電子トンファーを取り出そうとした。
その直後だった。俺は後ろの首筋に鋭いチクリとする痛みを感じた。油断した!俺はその場にぶっ倒れた。俺の視界には、案内をしてくれた若い額の狭い不細工な看護婦が注射器を持って立っているのが目に入った。それが最後だった。俺は底の知れない暗闇に落ちて行った……。

俺は目を覚ました。初め何で自分がこんな所に居るのかわからなかった。
やがて机と椅子以外何も無い殺風景な薄暗い部屋に居る事がわかった。俺は固い床に両手を後ろに縛り上げられ、両足も縛られている事にも気が付いた。動こうとした。しかし身体には全く力が入らない。俺は弱り切ったエビの様に身体をやっと少し動かしただけだった。
部屋には、俺が院長室で倒した鼻のつぶれた大男と痩せ気味の男が二人居た。
「やっと目を覚ましたか、この野郎」
大男はそう言って、力一杯床に寝ている俺の腹を蹴り下ろした。俺はあまりの痛みにゲロを吐いた。
「汚えな、この野郎!」
大男はそう言って今度は顔に何発も足を蹴り下ろした。俺の顔はたちまち腫れ上がり、鼻血を出した。
「てめえの持ち物を調べたが、てめえがどこの人間かわかるもんは一つもありゃしねえ。てめえ、どこの人間だ?」
俺は答えなかった。
大男は再び俺の腹を三回蹴り下ろした。
「耳がねえのか、この野郎!!」
俺は口に残っていたゲロを吐き出しながら言った。
「悪いが、俺は鼻のつぶれた醜い奴とはしゃべらない事にしている」
「何だと、この野郎!!」
大男は顔を真っ赤にして怒り、傍にあった椅子を持ち上げ、椅子の固い脚を俺の鼻にたたきつけた。俺の鼻は鈍い音を立てた。ものすごい痛みに俺は縛り上げられた格好で床をのたうち回った。鼻骨が折れている様だった。
「これでてめえも鼻のつぶれた男だ。吐け!てめえはどこの差し金だ?警察か?それともどこかの組関係の者か?」
その時、大男を制する様に痩せ気味の男が出てきた。
「まあ王、そのぐらいにしておけ。この男はそういう方法じゃ口は割らん」
「しかし毛さん……」
毛と言われた痩せ気味の男は、先程俺がアッパーカットで倒した男だ。俺と同じ身長一八〇センチ位で、長髪に切れ長の吊り眼を備えていて、青白い顔をしていた。
「さっきおまえを失神させたのとは違って、こいつは非常に優れた自白剤を含んでいる。まあ楽にしろ」
そう言って痩せ気味の男はニヤリと笑って、注射器を俺の顔の前に近づけて見せ、俺の右前腕部の服の袖をたくし上げて、注射器を静かに刺した。再びチクリとした痛みを感じた。
「こいつは五時間もすれば、おまえの意志を奪う。いかにマーシャル・アーツで鍛えようともこいつの力には勝てんよ」
そう言って痩せ気味の男は、鼻のつぶれた大男を促して部屋から出て行った。部屋には固く錠がおろされる音がした。俺は薄暗い部屋に一人残された。
折られた鼻はすさまじい痛みを俺にもたらせていた。それに加え、激しく蹴られた胃と顔に強烈な痛みが残った。だが、どういう事だろう。痩せ気味の男に注射されてから時間が経つに連れ、俺は徐々に思考がまとまらなくなって来た。俺の身体は今や、力を入れてもピクリとも動かなかった。
しかし目は覚めていた。昔経験のある身体は眠っているが神経だけは冴えている〃金縛り〃の状態に近かった。それはどんな肉体的な苦痛よりも、辛い責め苦だった。責め苦に声を上げて暴れようとしても、声も出ないし暴れる事も出来ない。俺はこの拷問にもだえた。時間の流れが停止したかの様に、責め苦は止まなかった。この状態では、三歳児の言う事でも何でも聞いてしまうだろう。

どれくらい経ったのだろう。朦朧とした意識の中でドアから一人の看護婦が入って来た。その看護婦は巨大な三メートルくらいある注射器を俺に向かってさし出した。
やめてくれ、と叫ぼうとしたが声にならない。看護婦は全く慣れた手つきで俺の右腕に巨大な注射器を刺した。ものすごい刺激が走った。看護婦はさらに俺の口に薬らしき物を何粒か無理やり飲ませた。全く抵抗できなかった。
俺はこのまま発狂させられてしまうのだろうか?!ものすごい恐怖が俺を包んだ。
しかし俺の恐怖と逆に、心と身体は次第に楽になって来た。どういう事だろう?
俺は看護婦の顔を識別出来る様になって来た。髪を肩まで伸ばした黒縁の眼鏡を掛けたその看護婦はカリーナだった。カリーナ?カルト教団事件、政府の情報部員……。
「気が付いた?ハマオ」
カリーナはそう言った。注射器がやっと六センチ位のまともなサイズに見えて来た。
「どういう事だ?」
俺はやっと口を開ける様になっていた。
「今、自白剤を身体から消す注射を打ったわ。もうじきすれば普通の気分になるわよ」
カリーナの言う通りだった。俺の心身は徐々に回復して来た。回復して来ると同時に、鼻骨を折られた痛みも蘇って来た。カリーナは俺の顔についた血を布で拭き取り、俺の鼻に大きな絆創膏を貼った。さらに手足の縄をメスで切り取ってくれた。腕時計を見ると午後十時〇二分だった。
「もう大丈夫そうね?あなた、どうして広東クリニックに来たの?」
「いつもの探偵稼業だ。肝臓を売ったが金をもらえないカンボジア人のために金を取り立てに来た」
「つまらない事に命を張るわね。」
「これが俺の仕事だ。そっちは何でここに?」
「手短に言うわ。この広東クリニックはスネーク・ヘッドの物よ。カルト教団事件で麻薬の売買がしにくくなったスネーク・ヘッドが不正な臓器売買をして資金源にしてるわ」
またスネーク・ヘッドか。極東屈指の麻薬マフィア。リーダーは黄心揚……。
「今回はズバリ、行方をくらましている黄の逮捕のための潜入よ。そこでまたハマオの力を借りたいわ」
「冗談言うな。こんな状態の俺に何が出来る?」
「あなたは黄を良く知ってるわ。手伝ってくれれば今度は五十万ドル出すわ」
俺は口笛を吹いた。
「ほう。大きく出たな」
「そのぐらい価値のある任務よ」
「奴は何処にいる?」
「二ヵ月潜入してやっとつきとめたの。黄はHamatownの港の何処かの古い貨物船にいる。そして明日、私は臓器をその船まで持ち出す仕事をクリニックに言い渡されている」
「貨物船か。Hamatownには何百隻あるかわからんな」
「時間が無いの。引き受けてくれる?」
俺は考えた。これではカルト教団事件と同じだ。また危険な目に逢う。しかし俺は探偵だ。大金のためなら何でもするのが信条だ。それに俺を今日こんな目に逢わせた黄の野郎に仕返しもできる……。
「わかった。いつも君のペースに乗せられるのが少し悔しいが、やるよ」
俺は立ち上がった。まだ身体が少しフラフラするが、気分はすっかり回復していた。
「そうこなくちゃ。じゃ早速、これを羽織って」
カリーナは畳んだ医師の白い服を差し出した。
俺は革のブルゾンの上から羽織った。そして机の上にある電子トンファーの入った俺のナップ・ザックを取った。
「ついて来て」
二人はドアから外の廊下に出た。左に進み外に通じているドアを開けた。そこから外に出ると思っていたら、カリーナが目配せして俺を制し、元の方向へ俺を導いた。
どうやら、クリニックの人間に俺がここから脱走したと思わせるためらしかった。二人は静かに廊下を歩いて行った。途中にすれ違う者は幸い居なかった。だが一つの部屋を通った時、俺を拷問した鼻のつぶれた大男が出てきた。初めは気が付かなかった様だが、暫くして俺の顔に気が付いた。
「貴様!」と鼻のつぶれた男が声を発するや否や、カリーナは懐から小型のアロー・ガンを取り出し、男の心臓に撃ち込んだ。男は悶絶の声を上げる前に即死した。
続いて部屋に飛び込んだカリーナは、麻雀をしていた残りの四人の用心棒たちを瞬く間に射殺した。
俺に注射した痩せ気味の男もその中に居た。どうやら発射された矢に特殊な猛毒が塗られていた様だった。四人とも全く声を上げずに死んでいった。
「行きましょ」
カリーナは表情一つ変えずに先へ進んで、部屋を後にした。慌てて俺もついて行ったが、改めて顔は美しいがやる事はやるカリーナの凄味を感じていた。

(つづく)

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