フォーレ:前奏曲集 Op.103

作成日:1998-10-29
最終更新日:

1. フォーレの前奏曲集

フォーレの名前を知っている人で、彼の夜想曲舟歌は知っていても、 「前奏曲」を知らない人は多いのではないだろうか。私も昔そうだった。

ピアノの前奏曲といえば、たいていの作曲家が書いている。 ショパンの24の前奏曲はあまりにも有名である。 またドビュッシーラフマニノフ、 スクリャービン、ショスタコーヴィチ、メシアンにもある。 その中で、フォーレの前奏曲はこれら有名な作品に埋もれてしまっている。 作品 103、全 9 曲の豊かな宇宙を一度聞いてみると面白い。

2. 全9曲の解説

第1曲 変ニ長調

落ち着いた歩みで森をさまようかごとく進む楽章は、 フォーレ自身の手探りが伝わってくるかのようだ。 ある方の発見によれば、導入は彼の夜想曲第6番と似ているという。 なるほど、そうだなあ。

ショパンと同じく、フォーレはピアノ作品にはフラットの多い調性を好んで選んでいる。 その中でも、変ニ長調は彼の好みだったのではないか。 夜想曲は第6番のほか第8番 (=小品集の第8番)がある。 その他のピアノ作品として、 舟歌は第8番、 即興曲は第4番、第6番、 ヴァルス・カプリス第2番が該当する。 すなわち、夜想曲、舟歌、即興曲、ヴァルス・カプリス、小品集、前奏曲集という、 ほとんどすべてのジャンルにわたって変ニ長調が用いられている。その嗜好ぶりを物語るものだろう。

ついでにいえば、変イ長調も多い。前奏曲集には出ないが、 無言歌第1番、第3番、 夜想曲第4番、即興曲第3番、ヴァルス・カプリス第4番、小品集第2番がそうである。

変ニ長調について話を戻すと、この曲では主調への固執は感じられない。 たまたま手の置きやすい形に曲を作っていった、という感じである。 リズムは、夜想曲第6番のような拍頭に低音がある様式からは離れている。 むしろ、小品集第2番の、左手が後打ちになっているリズムを経て、 この形に達したのだろう。 もちろん、歌曲「 沈黙の贈り物」 の流れにもつながる。(2004-01-17)。

第2曲嬰ハ短調

フォーレには珍しい5/4拍子である。 5/4 拍子に聞こえる部分は、 ヴァイオリンソナタ第1番第3楽章にあったが、 全曲を通してはないだろう。そして、つむじ風のような3連符は、 組曲「ペレアスとメリザンド」の「糸を紡ぐ女」の伴奏部分を思わせるが、 この曲には旋律がなく、絶えず細かく動く部分と拍を打つ和音だけから成り立っている。 思うに、「糸を紡ぐ女」と異なり旋律部分を省いた結果、駆動力がなくなってしまうことに気付いた作曲者は、 めったに使わない5/4拍子という癖のあるリズムで、旋律部分に変わる駆動力を得ようとしたのではないか。 最後は落ち着いて終わるのだが、その理由は力を駆使するのに疲れた作曲者自身への慰めではないか。 私にはそのように聞こえる。

第3曲ト短調

フェルマータの多い、ため息をつくようなさまはテンポ・ルバートが似合う曲である。 ショパンの雰囲気に近い、という人もいる。 私にはむしろ、プーランクの世界が垣間見える。 フォーレにはあまり見かけないタイプの曲である。 「小品集」の第5曲「即興」が雰囲気が似ている。

第4曲 ヘ長調

やっと肩の力を抜いた小品となる。一部の旋律とメロディーが 彼の管弦楽組曲「 マスクとベルガマスク 」のメヌエットに転用されている。

第5曲 ニ短調

荒々しい力が3連符の断続的な挿入によって伝えられる。 ぎくしゃくした感じはブラームスを連想させるが、 それでもブラームスよりスマートであり、 フォーレのチェロ・ソナタ第1番に通底した感覚がある。 しかし、ピアノ曲ではなぜか、力を入れた曲であっても終結部は音が少なく、小さくなって終わる。 舟歌第11番がよい例である。また、舟歌第5番も似ている。 ここでも妙にアルカイックな雰囲気になって終わる。

第6曲 変ホ短調

3声の厳格なカノン。リズムの変化はごく少ない。調と雰囲気から、 バッハの平均率第1集変ホ短調のフーガが思い浮かぶ。一方で、カノンの厳格さは、 同じくバッハのゴールトベルク変奏曲や、14のフーガ(BWV 1087)と似ている。 ソプラノとバスの平行カノンという制約条件の中で、 フォーレは遊べるアルトを作ることに楽しみを見出していたに違いない。 アメリカの作曲家、コープランドが称賛した曲でもある。

第7曲 イ長調

調号はシャープ4つであり、出だしは短調なので嬰ハ短調というべきなのだろうが、 嬰ハ短調の主和音が出てくるところがごく少なく、終結がイ長調なので、とりあえずイ長調と書いておく。 この作品もフォーレの転調技法の一つの極みであろう。 リズムはどこか ヴァイオリンソナタ第2番の第2楽章中間部や、第3楽章展開部を思わせる。 半音階の競り上がり、全音階の下降音型など、彼の得意技がそれとなく散りばめられていて、 密度が高い。 私はこの作品を高く買っている。

第8曲 ハ短調

軽やかだが憂いを含んだ3拍子の小品。 連続打音がどことなくファゴットのタンギングのようだ。 全体を通して、木管五重奏曲にふさわしい作りをしている。

第9曲ホ短調

オルガンコラールのような厳格な3声の作品。 冒頭の音型は、レクイエムの第2曲「奉献頌」に似ている。 息を長く保ちたいのだが、 ピアノの域を超えている。 ここまでくるとフォーレも年なのかと正直思ってしまうが、 このような渋い作品にもまだまだ研究の余地がある。 夜想曲第13番や、 五重奏曲第2番第3楽章の冒頭のように、 いつ爆発してもおかしくない、秘めた力を持っているのではないかと思った。

それを裏付ける出来事があった。 ブルックナーの交響曲第7番の緩徐楽章を聴いていると、 ある部分でブルックナーが付点音符に込めた力が、 フォーレのこの曲と非常に似ていることに気がついた。

3. 演奏について

前奏曲集では、フォーレの後期にみられる様式の共通性と、 一つ一つの曲が発する特徴をどのようにさばくかで、ピアニストの音楽の作り方が問われる。 その気になると、聴く側も緊張が強いられる。

ジャン・ドワイヤン

ジャン・ドワイヤンの演奏を聴いてみる。第1番はリズムの正確性に難があるが、雰囲気はいい。 第2番は、ピエール・アラン=ヴォロンダとは対極のつかみ方をしている。 決して速くなく、全体を聞かせようとしている。どちらのつかみ方もありだと思う。 私はドワイヤンの弾くほうが好きだ。 その他の曲についていえば、第5番は重さがまとわりつくし、第7番もあまりはまらない。 しかし、第6番、第8番で聴こえる歩みは曲の特性を余すことなく表現している。

ロベール・カサドシュ

ロベール・カサドシュは抜粋で第1番、第3番、第5番の3曲を録音している。 第1番の冒頭部と再現部は思ったより律儀で、 硬質である。中間分は曲想に応じてリズムが揺れるものの芯がある。 これはとりもなおさず、曲に書いてある通りの魅力が発揮されているということだ。 第3番でもインテンポを通している。むしろあっけなさを感じるほどだが、 これがかえって曲への興味をそそられるきっかけとなるようだ。 第5番では 2:3 のリズムが頻出するので、ペダリングなどで下手をするとうるさいだけで終わってしまう。 しかし、カサドシュは見事に制御している。一回だけわずかの間の「溜め」が聞こえ、 思わず息を飲む。

エリック・ハイドシェック

起伏の大きい、というより激しい演奏である。第6番のように厳格なカノンは厳格に弾いているが、 他の曲では指の赴くままに弾いている。すぐには好きにはなれない。(2009-07-11)

ポール・クロスリー

ハイドシェックほどではないが、かなりテンポは自由に揺れ動く。 クロスリーは第 6 番でもかなりテンポを揺らしているのがハイドシェックとは異なる。 曲によって、あるいは聞くときによって、テンポの揺らしに共感できるか否となるかが分かれる、 際どい演奏だ。 なお、第 7 番の演奏は、少し楽譜との乖離がある。

ジャン・ユボー

テンポの揺れはなく、比較的早めに、淡々としている。それでも、第3番の雰囲気はよく出ている。 第5番のリズムの作り方は崩れてしまっているのが残念だが、私としてはこのユボーの演奏が合う。 しかし、コラールに比べると、技術として一歩劣る。

ジャン=フィリップ・コラール

全曲を通して、個々の曲の特徴を最も捉えている。

ピエール=アラン・ヴォロンダ

解釈が極端かつ奇矯である。第2番は、均等になるべき3連符が、リズムとアクセントのいずれも不均等なため、 不安が募る。薦められない。

ジャン・マルタン

第3曲と第9曲のみの録音。おとなしめの演奏である。

キャスリン・ストット

第1番と第7番を聴いたのみであるが、リズムは一定で、ゆったりとした中に、 表情がうまくつけられている。

そのほか、筆者未聴の音源は次の通り。

4. 個人的体験

これから語る話は本当に極私的なことである。以下お読みになりたくない方がいると思います。 そのような方は今からでも遅くはありませんので、他のページをごらんください。


これはつれあいの話である。

つれあいがフォーレの前奏曲集から第7曲から第9曲を選んで弾いたことがある。 そのときのアンケートに「もっと曲を選んで弾いたらどうか」というのがあったそうだ。

もし、フォーレの前奏曲集が演奏会に取り上げられるべきではない駄曲である、 という意味ならばこれは全くもってけしからぬ話である。 そのころ(1986年ころ)はフォーレの曲を取り上げるのでさえまれであり、 まして前奏曲集という、彼の最良の部分の上澄みをすくいとってさらに不純物を濾したあとの 液体のような作品を弾く人などめったにいなかった。それを上記の意味で曲を選べというならば、 フォーレの音楽、ひいては古典音楽をばかにするにもほどがある、と今書きながら怒っている。

他の意味ならばもう少し書きようもあったのにと想像するが、もう十年以上前の話である。 今更怒りまくるのも大人げない。

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MARUYAMA Satosi