フォーレ:夜想曲(ノクチュルヌ、ノクターン) | 作成日:1999-03-07 最終更新日: |
夜想曲といえば、イギリスの作曲家フィールドが創始者であることや、 ショパンが完成させたということは御存じの方も多いだろう。 ショパンの後の夜想曲となると多くの人が作っている。 フランスではドビュッシーとかサティのものがある。 その中でフォーレが作った夜想曲は13にものぼる。 そのうちの一つは小品集(ピエス・ブレヴス)の中にあり、 もともとは夜想曲ではなかった。だから12ということもできる。 ただ、楽譜出版社の意向でこの名前をつけられてからは夜想曲の系列に入ることとなっている。 また、フォーレも夜想曲を全 13 曲としてまとめたいという意向を示していた。 世の中のレコード(CD)もそれに従っているし、 楽譜もペーテルス版(ペータース版)、春秋社版など全 13 曲として入手できる版が多くなった。
フォーレの夜想曲は舟歌と同じく 13 曲もあるので、 どのあたりをとればよいのか分かれるところである。 なかでは、第 6 番、第 7 番、第 13 番が傑作といわれることが多い。
夜想曲第 6 番はフォーレの円熟期の作品であり、落ち着いた表情、構成のうまさ、転調の豊かさなど、 代表作と呼ばれるのも当然である。リサイタルやレコードで単独に演奏されるフォーレの曲は断然、この曲が多い。
一方、第7番はめったに演奏されない。舟歌第5番の項で述べたことがここでもあてはまる。 正直いって第6番ほどの豊かさは第7番にはわたしも感じられない。開始のリズムが重いし、 少し繰り返しが多いのであまり評判が得られない曲だろう。しかし、コーダはすばらしい。 このコーダのためにわざと重い表現をとったのではないだろうかと邪推してしまうほどだ。 この関係ははるかに遠いところで主題と変奏に繋がっている。
第 13 番も傑作である。古典的な三部形式だが、内容は深い。 バッハの対位法を思わせる禁欲的な提示部と、 幅広いアルペジオがうねるピアニスティックな中間部の対比が鮮やかで、 とてもフォーレ最後のピアノ曲とは思えないほどだ。 フォーレをめったに弾かないホロヴィッツが弾いていることでも有名だ。 ホロヴィッツが録音しているフォーレの曲は、 これと即興曲第5番だけである。
最初の夜想曲は、おとなしく、重めである。A-B-A の三部形式である。 フォーレの多数の作品と同じく、すぐにメロディーが奏される。序奏はない。 メロディーを支える伴奏は 3 声体で、すべて 1 拍を 2 回同じ音で刻む。 禁欲的な書法である。
中間部である B 部は A 部と同じ変ホ短調である。 三部形式の A と B とが同じ調性であることは珍しい。 2 小節の間奏に続き、「ミラシド」で始まる大きな流れの嘆きを歌い上げる。 このあと、付点音符による慰めの旋律がリズムを代えて絡まりながら、 クライマックスに向かう。ナポリの六度による印象的な転換から、 変ロ連打音上で浮遊する細かな音階が奏されて中間部が終わり、再現部に移行する。
再現部ではメロディーのテンポは変わらないものの、伴奏の刻みが 2 倍早くなり、 それだけ細かな和声の移ろいによって装飾されている。 コードは刻みが途絶え、詠嘆の節が浮かび上がる。
無言歌以来の久しぶりのピアノソロ作品だから、 かなり気負っていたのだろう。そんな思いを汲み取ってはみるものの、 私としては軽く聞きたいのだ。
私が持っている春秋社版フォーレ全集1には誤植がある。11ページ 109 小節左手低音部は F でなく F♭である。 IMSLP に載っている版(アメル版と思われる)は正しい。この珍しい現象は、 IMSLP 版の低音部側が3声あるのに対し、春秋社版はそのうちの1声を右手に移したために生じたと考えられる。 (この項、2015-04-25)。
春秋社版
IMSLP 版
三部形式のこの曲は、再現部に Tempo I. の指示がある。ということは、どこかでテンポが変わっているはずだが、 IMSLP 版、春秋社版ともにテンポの変わり目の記載がない。 常識的には、中間部でテンポが速めに取られると思われる。MUSICA BUDAPEST 版のフォーレアルバムでは、中間部(21小節)に un poco più mosso ma no tanto の指示があるので、これに従うとよいと思う。
ロ長調という輝かしい調ゆえだろうか、中間部はダイナミックに展開する。 腕の立つ人にお勧めする。
あまり印象にない曲になってしまっている。少し恥じらいを含ませて弾くと さまになるかもしれない。
甘いフォーレの系列、たとえば「バラード」とか、「ヴァイオリンソナタ第1番」の延長上にある作品。 わたしがかわいがっていた M 少年が弾きたいといって自分で選んだ曲でもある。 ところで、この曲には一小節特異な個所がある。 右手では二連符と三連符を同時に、左手では四連符を弾かなければならないところだ。 この甘い曲にこっそりと難しい箇所を割り込ませるとは、フォーレもいけずな奴である。 中間部の終わりではほんの少し「 バラード」の回想が聞ける。
第 6 番への橋渡しとなる野心的な作品。中間部では左と右にわたる幅広いアルペジオが展開され、 クライマックスへと導いていく。 この中間部で、左手から右手に渡される上昇するアルペジオと音階は、 右手から左手で渡される、オクターブで補強されたメロディーと拮抗し、効果を上げている。 この手法は舟歌第3番で開発され、この曲で力強さと華やかさが与えられた後、 最後の夜想曲第13番でクライマックスを形作っている。 フォーレは、長い間じっくりと、手法を磨き上げていたのだ。(2004-09-17)
フォーレのなかではなじみやすく、美しい。最近取り上げられることが多くなった。 私も弾く機会が多い。いつも困るのが104 小節、105小節の第1、2拍で左手が奏する音階。 必ずどこかでミスする。アマチュアの演奏でも結構ここでとちっていることが多い。 特にむずかしくはないのだが、1拍と2拍の間でフォーレらしい転調が起っているので、 手がそれについていけないのではないかと思っている。
あるとき、とある会場でこの曲をひくことになって、 春秋社版の譜読みをしていた (私の最初の譜読みは18歳のころ、インターナショナル版であったが、 この版はもう手許になかった)。 すると、左手のアルペジオで一ケ所おかしいところがあったので、 これは音楽上こうでなければならないとして直して弾いていた。 あるとき、私がこの曲を弾くということを私淑するKさんに伝えた。 するとKさんは聞きについていくというのである。 場所は千葉ニュータウンのほうである。 二人は電車に乗った。 私は行きの電車の中で問題の春秋社の箇所を指摘した。 するとKさんも同じ楽譜をもっていてどれどれとあけてみた。 なんと、Kさんのほうの 例の箇所は私の想定の通りに直っていた。 Kさんの持っていた版の「刷」が多少後だったからだろう。
開始の 18/8 拍子の取り扱い方、 中間で和声の不安定さをわざと楽しんでいるかのようなアルペジオの演奏の仕方、 音の少ないクライマックスの盛り上げ方、 最後の音階の収束のさせ方など、ピアニストにとっては難儀な曲だ。
ヴュイエルモーズによれば、「舟歌」にもなりうる曲だそうだ。 夜想曲であることを意識せずに弾けばいいだろう。
夜想曲の 9 番と 10 番は正直いって私にはどうあつかってよいかわからない。 フォーレのピアノ独奏曲は、フォーレの歌曲の伴奏だけを聞いているようでつまらない、という 意見を聞いたことがある。この 2 曲はまさにそんな感を起こさせる。 またこの 2 曲は、徹底して伴奏があと打ちである。力の入れ加減に難渋する。 第 9 番は、第 10 番にくらべ、メロディーの息が短い。 単にメロディーを歌わせるだけでは音楽にならない。
第 9 番に比べメロディーの息が長く、破調の頻度が高い。 一貫したテンションを保ち続けられるかが勝負となるだろう。 気分は、フォーレの三重奏曲の第2楽章に近い。

久しぶりに弾いてみて、譜面の疑義が生じた。37小節、2拍裏の右手和音で、G になっているが、
これは # がついた Gis ではないだろうか。
36 小節は同様の場所で G であり、コードは E♭7 である。和声的な階段であることを考えれば 37 小節は E7 になるはずだ。
上の楽譜は最初に出版された Heugel のものであるが、春秋社版(1986/04/25 第1刷)でも同様である。他の版、
たとえば 全音、音楽之友、ペータース (Peters) などでどうなっているかは知らない。
G で弾かれている演奏を聴いたが、次へ向かう力強さに欠ける。
ここは和声的な階段で和声の「しりとり」をしているように聞こえるところで、
次の G# minor に向かうためにも Gis でないといけないだろう。
以上の点は私が練習して発見したのだが、実はピアニストの藤井一興氏がすでに指摘されている。日本フォーレ協会(編)フォーレ頌-不滅の香り(音楽之友社)のp.63 にある。 藤井氏は最終的にGかGisのどちらをとるかはピアニストの判断にゆだねたいと思う、としている。 (2011-01-09)
夜想曲の中で最もとっつきにくい曲である。開始部、表情は穏やかでいながら、 後打で続く持続音が一見さんお断りという雰囲気を作ってしまう。 それからの展開における転調がついていけない。大変な曲である。
さて、掲示板でこの曲が話題にのぼっていたので、つい弾いてみたくなった。 そうすると、いきなりいろいろ悩む。まず嬰ヘ短調という調性をなぜ選んだのか、 フォーレに尋ねてみたくなる。 この嬰ヘ短調という調性をもつフォーレの曲は、 他には舟歌第 5 番と即興曲第 5 番しかない。 舟歌第 5 番の力強い動きや即興曲第 5 番の軽やかな動きと比べると、 こちらの夜想曲は静かもいいところだ。 調性が曲の性質を決定しているのではないことがわかる。
曲の構成は、A - B - A' - B' のように聞こえる。B も A の変形と捉えられるから、 一種の変奏曲とみてもいい。A の部分は次のように静かに始まる。
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構成Aの部分は、左手の属音 Cis の持続に特徴がある。 一方右手のメロディーは、拍の頭の A と 2 拍め裏拍の Gis がある構成であり、 最初の3小節とも同型である。4小節めの2拍め裏拍で、E の音が導入される。 この音がその後の和声の流れを決めている。というのは、 嬰ヘ短調の和声的音階、あるいは旋律的上行音階では E の音は使われないからだ。 そのため、伝統的和声法からみると、 E の音が導入されたことで非常に緊張感(テンション)が高まるようだ。
さて、この4小節めでE の音がわずかに投げ込まれてFisに続き、 5小節の1拍めと2拍めと合わせられて E - Fis - G - Fis の音型が提示される。 この小さなターンも以降頻繁に登場し、組み合わされる。
構成 B の部分では、左手は A とは対照的に動きが見られる。 この左手の動きでは小節の頭の音はほとんど叩かれているので、 A に見られる不安感は少ない。 一方右手は 構成 A と同様に、拍の頭の A と 2 拍め裏拍の Gis がある構成が最初の4小節のうち、 3小節を占めている。
構成 B' では、 「主題と変奏」の第11変奏のリフレインが聞こえる。
楽譜をにらみながら演奏を聞いてみる。ドワイヤンは、音の質は好ましい。 しかし、少し間延びしているように聞こえる。それに、65 小節第1拍、 Cis であるべき右と左をどちらも C (natural)に誤って弾いている。 しかし、私も最初 C で弾いていた。自分が誤っていたからいうのではないが、 第1拍で Cis を弾くのは勇気がいる。なぜだろうか。C は Aug だからしゃれて聞こえるからか。
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ユボーは、ドワイヤンに比べると少しキンキンする。 彼の過ちは、15小節の第3拍めの右手のリズムにある。ここは、楽譜には、 8分音符+16音符+16音符である。しかし彼は4分音符を3等分した三連符として弾いている。 それでは、次の16小節のこの曲中唯一の三連符が出てくる下降音型が生きない。 なお、この16小節の右手は、上が三連符を、下が二連符をひかなければならない。 高い指の独立性が求められる。この究極の姿が、ラヴェルの「クープランの墓」にある 「フーガ」であろう。
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フォーレのなかでは異色の作品といえる。 フォーレの曲は転調にしてもリズムにしても時間とともに微妙にずれていくのだが、 この曲はすべてが突然に進む。最初、ホ長調で始まる分散和音がいきなりホ短調に変わる。 また三連音で進む音型がいきなり四連音になってしまう。 中間部に入ると六連音のなだらかなフォーレらしい曲調になるものの、 その中でいきなり最初の分散和音が2小節だけ割り込まれる。コーダではテンポも上昇し、 楽譜にははっきり書かれていないがsubitoの(突然の)フォルテが登場するという始末。 フォーレの作品のなかでここまで断層が露になるのは珍しい。
半音(短2度)の取扱いも特徴がある。先に述べた、長調と短調の区別だけではなく、 経過句の上昇、下降、 コーダにおける最低音での衝突など、平均率の可能性をこのような形でも汲み取れるのだ。
この曲は 1982 年から折に触れて練習してきている。 しかし、未だに満足できない。 中間部が終わる前の右手の上昇する音階を未だに間違えてしまうからだ。 微妙に半音階がまじっていて取りにくいことこの上ない。 わたしは素人だからこれでいいと思っている。
と書いただけでもう4年以上も放置しておいた。 この曲はフォーレの最高傑作であり、 何も書くことがないと思っていたからだ。ところが、 「超絶技巧的ピアノ編曲の世界」を開拓してこられたことで有名な夏井さんが、 『 フォーレ 夜想曲第13番 』(www.wound-treatment.jp)というすばらしい賛辞を送っていたのを知った。 今さらながら知った、というのが恥ずかしい。
夏井さんが「超絶技巧的ピアノ編曲の世界」の開拓・ 維持を中断されたのは残念だ。 そして、その影響を受けたのか、上記の賛辞のページで、 楽譜が見えなくなってしまった。 見えなくなった楽譜を惜しんでも仕方がないので、 夏井さんのページにあった楽譜を想定して起こした。
その後、夏井さんが新たなドメインを取得し、リンク切れも解消された (上記ページは、楽譜が見える)。ということで、 私の解説は全く意味がなくなってしまった。 すなわち、解説は夏井さんのページで尽されている。 しかし、ここまで書いてしまったのでそのまま拙文を残しておく。
楽譜入りで曲を追ってみよう。 3部形式であるが、再現部の変容が大きいことを初めに申し添えておく。
まず、下は本作品の冒頭8小節である(A1)。ピアノを聞いても美しいが、 下の譜面を見ても美しいと感じないだろうか。 3オクターブに満たない音域の中で、 4声の旋律が、絶妙な掛留音を伴って緩やかに流れる。
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しばらく4声の流れが続いた後で、 右手が古代旋法を思わせるメロディーを歌い、左手が活気づく(A2)。 左手は、例によって拍の頭が休符である。そのため、 弾く側としては、つんのめりぎみにならないように注意しなければならない。
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この後すぐに、付点のリズムからなるメロディーが登場する(A3)。 このメロディーは大活躍する。
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A3 の後で、より幅広く和声も装いを新たにしたA2が登場する。
その後一旦静まり、
A3 の断片が左手のみ、次に左と右のオクターブ、
そして左と右合わせて2オクターブのユニゾンまで高まり、 緊張を迎える。
再度A1が再現するが、テナー声部のみがシンコペーションで動き、不安感は増す。
この不安が収束したあと、A3による断片が組み合わされ、前半が終結する。
前半の終結から中間部の入りは、蓄えていた力が爆発するかのようだ。
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この55小節からのメロディー(B1)は、さほど特徴のあるものではない。しかし、 よく観察すれば、A1とかなり似ていることに気付かないだろうか。 左手の推進力の制御によって、冷静さも、情熱も表現できるとは。
Allegro に突入する左手も、ありきたりの分散和音のようでいて、 そうではない。 Gis-Dis-Dis-Gis-Dis-Dis-H-Dis...の音型からわかることは、 調性を決定する音 H を最後に出していること、 そしてDisとGisを同音連打させていることである。 これはどちらも、 ピアノ五重奏曲第2番第1楽章で用いた左手伴奏音型の名残りであろう。 五重奏曲は主音の C を連打する趣向だったが、 この夜想曲ではまず主音の Gis を連打し、 さらに属音の Dis も連打するところが違う。 このように調性決定音をぼかすことで調性からの縛りを少なくし、 自由な飛翔を可能にしている。 このような、ささやかではあるが効果的なフォーレの工夫を知り、 驚いてしまう。
もう一つ、私がひっかかった点を明かそう。 このB1は、55小節めからの4小節すべてを跨いで、 スラーがかけられている。私はこのスラーを見落としていた。 自分が弾く時には、 3小節の単位で構成してしまっていた。なぜか。 58小節めが55小節めと酷似していたからである。 つまり、58小節が55小節と似ているなら、58小節は新たな動機の先頭であり、 55小節からの動機の末尾ではないと勝手に解釈してしまっていたのだ。 それに、ここには掲載していない59小節は、 テンションノートが多くあり、 不安定である。 だから、動機の先頭にはなり得ないという思い込みもあった。この見直しから、 フォーレの動機の作曲法に畏怖を覚えた。
ここからずっとフォルテで力強く推移するが、 しばらくしてA3のメロディーが高音部と低音部でこだまのように歌われる。 個々の歌は短いがこだまの回数は長い。 このこだま(エコー)を、フォーレは初期の曲からよく使っている。 この夜想曲においては、 こだまの効果を短い時間でよりよく演出することに成功している。
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その後、B1がフォルテでしばし再現されるが、再度ピアノで歌われる。 右手はB1とA3を独立して歌う。この100小節めから105小節めまで、 2小節ごとで短3度の「 和声的な階段」を作っている。この手法も、 舟歌ほかで何度も確かめられたフォーレの強力な手法である。
左手は100小節、102小節でそれぞれFis、Aを連打している。これは、 メロディーのD, Fisにそれぞれ6度の関係で対応するものであり、 後の盛り上がりの伏線となっている。
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この和声的階段で増した力は、106小節で頂点に達する。 冒頭主題A1が高らかに鳴り渡り、うねりを巻き起こす。 ここでは、3小節ごとの和声的階段が用いられている。
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さらに、A1とA3との絡み合いが続くが、最後に6度の上昇音階で解放される。
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100小節で、FisやAの同音連打でメロディーとの6度を強調したのは、 きっとこの6度の上昇音階をより効果的にするはたらきがあったのだろう。
再現部はA1はほぼその通りなぞられる。ただし、A2は再現しない。 A3は、形を変えてため息のようにあらわれ、終結の雰囲気を作る。 (2003-05-13)
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ジャン・ユボーのはあっさり目の味付けで、 何度も聞きながら滋味を感じられる演奏である。
ジャン・フィリップ=コラールの演奏は華麗で聞き所も多いのだが、 譜読みで致命的な(少なくとも私にはそのように思える)誤りを犯しているところがある。
例えば第7番では、32 小節と33 小節の第1拍で、 楽譜には嬰記号が付点2分音符のHにかけてあるので、8分音符は A のままであり、 和音は His と A の短三度になる。 ところがコラールは嬰記号を8分音符の A にかけて読んだため、 付点2分音符が H のままで8分音符の Ais となり、短二度となってしまう。 ここではこの短二度の厳しい響きは適当とは感じられない。 また、前の 31 小節から半音階でオクターブが上昇進行しているので、 その流れからいっても、H に嬰記号がかかっているべきである。 同様の動きがくり返される 108、109 小節にもいえる。
もう一つ、第 13 番で 52 小節の左手、第 2 拍と第 4 拍の裏の8分音符はGでなければならないが、 コラールは Gis で弾いている。これも私には適切とは思えない。 次の 53 小節に突入する準備として、嬰ト短調の嬰ト(Gis)の音は事前には隠しておくべきだろう。 そうであればこそ、フォーレが 53 小節の左手のGisにアクセントを置いたのだ。
今まで理屈っぽいことをいってきた。もう一つ注文をつけるとすれば、リズムが甘くなるところだろうか。 ただ、このリズムの甘さはコラールの長所と裏返しの関係にあるのかもしれない。 変な言い方だが、テンポの揺れ動きに私は情念を感じる。第 13 番を例にとると、 リズムの甘さは最初の3拍子の刻みに出るが、情念は中間部の3連符の揺り動かし方にあらわれる。 フォーレの曲はインテンポで弾くべしという誰からかのいいつけを私はかなり信じているが、 信じていない部分もまた面白いのだ、ということをコラールの演奏を聞く度に思う。
ジャン・マルタンのは少し遅めで鋭さに欠けるが、暖かみを感じるので、最近はよく聞いている。
藤井一興のはテンポ感、デュナーミクともに絶妙で(私が内面でもっているテンポ感と合うということ)、 最高の版である。 値段が高いのが残念。
ジャン=ポール・セヴィラの演奏も、ジャン・マルタンのものと同様、遅めである。 音の濁りはなく、明晰である。 遅い部分では必要以上の溜めが気になるが、これは歌で必要な呼吸と思えば許容できる。 だが、第3番、第4番で頻繁に出てくる3:2のリズムが、私には不自然に聞こえる。 藤井一興氏の論文(日本フォーレ協会編「フォーレ頌」所収)で、アンリエット・ ピュイグ=ロジェ先生の「フォーレ独特の(3:2の)リズムが、 日本人に教えるのが非常にむづかしくて、なぜ三連音符が弾けないのかわからないと、 再三再四もらしておられた」という忠告が紹介されている。それからすると、 日本人であるわたしの耳がおかしい公算が大きいのだが。
キャスリン・ストットは、結構肉厚な音を出す。しかし、あまりしつこくない。 さほどテンポは揺らさないが、たたみかけが必要となったときはかなり速くするので豪快に聞こえる。 ダイナミックさを強調して聴かせるタイプと見た。 必要以上に遅くなるところがないので私の好みである。
ジャン・ドワイヤンの全集を久しぶりに聴いてみた。なにより落ち着いている。 またテンポの取り方も中庸を心得ている。第 12 番が比較的遅いテンポで始まるぐらいである。 余分な装飾はほとんどなく、フォーレの音楽を書かれてある通り知るのにはいいと思う。 技術では今日出ている盤に比べわずかに劣るが、決してキズではない。
全集ではないが、ロベール・カサドシュの演奏で第7番を聴いた。この曲は、 単独の曲としてはバラードや「主題と変奏」の次に長い。さらに曲想が地味であることも重なって、 重く扱われがちである。しかし、カサドシュはインテンポを守って軽く弾いていく。 その典型は一度 Cis の和音で終止する個所はすべて切っている、という解釈である。 中間部の Allegro も歌うよりも、流してさばく感じで、まったく溜めや淀みを作らない。 リストの練習曲を扱う手付きといえばいいのだろうか。なるほどいろいろな解釈があるのだと 感心した。さりとて、最後の変ニ長調の音階上昇部分は決して速くない。 少なくとも急いではいない。通して聴くと、骨格が露になる演奏といえるだろう。
第6番を聴いた。溜めは中程度だろうか。嬰ハ短調からの歌わせ方、 第3部のアルペジオの軽さは美しい。(2009-06-21)
Germaine Thyssens-Valentin、この人は、うまいのか下手なのか、よくわからない。 夜想曲集全13曲を聴いた印象では(録音は古く、 音のひずみが大きい)、部分的には絶妙な歌いまわしと、全体的なリズムキープの弱さとが不釣合いであった。 普段聴く演奏に薦めない。しかし、ふだん聴くフォーレに飽きてきたときには、 回復の一助となるようなヒントがあちこちに隠れている。(2005-02-27)
他に、筆者未聴の次の音盤がある。
抜粋では次の演奏がある。
なお、以前はルフェブールには全曲演奏の録音があるように書いたが、 これは誤りであった。お詫びします。
藤井一興がフォーレの夜想曲を全曲披露するというので聴きにいった。 埼玉くんだりでよく興業が成り立つなあと思っていたら、 客席はそこそこ入っていた。第1番から第6番までが前半、第7番から第13番までが後半だった。
前半は完璧に近い演奏だった。音色、特に弱音の制御が行き届いていた。 また、いやらしいルバートは全くなかった。 自身がフォーレの孫弟子であることを自慢しているだけのことはある。 後半は少し乱れたように思う。第7番のいくつかの個所で小ミスが出たためか、 第9番からは楽譜を見ながら弾いていた。特にそれがために集中力がなくなったとは思わないが、 わずかに残念な気がした。第11番は非常に緊張感のあるすばらしい演奏だったが、第12番は まとめがいささか雑であった。第13番はさすがだった。
アンコールは3曲。いずれもフォーレの世界では表現し得ない技術や領域をここぞとばかり出していた。 ドビュッシーの「月の光」と「花火」、ラヴェルの「水の戯れ」。
演奏とは関係ないが、マルタンのCDの第1集で、帯にあった「オフコースの甘さ」という売り文句は これは違うと俺は思うぞ。 第2集では「一転して渋くなります」だけれど、後期は渋いだけではないぞ。
これまた演奏とは関係ないが、「エドシーク」という表記でメールをいただいた。 最近は「ハイドシェック」と呼ぶのがふつうではないか、ということである。 気になるので調べてみたら、彼はフランス生まれだが父はドイツ人であること、 ドイツの血を誇りに思っていて、「ハイドシェック」と呼ばれることを好む、ということだった。 そういえば、彼が日本に来て弾く曲はベートーヴェンがほとんどで、 フランス系の曲は弾いていなかった。 それゆえ、もう彼は「ハイドシェック」と呼ぶほうがいいだろう。