夜想曲といえば、イギリスの作曲家フィールドが創始者であることや、 ショパンが完成させたということは御存じの方も多いだろう。 ショパンの後の夜想曲となると多くの人が作っている。 フランスではドビュッシーとかサティのものがある。 その中でフォーレが作った夜想曲は13にものぼる。 そのうちの一つは小品集(ピエス・ブレヴス)の中にあり、 もともとは夜想曲ではなかった。だから12ということもできる。 ただ、楽譜出版社の意向でこの名前をつけられてからは夜想曲の系列に入ることとなっている。 また、フォーレも夜想曲を全 13 曲としてまとめたいという意向を示していた。 世の中のレコード(CD)もそれに従っているし、 楽譜もペーテルス版(ペータース版)、春秋社版など全 13 曲として入手できる版が多くなった。 また、最近では第 6 番のみであるがヘンレ版も出ているし(私は未入手)、 そのうちベーレンライター版も出るだろう。
フォーレの夜想曲は舟歌と同じく 13 曲もあるので、 どのあたりをとればよいのか分かれるところである。 なかでは、第 6 番、第 7 番、第 13 番が傑作といわれることが多い。
夜想曲第 6 番はフォーレの円熟期の作品であり、落ち着いた表情、構成のうまさ、転調の豊かさなど、 代表作と呼ばれるのも当然である。リサイタルやレコードで単独に演奏されるフォーレの曲は断然、この曲が多い。
一方、第7番はめったに演奏されない。舟歌第5番の項で述べたことがここでもあてはまる。 正直いって第6番ほどの豊かさは第7番にはわたしも感じられない。開始のリズムが重いし、 少し繰り返しが多いのであまり評判が得られない曲だろう。しかし、コーダはすばらしい。 このコーダのためにわざと重い表現をとったのではないだろうかと邪推してしまうほどだ。 この関係ははるかに遠いところで主題と変奏に繋がっている。
第 13 番も傑作である。古典的な三部形式だが、内容は深い。 バッハの対位法を思わせる禁欲的な提示部と、 幅広いアルペジオがうねるピアニスティックな中間部の対比が鮮やかで、 とてもフォーレ最後のピアノ曲とは思えないほどだ。 フォーレをめったに弾かないホロヴィッツが弾いていることでも有名だ。 ホロヴィッツが録音しているフォーレの曲は、 これと即興曲第5番だけである。
最初の夜想曲は、おとなしく、重めである。A-B-A の三部形式である。 フォーレの多数の作品と同じく、すぐにメロディーが奏される。序奏はない。 メロディーを支える伴奏は 3 声体で、すべて 1 拍を 2 回同じ音で刻む。 禁欲的な書法である。
中間部である B 部は A 部と同じ変ホ短調である。 三部形式の A と B とが同じ調性であることは珍しい。 2 小節の間奏に続き、「ミラシド」で始まる大きな流れの嘆きを歌い上げる。 このあと、付点音符による慰めの旋律がリズムを代えて絡まりながら、 クライマックスに向かう。ナポリの六度による印象的な転換から、 変ロ連打音上で浮遊する細かな音階が奏されて中間部が終わり、再現部に移行する。
再現部ではメロディーのテンポは変わらないものの、伴奏の刻みが 2 倍早くなり、 それだけ細かな和声の移ろいによって装飾されている。 コードは刻みが途絶え、詠嘆の節が浮かび上がる。
無言歌以来の久しぶりのピアノソロ作品だから、 かなり気負っていたのだろう。そんな思いを汲み取ってはみるものの、 私としては軽く聞きたいのだ。
私が持っている春秋社版フォーレ全集1には誤植がある。11ページ 109 小節左手低音部は F でなく F♭である。 IMSLP に載っている版(アメル版と思われる)は正しい。この珍しい現象は、 IMSLP 版の低音部側が3声あるのに対し、春秋社版はそのうちの1声を右手に移したために生じたと考えられる。 (この項、2015-04-25)。
春秋社版
IMSLP 版
三部形式のこの曲は、再現部に Tempo I. の指示がある。ということは、どこかでテンポが変わっているはずだが、 IMSLP 版、春秋社版ともにテンポの変わり目の記載がない。 常識的には、中間部でテンポが速めに取られると思われる。MUSICA BUDAPEST 版のフォーレアルバムでは、中間部(21小節)に un poco più mosso ma no tanto の指示があるので、これに従うとよいと思う。
ロ長調という輝かしい調ゆえだろうか、中間部はダイナミックに展開する。 腕の立つ人にお勧めする。
あまり印象にない曲になってしまっている。少し恥じらいを含ませて弾くと さまになるかもしれない。
甘いフォーレの系列、たとえば「バラード」とか、「ヴァイオリンソナタ第1番」の延長上にある作品。 わたしがかわいがっていた M 少年が弾きたいといって自分で選んだ曲でもある。 ところで、この曲には一小節特異な個所がある。 右手では二連符と三連符を同時に、左手では四連符を弾かなければならないところだ。 この甘い曲にこっそりと難しい箇所を割り込ませるとは、フォーレもいけずな奴である。 中間部の終わりではほんの少し「 バラード」の回想が聞ける。
第 6 番への橋渡しとなる野心的な作品。中間部では左と右にわたる幅広いアルペジオが展開され、 クライマックスへと導いていく。 この中間部で、左手から右手に渡される上昇するアルペジオと音階は、 右手から左手で渡される、オクターブで補強されたメロディーと拮抗し、効果を上げている。 この手法は舟歌第3番で開発され、この曲で力強さと華やかさが与えられた後、 最後の夜想曲第13番でクライマックスを形作っている。 フォーレは、長い間じっくりと、手法を磨き上げていたのだ。(2004-09-17)
夜想曲第 6 番 変ニ長調 Op.63ページを参照。
開始の 18/8 拍子の取り扱い方、 中間で和声の不安定さをわざと楽しんでいるかのようなアルペジオの演奏の仕方、 音の少ないクライマックスの盛り上げ方、 最後の音階の収束のさせ方など、ピアニストにとっては難儀な曲だ。
ヴュイエルモーズによれば、「舟歌」にもなりうる曲だそうだ。 夜想曲であることを意識せずに弾けばいいだろう。
夜想曲の 9 番と 10 番は正直いって私にはどう扱っていいのかわからない。 フォーレのピアノ独奏曲は、フォーレの歌曲の伴奏だけを聞いているようでつまらない、 という意見を聞いたことがある。この 2 曲はまさにそんな感を起こさせる。 またこの 2 曲は、徹底して伴奏があと打ちである。力の入れ加減に難渋する。 第 9 番は、第 10 番にくらべ、メロディーの息が短い。 単にメロディーを歌わせるだけでは音楽にならない。
第 9 番に比べメロディーの息が長く、破調の頻度が高い。 一貫したテンションを保ち続けられるかが勝負となるだろう。 気分は、フォーレの三重奏曲の第2楽章に近い。
久しぶりに弾いてみて、譜面の疑義が生じた。37小節、2拍裏の右手和音で、G になっているが、
これは # がついた Gis ではないだろうか。
36 小節は同様の場所で G であり、コードは E♭7 である。和声的な階段であることを考えれば 37 小節は E7 になるはずだ。
上の楽譜は最初に出版された Heugel のものであるが、春秋社版(1986/04/25 第1刷)でも同様である。他の版、
たとえば 全音、音楽之友社、ペータース (Peters) の各社版でどうなっているかは知らない。
G で弾かれている演奏を聴いたが、次へ向かう力強さに欠ける。
ここは和声的な階段で和声の「しりとり」をしているように聞こえるところで、
次の G# minor に向かうためにも Gis でないといけないだろう。
以上の点は私が練習して発見したのだが、実はピアニストの藤井一興氏によってすでに指摘されている。 日本フォーレ協会(編)フォーレ頌-不滅の香り(音楽之友社)のp.63 にある。 藤井氏は次のようにいっている「最終的に G か Gis のどちらをとるかはピアニストの判断にゆだねたいと思う」 。 (2011-01-09)
エリック・ハイドシェックの録音で持っているのはレコードであり、 最近何年も聞いていないのできちんとした評価はできない。 CD で再発売されているので後で聴いてみようと思いつつ、まだ手に入れていない。 やっと 2010-10-17 に手に入れたので、わたしの好きな第4番、第6番、第7番、第13番から聞いてみた。
第4番はもう少し落ち着いたリズムで演奏してほしいと願うが、ハイドシェックが若い時代の録音ということを考えると、 これはこれでさわやかだ。 第6番も同様のことを思うが、4/2 拍子からの音の捌きはほれぼれするほど見事だ。 第7番は落ち着いているが、最後にコーダで変ニ長調で上昇する音階を奏するところは爽やかなこと限りない。天晴れである。 第13番はテンポの揺れをもう少し抑えてくれればと思う個所もあるが、全体の構成は考えられている。 ということで、今聞いてみても新鮮だ
ジャン・ユボーのはあっさり目の味付けで、 何度も聞きながら滋味を感じられる演奏である。
ジャン・フィリップ=コラールの演奏は華麗で聞き所も多いのだが、 譜読みで致命的な(少なくとも私にはそのように思える)誤りを犯しているところがある。
例えば第7番では、32 小節と33 小節の第1拍で、 楽譜には嬰記号が付点2分音符のHにかけてあるので、8分音符は A のままであり、 和音は His と A の短三度になる。 ところがコラールは嬰記号を8分音符の A にかけて読んだため、 付点2分音符が H のままで8分音符の Ais となり、短二度となってしまう。 ここではこの短二度の厳しい響きは適当とは感じられない。 また、前の 31 小節から半音階でオクターブが上昇進行しているので、 その流れからいっても、H に嬰記号がかかっているべきである。 同様の動きがくり返される 108、109 小節にもいえる。
もう一つ、第 13 番で 52 小節の左手、第 2 拍と第 4 拍の裏の8分音符はGでなければならないが、 コラールは Gis で弾いている。これも私には適切とは思えない。 次の 53 小節に突入する準備として、嬰ト短調の嬰ト(Gis)の音は事前には隠しておくべきだろう。 そうであればこそ、フォーレが 53 小節の左手のGisにアクセントを置いたのだ。
今まで理屈っぽいことをいってきた。もう一つ注文をつけるとすれば、リズムが甘くなるところだろうか。 ただ、このリズムの甘さはコラールの長所と裏返しの関係にあるのかもしれない。 変な言い方だが、テンポの揺れ動きに私は情念を感じる。第 13 番を例にとると、 リズムの甘さは最初の3拍子の刻みに出るが、情念は中間部の3連符の揺り動かし方にあらわれる。 フォーレの曲はインテンポで弾くべしという誰からかのいいつけを私はかなり信じているが、 信じていない部分もまた面白いのだ、ということをコラールの演奏を聞く度に思う。
ジャン・マルタンのは少し遅めで鋭さに欠けるが、暖かみを感じるので、最近はよく聞いている。
藤井一興のはテンポ感、デュナーミクともに絶妙で(私が内面でもっているテンポ感と合うということ)、 最高の版である。 値段が高いのが残念。
ジャン=ポール・セヴィラの演奏も、ジャン・マルタンのものと同様、遅めである。 音の濁りはなく、明晰である。 遅い部分では必要以上の溜めが気になるが、これは歌で必要な呼吸と思えば許容できる。 だが、第3番、第4番で頻繁に出てくる3:2のリズムが、私には不自然に聞こえる。 藤井一興氏の論文(日本フォーレ協会編「フォーレ頌」所収)で、アンリエット・ ピュイグ=ロジェ先生の「フォーレ独特の(3:2の)リズムが、 日本人に教えるのが非常にむづかしくて、なぜ三連音符が弾けないのかわからないと、 再三再四もらしておられた」という忠告が紹介されている。それからすると、 日本人であるわたしの耳がおかしい公算が大きいのだが。
キャスリン・ストットは、結構肉厚な音を出す。しかし、あまりしつこくない。 さほどテンポは揺らさないが、たたみかけが必要となったときはかなり速くするので豪快に聞こえる。 ダイナミックさを強調して聴かせるタイプと見た。 必要以上に遅くなるところがないので私の好みである。
ジャン・ドワイヤンの全集を久しぶりに聴いてみた。なにより落ち着いている。 またテンポの取り方も中庸を心得ている。第 12 番が比較的遅いテンポで始まるぐらいである。 余分な装飾はほとんどなく、フォーレの音楽を書かれてある通り知るのにはいいと思う。 技術では今日出ている盤に比べわずかに劣るが、決してキズではない。
全集ではないが、ロベール・カサドシュの演奏で第7番を聴いた。この曲は、 単独の曲としてはバラードや「主題と変奏」の次に長い。さらに曲想が地味であることも重なって、 重く扱われがちである。しかし、カサドシュはインテンポを守って軽く弾いていく。 その典型は一度 Cis の和音で終止する個所はすべて切っている、という解釈である。 中間部の Allegro も歌うよりも、流してさばく感じで、まったく溜めや淀みを作らない。 リストの練習曲を扱う手付きといえばいいのだろうか。なるほどいろいろな解釈があるのだと 感心した。さりとて、最後の変ニ長調の音階上昇部分は決して速くない。 少なくとも急いではいない。通して聴くと、骨格が露になる演奏といえるだろう。
第6番を聴いた。溜めは中程度だろうか。嬰ハ短調からの歌わせ方、 第3部のアルペジオの軽さは美しい。(2009-06-21)
Germaine Thyssens-Valentin、この人は、うまいのか下手なのか、よくわからない。 夜想曲集全13曲を聴いた印象では(録音は古く、 音のひずみが大きい)、部分的には絶妙な歌いまわしと、全体的なリズムキープの弱さとが不釣合いであった。 普段聴く演奏に薦めない。しかし、ふだん聴くフォーレに飽きてきたときには、 回復の一助となるようなヒントがあちこちに隠れている。(2005-02-27)
筆者未聴の夜想曲全曲盤には次の演奏がある。
筆者未聴の抜粋版では次の演奏がある。
なお、以前はルフェブールには全曲演奏の録音があるように書いたが、 これは誤りであった。お詫びします。
藤井一興がフォーレの夜想曲を全曲披露するというので聴きにいった。 埼玉くんだりでよく興業が成り立つなあと思っていたら、 客席はそこそこ入っていた。第1番から第6番までが前半、第7番から第13番までが後半だった。
前半は完璧に近い演奏だった。音色、特に弱音の制御が行き届いていた。 また、いやらしいルバートは全くなかった。 自身がフォーレの孫弟子であることを自慢しているだけのことはある。 後半は少し乱れたように思う。第7番のいくつかの個所で小ミスが出たためか、 第9番からは楽譜を見ながら弾いていた。特にそれがために集中力がなくなったとは思わないが、 わずかに残念な気がした。第11番は非常に緊張感のあるすばらしい演奏だったが、第12番は まとめがいささか雑であった。第13番はさすがだった。
アンコールは3曲。いずれもフォーレの世界では表現し得ない技術や領域をここぞとばかり出していた。 ドビュッシーの「月の光」と「花火」、ラヴェルの「水の戯れ」。
演奏とは関係ないが、マルタンのCDの第1集で、帯にあった「オフコースの甘さ」という売り文句があったが、これは違うと俺は思うぞ。 第2集では「一転して渋くなります」だけれど、後期は渋いだけではないぞ。
これまた演奏とは関係ないが、「エドシーク」という表記でメールをいただいた。 最近は「ハイドシェック」と呼ぶのがふつうではないか、ということである。 気になるので調べてみたら、彼はフランス生まれだが父はドイツ人であること、 ドイツの血を誇りに思っていて、「ハイドシェック」と呼ばれることを好む、ということだった。 そういえば、彼が日本に来て弾く曲はベートーヴェンがほとんどで、 フランス系の曲は弾いていなかった。 それゆえ、もう彼は「ハイドシェック」と呼ぶほうがいいだろう。
フォーレは夜想曲第6番以降、かなりの頻度で、 一小節あたり全音符を超える長い拍子で作っているが。その理由を探ったが、結局はわからなかった。 ただ、中期に集中しているように思える。それぞれの拍子を見てみよう。なお、 C は 4/4 と、また C に縦棒は 2/2 と表記した。
なお、夜想曲と同じだけある舟歌についても調べてみた。 次の通りとなり、比較的中期に全音符を超える長さの拍子が見られる。