フォーレ:レクイエム

作成日:1998-10-15
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1. フォーレの宗教曲

フォーレの曲の中で一番有名なのはなんといっても「レクイエム」である。 レクイエムは、「鎮魂ミサ曲」、「死者のためのミサ曲」などと呼ばれ、 死者を悼むためのミサ、またそのミサのための曲を指す。

この曲はフォーレの曲のなかでも有名である。 またレクイエムという分野の中でもフォーレの曲は名曲という評価が高い。 しかし、フォーレ自身どういう考えで作ったか、私には今一つよくわからない。 一般には、レクイエムを作ったきっかけは父親の死であるといわれている。 ただ、このレクイエムには、付いてしかるべき死のイメージがごく薄いように思われる。 言い方を変えれば、死を迎えるときの「最期の審判」とか「怒りの日」だとかいう、 荒れ狂う光景が音楽から思い浮かばない。

フランスの音楽評論家で、フォーレの弟子でもあったヴュイエルモーズは、 このレクイエムを「他人の信仰に敬意を払う不信心者の作品」と評した。 また、フィリップ・フォーレ=フルミエ(フォーレの実子)は、 この作品の「多少とも異教徒的で快楽的な性格」についてあら捜しをするのは たいそう余計なことではないかともいっている。 なので、フォーレは信心深くて信仰のあまりこのレクイエムを作った、という解説があると、 つい唾を眉につけたくなる。

ちなみに、フォーレが教会のオルガニストをしていたとき、 夜遊びが過ぎたため朝の礼拝にエナメルの靴と白いネクタイとで来てしまいクビになったとか、 教会の勤務のときに暇をみてはしょっちゅうタバコをすっていたとかいうのは事実である。 実際、彼の口ひげはタバコのために黄ばんでいたらしい。 余談はさておき、フォーレの作品が日本で受け入れられるのは案外こういったフォーレの、 あるいはフォーレの作品のもつ宗教性の薄さにあるのかもしれない。

ある方から、メールを頂いた。その方がおっしゃるには、 「フォーレのレクイエムは一番好きな音楽の1つであることには間違いないと思っています。 しかし、宗教的とは思えません。敬虔な気持ちになったことはありません。」 ということだった。もちろん、曲の価値を否定しているのではなくて、 「安らかさとか、母のようなやさしさとでもいうのでしょうか」 という問いかけがあった。私も同意見である。

2. 曲の構成

作品48の、「ニ」音を基とするこの曲は次の楽章からなっている。

どれをとっても非常にフォーレ的である。 想像を越える転調、息の長い旋律、決して絶叫しないしなやかな強さがすばらしい。

2.1 入祭文とキリエ

入祭文(イントロイトゥス)では、 伴奏がニ音を強奏した後で弱まり、ニ短調の主和音が合唱される。 伴奏と合奏が交互に動き、和声も移り変わる。 続いてキリエでは、短調と長調のはざまで揺れる伴奏に乗り、主への祈りが歌われる。

2.2 奉献頌

奉献頌(オッフェルトリウム)は、冒頭のうごめく低音が不気味である。 識者は、この音型は後の前奏曲第9番と似ていると指摘する。

2.3 サンクトゥス

変ホ長調のさざなみで、旋法的な、平穏な合唱が続く。 独奏ヴァイオリンの絡みが泣かせる。 その後、管が鳴り響き、厳かな雰囲気が高まる。

2.4 ああ、イエズスよ

ソプラノ独唱。簡素な伴奏に絶妙な歌がはまっている。 フォーレによるこの歌と伴奏の推敲が、残された音楽帳によりわかっている。

2.5 アニュス・デイ

シンコペーションを交えた弦の、起伏のあるヘ長調の旋律が、 マッサージを受けているかのように心地よい。 これに素朴な旋律の合唱が加わり、平安な雰囲気が浮かびあがる。 オーケストラがハ長調で休止したあと、 ソプラノが「光(Lux)」を唱い、 その後合唱の他のパートとオーケストラが変イ長調で包み込む。 この瞬間の厳かな響きは、フォーレならではの技法である。

再度、入祭文の冒頭が回顧され、 最後に本楽章の冒頭の旋律がニ長調で再現される。

2.6 われを許し給え

レクイエム中、最も起伏があり、劇的な場面である。 バリトンソロで徐々に高揚し、ホルンとトロンボーンが加わり、 合唱の Dies illa, dies iræで最高潮を迎える。

2.7 楽園にて

この曲では管は登場しない。 オルガンの分散和音に続いて、ソプラノの斉唱が始まり、 絶妙の和声が進行する。他の声部やハープも加わり、清澄な気分のうちに全曲を閉じる。

3. レクイエムあれこれ

他のレクイエムを聞いてみると、フォーレのレクイエムの静かさがいっそう際立つ。 有名所ではモーツァルト、ヴェルディ、ベルリオーズ、ブラームスなどが書いているが、当然ながらどれとも違う。 ベルリオーズの曲は、若杉弘指揮、新日本フィルによる実演を見(て聞い)てびっくりした。 ベルリオーズ直接の指示になるべくならったという、トランペットの「お立ち台」が4台もあったのだ。 これでは、最後の審判がすでに来たようなものではないか。 恐れ入りましたと肝が縮んでしまう。

フォーレのレクイエムと似ているのは、モーリス・デュリュフレという作曲家のレクイエムである。 「楽園にて」があるところもフォーレのレクイエムを受け継いでいる。 フォーレよりさらにグレゴリオ聖歌の精神を受け継いでいる部分もある(最初など)。 フォーレの曲にさらに上質の甘さを加えたような作風で、こちらのほうが好みの方がいるかもしれない。たとえば、 「ああ、イエズスよ」は、フォーレのあっさりした作りに比べ、デュリュフレのは短いながらよりドラマ性の強い、 迫真力のある構成をとっている。オブリガートのチェロが非常にいい味を出している。 他に、「キリエ」のフーガの清楚さ、「サンクトゥス」の女声三部の積み重ねの妙など、聞くべきところは多い。 一方、フォーレのよさは伸びやかさ、しなやかさにある。「アニュス・デイ」では、 デュリュフレのどこかおずおずとした出だしに比べると、フォーレの旋律のほうがずっとのびのびしていて、 自然なのびやかさがある。 私自身はやはりフォーレのほうに軍配をあげる。

最近では両者のカップリングが多くなってきたので聞き比べるのが容易になってきた。 なお、私はデュリュフレのレクイエムは1994年に歌ったことがあるが、 フォーレのレクイエムを歌ったことは長い間なかった。 ところが2009年5月30日、これはフォーレ協会のセミナーによるものだったが、一回だけ歌うことができた。 そのあたりは、このときのブログである、 「フォーレのレクイエム」セミナーに行くを参照してほしい。

4. 演奏について

私が最初に聞いたのはコルボ指揮ベルン交響楽団のものだった。 必要以上にもこもこしているという評があったようにきくが、私はそれもフォーレだと思って聞いていた。 なんといっても「ああ、イエズスよ」のボーイソプラノがいい。

クリュイタンスのもよく聞いていた。

私の今手元にあるのが、前述のデュリフレとのカップリング2種である。 一つはGeorge Guest指揮のものの2枚組(DECCA 433 431-2)、 もう一つはStephen Cleobury指揮のもの(EMI LC6646)である。 後者は原典版に近い1893年版を使っているのが特徴である。 聞き比べてみたところ、原典版に近いほうのものが楽器が少ない分、より迫真性が強く聞こえた。

最近、パーボ・ヤルヴィの演奏を手に入れた。聞いてみたい(2018-09-23)。

5. どうでもよい付記

テレビを付けていたら、NHKで「しし座流星群」の特集があった。その後ろで使われていたのが、 フォーレのレクイエムから「楽園にて」であった。(1999-11-18)

6. よくわからない付記

この間、NHK でダラピッコラの「囚われ人」をやっていた。どういうわけか、 この後でフォーレのレクイエムを全曲、「囚われ人」のキャストでやっていた。 これは、指揮者シャルル・デュトワの意図によるものだというが、私ははっきりした事実を知らない。 ちらと見た限りでは、全く違和感はなかった。

なお、「囚われ人」のテキストは、ヴィリエ・ド・リラダンという小説家が書いた。 このリラダンは、若い頃詩を書いていた。フォーレも2曲、曲をつけている。 「夜曲」と 「贈物」がそれである。

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MARUYAMA Satosi