フォーレ:後期歌曲

作成日:2000-07-31
最終更新日:

後期の曲はなかなか一筋縄ではいかない。力に溢れた曲、緻密な曲、あっさりした曲、 これらを統一的に語るのは大変だ。

消え去らぬ香り

Op.76-1。 詠嘆調の伴奏と朗読調の歌の刻みが渋い。 打ち鳴らされる伴奏から発展する歌は、一拍たりともゆるがせにはできない。 聴く側にも相応の緊張感を強いる。 後半の開始となる最高音(原調では E)とこの音からの下降音型を聴く度、私の心は揺さぶられる。 そして終結部のメロディーの、少し癖のある解放感が私を捉えて止まない。

アルペジオ

Op.76-2。伴奏には確かにアルペジオがあるのだが、 幅広く豊かな五重奏曲第1番の第1楽章のそれを連想してはいけない。 むしろ伴奏の途中で挟まるトリルがおもしろい。 歌も伴奏とは関係なく自分で勝手に進んでいる。 後半はまるで歌付の(彼のピアノ独奏曲の)舟歌のように聞こえる。 動きが多少穏やかになると、優しい歌の「白い月影」に近くなる。 最後はどことなくあのシシリアーノに似ている。

牢獄

Op.83-1。中間部では伴奏も歌も音の密度が極限に達する。D くんと一緒によく練習した話は どこかに書いたけれど、どこか表現しきれずにやりきれない感じがずっと残っていた。 原詩もあります。

夕暮

Op.83-2。この曲と「消え去らぬ香り」、そして「沈黙の贈り物」は、 もうどのようにすばらしさを表現すればよいのやら、 困ってしまう

ヴュイエルモーズは「夕暮」について「その驚くべき和音の連結を一つ一つ分析する時、 書法の天才的集中性によって解説者を失望させる」と形容している。 誰かの例えだが、フォーレの音楽は森を彷徨うようなもので、森のあちこちをつれまわされるが 最後に確たる広い道についた時の安心感が堪えられないのだ、というのをどこかで読んだ覚えがある。 この曲など、その際たるものではないか。変ニ長調のこの曲は、歌が属音の As で伸ばされるのだが、 その前の音の Fes 音がむずがゆくていい。

九月の森で

Op.85-1。カチューユ・マンデス詩。

老いゆく森への親近感と賛美、そして老いた詩人に森から施される友愛を唄っている。

歌は淡々とうたわれ、語りに近いといえる。しかし、 三連符の個所がわずかにあり、リズムに締まりを与えている。

伴奏は、四声部の対位法的な部分と、 アルペジオを基調とする部分からできている。 アルペジオは上行アルペジオが多く 「春の使者」と似ている。 しかし、この曲は対位法の部分が多く、また速度指定もアダージョである。 そのため雰囲気は「春の使者」とだいぶ違い、落ち着いた歩みを思わせる。

この詩と曲は、隠居願望の私には非常にぴったり来る。かくのごとく隠居したいものだ。

水に浮かぶ花

Op.85-2。 波にただよう花とも訳される。 伴奏の形が複雑で、いつの間にか音型も変わっている。 何をやっているか聴いただけではわからない。 楽譜をみてもはっきりしない。でもそれが水に浮かぶ花を表す、いい手段なのだろう。

伴奏

Op.85-3。 題名が示すからなのかがわからないのだが、 中間部でピアノがさまざまな音階を奏して転調の芸を見せるところは思わず息を飲む。

古くは夜想曲第6番の クライマックスの直前、 それから下ってイヴの歌の「活きている水」が 似ている。このような曲を書かせればフォーレの右に出る者はいないだろう。

一番楽しい道

Op.87-1。フォーレは後期になって、先祖返りしたような曲をときどき書くことがある。 その一つがこれ。 古代旋法がはっきりした形で提示されること、伴奏も一定であることなどがその理由である。 私にはこのような曲がもっとも向いているのかもしれない。

山鳩

Op.87-2。「一番楽しい道」と同様、ごく自然な流れのなかに始まり、 ごく自然に終わる。 傑作として評価される曲ではないが、 巨匠の筆の流れとはこのようなものかと納得してしまう。

沈黙の贈り物

Op.92。リズムのわずかな不安定さと和声の微妙な揺れ動きが織り成す綾は、 私ごときの素人を惑わせたまま、あっという間に終わってしまう。

小唄

Op.94。Op.87 の2曲と合わせて、「老人力三部作」と私は勝手に名付けている。 伴奏のリズムの同一性への固執、 オクターブを超えないの歌の音域、時折挟まれる三連符、そしてその曲の短さが、 老人力を思わせる。 原題は" Chanson " であるが、日本人がシャンソンという名前で呼ぶしゃれっけからは 無縁である。

ヴォカリーズ

作品番号なし。 1906 (7)年の作品。フォーレの歌にしては珍しく音域も高く動きも多いが、 これは歌詞がないことと練習曲という性格があることによる (原題は Vocalise-étude)。 転調の妙も充分あるのだが、 多少せわしない感じがするためかめったに演奏されない。 残念である。 同じヴォカリーズでもラフマニノフのそれは歌のも編曲版のも多く演奏され るのに。 (註:ある音楽辞典には、オーボエのための作品が原曲と記されている)

演奏について

消え去らぬ香り

フォーレ歌曲全集では、独唱の全曲をエリー・アメリンクかジェラール・スゼーが歌っている。 どちらが歌うかは曲の個性で決めているのだそうで、この曲はアメリンクが歌っている。 濃厚な香りが漂うのは確かで、私も酔いしれる。ただ、濃厚さは全体を被わず、 わずかに粗い部分も聞こえる。これは特に欠点ではないと思う。

一方のジェラール・スゼーも若いころ歌った録音がある。こちらも濃厚で、たっぷりと歌っている。 彼の発声によるフランス語が(わたしには)こもって聞こえてしまうのだが、 それでも詩を大切にして歌っているのが伝わってくる。

ティエリ・フェリックスは、もう少し軽い。香りのもつうるわしさと華やかさが感じられる。

ベルナール・クリュイセンはさらに軽い。曲の開始部など、フォークソングに、 否シャンソンに近く聞こえる(ちなみに、フォーレの歌曲はメロディと呼ばれる)。 こちらは消えそうで消えない息の長さがいい。

村田健司も軽さを武器にしている。しかし、この曲の場合ピアノとのテンポのとりあいが うまくいっていないので損をしている。

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MARUYAMA Satosi