他人によい印象を与えることについて (Douglas Harding)
今日、私たちは、自分を他の人々にどう印象づけるのかといった方法を、十分に認識する必要性について非常に多く聞くことがあり、ときには、自己紹介、自己投影の技術を意図的に練習している人たちにさえ出会うことがある。しかしながら、私の経験では、その必要性は方向が逆で、自己投影に関する私たちの関心こそ、私たちの主な問題なのある。
確かに子供の頃、私は、自分の行動が他人にどう見えるか、そして、他人の観点にたって自分の行動が常にどう修正を要求されるのかを学ばなければならなかった。さらにもっと確かだったことは、第一人称の私自身にとっては、私が世界の中にいるというより、世界が私の中にあったが、この見方は、世界が私を見るやり方ではまったくなかった。第三人称としての私は、非常に小さく、ある場所に限定されていて、重要ではなかった。私がゆっくりと痛みを伴いながら、他人が私を見るように自分自身を見ることを学ぶにつれて、あるいは、他人が私を見ることを望んだり、怖れたりするにつれて、実に私の成長とは、サイズが小さくなることであり、宇宙次元から単なる人間次元への避けられない収縮であった。
しかし、その悲劇とは、私がこの必要な学習をあまりにうまくやりすぎたことで、そのせいで青年期に達する頃には、この中心から投影されずに、ここでくつろいで自分自身でいるとはどういうことかを、私はまったく見失ってしまったのである。私は完全に中心をはずれ、自己疎外され、このせいで私はひどい状態になった。私は、人々が私を見るような、あの小さい、固体で不透明な、箱詰めされたものあり、それ以外の何者でもないという社会に同意して、私は実際、6フィートの自分の外見になってしまったのだ。
つまり、私はこの外見が出現する、そこから私の無数の外見が出てくるゼロ・フィートの中心的現実を見逃すことを決心してしまったのである。そのため私は病的になり、その病気とは、それが実際普遍的であるゆえに、より深刻であり、そして、実際気がつかれないゆえに、ますます知らぬ間に進行した。
私がここで自分自身にとって本当に何かを見ないとき、自分が向こうの彼らにとってどう見えるのか、彼らが私をどう思っているのか、彼らに提供している顔をどう修正するのか、私がそういったことを想像するのに多くの時間を浪費してしまうのは、避けがたいことである。私の自己関心、他人への純粋な関心の欠如、そして、好ましい印象を与えなければいけないという不安は、かえってその印象を台無しにしてしまうのに十分である。さらに私の行動が同様にそのあとに続く――私の反応は、不器用で、神経質となり、私が提供する自己はさらに悪化する。私は自分がひどい投影をしていることを、非常に意識し、やることなすこと、みじめなほど自己敗北的である。
しかし、私がここで自分自身にとって本当に何かを見るとき、私は、自分が向こうでどう見えるのかを、気にすることをやめることに気づく。今私に関心があることはただ、私の想像の代わりに、私が実際に発見することだけである――私はまさに与えられるままに自分自身を、単なる受容能力、あるいは空っぽな空間として受け取り、そして、他人のことも、まさに与えられるままに、彼らの魅力的な形や色や動きや会話でもってこの部屋を満たしているものとして、受け取るのだ。
他人に対する新しく確立された関心と楽しみと、それに伴う自分自身への不安の欠如のおかげで、私の反応はもっとずっと感受性深くなり、素早く、自然で、(長い目でみれば)適切になるであろうことは確かなことである。疑いもなく、それのほうが他人にも役に立つが、私が彼らにどう受け入れられるかは、私の関心事ではない。私の関心事とは、彼らがここでどんな印象を与えているのか、そしてそれを「誰に」与えているのか、である。
社会的人間関係の問題は、私とは本当に何かを見ることによって、解決されるのである。投影がそれ自身の面倒を見るように放っておかれるときだけ、満足のいく投影が外の向こうに出ていくのである。そして私自身は、ここにある無限に資源にあふれる源泉に気を配るのだ。そういったところが私自身の経験であり、それは私だけの経験ではないだろうと思っている。
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