ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法

ダグラス・ハーディングの長年の『見る」友人たちへのインタヴュー(日本語字幕つき)


「問題解決――選択しないというテクニック」(Douglas Harding)

「対立――自殺的ウソ」(Douglas Harding)

「自分とは本当に何かを見る結果」(Douglas Harding)

「他人によい印象を与えることについて」(Douglas Harding)

「ダグラスの詩」
(Douglas Harding)

「爆弾――世界と一つであるということ」(Alain Bayod)

「役に立つ道具であり、それ以上のことがある」(Nick Smith)

「天と地の階層」
(Richard Lang)

「個人的体験」(Richard Lang)


「盤珪の考え方」
(Colin Oliver)

「懐かしいIAMに捧げる」(David Lang)

「ダグラスの死」(David Lang)

「あがり症(舞台上であがること)を頭がない方法によって抜け出す」(Sam Blight)

「私にとっての『私とは何かを見る』とは」(大野武士)

「ハーディングの実験について」(赤嶺華奈)

「ハーディングの実験を続けてよかったこと」(赤嶺華奈)

「マイナス感情とハーディングの実験について」(赤嶺華奈)


「宗教と科学の融合」
(木悠鼓)

「ハーディング流成功哲学」
(木悠鼓)

「考えない練習」(木悠鼓)

*「ダグラスさんの本との出会い」 (大澤富士夫)

*「正直さを呼び戻す」 

(竹澤さちへ)


はい、これで、OKです!」 
(渡邉 直子)

頭はあるけど、頭はない、それが答えだ!」(匿名)

*「もし誰かが木さんの頭にピストルを突きつけたら……」(木悠鼓)





自分とは本当に何かを見る結果 (Douglas Harding)

瞑想
自分とは本当に何か、誰かを見ることの結果は、人がどれほど忠実にその見ることを練習するかに、ほとんどかかっている。自分の本質をたまにちらりと見ることは、もしそれが、継続され、深められるほど、真剣におこなわれないとしたら、大きな変化を生みそうにない。自分を物化する習慣を打破し、ここでの何もなさという新しい習慣、意識的第一人称性という習慣を確立するためには、瞑想が必要である。

まずはじめに、起こりうる結果を見る前に、価値ある恩恵を生み出しそうな手段、練習のほうを見ていくことにしよう。意識的第一人称性は、(そのまったく正確な、そして最も根源的意味において)、ある種の瞑想であり、この瞑想を継続的に練習することが、私たちの仮説を実用的現実的にテストすることである。その合言葉は、「ここに誰がいるかを見る」であり、その際立つ特徴は、以下のようなものである(さらに言えば、これらすべては皆さんが試すためのものである):

地上的である
これは、瞑想ホールにいるときだけでなく、少なくとも、市場でも、またあなたが休んでいるときだけでなく、活動しているときも、そして、目を閉じているときだけでなく、目を開けているときも、うまくいく。

非引きこもり
それは、ある種のトランスの状態を引き起こしたり、世界と人々から一時的に引きこもることを要求したりすることは決してなく、むしろ、今起こっていることを、あなたがもっとはっきりと認識できるようにしてくれる。あなたはもっと生き生きし、もっと今起こっていることと、いっしょにいる――実にあなたは、その中に見失われることなく、眺めそのものである。つまり、見られる風景がぼやけ、歪むのは、あなたがSeer(見るもの)を見るときではなく、それを見逃すときである。そして、あらゆるものを覆い、あらゆるものの根底にある最も内奥のものを、あなたが無視するとき、外側の世界だけでなく、心理的状態というあなたの内側もまた、ぼやけるのである。

自発的
最初にこれを見るだけで、あなたはそれを更新する能力を与えられる。ここで物事が不在であることは、向こうに物事があることと同じくらい自明で目に見え、冷徹な事実なので、この不在を見ることは、どんなときにも、意のままに、すぐに手に入る。観念や感情とは違って、自分が一番必要としているときに、あなたが落ち着かないときでも、心配しているときでも、あなたはこのシンプルに見ることを経験することができる。問題が起こったとき、その場で、それらに対処するために、シンプルに見ることは、使えるように準備ができている。

肉体的に表現される
この瞑想は、どんな特別な姿勢も、肉体的技術も必要ではない。その一方、肉体的効果は、非常に目につく場合がある。よく起こることは、エネルギーの消耗ではなく、エネルギーが満ちてくるように感じられる鋭敏な静けさ、筋肉のリラックス、ゆっくりとした呼吸、首と背骨がまっすぐになること、などである。顔色はよくなり、目は輝き、一般的体調も、よくなる傾向がある。もちろん、最初は、姿勢がよいほうが――すわっているときは、上半身を起こすほうが――より簡単なことがわかるだろう。これをすると、誰が上半身を起こしているのかを、あなたが見るのに役立つ。

継続する
どんな機会にも、この瞑想は不適切ではないし、あなたが第一人称の立場から、さ迷い出るときは、どんなときにも安全ではない。最終的には、あなたはいつも故郷にいるようになり、そこでは、音楽でベースの伴奏がいつもあるように、それが、ときには、目立たないけれど、途切れることなく続いている。

人生が統合される
このように、あなたの人生は二つの部分――自己に気づく(内省的、瞑想的、宗教的)世界と自己に気づかない(外向きで、多方面にわたる世俗的)世界とに、分離されずにすむ――これら二つの分離した世界は、普通、簡単にはいっしょにならず、和解できない。

間違えようがない
それは長く続く一方、全部あるか、何もないか(実際は、全部あって、かつ何もない、である)の瞑想であり、それは間違っておこなうことができない。あなたは自分の不在を半分だけ見ることはできない。あなたは自分にとっての中心を見るか、それとも、それを見逃すかのどちらかである。

非神秘的
この瞑想は、それ自身では、明らかに、神秘体験とか宗教体験ではないし、また幸福感に包まれるわけでも、宇宙的愛や宇宙意識の中へ突然拡大するわけでもなく、いかなる種類の感情、思考、直感でもない。まったく正反対に、それは絶対的に特徴がなく、色がなく、中立的である。それは純粋で、静寂で、冷静で、透明な源泉であり、同時にそこから混乱した世界が流れてくるのである――その世界の中に流されることなく。あなたは、神秘的霊的体験の分け前を充分に確保できるが、それらを追いかけて下流へ行くことによってではなく、自分がそれらすべての永遠の上流であり、それらは、自分の中の源泉からのみ、楽しまれることができることに、気づくことによって、である。

非爆発的
確かに、最初に自分の源泉を見ることは、目がくらみ、驚くべき啓示かもしれないし、これ以上に、そんな祝福にあたいするようなどんな出来事も、人生にはありえないだろう。しかしながら、花火は必要なく、いずれにせよ、そういったショーは、まもなくしぼんでしまうものだ。(ほとんどとは言えないまでも)、この瞑想を実践する多くの人たちが、「もちろん、これはまさにここでそうである」というような発言をもって、静かにそういう状態になる。すべては、個々の人の気質、文化的宗教的背景と期待、そしてとりわけ、日常生活の中の無意識な、あるいは、特別な宗教的瞑想的修行による意識的な緊張や心理的ストレスが、どれほど積み上げられてきたかによる。

当然の事実
また、(それが爆発的にやって来ても、そうでなくても)、最初に見たあとに続く数日、数週間、数ヶ月が、喜びに満ち、陽気になる傾向があることも事実である。あなたは新しい世界に新しく生まれたような感じがする。しかし、遅かれ早かれ、残念なことに、こういった感情は薄れてしまい、「これは、私には何の役にもたたない!」と、あなたは非常に驚き、失望する。

そして、あなたはそのやり方を見失ったという間違った印象のもとに、この瞑想を放棄する誘惑にかられる。事実はといえば、それにもかかわらず、もしあなたが継続すれば、その偶発的で食欲をそそる結果よりも、それがあなたにしてくれた何かよりも、それ自身――その平凡で味のない真実、それが実にあなたにしてくれない何もなさのほうが、価値あるものとされるようになるだろう。そして、これは大きな進歩である。結果への関心を失い始めて、かえってあなたは、結果がいっそう健康的に、気づかれず、落ち着いて、もっと成熟することを確実にする。その間も常に、あなたの唯一の仕事は、この滋養のある根であること、である。

融合的
この根の中においてのみ、この根としてのみ、私たちはみなが、永遠に、唯一の同じ、一なるものである。この瞑想は、間違いなく、このただ一つの場所において、あなたを他のすべての生き物と融合させる。そのただ一つの場所で、すべてが集まり、私たちをお互いに区別し、分離させる特徴や隠れた感情、思考から、ついに完全に私たちは解放されるのである。


「虚空」は、それがただ本当に虚空であるという理由で、あらゆる場所、あらゆる時代のあらゆる存在の中で同一であるのだ。もしそれが私の中で愛として、あなたの中で光輝として、彼の中で特別に空(くう)として経験されるとしたら、それは私たちをさらに分離へと押しやるのに役立つだけだろう。しかし事実といえば、あなたは彼であり、私である。あなたは、少しの疑いも不安もなく、お互いの間に邪魔になるものが何もないその場所を、直接発見する。

民主的
一つの歓迎すべき結果は、この瞑想を忠実に実践しているものたちの間では、どんな階級も順位もなく、どんな導師も弟子もいず、どんな霊的優越も萎縮も存在しえない。事実、(民主主義とは言えないまでも)これ――私たちの共通の本質以外に、人間の平等のどんな基盤がありえるだろうか?

エゴがない
何も達成されることがなく、ただ発見されるだけである。そして発見されることは、完全なる「へりくだり」である――あなたの何もなさが(単に楽しまれたり、信じられたりするのではなく)、実際に見られるときは、それは疑いようもないことだ。これだけが確信をもたらす。あなたが現実であり、どんな外見でもないただ一つの場所があり、そこは、明らかに利己主義とその他のあらゆるものから解放されている―― 一言で言えば、自由なのだ。

安全である

この瞑想は安全である。なぜなら、それは下手にやることができず、また他人や自分のプライドに依存することを避けることができるからだ。またそれは、画策されることができないからでもある。それに関しては、恣意的なことや想像的なことが何もなく、あなたの信じやすさにつけこむこともなく、間違うこともなく、あなたを普通の人たちから分離することも何もなく、何も特別なこともない。それが安全なのは、物事を操作しようとするのではなく、物事がどのような状態にあるかを発見することであるからだ。本当の自分について、自分自身を騙すのをやめること以上に、安全なことが何かあるだろうか? あるいは、そうしないことほど、危険なことが、何かあるだろうか?

自然であるこの瞑想は初めから際立って自然ではあるが、ますますそうなり、最後には完全にそうなる。最初はおそらく、自分にこれを意識させるために、思い出すための小さい仕掛け――自分の目の数を数える(誰の目だろうか?)ことや、友人と顔対顔がない状態で向き合ったりするといったような――小さい仕掛けが必要である。しかし時間がたてば(必ずしも年月を数え上げる必要はないが)、これらの工夫はなくてもすむようになる。第一人称性が第二の性質になり(あるいは、第一の性質が復活する)、あなたが自分の顔のなさに心を奪われて歩きまわるようなことは決してない。

それよりは、ずっとシンプルである――それはむしろ、それについてまったく考えることなく、故郷のとびきり澄んだ空気の中で、休憩するようなものである。人は自分が通ってきた表ドアを調べながら、玄関口でブラブラするだけの人は誰もいず、続いて内側の快適さも楽しむ。それと同じように、人は内側に入って内部の広大さを楽しむ――それにいたるこうした小さい門は、小さく一時的な工夫として認識されている――実際、策略である。(多くの宗教的道具は、非常に複雑か、あるいは神秘的か、美しいか、印象的なので、それらは、その本来の目的から人々の関心をそらし、手段が目的に置き換わってしまった)。私たちの仕掛けが明らかに平凡であるおかげで、手段が、長い年月を経るにつれて、それ自身が価値をもつ聖なる対象物とならないことを、願っている。

他を排除しない
この瞑想は、他のどんな種類の瞑想――坐る瞑想とか座禅――こういった瞑想を役に立つと発見するかもしれない――も排除しないし、また妨害する必要もない。それが排除するのは、瞑想者がまだ故郷にたどり着いていないと仮定する瞑想だ。

自動的である

この瞑想は非常に普通なので――世俗的で、シンプルで、明白で、平凡なので――またまったく何も学ぶべきものがないので、どんな専門的導きも、どんな瞑想の手引き書もマスターも必要ではない。またしばしば対立するシステムからの苦痛な選択もないし、信頼できる先生を探す必要もない――信頼できる先生は、まさにあなたがすでにいるところに、正しく置かれていることを見るだけである。一方で、この瞑想に熱心な友人たちの集まりは、役に立ち、楽しいものである。

伝染する
特に最初は、友人は実際的に必要不可欠である。最初に見ることが自然に起こることは、きわめてまれである――ほとんどあらゆる人が、すでにこれをやっている誰かによって、この瞑想に入門にしている。というのは、この状況は非常に伝染性があり、人から人へ直接伝わるからだ――本は、絶対にないとはいえないが、この伝達がほとんど不可能なことを証明してきた――本の役割とは、その本を読んでいるのは誰かを発見したいという気持ちを目覚めさせ、いったんその発見がなされたあと、それを確認するためのものである。まあ、こういったことは、私ではなく、あなた方が言うべきことである。

非自意識
この瞑想の原理とは、どんな状況においても、本当の自分を見失わなければ、あなたの問題は面倒を見てもらえるということだ――奇妙な言い方だが、自意識の問題も含めて。というのは、本当の自分を発見することは、小さい自分を失うことであるからだ。私たちの瞑想は内気さを治すが、それは、物質的世界の中で自分自身を見失わせることによってではなく、この方法によって、世界の入れ物である自分自身を発見することによって、である。

逆説的である
一貫とせず、満足させるのが困難なことではあるが、人は、あらゆる生き物から自分を引き離しながら、それらと自分を融合させてくれる瞑想、自分を絶対的に無にしながら、自分を絶対的に高揚させてくれる瞑想、自分を完全に存在させ、自分に気づかせてくれながら、完全に不在で自分を忘れさせてくれる瞑想、自分に休息を与えながら、行動を鼓舞してくれる瞑想、目的がないにもかかわらず、目的に満ちた瞑想、自分がすでに目標に到達しているゆえに、自分に何もするべきことを残さないにもかかわらず、人は常に始まりにいるゆえに、あらゆるするべきことを残す瞑想、そういった瞑想を要求している。手短に言えば、求められているのは、自分の中に組み込まれているすべての矛盾を和解してくれる瞑想である。なんという不可能なほど高い注文であろうか!それにもかかわらず――不思議中の不思議なことに――これは、まさに、日常的に実践される「彼=神は、私たちの息よりも、手足よりも近くにいる」という私たちの仮説が、提供する瞑想なのである。

魅力的である
人がこの瞑想を飽きずに続けていくことができるのは、それが非常に面白いからであり、それが面白いのは、結局のところ、それは、人が最も関心をもっていることを、常に新しく発見することだからだ。もしこの主体があなたのビジネスでないとすれば、では、他の何がそうであろうか? 他のあらゆる瞑想の話題が、最終的には人の関心を留めておくことができないとしても、驚くことではないだろう。しかし、この内部物語、あなたのこの核、常に同じで、それにもかかわらず、常に魅力的に更新されるこのものに比類するものが、他にありえるだろうか? またそれが一度でもあなたを失敗させることがありえるだろうか? この描写できない、息を飲む神秘の終わりまで、どうやってあなたはたどり着くことができるだろうか?

二方向である
結局のところ、この瞑想は、ヤヌス同様(訳注――ローマ神話に出てくる、頭の前と後ろに顔をもった神)、両方を向くことである。内側に見者と外側に見られるものを同時見て、それは見られるものを取り入れ、それを理解する。なぜなら、それは、途中に何も邪魔するものを何もおかずに、この何もないものを最優先するからである。まず第一人称を求めれば、第三人称は付け加えられるだろう。しかし、最初に第三人称を求めれば、それさえ、取り去られるだろう。

(この記事は、1972年に出版された「The Toolkit for Testing theIncredible Hypothesis=信じられない仮説をテストするためのツールキット」という本からの抜粋です。この本は現在、絶版です。原文「The Results of Seeing Who Youreally Are」は、http://www.headless.org/articles.htmに掲載されています)

「今ここに、死と不死を見る」

ダグラス・ハーディング著

マホロバアート発行


「顔があるもの顔がないもの」


ダグラス・ハーディング著

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