ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法

ダグラス・ハーディングの長年の『見る」友人たちへのインタヴュー(日本語字幕つき)


「問題解決――選択しないというテクニック」(Douglas Harding)

「対立――自殺的ウソ」(Douglas Harding)

「自分とは本当に何かを見る結果」(Douglas Harding)

「他人によい印象を与えることについて」(Douglas Harding)

「ダグラスの詩」
(Douglas Harding)

「爆弾――世界と一つであるということ」(Alain Bayod)

「役に立つ道具であり、それ以上のことがある」(Nick Smith)

「天と地の階層」
(Richard Lang)

「個人的体験」(Richard Lang)


「盤珪の考え方」
(Colin Oliver)

「懐かしいIAMに捧げる」(David Lang)

「ダグラスの死」(David Lang)

「あがり症(舞台上であがること)を頭がない方法によって抜け出す」(Sam Blight)

「私にとっての『私とは何かを見る』とは」(大野武士)

「ハーディングの実験について」(赤嶺華奈)

「ハーディングの実験を続けてよかったこと」(赤嶺華奈)

「マイナス感情とハーディングの実験について」(赤嶺華奈)


「宗教と科学の融合」
(木悠鼓)

「ハーディング流成功哲学」
(木悠鼓)

「考えない練習」(木悠鼓)

*「ダグラスさんの本との出会い」 (大澤富士夫)

*「正直さを呼び戻す」 

(竹澤さちへ)


はい、これで、OKです!」 
(渡邉 直子)

頭はあるけど、頭はない、それが答えだ!」(匿名)

*「もし誰かが木さんの頭にピストルを突きつけたら……」(木悠鼓)





宗教と科学の融合(木悠鼓)


事の始まりは、たぶん、大学生のときに受けた「般若心経特講」というゼミだった。当時、私は宗教やスピリチュアル的なものにまったく関心がなく、また私の専門とも無関係なのに、「出席するだけで簡単に単位が取れるゼミだから、いっしょに出よう」と、友人にたまたま誘われて、何の興味もないままゼミを受けることにした。
 
教授は仏教の研究では有名な方で、毎回、ものすごく丁寧にかつ情熱的に講義してくださるのだが、聴いている私には、さっぱり理解できない。半年間、自分の理解不能に唖然呆然としながら、単位をもらうためだけに毎回出席した。そんなゼミを受けても、私は別に宗教に関心ももてず、ただ、「普通の思考で理解できないこんな超論理な文献が、仏教の最高仏典だなんて、なーんか変!」という疑問だけが心に残ったのである。

しかし私には、一度何かの疑問が取りつくと、それを探求せずにはいられない奇妙な習癖がある。そのため、宗教に関心がないのに、それからも一年に最低一度か二度は、「般若心経」を読み返しては、パズルを解くように考えてみた。「なぜこんなに短い文章をこれだけ考えても、理解できないのだろうか?」と。


大学を卒業して、数年たった頃、私は突然、スピリチュアルな世界に目覚め、今度は、そういった方面の本を山ほど読むようになった。しだいに宗教的思考の中にある超論理にも慣れていき、私が「般若心経」を理解できないのは、たぶん、「般若心経」が、まったく別の観点から世界を語っているからではないか、ということに思い至った。つまり、普通の人間的思考と「般若心経」が語る世界の間には、超絶的な壁というかギャップがあるにちがいない、ということに気づいたのである。しかし、その壁やギャップをどう越えるのかは、どんなスピリチャルな本を読んでもわからなかった。

そして、スピリチュアルな探求を始めてから、10年ほどたった頃、ハーディングの本に出会ったのである。彼の本を読んでようやく、「般若心経」が語る世界が見え、若い頃、私を悩ませた文章、たとえば、「この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象である得るのである」とか、「さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。こうして、ついに老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである」(岩波文庫版「般若心経」)といったことが、おぼろげながら理解できたのである。

しかしながら、ハーディングのいう「頭がない」ということについては、私は最初からすんなり受け入れられたわけではない。私は科学的人間なので、実験という手法には心から共感したが、私の思考はどこまでも、疑い深く、しぶといのだ。「確かに、ここに頭は見えないが、でも、触れば、頭らしきものがあるのは、どういうことか? 感触があるということは、ここに頭がある証拠になるのではないか?」という疑問に、今度は取りつかれたのである。一人で実験をやりながら、何度もこの疑問に向き合い、こういう疑問に関しては、スピリチュアルな本はほとんど役立たないので、主に科学系の本を読んで考えてみた。そして10年ほどたった頃、「触れば頭のようなものを感じる」問題の答えに至ったのである。その答えのヒントの一つは、量子力学にあった。

量子力学の一つの考え方として、「観測されないとき、物は不確定な状態にある」という考え方がある。つまり、私たちが見ている(聞く、触るなどのすべての認識作用も同様である)物事は、「私」が観測(認識)するときに、その存在は確定するのであり、物事の存在は、「私」の観測行為(認識行為)に依存しているということだ。であれば、ここに私が、「一般に頭と定義されているもの」を観測(認識)できないときは、「ここには、頭はない」と言っても、量子力学的にも間違いではない。頭があるといわれているところを触って、何かの感触があるとしても、それは私たちが知り・定義している「頭状態の映像」ではない。

私たちは認識(観測)するたびに、何か――映像や感触を――それぞれ新しく創造しつつあるのである。ここに至って、かつて私がスピリチュアルな文献の中でよく読んだ、「見ること、聞くこと、触ることの中で、主体と対象が融合する」とか、「見るもの(seer)も、見られるもの(seen)もなく、ただ見ること(seeing)だけがある」等々が、私の中で科学と融合したのである。

一つひとつの感覚とは、すべて独立しているのであるが、人間的習慣として、人は、一つの感覚から別の感覚を想像することがあまりに自然になっているため、またその想像がときには必要なときもあるので、この習慣(想像)をひっくり返すのは、容易なことではない。ハーディングの実験・ワークは、この想像(習慣)を正す強力な道具であり、人の思考は、その単純さにしばしば失望し、挫折するけれども、実験は、案外生きつづけている場合がある。実験をやって数年後、10年後、20年後に突然、実験の意味を思い出す人たちもたくさんいる。それが、ハーディングがこのワークに見出した「希望」であり、長年の情熱と活動の原動力になったのだと思う。

人間クラブでの日々――パソコンに向かったり、買い物に行ったり、銀行にいったり、本を読んだり、電話したり、原稿を書いたりと、あれこれバタバタ動きまわる(ように見える)合間に、ふと一休みして、内側を眺めてみる――誰もいず、何もない、にもかかわらず、人間モードがちゃんと機能していることが、不思議だ。

私の経験では、当たり前のことが、不思議に思えてくるとき、人は人間的思考を超え始めているのだ。そして、人間的思考を疑い始めると、世間的価値観にもしだいに無関心になってくる。私たちは、好むと好まざると、人間クラブの中では、「誰か」であり、それは、好かれたり・嫌われたり、評価されたり・されなかったり、物事の結果は、よかったり・悪かったりだが、これは二元性の世界のルールのようなものである。人間クラブでは、あらゆる人は、第一人称の喜びのままに精一杯生きている(生かされている)。誰も何も間違っていないし、間違っているように見えるときでさえ、究極的には何も間違っていない。ハーディングのワークの意味が本当にわかるとき、人生はただ、平和に遊ぶための遊び場となる。

私がハーディングのワークに出会ってからおよそ20年がたった。ハーディングその人との出会いも含めて、人生で最高の縁をいただいたと感じている。しかも、怠け者の私にピッタリなのだ。何もしなくても、第一人称の「私」は、別に減るわけでも、増えるわけでも、成長するわけでもなく、内側を見れば、永遠にシンプルにありのままである。人間クラブも宇宙も複雑ではあるけれど、複雑さのジャングルの奥に超シンプルな本質があることが、心休まるし、うれしい――私はそのシンプルな本質から見た、複雑で多様な世界を愛している。

「今ここに、死と不死を見る」

ダグラス・ハーディング著

マホロバアート発行


「顔があるもの顔がないもの」


ダグラス・ハーディング著

マホロバアート発行



「「1996年ダグラス・ハーディング・ワークショップDVD6枚セット」

定価6,000円


「ダグラス・ハーディングへのインタヴューDVD2枚セット


定価4,500円


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