エゾシカの  2002/01/01〜2002/01/31

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2002/01/31

入国審査

 もう一月近く前の事になるのだが、香港から名古屋に帰国した際に私だけ入国審査で根掘り葉掘り口頭にて質問を受ける事となった。まあ猥本の類の所持を疑われ荷物の開封を疑われぬだけましであろうと思いつつ入国審査管の暇潰しかとも思える程の質問に応じる事とした。

 「他の国や地域には行かれてないですよね」「(ちゅーか此をパスポート見て確認するのがあんたの最大の使命やろが)はい、行ってません」「今回香港に行かれたのは一人なんですか?」「(見たら判るやろ)一人です」「旅行ですか?」「(仕事やったら無精髭生やさんやろ)はい、旅行です」「現地に誰か知人の方がいらっしゃるんですか?」「(おらんから今回の旅行先にしたのじゃ)いいえ、誰も居ません」「では現地で誰かに会ったり何か受け取ったり渡したりされたのですか?」「(何とか笑いが取れそうな回答としては『マッサージで妙齢の女性に金を払って体中撫で回された挙げ句割引券を受け取った』やろうけど此処では通用せんやろなぁ)いえ、無いです」

 時折柄此の手の質問を厳しく受ける事は先方にしてみれば致し方有るまいが、当方にしてみれば、休暇がそう好き放題に取れる訳でも無く航空券も思う様に取れずに香港のみを訪れ、同行する程のステディな相手が存在する訳でも無く、海外に何時でも気軽に会える様な知人が存在せぬ為、質問の一つ一つがぐさりぐさりと心に刺さるのである。然し相手は仕事。おまけに此処で不機嫌になろうものなら「では鞄の中を…」などと面倒な事に成り兼ねぬ(勿論鞄の中には面倒な物は一切入っていなかったのだが)為、心を傷めつつ入国審査を通過した次第。若し「EZOSHIKA TOWN」がメジャーで有れば、入国審査官が私のパスポートを見た時点で「私、貴方のファンなんです。此の機会に貴方について色々教えて下さいませんか?」などという訳の分からぬ告白をされた上で上記の質問を受けた方が私の心の傷みも少なかろうと思ったのだが、生憎パスポートにハンドルネームや所有サイトを記入する欄が存在せぬ為、此も結局夢に過ぎぬ。其れ以前に入国審査官が「EZOSHIKA TOWN」を愛読している可能性の方が、パスポートへのハンドルネームや所有サイトの記入を要求される可能性より遙かに低いと思われるのだが。


2002/01/30

オンラインショッピングとコンヴィニ

 どうやら自分の所持しているクレジットカードはオンラインでCDやヴィデオの類を購入する企業との提携カードらしい事に薄々勘付いており、此のカードを所持して三年目にして初めて其のオンラインショッピングを利用してみる事にした。因みに以前所持していたクレジットカードは、信販会社自体には何等問題無いもののカードの提携先が供する商品の購入に於いて頗る使い勝手が悪いばかりかどう考えても「此のカードを使うな」と言わんばかりに販売員から不快な顔をされたり現金で購入する数倍の時間を要したり等と利便性とは程遠く精神的にも実益的にも不愉快な体験しか無い為、此処数年全く利用せず冒頭のクレジットカードを作成した次第。因みに斯様な不愉快なクレジットカードが存在する事自体、饂飩の出汁が関東と関西とで著しく異なる不条理以上に激しく糾弾せねばならぬ事だという認識はしつつも未だに私の筆を鈍らせている(2000/01/26参照)。

 さて其れはさておき、先日の饂飩旅行(2002/01/12参照)の際に同行者が車内でのべつ幕無くCDを掛けては心地良く歌っていたモダンチョキチョキズなる音楽集団に見事嵌ってしまったのだ。処が当の集団は此処数年全く活動をしておらず、名古屋や大阪のCDショップを漁ってもなかなか入手出来ず、上述のオンラインショッピングを用いる事とした次第。

 申し込みは頗る簡単で、商品の指定及び支払方法、受取方法を指定するのみ。受取方法にコンヴィニを指定した処、わざわざ私の住所や職場から近い店舗が選択肢として表示される凝り様。平日に寓居を空ける事の多い単身者にとってはコンヴィニでの受取は非常に便利。或る意味従来の商品購入(航空券等、商品の実態の無い物を除く)の中では最も便利な物に感じられた。

 そしてコンヴィニでの受取日を迎え、所定通り店舗内の端末を操作し、先ず支払いを済ませ、其の証明書をレジに持参し商品を受け取る。と此だけの話なのだが最終段階で大きなトラブルが発生する事となった。レジの店員が、証明書をレジに記録するのに手間取り商品の引渡しが即時に出来なかったのだ。「少々お待ち下さい」と言われ、操作方法でも確認するのかと思えば他の客のレジ打ちを行うのみ。誰一人操作方法を確認せぬ儘放っておかれる事約十分。其の儘帰ろうにも店舗内の端末にてクレジットカードからの引き落としが完了しており、而も事も有ろうに其の処理の後三十分以内に商品と引き替えねば申し込み自体無効になるという事であり、此のレジの店員次第でどえらい結果が生じる事になるのだ。結局レジの店員は何処にも誰にも確認する事無く、私の持つ証明書のレジ処理もせず、私の待つ商品とを交換する事で、全てを解決したのだ。

 此の操作が正当なのかどうか私は未だに判らぬのだが、正当なのであれば最初から苦労してレジの操作などで悩む必要は無い筈。因みに帰宅後心配になって、当該オンラインショッピングサイトに於ける「注文状況」を確認した処、未だ「商品受取待」となっていた。

 もう今更「苟も全店舗で取り扱うと謳うからには全店員が機械操作を行えるようにすべき」「店員の機械操作に於ける再教育の徹底を」などといったまどろっこしい事など望まぬ。わざわざ寓居や職場に近いコンヴィニ店舗を選んでウェブ上に表示する位の気遣いがあるのであれば、最初から「店員が機械操作を習熟している店」「時間帯によって機械操作を習熟しない店員がいる店」「機械操作の出来る店員の居ない店」などと、機械が弄れないなら弄れないで其の旨予め利用者に告知した方が格段に有り難いと、嫌味でなく心底そう思う次第。


2002/01/29

横柄な輩

 仕事やプライヴェートを問わず他の社会人と接する際、とりわけ一目で上下関係の掴みづらい電話での場合に多いのだが、「一体此奴は此の歳になる迄他人と接する際にどう振る舞うべきと教育されてきたのか」と驚嘆せざるを得ぬ位横柄な人物が存在する。特に電話の場合だと年齢が判らぬ所為なのか私如きの年代に比べ社会人としての他人の接し方について一から強く教え込まれているであろう若者である場合すら少なからず存在する。更に驚嘆する事には、その場合は往々にして自分の勤務先内に於ける電話にて斯様なケースが屡々存在するのだ。大体同じ会社であれば少なくとも電話の相手が下位か否か位は当方に於いても事前に把握しようと思えば十分可能であるのだが、どうやら此の手の横柄極まる人物達はどういう訳か或る特定の部署に集中している事が判明した為、少なくとも私の場合は相手の所属部署から此奴等の横柄度を推測する事にしている。

 さて、斯様な横柄な相手と電話口等で接する際、私は敢えてどんどん下手に出る事にしている。相手に威圧されて萎縮・服従している訳では断じて無ければ、勝手に醸し出された「疑似」上下関係を認めて卑屈に振る舞っている訳でも断じて無い。目的は只一つ。社会人としての常識すら弁えぬ斯様な馬鹿共と別人種である事を主張し、少しでも同じ土俵に載りたく無い為、出来る限り彼等の横柄さから遠ざかるかの如く下手に出ているのだ。

 此処で相手が通常よりやや劣る程度の常識人であれば、私の異常な程の下手攻撃に何かを感じ取り、横柄さを改めたりするのだが、相手によっては此方が下手に出れば出る程己の立場も弁えずどんどん上手に出て来る輩すら存在する。こうなると私はもう会話の内容など何処吹く風、何処迄日本語に於いて下手に出る事が出来るか、己の日本語能力の限界を試す知的遊戯に走ってしまうのだ。此の段階迄進めば仕事であろうが無かろうが其の行為自体が純粋に愉しく感じられるのだ。更に其の愉しさを倍加させるかの如く、馬鹿な相手が一層横柄な態度に転じる事により、日本語能力の上限と下限とを併せ愉しむ事が可能となるのだ。

 本来であれば相手に対して、とりわけ同会社の後輩であれば尚更、社会人と接する際の態度が全く成っていない旨諭すべきなのであろうが、上述の知的遊戯が余りに愉しい為、此奴等が何時か誰かに非道い目に遭わされる事を極めて高い確度で予想しつつ、個人的には日本語能力の限界を試し愉しむ次第。

 抑も根本的な疑問なのだが、社会人特有の儀式の基本である、二人揃えば必ず上位下位を付けねばならぬ風習、無くす事は一切許されぬのか。


2002/01/28

本当に怖い物

 先日報道された少年による逆ギレ殺人事件(立件は恐らく傷害致死となろうが)にしてもそうなのだが、最近老いも若きも犯罪被疑者が親に付き添われ乍ら出頭する(此の光景自体、「あれ程の事件を起こした犯罪者」として世間から後ろ指を指される以上に、或る意味恥ずかしい光景では無いかと思えるのだが)ケースに於いて、当事者が「事件が報道されるに連れ怖くなって出頭した」とほざく場合が少なからず存在する。

 おいおい、殺人や傷害致死や監禁や強姦は、此等の報道に比べて「怖くない」のかよ。己の犯した行為について報道以下の「怖さ」しか抱いて居ないのかよ。斯様なコメントを耳にする度に私が最も怖いと思うのは、当然此等の事件に関する報道などでは無く、彼等の犯した殺人や傷害致死といった犯罪以上に、斯様なコメントをほざき散らす彼等の思考回路其の物である。

 処が現在の日本の教育なり躾なりが此処等辺をしっかりカヴァーしているとでも言えるのか。即ち、餓鬼が「いけない事」を行った場合、「いけない事を反省させ止めさせる」のでは無く「いけない事をやると何等かの制裁を受けるから止めさせる」方に偏重しまくっているでは無いか(例外として2001/10/02参照)。別に教育現場を自分の足で研究した訳では無いが、斯様な事実など、電車内やデパート等の公共の場で嫌になって逃げ出したくなる位お目に掛かる光景である。「警備員さんが見てるでしょ」「怖いおじさんが注意しに来るぞ」「そんな事したら放って帰るわよ」…。本来「後の人が困るから止めておけ」「家の中ではそんな事しないだろう」「あなたもこんな事されたら嫌な気分になるでしょ」となるべき筈なのに。

 此では犯罪自体への罪の意識も希薄化が進んで然るべき。早晩親が子に対し「あのむかつく子を殺した後は『暫くうちの子と一緒に旅行に行ってる』事にするのよ」「警察の前では『僕やってません』と言うだけで無く、『友達の○○君がやりました』と言うのよ」挙げ句の果てには「あなた来月で十四歳でしょ。××君を殺すなら今よ」などと指南する日が来るのであろう。


2002/01/27

第一回・名古屋牡蠣祭り・第二部

 愈愈本日坂越(兵庫)にて「牡蠣まつり」が盛大に行われて居るのだが、当然名古屋の牡蠣祭りは昨日で終わった訳では無く、本日も盛大に行われる。無論参加者は私のみだが。

 先ずは昨日の鍋の残りを温め、牡蠣を含め具材を追加する。出汁は一晩寝かせた所為か、却って新たな具材に美味く染み渡るのだ。此は新たな発見。一頻り具材が片付いた処で御飯をぶち込み雑炊に。味噌味の為見掛けは「猫まんま」なのだが、味噌をも凌駕する此の円やかな具材の出汁の味は猫には判るまい。

 さて、本来本日は「名古屋牡蠣祭り・第二部」を挙行する日。昨日は和風なら本日は洋風。昨日から残しておいた牡蠣を用い、シチウを作る事にした。嘗てチーズや乳関係との相性に於いて意外な程の適性を見せた牡蠣(2001/10/27参照)を、存分に乳まみれにすべくシチウを検討した次第。従って乳やチーズ成分たっぷりのシチウルウで野菜と共に時間を掛けて炒め煮込み、仕上げには此でもかと言わんばかりの濃厚な乳を加えて牡蠣に乳の魅力を存分に教え込む事となった。

 牡蠣が乳の魅力を存分に味わい、牡蠣自体の魅力を増したのと同様、乳は乳で野菜達と共に新たなコクや旨味を牡蠣から得た模様。要は昨日の牡蠣鍋に於ける、牡蠣と野菜との止揚が洋風料理に於いても発生していたという事である。

 そして牡蠣祭りのフィナーレは、余った御飯を利用した牡蠣ドリア。以前牡蠣グラタンを作った際にパン粉の入れ方を誤り、牡蠣サイト管理人から御指導を受けたのだが、其の時の経験を生かし、今度は失敗する事無く無事牡蠣祭りのフィナーレを迎える事が出来たのだ。

 蛇足であるが、冷凍食品コーナーで販売されているインスタントのグラタン類を食する際、パン粉を一握り乗せて焼くか否かで美味しさが格段に変化するのだ(途中でパン粉が燃えぬ様、アルミフォイルで適宜調整する必要はあるのだが)。牡蠣祭りとは直接関係無いのだが、貴重な意見として是非遍く盲信して頂きたい。


2002/01/26

第一回・名古屋牡蠣祭り・第一部

 坂越(兵庫)にて明日「牡蠣まつり」が盛大に行われる事は私が贔屓にしている牡蠣サイトでも周知されていたのだが、此に呼応するかの如く名古屋にて牡蠣祭りが今日明日と挙行される事は歳時記の類にも掲載されても居らず余り知られて居らぬ。尤も開催場所が私の寓居、参加者は私以外認めぬというイヴェントであるが故の事では無いかと推測されるのだが。

 何時もの如く早朝に殻付き牡蠣と剥き身牡蠣が到着し、寝惚け眼の儘殻付き牡蠣を何度かに分け次々と電子レンジにて蒸す。蒸しては香る芳香に惹かれ、口にすればする程食欲が増すという自然の摂理を無視せんかの如き牡蠣の魔力に取り憑かれ、牡蠣祭り序盤にして早くも殻付き牡蠣が全て蒸し焼きとして私の胃袋に収まる事となった。一体誰が何処で何を祭ったのかが良く判らぬ儘イヴェントが知らぬ間に開催されているというのも此は此で乙な物である。

 剥き身の一部は夜に土手鍋として食そうと考えつつ日本経済新聞朝刊を眼にして腰を抜かした。わざわざ別刷りの裏表紙トップに「旬の一品」として「カキのみそ鍋」の作り方が紹介されていたのだ。どうやら名古屋で行われる「牡蠣祭り」の計画は既に日本経済新聞社の情報網に聢と引っ掛かっていたのだ。其れにしても、土手鍋にすると味噌の塩分が濃すぎる為に味噌の固まりを中央に置くのが良いとの事であり、流石はライヴァル日本経済新聞、私の牡蠣祭りを盛り上げるのみならず、より適切な調理法を提案するとは。

 さて、夕食用に食材を買い出しに行く。白菜、葱、豆腐、榎茸に出汁用の昆布。味噌も凝りに凝った挙げ句其れ自体は最もシンプルな商品を購入。最近の味噌界に於けるトレンドである出汁入りなど邪道極まる。昆布出汁を取りつつ食材を切り揃える内、牡蠣を含め何をどう考えても鍋が何個あっても足りぬ位食材が多い事に気付き、牡蠣の量を半量にし、具材としては牡蠣の旨味が細胞の隅々迄行き渡る事を考え、白菜、葱のみを用いる事にした。灰汁を取りながら弱火で鍋を炊くともう厨房が堪らぬ香り、今が冬で無ければ其の儘玄関を開放して此見よがしに牡蠣鍋の芳香を辺り一面に振り巻く処である。食卓兼書斎兼ソファ兼ベッドに鍋毎持参し、部屋中を鍋の香りで満たすと共に、眼前の熱々感を心置き無く全身で感じ取るべく、暖房のスウィッチを敢えて切断する。

 其れにしても巨大牡蠣達は煮崩れもせず、滋味を内部に綴じ込めた儘味噌や野菜の味をも吸収していた。逆に野菜には牡蠣の滋味が十分に浸透。相互に影響しつつ何れも不利を味わう事無く一歩高い段階に止揚するという、理想的な状況が寓居の鍋内で発生していた。惜しむらくは胃袋が祭に耐え兼ねた為、鍋を途中で断念し、其の後の鍋及び鍋汁雑炊は翌日のお楽しみとなった次第。


2002/01/25

男性のシンボル

 例えば天候に恵まれ、然して世間を賑わせたり巷間に流布したりといった衝撃的・猟奇的事件及び事故の無い休日の報道番組に於いては、其の日行われた地方の伝統行事が紹介される機会が多い。其の中で、正月早々に各局の報道番組で眼にしたニュースの一つに、男性が陰茎型の大根を股間に縛り付け、沿道に並ぶ女性達の前で性交時の様に腰を前後に振り陰茎型の大根が適度に揺れる光景をマスコミを含め男女共々愛でるという祭りが紹介されていた。

 大根を使わずに実物で同種の行為を行った場合には、当事者達の愉しみや盛り上がりは一層高まるにも拘わらず、マスコミが混じった時点で犯罪として告発される可能性が容易に推測されるだけに、此の「祭り」の何処をどうしたら「祭り」の称号を与えられるのか不思議でならぬ。

 さて、其れ以上に不思議であったのが此の祭りを巡る報道のアナウンス原稿。何れの局に於いても恰も事前に打ち合わせを行ったかの如く、大根を「男性のシンボル」に見立てて云々となっていた。あくまで客観的な表現としては「陰茎」、此が駄目なら「男性器」でも良いでは無いか。其れをまあ殊更に主観的な「シンボル」なる表現で語るとは。

 素直に考えてみよう。「男性のシンボル」とは「男性の象徴」(広辞苑)であり、此を更に噛み砕けば「男性を指示する目印・記号」(広辞苑)となる。即ち、何らかの事情で陰茎を失ったり、或いは陰茎が失われたかの如き存在であったりという形式的要件、若しくは、何らかの事情で陰茎から精液を噴出出来なかったり、或いはTPOに併せて大小の変化が生じなかったりという機能的要件が失われた陰茎を所有する人間は、各マスコミから「男性」と看做されぬという、一部の男性にとっては由々しき事態に陥るのだ。此こそ正に、マスコミによる激しい人権侵害と言えよう。少年法による少年の実名云々を論じる以前に解決すべき此の問題、激しい人権侵害を受けていると思われる男性を含め、改善の運動が一切発生していないのは何故なのか。自分自身の陰茎が「男性を指示する」に足らぬ事を公表するのが恥ずかしいのか。

 少年法に関する匿名報道に対して一部疑念を呈した(2000/05/03参照)私が、其れ以上に大きな問題に触れながら一切口を噤む事は人間として決して許される事であるまい。従って私は此処で声を大にして、各マスコミに於ける「男性のシンボル」なる表現が其れ自体人権侵害であり、「陰茎」「男性器」なる表現に即刻変更する事を要求するものである。


2002/01/24

PDA市場の見通し

 恐らくPDA市場は未だ収縮の兆しを見せず、寧ろ新規参入メーカーの登場、新OSの登場等で暫くは拡大基調が続くのでは無いかと思われるのだが、少なくとも現在実際にPDAを使用しており店頭や雑誌等に於ける新商品チェックにも余念の無い私にしてみれば、現行機種を念頭に置いた上では今後の普及面という点に於いて非常に大きな暗雲が迫っていると断じざるを得ない。

 将来のPDA潜在ユーザーと目される若者達の手帳利用実態を鑑みれば、主目的は名簿管理や日程管理等では無い。左様な事柄は既に携帯電話に其の役割を担わせているのだ。無論、文章の報告や連絡に至っては其れこそ携帯メールの独壇場である。更に言えば個人で記録しておかねばならぬ情報など彼等にはそう存在せず、己の記憶容量及び都合の兼ね合いにより「忘れましたー」「あーもうその日は別件でー」となる事となる。

 では彼等は何故手帳を用いるのか。目的は一つ、性交記録である。本来で有れば日別の予定を記入する欄に、相手や場所や回数等が一目で分かるようシールを付し、己の性欲の強さを勝手に愛情の深さに摩り替えては満足しつつ、次回の場所選定だの相手を間違えぬ為の予防だのを検討する事が彼等の生活に必要不可欠なのである。少なくとも現在のNTTDoCoMoの各最新機種に於いて、性交日に相手や場所や回数等を一目で見分ける事の出来るシール的な記録を携帯電話上で行う「性交記録機能」を明確に謳っている機種が存在しない(503isシリーズ及び211iシリーズに限って調査。ひょっとするとFOMA等では「性交記録機能」が搭載されているかも知れぬ。ましてやニッチ路線を狙うKDDIやJ-PHONEには一台くらい存在してもおかしく無かろうが)。

 従って、今後のPDA市場の浮沈は、如何に便利で判り易く、其れで居てシールの様な遊び心を備えた「性交記録機能」を何時どの機種が搭載するかにより大きく変化する事であろう。少なくとも私は現在用いている「性交記録機能」の無いPDAに於いて、Pocket Outlookの画面を開いて当該日時を選択し、「名古屋マリオットアソシアホテル」だの「××子・二四歳看護婦・○○区在住」だの「相手が激しく求めてきた為朝迄三発」だの「若干M気有り、正常位よりも後背位、更には目隠しプレイを嗜み最後にはバルコニープレイに持ち込む」だのといった情報を、一々手入力で入力するという、煩雑且つ矢鱈恥ずかしい行為を行う積もりは毛頭無い。尤も個人的には、此等の情報が「ピンクのハートマーク」だの「三つ星」だの「笑顔の兎さん」だのといった記号になったとしても、決してPDAに入力などすまいが。


2002/01/23

騎馬民族と獣愛

 獣愛を志す者ならずとも誰もが、一般的に人と獣とが夫婦生活を送った場合に生じる問題の一つとして、相互の寿命が余りに異なる事を挙げよう。即ち、人が平均七八十年は生きるのに比べ、生活を共にする獣はと言えば、馬で三十年、鹿で二十年など、なかなか「一生を相手の為に捧げ共に生きる」という観点からは夫婦生活は困難と言わざるを得ない。無論、寿命七十年と言われる象あたりを獣愛の対象とし夫婦生活を共に送れれば良いのであろうが、今度は相互の体躯が余りに異なる事が夫婦生活の大きな妨げにならぬか、象を対象とする獣愛者及び有識者の意見を待ちたい処である。

 話を馬に限定して進める。馬の場合生殖能力自体は三歳位から十分に備わっている為、日本人の平均結婚年齢たる二八歳頃に馬との結婚を行うとすれば、馬が一生を終える時には自分自身は齢還暦。それならば、還暦迄は一頭の馬を愛し、其の後新しい恋の御相手を見付ければ良いでは無いか、一生に二度の夫婦生活が愉しめるでは無いかという意見があるかも知れぬが、此は余りに獣愛者を冒涜した意見。人間同士の夫婦生活に於いて、「配偶者が何年後に死ぬから其の後新しい恋の御相手を見付けて再婚する」などという不届きな事を最初から考える輩が存在すると言うのか。因みにそう考えている輩の配偶者は己に掛けられた保険の類について、保険条件や受取人等について早急に確認しておいた方が良かろう。

 さて、先月の日本経済新聞の広告に、「スーホの白い馬」なるモンゴルの昔話が紹介されていた。内容を一応紹介しておくと、主人公の少年スーホが瀕死の白い子馬を見付け、心を込めて立派な白馬に育て上げたのだが、此が王の眼に留まり白馬を奪い、家来の前で白馬に乗ろうとした処、白馬は王を振り落としてスーホの元に逃げ帰ろうとした。何本もの矢を射られつつ、瀕死の状態でスーホの元に辿り着いた馬は、スーホに抱かれながら息絶えたのだが、其の夜スーホの夢の中で「私の体を用いて楽器を作りなさい。そうすれば何時でも私は貴方の側に居れます」と囁いた。そうして出来た楽器が、モンゴルの民族楽器である馬頭琴であるとの逸話である。

 此は冒頭私が述べた問題意識に対する一つの解答であると言えよう。私が嘗て述べた「オシラサマ」(2000/01/31参照)は、解答として夫婦共に天に召されるという結末を用意したのだが、モンゴルに於いては、早世した側を楽器の如く深く長く愛すべきものに変化させて現世に於ける永遠の愛を結末に据えた。獣愛を考える上で、同じ亜細亜であり乍ら、農耕民族たる日本と騎馬民族たるモンゴルとで、獣愛観に対する差異が生じているのが誠に興味深い。


2002/01/22

日本経済新聞からの誕生祝

 大多数の人が考えているのとは大いに異なり、私は「エゾシカの嘶き」のネタとなる新聞記事のみを収集している訳では無いばかりか、抑も新聞記事収集の主目的は、業務に直結する記事や己の資産の多くを占める株価関係の記事を遺漏無くチェックする為である。処が此がごっちゃになると始末が悪い。新聞紙の当該記事以外の部分も大きく切り取っている事、新聞紙には表裏があり裏面の記事が目に入る事から、「パソコン関連の値下がりって株価に響いたっけ?」「近鉄が中村が六年三十億円契約を提示…此は近鉄のグループ企業再編と勘違いして切り抜いたのかなぁ?」「デラックスマッサージチェアって確かに欲しいけどわざわざ切り抜いて残す位やったら其の場で申し込むわな」などといった具合で整理もなかなか儘ならぬ。

 長々と言い訳を述べた処で、数日前に寓居の新聞の整理を或る程度行い、其処で発見したネタについて今更述べる事にする。私が2001/11/15で己の被害を告白し警鐘を鳴らした「エロ電話攻撃」。其の後皆が恰も「エゾシカの嘶き」を愛読したかの如く此の事実が瞬く間に広まり、職場に於いてもエロ電話の対応についての警告文が出回る始末。気付けば此が社会問題にもなっており、流石「エゾシカの嘶き」先見の明有りと思っていた矢先、折しも私の誕生日に日本経済新聞が「迷惑電話『ワン切り』に注意」(世間では「エロ電話攻撃」とは呼ばずに、一度のみの着信音で電話を切り着信履歴を残すという手口から「ワン切り」と呼ぶとの事である)なるタイトルで、正に此の件に関する特集が組まれていた。

 私の誕生日を祝するかの如き、ライヴァル・日本経済新聞の記事の計らい。否否私の受けた迷惑を敢えて誕生日に想起させる為の嫌がらせと考えるのが相当か。何れにせよ日本経済新聞が「エゾシカの嘶き」のみならず私の誕生日をも意識している事が判明し、或る意味此も誕生祝なのかと喜びも一入であった。


2002/01/21

涙の年賀状

 学生時代に同じクラスであり卒業後も同業種の会社に就職した事もあり、毎年延々と年賀状の交換をしている同級生が居る。正確には先方の方が一年就職が早い為「先輩」になるのだが決して彼が優位に立つのが嫌だとかといった理由では無く、敢えて「同級生」と呼びたい、彼はそんな存在なのだ。

 別段学生時代に濃厚な付き合いを行っていた訳では無い。比較的クラスの中でも寡黙であったが講義にも部活にも非常に真面目であり其れで居て人当たりの良い彼は、試験直前に皆が彼のノートを奪い合う位の人気者であったのだ。そして彼は其の責任感の強さ故、自分のノートで欠落している部分や、他人に頼まれながらも自分自身が選択していない講義について、彼程では無いものの比較的講義には出席していた方である私に問うて来る事があり、互いに情報交換を行う様な仲であったのだ。

 二人の仲に大きな変化があったのが、偶々何気無く雑談を交わしていた際に、お互いが共通のアーティストの熱狂的なファン、否、フェチであった事が判明した事であった。其れ以来は顔を合わせる度に、専ら其のアーティストの話題に終始していたのだ。別段彼が他に何等話題を有さぬ詰まらぬ人間であったからでは決して無い。「此の手の話題を相手が喜ぶのであれば、其の話題に合わせて盛り上がった方が楽しいでは無いか」という、誰からも好かれる彼の性格に由来した思想であったものと推測される。

 卒業後は専ら顔を合わせる機会もめっきり減ったのだが、偶々仕事上の付き合いで彼がわざわざ私の職場に立ち寄ってくれたばかりで無く、本来当方にて歓待すべき処、手土産まで用意してくれたのだ。社会人になっても相変わらず彼は彼だよなと思いつつ、互いの仕事の話に加え、相変わらず特定のアーティストの話題で盛り上がる事となった。

 彼の付き合いは愈愈年賀状程度になってしまったのだが、毎年お互い必ず己の近況以上に、其のアーティストのメンバーの近況等について年賀状を交換するという愉快な関係になったのだ。縦令彼が結婚した時であろうが、必ず一言其のアーティストについての言及が成されていた。

 処で結婚し子供も授かったという彼から、年賀状が途絶えた年があった。流石に毎年特定のアーティストのネタでは飽きたかと思いきや、松の内も過ぎて余りに悲しい便りが彼から届いた。師走も押し迫った時期の御不幸による賀状欠礼。御不幸があったのは事も有ろうに授かったばかりの御子息であったのだ。

 仕事も家庭も落ち着いた彼が折角授かった幼少の御子息を失った悲しみは想像するに難く無い。而るに其の賀状欠礼の中でも、「子供を病院に送る際には車内で只管彼等の曲を流して自分を鼓舞していました」と、何時もの如く例のアーティストネタに触れていたのだ。彼の受けたであろう深い衝撃と悲しみに加え、左様な状況を知らせる葉書に於いても、従来の私との付き合いに基づくネタを記載していた彼の或る種の心遣いをひしひしと感じ、一枚の葉書を前に私は大きく慟哭せざるを得なかったのだ。

 さて、今年の彼からの年賀状。学生時代と全く変わらぬセンスの服装で、家族三人の写真が掲載されていた。新しい家族の誕生と共に、相も変わらず例のアーティストの話題に触れられている一枚。彼の喜びと心遣いが正月早々私の目頭を熱くしたのは言う迄も無い。


2002/01/20

初潮

 日本古来(他国にも存在するのかどうかは不精乍ら確認して居ないのだが)の風習の一つとして、家族の構成員が初潮を迎えた際に家族のみならず一族郎党時には近隣に至る迄赤飯を振る舞っては当該構成員の女陰からの出血を広く知らしめ祝するというものが存在する。幸か不幸か私の場合、近親者が初潮を迎えたと思われる際には生憎家族と離れ寮生活を送っていた為に斯様な儀式の詳細が今一つ実感能わぬのだが。

 其れにしても此の風習に対して私は二点の疑念を感じずには居れぬ。先ず、周囲は当の本人の気持ちを考えた事があるのであろうか。私自身は此の歳にもなって未だ初潮を体験して居らず、「当の本人の気持ち」など知る由も無いばかりか近場に存在する初潮体験者(勿論本人が「私は既に初潮を体験した」と日常意思表示をしている訳では決して無く、あくまで私の主観に基づく推測に過ぎぬ)に一々儀式の際の気持ちについてヒアリングを行う程の度胸も持ち合わせて居らぬ。而るに、同じ「繁殖能力を身に付けた」という観点から、己の精通(初潮未体験の私でも精通は過去に経験が有るのだ)の際に一族郎党及び近隣が大騒ぎして餅米を炊いたり濁り酒やカルピスを皆で振る舞い合い、「此でお前も陰茎から精液を噴出する事が出来るのだ」と、何処が励ましや祝いなのか理解出来ぬ言葉を投げ掛けられる事に著しく抵抗を感じずには居れぬ。第一其れ以前に、己の精通を先ず速やかに一族郎党に報告せねばならぬ事自体、其れを祝福される以上に耐え難い屈辱感に基づく抵抗を感じるのだ。

 そしてもう一つの疑問。女陰からの出血を斯様に盛大に祝福する儀式が存在する一方で、陰茎からの精液の初噴出を、盛大で有ろうが無かろうが祝福する儀式など聞いた事が無い。こう述べると何時もの如く「貴様は初射精を盛大に祝って欲しかったのか」と曲解する方々が数多存在する事と思われるが、祝福される事も、そして将来発生するかも知れぬ祝福する事も、真っ平御免である。抑も現在遍く実施されている初潮の儀式にせよ、祝福する側自体、他人の女陰からの出血を余りに直截的に「此善き哉」と評価する事自体に何等恥ずかしさを感じぬのか。


2002/01/19

のぞみとのぞき

 丁度一月前の毎日新聞「余録」に於いて私の嘗ての半生を覆すかの如き新事実を目にした。現在では列車名としても用いられている「のぞみ」なる語は元々「のぞき」と同根とも言われていると、「岩波古語辞典」に紹介されているとの事。当然「余録」の末尾も其の事を踏まえ、(「のぞみ」を運行している)「JR東海は航空各社の動きをのぞいて」云々と締め括られている。

 成程、普段目にしたり利用したりする列車名が実はセクシーな裸体或いは裸体以上にセクシーな容姿若しくは行為を窃視する行為と同根である旨は普段国語に接しておりながら全く知らなかったのだ。原因は明らかであり自覚もしていた。私が通常日本語を操る際に参考とする書物として唯一不足していたのが古語辞典であったのだ。

 書店に行けば比較的安価で購入出来る古語辞典も、いざパソコンを前に作品をしたためる場合には検索時に若干億劫になる。国語辞典にせよ漢和辞典にせよ類義語辞典にせよ「現代用語の基礎知識」にせよ、其の他英和や和英や六法全書や地図や動物図鑑や競馬データベース等、凡そ「エゾシカの嘶き」執筆に欠かせぬ資料は、学生時代に購入した「朝日新聞用語の手びき」を除き全てパソコン内に納めて居る事を鑑みれば、当然古語辞典も電子媒体で入手すべきと考え、偶々大阪に足を運んだ序でに昨年開業した大型電器店にて古語辞典ソフトを漁りまくった。而るに残念乍らどういう訳か中国語辞典や朝鮮語辞典や仏語辞典の類は存在すれど、肝心の日本語である古語辞典は何処をどう探しても見当たらぬ。

 此の儘名古屋に戻るのも芸が無いと思い購入したのは「新明解国語辞典」。マニアならずとも夙に知られている此の辞典の些か偏屈的な言語解釈は、例えば「恋愛=特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」に代表される処である。此の辞書で在れば、岩波古語辞典が示唆した「のぞみ=のぞき」説を上回る珍解釈が期待出来ようと思い、帰宅後喜び勇んで新明解国語辞典にて「のぞみ」及び「のぞき」を調べてみた。

 「のぞみ=よりよい事態の実現を心から期待する思い」は兎も角「のぞき=覗くこと」には期待が大きかった分怒りすら覚えた。尤も「覗き趣味」の解説にあった「人の私生活の秘密などをこっそりうかがって悦に入る趣味」の「悦に入る」の部分に、若干なりとも新明解国語辞典らしさをこっそりうかがって悦に入った次第。


2002/01/18

地名と駅名

 何時もの如く「筑紫哲也NEWS23」を観ていて相変わらずの原稿読み違えに気付く事となった。滋賀県の地名であり新幹線の停車駅としても其の名を知られている「米原町」。原稿で此を「まいばらちょう」と呼んでいたのだ。確かに新幹線の駅名は「まいばら」であるのだが町名は「まいはら」が正当。滋賀県東部に於いて深夜に各家庭でテレヴィを破壊する暴動が発生していた事は想像するに難く無い。尤も、小宮悦子が駆け出しの頃に新幹線の駅名である「小倉」を言うに事欠いて「おぐら」と読んでいたのに比べれば其の罪の程度の軽さは推して知るべしであろう。

 抑も駅名と町名とが微妙に食い違っている事自体に事の問題が存在するのだ。此が例えば更埴市(2000/01/02参照)の顔が「屋代駅」である様に全く異なる場合は問題無い。問題は、旭川市(北海道)と市の中心駅である旭川駅の読み方が時代によって「あさひかわ」だの「あさひがわ」だので区々だったり、留萌市(北海道)の中心駅が数年前迄「留萠駅」であったり、鶴舞(「つるま」が正当らしい)公園(愛知)の入口の駅名が「鶴舞(つるまい)」であったり、挙げ句の果てには邇摩郡(島根)の仁摩町にある駅が仁万駅(因みに読み方は何れも「にま」)と、無茶苦茶なものすら存在する。

 斯様なケースは何故発生するのか。余程自治体と当時の鉄道事業者との関係が上手くいっていなかったに違い在るまい。町長が自治体の記念イヴェントに敢えて駅長を招待しなかったり、駅長が敢えて町民に不利なダイヤ改正を当局に働きかけては北叟笑んだりと、小学生の喧嘩の様な低レヴェルの争いを続けてきた結果なのであろう。更に言えば上記の地区に於いては未だそういった争いが、「町長は駅のトイレを使用する際に態と小便を便器から外して放尿する」だの「駅長は町長が駅のトイレを使用しようとしたらすかさず『現在清掃中の為使用出来ません』なる立て札を立てたりする」などといった形で継続されているのであろう。自治体と駅名との関係から意外な事実も垣間見られるものである。


2002/01/17

誤報の代償

 「エゾシカの嘶き」といえば日本経済新聞との只ならぬ関係が巷間に知れ渡っているのだが、実は其れ以外にも、普段一日一度は朝日新聞社のウェブサイトに目を通している。

 さて偶々此処で大きな誤りを発見したのだ。「電脳水族館」なるコーナーにてでかでかと投稿写真が掲載されているのだが、其のキャプションには「アザラシ」と記されている。此処だけでは無い。投稿記事の中にも何度か「アザラシ」なる言葉が用いられている。

 而るに彼等の写真を一見しただけで、彼等に耳朶が付いている事が判る。此の時点で彼等がアザラシで無い事は明らかである。というか抑も一目見ただけで、とは言わぬ。カリフォルニア北部で撮影した時点で彼等がカリフォルニアアシカである事に気付かぬとはどういう事だ。否気付かなかった事を今更咎めぬ。問題は気付かぬ儘投稿された誤報を其の儘垂れ流している新聞社の態度に存在するのだ。

 此が若し、殺人事件の被害者を人間では無くアカゲザルと間違えた儘記事にしたり、国務大臣を人間では無くヤブイヌと間違えた儘記事にしたりしようものなら、記者やデスクばかりか社主の首すら吹っ飛び兼ねぬ。而るに何故上述の誤報が許された儘になっているのか。テレヴィやラジオといった一過性の媒体であれば兎も角、此のウェブサイト、丸二日間修正の兆しすら感じられぬ。社主は己の首を洗う準備でもしているのであろうか。

追記:03/02現在修正の兆しは無い。社主の首は余程長いに違いあるまい。


2002/01/16

成人式は誰のイヴェントか

 昨年度の成人式に於ける阿呆達の乱痴騒ぎについては敢えて「エゾシカの嘶き」で話題にする事は無かった。元々彼等を私と同じ人種、況や私と同じ「成人」という一括りで論じる事に多大な抵抗を感じずには居れず、私の方こそ奴等と同じ「成人」である事を拒否したいと思った位なのだが其れでは一体彼等を如何なる範疇で括り述べれば良いのか大いに悩んでいたのだ。「阿呆」「日本語を話すサル」「製造物責任法の咎を受けるべき人物達の欠陥製造物」等考えてみたのだがそれぞれ従来其れ等の範疇に属していた者或いは物達に対しても余りに失礼では無いかと思い、触れようにも触れる事能わぬ儘時機を逸してしまった次第。

 さて今年の成人式。昨年の反省を踏まえて自治体が数々の趣向を凝らしていた模様。抑も何故成人側でなく自治体側が「反省を踏まえ」るのか全く理解出来ぬのだが、報道に依れば「単なる講演で成人が飽きぬ様に」保護者同伴やビンゴ大会やオークション大会やテーマパーク貸切やカラオケ大会なんぞが催された模様。

 従来型の成人式についての是非を論じる迄も無く、たかだか講演如きで飽きる成人なぞ成人に非ず。左様な事位此等餓鬼共は気付かぬのであろうか。保護者同伴。事も有ろうに保護者から離れ親権の同意無しに契約が可能となる年齢を寿ぐイヴェントに於いて保護者同伴とは笑止千万。ビンゴやオークションやカラオケ。何れも高校の文化祭だの大学の合コンなんぞで嫌と言うほど愉しんでいる奴等がそろそろ左様な遊戯と決別すべき年齢で自治体を挙げて嬌声の中老いも若きも愉しむとは。

 何処の自治体も余程成人式予算が潤沢に組まれており毎年何らかのイヴェントを開催せざるを得ぬのであろうと思ったのだが、実はそうでは無く、自治体の上層部が密かに妙齢となった成人の母親を眼にして和服姿の儘昆布巻きを愉しむ光景を想像し視姦したり、一度で良いからビンゴやオークションやカラオケを自分達自身が合法的に自治体の経費で存分に愉しみたいなどという自治体上層部の願望が今年彼方此方で実現したと解するのが相当では無かろうかとすら思わざるを得ぬ。


2002/01/15

牡蠣しゃぶ

 私の敬愛する棋士である米長邦雄永世棋聖は、俗に「泥沼流」と称される、劣勢の将棋をひっくり返し粘り勝つ棋風を身上としているのだが、彼は著書「逆転のテクニック」の中で、逆転術の一つとして「相手よりも一つでも勝っているものを見つけ、それを強調することが逆転術のコツ」と記している。学生時代に其れを読んで感心し、決して将棋が格段に強くなった訳では無いものの、幾ら劣勢の将棋に於いても其の時点に於ける己の長所を見付けては希望を持ちつつ将棋を指す事により、対局中の愉しみが深まる事となった。延いては将棋のみならず、実生活に於ける不利な局面に於いて、自暴自棄になる前に何か其の局面に於ける己の長所を見付けようとする姿勢が多少なりとも身に付いたように思える。

 さて、其の不利な局面が訪れる事となった。何時もの牡蠣サイトの牡蠣を昨日現地にて購入したは良いものの、帰宅は夜になり翌日からは仕事がありという事で、折角正に旬を迎えて膨よかに育った、プリプリ艶艶で見るからに美味間違い無い牡蠣を眼前にして居ながら、心行く迄調理に時間を割くことが出来ぬのだ。予め想定していたとは雖もいざ素晴らしい牡蠣を手にすれば調理欲が否応無しに高まる事により、調理時間の不足を嘆かざるを得ぬ。

 此処で私は先述の米長邦雄永世棋聖の言を想い出した。此の不利な局面に於いて現在与えられた条件下での長所とは何か。膨よかかつプリプリ艶艶という食材の美しさに他ならぬ。然からば此を最大限に活かす調理法を考えれば自ずと道は開けよう。其処で閃いたのが「牡蠣しゃぶ」である。見た目の美しさを其の儘に活かす事で、調理や準備に大きく時間を割く事無く見た目に違わぬ味が期待出来よう。鍋とは違って牡蠣以外の食材を準備し下拵えする必要が無いのも牡蠣しゃぶの強みである。

 早速調理に掛かろうとしてはたと気付いた。牡蠣しゃぶに必要不可欠な土鍋が無い。加えて牡蠣しゃぶの付け汁やしゃぶ湯用の出汁も存在せぬ。結局牡蠣しゃぶの具材と水しか存在しないという事では無いか。己の豪放振りに些か呆れつつ近くのダイエーに土鍋、付け汁、出汁用の鰹節を購入しに向かう。狭い寓居の事を考えれば別に鍋パーティーを催す訳でも無く、二人分程度の容量の安価な土鍋で充分。付け汁には嘗て生牡蠣を食するに当たり購入したは良いものの食する直前に全て床に零してしまったポン酢を選びリターンマッチを試みる。しゃぶ湯の出汁には本来湯を円やかにする事を最大の目的として昆布であっさりと作るべきなのだろうが、個人的に出汁を採った後の鰹節をしがしがと噛みエキスをチウチウと吸うのが密かに好きな事に加え鰹節が安かった事から、敢えて鰹節を選んだ次第。

 さて此で牡蠣しゃぶの準備が整った。先ず土鍋を煮て一旦上薬を落とし、火加減に絶えず気を払いつつ鰹節を煮出してしゃぶ湯を作る一方、牡蠣の剥き身を氷水と塩で軽く洗う。愛用のポケモン茶碗にポン酢を注ぎ、後は牡蠣を湯通しするのみ、という場面になって重大な事実に気付いた。卓上焜炉を持ち合わせていない為、牡蠣しゃぶを居間で愉しむ事が出来ず、事もあろうに焜炉を前にして狭いキッチン兼脱衣場で立った儘食事をせざるを得ないのだ。

 其の労苦の分、牡蠣の美味しさに期待が掛かる。一体何処をどう箸で摘めば良いのか悩まざるを得ない位膨よかな牡蠣。此を漸く摘んでしゃぶ湯を静かに潜らせた処、何と牡蠣の襞が正に花開くかの如くふわりと揺蕩いながら綺麗に拡がるのだ。視覚でも存分に美味しさを愉しみつつ、完全に襞が開き切った頃に掬ってポケモン茶碗に取る。牡蠣の内部迄熱が通っていながら、其の身の甘さ、噛んだ時に口一杯に拡がる玉子ボーロの如き味は生牡蠣と然して変わらぬ。美味い美味いと次々と口に運ぶ内、ポン酢が却って疎ましくすら感じられ、途中からは何も付けずに食して純粋に牡蠣のみを味わう事とした。

 牡蠣を全部食べ終わった後、残ったしゃぶ湯で粥を作った。牡蠣のエキスが僅かながらも染み出て、鰹節と相俟って水の不味さや米糠の匂いを拭い去って此亦美味。而るに粥を食しつつ、己の愚かさに気付いた。最初から牡蠣雑炊にしておけば一石二鳥であり、ポン酢の準備が不要であったばかりか、居間で寛いで食する事も可能であったでは無いか。


2002/01/14

牡蠣職場

 朝から饂飩店三店を回り、今年二度目の参詣場所として四国を発つ間際に四国八十八カ所巡礼第一番札所に立ち寄り我々は一路坂越(兵庫)を目指す事とした。普段通信販売でお世話になっている牡蠣サイトの管理人が店舗を構えている地で一度直接牡蠣を購入し併せて其の管理人に日頃の御愛顧として御礼の一つでもお伝えようと思ったのが其の理由であり、事前に連絡を差し上げ少しばかりの手土産を持参し店舗を訪れた。

 先ず目に入ったのが、其の牡蠣サイトの表紙を何度か飾っていた牡蠣船・第八玉吉丸。牡蠣をふんだんに積んだ儘碇泊していた姿を目の当たりにし、此があの第八玉吉丸かと感動していた。

 様々な海産直販店舗が並ぶ中、人伝に店舗を探し当てた処、其処は店舗兼牡蠣加工場と成っていた。程無くして作業場から牡蠣サイト管理人がお忙しい中出て来て下さり、私及び同行者の為に時間を割いて、牡蠣剥き作業所や牡蠣洗い場等を拝見させて下さりながら懇切丁寧に我々の口を突く疑問のみならず心中で抱いている疑問に対しても心の奥底を読み取るかの如く逐一氷解させて下さったのだ。

 彼女の心尽くしに感激して其の訪問は終わった、訳では決して無い。私が心底素晴らしいと感じたのは彼女を含め其処に居た人々の親切のみならず、店舗兼加工場にいらっしゃった沢山の方々が「美味しい牡蠣を提供する」という唯一無二の信念の下、非常に沢山の牡蠣を次から次へと一生懸命神業の如く真剣に処理してらっしゃる様子。其処は「仕事場」という意味の「職場」を通り越して「信念を一にする職人達が其の道に邁進する」という意味での「職場」、更に言えば「道場」の様相さえ感じたのであった。

 「職場」に勤めて何年が経とうか。己の周囲に斯様な「職場」が存在したか。存在したとして私が斯様な「職場」に相応しい人物であったのか。抑も斯様な「職場」に相応しい人物たるには。御土産の牡蠣を手にしつつ、此を如何に料理すべきかと共に斯様な悩みを抱きつつ新幹線車中で思索に耽った次第。


2002/01/13

続・饂飩欲の行方

 例年初詣の場所には拘っていたのだが、今年は此処に至る迄初詣を行わなかった。本来香港にて最近頓にブームとなっているイスラム教寺院での初詣を愉しもうとしていたのだが、其の寺院余りに敬虔であり、同好の士以外の拝観をそう簡単に受け付けぬというスタンスを貫いて居た為、イスラム教を単なる時代のキーワードとしか認識せずに初詣を行おうとしていた己の未熟さを鑑みてややもすれば「冷やかし」とも取られ兼ねぬ初詣を断念したのであった。

 そして今日になり初詣として善通寺に参る事とした。実家の心の拠所が真言宗である私にとっては、真言宗善通寺派総本山への初詣というのは或る意味非常に真っ当な行為と言えよう。其れが喩え、饂飩店七店を巡り八玉を食する序でであろうが。

 さて此の日も前日に引き続き、饂飩評論なんぞ烏滸がましいと思われる私は全く別のネタに触れる事とする。宿泊したホテルの眼前に家屋なのか城なのか判別せぬ立派且つ珍妙な建物が存在して居り、近づいてみた処有刺鉄線や監視カメラなど物々しい雰囲気がぷんぷん漂う。表札を見て納得。どうやら「エゾシカの嘶き」にも縁の深い穴吹工務店(1999/09/29参照)社長邸宅であった模様。そういえば穴吹工務店のウェブサイトからしかさん(1999/09/29参照)にメールを送って二年半。未だ返事を頂けぬ理由の一つでも伺えないかと切に感じ入った次第。


2002/01/12

饂飩欲の行方

 今日からの三連休を前に「旅欲の行方」を執筆しなかったのには理由がある。決して此の三連休、何処にも行かずにじっとしている訳では無く、旅行を愉しむ(而も希有なる事に同行者が存在する)にも拘わらず、今回の旅行は旅欲の発露というよりは寧ろ「饂飩欲の発露」であるからである。

 高まる饂飩欲を保ちつつ、早朝から前回(1999/12/26参照)と同じ饂飩評論家と合流し一路讃岐へ。昼食のみで四店を回った後、暫し胃を落ち着け夕・夜食で三店。一店一店の饂飩評論を行う程の力量や資格など無い私には此処で述べるべき話題は極めて限定されよう。従って敢えて此処では瀬戸大橋の与島サーヴィスエリアに於ける厠について記すのが適切と考えられよう。

 道中立ち寄った与島サーヴィスエリアで放尿しようとした処、何気無く厠の有りそうな方向に進めば「あと60米」との看板に遭遇。別に其の看板の位置に特段の意味がある訳では無く、切りの良い50米位の処に看板を設置すれば良いのでは無いかと思った次第。

 そして放尿を終えて手洗いを済ませ厠を出た処我々は己の眼を疑わずには居れぬ光景に遭遇したのだ。厠の入口に身長程の直径の円に囲まれた、フォークとナイフを交差させたデザインがあしらわれていたのだ。飲食の象徴たるデザインを飲食物排泄の場で披瀝する其の主張に我々は一頻り驚喜した後深く考え込まねばならぬ事となった。

 此のデザインの意味として考えられるのは、一つには、幾ら素敵な料理を食べても何れは排泄されるものであるという哲学的思想表現。他には、食事と排泄との永遠に続く輪廻を説く宗教的思想表現。そして最も考えたくなかったのが、排泄物は素敵な料理たり得るという栄養学的・料理学的思想表現。何れが正解なのか、好奇心と恐怖心との狭間で真相解明に躊躇う次第。


2002/01/11

一蘭

 遂に此の日が来たかと諦念とも歓迎とも言えぬ感情が私を去来した。昨日の日本経済新聞夕刊。「顔をあわせないラーメン店」なる見出しで、私が其の味に魅せられ遙々名古屋から博多まで足を運ぶ切っ掛けを作ったラーメン店「一蘭」(2001/09/30参照)が採り上げられていたのだ。当初は九州限定でチェーン店を広げており昨秋満を持して東京進出したばかりの店舗を、私が「エゾシカの嘶き」で大々的に喧伝して以来日本経済新聞が記事にする機会を虎視眈々と狙っていた模様。

 九州ですら常に満員状態であり食事時間と重なれば其れこそ行列という混み具合であり、県外人の私としては必要以上に広めたくないという意識を抱く一方で、此の美味しさは「エゾシカの嘶き」程の人気ページであるからこそ採り上げる価値があるとの判断もあって軽く採り上げたのだが、此以上の混み具合が想定される東京の店舗を、「エゾシカの嘶き」に匹敵する位の人目に触れるメディアが採り上げようとは。勿論美味しい店がメジャーになって悪かろう筈が無いのだが、いざ自分が足を運ぼうとした時に大混雑状態でなかなか麺に有り付けぬといった状況は些か堪らぬ。

 此処は一つ、日本経済新聞は前者の考えに基づき嬉々として記事にしたものと解し、九州限定ラーメンの東京進出を寿ぐファインプレイであるものとして私も喜ぶ事にしよう。我々の力至らず客足が伸びずに撤退される事程悲しい事は無いのだ。


2002/01/10

続・ナメシ

 毎日の如く読者に深い教養を与え洞察眼や話題造りの一助としても幅広く用いられている「エゾシカの嘶き」も、偶には逆に読者の方から深い教養を与えられたり洞察眼や話題造りのネタを頂く機会も存在する。

 2001/12/11で触れた「菜飯」。耳で聞いたときには何の事か判らなかった此の単語、IMEを用いて表示された漢字を目にして初めて其の概念を把握する事が出来たのだが、どうやら此の語が私のみならず一般人にとって馴染みある単語である事が、「エゾシカの嘶き」フリークの方からの指摘で判明したのだ。

 夏目漱石「坊っちゃん」で菜飯が登場したとの事。主人公の「坊っちゃん」が松山(愛媛)に赴任した際、松山では「…ぞな、もし」と語尾に付けるのを茶化して「『なもし』だか『菜飯』だか知らないが」云々という遣り取りがあったという御指摘を受け、記憶の片隅から「坊っちゃん」内で左様な光景が存在したという事実が発掘されたのだ。

 慌てて原典に当たってみた処、あったあった。作品のクライマックスの一つである、坊っちゃんと寄宿生との口論のシーンで、のらりくらりと言い訳を繰り返す寄宿生が「…ぞな、もし」と繰り返す様子に切れる坊っちゃん。「『…第一先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない』とあべこべに遣り込めてやったら『なもしと菜飯とは違うぞな、もし』と云った」のが正に其のシーンである。

 苟も自分で「菜飯」をネタにしておき乍ら「坊っちゃん」程の作品に気付かぬ私の愚かさを感じ入ると共に、今回頂いた御指摘により埋もれた知識を掘り返す事が出来ただけで無く文学欲自体が高められる結果となり、いたく感激しつつ「坊っちゃん」を再読した次第。


2002/01/09

正しい検索エンジンの使用法

 「エゾシカ」だの「エゾシカの嘶き」だの私の本名などで己のサイトが何番目辺りに登場するかを知りたくて始めた此の趣味(2001/02/13参照)も徐々に発展し、知人の名前を次から次へと検索エンジンに放り込んでは出て来る結果に納得し驚嘆するのだ。少なくとも私の知人の中で本名でウェブサイトを開設していると公言する者が皆無な為、大抵の場合知人の名前を検索した処で姓名共に一致するものが検索される事などまず無く、よく似た名前や同姓同名などの人物が出て来るに留まる。尤も偶にはどう見ても本人の名前が用いられているとしか思えぬページが表示される事があるり、先日など有名著述家のサイトの中に会社の後輩(2000/09/08参照)の名前を見付け、拝読する内に彼の類い希なるキャラクターが高校時代から発露されていた事が判明し驚いたのであった。

 さて、其の遊びの一環として、「ヤブイヌ」なる語を検索エンジンに掛けてみて如何なるサイトが登場するのか、そして人々がヤブイヌについてどの様に論評しているのかをチェックする機会が屡々存在するのだが、大抵のものには目を通しており少々飽きを感じつつあった。其処で今回、「やぶいぬ」「やぶ犬」「藪犬」なる言葉でも検索を掛けてみる事で新鮮なサイトが表示されないか試してみた。

 期待通りのサイトが次々と現れた。「やぶいぬ」というバンドが存在する模様。数グループでライヴを開いたりアルバムを作成したりと、群れで生活するという野生のヤブイヌならではの習性を持っている模様。

 何処ぞの県立高等学校の吹奏楽部で用いられている専門用語集に「やぶいぬ」が存在した。本来の習性を紹介し、転じて「たいして目立つ存在でもないのにいつの間にか、メイン的存在になってしまうものを指す」との事。言い得て妙。というか斯様な代名詞として「やぶいぬ」が用いられているとは、ヤブイヌの名称や習性に対する認知振りも相当なものであると言えよう。勿論此の学校が、三大ヤブイヌ都道府県である神奈川県立(因みに他の二都道府県は言う迄も無く愛知県と京都府である)である事も認知度が高い理由の一つとして考えられようが。

 「藪犬」では香港のサイトが登場した。犬科を中心とする獣達の一覧表。嗚呼此のページに早々に気づいて居れば、香港動植物公園に行った際に広東語で書かれた案内板の意味も多少は理解出来たであろう。無念哉。

 何処の検索エンジンであろうが、使用法欄には「複数の表記法が存在する場合は、表記法を変えて再検索する様に」とされている。今更乍ら、此の基本が如何に大切かを思い知った次第。


2002/01/08

干支引継

 毎年年の瀬には通天閣(大阪)にて「干支引継式」が実施され、当年の干支動物と翌年の干支動物とが通天閣内で顔を合わせる。子丑寅卯等は問題無かろうが唯一辰だけがどういった引継を行うのか気になっていた処、数年前の報道に於いてタツノオトシゴが登場しているのを目にして、十二年に二度の事とは雖も流石に架空の動物を探し求め呼び付ける事はせぬよのうと感じ入った。此なら如何なる干支であろうが実在の動物の顔合わせが可能となろう。

 尤も、最初から私が提唱した正統十二支(2000/12/20参照)をしておけば、苦し紛れに辰の代役としてタツノオトシゴを指名せずとも、子守熊であろうが象であろうが海豹であろうが問題無くお越し頂けるのだ。天王寺動物園がシンボルマークに象をあしらい、近年頓に子守熊の飼育に注力し園の顔に育て上げようとしているのは、私の主張する正統十二支が将来導入される事を見越している為と解するのが自然であろう。


2002/01/07

盛り立てる

 人物やイヴェント等を支援し成功に協力する事を「盛り立てる」と言うが、よくよく字面を見れば此が殊の外猥褻なのだ。「盛る」と「立てる」とを同時に行う事、即ち性欲に従い発情し肉体をぶつけ合いつつ陰茎を勃起させる行為を指すものと言えよう。而るに一方では、順序的には「陰茎を勃起させつつ発情し交わり狂う」、即ち「立て盛る」の方がより適切では無かろうかとも思ったりするのだ。

 其れはさておき、「盛り立てる」に実際上述の意味が密かに存在するのでは無いか、というよりは存在すれば非常に愉快では無いかと思い、広辞苑を繙いて愕然。「もりたてる」は「盛り立てる」では無く「守り立てる」が正当では無いか。何気無い単語から猥想を膨らませて良い気分になっていた矢先に抑も思考の根幹を恰も下手な達磨落としの如く崩される事となり、今の今迄正式な漢字表記を知らなかったという無知への恥と共に、折角の幸福な猥想が崩されたという無益への徒労感をそれぞれ強く感じる事となった次第。


2002/01/06

漢字デザイン

 漢字をあしらいデザイン化した帽子やTシャツが海外で人気となっており最近では日本にも其の流行が飛び火している様なのだが、どうも此等の漢字は決まって珍妙なのである。正確には漢字自体が珍妙なのでは無くデザインとして用いるのに珍妙というものであり、いきなり帽子の中央に「豚」と書いてあったりTシャツの中央に丸で囲んだ「汁」という文字が入っていたりするのを目にするにつけ其のセンスに脱帽せざるを得ないのだ。

 此の傾向は香港でもみられ、帽子売場やTシャツ売場には斯様なデザインが溢れ返っていた。其の中でも私が驚嘆したのは、香港文化博物館を訪れた際に土産売場で見掛けたTシャツ。黒字に白で「獣穴」。獣の住処と獣の性器とを掛けたものと思われ、私の目を惹き購買意欲を極限迄高めるのに十分であった。只非常に残念な事に、此のTシャツにはSサイズしか存在せず実用に用いる事能わぬ故、泣く泣く購入を断念せざるを得なかったのだ。

 結局帰国前日に土産店でTシャツを漁りまくり私をそそらせるデザインのものを探し求めた結果、「象鼠」なる文字に矢鱈リアルな両者の絵が描かれたものを購入し、早く夏が訪れTシャツを露わに街を闊歩する事を待ち侘びる次第。


2002/01/05

検索エンジン・2001総括

 毎月月単位で実施している検索語ランキングを含むアクセス解析を、2001年という単位で行ってみた。

 先ずは月別アクセス数。大小月を揃える為一日平均で把握してみると、睦月〜皐月はほぼ横ばいだったものが水無月に微増となり、文月に一旦元の水準に落ちた後葉月〜神無月は大ブレイク。処が悲しい事に霜月・師走は「エゾシカの嘶き」公開以降最低とも思えるアクセス数に陥ったのだ。大ブレイクの原因は札幌・薄野ソープランド情報サイトからのリンク(2001/08/01参照)の御陰だと思われる。而るに其のリンクが消失するや否やアクセス数が以前に増して落ち込むとは解せぬ。更に言えば、週単位で更新が滞っていた今年第一四半期のアクセス数がほぼ一定というのも納得が行かぬ。

 曜日別アクセス数を見れば、従来通り平日のアクセス数が週末の其れを上回っている傾向が続いているのだが、其の中でも何故か水・金のアクセス数がほぼ週末と同水準に落ちている事、週末でも土曜の落ち込みが異常な程大きい事が目新しい発見である。尤も此処暫く、金土の夜は気が付けば執筆せぬ儘眠りに落ちている事が多い所為かも知れぬ。

 時間帯別では、従来「エゾシカの嘶き」ゴールデンタイムと言っても過言では無い、ビジネスマンの始業時刻や昼休みのアクセスが減り、最もアクセス数が多い時間帯は深夜一時台というとんでも無い時間帯となった。此が意味する処は容易に分析が出来よう。即ち従来は出社後「エゾシカの嘶き」を読んでいれば其の日のネタを其の日の業務に活かす事が可能であったのだが、ビジネスマン同士が生き馬の目を抜く様に生きる現代社会に於いては一刻一秒が勝負となる為、「エゾシカの嘶き」が更新されるや否や目を通し、幾ら深夜であろうが其の場で「エゾシカの嘶き」のネタを即ビジネスに活かすべく策を練る必要が生じたのであろう。

 愈愈お待ち兼ねの検索語ランキング。一位は二位にダブルスコアの大差を付けて「包茎写真」が立つ事となった。彼を2001年度代表馬と呼んでも良かろう。次いで「強姦小説」「エゾシカの嘶き」「強制女装」「陰茎写真」「エゾシカ」「強制女装」「女性専用風俗」とお馴染みの単語が上位を占める事となった。

 月単位で見れば上位に来なかったものの、年度単位で然りげ無く上位に進出してきたのが「大人のパーティー」「獣愛」「犬との性交」「アナルヘルス」。普段目立たずとも長い目で見れば案外活躍している様子は、一昔前のステイゴールドを彷彿させよう。

 其れにしても、エゾシカ関連及び「獣愛」を除き、一年を通してみても相変わらず私の作品とは全く縁の無い単語が続々と上位に登場している様子は何とも悲しいものである。


2002/01/04

検索エンジン・2001/12

 2001年を締め括る検索語ランキング、ラストに相応しく「エゾシカの嘶き」が見事一着に輝いた、という光景を誰もが想像しているのであろうが案に反してまたもや実力最強馬「包茎写真」が二着の「エゾシカの嘶き」にダブルスコア以上の差を付け圧勝した。因みに二着にはもう一頭「強姦小説」が同着に入り、単勝、複勝、馬連等無難な結果に落ち着いた次第。そして長月のランキング(2001/10/01参照)で好走した「おめこしたい」が四着。「おまんこしたい」では無く「おめこしたい」である処が注目されよう。次いで「陰茎写真」「強制女装」というお馴染みの顔触れが続く結果となった。

 此処迄書くと、相変わらず何時もの猥褻語が上位に入っているだけでは無いか(因みに二着の「エゾシカの嘶き」は断じて猥褻語では無いのだが)との指摘を受け兼ねぬのだが、今回特筆すべきは「牡蠣飯」「若牡蠣」「殻付牡蠣」なる語がそれぞれ上位から顔を出している事である。従来には全く見られなかった傾向であり、「エゾシカの嘶き」が只単に日々素敵な文章を提供するのみならず人々の生活文化にも多大な影響を与え続けている点が食生活の観点からも支持されている事実が判明する事となり、牡蠣関連作品をしたためずには居れぬ心境に私を至らしめた牡蠣サイトに深謝する次第。


2002/01/03

小心

 香港の飲食店に於いては呆れる程食器の片付けが早く、皿を空けて一息つこうかと思うや否や店内の其処彼処で待機している片付人が素早くやってきて無言で皿を片付ける。日本ではセルフ片付けが当然のマクドナルドですら、何処に視線を移しても必ず片付人が目を光らせており、飲食が終わってトレイに敷いてある広告を眺めている最中であろうが即座にトレイが片付けられる有様である。

 さて、香港滞在最終日の夜、香港滞在中最初で最後の豪華食事を摂る事とし、其れ相応の飲食店に足を運んで香港ならではの珍味を味わう事とした。先ず注文したのが鮑の牡蠣油煮。僅か一切れで此程の値段なのかと驚きつつたった二口で食べ尽くす。後は名残惜しさを精一杯感じ取ろうとして皿に残った牡蠣油をスプーンで掬い取り食そうとし、其の前に口中を漱ごうとプーアール茶(此程の漢字がコンピュータでは表示出来ないのか)で満たした瞬間、正に狙い澄ましたかの様に刺客が現われ牡蠣油の残った皿を片付けてしまったのだ。此処で一言「持って行く事勿れ」と叫べば良かったものの、只でさえ小心者の私は異邦に於いては一層小心であったのだ。

 滞在五日目ともなれば香港に於ける片付の素早さは充分に認識しており、初めての豪華料理である鮑の味を吸った牡蠣油を大切に賞味しようという気持ちも充分に存在していた。にも拘わらず一瞬の油断が悲劇を招く事となった。広東語では「細心の注意を払う」事を「小心」と言う。広東語に於ける「小心」の欠落と、日本語に於ける「小心」との両者が私の中で相俟って引き起こされた悲劇と言えよう。


2002/01/02

支出分析

 日常生活に於ける出費には比較的無頓着では無いかと感じている。財布の中身は把握して居らず、取り敢えず何かを購入する際に財布を確認して必要な金額が有ればそう躊躇わず購入する機会が多い。元々高価な財物を衝動買いする事もそうそう無い為、此でも何とかやっていけるのであろう。

 嘗ては資産管理ソフトで日々変化する己の時価資産をチェックしては一喜一憂して愉しんで居た時期があったのだが、程無く株価が急激に下降線を辿る事となり、一憂一憂の日々が続くに連れ其の内チェックする事自体が不愉快になってしまった。

 そんな私ですら今回の香港旅行中は小遣い帳を付けて毎夜収支を管理していた。前回の海外旅行の際に同行者が行って居たのを真似てみた処、普段と異なる金銭感覚を明確に意識する事が出来其れ自体なかなか愉しいものだったのだ。

 さて、航空代及び宿泊費を除いた全支出(クレジットカード利用で負債計上したものも含む)を眺めていて気付いたのだが、支出のジャンルとして最もシェアが高かったのは土産代であり、全支出の三割を占める。次いで多かったのが食事代であり、全支出の二割。

 さて小遣い帳を観ていて意外だった点が二つある。一つは、競馬に費やした金額(賭代、競馬場入場料、競馬雑誌)が全体の僅か五%程度しか無かった事、もう一つは滞在中の全食事代に匹敵する金額を、在ろう事かマッサージに費やしていた事である。何れも好ましいのか好ましくないのか良く解らぬが。


2002/01/01

拘り

 往く年を如何に送り来る年を如何に迎えるかについて拘りを持つ事には吝かで無い。別段大晦日及び元日が直接己の生活に重要な意味を持つ訳では無くそうした意味に於いては記念日としての価値もそう高く無いとすら思っているのだが、私は逆に此の日を「何等かの拘りを持つ事が大いに許容される日」と位置付けており、其の拘りを追究する事が一つの愉しみであると考えている。拘りを持つ事自体は年がら年中可能なのだが、此だと「さあ何か此の日の為に拘らなくては」と思いつつ拘りをあれこれ思案する快楽は得られまい。

 さて其の拘りの一つとして、往く年の最後の晩餐は蕎麦にする事とした。思えば昨年は石巻にてコンヴィニで蕎麦を購入して食し(2001/01/01参照)、一昨年は寓居近くの天下一品にてこってり拉麺を年越し蕎麦とした(1999/12/31参照)。ホテルの一杯数千円の天麩羅蕎麦なんぞには見向きもせず、香港ならではの蕎麦で一年を締めようとしていたのだが、偶々夕刻に訪れていたヴィクトリア・ピークに斯様な私の拘りを見透かして居るかの如く、日本料理店が存在したのだ。

 此は面白かろうと店内に入り、蕎麦を注文する。日本人が経営しているとの事でそう想像を逸脱する物は出て来まいと思ったのが大間違い。一体どうやれば蕎麦を此処迄不味く出来るのかと悩まざるを得ぬ位に麺・汁共口に合わぬ。此が一年の締めとなるとは非常に悲しむべき事であった。

 他の拘りの一つは、新年を迎える瞬間に街に繰り出し異国でしか味わえぬ喧噪に包まれようというものであり、夜景を見つつ飛び交う広東語に浸っていた。此の儘新年を迎えようとした其の瞬間、隣に居た若者達が麦酒で乾杯しながら日本語で盛り上がったのだ。人が異国気分を満喫しつつ新年を迎えようと心に決めていた矢先に日本の何処でも味わう事の出来る喧噪に触れてしまい、別段彼等には何等責任は無いとは判っていても、落胆する事頻りであった。

 さて一眠りして元旦を迎えたのだが、午年を飾る年賀状に堂々とヤブイヌの写真を用いる私ですら、何か午年に相応しい事をしようという拘りを見せ、元日から競馬三昧に耽る事とした。世界中で午年の初っ端から競馬を出来る者などそうそう居まいと思いつつも、実は寓居から一時間圏内の中京競馬場や笠松競馬場でも元日競馬が愉しめる事を想い出し、敢えて異郷の地で元日競馬に耽るという拘りの意義に対して疑念を抱かざるを得なかったのだ。


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