エゾシカの  2001/09/01〜2001/09/30

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2001/09/30

旅欲の行方・2001/10

 考えてみれば、文月(海の日関連)〜葉月(休日取得)〜長月(秋分の日関連)と毎月の様に訪れた三連休、此に留まらず神無月にも体育の日関連で三連休が生じて居るでは無いか(因みに今年は此の後霜月、師走にもそれぞれ三連休が発生するのだが、業務の都合上此等が三連休どころか一日たりとも休日とならぬ可能性すら存在する為敢えて其の存在に気付かぬ振りをする)。

 という訳で、当然の如く今度の三連休も旅欲を満たす事にした。行先は旅行直前に宿が確保出来ずに断念する事となった(2001/07/11参照)九州、其の中でも門司及び柳川(何れも福岡県)を訪れ、現地にて二年振りに「一蘭」の博多ラーメンを食する事とした。宿は前回断念時とは逆に、福岡市内でのみ確保可能であり、門司と柳川の中間点で宿泊するという極めて変則的な滞在形態を余儀無く強いられる事となった。

 其れにしても此程迄に迷う事無く目的地や宿泊地がが定まる旅行も私にしては極めて珍しい事と思いつつ、真の迷いは此処から生じるのであった。門司、柳川でそれぞれ一日過ごしたとしても時間が余り、観光以外に何をすべきかを検討せねばならぬ。其処で何時もの如く動物園を巡ろうと情報収集を行った結果、今回の行程で足を運ぶ事が可能な動物園は福岡市中央部及び海岸部、北九州市(門司の属する市)、大牟田市(柳川の一寸先)の四箇所である事が判明。内福岡市中央部に位置する福岡市動植物園は一度訪れた事があり、残るは三箇所。私の知人の北九州出身者といえばコヨーテ顔の先輩にサル顔の後輩と獣顔が揃っている事から、北九州市の「グリーンパークひびき動物ワールド」への期待が否が応でも高まるのだが、此が交通面で頗る不便。門司と福岡との中間点の外れに位置し、足を運べば其れだけで一日が潰れ兼ねぬ。となると必然的に残りは二箇所。門司、福岡海岸部、柳川、大牟田を如何に時間の過不足無く周回するか。一方で効率追究をせせら笑うかの如く夜は福岡市中心部にて宿泊及び「一蘭」のラーメン賞味という条件を忘れてはならぬ。折角周回地が早々に決まったにも拘わらず現地での行程検討に悩む事になろうとは。


2001/09/29

音楽文化

 先日「ワンダフル」を観ていた処、中島みゆきの過去のシングル売上ベスト10が紹介されていたのだが、彼女のシングルミリオンセラーが僅か三枚しか無い事に只管驚いた。さほど彼女のCDやレコードを購入していない私ですら上位10曲は容易に想起され或る程度は口ずさめるものであるばかりか出演者の二十歳前後の小便臭い女性共ですら相当の曲を認識していた模様であったにも拘わらず、シングルセールスという観点からは斯様な結果となるのだ。そう考えると、現代の音楽市場事情からみれば少ないシングルセールスに加え、歌謡番組をはじめとするメディアへの露出が極端に少ない彼女の曲が此程迄に時代を超え人口に膾炙している事は非常に素晴らしい事と言えまいか。

 其れにしても、ちょっとしたタイアップ等のマーケティング活動による楽曲が次々とミリオンセラーとなる昨今、20年後も容易に想起されるような曲というのは如何程存在するであろうか。後世に其の存在を伝承される精神的生活様式を「文化」と呼ぶので有れば、現在の音楽市場は「文化」とは一線を画して居るのでは無いかと思えてならぬ。


2001/09/28

手酌

 飲み会の席に於ける重要な儀式の一つに「お酌」がある。メンバー内の力関係に於いて下位になる者が他人の飲食ペースに目を光らせては適時適切なタイミングに於いて容器に酒を注ぐ。自分自身で酌を行う所謂「手酌」なんぞを見つけようものなら慌てて其の酒を奪い取っては一々注ぎ直す。尤も酌を行う方も行われる方も好き好んで行っている訳では無かろう(と思いたい)。自分以外のメンバーに左様な儀式を好むと目される人物が一人でも居ればそうせざるを得まいと思っているのでは無かろうか(と思いたい)。

 さて、此処で私が問題にしたいのは、手酌を強引に遮る輩及び他人の手酌を見過ごす事を頗る無礼千万と捉える輩である。夫婦生活や愛人生活に於いて、妻若しくは愛人が居ながらも自慰を行う者が数多存在し、其れは其れで性行為とは別種の快感が得られると言われている。手酌など許さぬ、酌を勧める儀式を心底好むという人間は、斯様な夫若しくは愛人の快楽追究を理解せずに「私が居るのだから私を抱いて」と無理矢理相手に騎乗位で跨り性交を要求する妻若しくは愛人と共通するものがあろう。同様に、相手に酌をさせるのが当然と思い込んでいる輩は、普段の性行為に於いても妻若しくは愛人の気分や体調を弁えず、いきなり相手の鼻先に己の怒張した陰茎を持って行ってはフェラチオを強要するような輩であると言えよう。

 手酌を巡る各人の意識及び行動から性生活意識を垣間見れば、私にとって苦痛である飲み会も亦楽しからず哉。


2001/09/27

乱暴

 2001/08/02等「エゾシカの嘶き」上で事有る度に触れて居る通り、事の甚大さを殊更矮小化する表現を私は極度に嫌う。とりわけ其の甚大さを正確に伝達する事にこそ意義のある表現であれば尚更である。そういった表現の一つに「乱暴」があるのだが、「強姦」の矮小化表現として用いられる此の言葉、一昔前の「強姦」の矮小化表現である「暴行」をも遙かに下回る位矮小化が為されている。一般的には「暴行」=「他者への暴力行為」(而も法律上は他者に傷害を与えぬレヴェルとされる)、「乱暴」=「危害を加えるか否かは別にして暴れる事」であり、「乱暴」では抑も他者に及ぼす実害すら感じさせぬ表現では無いか。一般的に基礎体力が優位な者が相手の意に反し力ずくで己の性欲を満たし相手方に肉体的精神的に一生立ち直れぬ位のダメージを加えるという卑劣な行為を何故他人の胸座を掴んだり他人の眼前でシャドウボクシングを行ったり制限速度オーヴァーでセンターラインを割りながら自動車を運転したりなどという行為とそう変わらぬレヴェルに持っていくのか。ひょっとしたら己の行為の善悪すら弁えぬ、況や善悪の軽重をやなどという輩が世間に溢れる此の御時世、「強姦」を「乱暴」と言い換える輩は強姦が乱暴と同レヴェルであると真剣に考えているのでは在るまいかとも思ったりするのだ。

 さて今日の「筑紫哲也NEWS23」、強姦のニュースの際、原稿は「乱暴」であったものの画面には聢と「強姦」と表記されていた。マスコミ、就中テレヴィの報道番組に於いて「強姦」なる表現を目にしたのは久方振りでは無かろうか。「強姦」なる表現が追放された理由の一つに「姦」なる文字が常用漢字では無いというものがあったのだが、左様な事など理由にならぬ、其れ以上に強姦を正確に「強姦」と伝えるべし、という其の意気や善し。


2001/09/26

ごんぎつね

 幼少の頃そう長い期間では無かったのだが私の養育に手を焼いた両親から家を追放され当時隣町に居た祖母の元で面倒をみて貰っていた時期が存在した。偶々当時祖母が小学校の用務員を勤めていた事から、人気の無い時間帯に小学校に出入りしては学内を探検し、時折図書室で私にでも読める書物を漁っては独り読み耽り、今迄の友人や家族などといった環境から唐突に隔絶された恐怖や孤独を紛らわせていたのだ。

 其処で愛読していた書物の一つに新美南吉の名作「ごんぎつね」があった。今振り返っても涙腺が刺激されずには居れぬ此の作品、当時は主人公のごんぎつねに対する遣る瀬無さもさる事ながらラストでごんぎつねを殺めた兵十に対する怒りが一際強く、何度も何度も読み返す度に何時か何処かで兵十に会ったら責めてやろうと真剣に思っていたのだった。

 或る日の事、校内をうろついていた処、すっかり顔馴染みとなった小学校教諭と出会い、其処で私は彼に何を思ったか唐突に「ごんぎつねが好きやねん」と語った処、彼から「お前がごんぎつねや!」と全く以て不条理極まる返答が為されたのだ。全く予期せぬリアクションに唖然とすると共に、「なんでぼくがごんぎつねなんやろか、きつねににてるんやろか」と当惑しながら思索を巡らす事となったのだ。当時は「不条理」なる語を知らなかったのだが、「大人は何て不条理な事を言うのだろう」なる趣旨の蟠りが己を支配していたのだ。其れから今に至る迄の間、時折其の疑問を解決しようとして「私がごんぎつねのように純粋な心の持ち主だと言おうとしていたに違い無い」「独りぼっちだったごんぎつねの寂しさが私と相通じるものであったと言いたかったのでは無いか」「学校内を何時もうろついてたから、悪戯で物を盗んでいたと思われたのであろうか、でもあの先生別に怒った様子では無かったしなぁ」など考えてみたのだが、結局彼の真意は判らぬ儘現在に至る。

 さて先日、インターネット上で後輩に酷似した獣写真を発見した私は、翌日其の後輩に此の写真を送付した処、当惑が行間に滲み出ているメールが彼から返信された。いきなり獣の証拠を突きつけられ獣にされた此の後輩が其の時抱いた感情こそ、幼少の頃に私が小学校教諭に対して抱いた感情と同種のものでは無かろうかと感じた次第。


2001/09/25

テレヴィ番組二題

 此処暫く「エゾシカの嘶き」上に於いて東京放送系列に対する言及が偏っていた感がある。尤も私が視聴に割く時間や言及されて然るべきネタの多さを考えれば斯様な偏りがあっても何等不思議では無いのだが、今回の旅行(2001/09/22参照)に於いて旅先で見た他局の番組に於い特筆すべきものが存在した為、此処で採り上げる次第。

 先ずはフジテレビ系列の「ニュースJAPAN」。元来私は此の局の報道番組を、其の方向性の不可解さ及び内容の希薄さから「報道番組」と認識しておらず、自らの意思で此の番組を視聴する事自体無かったのだが、どうも別の番組を観ている内に眠りに就いてしまっており目覚めた時には此の番組が流れていた次第。

 其れはさておき痴漢関連と思しきニュースの中、耳に飛び込んで来た単語に「ふとまた」なるものがあった。「太股」なる原稿を「ふとまた」と読んだ事は想像に難く無い。一体此のアナウンサーは今迄「太股」なる表記に遭遇した事が無かったのか。其れとも抑も人体の性器より下部に位置し容易に触ったり撫で回したりする事により触る側も触られる側も快楽を得る事が可能となる部位を「ふとまた」と認識していたのであろうか。何れにせよ幼少よりエロ小説に接して居れば斯様な誤りなど起こり得ぬ。此のアナウンサーが如何に価値の無い人生を送ってきたのかを自らブラウン管を通じて白日の下に晒してしまったのだ。情け無い輩である事よ。

 次いでテレビ朝日の、番組名すら想起出来ぬ深夜情報番組。「携帯電話の裏技教えます」と仰々しく宣言し、電波状態が良くない場所で携帯を上手に使用する裏技として紹介されていたのが、携帯電話を持った儘腕を一杯に伸ばして其の場でぐるりと一周すれば高い確率で電波状態の良い位置が発見出来るというもの。どうやら人体が電波を遮る性質を持つ為に、携帯電話が人体から離れた処にあれば受信状態も好転するとの事。しかしちょっと待った、通話の際にはどうするのだ。スピーカーマイクを用いているので在れば兎も角、一般的に携帯電話を人体から離した儘通話する事など至難の業では無いのか。

 二点とも其の馬鹿っ振りに怒りを通り越して寧ろ微笑ましさすら感じてしまった次第。


2001/09/24

照明

 昨晩私が宿に入りバスルームに入ろうとして驚いた。バスルームの照明を付けても今一つ明るくならぬ。壁面をよく見ると私の様な者の存在を見越したかの如く、此の照明は徐々に明るくなる旨掲示されて居たのだ。そして待つ事暫し、恰も夜の明ける様を想起させるかの如く、じわじわと光が強まり約一分後には何等不自由ないばかりか眩い位の明るさを示したのであった。

 思えば私自身若かりし頃に此の手の照明を戯れに作成した事があったのだが、果たして実用性の観点から此が如何程の意味を持つのか、現実に利用してみて暫し黙考する事となった。早速手を洗おうとしてもカランが湯か水か、或いは蛇口かシャワーか、何れをを指すのかが暗くてよく見えずに熱湯に手を翳したり冷水を着衣の儘頭上から浴びたりといった虞があるのでは無かろうか。若しくは激しい尿意を催しバスルームに駆け込んだもののなかなか室内が明るくならない為に放尿先の目測を誤り便器外の其処彼処を大量の尿で濡らしてしまうなどという悲劇も容易に予想されよう。

 あれこれ思索を巡らす内、唯一此の手の照明が正に求められる場面が想起出来た。性交時に於いては一般的に、最初は恥じらいの為、若しくは触覚で相手の肉体を愉しむ為に暗がりが好まれ、徐々に佳境に近付くに連れ相手の肉体を賞味したりあれこれ体位を変えては細やかな技を繰り出したりする際に視覚に頼る機会が増加するでは無いか。再度断っておくが此はあくまで一般論であり、私のプレイに於ける式次第を遍く披瀝している訳では決して無い。

 其れにしても此のバスルームの照明を性交に役立てるにはクリアせねばならぬ難題が二つ存在する。一つは最初から最後迄バスルーム内で性交せねばならぬ(而も室内には立派なベッドが備わっているにも拘わらず)点、もう一つは照明が完全に明るくなる迄の一分程度の間に性行為を完結させねばならぬ点である。


2001/09/23

盲信

 只でさえ他人の主観に基づく言は盲信せぬ。ましてや他人から彼や此やと物事を勧められる際には、大抵の場合には「まあ暇やし取り敢えず試してみとこか」「取り敢えずは勧めに乗っておかないと相手に申し訳ないし」などといった気分で今一つ気乗りせずに勧めに乗るのが関の山、時には右から左へと聞き流す場合すら少なからず存在する。大体幾ら其の人が如何なる其の道の達人であろうが、私とは異なる人間である以上は主観が異なって当然では無いか。先ずは其の人と私との間に存在する「主観の距離」を認識せねば話が始まらぬ。尚、其の人が一体どういった感性を持っているのかに多大な関心を抱き、勧められた物事を試してみる機会も数多存在するが、此は又別の話である。

 従って逆に、或る分野に於いて私との感性のヴェクトルが或る程度共通しているのでは無いかと(私が勝手に)感じて居る場合であれば、寧ろ盲信といっても良い位に勧めに乗ろうとする傾向が窺えるのだ。

 さて今回の旅行中、ネット上で懇意にして頂いている方からお誘いを受け、急遽旅先でお会い頂ける事となった。お忙しい中僅かな時間で自己紹介から始まり、明日訪れる旅先の見所のみならず私が今回訪れぬ地域についても次から次へと有益な情報を提供して下さり只管感謝感激。此の時の私は正に盲信状態と言っても良かろう、此の方の勧める土地で在れば喜んで勧めに乗れば己の旅欲も満たされようという気分で話を拝聴させて頂いた。

 僅か一時間程度であるにも拘わらず、ネット上でのお付き合い通り私を盲信させる程の人となりを感じ取る事が出来た嬉しさ、今回足を運ぶ事能わぬ地への旅欲も掻き立てられた事に加え再会の約束も頂いた事により次回此の地を訪れる愉しみを味わい、旅の最中から再訪の旅に思いを馳せつつ喜びも益々深まるに至った次第。


2001/09/22

或るポスター

 朝名古屋を出発し、今回の「しまなみ海道自転車踏破」の出発点となる愛媛県北端・大三島(2000/05/05参照)に入った頃には既に午の刻を過ぎていた。其れにしても珍しく今回は天気が私に味方し、柔らかい天日、半袖シャツには仄かに涼しい潮風、そして擦れ違い様に少年少女達から掛けられる元気な挨拶に包まれつつ全ての橋を渡り今治(愛媛県)に着いたのは申の刻を回った辺りであった。

 自転車を返却し、其処から数十分程歩きJRの最寄駅に着いたのだが其処で私の目を惹いたのは競艇のポスターであったのだ。私自身競馬は些かの嗜みがあるものの競艇については全くの素人であり当然関心も全く無い。処が其のポスターは斯様な私の如き人間ですら競艇場に足を運ばせたくなる程のデザインであったのだ。

 六艇が勝利に向けて争うイラストのタイトルは「動物カップ記念競走」。眼を凝らして各艇を見ると、何と選手は動物では無いか。一号艇はクマ、二号艇はネズミ、三号艇はブタ、四号艇はタヌキ、五号艇はキツネ、六号艇はミミズクとなっており、それぞれがゴールを目指そうとしている光景なのだ。自転車と徒歩で若干疲労感を抱いていた私を鼓舞するかの如く、誂えた様に其のポスターは存在したのだ。

 更によく見ると、件の競艇場のある地区は奇しくも、数年前に私を獣の虜にして後戻り出来ぬ身体に調教した後輩(2000/06/21参照)の出身地であったのだ。私を獣道に導いた後輩を育んだ土地が、時を経て場所を超えて直接私に獣の手解きを行う事になろうとは、えらい偶然もあったものである。


2001/09/21

リンク

 自分から他者の個人サイトに「EZOSHIKA TOWN」へのリンクを申し出たりはせぬとは雖も他者のサイトで「EZOSHIKA TOWN」だの「エゾシカの嘶き」をはじめとするコンテンツだのへのリンクを見掛けると矢張り嬉しいものである。私のサイトへのアクセス数向上といった観点以上に、私のサイトを気に入って下さって居る人が其の喜びを更に他者に広めようとしている事に対する喜びが遙かに大きいのだ。

 更に其の喜びを高めるのが、リンクに際してサイト管理人から付せられた私のサイトへのコメント。未だ嘗て此等コメントを目にして不適切だの不愉快だのと感じた試しが無く、当の私が読んでも「嗚呼魅力的なコメントである事よ。是非リンク先に飛んでみたい」と思う位である。

 処で「EZOSHIKA TOWN」の「リンク集」、何れも味も素っ気も無いコメントに終始している。就中読み物系個人サイトについては、只単に当サイトを訪れて下さったなどといった付き合い上の理由のみで紹介する事無く、私が其の内容をいたく気に入り味読しており是非他人にも紹介したいという気持ちを強く抱かせるサイトのみを厳選の上紹介しているのだが、コメントを読む限りでは、其のサイトを実際に訪れ真剣に目を通した上でのコメントなのか訝られても仕方無いかの様なものとなって居るのだ。

 どう料理しようが構わぬサイトという事で在れば、曲がりなりにも「エゾシカの嘶き」を九百話以上したためてきた私にとってたかだか数行のコメントなどそう苦痛では無い。処が相手は私が心酔するサイト、只単に素晴らしさを伝えるだけでは足りず、其のサイトの本質、即ち個人サイトに於いてはサイト管理人の本質とほぼ同質と考えて良かろう、此を的確に語らねばならぬ。此の点に於いて、少なくとも私のサイトを紹介して下さる方の的確なコメントに比類するだけの自信が己に未だ見出せない儘今に至る。

 どうせ味も素っ気も無いコメントであるのなら、いっそコメント自体を廃しようと考えたりもしたのだが、折角「リンク集」を訪れた方にタイトルのみで気に入ったサイトを訪れよというのも訪問者及びリンク先の方々に対して失礼な話だと思い、敢えてコメントとして形式的事実を淡々と述べるに留める次第。


2001/09/20

旅欲の行方・愛媛篇

 前々から此の時期の気候の穏やかさを狙って是非実行したい事があった。先日、今週末の三連休の天候が頗る良い事を確認した上で、此の三連休を用いて2000/05/05の続きとなる「しまなみ海道」自転車制覇を行う事に決めた。

 無論二泊三日を掛けてたかだか数十キロの道を自転車で走る訳では無く、一日は「しまなみ海道」に充てるとして残る二日をどう過ごして旅欲及び可能で在れば獣欲を満たそうかと思索を巡らせてみた。前回の「しまなみ海道」訪問では尾道・広島も一頻り観光した為、今回は島自体或いは対岸の愛媛県を観光する事としたい。処が島自体は宿の絶対数の少なさに加え混雑が予想される三連休。数日前になり宿が確保出来るとも思えず愛媛県の観光スポットを検討する事とした。

 実は次回四国を訪れる機会があれば、其れが何県であろうが宇和島(愛媛県)に足を伸ばし宇和島城を訪れたいと考えていた。高校卒業時に四国一周をした際に一泊したにも拘わらず街自体の観光を行わず今に至るのだが、数年前に城郭趣味に目覚めて以来、是非宇和島城を訪れて高校時代無為に過ごした宇和島での時間を取り戻さねばという意識が此処暫くで高じていたのだ。

 しまなみ海道を渡り今治(愛媛県)経由で宇和島に入るとなると、其の儘無視して通過出来ぬスポットが存在する。松山(愛媛県)近郊のとべ動物園である。他の獣サイトでも頗る人気の此の動物園を訪れぬ理由など存在せぬ。他の観光地及び観光時間を削ってでもとべ動物園に回すべし。

 しかしそうなると、交通の便を考慮の上観光スポットを挙げれば、一日目がしまなみ海道、二日目がとべ動物園、三日目が宇和島城。二泊三日にしては余りにピンポイントを狙い過ぎる感がしないでも無い。而も人々に愛媛県の地図を渡し「此の中から観光したい三点を選べ」と問うた処でまず生じない組み合わせでは無いかと思われるのだ。


2001/09/19

チラシ

 学生時代に居た応援団に於ける重要な活動の一つに「情宣」が存在した。恐らく「情報宣伝」の略と思われるが、要は試合告知及び応援参加への呼び掛けや新入部員勧誘等を学生に対して行うという活動である。

 具体的には始業前の校門の前でスピーカー片手にがなり立てたり講義の前に各教室を訪れては教壇に立って一席ぶったりするのだが、其の際に欠かせない小道具がビラであった。如何に親しみ易いビラにするか無い知恵を捻り(抑もビラが幾ら親しみ易かろうと学ラン姿の無骨な学生が配布する時点で其の親しみ易さも激減するのだが)、早朝から団室でビラの原稿を作成し、其れを蝋紙を引っ掻きガリ版にインクをひき藁半紙に大量生産する。此を一時限目の前迄に準備し登校する学生に配布したり各講義の前に教室内で配布したりするのだ。無論、一人一人に対し元気に発声しながら手ずから配布していた事は言う迄も無い。

 処が大抵の学生にとっては左様な情報を必要とする機会など少なく、講義前にビラを手にしても邪魔なだけなのであり、折角配布したビラが即ゴミ箱に直行していたり教室に残されたりする機会が屡々存在した。其の都度「此奴等は人の苦労も知らずに」と激昂する一方で「まあ不要な物を無理矢理受け取らされる方も気の毒だよなぁ」と思い、其の両者の感情の狭間で深い悲しみに襲われる事となって居た。

 此の体験の所為であろう、逆に自分が街頭等で幾ら不要なビラを配布されようが、其れを其の場で捨て去ったり一度も目に触れぬ儘捨てたりする事が未だに出来ず、一旦受け取っては何処かで目を通してから捨てる、或いは受取を拒否する際に申し訳無さを表現するという習性が身についてしまった。そんな訳で縦令私には無用の物であろうが今日も郵便受けに入れられた風俗のチラシに一頻り目を通さざるを得ないのだ。


2001/09/18

続・法悦

 「法悦」なる語がもたらす余りのショックの大きさで暫し冷静に「法悦」を眺める事が出来なかったのだが、仏教用語という観点から離れて「法悦」を眺めるに、人間の性欲の底知れぬ奥深さが其の漢字から読み取れたのであった。即ち、「自由を枠で奪う(奪われる)事」+「悦び」。此ぞ正に監禁プレイを代表とするSM行為からもたらされる性的快楽では無いか。

 人が日々の生活に於いて「法悦」なる語を口にする度に、其れが如何なる性的快楽を示そうと、無意識の内にSM行為の悦びを深層心理の中から徐々に顕在化させると同時に深層心理に植え付けて居るという効果をもたらしているのだ。逆に言えば、「法悦」なる語を効果的に目に触れさせたり口にさせたりする事に拠り、他者をSMの桃源郷に導く事も夢では無いのだ。

 此の仮説を検証すべく、団鬼六の作品に於ける「法悦」なる語の用い方を調べるべく、gooにてウェブサイトを漁ってみたのだが、「法悦 団鬼六」なるキーワード検索に引っ掛かったのは僅か一件、其れも「エゾシカの嘶き」のバックナンバーであったのだ。


2001/09/17

法悦

 性行為に於ける絶頂状態を何故「法悦」と言うのか。「悦」は当然の事として凡そ性行為とは程遠い「法」が何故斯様な場に登場するのか。予予私を悩ましていた疑問を解決すべく広辞苑を繙き原義が仏法上の喜びである事が判明したのだが、更に「法」を漢和辞典で調べてみて、私の今迄の半生を覆すかの如き解説に目をひん剥いた。

 漢字の成り立ちが思いも寄らぬものであった。「水+去」という文字から何故「法」の意味が生じるのかが解説されていたのだがもう吃驚。元々の「法」という文字には「水+去」のみならず其処に「鹿」と「馬」とを合体した字が含まれていたのだ!そして其の意味する処は、「『水+しかと馬に似た珍しい獣の姿+去(ひっこめる)』で、池の中の島に珍獣をおしこめて、外に出られないようにしたさま。珍獣はそのわくの中では自由だが、そのわく外には出られない。ひろくそのような、生活にはめられたわくをいう」(「漢字源」より)との事。

 幼少の頃に図書館に遊びに行き何を血迷ったか漢和辞典に魅せられ、小学校時に三冊の漢和辞典を繰り返し愛読していた私が、又、大学時代には曲がりなりにも法学を専攻していた私が、そして今、鹿や馬に取り憑かれたかの様に魅せられている私が、それぞれの場面に於いて「法」なる漢字及び其の成り立ちと接点を持って居ながら斯様な重要な事実を今迄全く知る由も無く生きていたとは。私の半生とは何だったのか、今迄何と無為に生きてきた事か、大いに猛省する事となった次第。

 其れにしても、鹿と馬に似た珍しい獣とは一体何なのか(私は四不像では無いかと推測する)、何故彼等を島に押し込める事にしたのか、更に興味が尽きぬ。今迄の半生を取り戻すべく、此等の疑問に対して残りの半生を費やす事としたい。


2001/09/16

続・布団乾燥機

 昨秋布団乾燥機を購入して(2000/10/21参照)一通りのシーズンを迎えてきた事になるのだが、夏場には此の扱いに予想外に難儀する事となった。

 人並み以上に、時には何かの病かと思える程に発汗の激しい私は(2001/06/14参照)当然寝汗も多く、夏場の布団乾燥機は其れこそ毎日でも活躍させたい位有益では無いかと考えていたのだが、一度使って「此は一寸…」と感じざるを得なくなったのだ。

 帰宅後布団乾燥機をセットし待つ事九十分。取り敢えず乾燥が終了したかと思い掛け布団を剥ぐと、籠もっていた湿気混じりの熱気のムンムン感が一気に押し寄せ矢鱈と熱い思いをせねばならぬ。他の季節で在れば此が適度に心地良いのだが、夏場は此だけで滅入ってしまう。そして実際床に就いても布団が暖かく、眠りに就く時点で既に相当量の寝汗をかき、結局頻繁に布団乾燥機を用いねばならぬ事になるのだ。布団乾燥機がもたらす予期せぬ悪循環。

 布団乾燥機を朝セットしておけば、夜にはムンムン感が落ち着いている事であろう。処が朝出社する前にセッティングする事は、過度の熱による発火等が非常に心配な事及び抑も朝セッティングする時間があれば睡眠に充てたい事から避ける様にしているのだ。休日の昼間に行うのが最善なのだが、生憎此の夏は休日に遠出しがちでありなかなか其れも困難。そうこう考えている内に朝夜が若干涼しくなり、余計な悩みを抱かずに済む事となった次第。


2001/09/15

傷の原因

 此の歳にもなって自分自身の事で未だ判らぬ事が数多存在するのだが、今日理髪店で眉の周囲を若干剃った際に、右眉の下方に一糎程の傷跡が水平に存在する事が判明した。其の傷跡は今迄全く気付かなかった事が不思議な位深くくっきりと現われて居り、受傷の程の高さを窺わせた。

 其れにしても考えてみれば、傷跡に気付かないのはまだしも、左様な傷を負った覚えが全く無いのだ。無論幼少の頃で在れば記憶に無くとも当然なのだが、通常幼少に左様な傷を負って居れば当然周囲の知る処となり、養育者あたりから本人に伝えられて然るべきでは無かろうか。

 周囲すら気付かぬ位の処で受傷したのか、或いは此の傷の元となった事象を周囲がひた隠しにせねばならない位拙い出来事があったのであろうか。早々に親に確認を取りたいと思う一方で、此の事実を知って多大なショックを受けるのでは無いか、「知らぬ」「言えぬ」などという返答があった場合、此の傷の裏に恐ろしい秘密が存在するのでは無いか、抑も此の歳になって斯様な事実に気付いたという事を親に晒す事自体大いに恥ずべき事では無いか、等々の意識が私を躊躇させるのであった。


2001/09/14

恥ずかしい日本語

 何時も其の日本語誤用について話題にする「筑紫哲也NEWS23」では無いのだが、先日或る報道番組を観てもう私は驚き呆れそして深く嘆かざるを得なくなった。今迄此処では慣用句だの熟語だのの意味を取り違えている事例を採り上げていたのだが、今回はそんな事以前、小中学校の授業でも出て来る様な文法上の誤用である。

 何気無く観ていた為テレヴィ局や番組名を記憶していなかったのだが、夕刻あたりのニュースに於いて用いられた「海に訪れる」なる表現。「海に行く」「海に出る」「海に来る」から引っ張られたのであろうが「訪れる」のは海「を」では無いか。原稿作成者、チェックすべき者、原稿の読み手、本来日本語の範たるべき面々が誰一人何等疑問に思わなかった事が、嘆かわしく恥ずかしくてもう身悶えせんばかりの心境にすら陥った次第。


2001/09/13

強制猥褻を巡る学説

 別に私は法律の専門家では無いし此の場に於いて法律の講義を行う気も毛頭無い為、以下法律に纏わる話を専門用語を極力排して端的に述べる事とする。抑も私は法律文章に限らず、本来平易な内容を徒に小難しく表現する事のみにより読者の混乱を生じせしむる文章を忌み嫌う処である。

 刑法第176条に定められている「強制わいせつ」(遂に法文からも「猥褻」なる漢字が駆逐されてしまったのか。どうでも良い事だが私は「わいせつ」なる表記を見れば否応ながらに南こうせつが想起されるのだ)に於いては、十三歳以上の男女に対し、無理矢理猥褻行為を行った際のみならず、十三歳未満の男女に対しては無理矢理であろうが無かろうが猥褻行為を行えば、処罰の対象になるとされて居る。

 本来当事者間の自由意思に基づく猥褻行為を、相手が十三歳未満という事で犯罪とする根拠について、学説が二分されて居る。一つは、「十三歳未満の男女は猥褻行為に対する認識が浅く、自分自身の判断に基づいて猥褻行為を行っているとは言えない為、無理矢理と何等変わる事無く此を処罰する」という説、もう一つは「幾ら同意の下とは雖も十三歳未満の男女に猥褻な行為を行う事自体社会的によろしく無い」という説である。

 私は此等の立場を止揚させた説を唱えたい。「十三歳未満の男女は猥褻行為から快楽を得る感受性が充分とは言えず、彼等への猥褻行為は縦令本人の同意があろうが快楽が片面的なものとなる為に、刑法に於いては須く処罰の対象とする」という説である。端的に言えば「お互い気持ち良い猥褻行為なら問題ないが、相手が気持ち良いと感じ得ない猥褻行為は処罰の対象となる」という事である。此だと十三歳以上の男女に対しては通常の猥褻行為が刑法上問題視されていない(実際には各都道府県の条例に於いて十八歳未満の男女に対する猥褻行為が全て処罰の対象となっているのだが)事についても首肯出来、年齢に因って(尤も其の年齢が合理的なのか否か議論の余地があろうが)処罰対象となる行為が異なる事が説明出来よう。

 しかし此の立場を採ると、縦令同意があろうが不感症の者に対する猥褻行為は処罰の対象とし、縦令無理矢理であろうが感受性豊かな者に対する猥褻行為は「嫌がってる素振りを見せながらもえらいええ声出してたやんけ」「上の口では嫌がっても下の口からは涎垂らしてるやないか」などといった場合には処罰の対象としない、という事にしなければ、刑法第176条に於いて矛盾が生じよう。此の説を唱える以上、早期の刑法改正を期待せねばなるまい。


2001/09/12

漢字のブランド化

 街角で暖簾に「湯」と書かれた文字を目にすれば人は容易に温泉若しくは銭湯を想起しよう。間違えても其の場にカップラーメンと箸を持参する者は居まい。「湯」という文字が本来の意を仄かに残しつつ、其の指し示す物の性質を端的に喩え他と区別し如実に象徴化するという点に於いて、斯様な効果を「漢字のブランド化」と称する事が出来よう。同様の例として、「氷」なる文字がかき氷販売店を示したり、「玉」なる文字が撞球場或いはパチンコ店を示したりする事例が挙げられよう(言う迄も無いが「魚」が魚屋を表したり「本」が本屋を表したりというのは象徴化では無い為此の範疇には入らぬ)。

 同様の効果が新たに期待される事例が無いか検討してみたのだが、しっくり来るとすれば八百屋=「菜」位か。公衆便所=「糞」、否確かに誤りでは無いのだが。産婦人科=「膣」、性風俗産業との混同が懸念されよう。クリーニング店=「舐」、此はクリーニングでは無くクンニリングスでは無いか。


2001/09/11

責任を問うからには

 米国に於ける航空機乗っ取りに端を発した連続事件に早くも掻き消された感がある、女子中学生監禁致死事件被疑者逮捕の報道。しかし米国の事件が報道される前には、女子が死亡時に手錠を掛けられていた事、死亡直前の足取りが不可解であった事という事件自体の珍奇性に加え、被疑者が教師であった事、中学一年の女子との接点がテレフォン倶楽部であった事から、大きく報道されていたのだ。

 其の報道の中で我が耳を疑った、否正直な処未だに信じたくないものが存在した。被疑者の教師が以前から勤務先の女子生徒に対して猥褻とも思える言動を取っていた事を知った被害者の女子中学生の親が、「斯様な行為から被疑者の犯罪を察知出来なかった勤務先の学校の責任を問いたい」と発言したとの事である。

 おい馬鹿一寸待て、調子に乗るのも大概にせよ。被疑者に責任を求めるのは当然の事として、己の娘のテレクラ通いすら察知出来なかった事、見知らぬ男性に付いていく事が如何なる危険を孕んでいるのかを教え込む事が出来なかった事に、娘を斯様な事件に巻き込んだ責任が無いとでも貴様は言うのか。学校側と教師との管理関係など、親と子の関係に比べれば遙かに希薄なもの。他人に責任を問うからには其れより遙かに重い責任を問われて然るべき。被害者側という事のみを以て此の発言の責が問われぬ事が辛くて辛くて堪らぬ。


2001/09/10

獣身事故

 どうやら獣身事故に遣る瀬無い思いを抱いていたのはJR北海道だけでは無かったようである(2000/08/01参照)。八日付朝日新聞に於いて、JR西日本が新幹線の線路内に出現する獣達に悩み苦しんでいる様子が紹介されていた。

 此処五年間で八十匹が犠牲になり、毎年数十本の列車に遅れの影響が出ているとの事。年間の列車の遅れが約三百本、年によっては其の内の二割以上が獣達によるものであり、金網やコンクリートによる対策を進めているのだが、記事の最後は「相手は動物で行動をつかめず、弱っている」とのJR西日本の嘆きで締め括られている。

 しかし其れにしても記事の詳細さに驚いた。犠牲になった獣の内訳が、「タヌキが最も多く45匹、次いでウサギ8匹、ネコ、イノシシが各4匹、イヌが3匹。数は少ないが、キツネやサルがはねられたこともある」などと其の種毎に細やかに紹介されているのだ。そして其の結果が図になっており、新幹線路線図の中で衝突事故が発生した区間に、それぞれ犠牲になった獣の、文章で此のイラストが紹介出来ぬのが残念な位可愛いイラストが犠牲の数だけあしらわれて居るのだ。

 という事は、事故の当事者、恐らく新幹線の乗務員が獣を跳ね飛ばす度に其の獣が何なのかを特定し、会社側に報告しているという事であろう。即ち、跳ね飛ばされた獣の遺体(而も場合によっては其の衝撃で肉片が飛散している機会すらあろう)を観て其の種を正確に特定するという能力が新幹線乗務員に求められているという事である。日本の野生に生息する獣を全て認識せねばならないだけで無く、一部の遺体からそれらを判断せねばならぬ。少なくとも私は、犬と狸と鼬と白鼻心を其の下半身のみで完璧に見分ける自信は無い。意外な職種に意外な能力が要求されているものであり、其の能力取得にあたっては多大な労力が割かれて居るに相違在るまい。個人的には左様な能力養成に多大な関心を抱かずには居れぬ。


2001/09/09

獣の様に交わる

 日常生活に於いて頻繁に用いられ、私も偶に用いる表現の一つとして「獣の様に交わる」なるものが存在する。言う迄も無く激しい性交を指す際に用いられる表現なのだが、此は大きな事実誤認に基づくものでは無かろうか。

 私自身は獣と交わった事は無い為、獣同士の性交を想起してみる。私が直接眼にした獣の性交は犬対犬、馬対馬程度であり、映像や写真等で眼にしたものは鹿対鹿、カンガルー対カンガルー程度である。此等を振り返れば彼等の性交は大人しいものである。犬の場合は結合中に周囲で人間が囃し立てようが微動だにせず。草食獣は野生に於いて常に危険に晒されているという其の習性からか、性交は一層淡泊。背後から近づき、後背位で陰茎を挿入。鹿の場合は其処で牡が一鳴きして終了。馬の場合は数回腰を前後に振り終了。精々欲情向上の一環として相手の尿香を愉しんだり前戯として相手の首に噛み付いたりする以外には、凝った前戯も性器以外の接触も体位変更もましてや器具の使用など一切無く、終われば終わったで相手を抱きしめたり髪を撫で回したりも無く、一連の性行為が完結するのだ。

 此に比べれば、接吻だけで何分も時間を掛けて舌や唾液をびちゃびちゃと音を立てながら絡め合ったり、指や掌や鼻や口や舌や歯や或いは媚薬やヴァイブレーターや市販の野菜や時には鞭や蝋燭迄ありとあらゆる手段を用いて前戯を愉しんだり、上下左右を激しく入れ替わらせつつ寝たり立ったり座ったりでねっとり時間を掛けて性器間結合を行ったり、終了したらしたで前戯と同様の接吻や愛撫を行ったりする人間など、逆に獣の側から「いっぺんでええから人間の様に交わりたいわい」などという表現が用いられるに相応しい存在なのである。

 人間が真の意味で「獣の様に」交わろうものなら其の性行為は著しく単調で興を殺がれるものにならざるを得まい。仮に「獣の様に交わる人妻達」などというエロヴィデオを観た処、前戯は愚か接吻すら無い儘挿入行為に突入したりだの、延々と結合した儘微動だにせぬだの、男女とも無表情で男性が雄叫びを挙げて一瞬で射精したりだのといったシーンが延々と繰り返されて居れば、全国のレンタルヴィデオ店や個室ヴィデオ店にて暴動が発生する事は火を見るより明らかである。


2001/09/08

上野動物園

 自らが指摘した「サル科の時代」(2001/08/31参照)を一層強く体感する為、実は先週末に「日本モンキーパーク」(愛知県)を訪れる予定を立てていた。丁度職場にて此の施設の割引優待券が配布されており、其の有効期限が先週末に設定されていたのだ。

 処が訪問前日に日本モンキーパークのサイトを訪れた処、其処でも割引優待券が公開されており、其の場で印刷して持参すれば割引優待を受けられるという物であった。而も割引額は職場で配布されていた券と同額であるばかりか、有効期限は其れより遙かに長く設定されていたのだ。此では何の為に職場でプラチナチケットを追い求めるかの如く我先に割引優待券を確保しては狂喜乱舞したのか判らぬ。遣り場の無い怒りの所為で先週末は思わず不貞寝で過ごした次第。

 其の代償と言う訳では無いのだが、今週は上野動物園を訪れる事となった。台風接近の折、東京行きが心配されたのだが、曇天の下何とか無事園内を周回する事が出来た。

 恥を忍んで告白すれば、上野動物園を訪れるのは数年振りになる。ちゃきちゃきの江戸っ子に成り立ての頃は月に一回は足を運んで居り、東京動物園協会の機関誌「どうぶつと動物園」も定期購読していたにも拘わらず、何時しか別の動物園を足繁く巡っている内に肝心のホームグラウンドを疎かにした儘ちゃきちゃきの江戸っ子を引退する事になり、挙げ句の果てには「どうぶつと動物園」の定期購読も更新切れ(2000/08/17参照)に伴い中止する始末。

 其の間、上野動物園には大きな変化があった。両生爬虫類館のオープン(1999/08/14参照)、ゴリラ・トラ園の充実、「よこはま動物園・ズーラシア」のオカピ人気に触発されたかオカピの来園、更に獣事情に限らねば、東園と西園とを結ぶモノレール改修に伴う一年半の運休及びリニューアル等々、久方振りの訪問にあたり多数の見所が用意されているのだ。

 此等の見所を堪能した上(モノレールは故障中であったが其れは此の際どうでも良い)天候にも見放される事無く、先週発散させる事が出来なかった分も含め存分に獣欲を満たすに至る。尤も贅沢を言えば、ふれあい広場のポニーが容易に触れられぬ場所に居た事、オカピは招待されているのにヤブイヌは招待されなかった事が残念といえば残念であったのだが。


2001/09/07

感動

 他人と比較した事は無いので断言は出来ぬが、恐らく他人様並みには感動する機会や程度は有しているのでは無いかと考えている。然るに映画だの小説だの其の他諸々の芸術作品だのの販売促進宣伝文句に「感動」の二文字が踊った時点で私は激しい拒否反応のみならず嫌悪感すら抱いてしまうのだ。とりわけ「此には誰しも感動するのだ」更には「お前も此で感動しろ」なる趣旨の惹句なんぞ用いられようものなら、いっその事感動する心を捨ててやろうかと思う位に迄強い抵抗感を感じずには居れぬ。

 元々金銭等の代償では得る事の出来ぬ心の揺さ振りである感動、此を来客数だの売上だのの向上という目的に於いて金銭をはじめとする直接的間接的代償を他者に要求する事が、私には代償で求め得ぬものを金等の代償に置き換える事により、感動なるものの価値を著しく貶め冒涜する行為に思えるのだ。

 況や金銭等の代償を求める為に「感動しろ」等と迫るのは最早押し売りに近い、否他人の内面に迄踏み込むという意味では押し売りよりも遙かに質の悪い行為に思えてならぬ。


2001/09/06

性格診断

 普段訪れているサイトの日記コーナーに於いて性格診断テストが紹介されていた。サイトの作者が受検した結果を見て、嗚呼成程此の方は斯様な性格では無かろうかと私が勝手に抱いていたイメージと其の結果とが合致していた為、私も是非試してみようと其の性格診断テストのサイトを訪れた。

 「山手線占い」や「Lucky animal !」等のウェブ占いとは一線を画す性格診断、一問一問を○×或いは不明で回答していき最後に出た結果は「岩を砕く波のような冬の稲妻」。何のこっちゃと読み進めば、「自分の個性/信念に基づいて行動する」「気を遣われすぎるのも苦手」「おつきあいで飲みに行ったりするのは苦手」等々、個々の分析については善し悪しはさておき頭ごなしに否定する様な結果では無かった。

 其れはさておき此の性格診断、実は回答している内に或る程度導かれる結果が容易に予測される位に設問が露骨なのだ。此では結果を見てもさほど意外性は感じられず、一般の性格診断でありがちな「ええっ、私ってこんな一面があったのぉ!?すごーい!」などという驚きによる喜びを味わうのは困難では無いかと思われる。処が此の性格診断の真骨頂は正に其処からである。被験者が良かれ悪かれ「まあこういう性格なんだろうな」と自覚しているキャラクターを指摘して「そういう貴方が魅力的なのだ」と、明示はせぬ迄も擦り込むかの如きトーンで語られて居り、診断結果を読んでて其の善し悪しに拘わらず心地良い感覚を得る事が出来るのだ。いわば「癒し系性格診断」とも言えよう。

 因みに、私の性格診断の結果は、奇しくも冒頭採り上げたサイトの作者と同じものであった。


2001/09/05

猫踏んじゃった

 先日「探偵!ナイトスクープ」を観ていて小学校の頃に抱いていたコンプレックスの一つを思い起こす事となった。

 探偵が街頭で道行く人に其の場で「猫踏んじゃった」をピアノで演奏させるのだが、少なくとも放映されていた部分を観る限り、老若男女を問わず全員が曲がりなりにも演奏出来ていたのだ。

 小学校時代、休憩時間になると皆が我先にと教卓代わりのオルガンの処で「猫踏んじゃった」を演奏するのが常であった、抑も鍵盤楽器を目にすると「猫踏んじゃった」を思わず演奏する(而もピアノを習っていない者や音楽に対する関心が薄いと思われる者ですら「猫踏んじゃった」だけはマスターしている)というのが当時の小学生の習性だったのだが、終ぞ私は「猫踏んじゃった」を演奏せぬ、否演奏出来ぬ儘小学校生活を終え現在に至る。幼稚園時代から小学校時代に至る迄ピアノを習っていたのだが、ピアノの先生から「猫踏んじゃった」を教わる事が無かったのは勿論の事、憖じピアノを習っていた為に、同級生、而もピアノを習っていない者から教えを乞うという事が当時のプライドの所為であろう、己の中で許されぬ事として認識されていたものと思われる。

 其の事で「お前弾いてみろ」「ピアノを習っているのに俺が弾ける曲も弾けぬのか」などと虐められて居れば、プライドもへったくれも無く「猫踏んじゃった」を必死に教えて貰い練習していたであろうが、誰しも他人に弾かせるなんぞ勿体無いと言わんばかりに弾きたい者が挙って弾いていた為、強制的に演奏を求められる機会も無く、従って「猫踏んじゃった」の教えを乞う必要も無かったのだ。

 其れ以降、別段己が「猫踏んじゃった」を弾けぬ事を意識する機会など無かったのだが、今回の番組で「うぬ、此奴等には負けられぬ、此の儘では拙いのでは無いか」と思わず感じた次第。


2001/09/04

日本経済新聞と讃岐饂飩

 最近私が「エゾシカの嘶き」のネタとして採り上げぬ事に対して警鐘を鳴らす意味なのであろう、昨日付日本経済新聞夕刊に於いて讃岐饂飩が採り上げられていた。而も三面記事欄に於いて、先日発生した新宿・歌舞伎町のビル火災の記事に肩を並べる程の目立つ場所に其の記事は位置して居たのだ。

 最近東京で讃岐饂飩店が非常に好評を博している事、讃岐饂飩サイトの紹介、名著「恐るべきさぬきうどん」に触発され東京から讃岐に足を向け饂飩食べ歩きの旅を愉しんだ会社員のコメントという順で記事が構成されて居るのだが、それぞれ「エゾシカの嘶き」2000/04及び1999/12で随所に採り入れたネタ及び「EZOSHIKA TOWN」始まって以来の特別企画、此等を元に取材を行ったと言っても過言では無かろう。更に御丁寧な事に、冒頭で紹介されて居る讃岐饂飩店、私が以前居た会社の徒歩圏では無いか。

 「貴様は以前此のネタを中心に己の書きたい作品を世に問い好評を博していたでは無いか。何故続編に取り組もうとせぬ」とライヴァルから叱咤激励を受けているかの様な気分になり、其の意に感謝すると共に、叱咤激励に応えねばと意を固めた次第。


2001/09/03

歌舞伎町ビル火災

 先日の事、新宿・歌舞伎町の雑居ビルに於いて火災が発生し、当時居合わせた麻雀遊戯店及びキャバクラの従業員及び客が犠牲となった。と此の一文を書いた時点で、二点頭に引っ掛かる事があった。

 先ず一点。世間一般に於いては痛ましい事象についての論評を行う際、事象の紹介の後に決まって「犠牲となった方々の御冥福を祈りたい」なる趣旨の一文が付加される事になるのだが、少なくとも「エゾシカの嘶き」に於いて一々斯様な宣言を行う必要があるのだろうか。私の場合、犠牲者の多寡や犠牲者の貴賤やましてや事件の衝撃度に拘わらず、程度の差こそあれ痛惜の念を感じる位の感受性は持ち合わせている為、余程世間に対して痛惜の念を共有したい或いは強要したいので無ければ一々左様な心情を殊更宣言する迄も無く私の心に留めておけば良いと考えている。而も当然の事ながら「エゾシカの嘶き」では一々全ての事件を採り上げている訳では無い。僅か一握りの事件を採り上げて其の事件に対して斯様なコメントを付していたら逆に、「エゾシカの嘶き」で話題にせぬ事件に対しては何ら痛痒を感じていない、若しくは痛痒の程度が低いと解釈される余地があるでは無いか。批判を甘受の上述べるが実際の処、「エゾシカの嘶き」で採り上げなくとも今回の火災事故を上回る程度の痛ましさを感じる事件は私の中に山程存在する。

 紋切り型の「御冥福を祈りたい」は私にしてみれば「さも冷静且つ中立的立場で此の事件を採り上げるが、決して単なる興味本位では無く事件を痛ましいと思って居るからこそ採り上げるのだ」という、世間に対する免罪符に過ぎぬ。

 もう一点の疑念。キャバクラはあくまでオッサン系新聞や週刊誌を除くマスコミに於いては「飲食店」なのか。勿論此は此で強ち誤りでは無いし、キャバクラは所謂射精産業とは一線を画しているのだが、「風俗店」(「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」第二条第一項に於ける風俗営業の定義に拠れば、風俗店は必ずしも射精産業に限定されぬ。但し此の定義では麻雀遊戯店も風俗営業とされてしまう。嗚呼面倒臭い)の方がまだしっくり来る様に思えるのだが。否其れ以前に抑もキャバクラを「キャバクラ」と表記して何故いけないのか。


2001/09/02

ウルトラマンコスモス

 昨日何気無く日本経済新聞のテレヴィ欄を眺めていて我が眼を疑った。番組欄内に一際輝く「マンコ」の字。私は今迄新聞を読んでいて何故テレヴィ界や新聞界をも揺るがし兼ねぬ斯様な重大な事実に気付かなかったのか。

 よくよく観れば、時代を超えて子供達に親しまれ続けている怪獣番組の最新作「ウルトラマンコスモス」。三十年以上に渡り様々なウルトラマンが登場した事であろうが其の名の中に女性性器を織り込んだのは今回が初めてでは無かろうか。大体私が幼少の折に、「ロンドン橋落ちた」のメロディに載せて「ウルトラマンの子供、子供、子供、ウルトラマンの子供、ウルトラマンコ」と唄うギャグが遍く流行していた位であり、斯様な番組名を冠するにあたり、制作者側に上述の視点が欠落していたとは到底思えぬ。或る意味世間に対して思いっ切り挑戦状を叩き付けて居ると言えよう。

 一方斯様な番組名が充分罷り通っている処をみると、親も子供もマスコミを通じて激しく露出される女性性器の名称を眼にした処で何等問題にならぬ位、女性性器の名称が親子間或いは子供同士で日常極自然に頻繁に用いられて居る事が推測されよう。時代の移ろいを感じるのに併せ、新聞に「マンコ」と記された如きで作品を一本したためる程度に反応する自分が恐ろしく時代から取り残されている様に思えた次第。


2001/09/01

検索エンジン・2001/08

 今回の検索語ランキング、私にとって非常に嬉しい結果がもたらされた。一位に立ったのはお馴染みの「強姦小説」「包茎写真」「陰茎写真」「強制女装」の何れでも無いばかりか猥語でも無い「エゾシカの嘶き」であった。恐らく一般語としての「エゾシカの嘶き」を検索に掛ける人及び其の必然性もそう高くない事を考えると、正に此のページを探したくて検索エンジンに其の回答を求めたというケースが今回頻見されたという事であり、「エゾシカの嘶き」を一生懸命探そうとする多数の方々の健気な姿を想像しては、人気ウェブサイトの作成者冥利に尽きる一方で一層ひしひしと責任を感じ入る次第。

 二位には僅差で何時もの「包茎写真」。次いで「強姦小説」「陰茎写真」、少し離れて「女性専用風俗」が顔を出す。其れにしても包茎、陰茎、女性専用風俗が上位にランクインする処をみると、淫猥な気分になった女性達が昼に夜に一心不乱にキーボードを叩き、猥語を検索エンジンで入力している様子が全国で展開されていると推測されよう。そう考えると此方まで淫猥な気分になったりし兼ねぬ。

 さて、下位に目を移した処「した上で した事 する積もり」などというものが存在した。此は一体何を調べようとしていたのか。想像するに、此等の表現が一般的には平仮名で表記すべきとされて居る為、「斯様な不細工な表現を多用している輩が居ぬか」或いは逆に「最近めっきり減少してきた斯様な素敵な表現を多用している人が居ぬか」というチェックを行ったのでは無かろうか。因みに「Google」を用いて検索してみた処、検索に引っ掛かったのは僅か六頁。言う迄も無くトップに登場したのは「エゾシカの嘶き」であった。

 最後に、先月の「エゾシカの嘶き」へのアクセスの内、約二割が前回(2001/08/01参照)触れた、札幌・薄野のソープランド情報ページからのリンクであった事を御報告申し上げる。


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