エゾシカの  2001/08/01〜2001/08/31

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2001/08/31

サル科の時代

 昨秋はシカ科の露出活動が目立ち、「シカ科の時代」の到来が期待された(2000/10/26参照)のだが、今年は「サル科の時代」が訪れつつあるのでは無かろうかと思われる位、サル科の露出が活発化しているのだ。

 マスコミ界に於いては、今春に中部日本放送がウェブ上で視聴者参加型ヴァーチャルシティ「サルの生活」を展開させた。視聴者がサルに扮し、サルの街で労働を行いお金を稼ぐという遊びである。因みに北海道放送に於いては二年程前から「もんすけ」なるサル及び其の一家がキャラクターとして用いられて居り、両者が奇しくも最近「エゾシカの嘶き」に於いて日本経済新聞に次ぐ地位を占めつつある東京放送の系列放送会社である事が興味深い。

 夏前には1999/06/04で触れた「サルゲッチュ」以来二年振りの続編となった「ピポサル2001」が発売され、お馴染みの「サルサルサルサルサルサルサルゲッチュ、ウ〜、サルゲッチュ!(ゲッチュ!)」のメロディをバックに新商品告知のTVCMが放映された。此だけで在れば単なるゲームの新発売CMなのだが驚きべき事に主人公のピポサル、マクドナルドに於いて人形が発売されるわカードが配布されるわマクドナルドのTVCMにも登場するわで八面六臂の活躍を見せていたのだ。

 新商品といえばゴリラをキャラクターに据えた缶酎ハイ。成熟市場に於ける後発商品というデメリットを補う切り札として用いられたのがサル科の動物、彼等にかけられる期待の大きさが容易に推測出来よう。更に、今春開業の大テーマパーク、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンも「サル関連新商品」と称して良かろう。

 そして此の「エゾシカの嘶き」に於いては此処暫く作品を賑わすサル似の知人の露出振りが顕著。以上、数的には昨年のシカ科の時代を下回るものの、質的には非常に充実した露出振りとなって居るのだ。其の内サルを対象とした獣愛がブレイクするなどといったムーヴメントに繋がるのでは無いかと期待を込めつつサル科の露出振りを今後も注視していく事になろう。


2001/08/30

PDA活用法

 PDAを所有して一月半、漸くPDAの主たる活用法が三つ程度に纏まってきた様な気がする。通勤時のポータブルオーディオ、「エゾシカの嘶き」のネタメモ、そして後一つは文学作品の読書ツールとしての活用である。即ち、過去の「エゾシカの嘶き」を其の儘テキストファイルに変換してPDAにコピーし、何時でも何処でも読書ツールを通じて名作を縦書きにして味読し堪能する事が可能となっているのだ。

 縦書きで「エゾシカの嘶き」を愉しむ喜びは2000/04/11でも触れた通り。今回はPDAという事で、此が極端な話、電車の中であろうが職場の中であろうが動物園であろうが場外馬券売場であろうがPDAを手にしている限り何処でも愉しむ事が可能となる。此は正に文庫本の感覚であり、恰も己の名作群が文庫本になっているかの如き疑似感覚すら抱けるのだ。

 喜びを此の程度に留めるのは勿体無い。此等テキストファイルを「EZOSHIKA TOWN」上で公開してPDAユーザーの読者にダウンロードして頂き、PDAに取り込んで文庫本を繰るかの如く味読して頂きたい。然為れば私の喜びも一層高まる事になろうし、名作に文庫本感覚で触れるばかりかPDAの活用促進が期待される読者の喜びも一入であろう。現在公開にあたり、密かに過去の「エゾシカの嘶き」に微修正を加えつつある処である。


2001/08/29

信じていた者に裏切られ

 社内誌に目を通していて、此処暫くの私の怒りの炎に平然と油を注ぐかの如き表現を目の当たりにしたのだ。「弱冠19歳」。2001/08/15で触れた通り、弱冠とは二十歳を指す言葉。無闇矢鱈と若者を指す言葉に用いるものでは無い。

 抑も此の言葉、元を正せば…と述べようとして念の為広辞苑を開いた処私は卒倒せんばかりの衝撃を受けた。一つ目の解説には「男子の二十歳の異称」と書かれているものの、二つ目の解説には堂々と「年の若いこと」と掲載されて居るでは無いか!斯様な誤用は明白に「(誤用)」と表記するなり「転じて、年の若いこと」と表記するなりで、あくまで此は二十歳を指す言葉だと明記してあるものだと信じていたのに。

 過去に何度か経験した事があるのだが、己がどう客観的に考えても正しいことをしながらも、周囲の過ちが遍く受け容れられた所為で「お前が間違っているのだ」と宣告される程辛く悲しい事は無い。而も其の宣告者が己の味方と信じていた者であれば尚更である。今夜は床に就きつつ密かに枕を涙で濡らして居る事であろう。


2001/08/28

日本語教育

 帰宅後に何時もの如く「筑紫哲也NEWS23」を観てうむ今日は日本語の誤用は無かったと安心しつつ何時もの如くチャンネルは其の儘に「ワンダフル」を観ていたのだが、其の中で私は眼をひん剥かざるを得ぬ状況に置かれたのだ。

 最近のヒット曲は必ずしもカラオケで人気のある曲とは限らぬという趣旨の論評を識者が行っていたのだが、「CDセールスとカラオケランキングとの乖離」云々という識者の発言の際、テロップには「CDセールスとカラオケランキングとのかえり」と表示されていたのだ。

 おいおい「かえり」とは何ぞや。「乖離」を「かえり」と聞き間違えたにしても此では全く意味が通じぬ。而も文脈を考えれば通常の日本語を用いる人間、ましてやマスコミ関係者ならば「乖離」以外に言葉が見つからぬでは無いか。因みに念の為広辞苑で確認しても、「かえり」なる単語に文脈に即した意味は全く見つからぬ。

 スタジオの小便臭い軽薄な若者タレント共が此のおかしさに気付かぬのは仕方在るまい。彼等に真っ当な日本語を期待する程私は愚かでは無い。第一彼等の日本語について一々指摘していたら其れだけで「エゾシカの嘶き」が連日書けてしまう位であろうに。而るに識者論評を録画しテロップを付した人物、其の録画のテロップを事前にチェックした人物(が存在するのかどうか知らぬが)が斯様な誤用(誤用というか其れ以前の問題である)を看過するとは。東京放送は真剣に社員及び関係スタッフに対し、初歩的な日本語の再教育を実施した方が良いのではないかと切に感じ入る次第。


2001/08/27

 今回の北海道旅行は私にしては珍しく天候に恵まれ、初日は好天の下美瑛の丘をドライヴし、昨日は夕刻に雨に見舞われたものの、釧路湿原を馬で駆け巡っている間は曇天ながら一滴の雨も感じる事が無かったのだ。しかし其れにしても所謂ピーカン状態で無くとも「天候に恵まれ」と表現せねばならぬとは、一体私の天候運も如何程のものなのかと怒りに近い疑念を感じずには居れぬ。

 さて北海道旅行最終日の本日。本来であれば釧路を出発し道東の湖(阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖)を一通り周回して女満別空港に向かうという予定であったのだが事もあろうに、というか何時もの如く、ハンドルを握って程無く大雨に見舞われる事となった。以前雨中の中期せずして峠越えをした際(1999/09/07参照)、周囲が恐るべき速度でびゅんびゅん飛ばす為、其の流れについていこうとして此方も恐るべき速度で右へ左へハンドルを切っていた処車輪が其の都度滑っては泣きそうな思いをしていた事を想い出し、とてもじゃないが美幌峠を走行する事は私には不可能と判断し、断腸の思いで周遊地を阿寒湖一本に絞り摩周湖及び屈斜路湖を諦める事とした。

 其の後一旦雨は小降りになったものの、女満別空港到着時に再び雨がぶり返し、駐機所は水浸し、其の内「本日は航空機が出発出来ぬかも知れぬ」「本日の食事は負担させて頂くので食券を配布する」「宿の手配も極力行う」などという物騒な放送が館内に響く。そんな環境の下でも結局私の登場する便は無事に出発する事が出来、何とも運に恵まれた事よと感心したのだ。しかし其れにしても空港到着時を狙ったかの様に大雨に見舞われたのを結果的に「運が良い」と表現せねばならぬとは、一体私の運も如何程のものなのかと怒りに近い疑念を感じずには居れぬ。


2001/08/26

演歌の順位

 流行歌の売れ行きランキング番組を観ている内、「Tommy february6」と表記(「6」は正確には所謂「四分の一角上付き」)して「とみーふぇぶらりー」と読むのは何故かなる疑問を抱きつつ、更なる疑問を抱く事となった。

 今回に限らず何時もそうなのだが、ランキングの51位〜100位に演歌が矢鱈と登場するのだ。そして其等の曲は滅多な事が無い限り50位以上に顔を出す事は無い。

 勿論演歌の聴衆層が固定化されていると考えるのが自然なのだろうが、どうも此の傾向は過去からずっと続いているように思われるのだ。聴衆層の減少(ファン層の流出及び人口自体の減少)と新たなる聴衆層の獲得とがほぼ一定で安定しているようには私には感じられぬというのに。

 此の番組の特徴として、50位以上の曲名は毎週紹介されるのだが51〜100位の曲名は月一度しか紹介されぬ。番組のターゲット層と演歌聴衆層とはほぼ排反では無いかと考えられる為、番組側で何かしら恣意的な操作が働いているのでは無いかという仮説を考えようとして、そういえば抑も此の番組のランキングって何に基づいたものであろうかと考えた処、長年此の番組を観ていながら未だに其れを知らないのだ。番組中で其れについて言及されていた記憶も無い為、益々仮説が信憑性を帯びて私の中に留まる次第。


2001/08/25

動物注意

 先日、2001/08/17に於いて触れた北海道での訪問先は結局本命−対抗で決着し、美瑛及び釧路湿原を訪れる事になったのだが、二泊三日の日程、限られた名古屋発着の航空便の所為で可成りの強行軍となり、初日に千歳〜美瑛〜釧路の500kmを移動する事となった。

 道中、快適を通り越した速度で高速道路を走り抜けていた処、道路脇に非常に気になる看板が所々に立っていた事に気付いた。何個か看板を眼にする内に「動物注意」との看板である事が判明したのだが、其の看板にあしらわれた獣達のイラストが非常にキュートであった為、其の看板の横を通り過ぎる度に暫し眼を奪われる事となったのだ。

 此等の看板、確かに動物事故防止には役立つかも知れぬが一方で余所見事故を著しく誘発しそうな気がするのだが…。


2001/08/24

ニュースステーションでの再会

 先日の「ニュースステーション」に於いて、ブラウン管を通じて学生時代の同級生と期せずして再会する事となった。日本を直撃する事となった台風に対する災害対策をテレヴィで述べていた彼は学生時代同様、若干の早口で所々噛んで居り、其の様子を観て私には嬉しく懐かしく思えたのであった。

 昨年には学生時代の先輩が、事もあろうに獣に関する法律の有識者として同番組に登場していた。学生時代には左様な方面に造詣が深い素振りなど一切見せなかった彼に驚くと共に、中途半端に関西弁が混じった舌足らずな発言を耳にして私には嬉しく懐かしく思えたのであった。

 六年前の同番組に於いては、地下鉄サリン事件の実行犯(2000/07/20参照)と高校時代に同じクラスだった者、即ち私とも同じクラスだった者が出演し、実行犯の高校時代の様子を如何にもマスコミが期待した通りの内容で面白可笑しく論評していた。其の様子を観て、高校時代に彼が其の調子の良さで教師達に対して「いい子ちゃん」振っていた様子が想起され、私には堪らぬ不快さを感じさせたのであった。


2001/08/23

獣葬

 確か日本に於いては違法とされているのだが、亡骸を葬る手段の一つとして、亡骸を放置して野生の鳥に其れを啄ませる「鳥葬」なるものが中央亜細亜辺りに存在する。

 鳥葬があるのなら当然亡骸を獣達に啄ませる「獣葬」があって然るべき。己の葬法の一つとして検討の選択肢に挙げておきたいのだが、私の場合「彼等に己の亡骸を処理して頂きたい」と思う獣の大半が草食獣であり、彼等に獣葬を期待するのは余りに酷である。となれば私の肉を食む事が可能なヤブイヌなり鰭脚類なりに期待する事になろう。

 己の亡骸が彼等の食事と化す光景を想像してみた。「うわっ、何やねん此めっちゃ不味いやんけ」「これは俺等の口に合わんで」「もう食えん、残しとこ」こうなるともう悲劇である。亡骸が風化する迄只管晒し者になる風葬と何等変わらぬ以上に、己の好きな獣に嫌がられるというのが辛くて堪らぬ。


2001/08/22

名古屋のラヴホテル事情

 普段の職場とは異なる地に出勤する機会が今月は半分近く存在する。其の地に足を運ぶ度に違和感を覚えずには居れぬ光景を目の当たりにするのだ。

 駅に降り立ち線路沿いに歩くと其れに並行するかの如く立ち並ぶラヴホテル。そして目的地は正にラヴホテルの真っ只中。うむ此の環境で在れば何時性欲を解消するにも場所に不自由する事は無かろう而るに其れ以前に相手の調達をどうするのか抑も何故左様な便利な環境で仕事に勤しむ事になるのだなどと思索を巡らせつつ次から次へとラヴホテルの看板を否が応でも目に入れる事になる。

 東京の様に逢引時に於ける電車での移動が不自然で無い街で在れば線路脇や駅周辺の路地にラヴホテルが林立するのも首肯出来よう。而るに所謂「車社会」であり其れを自分達の精神的拠り所としている名古屋及び其の近郊地域に於いて駅周辺にラヴホテルが並ぶ意義とは何ぞや。只でさえ此の地域に於いては他地域以上に、高速道路のインターチェンジ脇にラヴホテルが狂立しているというのに。

 更に、買物逢引や散歩逢引の序でに足を運べる渋谷や池袋のラヴホテル群ならいざ知らず、近隣にさほど大きな商業施設も飲食施設も無く私自身足を運ぶ度に退屈な思いをせざるを得ない此の地で逢引を行いラヴホテルにわざわざ足を運ぶ意義とは何ぞや。

 幾ら考えても此の地でラヴホテルが流行する理由が思い浮かばぬ。此の地のラヴホテルに足を運ぶ確率よりも車中で事を済ませる確率の方がずっと高いように私には思えるのだが。


2001/08/21

抜かず六発

 比較的週末に余裕の生じた文月以降、週末を出来る限りアクティヴに過ごそうと考え行動してきたのだが、其の中から主な活動を抜粋してみる。

 文月第一週:サル似の知人、寓居に宿泊(2001/07/07参照)
 文月第三週:北海道の牧場及び競馬場にて馬と戯る(2001/07/20参照)
 文月第四週:京都市動物園にてヤブイヌと一瞬の対面(2001/07/31参照)
 葉月第一週:名古屋市水族館にて亀の孵化を待ち侘びる(2001/08/05参照)
 葉月第二週:よこはま動物園・ズーラシアを夜に徘徊(2001/08/11参照)
 葉月第四週:釧路湿原を一日中馬に乗って歩く予定

 此程迄に立て続けに獣(水族館は決して獣がメインでは無いが)にまみれた週末を過ごすのは初めての経験。2001/08/17で触れた旅欲暴発寸前状態に併せ、現在獣欲もびんびん、而も立て続けに六度も。此ぞ正に所謂「抜かず六発」では無いか。

 言う迄も無いのだが念の為、上記獣欲六発(内既遂五発)の内、どさくさに紛れて性欲を発散させた事は一度たりとも一頭たりとも無い事を明言しておく。


2001/08/20

ペガサス

 鳥類及び翼手目の羽は元来手に相当する部分が進化したものであるという知識は以前より身に付けており今更疑い検証する余地も無い位に私の頭の中に擦り込まれて居る。従ってペガサスの絵を観て何時も疑念を抱かざるを得ないのだ。彼等には駆ける手足に加えて一対の羽が肩や背から生えているのだが、此では本来の足は六本という事になるでは無いか。六本足と言えば節足動物なのだが、馬が進化する事により進化の樹形図を今更逆に辿る必然性も在るまい。抑もペガサスの頭部・胸部・腹部が節になっている様子が窺えぬ。ペガサスの産みの親は此処等辺の疑念を如何様に理由付けした上で彼等を世に出したのか。更に言えば世間は斯様な疑念を今日に至る迄抱かずに日常生活を送っているのであろうか。ひょっとしたら世間は此処等辺の疑念を既に理由付けした上で日常生活を送っており、私のみが現在裸の王様状態に陥っているのでは無かろうか。然為れば世間から常識の欠如した人間と嘲笑されるのは甘受すれど、馬好きという自己のアイデンティティが崩壊するのが我慢出来ぬ。此処迄考えて一層不安が高まるに至った次第。


2001/08/19

続・エロメール攻撃

 2001/08/07で触れて以来一日当たり最低五通のエロメール攻撃以降、余りにしつこいエロメール送信元アドレスからのメールを次々と受信拒否に設定してきた処、僅か十日余りで最大受信拒否件数の十件に至った。其れにしても携帯電話通信業者がエロメール対策として呼び掛けたり実施したりしてきた「独自アドレスの設定」「悪質メール送信元からのメール受信拒否」「メール約百通分の受信無料」、たった十日余りで何一つ奏功せぬ事が判明し只管放心すると共に他の有効な対策は無いのかという怒りが込み上げる事となった(尤も本来此の怒りはエロメール送信者にぶつけるべきものであるのだが)。

 そんなわけで今一度携帯電話でのメール送受信の意義及び必然性を考慮した結果、一部を除き携帯電話メールを受信拒否する事とした。しかしそうする事により、わざわざ使用料を支払って用いてきた機能がエロメール送信者の為に不能となり、何とか力を借りたい携帯電話通信業者にも此以上の対策が期待出来ようも無い(第一彼等自身活発なエロメールの遣り取りが即企業の収益に貢献するのであり、余程エロメールが犯罪に直結したり反社会的なもので無い限り企業側に積極的な対策を期待する方が無駄なのかも知れぬ)。何とも余りに遣る瀬無いでは無いか。

 個人によるエロメールの合法的撲滅が不可能だとすれば、エロメールの対象が特定の携帯電話通信業者のアドレスに集中している以上はとやかく言わずに携帯電話通信業者を切り替えれば済む話なのかも知れぬ。電話番号の変更無しに携帯電話通信業者を切り替える事が出来る時代の到来を切に祈念する次第。


2001/08/18

日本経済新聞と人と獣

 本日付日本経済新聞に掲載された歌人のコラムのタイトルを目にして、遂に日本経済新聞も此処迄やるのかとほとほと感心した。「人と獣」。正に私が「EZOSHIKA TOWN」及び「エゾシカの嘶き」を通じて追究している永遠かつ最大のテーマをストレートにタイトルにした点に、「エゾシカの嘶き」を永遠のライヴァルと目している日本経済新聞の、「エゾシカの嘶き」への強い同化願望すら感じてしまうのであった。

 文章は最近リメイク版が公開された映画「猿の惑星」の感想から始まり、町中に出没した猿や烏、果ては人間に対しても「人間的」なる概念を用いる背景には、人間には人間とは思えない部分が内在しているのでは無いかという帰結に達し、結びはこう締められている。「最近、家人と喧嘩していて、怒った彼の顔が、『猿の惑星』の猿そっくりに!この人なら、特殊メークなしで、すぐに出演可能だと思い、怒るのを忘れて笑ってしまった」。

 時折「エゾシカの嘶き」で話題になるサル似の知人(2001/07/19参照)、嘗て宴会の余興で我々と共に桃太郎のパロディ劇を演じた際、他の人間が其れらしい格好に扮する中、彼だけはノーメイクでどんなサルよりもサルらしく見事にサルを演じ切ったのだ。正に此のコラム執筆者は日本経済新聞社の差し金で斯様な文章を結びとしたに相違在るまい。日本経済新聞社の恐るべき情報収集能力にただただ脱帽するのみ。


2001/08/17

旅欲の行方・道内篇

 若干遅めの夏休みを一日取る事になり、来週末に三連休が発生する事となったのだが、当然の如く何処かに足を運ぶとして、今回は何時もの様に旅先決定に逡巡する事も無く行先を定める事となった。通常の三連休であれば現地迄の往復及び現地での足、此に宿泊先の決定に難儀する事になる上、人気の場所であればある程現地での混雑振りに辟易する事となる。従って平日ならではこそゆっくりと足を運びたい地区となると、必然的に北海道が選択肢となってしまうのだ。

 しかし大きな問題点が二つ。2001/07/16で触れた通り、北海道には先月足を運んだばかりであり金銭的・精神的に多大な無駄を感じなくも無い。そしてもう一つ、先月の旅行ではノーザンホースパークに加え私にとってJRA最後の競馬場訪問地となった函館競馬場という大目的があり行程は難無く決定した(尤も現地往復には難儀したのだが)一方、今回は確たる目的地が未だ定まらぬ。一つ目の問題点は私の勢いの問題であり欲望の高まり次第でどうにでもなるのだがもう一方は是非検討せねばならぬ問題。という訳で、北海道内での旅欲の行方を想定する事とする。

 此処暫く北海道旅行に於いては海岸線ドライヴを続けていた事もあり、少し内陸を愉しまねばと思った挙げ句、本命は美瑛。六年前だったかの夏に美瑛を訪れ、丘巡りをしようと自転車を借りた直後に大雨に見舞われ、三十分も経たぬ内に自転車を返却して駅で無駄な待ち時間を過ごした時のリターンマッチの意味合いが強い。

 対抗は釧路湿原。過去二度訪問したのだが何れも雨だの雪(因みに釧路は降雪が少ないにも拘わらず、卯月という季節外れの時期の大雪であった)だので結局湿原内には殆ど足を踏み入れていない。此も結局リターンマッチなのだが、今回は是非馬で足を踏み入れたいという欲望が高まっている。

 次いで層雲峡。一年で訪れるに相応しいのは正に此の時期。学生時代、内定を頂いた企業の所謂「内定者拘束」で軽くバスで通過した程度であり、景色自体は未だ愉しんでいない。此に大雪山登山を加えるのもなかなか乙なもの。他には定番の日高の牧場巡りだとか海岸線ドライヴの一環としての函館〜倶知安〜小樽踏破が挙げられよう。

 とまあ何ヶ所か旅欲対象候補を見繕ったのは良いものの名古屋からの航空の便が頗る悪く、新千歳以外の空港を用いるのであれば初日の昼下がりに現地着、最終日の昼前に現地出発という行程を余儀無く強いられる。此では何の為の平日休暇なのか解らぬでは無いか。とはいえ新千歳空港に拘れば、二泊三日で上記の行先を複数巡る事すら困難。ちゃきちゃきの江戸っ子時代には考えられぬ航空便の制約が此程迄に切実に感じられる事は無かった。

 さて、其れは其れとして一つ喜ばしい事として、一月前に赴いた地に再度足を運びたくなる位、現在私の旅欲がびんびんに高まっているのだ。性行為に於ける連発が困難になってもおかしくない位の齢に達しても、旅欲の高まりに於ける連発は充分可能のようである。勿論両者とも相手の質が大切な事は言う迄も無いのだが。


2001/08/16

漢字にみる獣愛

 幼少の頃、市民図書館で漢和辞典を嬉々として読み耽っては其の辞典が貸出禁止となっているのに甚く悲しみ親に泣き付いて漢和辞典を購入して貰い、気が付けば小学校卒業時には手垢まみれの漢和辞典が三冊になっていたのだ。そんな事を思い出しつつ、電子漢和辞典を読み手繰る事とした。

 只読み手繰るだけでは無く目的意識を持つ事とした。先ず人偏(若しくは人偏の原型となった「人」)を部首とする漢字を探した処、「人」から始まり「介」「会」「全」などという些か邪道な物から「僻」「儡」等に至る迄220字が存在した。次に調べたのは獣偏(若しくは獣偏の原型となった「犬」)を部首とする漢字。「犬」から始まり、お前イヌ科とちゃうやんけとツッコミを入れたくなる「猫」「猪」「猿」等を経て「獰」「猥」に至る迄59字。他にも部首となっている獣である「牛」は21字(「牛」「犠」等)、「羊」が18字(「羊」「羹」等)、「豹」の左側の偏の部分が13字(「豹」以外は旧字体か)。「鹿」は12字(「鹿」「麟」等)、「豚」(部首となるのは右側の旁の部分、「豚」「象」等)が7字、「鼠」は3字(「鼠」「鼬」等)。何れも人の域、若しくは犬に代表される獣の域には極めて遠いという事である。

 ところが敢えて此処迄論評を避けていた「馬」という部首、此を部首とする漢字は「馬」「駅」等何と56字。犬を含め獣全体を表す漢字に対し、単独の獣漢字が此を脅かしつつある位の勢力を保って居るのだ。此程迄に馬という漢字が他の獣達に比べ漢字を構成する機会が多いという事は最早言う迄も無く、古来より馬と人とが特別な関係であった事に他ならぬ(2001/06/20参照)。此の両者の獣愛が時代のみならず文化も超えて、中国文化の輸入と相俟って我々の日常に深く根付いていた事を努々忘れずに、日々獣愛に邁進すべきなのである。


2001/08/15

誤用の氾濫・3

 世間で頻繁に用いられる誤用表現の一つに「弱冠○歳」というものがある。言う迄も無く○に入る正解は唯一20のみであるにも拘わらず、一部に於いては一桁から20代後半迄幅広い数字が用いられている。あくまでも「弱冠」は20歳に係る枕詞として用いられるものであり、「弱い齢の」などといった形容詞的表現では無いのである。

 という訳で2001/08/03に続きまたもや「筑紫哲也NEWS23」。最近相次ぐ日本語の誤用表現に好い加減呆れていた処に「弱冠22歳」との事。一体此の番組の報道原稿のチェックはどういった日本語感覚を持つ者が行っているのか、一度御尊顔を拝見させて頂きたいものである。

 否待てよ、私が耳にしたのはあくまで「じゃっかん」という発音。ひょっとすると原稿では「若干22歳」となっていたのかも知れぬ。尤も此は此で意味が不明であるのだが。


2001/08/14

腰靨

 平日の深夜番組としては普段「ワンダフル」を観ており(1999/06/01参照)、「トゥナイト2」を観る事は稀である。尤も此は小便臭い若者の文化を積極的に己の物にするという訳では断じて無く、「ニュースステーション」→「筑紫哲也NEWS23」という報道番組の梯の後にチャンネルを替えるのが面倒臭い為にこうなってしまうに過ぎぬ。嗚呼、「筑紫哲也NEWS23」が90分番組であった頃が懐かしい。

 にも拘わらず偶々「トゥナイト2」を観る事となった。今日の特集は夏に相応しい女性の性感帯との事で、氷を用いたプレイだのを紹介していたのだが、其の中で「今更何を偉そうに言うてんねん」とテレヴィ局の見識を疑う発言を耳にした。

 「女性は背中の腰靨が性感帯」との事だが、抑も斯様な番組を好んで観る様な輩は職場で挨拶代わりに猥談を披瀝したりする中年男性及び左様な輩に媚びようと話を合わせて猥談に興じる男性であり、彼等にとって斯様な知識は自明の理なのでは無かろうか。私の様な猥談知らずの好青年ですら一般常識として有する知識をさも新発見の様に採り上げスタジオのタレント一同が其れに驚くといった茶番を演じるとは、視聴者を嘗めているといっても過言では無かろう。

 番組に対する怒りを露わにする一方で、氷を用いたプレイに甚くそそられた次第。


2001/08/13

食い合わせ

 先月の土用の丑の際、スーパーで鰻を購入した序でに西瓜を購入しようとして「あれ此の両者は確か所謂食い合わせでは無かったであろうか」と気になり結局鰻を採って西瓜を断念する事とした。

 此程迄に記憶があやふやになる位食い合わせを意識する機会が無かったのだが、抑も此処暫く食物摂取の際の組み合わせに極めて無頓着な所為だと思われる。西瓜にたこ焼きに納豆なんぞ其の極みでは無かろうか(1999/06/21参照)。

 しかし其れにしても、凡そ一般的とは思えぬ組み合わせの食物を愉しんでいる内に、何時食い合わせに中ってしまっても不自然で無かろう。そう思いつつも此処暫く青汁と豆乳を同時に嗜む日々を送っており、今一度食い合わせを一頻り確認しておく必要があるのでは無かろうかと心配する次第。


2001/08/12

ドラッグクイーン

 本日の日本経済新聞紙上の映画評に於いて、「ドラッグクイーン(女装のゲイ)」なる表記を目にして暫し悩む事となった。確か私の記憶では「ドラッグ」では無く「ドラアグ」若しくは「ドラァグ」であり実際「エゾシカの嘶き」に於いても「ドラアグクイーン」なる表記を用いていた(1999/07/03参照)のだが、何れが正しいのか。また、敢えて「ドラアグ」なる語を用いるとすれば其れは英語の「drag」(パソコン用語の「ドラッグアンドドロップ」の「ドラッグ」)だの「drug」(若者用語の「ちょっと其処の姐ちゃんドラッグパーティーでもせえへん?」の「ドラッグ」)だのといった語とは異なる外来語なのか。更に言えば私の認識ではドラアグクイーンとは我々が何かの余興で嗜むレヴェルの女装では無く一際気合いの入ったど派手な女装のゲイでは無いかと思われるのだが此を「女装のゲイ」と指して構わないのか。

 広辞苑には掲載されていなかった為、英和辞典で「drag」から調べてみようと思った処いきなり「drag queen」に出会した。「drag」なる外来語を用いるという事で在れば、表記は「ドラッグ」、私の様により原音に近い表記をすれば「ドラアグ」「ドラァグ」となろう。意味は「女装の男性同性愛者」との事であり、此に因れば女装の程度は関係無い模様。そして唯一残った謎が、何故「引っ張り女王」が「女装の男性同性愛者」を指すのかであったのだが、ウェブサイトを漁っている内に、ドレスの裾を引っ張る様に歩くのが其の語源と判明。

 其れにしても言葉を多少は解っている様で案外何も解っていないものである。そう結論付けようとして愕然とした。最近マスコミの日本語表現について何かといちゃもんを付ける機会の多い私に対してライヴァルたる日本経済新聞が「驕る事勿れ」との警鐘を鳴らしたに相違在るまい。日本経済新聞の恐るべき企みを垣間見た次第。


2001/08/11

夜間動物園

 此のお盆の三日間、よこはま動物園・ズーラシアにて「ナイトズーラシア」なる夜間動物園公開が開催されて居り、日帰りで東下りを愉しむ事とした。

 正に此の時ばかりと私の東下りを見透かしたかの様に降り頻る雨の中、此の大雨に加えお盆の帰省ラッシュの中で斯様な催しに出席している風流な人間は私位では無かろうかと思っていたのだが、最寄の中山駅に到着して其の考えを大いに修正する事となった。ズーラシア行きのバス停は家族連れから若き番に至る迄老若男女を問わず獣欲満ち溢れた人達でごったがえしており、其の混乱でバスが延発する位であったのだ。

 更に私を驚かせたのはズーラシアのゲート。獣欲バスが現地に到着したのは「ナイトズーラシア」開館の五分前だったのだが、ゲート前には過去二度訪れた時とは比べ物に成らぬ位の長蛇の列。数多の獣欲渦巻く空気の中、此では何時入館出来るのかすら噸と見当が付かぬ位であり、仕方無く列が引く迄の間獣欲の萎える事無き様、ゲート脇の売店にてヤブイヌ縫い包みを触っては悦んでいた。

 待つ事暫し、やっと園内に入った処、各獣舎の前は人集りの山で肝心の獣を覗くのに精一杯。其の中でもマレー獏が元気に泳いだり食餌したり、川獺がキイキイ鳴き叫きながら所狭しと暴れまくったり、虎や獅子などの猫科動物が此の上無く敏捷に動いたりなどする様は、昼間の動物園では決して味わえぬ極楽絵巻であった。

 そして今回の「ナイトズーラシア」で私が最も期待していたのは言う迄も無い、ズーラシアの最奥、獣界のファイナルステージに位置しているヤブイヌである。一体夜を迎えて彼等が如何様な在られもない姿態で我々の前に登場するのか、雨や人混みの労苦は此を確認する瞬間の為に存在したのだ。

 一歩一歩ファイナルステージに近付いたのだがどうも今迄の訪問とは勝手が違う。近付けば近付く程私の脳裏に浮かぶ光景とは異なっていくのだ。どうやらヤブイヌ舎の周囲の通路が塞がれている模様。警備員に確認して、夜のヤブイヌは非公開との残念な知らせを耳にして、すごすごと其の地を後にした次第。

 とはいえ夜間動物園の愉しみ及び夜間動物園需要の高まりを肌身で感じ取る事が出来た。願わくば東山動物園にて夜のヤブイヌ公開を目玉とした夜間動物園なんぞを実施して頂けないかと思いつつ、夜間水族館需要の極めて低い此の地(2001/08/05参照)に於ける実現性を疑わざるを得ないのだが。


2001/08/10

尻尾

 日常腰を下ろして生活している人間及び類人猿は別として、獣の尻尾にはバランスを取るという大きな目的の他に、陰部を隠すという目的が存在するのでは無かろうかという仮説を思い付く。獣達が羞恥心を持っているか否かに拘わらず、彼等にとって最大の目的たる「種の保存」にあたり障害物との接触及び外敵からの攻撃による生殖器損傷を避ける為では無かろうか。第一バランスを保つためなので在れば、肛門を覆い隠して脱糞時に一々其れを持ち上げるという手間を掛けねばならぬ場所に尻尾が存在する(若しくは肛門が尻尾に覆い隠される位置に存在する)必要など無かろう。

 しかし仮説に公然と反証する者は案外身近に居るもの。柴犬や秋田犬等一部の犬に於いては尻尾がロールケーキの如く上部に巻き上げられており、己の肛門を「聢と見よ」「此でもか」と言わんばかりに強烈に曝け出しているでは無いか。何故彼等のみが仮説に抗うのか、今迄散々人間に服従してきたが故の逆襲なのであろうか。此も獣界の七不思議の一つと言えよう。


2001/08/09

山寺の和尚さん

 普段何気無く耳にしている曲を歌詞を読みながら落ち着いて鑑賞している内に驚愕の極致に達した経験が幼少の頃に存在する。

 誰しも最初のフレーズは聴き覚えがあろう「山寺の和尚さん」。軽快なリズムとメロディに乗って「山寺の和尚さんは 鞠はつきたし鞠はなし」、此処迄は普段耳にしている事もあり別段何も考える事無かったのだが問題は此から。「猫を紙袋に押し込んで」斯様な歌詞だったのか。しかしいきなり何をするのだ此の和尚は。更に「ポンと蹴りゃ」まさかとは思いつつも本当にやってしまうか此の和尚。「ニャンと鳴く」そりゃ鳴くわな。「ニャンがニャンと鳴く」彼は既に蹴鞠では鳴く猫の泣き叫ぶ様を愉しんでる様子。「よーいよい」一体何がどう良いのだ。大体あんた坊主やろが。

 当時は獣愛を知る程の感受性を持ち合わせぬばかりか動物を恐れる位であったのだが其れでも彼の行動に驚き戸惑い非道いと思う位の良心は持ち合わせていた。恐らく私と同様の感情を抱いた人間は少なく無かろう。幼少の餓鬼に斯様な歌を擦り込むのは何を学ばせる為なのか、何を身に付けさせる為なのか、未だに以て甚だ疑問である。


2001/08/08

逆手

 最近立て続けに日本語の誤用を指摘して以来安心して「筑紫哲也NEWS23」を観る事が出来なくなってしまった。果たして今日も「逆手に取って」と思しきニュース原稿が「ぎゃくてにとって」と読まれており、此のアナウンサーは小学生の逆上がりの際にも用いられる「さかて」なる読みすら碌に知らぬかと只驚き呆れたのだ。

 そう思いつつ念の為広辞苑を紐解いて仰天。「ぎゃくて」なる読み方が存在し「ぎゃくてに取る」なる用法が紹介されているばかりか、「さかて」の箇所に「ぎゃくてに同じ」とある。即ち広辞苑は「ぎゃくて」を本筋と捉えているものと思われ、己の誤りを恥じると共に「筑紫哲也NEWS23」に謝意を感じた次第。


2001/08/07

エロメール攻撃

 従来携帯電話対応コンテンツ「エゾシカの嘶き・iモード篇」に於いて携帯電話用メールアドレスを公開していたものの書籍掲載や広告出稿の依頼メールが偶に来る程度であり、実は携帯電話へのエロメール問題(2001/06/26参照)も極端な話自分の問題と言うよりは己とは若干異なる世界の話と認識して居た位でおり、此の手の話を耳にする度に、エロメールすら一通も来ない位では時流に乗れぬのでは無かろうかなどという一抹の焦燥感すら抱きつつも、いざという被害に備えて携帯電話用メールアドレスの公開を中止する事とした。

 ところが皮肉な事に策を講じて暫く後、唐突に一日十通以上のエロメールを受信する事となった。乳に当てたヴァイブレーターの振動に驚きメールをチェックする度に馴れ馴れしいタイトル、緊急を装ったタイトル、当方から送信したメールの返信を装ったタイトルのエロメール。エロメール限定で受信拒否をしようとも一々拒否対象アドレスを入力せねばならぬ。而も様々なアドレスから来るエロメールを拒否するには不十分な、十件という最大拒否件数。そして何よりも、斯様なエロメール受信で課金されたり、過去の有益なメールが保存出来ぬという実害。携帯電話会社からのアドレス変更慫慂も、既に独自アドレスを取得している身にすれば虚しく聞こえるばかり。

 其処でふと気付いたのだが、抑も私が携帯電話にてメールを使用する意義とは何ぞや。PDAを持ち歩き、旅先にはパソコンを持参する様な者が敢えて別アドレスの携帯電話メールを使用する意義は、現在の携帯電話メール使用状況に鑑みても極めて希薄に思えるのだ。尤も斯様な当然至極の事、エロメール攻撃に晒される以前に気付けよとも思うのだが。


2001/08/06

馬の初体験

 初めて本物の馬を間近で観た原体験は動物園に於けるものでも競馬場でも牧場でも無い。場所は広島、客体は四肢を切断された剥製であった。

 初めての独り旅で広島を訪れ(1999/10/26参照)、広島平和記念資料館に足を運んだ処其処に展示されていた、放射能を浴び毛が所々剥がれた馬の剥製が其れである。展示物の中でも一際大きな上、唯一原子爆弾の被害を受け生命を奪われた結果としての亡骸。異境の地に於いて味わった衝撃程後々印象に残るものは在るまい。歴史的事実を視覚面から強調するかの如く、知識のバイパスとして即座に私の中で原爆=馬の剥製=衝撃的な悲惨さという図式が描かれたのであった。

 旅行から帰って来た後、上述の想い出を涙ながらに夏休みの自由研究にしたためて以降、原爆投下という事象の節目を迎える都度、此の歴史的事実の悲惨さに対して巡らせる思考や湧き上がる感情が歳を経て強くなってきたのだが、何時しか左様な感情が逆に弱まっていく自分を認めるに至る。歳の所為だの記憶の風化だのといった言葉で片付けるのは容易なのだが、敢えて其の容易さに抗う自分を認識しておきたい。


2001/08/05

夜間水族館

 先日の事、栗鼠似の同期(2000/02/18参照)及び其の妻である川獺似の女性(「獣!獣!獣!」内「カワウソ美人」参照)と共に名古屋港水族館に足を運ぶ事になった。因みに昨年同時期には此のメンバーで東山動物園(名古屋市)を訪れて居る(2000/08/06参照)。

 今回は夜間水族館というロマンティシズムの香り溢れる催しであり、斯様な場に若夫婦の恋路を邪魔するかの如く独身男性が参加しても良いものかという一抹の疑念を抱きつつも数ヶ月に亘り参加の誘いを受けていた事もありまあ構わんやろうと思った次第。

 夕刻に水族館の最寄り駅で夫妻と待ち合わせをしたのだが、其れにしても人の流れが殆ど存在せぬ。夏休みの週末の夜間水族館といえば通常を遙かに超える人集りが存在しても何等不思議は無いのだが一本の列車から降り立つ人は精々十名程度。斯様なイヴェントに平然と背を向ける処をみると名古屋人には情趣を味わうという概念すら存在せぬのかと一瞬思ったのだが、冷静に考えれば名古屋は所謂車社会、地下鉄なんぞを用いて水族館に足を運ぶ事など無かろうと思い直すに至った。

 其れにしても駅を出てから水族館に至る迄の間にも人の流れは殆ど存在せぬ。名古屋人には情趣を味わうという概念すら存在せぬのかと再び思ったのだが、よくよく考えれば既に多数の名古屋人が水族館に入館しているに相違無いと思い直すに至った。

 さて水族館に入ってみた。照明も落とされて恰も我々が海底の闇に包まれたかの如き雰囲気を感じ取り、何とも贅沢な空間よと思い入る一方で意外な事実に気付いた。そう、周囲に我々と水槽を遮る筈の人集りが存在しないのだ。市内に存在する此の異次元空間を味わう事が出来ぬ程、名古屋人には情趣を味わうという概念すら存在せぬのかと再三思ったのだが、恐らく名古屋の地下街文化が其れ自体「市内に存在する異次元空間」であり日常生活に於いて斯様な情趣を味わい尽くしているのであろうと思い直すに至った。

 まあ其のお陰で我々は充分に夜間水族館ならではの楽しみを他者から遮られる機会も少なく味わう事が出来、満足感を抱きつつ水族館を後にした。其の時丁度館外の海亀養殖場に於いて正に海亀が多数孵化し掛けているとの放送を耳にし、我々も孵化の瞬間に立ち会うべく海亀養殖場に足を向けた。

 其処は狭かった事もあり人集りが出来ており、中には数時間も前から陣取って孵化の瞬間を見届けようとするグループも存在した。成程、名古屋人には自然の神秘の一つである生命の誕生の瞬間を目の当たりにする事を愉しむ情趣を持ち合わせていたのかと感心しつつ、周囲の人集りの為す会話に耳を傾けていた。

 どうやら大半が今宵名古屋で宿泊する旅行客であった模様。


2001/08/04

けものとけだもの

 「貴方はけもの好きなのか或いはけだもの好きなのか」「『獣!獣!獣!』は『けもの!けもの!けもの!』なのか『けだもの!けだもの!けだもの!』なのか其れとも『じゅう!けもの!けだもの!』なのか」などという問い合わせを受ける機会が屡々存在する。 両者とも体毛に覆われた哺乳類を指す言葉である事は言う迄も無いのだが、「けもの」に存在せず「けだもの」に存在する意味として広辞苑には「不人情な人やろくでもない人間をののしっていう称。人でなし」という解釈が掲載されており、私にしてみれば余計な誤解を抱かれるのも不本意な事であり、「獣」=「けもの」で統一する事としている。

 其れはさておき、同じ「獣」でありながら、何故片方は純粋に体毛系哺乳類を指し、もう一方は人非人を指す意味が加わったのか。事実他人を罵る際「此のけだもの!」とは言えど「此のけもの!」と言う機会はまず存在しない。大体私なんぞ後者の表現で罵られようものなら喜びかねぬ位である。

 其の分かれ道は唯一「だ」の一字。此が入るか否かで愛されるべき存在か疎まれるべき存在かが明確になるのだが、そう考えると本名に「だ」の入る私のような者にしてみれば些か不本意である。


2001/08/03

続・誤用の氾濫

 2001/06/28で誤用を指摘し、更に2001/07/30に於いてマスコミ全体に注意喚起したばかりだというのに、本日も「筑紫哲也NEWS23」が此に懲りずに不可解な表現を用いていた。

 スポーツコーナーで紹介された勝者側のコメントに於いて「効果が覿面した」との事。何時から「覿面する」などという表現が用いられる様になったのだ。アナウンサーの咄嗟のアドリブなのであれば当該人物の玄人にあるまじき様に呆れ返れば良いのだが、此の表現を用いたスポーツ選手、其のコメントを記事にした記者、そして実際に原稿を読むアナウンサー、誰一人斯様な表現に注文を付けなかったとは由々しき事態では無いのか。

 近年のマスコミの日本語能力の低下を嘆こうとしてはたと気付いた。ひょっとするとテレヴィ局側が当該スポーツ選手の日本語能力の不足をアピールしようとして敢えて斯様な表現を認めたのでは無かろうか。プロ野球を始めとしてマスコミとスポーツとの関係は非常に深いものがあり、マスコミがスポーツ代理戦争を行っている感すらある時勢に於いては、強ち穿った見方とも言えまい。


2001/08/02

将棋倒し

 先日兵庫県で発生した歩道橋での圧死事故、当初より「将棋倒し」なる表現が用いられてきていたのだが此処に来て「圧死事故」なる表現で述べられる機会が増加しているように見受けられる。どうやら日本将棋連盟が「将棋のイメージを悪くする表現であり到底看過出来ぬ。即刻『将棋倒し』なる表記を中止すべし」なる申し入れをマスコミに対して行ったとの事。

 此の表現、将棋のイメージを著しく損ねるものである一方、実は事故の印象をも著しく変容させているのでは無かろうか。即ち、人間が想像を遙かに絶する圧力を周囲から受けて折り重なる様に倒れ、呼吸困難を引き起こして死に至る様な悲惨な事故(犠牲者の数を以て事故の甚大さを語る方法も無くは無いが、一人死のうが十人死のうが落命した側の立場にしてみれば両者とも悲惨な事に変わり無い為、個人的には余り用いたくない手法なのである)を、卓上の四十枚の木片がぱたぱたと倒れる遊戯に喩える事は、「痴漢」を「チカン」と表するが如く、「強姦」を「乱暴」と表するが如く、事の甚大さを矮小化する以外の何物でも無いのだ。

 個人的には、将棋を嗜む立場、或いは事の甚大さを矮小化する表現を極度に嫌う立場の双方に属する者として、斯様な表現変更に諸手を挙げて賛同する次第。


2001/08/01

検索エンジン・2001/07

 今月は検索語ランキングに入る前に是非触れておきたい事がある。どのページから「エゾシカの嘶き」を訪れたのかについても毎月データを収集しているのだが、今回、全アクセス数の6%が特定のページからのアクセスであった。其のページのアドレスを見ても心当たりが無い。アクセスしてみて仰天。札幌・薄野のソープランドの店名及び電話番号の一覧表のページの最下に輝く「EZOSHIKA TOWN」のバナー。此をクリックすれば「エゾシカの嘶き」に辿り着くのだ。私の意図の与り知らぬ処で「エゾシカの嘶き」が採り上げられるという意外性がもたらす喜びを噛み締めつつ何時もの如く検索語ランキングに入ることにする。

 今回は「強姦小説」が久方振りに首位に返り咲く事となり、連続首位を誇った「包茎写真」は二位に甘んじ、チャート上位常連の「強制女装」が其れに続く結果となった。此処で大異変。此等常連語の中で従来滅多に顔を見せる事の無かった「エゾシカの嘶き」が四位に躍り出ているでは無いか。因みに其の次も「エゾシカ」。此こそ通常のページのあるべき姿である。

 今回興味深かった検索語としては「三和銀行の長所」。はて私が何時己のメインバンクをネタにしたのか全く分からず過去の作品を遡ってみた処、ワンサくんのネタで登場した事が判明。自分ですら気付かぬ検索語で「エゾシカの嘶き」を訪れた方がいらっしゃるとは。而も複数。

 他には「立ち放尿」。一般的に用いられる「立ち小便」ではいけないのか。「女性用風俗店(関西)」。通常は「女性用風俗店 関西」とスペースで区切るべき。検索エンジンに慣れていない方であろうか。「発情期 人 医学 生理 メンス 男性」。何と無く解らないでも無いのだが「メンス」と「男性」との組み合わせが今一つ理解出来ぬ。「夢判断 ゴリラ」。どんな夢なのか気になって仕方が無い。

 今回最も気に入った検索語が二つ。「逆立ち放尿」に「胴が長い」。ヤブイヌマニアがヤブイヌの性質を検索に掛けて「エゾシカの嘶き」に辿り着いた模様。彼等のヤブイヌ心を大切にしてあげたい。其の一方で未だ嘗て「ヤブイヌ」なる検索語で「エゾシカの嘶き」に辿り着いた人が一人も居ないのが不思議でならないのだが。


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