エゾシカの  2000/05/01〜2000/05/31

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2000/05/31

被痴漢

 「痴漢」の定義を広辞苑に求めるとするならば、「女にみだらないたずらをする男」となり、男性たる私は斯様な行為の客体とは成り得ない。2000/01/092000/05/22に於いて私自身被痴漢経験を有しない旨述べているのも其の為である。然し此処で問題にしたいのは、男性が自らの意に反して見も知らぬ男性に淫らな悪戯をされる行為を「被痴漢」と呼んでいいものか否かである。

 大学卒業も近づいてきた或る日の事、サークルの部室(我々の学校に於いては此を「ボックス」と呼んでいたが、果たして此は全国共通の用語なのであろうか)に唐突に掲示してあった男性同性愛映画のポスターを前に知人と話していた処、徐に彼は其のポスターを眺めつつ「これ、一体どんなんやろうか。一遍見に行ってみいひんか?」と誘いを掛けてきた。現在の私であれば戦きたじろいだ事であろうが、好奇心旺盛な学生時代の事、戸惑いつつも怖い物見たさで其の誘いを了解したのであった。尤も其れ以前に、幼少の女性以外には性欲を感じない彼がそういった映画に対して抱いた飽くなき好奇心に驚いたのだが。

 決行日はお互いの卒業試験最終日という事になり、事前に新聞の映画欄に於いて其の日のプログラムを確認した処、幸か不幸か当日は映画のみならずショーが行われるとの事であり、当時の私には益々恐怖と好奇心が増してきたのであった。しかし卒業試験という大事な時期に頭の中を一体何で埋めていたのだ私は。

 さすがに当日になると恐怖心が只管湧いてきた。「映画館に入るところを誰かに見られたらどうしよう」「映画館の入り口で、冷やかしでないかどうかチェックがあったりするのだろうか」「チケットを買う際に小銭がなくてまごつかないだろうか」等々、心配事が膨れ上がり、サングラスを購入したり小銭をふんだんに準備したりと、出来る限りの手を打って、彼と其の映画館に臨むこととなった。

 客席には殆ど人は居なかった。皆席に着かずに最後方に立っていたのである。「あれは獲物を物色してるんや」とか「席に座る時に隣を空けてたらちゃんと其処を狙って座ってくるんや」など、事前勉強をみっちり行ったと思われる彼から話を聞いては恐怖感が増してくるのであった。

 映画自体は男女物のポルノ映画を男性同士の物にした程度であり、適度なラヴストーリーに適度な濡れ場という構成であった。そして其の次に行われたショー、ストリップ劇場の本番俎板のように突然舞台に引っ張り出されて参加を求められたらどうしようという恐怖を抱きつつ観ていたのだが、結局ダンサー達の演技で無事終了した。と思った矢先、「今からダンサー達との触れ合いの時間です。ダンサーが客席に行きますので、どうぞ肌と肌のコミュニケーションをお取り下さい」との放送が流れた。「うわっ、これってどういう事やねん。まさか…」と冷や汗たらたらだったのだが、只単に握手するだけの事であった。関係ないがその時のダンサーの手の感触は、私の知る限りでは、男性の手としては最も柔らかい部類に属するものであった。

 ショーが終わり、また映画が流れたのだが、もう映画の内容はどうでも良い我々は、帰り際に最後方に並んでいる人達に混じって様子を見ることにした。早速或る中年男性の手が知人の太股に伸びた。其の知人が抵抗すると今度は手が私の太股に伸びてきた。此以上居れば身に危険が及ぶのではないかと判断し、我々は映画館を後にし、私の下宿で別の知人も交え「世間の広さを肌身で感じ取ることが出来た」「愛とは何ぞや」等といった話題で一晩中盛り上がっていたのだった。其の一方心中では「先にあいつが触られたという事は、オッサンがあいつと俺とを値踏みした結果、俺の方が安いと判断したんやな」と、悲しむべきなのかどうか解らぬような事を悲しんでいたのであった。

 さて、此の時中年男性に触られた経験を「被痴漢」と呼ぶべきか、広辞苑の定義に従って呼ばざるべきか。感情的には立派な「被痴漢」と思われるのだが、私としてはできれば斯様な過去には触れたくなかったため、広辞苑の定義に基づき「被痴漢経験無し」としてきた次第。


2000/05/30

小銭の大切さ

 前日体調不良により通勤途上にて出社を諦めた私は本日相も変わらぬ状態で出勤した。勤務中の薬の服用は猛烈な睡眠欲を惹起させるため、夕刻になって薬を服用した。本来食後30分以内に服用すべきその薬、わざわざ夕食を摂ってから薬を服用して仕事に就くのも面倒臭いと感じ空腹時に服用したのが拙かった。たちどころに効果が現れたのか、直ぐに頭がぼんやりしてきた。此ではいかんと思い取り敢えず胃袋を満たすべくビル内の食品自動販売機に向かったのだが、硬貨しか使用できない自動販売機の前の私には紙幣しか持ち合わせが無く、相変わらず胃袋は満たされることがなかった。其の結果数時間後帰宅しようとした直後に息も止まらんばかりの苦しさを味わうことになったのだ。そう言えば中途半端に睡眠薬自殺を図ろうとした際にも死に切れぬ場合に同様の症状を訴えると言うではないか。要は筋肉弛緩効果が余りに強く現れる事により、内臓等の筋肉まで弛緩してしまったのであろう。

 あな恐ろし。薬は正しく服用せねばならぬという事を身を以て感じ取ると共に、常日頃から小銭を十分に準備して自動販売機に臨むことの大切さをひしひしと感じたのであった。


2000/05/29

生徒間犯罪の報道

 生徒間犯罪(しつこいようだが「いじめ」だとかいう実体を曖昧化・矮小化した表現は嫌いである)が発生する度に当事者の所属する学校が取材され、校長等が矢面に立たされて左様な犯罪の存在を事前に察知していたか否か等についてのコメントを要求される。此は此で間違った行為では無かろう。しかしそれ以前に、学校よりも詳細に左様な犯罪の存在を察知して然るべき、若しくは察知すべき責任を有しているべき人物が存在するであろうに。何故マスコミは加害者の家庭に同様の詰問を行わないのだ。

 此の種の事件が起こる度に私が関心を持つのは、学校側が事前に其の事実を察知していただのしていなかっただのという、犯罪行為の水際防止策の議論ではなく、加害者側(少年というケースに於いて)が社会生活を営むにあたり、どのような価値観を植え付けられた結果そういった犯罪を引き起こしたのかという、犯罪行為に至るまでの価値観や意識の形成段階でどう対応すべきかという議論なのである。後者に比べれば、前者など些末な問題に過ぎぬのではないか。

 報道側の主張としては「マスコミには報道によって加害者の親を裁く権利は無い」という事なのであろう。しかし其の一方で学校側の責任者を引っ張り出して「報道によって裁いて」いる実状が理解出来ぬ(抑もマスコミが報道する事=裁く事になるのかという議論もあるのだが、此処では本筋から外れそうなので触れない)。

 誤解無きように断っておくが、私は決して学校側に責任はさほど存在しないという主張をしたり、ましてや学校側の肩を持ってその責任を矮小化したりする訳では決してない。只そんな処を手っ取り早く取材し報道する一方で、もっと深く取材すべき対象が余りに報道されていないという現状を不可思議に思っているだけなのである。


2000/05/28

タレントとキャラクター

 昨日(2000/05/27)触れたような「登場人物のキャラクターを無視した」作品は何もテレビ朝日の番組に限った事ではない。最近オンエアされている、2000/04/14で採り上げたカラープリンタのTVCMの第三弾。前2作では人をも殺しかねぬ狂気を孕んだ演技を見せた男優が、今度はプロレスのリングに上がり、敗勢のプロレスラーにカメラを向けて「カラープリンタと言えば?」と迫っている。

 そんなの誰でも出来る演技ではないか。どきっとする場面でもなければ面白さを伴う不条理でもない。大衆に囲まれて歓声を浴びているというシチュエーションも、狂気や犯罪性と無縁である。前2作では確かに彼でなくては不条理を演じることが出来なかったであろう(他に挙げるとすれば渡部篤郎辺りか)。しかし今回は別に演技派男優でなくてもお笑いタレントであろうがアイドルであろうがさほど作品の仕上がりに影響があるとは思えぬ。であればターゲットに適切なタレントを用いた方が効果的でないか(具体的には木村拓哉扮する山田さんが「2時間瞬きしない」という不条理な番組に出演する栄養食品のCMなど)。

 前作の時に私が「ターゲットとは若干異なる方向を向いているのではないかと思われるが若者に対する男優の狂気性が一部のターゲットの共感を得ているのかも知れぬ」という趣旨のコメントを述べたが、結局この後者の部分が失われてしまった感は否めない。尤もこれはメーカーや広告代理店の責任というよりは、不条理な事件を現実世界に於いて次々に起こす事によって不条理なCMを笑えない物にしてしまった一部の馬鹿共の責任であるのだが。

 因みに本筋から全く逸れてしまうが、一文前の表現については、「事件続きの世情が悪い」などという、事の重大性や個々の重大事件を一言にまとめる事によって矮小化するような表現が大嫌いな為、敢えて明確に責任の主体と思われるものを述べている次第。大体「事件続きの世情」なんて、事件を引き起こす輩共が作り上げている物であり、決して地震や干魃のように自然発生する物ではあるまい。


2000/05/27

テレビ朝日のヴァラエティ番組

 今頃になって1999/11/05の最後で自ら提起した問題の回答を考えてみる。

 別に好き好んで観ようと思った訳ではなかったのだが、テレビ朝日系「わらいのじかん2」を観た。昨秋に「吉本芸人オールキャスト、司会は松本人志に今田耕治」という触れ込みでスタートし、結局誰が司会をやっても誰が登場してもさして変わらぬという、メインの登場人物のキャラクターの個性をこれでもかと言わんばかりに殺してしまった毒にも薬にもならぬヴァラエティ番組としてはあるまじき内容のせいか半年で終了した「わらいのじかん」の後番組である。

 今回は主要芸人を家族に仕立て、ゲストを呼んで様々な笑いの場面を紹介するといったものなのだが、相変わらずである。フリートークの際に各芸人のキャラクターが或る程度現れるものの、彼等自体がオリジナルの芸を披露する機会は其程無く、只単に素人の作った替え歌を紹介したり、素人のおばちゃんの一発芸を笑ったりと、矢張り誰が登場しても全く変わらぬ仕上がりとなっているのだ。一体登場人物達は番組内で主に何をやっているのかと言うと、笑っている、ひたすら笑っているのである。というか、笑っているシーンをしつこく何度も何度もアップで採り上げる事により、所謂「壁の華」(笑い役のエキストラ)の笑いと相俟って「面白いでしょう?」という事をしきりに演出しているのである。

 そしてその表情が観ていて痛々しい。如何にも「カメラを向けられたので大笑いしてみました」と言わんばかりに不自然に顔を引きつらせた笑顔なのである。松本人志の表情など「これは救いようがないわい」という、哀れな物を公開する事に対する苦笑以外の何物でもない。正に此こそが視聴者の反応そのものではないのだろうか。

 意表をついたキャスティングと仕切りだけで、登場人物のキャラクターを無視した番組を作成し、後は「面白いぞ」という演出で内容の貧弱さをカヴァーする。番組内には「狂言回し」としての芸人と「視聴者代表」的な一般のタレントや局アナを用いて、前者に芸をさせ後者に笑いや戸惑いを表現させることにより、「ほら、お笑いの世界じゃない人もこんなに楽しんだりノったりできるんですよ」という事を強要する。今回の番組に限らず、テレビ朝日のヴァラエティ番組の特徴であると言えまいか。因みに、私が欠かさず観ているヴァラエティ番組「ダウンタウンのガキの使いやあれへんで!」など、どの点を取っても全く対照的なものである。


2000/05/26

電話

 2000/05/16で触れた寝相に続き、此処暫く自信を無くしている分野がある。

 昔から電話の早執りには定評があり、大抵の場合は呼び出し音が鳴るか鳴らないかの内に受話器を上げていた。その様に心掛けていると言うよりは寧ろ、体に染みついた習慣なのである。

 学生時代、最初の1年間は応援団に所属していたのだが、此処では団室への電話は最下級生が受けることになっていた。室内に於いては学年によって居場所が異なり、当然上級生は上座に、下級生は下座に就いているのだが、事もあろうに電話が上座に置いてあるのである。電話のベルが鳴れば下級生は下座から最も遠い上座の電話に向かって一目散にダッシュし、受話器を手にするや否や息を継ぐ間もなく「押忍!○○大学応援団です!私1回生の××と申します!失礼ですがどちら様でしょうか!」と大声で応答せねばならない。電話の横では上級生が其の一部始終を見ており、言葉に詰まろうものならご指導の言葉を頂くことになるのであった。

 そんな訳で、電話のベルの音を聞いただけで、其れが自分の家であろうが他人の家であろうが「早う出んといかん!」という気分に駆られてしまうのである。一般のサークルに所属したての頃、電話のベルを聞いて長椅子を土足の儘走って電話を執ったときには、周囲は何事が起こったのかと相当驚いていたという事があった。

 前にいた会社で新入社員と机を並べていた時の事、彼も私と負けず劣らず電話の早執りが得意であり、お互い口にはしないがお互い相当強く意識していたのではないかと思われる。結局先輩から「新入社員に電話の受け答えを覚えさせるように」と指導を受け、此の争いは私が降りることによって幕を引いたのであった。

 しかし歳を取って敏捷さが失われつつあるとともに、若い頃の感覚が薄れてきたのであろう、何時しか電話を執る前に一呼吸置くのが常となってしまった。特に寓居の電話については、受話器を手にするには座っている位置から身を乗り出した上で小物棚の向こうにある受話器に腕を回さねばならない。最早電話の早執りなど不可能である。あ、電話の位置を変えるだけで済む話ではないか。


2000/05/25

あした

 先日の尾道旅行(2000/05/05参照)の際、数年前の映画「あした」の撮影舞台となったセットが残されているのを見つけて訪れた。元々映画には関心が極めて薄い私が斯様な行動を執ったのは、只単に旅先にセットがあったからという消極的な理由からだけではなかったのだ。

 数年前に偶々職場の方から「あした」のヴィデオを頂いたのだが、尾道には興味があっても大林宣彦には興味のない私が其の映画を観たのは相当時間が経ってからであった。或る日、非常に仲の良かった人物と会話を交わしていてその人物が映画好きだと判った私は、自分自身少しは映画を鑑賞して其の相手を理解しようと考え、最も手っ取り早い方法として自室にあった「あした」を観ることになったのだ。大体其の時点での社会人以降の映画体験というものは、動物好きの後輩宅に遊びに行ったときに観た「ジョーズ」、其の後輩と映画館に足を運んで観た「釣りバカ日誌」位であり、此ではとても映画を語ることは出来ないのだ。尤も「あした」を一本観た程度で映画を語ることが出来るとも到底思えぬのだが。

 其れにしても良い映画であった。或る船舶事故で肉親や最愛の人等を亡くしてしまった人達の元に、其の亡くなった人からの「再会の案内」が届く。そして其の案内で指定された日時に指定場所に於いて、遺された人と亡くなった人との対面が為されるのだ。実際には有り得ない話であるものの、自分の最愛の人物が突然失われたらどうなるのか、どうすべきか、また再会できたとしたら先ず何を伝えるか、等々、どんどん自らの想像が膨らむ事により、自らもその映画の一人となって参加しているかのような心境に浸ることが出来たのである。

 とまあそんな話を非常に仲の良かった人物にした上で、「あした」のヴィデオを貸してあげたのだが、結局その数ヶ月後、其の人物とはもう会えない状態になった。死別と離別という大きな違いはあるものの、正に現実のものとして「あした」の世界を味わうことになってしまった。

 此の出来事から何年も経ているにも拘わらず、何かの切っ掛けで極偶に、無性に其の人物に何かを伝えたい気分になるのだ。2000/02/12等で述べた北海道旅行の際にも、北海道内で生活している其の人物に何処かで遭遇するのではないかという、可能性が限りなくゼロに近い予感、更に恥を厭わずにぶっちゃけて言えば限りなき偶然への飽くなき期待を抱いていたのであった。そして今回の「あした」のセット訪問も然り。流石に其の人物と遭遇する予感こそ感じていなかったものの、映画と同じ舞台を訪れることによって何かを感じることが出来るのではないかという予感、更に恥を厭わずにぶっちゃけて言えば当時の自分自身の「在り方」をもう一度覚醒させたいという願望を抱いていたのであった。

 結局は冷静になってしまい、そんな事を考えたこと自体を意味のないものと咎めて自己嫌悪に陥るのだが。などという事を書いていると更なる自己嫌悪に陥ってしまうではないか。


2000/05/24

尻馬に乗られる

 不条理を嘆く尻を喜ばせるべく2000/05/21に於いて遍く呼びかけをしたところ、早速尻に対して何かしてあげねばならぬという危機感からか此の課題に真正面から挑んだ方がいらっしゃった。尤も結果的には尻を不条理の世界から掬い上げることは出来ないどころ深い考察を経れば経るほど尻の嘆きが大きくなりつつなりかねぬものとなったのだが。

 其の成果物の中には私の知らぬ慣用句なんぞもあり、其の考察の深さを思い知ることとなった。一つ一つの慣用句を目にしつつ、「尻毛が生えていない人物に対して尻毛を抜くという刑罰は成立しうるのか。まあ欧米人は日本人より毛深いから尻毛も抜かれるほどに生え揃っているのだろう」とか「殷代の拷問では所謂肛門フィストファック的なものが行われていたのか。しかし此ってやる側は本当に楽しいのだろうか。まあどうせそんなことを愉しむ奴はどうせ紂王に違いない」とか「ほほう、無水珪酸を意味する外来語が日本の季語として生きていたのか」とか、目から鱗の落ちる思いで其の成果物を読ませていただいた。

 一頻り目を通して暫し冷静になってみた。しまった、やられたわい!


2000/05/23

生尻にかぶりつく

 元はといえば紙お襁褓か何かのTVCMが切っ掛けで、2000/05/21の文章を物したと思う。「お尻つるつる、剥き卵」という歌をバックに、乳児の生尻と剥いた茹で卵とが画面に現れる。生尻が大写しになるだけで些かの驚きを禁じ得ないのだが、次のシーンで仰天することになる。乳児の母親と思しき人物が「ああもう私我慢できない」という、余りに強い恍惚のために我を忘れそうになった表情で、其の乳児の生尻にかぶりつくのである。

 日常生活に於いて身内とはいえ他人の生尻にかぶりつきたくなる衝動が一生の内にどれ程あるのか私には解らぬ。少なくとも私は乳幼児の生尻を目にする機会は無い上、飽くまで何かの機会にプレイの一手段として其処に生尻があったからかぶりついた経験が無いとは断言できないと言えなくもないものの、最初から生尻にかぶりつこうという強い意志や衝動を抱いた上で他人の生尻にかぶりついたことは無い。唯単に其程の美尻や旨尻に巡り会った経験が無いからかも知れぬのだが、そんなことを問い質されるのは余計なお世話である。

 其れをさも当然の感覚であるかの如く生尻にかぶりつく女性。其の光景がなかなか脳裏から消し去ることが出来ない状態が長らく続いている。しかも其のTVCMの第二弾に於いては、生尻一つにかぶりつく女性が一人だった第一弾を遙かに凌駕し、多数並ぶ生尻に多数並ぶ母親と思しき人物が一斉にかぶりつくのである。正に圧巻。只でさえ脳裏からなかなか立ち去ることの出来ぬ光景が頭の中でこれでもかと言わんばかりに増殖してしまったではないか。其の結果、尻の気持ちを代弁してみたり尻を弁護してみたりしようと試みたのではないかと思われるのだ。


2000/05/22

続・痴漢

 5/18付「名古屋タイムズ」より。「(前略)満員の車中に、二十歳の女性が立っていた。向き合って立っていた男(33)はいきなり女性の胸をもみ始めた。(後略)」因みに記事の内容は言うまでもなく「”女性の敵”許さない」「チカン!!現行犯逮捕」というタイトルの通り、痴漢の特集記事である。

 ちょっと待て、これって「痴漢」なのだろうか。広辞苑の定義では「女にみだらないたずらをする男」であり、我々の頭に思い浮かぶのは、混雑で身動きがとれない状態の女性に対し、自然を装い手の甲で尻や胸に軽くタッチし、反応がないようであれば徐々にエスカレートして列車の動きに合わせて摩ったり揉んだりを楽しむ行為である。

 前段は2000/02/01でも書いたのと全く同じ文章の繰り返しになるのだが、向かい合った女性の胸をいきなり揉むとは一般的に「痴漢」とされる行為を大きく逸脱しているのでは無かろうか。大体こんな行為なんぞ、自然に手が触れてからエスカレートするまでのドキドキ感だとか、ばれるかばれないかのスリルを愉しんでいると思われる痴漢の王道を歩む者からしてみても、大いに邪道な行為と言えよう。尚断っておくが、2000/01/09で述べたとおり、私自身は痴漢の王道を歩んでいる訳ではないばかりか痴漢経験も被痴漢経験も無い。

 しかし其れにしても、今回の記事も2000/02/01で採り上げたのと同じ「名古屋タイムズ」の記事。最早こうなると痴漢に対する企業姿勢自体が問われても仕方ないのではあるまいか。

 因みに翌日の「名古屋タイムズ」にも兵庫県警巡査部長の痴漢の記事が大きく採り上げられていた。痴漢に対する企業姿勢はともかく、此の会社痴漢に対する意識は他のマスコミに比べ非常に高いように思われる。


2000/05/21

尻の嘆き

 尻に成り代わって不条理を嘆いてみる。

 重ければ非難される。動きが悪い、敏捷さに欠ける、無精者などと、碌でもない批判を浴びることになってしまう。とはいえ軽ければ良いというものでも無いようであり、殊に女性の場合など、相手を取っ替え引っ替えした上で、下着を身につける暇もないだとか女陰が乾く暇もないだとか四六時中何かが出たり入ったりしているだとか、此も相当悲しい批判を浴びることになってしまう。重くても疎まれ軽くても疎まれ、一体どうしたら万人から許してもらえるのか。触り心地や揉み心地や噛み心地についてならまだしも、軽重については金輪際評価しないで頂けないものか。

 我々としてはここは一つ尻の為に、尻が喜びそうな慣用句を考え用いてあげるべきではないか。


2000/05/20

左利き

 基本的に右利きなのだが、極例外として、フォークとナイフの持ち方、トランプの切り方、浪人回し(指先でペン状のものをくるくる回転させる行為)等については左利きなのである。即ち、フォークは右手でナイフは左手、トランプは右手で束を掴んで左手のスナップでカードを弄くる。浪人回しは、右手だとせいぜい鉛筆やボールペン程度しか出来ぬが、左手であれば刃を一杯に出したカッターナイフや、刃渡り10cm程度の果物ナイフでも無傷で回転させる事が可能である。

 これらの内、トランプと浪人回しについては、自らの意思でそれらの道具を用いた際に、左手をメインに用いた方が便利だと気付いたものである。しかし問題はフォークとナイフ。子供が自ら食事の際に何処からともなくフォークとナイフを持ってきて一人で飲食を始める筈がない。飽くまで何処かで誰かが食卓に調達したものを、衆人環境の下で用いたことは疑いはない。一体誰やねん純粋無垢な俺に嘘を教えた(若しくは過ちを指摘しなかった)のは。いい歳になって未だに公式の場で洋食を摂る時には周囲に気を遣い、マナーを知らぬ粗野な奴と思われぬように「いやぁ私、これ左利きなんです」と照れ笑いをせねばならないのだ。その一方で此の方が、右手のフォークで押さえたものをそのまま口に運ぶことができるという合理的な持ち方ではないかと思ってもいるのだが。


2000/05/19

今時のダンシング・ベイビー

 トヨタ自動車「Cami」のTVCMの新ヴァージョンがオンエアされているが、「エゾシカの嘶き」に於いて1999/12/041999/06/30に酷評したダンシング・ベイビー及び其のテーマソングを用いているようである。もう1年前のブームを一体何時まで引っ張るのかと思いつつ、此はひょっとすると1999/12/21で採り上げた日本経済新聞記者の差し金では無かろうかという邪推すら抱いてしまったのである。

 処がよくTVCMを観てみると何か違う。車を取り囲んで踊っているのはダンシング・ベイビーではなくパンダである。その踊りを目にしたダンシング・ベイビー達がパンダを押し退けて前作の如く例の踊りを始めたところ、周囲からブーイングの嵐を受けるというストーリーである。

 此は面白い。ダンシング・ベイビーブームが去ってその流行の地位を「たれぱんだ」や「笹緑茶パンダ」に奪われた事を自虐的に表現しているのだ。商品キャラクターとして設定したダンシング・ベイビーのブームが去りつつも、その知名度を活かした上で「今更ダンシング・ベイビーかよ」という批判を交わすための工夫を凝らして自虐的な笑いを得るという手法。恰も「エゾシカの嘶き」上の批判に対して「これなら文句ないやろ」と応えているかのようである。うむ、文句なし。


2000/05/18

ルールと責任

 先日のバスハイジャック事件の被疑者と思しき人物が、事件の暫く前にインターネット上の或る掲示板サイトに於いて、「此の掲示板の1000番目の書き込みをした人間を勝者としよう」と、自分だけの掲示板でないにも拘わらず勝手に高らかに宣言し、途中あたりから一人で意味のない書き込みを999番目まで繰り返したその瞬間、赤の他人が1000番目の書き込みを行った。自らの勝利を奪われたルール設定者は激情し、悪口雑言罵詈讒謗の限りを其の掲示板上に書き散らすのであった。

 他の合意も得ずに自らの手で自らに有利なルールを勝手に設定し、そのルールに則ったにも拘わらず自らが勝者になれなかったという行為自体、愚かで滑稽な存在である。此の後に其の者が出来ることと言えば、自らのルールに則り自らの敗北を認めるか、其れがどうしても嫌というのであれば勝者に頭を下げて勝敗の取消若しくは再戦を乞うか何れかになってしまう。然るに此の男は逆上し、勝者及び周囲の人物に対して怒りをぶつけまくったのである。自ら決めた約束事にすら従えぬ無責任さを通り越して他者を攻撃する乱暴な身勝手さ。此即ち絵に描いたような阿呆である。

 学生時代に或る資格試験を受験した時の事である。受験途中で自らの解答が合格レヴェルに達していないと思い、余程途中棄権して帰宅しようと思ったのだが、夕方のアルバイトまで時間を潰さねばならない事に気付き、仕方なく惰性のように最後まで答案に取り組まざるを得なかったのであった。そして帰宅後、後輩達に向かって「あの試験、絶対落ちてるわ。もし受かってたら逆立ちで京都市内一周したるわい」と高らかに宣言した処、数ヶ月後に合格通知を受け取る羽目になった。暫く逆立ちを練習してみたものの、とても京都市内を一周できるだけの技量が無いことを悟った私は、「ごめん、俺の部屋での逆立ちで許してくれへんか」と其の後輩達に頭を下げたのであった。

 もう一つ、こんな事もあった。学生時代はプロ野球シーズン開幕前に、阪神タイガースの勝ち星予想と共に、12球団の開幕投手予想を行っていた。そこで或る知人と賭けをした。私の開幕投手予想が或る一定の的中率を超えなかった場合、其の不適中の割合に応じた量の精液を彼に渡さねばならない、という、正に「精子を賭けた戦い」を行ったのである。今にしてみればこんな賭けをしたところで敗者のみならず勝者も一体何が楽しいのかと思えるのだが。

 自らの予想が正しいと信じ、自信を持って臨んだ賭けに私は敗れ、計24ccの精液をドリンク剤の空瓶の中に溜め続ける日々が続いていた。此の当時の情けなさ、恥ずかしさは筆舌に尽くしがたい。可能であれば今でも浮かぶ其の光景を脳裏から抹殺したい。一生の内で最上級の屈辱となること間違いなかろう。しかし其れでも私は自らのルールに則った行為に於いて自らの敗北を認めることにより、飽くまで人間として当然進むべき道を貫いたのであった。

 此の様な私にとっては、冒頭採り上げた行為は、他者への実害の程度を除けば、其の本質面に於いてハイジャック行為に負けず劣らず許せない行為なのである。


2000/05/17

エンガツィオ司令塔

 最早季節や気候の変わり目には無くてはならない行事と化した感のある私の喉風邪。普段であれば医者に赴き「熱はないけど喉が相当やられてますね」とのコメントに加え注射一本を頂き、数種類もの薬を抱えて帰るという事になるのだが、今回ばかりはそういうわけにはいかぬ。

 先日、「エゾシカの嘶き」読者の方から勧められた、今年発売された筒井康隆の短編集「エンガツィオ司令塔」を読んだのだが、此が亦、彼の作品が「ドタバタSF」と呼ばれていた20年以上前の頃の作品、即ち私が子供の頃に狂ったように繰り返し繰り返し愛読する事により血や肉と化した作品群を彷彿させるようなものであり、久しぶりに心の何処かを覚醒させられたような気分を味わうことが出来た。

 処で此の本の表題作、主人公は急に大金が必要となり、短期間で大金が手に入る新薬の被験者のバイトを次から次へと引き受ける。その結果、それらの薬の食い合わせの影響から主人公は発狂し、想像を絶する結末を迎えるのだ。其の余りに衝撃的な展開もさることながら、臨場感がもの凄い。写実的でありながらどんどん頭の中に幻想や残像が増幅される。此処には具体的には書かぬが。

 その小説の印象が余りに強烈すぎて、同時に複数の薬を服用することに多大な恐怖を抱いているのだ。現在別の病気の薬に時折依存している中で、とても風邪薬を嗜む気にはなれぬ。取り敢えず風邪の方は放っておいても何時かは治るものだと信じ、もう一方の薬を選択している次第。


2000/05/16

寝相

 昔から寝相には定評があり、睡眠時の姿勢も良く歯軋りや鼾や寝言の類とも無縁である。旅行等で他人と共に布団で寝るような機会には狭い空間でも静かに寝ることができるために重宝される一方で、私自身は他人の歯軋りや鼾に苦しむ事になるのだ。尤も他人の寝言には存分に楽しませていただくのだが。

 父は私が嘗て味わった中で最も最も強烈な部類に属する程の鼾を日々かいており、この父親が生物学上私の父親であるとするならば、少なくとも私の寝相は遺伝に基づくものではないと言えよう。しかしその一方で、昔の戦国武将だったかの子育てのように、枕の左右に刀を立てられて寝返りを打とうものなら直ちに刀が頸動脈を傷つけ死に至らしめるなどといった訓練を、記憶にある限りでは受けていた訳でもない。

 それはさておき、此処に来て寝相の良さに自信が持てなくなりつつある。どうやら最近自分で寝ながら鼾をかいている様に思えるのだ。実際には他人に確かめて頂いたわけでもなく、明確に「寝相が悪い」と言うには至っていないのだが、鼾をかいている輩がその事実に全く気付いていない傾向にあるところをみると、少しでも自覚があれば、ほぼ間違いなく鼾をかいていると言えるのではなかろうか。

 何れにせよ、唯でさえほぼ無いに等しい私の取り柄の一つが失われつつあることに悲しみを禁じ得ない今日この頃なのである。


2000/05/15

獣前結婚式

 先日の「どうぶつ奇想天外!」で採り上げられていた結婚式、動物同士の結婚などというありがちなものでもなく、ましてや人間と他の動物というブリリアントな結婚式でもない。単なる人間同士の結婚式なのだが、そこは「どうぶつ奇想天外!」。結婚式の場に神主若しくは神父が居るべき処にセイウチとゾウアザラシが鎮座しているという、獣前結婚式であったのだ。

 今回の結婚式の舞台である三重県では皆挙って獣前結婚式を挙げているのであろうか、これだけ採り上げられれば既に結婚式場を押さえているアヴェクも予約をキャンセルして三重県に殺到するのでは無かろうか、そうなると私も相手の決まっていない今の内から獣前結婚式の日程を押さえておかないとやばいのではないか、等急に不安に駆り立てられつつテレヴィを見ていた処、偶々新郎と新婦がセイウチの飼育係とゾウアザラシの飼育係であった為に今回獣前結婚式と相成った次第との事。余りにもあり得る話であった事に失望すると同時に、私にも一般人としての獣前結婚式第一号の座がまだ残されているという事で安堵の念を覚えた。

 しかし私が獣前結婚式を挙げるにあたり、一つ困ったことがある。私が新婦そっちのけになり、式の最中に目前に居並ぶ鹿や馬やアザラシやカンガルーやヤブイヌなんぞに目が眩む可能性が全くないとは言えないのである。言ってみれば誓いの言葉を求める神父に対して新婦が「いや実はあんたに一目惚れしてしもうてん。わてあんたと一生過ごしたいわぁ」などと宣うようなものである。私の場合、将来に渡り円滑な夫婦生活を営むためには、寧ろ獣前結婚式は相当な危険を孕んでいるものと言わざるを得ない。残念哉。


2000/05/14

目川探偵

 学生時代に目川探偵の事務所を訪れ、目川探偵に会ったことがある。此実は京都や滋賀に於いては、どれだけ今を時めくアイドルに会うよりも、周囲から羨望の眼差しを向けられる程の事なのである。

 目川探偵。探偵でありながら駅等に堂々と顔写真入りのどでかい看板を掲出し、しかもその看板の中で「さて私は何歳でしょう?正解者には賞品を差し上げます」というクイズまで行っている。さぞや繁盛しており仕事に忙しいのであろうと思えば一方でラジオ番組のレギュラーメンバーであったりと、名前も顔も声も出しまくりなのである。目川探偵の魅力はそういった探偵にとっては命取りではないかと思われる露出を行っている事もさることながら、その顔写真に見られる凡そ探偵とは思えぬ「そこらの気のいいオッサン」的な愛嬌ある表情が堪らないのである。結局総合すれば「探偵とは程遠い探偵」なのである。

 1999/05/05でも触れたが、サークルのパンフレットの広告取りを任された際に「目川探偵だけは絶対に広告を取らねば」と固く思ったのだ。もうこの時は縦令広告費を幾ら値切られようと、場合によっては自腹を切ってまで広告を掲載せねばという気持ちで一杯であった。そして思い立ったが早いか、早速電話を架けてアポイントメントを取り、目川フリーク数名で事務所を訪れたのであった。

 しかし本人が出てきて応対して下さるなどとは思いもしなかった。しかも当方がサークルや広告の説明をする時間を遙かに超える時間を割いて、「大津駅の看板は人物の顔を描いたものとしては日本最大級のものである」だとか、「私は変装が上手なのであれだけ顔を露出しても全然平気なのだ」だとか、その他業務上のピンチだとかの裏話を語って下さったのである。話を存分に楽しむ一方で、「仕事を頼む訳でもない学生にすらこんだけ秘密を喋ってくれるのだったら他の人達には一体どれだけいろいろ喋ってるんやろ」などという余計な心配もしたのだが。帰り際には名刺を頂いたのだが、此には生年月日が記されていた。即ち、駅看板のクイズの正解を何時でも応募して賞品を頂く権利を与えられたのである。

 因みにこの時には、目川探偵のライヴァルと目されている相沢京子調査室からも広告を頂いたのだ。1999/05/05で触れた先輩の2つ目の激怒の原因は、この京都の両巨頭が原因だったのである。


2000/05/13

夜の体位

 職場に於いて夜の体位の話題で盛り上がった。淫猥な方々の妄想を惹起し刺激して此処からの文章に過大な期待が寄せられても困るので予め断っておくと、「夜の体位」と言っても、別に好きな性行為のスタイルだとか絶頂時の性行為のスタイルだとか最も淫らに燃えることが出来る性行為のスタイルだとかではなく、寝る時の格好について論じられたのである。従って話題となる選択肢も「松葉崩し」だとか「帆掛船」だとか「まんぐり返し」だとかではなく基本的に「仰向け」「俯せ」「側臥」に限られる(一部の人間や動物に於いては「逆さ吊り」「直立」なども有り得るが)。

 確か中学時代辺りまでは側臥位で寝ていた記憶があり、その日の気分で左右どちらを下にするかを決めていた。しかし不眠に悩む日々が続いた或る日、仰向けに寝転んで四肢の筋肉を弛緩させると自然と眠りに落ちる機会が多いことに気付き、以来現在に至るまで仰向けで床に就いている。更に言えば「気を付け」の体位でそのまま仰向けに倒れ込んだ格好である。

 今から思えば側臥位なんぞ、片方の手や肩や脚を自らの体で布団に押さえ込んでいるようなものであり、血行が悪くなって眠りから遠ざかってしまうのではないかという気がする。更に不思議なのが俯せ。普通に寝れば窒息必至であり、首だけ横に向ければ寝違えを起こす上、下手をすれば首から上の血行障害を引き起こしかねないのではないか。

 その一方、昔読んだ筒井康隆の随筆に於いて彼は、「ずっと俯せで寝ている。仰向けに寝る奴など、天井が落ちてくるような恐怖感に襲われぬのだろうか」との旨述べていた。世の中も広いものである。


2000/05/12

馬面と馬顔

 朝の通勤前に目にするTV番組の最中に流れるCMの中で、ひどく馬面な女性を見かける。エステティックサロンのCMらしく、脚線美を「チリ脚」というキーワードで刷り込むと共に、電車の吊革を持ったりタクシーを呼んだり会議で発言を求めたり飲み屋で注文をしたりなど、日常生活に於いて挙手すべき画面で挙脚するという素っ頓狂なヴィジュアルで脚線美を視覚面でも強く訴えているのだ。それにしてもこの女性は見事な馬面である。顔の長さと共に、顔のパーツも離れ気味に配置されているのだ。

 さて此処で私が強く主張したいのは、「馬面」と「馬顔」との違いである。広辞苑では怪しからぬ事に「馬顔」を「馬面に同じ」と定義づけているのだが、「馬面」はあくまでも顔の輪郭やパーツの配置面に着目して馬的であると判断したものであり、「馬顔」は各パーツの内容面に着目して馬的であると判断したものである。全く異なるではないか。広辞苑の「馬顔」を記した人は、馬面にも馬顔にも同等の関心を抱いているのであろうか。馬面の坂下千里子にも魅力を感じ、馬そのものの顔にも魅力を感じる事の出来る人間はそうそう居まい。私を含め世間一般に於いては、後者にこそ多大な魅力を感じるものの、前者には到底そそられるものを感じないのが通例ではないか。一体どうしたのだ広辞苑。次期改訂の際には是非とも「馬顔」に関する記載の修正を切に願いたい。


2000/05/11

内定者拘束

 幸か不幸かは別にして、最近の大学生の場合、企業から所謂内内定を受けたらその直後から歓迎の名を借りた「内定者拘束」を受ける事になるようである。

 私の頃を思い起こせば、当時は世間で「或る会社は内定者拘束で学生をソープランドに直行させた」だのという、内定者拘束に関する噂(当然真偽のほどは定かではないが)が流布されており、「へぇ、野村証券も大変やねぇ」などと他人事のように聞いていたのを覚えている。

 それにしても私の場合は非常に素っ気なかったように覚えている。わざわざ京都から東京に足を運んで、最終意思確認のようなものを受け、10分程で内内定の儀式が終了し、即解放であった。予想外に暇を持て余した為、当時東京にいた知人の一人である妹を呼び付け、池袋だったか新宿だったかの高層ビルで非常に高価な夕食を奢ったのだった。おいちょっと待て。何故祝って貰うべき私の方が御馳走を振る舞わねばならなかったのだ。今頃になって非常に不条理な出来事を思い起こしてしまったではないか。此に加え、帰宅中に新幹線の車内から両親に対して内内定の報告をした際には祝福の言葉以前に「何やそれ、何処の会社や」と訝られるわ、新幹線が事故か何かで1時間程遅れるわ、どうも「良い想い出」という印象が薄いのである。

 最近の学生の「拘束漬け」を目にしながら何時も大変やなぁと思っていたのだが、私の場合を思い起こして比較してみれば、内内定直後に曲がりなりにも共に祝ってくれる人達(どうせ腹の中では如何に学生を他社等と接触させないかに腐心しているのであろうが)と楽しい気分に浸れるということに対して、ほんの少し、ほんの少しではあるが、ちょっといいかな、と思ったりもするのだ。


2000/05/10

城と妄想

 GWの旅行に於いて広島城、岩国城を訪れる事により、自らの中に流れる城好きの血が覚醒されたのだが、直前に発生したバスハイジャック事件が意識下にあったせいか、一瞬ながらも妙な妄想に耽ってしまった。

 舞台は或る山城。岩国城とか岐阜城とか、地上から徒歩で攻めるのが困難な程良い。夕刻の天守閣閉館後、一人山中に身を潜め、翌朝天守閣の管理事務員が訪れるのを只管待つ。そして其の事務員を人質に取り、天守閣に籠城する。刀剣類が城内にいくらでも展示してあり、武器には事欠かぬ。

 金も要らぬ、命も要らぬ。要求は「城主の気分を味わいたい」唯其れだけ。立入禁止となっている城内の畳の間に思いっきり寝転び、人質を家老に見立てて「城主と家老ごっこ」を精一杯楽しむ。天守閣を取り囲む警察隊を最上階から眺めつつ、気分は籠城戦。

 精一杯城主気分を堪能した後は徐に人質を解放し、展示物で最も高価そうな茶器(平蜘蛛なんぞあれば完璧)を爆薬と共に抱えて、信貴山城の松永久秀の気分を味わいつつ爆死する。或いは、警察隊の目前に現れ、備中高松城の清水宗治よろしく切腹する。若しくは、城を警察隊に取り囲まれた時点で「明智の軍勢か。是非に及ばず」と呟いた後、「人生五十年、下天の内をくらぶれば…」と謡曲を舞いながら城に火を放ち、本能寺の織田信長気分を満喫なんぞしてみる。

 その道の好事家には堪らぬ犯罪かも知れぬが、私は幾ら城好きが高じようともこんな事はすまい。


2000/05/09

ハイジャック

 飛行機に限らずバスであろうが船であろうが電車であろうが自家用車であろうが乗り物の乗っ取りは全て「ハイジャック」なのである。元々「ハイジャック」という行為は車を乗っ取る際に「Hi,Jack!」と呼び止めた事が其の語源であり、「広辞苑」に於いても「乗物、特に飛行機を運行中に乗っ取ること」と、飛行機を念頭に置きつつも乗り物一般に用いる旨記載されている。

 というような蘊蓄めいたことを子供の頃に知って、船乗っ取りだとかバス乗っ取りだとかの報道の中で「シージャック」「バスジャック」等という言葉が出てくる度に、「ハハハ。なかなか勝手に巧いこと言葉作ってるなぁ」と思っていたのだ。本筋とは関係ないが、密かに嫌な餓鬼である。

 しかし今ではこれらの言葉が堂々と市民権を得ているばかりか、TVのアナウンサーが「ハイジャック」という言葉を用いた直後に「ハハハ、アホな言い間違いしてもた」と言わんばかりに照れ笑いした後、わざわざ「バスジャック」と言い直したりするなど、恰も「バスがハイジャックされた」という表現が間違いであるかのように目されているのである。堂々と「バスがハイジャックされた」で構わぬではないか。

 とはいえ、只でさえ普段から「エゾシカの嘶き」上に於いて言葉の誤用や綴りのミスを指摘されまくっている私としては、矢張り余計な指摘を受ける事は避けたいため「バス乗っ取り」と表現してきた。今後は堂々と「バスのハイジャック」と表記することにする。

 どさくさに紛れて触れておくが、2000/04/12で触れたSUPER BELL''Zの曲名は、「MOTER MAN」で間違いない。JR東日本関連の曲については「MOTER」の表記を用い、其れ以外の曲については「MOTOR MAN」との事である。


2000/05/08

読者の方々への感謝と…

 最近立て続けに、「エゾシカの嘶き」で触れた事に関して予期せぬ読者の方々から意外な知識を得ている。2000/04/28で偶々MRI検査について触れたところ、偶々MRIメーカー勤めの読者がいらっしゃったようで、MRIの問題点、最新の機種等について教えて下さった。そして2000/05/01で触れた「玉掛技能士」についても、偶々玉掛技能士の読者がいらっしゃったようで、玉掛技能士が陰嚢に紐を掛ける資格ではなく球状の物をクレーンで安全に吊り下げる技術である事、プログラマ界やインターネット界に於いては非常に稀な資格である事等について教えて下さった。恐らくそうそういらっしゃらないであろう属性の方々が「エゾシカの嘶き」をお読みになっている事もさることながら、私に知識を与えて下さった事に只管感謝するものである。

 処で、さっき過去に物した文章を読んでいたら、やけに引っ掛かる以下の一文に出会した。因みに記述時は1996年11月12日。

 何かデブの武士が赤ふん姿で踊るCMやってるよ〜。

 今となっては全く思い出せぬ。一体誰が何のために放映したCMなのだ此は。はたまた夢か其れとも私の脳中に湧いた虫の為せる業か。冒頭に述べた最近の体験に気を良くして図に乗っている訳では決してないのだが、もし此のCMについて何方か心当たりのある方は、是非私の3年半前の記憶を蘇らせていただけないだろうか。


2000/05/07

間の悪いTVCM

 放映直前になりTVCMを急遽差し替えるケースというのがどれ位存在するのか知らぬが、企業の不祥事、出演タレントの不祥事や死亡、その他の諸事情(例えば、1988年秋頃から数ヶ月の間、「自粛」という言葉の下、日本国内に於いて華美なものや脳天気なもの等が疎まれていたのだが、TVCMについても少なからず影響があったようである)等々により、いきなり特定のヴァージョンのTVCMが流れなくなったり、公共広告機構のTVCMがやたらオンエアされたりするようになる場合がある。最近有名だったものは、NTTドコモの「i-mode」に回線障害が多発したために、当初予定してたi-mode関連のTVCMを企業側の意向で全て別サーヴィスのものに差し替えたというケースが存在した。尤も此はi-modeのメインキャラクターであった広末涼子が「私はさげまんの女」と公言した影響ではないかという邪推も惹起する結果となったのだが。

 さて、先日バスの乗っ取り事件を生中継で大きく報じた夕方のニュース番組。トップニュースとして採り上げた後の最初のTVCMがいきなり日本マクドナルドの鶏肉販売促進広告。画面に「乗っトリ大作戦」と表示されている。幾ら何でも此は余りにタイムリーすぎるではないか。TVCMの差し替えが既に不可能なタイミングであったのだろうか、抑も差し替えの検討自体あったのであろうか。

 否此を決して批判的に捉えているわけでもないし、逆に其のタイミングの一致を賞賛するものでもない。不愉快極まる事件をTVを通じて目前にしている際に、TVCMの間の悪さが何かしら心を弛緩させるように感じられた、只其れだけなのだが。


2000/05/06

日本経済新聞・4

 何度と無く「エゾシカの嘶き」上でライヴァル視する事により、お互い切磋琢磨していく関係を築きつつある日本経済新聞。嘗て「エゾシカの嘶き」に於ける文化的考察について、日本経済新聞と競合関係になった事が何度と無く存在したのだが、最近ではどうやら日本経済新聞側が「エゾシカの嘶き」を超えようとして、活発に攻勢に転じようとしているように思われる。

 4月の紙面改良により、週1回わざわざ別刷りで文化・トレンドコーナーを設けるようになり、其の文化的考察をより深度化させる事により「エゾシカの嘶き」に差を付けようという魂胆が明らかになった。そして最近気付いたのだが、日本経済新聞の攻撃の手は「エゾシカの嘶き」のみならず、競馬予想サイト「EZOSHIKA PADDOCK」にも及んでいるようなのである。

 「EZOSHIKA PADDOCK」で行っている今春のG1レース予想は、先週の天皇賞(春)は本命が的中したものの、対抗として挙げた馬は3着。その前の皐月賞では、対抗として挙げた馬が1着で、本命は18頭中13着であったのだ。一方、日本経済新聞はまるで「EZOSHIKA PADDOCK」を嘲笑うかのように、何れのレースも1着2着を其の着順通り(本命−対抗)に予想していたのである。よくあるスポーツ紙の様に、ページ毎に何人もが異なる予想を掲げてどれか1つでも当たれば「的中!」と胸を張って宣伝するのとは異なり、日本経済新聞の場合、スポーツ欄に於いて1人が予想するだけである。其れで大レースを2回続けて的中させているのだ。敵ながら天晴れと言わざるを得ない。

 日本経済新聞が「EZOSHIKA TOWN」に全面戦争を仕掛けるべく、早晩紙面に「元祖・動物占い」の向こうを張って「本家・動物占い」なるコーナーが登場する事は想像に難くない。「今日のあなたはヤブイヌ」とか「今週は『シマウマ』で一発ギャグをかますと吉」とか「今度の休みには街で白いイボイノシシを見なさい」とかという文言が紙面に出てこないか、日本経済新聞を読む度に戦々恐々としている今日この頃である。


2000/05/05

しまなみ海道

 本格的に運動らしい運動をしたのは一体何年振りであろうか。尾道から向島に渡り、所謂「しまなみ海道」70kmあまりのうち40km弱を自転車で走行すること5時間、4島3橋を経て広島県から愛媛県に入った。

 元々は、丁度1年前にほぼ全通した「しまなみ海道」の風景を楽しむと共に、自らの力で海を越えてみたいという欲求を満たすべく今回の旅行に至ったのだが、実際に自転車を借りて地図を手にして道中進んでいく内に、肝腎な知識を身につけていなかったり自らの経験を失念していた事に気付いたのである。

 先ず案内パンフレットを手にして、今回通るコースのうち多々良大橋の1.5kmを除く全てが「しまなみ海道」開通よりも前に存在していた事に気付いた。別に「しまなみ海道」を機に実行するようなものでも無かったではないか。また、一つ目の橋である因島大橋を渡る際に自らが極度の高所恐怖症であったことを思い出し、橋の入り口で「俺何でこんな怖い思いせないかんのや」と心の中で嘆いてしまった。只でさえ此の橋の自転車道は、自転車・バイクの2車線と極めて狭く、気分的には橋の上で綱渡りをしているようなものなのである。何度引き返そうと思った事か、其処から先の橋を何度諦めようと思った事か。そしてそうこうしている内に、3つ目の島である生口島の自転車コースを走っていて、全く同一のコースを数年前に徒歩で回っていた事に気付いた。否別に其れは其れで構わぬのだが、新鮮感や達成感という点では今一つ欠けてしまうではないか。

 とは言え風景を楽しみ、自らの力で海を越えるという当初の欲求は果たすことが出来た。日焼けのひりひり感、掌の豆、そして明日から私を襲う事になろう筋肉痛などといった代償が高くつくのが悲しいのだが。


2000/05/04

事件の舞台

 2000/04/21で述べたとおり、GWを利用して今朝から広島・尾道を訪れている。或る程度の行程も決めて翌日の旅行に備えようとしていた昨日、大変な事件が報道されていた。事件の舞台が広島に移っている事を確認しつつも、其れを直ちに自分の旅行と結びつけるまでに考えは至らなかった。深夜になり、「まさか旅行に影響は無かろうな」と思い地図を見たところ、事件が発生しているバスの留まっているサーヴィスエリアは、私が広島で最初に到着する地である広島空港の目と鼻の先ではないか!而も空港から乗るバスが正に事件現場を反対方向から通過するのである。犯人が「対向車も止めろ」とかほざいていた事を思い出し、通行止めになっていない事を只管祈っていた一方で、ふと過去の想い出が脳裏を過ぎり、多大なショックを受けてしまったのだ。

 学生時代の出来事、何時もの如くふらふらと旅行に出ていた私は、偶々下車した終着駅で、線路の車止めを撮影した。そして其の翌日だったか、旅先から帰宅した時にニュースを見て驚愕した。其の駅で列車が暴走し、正に私が撮影した車止めに突っ込んだとの事。何とも気味悪い話であった。そして今回、旅行で通る予定の場所で大変な事件が発生している。此亦何と気味の悪い事よ。

 結局事件は今朝決着し、私が現場を通過したのは其の5時間後であった。此の気味悪さを遺しておくため、不謹慎だの嬉しがりだのの批判を懸念しつつ、写真を撮影したのであった。


2000/05/03

駆け込み犯罪

 先日雇用保険法が改正され、自主退職の際に給付される手当の額が来年4月より低減されるとの報を耳にして、今後1年のうちに「駆け込み退職」が増加するのではないかと思ったのだが、此と同様に、最近の未成年に因る各種凶悪事件を見るにつけ、皆「駆け込み犯罪」に走りつつあるのではないか、また今後も「駆け込み犯罪」が増加する可能性が高いのではないかと思ってしまった。

 根拠の一つは、現行の少年法51条。17歳までなら如何なる凶悪犯罪を行おうが、自らが生命を奪われることが無い。発覚及び制止があるまでは、何人人を殺そうが、何円金銭を奪おうが自由という、(不謹慎な譬えであるが)或る意味壮大なゲームを行い、ゲームオーヴァー後も尚、改めてゲームを続行する事も、中止して安穏とした生活を送る事(少年法61条に於いて、その者が当該事件の本人であると思われるような記事・写真の報道が禁じられている)も、自由に選択することが出来るのである。現時点では詳細が全く解らずあくまで推測の域を出ないが、偶々17歳による凶悪犯罪が立て続けに発生した事には犯罪者側に「18歳になるまでにやれる事やっとこう」という意識が多少なりともあったのではなかろうか。事実、18歳になった直後に凶悪犯罪を犯した被疑者が「あと少し早ければ死刑になる虞はなかったのに」などと発言していた旨報道があったのだし。

 そしてもう一つは、最近のトレンドを踏まえて少年法改正の動きがあること。「今のうちにやれる事やっとこう」という意識も彼等の中に少なからず存在するのでは無かろうか。具体的な改正が行われ、其れが施行される迄の間に彼等による「駆け込み犯罪」が増加する可能性は高いと思われる。

 一体どうすれば「駆け込み犯罪」を未然に防ぐことが出来るのか。虞犯者の段階で拘束・処罰を行うことができないのは言うまでもない。更に彼等に対しては「自らの行為に見合った刑罰を受ける」等という法抑止力も現行では期待できない。思うに未成年の彼等に対しては親権者が責任を持つしかないのではないか。「知らなかった」「驚いている」で済む話では到底あるまい。

 若い頃に読んだ坂本龍一のインタヴュー記事に拠れば、彼が学生運動に傾倒していた時、父親に「もしお前が社会に多大な損害を与える事になれば、俺はお前の父親としての責任を以てお前を殺す」と言われたらしい。発言内容は兎も角、最低限の「親(親権者)としての責任」を抱いている人間が一体如何ほど居ようかという事を、少年犯罪の度に改めて考えさせられるものがあるのだ。


2000/05/02

続・首位

 昨年話題にした際には「次にこんな話題を採り上げるのは早くても10年後位であろう」と思っていたのだが、1年も経たぬ内にその機会が訪れて当惑している。1999/06/10で触れて以来の阪神タイガースの首位である。

 という話題を何時か採り上げようと思っていたら、首位陥落どころか連敗街道まっしぐらではないか。勝負面だけに着目するならば、今年のセントラルリーグのペナントレースは早くも終結を迎えた。後は最終的に何位に落ち着くのか、何敗するのかを見守ることとしよう。

 勿論、私の楽しみはそんな処にしか無い訳ではない。9連勝の直後何連敗できるのか、何処までカツノリの面倒を見るのか、昨年の新庄のような「敬遠のボール球を無理矢理バットに当ててサヨナラヒット」等という強烈なプレイを目にすることができるのか、等、優勝争いとは関係のない処に楽しみを求めようとしている。

 時間のあった学生時代はシーズンオフにも楽しみがあった。誰もが楽しんでいると思われるピッチャー毎の勝ち星計算を行い、「○○は去年9勝やったから、今年はもうちょっと頑張って12勝。中継ぎも揃ってきたので去年より5勝は上積みできるやろ。△△は即戦力やから10勝は堅い。…おおっ、阪神タイガース、今年は90勝超えてる!ぶっちぎりの優勝やん!」等と都合の良い皮算用を行ったり、当時使っていたパソコン野球ゲームで、各チーム各選手の前年実績を基にしつつも適宜期待料を込めてデータを入力し、何度も何度もシミュレーションを行い、「うむ、今年は阪神タイガースの優勝確率が6割」等と分析を行ったりしていたのである。当然、シーズン終了後にはそんな結果など忘れて、翌年に備えて同じ事を繰り返して「○勝!」とか「優勝確率○割!」等とほざいていたのである。

 しかし斯う書いてみると、非常にお目出度いファンに思えるが、そうでないとあのチームのファンなどやっておれぬのだ。一試合一試合の結果に一喜一憂なんぞしておれば、其れこそ気が触れかねぬ。


2000/05/01

資格

 毎年1回、職場で提出を義務づけられている調査票(1999/04/12参照)を先日提出した。今年からオンライン処理となり、一々名前や住所や家族構成等を記入せねばならない面倒臭さは若干軽減された。

 注目すべきは、資格欄が選択制になったことである。一見して数百もある資格一覧表の中から取得した資格を選択するのは此は此で面倒臭い。自由記述の時代には、嘗て私も国際秘宝館にて取得した「性愛学指導員」だとかを記入する輩が多数発生していたのであろう。確かに「性愛学指導員」は、今回の選択肢からはしっかり除かれていた。

 しかしその一方、「こんな資格があったのか!」と驚くようなものを発見した。先ず目に入ったのは「玉掛技能士」。「玉掛」とは何ぞや。以前知人が、陰嚢を紐で縛ることにより持続度や快楽度を増す技を実践していたのだが、正に「玉に紐を掛ける」という意味に於いては「玉掛技能士」の資格を有していたのではないかと思われる。次に驚いたのは「麻薬施用者」。所謂「シャブ中」なのだろうか。まあ少し考えれば、医療行為等に於いて施術の一環として麻薬を使用する人のことではないかと思われるのだが、どうも胸を張って「私は麻薬施用者です」とは言う気になれぬのではないか。

 そして極めつけは「受胎調節実地指導員」!誰が何のために何をする資格なのだろうか。「受胎調節」というところを見ると、小学生等に避妊の大切さを教えるのか、所謂オギノ式受胎法により女性の安全日や危険日を正確に判断してあげる為の資格なのだろうか。否否「実地指導」である。若き団地妻達の家庭を訪れ、陰茎の形をした張型を用いてコンドームの装着方法から説明するセールスマンの資格か、アダルトヴィデオ等に於いて膣内射精を徹底的に避ける男優の為の資格なのかも知れぬ。何れにせよ奥の深い資格であるのだが、私の勤める会社に於いて、選択肢に含めねばならぬほど必要不可欠な資格だということが非常に興味深い。


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