エゾシカの  2001/02/01〜2001/02/28

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2001/02/28

幸福なタンポン

 中学入学直後辺りだったか、寮生活を送っていた私が実家に帰省した際、当時親戚が勤めていたトイレタリーメーカーから試供品が一式届いているのに気づき、様々な試供品に一頻り目を通そうとした処、タンポンを発見した。女陰段階に於いて経血を吸い取るのに必要不可欠なアイテムという知識程度しか持ち合わせていなかった私は実物を手にして大いに感動を覚えたのだ。

 此の感動を寮の同級生に伝えたいという心境の裏に、珍奇なものを披瀝することにより同級生達から人気を得たいという感情が見え隠れする中、私の手は自然と其のタンポンに向かい、己の鞄の中に運んで寮に持って帰る事にしたのだ。寮に戻るや否や同級生の一人の部屋に向かい、恐らく初めて手にするであろうタンポンを同級生達で観賞しては皆で声を押し殺して低い唸り声を挙げていたのだが、皆で次々手にとっていく内、タンポンが室内の家具の陰に落ちてしまい、拾い出すのも面倒という事で、タンポン観賞会は自然とお開きに相成った。

 約半年後、寮の大掃除があった際、或る部屋から先輩達の叫び声が次から次へと広がっていた。タンポンの持ち主が私である事が判明しないかはらはらすると同時に、経血を一滴も吸う事無く再び日の目を見て表舞台に立つ事の出来た幸福なタンポンを祝福したい気持ちで一杯になったのであった。


2001/02/27

21世紀に最初に接した書物

 以前職場で「最近購入したCDは」という話題になり、一人一人がクラシックだの通好みの洋楽だのを挙げていた中、私の番になった際に偶々其の数日前に購入したT.M.Revolutionのアルバム名を口にした処、周囲が「貴様は己の年齢を意識した事があるのか」と言わんばかりに凍ってしまった事があった。口にするのを憚られつつ、実際に口にしてみてああ憚っておけば良かったと後悔すると共に、何であんなに間の悪いタイミングであんな話題になるのかと怒りにも似た感情を抱いたりしたものであった。

 さて私には、若し此の話題が出たらどうしようかと悩んでいる話題があるのだ。何かの機会に「今年最初に接した書物は何か」「21世紀に最初に接した書物は何か」という話題になった時に、正直に「素人投稿13・ナンパで犯(ハメ)られた女たち」と回答すべきか否か。

 言う迄も無いが、私は年がら年中斯様なマドンナメイト文庫だのフランス書院文庫だのといったエロ小説の類を購入している訳ではない。其れどころか、前回斯様な書物を購入したのが何時なのか判らぬ位稀なケースなのである。あくまで偶々、正月に旅先の仙台に於いて、ホテルで暇を潰す為の書物を漁ろうとした処何処の書店も店が開いて居らず、偶々一軒だけ開いていたエロ小説店に渋々足を踏み入れた結果なのである。入ってしまえば仕方無い。渋々一冊を手に取り渋々レジを済ませた上、渋々ホテルで読みながら元日の夜を過ごしていたのだ。

 しかし其れにしても、理由はどうであれ、私にとっての21世紀の幕開けを飾る文学作品のジャンル選択が己の意思とは異なる所で決定するとは、後から思えば後悔する事頻りである。


2001/02/26

牡蠣サイト

 先日の事なのだが、お気に入りのサイトのリンク欄から2クリックで期せずして通信販売のページに辿り着いた。おやおや何故牡蠣の通信販売。幾ら牡蠣が私の大好物と雖もわざわざ通信販売で購入する程の牡蠣フェチでも無い。通信販売サイトの中に僅かにあった随筆及びインタヴューの形を採った牡蠣紹介の記事に目を通した。

 随筆は私好みの、段落の区切りが無くテンポ良く単語や文章が次から次へと湧くもの。そして私の心を惹いたのがインタヴューコーナー。娘が漁師の父にインタヴューし、父が娘の疑問や質問に回答するというものなのだが、此が極々自然な形で牡蠣の魅力を其の容姿から調理法から此でもか此でもかと伝えるのだ。更に言えば牡蠣の魅力だけでは無い。食中毒の危険性についても余す事無く伝える事により、逆に中途半端な知識による無用な恐れを抱かずとも済むようになるのだ。美辞麗句を飾る事無く此程私の牡蠣心をそそるサイトはそうそう在るまい。私の心は既に牡蠣の購入へと向かいつつあった。

 偶然とは恐ろしい事。丁度私が牡蠣欲に駆られんとしていた時、当の牡蠣サイトのオーナー、逆に2クリックで期せずして私のサイトにお越し下さったのだ。私の心は完全に一つの方向を向き、後は己が食する事の出来る牡蠣の分量及び適切な配達日を検討するだけとなったのだ。

 後になって気付いた。私は其のサイトに於いて、牡蠣の写真や絵画等、視覚に訴えるものを終ぞ目にしていない。にも拘わらず此処迄私の欲望を掻き立てるとは、底知れぬ文章に出会えたという事では無いのか。


2001/02/25

居酒屋・鹿

 偶々街を歩いていて発見した居酒屋。其の看板に私は目を奪われ、暫し其の前で立ち止まり思索を巡らす事になったのだ。「居酒屋 鹿」。よく見掛ける清酒メーカーとのタイアップによる看板に、如何にも日本の居酒屋と言わんばかりに力強い字体で書かれた「鹿」。居酒屋には自らの欲望に基づき足を踏み入れた事が一度も無く今後も其の機会が無いと思われる私ですら、足を踏み入れたい欲望に駆られ、まだ日も高い時間帯であったことを恨めしく思ったのだ。

 しかし何故鹿なのか。まず容易に想像出来るのは、大将が無類の鹿好きであるというケース。店内には鹿の写真や鹿の角を飾るだけでは飽き足らず、インターネット上に於いて「ニホンジカ」だの「ケラマジカ」だのといったハンドル名を用いて日々獣愛を説いているのかも知れぬ。しかし此程迄に鹿が好きなのであれば、如何にも居酒屋という看板では無くもう少し鹿色溢れるものにしたり、店の前で飼鹿を放っていたりするのでは無かろうか。

 又、一般的に居酒屋の名前には来店者が感情移入できる様、来店者の好みそうな女性の名前が付けられる事が多い事を鑑みれば、此の店は鹿好きをターゲットに絞った店である事が考えられる。そして私の様な酒も飲めない客が純粋に鹿に心惹かれて訪れるのを心待ちにしているのかも知れぬ。しかし一体わざわざ鹿好きをターゲットにする事が店にとって何のメリットがあるのかと考えれば、此も甚だ疑問である。

 鹿肉をあの手この手で供するのであろうか。しかし鹿肉料理と言えば其の癖の強さから味の濃いソースで煮込むケースが多く、和風居酒屋に似合う様調理するのには限界があるのでは無かろうか。尤も肉欲の薄い私(2000/08/30参照)が肉の事をとやかく言えた義理では無いが。

 最も素直に考えれば、大将の名が「鹿」である事が予想される。となると私の関心の対象は、最早大将では無く大将の親御様に移るのだが。


2001/02/24

感情記事

 本日付日本経済新聞別刷の「CMネットワーク」なるコラムの文章を読んで私は愕然とした。名古屋地区では放映されていないものと思われるが田原俊彦の湿布薬のCMについて記された文章、毎週コラムのタイトル通り特定のTVCMにスポットを当てて読者の興味・関心に応えるものとなっているのだが、今回のものはTVCMというよりは寧ろ別の方向に執筆者の関心が強く向いているのでは無いかと思われたのだ。

 本文冒頭での、田原俊彦がCMに登場したという文章の中では「少し広くなった額が時の流れを感じさせるが、相変わらず元気にステップを踏んで、歌い、踊りまくっている」と記され、最後は「(CMに於いては)田原たちの前に広がる客席はがら空きで『つらい』の文字。実際のコンサートはどんな状態なんだろう。ファンならずとも気にかかるCMだ」と締められている。そして此の文章のメインタイトルは「『つらい』田原俊彦」。

 素直に解釈すれば「此のオッサン、頭も禿げてきてるのに未だにええ年こいて踊りまくっている。どうせコンサートでも客全然来てへんねんやろう。ほら、読んでるあんたもそう思ってるやろ」と言わんばかりの文章である。もう執筆者自身はCM自体の論評などどうでも良く、執筆者自身が田原俊彦に抱いている特別の歪んだ感情(一概に悪意とは限らぬ)を一気に表現したいという意思がありありなのだ。

 客観性が要求されると思われる新聞記事コラムの様な場所で如何に本来の主題とは異なる己の感情を表現すべきか。此の難題に取り組み成功した記者を羨む次第。


2001/02/23

続・ティーザー広告

 昨年展開されたティーザー広告の一つに、キャンペーンを盛り上げる為に敢えて其の前段でおや此は何なのだと言いたくなるようなCMを放って期待感を醸成し、キャンペーン半ば辺りで嗚呼成程此処に繋がるものだったのかと感心させるという手法のものが存在した。元々キャンペーンの実施が決定した時点から前評判が高く、期待感がキャンペーンの進行に伴い盛り上がり、本編も其の期待感に違わぬものに仕上がっていた様に思える。

 処が悲しい事に、ティーザー広告内では感じられなかったあざとさを其の企業が自らのサイト上でわざわざ見せつけていたのだ。キャンペーンの概要を紹介するコーナーに於いて、「最初のCMは本編に繋がる二段ロケットの一段目」だの「若干物足りない仕上がりに受け止められるかも知れない」など、広告代理店が得意先企業へのプレゼンテーションで用いる様なCMコンセプトの手口を、わざわざ得意先企業が生活者に訴えているでは無いか。2000/03/06で述べた私自身の広告観に倣えば、交際中の女性との逢い引きに於いて、昼は公園散策、夜は洒落た晩餐を摂ろうと考えた結果、わざわざ相手に「公園散策はディナーを美味しく食べる為の腹ごなしなので、公園散策自体は若干盛り上がりに欠けるかも知れないよ」と事前に宣言するに等しいものである。一般的には言われた相手は興醒めしてしまう事夥しい限りでは無いのか。逆に斯様な事を事前に宣言しておかないと当日になって怒るような女性とは、恐らく良好な関係など築ける由も在るまい。

 キャンペーンの趣旨を一々事前に宣言しないと理解出来ぬ生活者に合わせて、キャンペーンの趣旨が理解出来る生活者を興醒めさせ兼ねぬ状態というのが、果たして望ましいのか。ターゲットの幅を広げたいのであれば最初から無難な広告にしておいた方が、万人が興醒め感を感じずに済むでは無いか。尤も其の代りにステディな関係を築ける生活者も居なくなるのだろうが。


2001/02/22

ティーザー広告

 広告効果を高める手法の一つとして「ティーザー」なる手法が用いられる。新商品の発売にあたり、発売前に敢えて商品自体を見せずに「え?此何だろう」「一体どんなものなのだろうか」などという期待感を煽るという此の手法、目に見えないものが人間の感情を必要以上に掻き立てるという心理を利用したものとして古来より用いられている。

 私が最初に接したティーザー広告は、高校時代の新聞一面広告。当時髭面で有名だったスポーツ選手が、「明日の俺を見てくれ」というキャプション付きで一面度アップになっている。一体何が言いたい広告なのか訳が判らずに無視していた処、翌日の新聞一面広告には、其のスポーツ選手が綺麗さっぱり髭を落とした状態で度アップになっていた。此の髭剃りの広告を見た時の驚愕は、私が広告の登場人物やストーリーや映像ではなく、広告其の物に対して初めて抱いた魅力であったように思える。

 処が此の手法、度々用いられると情報の送り手側の「お前達を焦らして広告効果を高めるのだ」というあざとさが感じられ、広告自体の訳の判らなさと相俟って却って反感や不愉快さすら感じられるのだ。

 昨日発売されたビール会社の発泡酒についてもティーザー広告が展開されていたのだが、此を目にしつつ私は或る事に気付いたのだ。以前はアイドル女優が乳の谷間を見せることにより、「此奴どんな乳してるねん」という期待感を煽っていたのだが、最近ではどうでも良いばかりか寧ろ「谷間だけ見せてええ気になるなよ」という反感すら抱くようになってきたのだ。此ぞ正にティーザー広告理論と軌を一にするものでは無かろうか。


2001/02/21

処女願望

 日常生活に於いて用いようと思った際に何時も其の用法について悩む単語が存在する。「処女願望」なるものは「処女でありたい」と願う感情なのか、「処女とやりたい」と願う感情なのか。因みに日常会話で用いられる際には後者の意味である。

 「変身願望」「女装願望」、更には従来の誤った日本語の用法を正すべく昨日新たに定義付けされた「強姦願望」(2001/02/20参照)などは飽くまで「己が○○したい」という願望である。而るに「処女願望」については、「己が処女と性交したい」という事になり、「願望」という単語に背負わせるのには些か場違いかつ荷の重い「性交」という意味が勝手に含まれているのだ。此の調子で考えれば、「変身願望」は「変身した人と性交したい願望」、「女装願望」は「女装した人と性交したい願望」など、本来の意味及び日本語の体系を大いに崩壊させるものとなってしまうではないか。

 此処で私は提唱したい。従来世間一般で用いられていた「処女願望」を「処女性交願望」と呼ぼうではないか。日本語文化の正確な伝承の上で将来的にも有益な事であると思われるのだ。


2001/02/20

強姦願望

 日常生活に於いて用いようと思った際に何時も其の用法について悩む単語が存在する。「強姦願望」なるものは女性が男性に対して抱くものなのか、男性が女性に対して抱くものなのか。尚此処では話を単純化する為に、男性が男性に対して抱いたり、女性が女性に対して抱いたり、更には女性が犬に対して抱いたりする等のケースは敢えて考慮しない事にする。

 世間一般で用いられるのは、女性が男性に対して「強姦されたい」と願う感情の事だと思われる。しかし是では「強姦願望」では無く「被強姦願望」と言わないとおかしいのではあるまいか。広辞苑に「強姦」の意義を求めてみても、「暴行・脅迫の手段を用い、または心神喪失・抗拒不能を利用して女子を姦淫すること。無理やり女性と交わること」とあり、女性を客体とした男性の行為とされている。尚、先述の通り、此処では女性を姦淫する女性だとか、女性を姦淫する犬だの馬だのの存在は取り敢えず考慮に入れない事にする。

 一方で、男性のみの社会に於いては一般的に、魅力的な女性を見掛けた時や欲望が臨界点に達しようとした時等を中心に、誰々を犯したいなどという会話が極めて日常的に用いられる。斯様な感情こそが正に「強姦願望」の字面に相応しいと思われるのだが、こういったケースに於いて「強姦願望」なる語が用いられる事は少ない。因みに広辞苑に於いては「強姦願望」の定義付けが為されていない。

 此処で私は提唱したい。従来世間一般で用いられていた「強姦願望」を「被強姦願望」、男性が女性に対して日常頻繁に抱く感情を「強姦願望」と呼ぼうではないか。日本語文化の正確な伝承の上で将来的にも有益な事であると思われるのだ。


2001/02/19

日本経済新聞・7

 「エゾシカの嘶き」上で幾度と無く採り上げてきた日本経済新聞ネタに呼応するかの如く、本日付日本経済新聞の社会面に於いて大々的にエゾシカが採り上げられる事となった。「オオワシ 鉛害の冬」というタイトルの記事、飽くまで主人公はオオワシなのだが、サブタイトルに「被弾エゾシカ食べ中毒死」とあり、エゾシカに触れつつもメインタイトルでライヴァルの名に触れるのはプライドが許さぬと言わんばかりの態度が見て取られる。

 記事は、狩猟家に鉛弾で射殺されたエゾシカの死骸を国の天然記念物たるオオワシが食べる事により鉛中毒死を引き起こしているという内容なのだが、オオワシの写真が掲載されている一方でエゾシカの写真は存在せず、其の代り、エゾシカ猟で禁止されている鉛弾を用いる狩猟家を摘発するパトロール光景が大きく掲載されている。此処でも、「エゾシカの嘶き」上で嘗て日本経済新聞の写真を掲載した事も無いのに日本経済新聞紙上でエゾシカの写真を掲載する迄も無かろうという敵愾心が手に取る様に感じられる。又、文中に於けるエゾシカの登場回数(見出し及び写真のキャプション含む)を数えてみるに、オオワシの16回を大きく下回る10回。ライヴァルの名前をそう気易く呼ぶまいという意思が表現されている。

 とどのつまり、「意識はすれども決して持ち上げず」という事なのであろう。意識されている事自体、ライヴァルとして好ましく思える事は言う迄も無い。


2001/02/18

続・下手糞な関西弁

 母国語である関西弁が喋れなくなった事に気付き愕然とした。先日偶々職場で関西弁を捲し立てる必要があったのだが、己の口から発せられる言葉が全く関西弁になっていない事に途中辺りから気付き、慌てて中途半端に関西弁を意識して口にするという、2001/02/03で触れた中山美穂にも勝るとも劣らぬ格好の悪さを衆人環境の下で露呈してしまったのだ。

 従来に比べ関西方面に足を運ぶ機会も此処暫くで格段に増えている。最近では毎週土曜に早起きして、江戸っ子時代には深夜に不定期にしか放映されていなかった吉本新喜劇を味わい尽くそうとしている位である。一体何が私から関西弁を奪ってしまったというのだ。

 考えてみれば現在の職場環境、机に隣接する範囲に関西弁を操る人物が居ないのである。社会人生活の中で関西を離れていた時期には、ちゃきちゃきの江戸っ子時代ですらどういう訳かほぼ必ず関西弁若しくは其れに類するものを駆使する人物が最低一人は存在していたのだ。而も会社を離れて関西弁を用いるべき人物が存在する訳でも無い。英語の習熟がネイティヴスピーカーの下でないと困難であったり海外生活の長い日本人が言葉の端々に外国語を用いねば会話が出来ないなどというのと同様、日常生活に於いて関西弁のネイティヴスピーカーと語り合う機会が減少する結果必然的に私の中から関西弁が消去される事になろう。私と同様の悩みを抱えている筈の数多の関西弁伝承者の為、名古屋にも関西弁スクールの開講が切に望まれる次第。


2001/02/17

蕎麦飯

 以前より其の存在及び世間での注目度が気になっていた蕎麦飯。本日付の日本経済新聞別刷での特集記事を読んだ所為もあるのだろうが、世間では米騒動以来の品切れ騒動を引き起こしていると言われている筈の冷凍蕎麦飯を寓居から最も近い(とはいえ自転車で5分は掛かるのだが)コンヴィニで数多陳列されているのを発見し、一も二も無く購入した次第。密かに日本経済新聞社が私へのライヴァル心を剥き出しにした結果、寓居のコンヴィニに無理矢理冷凍蕎麦飯を調達して並べたとも推測されるのだが。

 さて此の蕎麦飯、焼蕎麦に御飯を混ぜて鉄板で炒めてソースを掛けたもので、兵庫県神戸市が其の発祥の地とされている。而るに、知人や親戚が多数神戸に存在するのみならず、神戸から車で1時間強の処に実家のある私ですら、其の存在を知ったのは蕎麦飯騒動以降の話である。んなもん酔狂な店が偶々メニウとして提供していただけでは無かったのかと訝りつつも、御飯物に麺物を組み合わせて何食わぬ顔で片方をおかずに見立てて主食同士を食する様な平均的関西人なら考えても不思議では無いとも思えるのだ。

 電子レンジで解凍する事暫し、ソースの芳香が湯気に運ばれ鼻腔を刺激する。口に運べば焼蕎麦の味に米の食感。少なくとも普段滅多に口にする事の無い味覚。確かに是は面白いのだが各地で暴動や強奪が頻発する程に挙って食せねばならぬ味と迄は言えないのでは無いか。少なくとも一度食べればそう繰り返し食べたくなるものでも無かろうに。というか抑も冷凍食品状態で購入せずとも、己の家庭のフライパンで蕎麦と米とを炒めてソースを絡めて鏝で細かく切れば其れで済む話だと思うのだが。


2001/02/16

獣愛拒否

 確か数年前にオンエアされていたジャパンビバレッジのTVCMが最近再び頻りに放映されている。自動販売機に缶飲料を詰め込んでいるジャパンビバレッジの係員と思しき青年を、壁の陰から一匹の小型犬が覗いている。青年が気配に感じて犬の方を向いて目が合った瞬間、彼は事もあろうに犬を黙って睨み付けるのである。双方視線を外すことなく片思いのアイコンタクトが続く中、犬は其の様に怯え耳を畳みつつ恐怖に震え後退りしながらも、只管何かを訴えるかのように青年を見つめているのであった。

 此の一連の様子が15秒に込められているのだが、獣愛を志す犬の純情を拒否するばかりか踏み躙る青年は一体何を考えているのか。抑も斯様な獣愛拒否の姿勢を企業広告として広く訴求する意図自体、一体何処にあるのか。

 人間の愛の形態の中で最も強いレヴェルに属する獣愛にさえ溺れる事無く仕事に邁進する程、其の企業関係者は熱心に働いているという点を訴求しているのであろうか。しかし彼は犬との睨み合いの際には自販機に飲料を積み込む手を休めており、決して仕事熱心であるとは言えまい。

 古来より「片思い」という深淵なるテーマが悲喜劇で扱われるケースは少なくない。今回も犬からの愛が片思いに終わっている様を興味深く採り上げることにより、15秒で印象深く企業名を伝えようとしているのであろうか。

 最も可能性が高いのは、ジャパンビバレッジの広告担当の上層部の人間が以前犬に非道い目に遭わされた為にTVCMに於いて復讐を試みているというケース。もしそうであれば、其の人間は一体犬にどんな非道い目に遭わされたのか。「目には目を、歯には歯を」の思想から考えれば、屹度彼は以前犬に対して獣愛を抱きながらも拒否されたに相違あるまい。直向きな愛が受け容れられなかった時の復讐劇ほど壮絶なものは無い。復讐を込めたTVCMを数年に亘り大量に流すとは、元々の獣愛の深さが自ずと計り知れよう。今日もあのTVCMを観ながら、ジャパンビバレッジの方の獣愛の深さ、直向きさを裏返しの形で感じ取るのであった。


2001/02/15

エロメール・3

 先日職場で、一日に受信するメール数の話題になった際、「いやぁ、そこそこ受け取るんですが大半がエロメールなんです」と語った瞬間、周囲の空気が変化する様を肌で感じ取った。私は2000/12/29等で述べた通り此の種のメールには辟易している為、其の窮状を訴える意味も含めてそう語った積もりだったのだが、周囲にとっては「此奴は日々エロ小説だのエロ体験談などのメールマガジンでも読んでいるに違いない」「此奴は所謂出会い系サイトを用いて人妻から女子高生に至る迄幅広い女性から『今夜は身体が火照っているの。今すぐ私を抱いて』だの『今晩一万円で援交しない?』だのといったメールを受け取っては悦に入っているに相違あるまい」といった受け止め方をしていたものと思われる。

 実際に私が艶福な生活を送っていて左様に解釈される分には全く問題は無い。しかし実際には左様な生活を送っていないばかりか寧ろエロメールの被害者なのである。被害者であるにも関わらず結果を享受して幸せな生活を送っているかの如く解釈される結果となり、些か悲しい気持ちになった次第。


2001/02/14

ちんこ芝居

 以前、広辞苑上に「おめこ」だの「おまんこ」だのといった言葉が一切用いられていない事を確認したのだが、同様に「ちんこ」なる語を検索してみた処「ちんこ芝居」なる見出し語が存在する事に気付き愕然としたのだ。此は如何なる芝居なのか。即座に思いついたのが日本の宴会芸の代表であり、忘年会や新年会、歓迎会から送別会に至る迄、老若男女、もとい、老若男を問わず開催されている「丁髷」である。二人一組で演じられる其の芸、正座した男性の頭部にもう一人の男性の陰茎を載せ、恰も即興で丁髷を結ったかの様に見せるものである事は一々説明する迄も無かろう。しかし冷静に考えれば「丁髷」という立派な名前が市民権を得ている芸にわざわざ「ちんこ芝居」なる別名を付ける必然性はあるのだろうか。

 同様の宴会芸で名称の確立していないものを想起してみる。己の陰毛に火を放ち、熱さで苦しむ様により笑いを取ろうとするものだとか、高校時代に寮で流行した、全裸になって腰を上下に激しく振る事により陰茎が腹を打つ音を愉しむというものだとかがあった。しかし2000/01/19でも述べた通り、斯様な芸は子供が大声で叫んで周囲の関心を惹くのと大して変わらぬレヴェルのものであり、此を「芝居」と呼ぶのには広辞苑と雖も些か抵抗を感じるに違いあるまい。そうなると「ちんこ芝居」とは特定の芝居のタイトルでは無く、「陰茎を用いた芝居の総称」という事で、エロヴィデオ等を指しているのでは無いかという気もしてきた。しかし此等は主体は陰茎では無く女陰の筈。となると2000/05/31で述べた様な、男性しか登場しないエロ映画だの劇だのを指しているのであろうか。

 一頻り思索を巡らせた後、解説文を目にしてみた。「江戸時代から明治初年まで行われた子供芝居」との事。現代に喩えれば、幼稚園のお遊戯だとか、日本放送協会の「中学生日記」だとかが「ちんこ芝居」に該当するのであろう。

 書いていて唐突に想い出した。幼稚園の時にクラスでちんこ芝居を演じた時、私の役柄は「バンビのお父さん」であった。確か両手で角を作って頭上に翳して舞台をゆっくりと歩いていたのだ。おお、其の遙か後に己が「エゾシカ」を名乗ることになろうとは。意外な処に私の「エゾシカ」たる原点を見出し、感慨に耽る次第。


2001/02/13

エゾシカの本

 他人には余り言えない恥ずかしい趣味の一つとして、検索エンジンを用いて「エゾシカ」だの「エゾシカの嘶き」だの私の本名だのをキーワードにした場合、どんなサイトが提示されるのか、己のサイトがどこら辺の順位で登場するのかを調べて愉しむというものがある。先日も「goo」で己のサイトがエゾシカ界を代表するサイトの第3位である事を認識してふと画面の右側に目を遣った。

 amazon.co.jpのサイトバナーの下側に「エゾシカの本を探そう! 今なら送料無料!」という文字がある事に気付き、インターネット本屋に対して然したる興味を抱かぬ(2000/01/28参照)私でさえ思わずクリックしてしまったのだ。其れにしても「エゾシカの本」に反応したのか「送料無料」に反応したのか。後者だとすれば私も立派な名古屋人として胸を張って生きていく事が出来るのだが(2000/06/17参照)。

 amazon.co.jpのサイトに繋がるや否や「エゾシカ」に纏わる書籍一覧がずらっと並ぶこと約30冊。「売れてる順番」に並んでいるとの事なのだが、トップには「環境生態学序説」なる高価な書物。エゾシカ界のトレンドは知的で贅沢といった処なのであろう。少し良い気分になった処で更に一覧に目を通していったのだが、「ひとりぼっちのエゾシカニクル」だの「エゾシカの悲劇」だの「エゾシカを食卓へ」(決してエゾシカに食事を提供しようというものでは無くエゾシカを食事に提供しようというものだと思われる)だの、今一つ嬉しい気分になれぬ書籍が散見されたのだ。

 そして私を落胆させようとしたのがエゾシカ関連書物の予約受付状況。殆どが「在庫切れ」だの「お取り寄せ」になっており、此では一体何時入手できるのか、抑も入手可能かのかすら良く解らぬ。エゾシカ界の書物なんぞ在庫を抱えておく迄も無かろうという姿勢が一瞬垣間見られ、悲しみが私を支配しようとしていた。

 否否そうでは有るまい。ネット上をはじめとするエゾシカ界の隆盛を考えてみれば左様な訳が無いのだ。此は屹度皆が挙ってエゾシカ界の書物を漁りに漁りまくった結果書物が売れに売れまくり、書店は増刷に大童、amazon.co.jpは在庫確保に天手古舞いという事なのである。印刷界に多大な影響を掛けた事により、エゾシカ界の代表として責任をひしひしと感じつつある次第。

 話は元に戻るが、gooで検索を終えた後に画面右側に表示される「○○の本を探そう! 今なら送料無料!」なる文字、検索語が其の儘「○○」に入るのだが、○○に「エゾシカの嘶き」で有名な検索語が入って「放尿の本を探そう!」だの「肛門写真の本を探そう!」だの「毎晩電動こけしをつかいたのしんでいる人の本を探そう!」だのとなった場合、一体どんな書物が表示されるのか、非常に興味深い処である。


2001/02/12

続・デリバティブ

 先日の事、私の持っている書物について、法律の改正による内容の変更が発生したとの事で差し替え版が送付されてきたのだが、昨日になって内容に目を通してみれば、2001/01/25で触れた「デリバティブ」についての表記が本文中数十箇所全て「デリバティヴ」となって居るでは無いか。一月前であれば正に我が意を得たりと膝を叩いて喜んだであろう此の表記、以前述べた通り此では中途半端な表記であり、今となっては「何たる好い加減な表記。即刻誤記を指摘した上再差替えを要求すべし」という考えに迄至る次第。

 其れにしてもである。世間一般に於いて[v]を「ヴ」と表記すべしなどという、言語面に於いて極めてセンシティヴでありながら、今回の資料作成者や私の様に「デリバティブ」の「バ」が"va"である事に気付かぬというインセンシティヴな一面を持ち合わせる程にアンビヴァレントな人間となると、なかなか稀有な存在では無かろうか。

 処で、実は上記の文中「アンビヴァレント」という語を記すだけで優に10分以上掛かることとなった。ネタがネタだけに、此処で「アンビヴァレント」の「ビ」や「ヴァ」の表記でも間違えようものなら恥の上塗りも良いところである。其処で英語の綴りを確認しようと英和辞典を繙いたのだが、どうしても綴りが出て来ぬ。試行錯誤で色々試すも正解には至らぬ。10分以上費やした結果、期待半分諦め半分で広辞苑に目を移すこととした。意外や意外、「アンビ」で検索してみた処しっかりと「アンビヴァレンス」と、正に私が求めていた表記の見出し語が現れたでは無いか。流石広辞苑、此侮れぬ。


2001/02/11

ネットサーフィン

 3連休の中日に、久し振りにネットサーフィンでも行い面白いサイトを訪れようとした処、期せずして「エゾシカの嘶き」のバックナンバーを読み耽る事となった。

 一つ非常に興味深い発見があったのだ。丁度1年前の睦月〜如月という、私自身が「エゾシカの嘶き」の絶頂期と公言して憚らぬ時代の作品を味読している内、最近の「エゾシカの嘶き」で注力しているテーマと偶然にもオーヴァーラップしている事に気付いたのだ。獣愛サイトを訪れた事を切っ掛けに久し振りに展開した獣愛論も昨年の此の時期に事ある度に触れていたネタであり、テレヴィを観て感じた死や生についても丁度昨年の此の時期に思索を巡らせて居る。パソコンを用いていてユーザーとして納得行かぬ点についても1年前に論究していた事であり、三重県のTVCMが話題になったのも1年振り、先日初めてDVDを購入した椎名林檎の音楽に初めて接して衝撃を受けたのも1年前の事であった。何れも私が仕組んでネタにした訳でも無く、偶々日常に於いて接したものをネタにした処斯様な結果になった次第。

 ところで此が困った事に、1年前と同じ素材を扱っているだけに、現在の作品と絶頂期の作品とを自ずから同じ土俵で比較してしまうのである。そうなると現在の作品が面白さの面に於いて絶頂期に比べて引けを取っている様がありありと感じられ、落ち込まざるを得なくなってしまうのだ。


2001/02/10

オヤジパラパラ

 昨年の事、新宿駅新南口から何気無くルミネの街頭ヴィジョンを観ていた処、突然中途半端に禿げて小腹の出たオッサンのCGが画面に登場した。表情はやたらリアルで、顔の皺や染みも忠実に再現されている。而も数名が全く同一の容姿でパラパラを踊りながらほぼ無表情で目をかっと開いて此方を観ているのだ。「何じゃい此の気色悪いオッサンの気色悪い踊りは」と思う私をせせら笑うかの如く、パラパラは只管続く続く。観ている内に段々「彼等は一体何のために斯様な処でパラパラを踊らされているのか」「妻子が観たら一体どういう反応を示すのか」「抑も此は何を訴えたいのか」などいった想像をCG相手に巡らす事となり、結局飽きずに最後迄観ていたのだ。

 さて今日此の「オヤジパラパラ」のDVDを店頭で見掛けた。「うわっ、幾ら何でもこんな物高い金出して買う奴など居まい」と思いつつ「高い金」が幾らなのか確かめるべくパッケージに手を伸ばした。1900円、極めて安価なり。此ではついつい衝動買いする可能性も否定出来まいと思いつつ、私自身は其処まで酔狂な人間では無く、其の場を後にした。

 別のDVD売場に行った処、其処では事もあろうに「オヤジパラパラ」のDVDが此見よがしに眼前に置かれて居るでは無いか。ジャケットの3人のオッサンと目が合った瞬間、彼等に催眠術を掛けられたかの如く、私は酔狂な人間と化してしまったのだ。

 帰宅後早速DVDを鑑賞する。ディスコで踊るオッサン、海辺でビキニパンツやレオタードで踊るオッサン、宴席の卓上や露天風呂で踊るオッサン。とりわけ肌を露わにした状態では、中途半端な胸毛や腹の弛み具合迄リアルに表現されている。オッサンだけに留まらず、宴席のコンパニオンまで全く同じ顔、同じ体型では無いか。

 一頻り見ただけで脳裏に彼等の顔や踊りが見事に焼き付いた。今夜の夢が楽しみでもあり恐くもある。


2001/02/09

続・三重県

 三重県の新しい観光TVCMが巷間で話題になっている。昨年(2000/02/27参照)同様中尾ミエを用いているのだが、今回の役所は「中尾ミエの海」という関取。バックには「中尾ミエの海部屋」一門として「中尾三重の山」「中尾三重の牛」「中尾三重の忍者」(何で此奴等は「ミエ」が「三重」になっているのか)等の関取としても彼女が登場している。大銀杏に化粧廻しという出で立ちで、とりわけ中尾ミエの海は立派な胸毛を蓄えている。どういう訳か丁髷や唇を廻しの色で染めており、顔面だけでも其の強烈さが窺える。

 今回話題となったのは、中尾ミエの海本人によるCM発表の記者会見もさることながら、此のキャラクターを用いたCMの一つにセクシュアル・ハラスメントの恐れがあるものが存在した点である。中尾ミエの海が観光客に「ミエと遊んで」と言って腕相撲を挑んだ処、観光客のオッサンは中尾ミエの海の乳を指で弄び、彼女は「アハン、ウフン」と一頻りボケた後「其の遊びとちゃうがな!」とツッコミを入れる。確かに観光キャンペーンCMとしては不適切なレヴェルのセクシュアル・ハラスメントである。制作段階で気付けよという気がしないでも無いが。

 其れにしても、此の県に関わる観光キャンペーンは相も変わらず強烈である。其の強烈さたるや、関西のCMにはひけを取らぬどころかえげつなさの点では其れすら越えると言っても過言では無かろう。三重県其の物の魅力よりも斯様なCMを受容する(CM制作は関西らしいが)三重県人に対して多大な魅力を感じてしまうのだ。

 序でに三重県人に期待したいのだが、元祖・国際秘宝館(2000/09/29参照)を県営なり第三セクターなりで何とか復活させて頂けないものであろうか。


2001/02/08

獣愛・5

 現状に於いて私が獣愛(言う迄も無く単なる肉体関係では無く「愛」である)を実践出来るかについては、残念ながら明白に「否」と言わざるを得ない。其の根拠は簡単、たった独りの獣のみを愛する事が現在の私には不可能なのである。

 鹿であろうが馬であろうが、動物園だの公園だの牧場だので幾ら私に懐いてくれようが、私は其の獣を他の獣達と峻別する事が出来ない。具体的には、仮に動物園で独りの鹿と恋に落ちたとして、翌日になって其の鹿を他の鹿と区別して発見する自信は全く無いし、仮に牧場で独りの馬と恋に落ちたとして、其の牧場が火災に遭うなどして其の馬を上手く発見して救出する自信も全く無い。

 そんな事を思いつつ或る獣愛サイトを訪れた処、其処の掲示板に於いてサイトオーナーと、以前私が感銘を受けたサイト(2001/01/10参照)の元オーナーとの意見交換が為されており、二人の共通認識として述べられていた意見を見て私は愕然としたのだ。人間側が獣に対して愛を抱いており、獣が其の愛を理解して応えてくれたとしても、あくまでも獣愛が成立している状況は獣側にしてみれば「相手が人間しか居ない」という特異な条件下に置かれているに過ぎず、若し其処に其の獣と同種かつ異性の獣が居れば、獣側は人間への愛になど走る筈が無いのだ。

 正に其の通り。私が仮に独りの獣を愛する事が出来たとして、相手が私を愛する事など左様な「特異な条件下」で無い限り不可能では無いか。今迄私は「相手の愛に応える」事と「相手を愛する」事とを混同していたのだ。私は獣愛のゴールを誤って認識していた。判り易く競馬に喩えれば、中山競馬場でスプリンターズステークスを観戦していた積もりが良く見ればステイヤーズステークスであったという世界である。

 獣愛の奥深さ、底知れ無さを今迄以上に痛感し、己の未熟さや驕りすら感じて些かブルーな心境に陥った次第。


2001/02/07

名古屋の地下街

 名古屋のメディアで屡々見掛ける名古屋人による名古屋論の中で述べられる「名古屋の素晴らしさ」の一つに、「名古屋は地下街が非常に発達している」というものがある。地上を自動車に占領された所為であろうか、確かに名古屋の主要地域(といっても名古屋駅周辺と商業集積地たる栄地区周辺位なのだが)に於いては地下街が縦横無尽に張り巡らされている感がある。

 しかし私には此等地下街が「発達」した結果だとは到底思えないのだ。栄地区は良いのだが名古屋駅周辺の地下街については、地上のビルがそれぞれ勝手に独自の地下を拵えた結果、地下街の様相はばらばらであり、更に此等を何も考えずに所々で強引に繋げたり繋げなかったりした結果、彼方此方に高低差が生じて階段の昇降を頻繁に繰り返さねば先に進めぬわ、強引な交差点や全く目立たぬ通路が数多存在するわ、逆にすぐ隣のビルの地下に向かおうとしても地下が繋がって居ないわ、ソフト面に於いても余所の作った地下街の事など我関せずと言わんばかりに統一された案内板が存在しないわ、此処は戦国時代の城郭かよと言いたくなる位の構造であり、恐らく平均的人間以上程度には各地の地下街を訪れている(と勝手に思い込んでいる)私の記憶の限りに於いては、此が総合面で日本一出来の悪い地下街では無いかと思われるのである。処が「名古屋論」に於いては此が「発達した結果」であるとされており、此を自由に歩きこなせぬ限りは名古屋に於いては人間的に認められぬとでも言わんばかりの意見が展開される。

 発達とは単なる規模の増大では無く、其の価値自体も向上する事に拠り初めて言えるものでは無かろうか。ハード面については如何ともし難い部分があるのかも知れぬがソフト面に於いては容易に価値を向上させる事が可能な筈。而るに左様な価値の向上を等閑にしているとは、自らの手で「発達」を抑制していると言われても仕方あるまい。ましてや左様な状況を自ら「発達」と宣い、其の考えに同意出来ぬ者達を排斥しようとする様が、縦令彼等に認められなくとも戸籍上同じ名古屋人たる私にとっては非常に悲しくて堪らぬのだ。


2001/02/06

菜々子と喜朗

 「筑紫哲也NEWS23」に於いて、「家庭教師にしたい有名人」なるアンケート結果についての報道が為されたのだが、画面には松嶋菜々子が登場すると共に、タイトルの形で「菜々子と喜朗」というテロップが重なっていた。

 「喜朗」という名前から森喜朗という有名人が想起されたのだが、此と松嶋菜々子との関連がなかなか見出せぬ。アンケート結果の1位が松嶋菜々子である事は容易に想像がついたのだが、2位が森喜朗だとはとてもではないが想像出来ぬ。ニュースを耳にする内に、何の事は無い「家庭教師にしたくない有名人」ワースト1が森喜朗だという事が判明した。うむ、此だと納得がいく。

 其れにしても此処で1位と最下位のものを並立させるか。確かにベストとワーストとの組み合わせ、端麗なものと醜悪なものとの組み合わせにより人々の関心が湧くのは否定しないし、実際私は此のタイトルのセンス自体には心惹かれたのであった。しかし其れ以前に、純粋な気持ちとして、「松嶋菜々子と森喜朗とが並立させられた」という事実に因り、高級料理に蛆が湧いたかの如く、花畑に肥がぶちまけられたかの如く、松嶋菜々子が森喜朗に汚されたかの様な気分になってしまったのであった。


2001/02/05

エゾシカ死闘

 新聞のテレヴィ欄に「エゾシカ死闘」という文字を見つけて其の番組に間に合う様帰宅した。「スーパーテレビ 情報最前線」なる、ゴールデンタイムに放送される割にはそこそこ硬派な其の番組、以前は松本孝弘のオープニングソングに惹かれて観ていた時期もあったのだが、抑も放送時間中に帰宅する事自体非常に困難な為、此処数年はとんと御無沙汰であったのだ。

 さて此の「エゾシカ死闘」なる惹句は、「初公開 生と死の絶景」というテーマで、阿寒国立公園特別保護地域を舞台に獣達が繰り広げる死を賭した生をカメラで追った番組の紹介であった。

 エゾモモンガやキタキツネにもスポットが当てられていたのだが、エゾシカに的を絞れば正に生と死との繰り返し。取材陣の目前に躍動するエゾシカが現れたかと思えば次の瞬間には森の各所に冬を無事越せなかった幼いエゾシカの死骸が横たわっている。飢えなどで身動き取れずに其の儘命を落としたのであろう。

 初夏にはエゾシカの出産。森の中でも相当深い処で人知れず母がたった一頭で子を産み落とす光景は、さながら私が人知れず毎夜寓居で「エゾシカの嘶き」を執筆する光景を連想させるものであった。

 秋はエゾシカの発情期。此処で人間を威嚇し吠えるエゾシカ、牝の奪い合いで死闘を繰り広げ、牝を我が手中に入れる勝者と傷つき其の群で生活する事能わぬ敗者。勝者は次から次へと群の牝と雄叫びをあげながら交わるのだが、其の時間の短い事短い事。一頭に挿入し射精に至る迄僅か1秒。勿論私が嘗て目にした事のある射精シーンでは、馬を抜いて最短のものである。

 そして厳寒の雪。吹雪の中彼等達は集団で食糧を求めて移動する。しかし只でさえ己の繁殖力の強さ及びニホンオオカミの滅亡に因る天敵の不在が災いして冬場の食糧に比べて頭数が増え過ぎた彼等、食糧の確保自体が即ち彼等同士の争いを意味する。僅かしか無い餌は雪に埋もれており、各自は雪を掘って餌を探すしか無い。雪を掘る際の場所の奪い合いに破れたり、雪を掘る力が無かったりすれば、座して死を待つ他無い。カメラは無情にもしかし自然の摂理に抗う事無く積もりゆく雪に埋もれつつあるエゾシカと対峙し合う。雪解けの時期には彼等は冒頭に登場したような死骸となって地表に現れ、キタキツネやカラスの餌と化すのだ。

 其れにしても、全編を通して彼等の生への執着心をまざまざと見せつけられた一時間であった。出産直後の子鹿諸共カラスに襲われぬ様、陣痛から出産に至る迄の間、母鹿は一言も声を挙げぬ。又、其処で出産した痕跡を消す為に、草食獣でありながら己の後産を綺麗に食べ去ってしまう。冬場の餌探しでは、あの細い四肢からは想像もつかぬ位の力で深い雪を掘り返す。又、少しでも仲間に遅れをとろうものなら其の場から追放されてしまうし、弱ってしまい目前に死が迫ろうと誰一人構わぬ。

 偶に私はふと、如何に生きるべきか、何の為に生きているのか等と、生に思索を巡らせる時がある。其れとは別に、死の瞬間や死後の自分等、死に思索を巡らす時もある。而るに、死を避ける為の生、生に失敗した時の死などといった、生と死とのリンクについてはさほど思いを至らせた事は無い。言う迄も無く日常生活に於いて生と死とが常に隣り合っているという状況がまず存在しない為なのだが、一方で先述のエゾシカをはじめとする獣達、本人達が意識しているのかどうかは別にして生と死とが常に隣り合わせの状態で生きているのだ。恐らく私には真似しようとも真似出来ぬ。抑も真似しようという気すら起こらぬ。とはいえ左様な環境が全く己の身に訪れぬとも限らぬ。そう考えると私はエゾシカ達をはじめ野生生物に対して途轍も無い敗北感の様なものすら感じてしまったのだ。


2001/02/04

検尿カップ

 先日飲尿家の方から得た情報に拠れば、最近では検尿カップにお洒落なロゴの装飾がでかでかと施されているようである。「U-CUP」なる其のロゴ、"urine"から命名されたものと思われるのだが、しかし何の為に左様な装飾が為されているのか。

 一つに考えられるのが、誤飲防止である。即ち、通常の検尿カップは日常生活で用いられる紙コップと形状やサイズが何等変わるところが無い為、検査前の尿を清涼飲料やビール等と間違えて口を付けるケースが後を絶たなかったのであろう。しかしそれであれば容器に一言「尿」だとか「飲用には適していません」だとか「味覚には個人差があります」だとか記しておけば済む話であり、通常「U」という文字から直ちに「urine」を想起する程尿意識の高い人間であれば抑も其の液体を観れば其れが尿であること位容易に想像がつくものと思われるのだ。

 もう一つ考えられるのは、排泄物にお洒落感を演出する為の装飾であるという事である。「i-mode」、「e-mail」、「Jリーグ」、「X-ファイル」、「Gスポット」等のヒットに倣ったネーミングであり、既存概念に囚われないという自己主張を感じさせると共に、先進性や期待感や未知の快感を醸し出し、U-CUPを手にする者が誰しも心時めかして場合によっては思わず其の儘口に運んだりというケースも有り得よう。おや此では尿検査主催者が飲尿を推進するための施策という事になるまいか。

 処で私の職場にある飲料ヴェンダー、紙コップ状態で飲料が供されるのだが、其の紙コップ、従来は清涼飲料水のロゴが全面にでかでかと印刷されていたものが最近では「再利用を考え印刷をやめました」と、白いカップに小さく印刷されているに留まっており、「なんか検尿カップを手にしてる様で嫌じゃ」などと評判は頗る悪い。検尿カップのデザイン革命は、実は無地の紙コップを推進しつつあつヴェンダー業界から「無地の紙コップは検尿カップを連想させる。いっその事検尿カップ自体が既存イメージからの脱却を目指すべし」との要請に因るものなのかも知れぬ。


2001/02/03

下手糞な関西弁

 ドラマ等で役柄の都合上、本来関西弁を用いぬ文化圏の人間が関西弁で喋るケースが少なからず存在するのだが、此がまた決まって極めて下手糞なのである。日本の人口比を考えれば恐らく役者やスタッフの内最低1人位は関西弁を操る事が出来る人間が存在してもおかしくない。更にドラマによっては「方言指導」なるスタッフが専属で居るケースすら存在する。にも拘わらず下手糞な関西弁が後を絶たぬという事は、彼等は撮影現場等に於いて斯様に下手糞な関西弁を耳にして何も思わぬのだろうか、若しくは何も助言等をさせてもらえないのであろうか。私がちゃきちゃきの江戸っ子だった時代など、日常会話に於いて母国語の関西弁を用いて居た積もりであっても、他の関西人からは縦令後輩からであろうが「貴様の関西弁は関西弁の様で関西弁に非ず、即ち似非関西弁也」等と日々厳しい指導や叱咤を受けていたというのに。

 関西弁文化圏の人間が斯様な下手糞な関西弁を耳にしても不愉快以外の何物でも無いのだが、東京弁文化圏の人間は下手糞な東京弁を耳にしても何も思わぬのであろうか。尤も、東京発信の情報が全国に伝播する一方、地方発信の情報が東京に到達する機会が少ない事を鑑みれば、東京弁文化圏の人間が下手糞な東京弁を耳にする機会自体少ないのであろうが。

 さて、或るビールのTVCMに於いて、中山美穂が過剰演出気味の下手糞な関西弁を披瀝して居る。ストーリー上あの場面では下手糞な関西弁であればある程上手く嵌るのであろうが、個人的には不愉快が募るばかりのTVCMである。ひょっとしたら、日本人が外国人の真似をする際に「ワターシ、ニホーンゴ、ワカリーマセーン!」などと妙な節を付けて喋って嗤い者にするのと同様の感覚で、下手糞な関西弁を喋って嗤い者にしているのかも知れぬ。そうであると思えば益々許せぬ。


2001/02/02

検索エンジン・2001/01

 立派な月例行事に成長するに至った「エゾシカの嘶き」へのアクセス解析、新世紀の月初めという事もあってか検索語ランキングに大きな変動が生じたようである。

 ぶっちぎりの大差で2連勝を飾った「放尿」が遂に首位を明け渡す事となった。代わりに其の座を奪ったのは「ペログリ」。時代の最先端を走りつつも広く人口に膾炙することとなった此の言葉、「ペログリ 意味」だとか「東京ペログリ日記」だとかといったものを含めると、2位との差は更に開くこととなる。「エゾシカの嘶き」も時代の最先端を追求する方々からのアクセスが激増し、時事問題やトレンドを一手に背負う事による責任感を此迄以上に深く抱く次第。

 そして2位は「陰茎写真」。毎回「肛門写真」と激しいデッドヒートを繰り広げている此の単語、今回は肛門写真に大差を付けての2着であった。3位には先述の「放尿」に並び、「陰茎」「陰核」「花の応援団」等が続くが、此等とともに「エゾシカ」が顔を出しているのは嬉しいやら恥ずかしいやら。因みに暫く前迄はgooで「エゾシカ」を検索するとトップに「EZOSHIKA TOWN」が登場していたのだ。

 今回の特徴としては、検索単語の組み合わせの妙が目立っていた。「体育会系 全裸」左様な部活に加入を希望して居るのか。「強制 女装 露出 体験」観たいのか、やりたいのか。「クリトリス 包皮 包茎 写真」クリトリスでも包茎でもOKなのか。「写真 人体 尿道」尿道写真を観ても愉しいものなのであろうか。「妻 体で払う」借金の代償に妻の肉体を犠牲にする積もりなのか。「京都 風俗 掲示板」恋に疲れた女がひとり〜♪とでも続けて歌いたくなるでは無いか。「穴吹工務店 掲示板」何故トップに登場していたと思われる穴吹工務店のサイトを素直に訪れなかったのか。

 処で、3位に登場していた単語の一つにあった「sukaidaeving」。ローマ字と英語とごちゃごちゃやんけ。而も思いっ切り綴り間違うてるで。更に言えば間違うてるの1回や2回どころやあれへんがな。というか何で「エゾシカの嘶き」が其処で出てくるねん。


2001/02/01

技術革新の功罪

 椎名林檎の妊娠宣言に感化されたという訳でも無いのだが、彼女のDVDソフト「下剋上エクスタシー」を購入した。因みに私はDVD再生機を数日後に入手予定であり、現在保有している訳では無い。

 彼女のAV(此処ではオーディオ&ヴィジュアルの意)ソフトは「性的ヒーリング其の壱」「性的ヒーリング其の弐」に続き3本目となるのだが、此の二本は何れもヴィデオソフトであった。処がヴィデオソフトというもの、案外嵩張る事嵩張る事。数十分の為に単行本一冊分のスペースを採っていたのでは、シングルCD並の内容でヴィデオを一巻出すという昨今の傾向を鑑みれば、非常に空間が勿体なく思われるのだ。映像の質や音の質という点よりもソフトのコンパクト性にベネフィットを感じた為に再生機は極めて安価な物で良いと考え、先日発注することとなった次第。蛇足であるが其の再生機、本日付けで価格改定が為されて一万円も安くなったとの事。悔しさ此処に極まれり。

 さて此処でDVD保持者が誰しも思う疑問を私も感じる事となった。DVD再生機の価格低下に伴い、早晩私の様な理由で、ユーザー側もヴェンダー側もヴィデオからDVDへの転移を一層進める事になると思われるのだが、其の際に現在AV(此処ではアダルトヴィデオの意)と称されている商品、若しくはAV女優、AV男優、AV評論家等といった職業の名称はそれぞれどうなるのであろうか。現在の方式に則ればAVはADVDとなり、職業名称はADVD女優、ADVD男優、ADVD評論家などとなるのであろう。

 「姐ちゃんええ乳しとるやんけ」「ほれほれ何処がええのや恥ずかしがらんと言うてみい」等、エロティシズム溢れるオケージョンで用いられる「ええ」。唇を半開きにしつつ軽く歯を付けて粘膜の感触を味わいつつ発する「ヴイ」。此の二語を連ねた「AV」という語の持つエロティシズムは正にアルファベットのベストマッチ故にもたらされるものと言えよう。而るに此の二語を引き裂くかの様に邪魔をする二つの「D」。一体AとVとに何の恨みがあっての仕業か。

 技術革新により古来より育まれた文化が確実に衰退していく典型例と言えよう。


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