エゾシカの  2001/10/01〜2001/10/31

最新 前月 翌月 一覧 「EZOSHIKA TOWN」トップ ※明朝体推奨

2001/10/31

不況

 普段贔屓にしている宅配ピザ店がある。只でさえ近辺に飲食店やコンヴィニが存在せず、職場近辺の飲食店も早々に店を閉めてしまう(本筋とは関係無いのだが、職場に程近い飲食店街は「23時迄営業」を売り文句にしているにも拘わらず22時前辺りには余裕で「準備中」の札を掲げている。一時間も早いオーダーストップに唖然とすると共に殆ど誇大広告に近い売り文句に呆れ、名古屋の「常識」をまた一つ疑うに至る。バイキングや仏蘭西料理のコースなどなら兎も角一体ラーメン専門店で22時前から一時間も粘る輩がどれ程居ると言うのだ)為、深夜に帰宅して自炊する気力も無い、さりとて備蓄のカップ麺類を食するのでは物足りぬという時には宅配ピザが非常に重宝するのだ。就中此の宅配ピザ店は割引券を提供しており、頻繁に食する程安くは無いが通常の夕食より少し高い位でそこそこの質量のピザを味わう事が出来るのが魅力なのである。

 昨日の事、ピザを注文した処何時もの学生と思しきアルバイトより少し年齢が高めの配達人が現われ、代金の収受を行った後、私の背中に氷水を浴びせるかの如く衝撃的な言葉を発したのだ。「もう御存知かも知れませんが、当ピザ店は来月で閉店するのです」。全く予期せぬ言葉、其の内容、そして其れに伴う甚大な影響が私の声を荒げさせた。「何でですか!?」しかし答えは至極当然のものであった。「何せ不況ですから、うちも遂に…」。

 慰めの言葉や今迄のお礼を伝えようと思っていた処先方が先に口を開いた。「今迄沢山注文して下さって有難う御座います。うちの店で『××にお住まいのエゾシカさん』と言えば知らない者は居なかったんですよ。本当に有難う御座いました」。其の後は双方お礼のラリーが暫く続く事となった。

 ピザを食しながら「筑紫哲也NEWS23」を観ていた処、不況についての街頭インタヴューが為されており、丁度一人の青年ビジネスマンがこう答えていた。「不況と言いますが実際私の身の回りで不況の影響で困っているという人はいませんし…」。私は正に其の時、「不況の影響で困っている人」が身の回りに生じ、私自身間接的とはいえ「不況の影響で困っている人」となった直後であったのだ。


2001/10/30

続・サーヴィス

 当方が支払う代金の対価として本来の商品及び労役に加えサーヴィスの提供を受けた際には其れが喩え当然至極と考え得るものであろうが必ず其れに対して感謝の気持ちを何等かの形で相手方に伝える事にしている。先方の「ありがとうございました」という言葉に対して会釈をしたり此方も其れ相応の礼を述べたりという単純な行為から、代金の対価を遙かに上回ると思われるサーヴィスを受けた際などには後日先方に感謝の電話や書状を差し上げるケースも存在する。

 斯様なサーヴィスについて私は、「然るべきサーヴィスは自分が支払う代金に含まれており、斯様なサーヴィスを受けるのは当然の事」と考える一方で「先方は私に斯様なサーヴィスを提供するに値する人物だと判断しており、当方としては其の判断に応える意味で相応の対応をさせて頂く」とも考えている。従って2001/10/14で述べた様な、他の客とは明らかに異なる下劣な対応を受けた時には、代金が其れに見合わぬ事に加え、私自身が下劣な人間であると判断された事に対して強い憤懣を抱く事となるのだ。

 其れにしても此処暫くどうした事か、下劣な対応を受ける機会が余りに多いのだ。2001/10/14で述べた事例はもとより、クリーニング店に閉店時刻をわざわざ確認した上で、預けていた衣服を其の15分前に取りに行った処店舗が閉まっており、電話で店を開けて貰い衣服を受け取った処「有難迷惑」などと逆に罵られた挙げ句本店のホワイト急便に苦情を此でもかと思う位丁寧にメールで何度か伝えても梨の礫であったり、コンヴィニで暇をぶっこいていたレジの若娘に商品を持っていった処余程暇潰しを害された事に憤慨したのか思いっ切り溜息をつかれたり、タクシーを利用しようとするも決して近い場所でも無いのに「其処なら歩いて三分だよ」(実際には優に廿分は掛かる)と乗車拒否をされかけたりと、其の場で暴れようかと思う位の事例が次々に存在するのだ。

 私のサーヴィス観に基づけば、此等の事例は只単に「近頃のサーヴィスレヴェルは頗る低下している」と感じさせるだけでなく、「私自身が世間から下劣な人間と判断されている」とも思わせるものであり、憤懣を通り越して自信を失い深く落ち込み真剣に我が身を省みざるを得ないのである。


2001/10/29

歴史は繰り返す

 私が主に利用している証券会社のオンライン情報ではリアルタイムで株価を把握する事が可能なのだが、平日インターネットに張り付いて所謂デイトレーディングを嗜むどころか昼間に通常の株売買を行う暇なんぞもある訳も無し、左様な機能など無用の長物に過ぎぬ。そう思っていたのだが先日偶々職場にてリアルタイムで株価を把握する必要に迫られ、業務の一環として初めて此の機能を試す事となった。

 初めて目にする画面には予め私の持ち株の銘柄情報が並んでいるのだが、何とまあ、画面を表示した矢先、私の持ち株銘柄がどんどん売られて値を下げていくのだ。もう勢いは止まる処を知らず、ストップ安は時間の問題かと思われる位各銘柄が恐ろしい位の暴落振りを示す。此が例えば国際情勢や政局の変化に伴う全面安となるのであれば判らなくも無い。而るに他の有名企業の株価を表示させてみると此がまあ盛況に買われ順調に値を上げているのだ。

 職場であるが故わくわく感を表に出さずに初めての機能を試してみた処、予期せぬ悲惨な光景が待っていたとは。そういえば日本初の米国からの衛星中継が行われた当日、画面に映し出されたのはケネディ大統領の暗殺であったでは無いか。「歴史は繰り返す」とは良く言ったものである。


2001/10/28

ヤブイヌの囁き

 普段「エゾシカの嘶き」を一作したためるのに優に小一時間掛かる位苦吟する私ですら、ひょんな処から着想が生まれるもので、先月「しまなみ海道」を自転車で走った後、乗り捨て場から最寄駅迄歩く間に、「EZOSHIKA TOWN」新コーナー設立を企画していたのだ。

 元々の問題意識は、「エゾシカの嘶き」の作品上の日付と執筆公開日との乖離が常態化しており、而も其の乖離が一ヶ月にも及んでいる為、折角良質のネタがあっても其れが一ヶ月もの間私の脳裏に隠され腐乱してしまい、いざネタを料理し作品をしたためようと思っても優れた作品が生まれぬという処に存する。其処で、良質のネタは其の時点で未成熟な形乍らも一旦料理(新鮮なネタが生食に耐え得るように、ネタに手を加えぬ儘の提供も有り得よう)し、一月後の「エゾシカの嘶き」上での公開を待つ迄の間、前菜として賞味して頂きたいとの気持ちから、賞味の場として別コーナーを設置する事とした。此に伴い、読者は出来立ての料理を賞味する事が出来ると共に、一ヶ月後に訪れる「エゾシカの嘶き」上での公開に向け期待感を醸成して頂ける事で、私の遅筆の咎を贖う一助となるのでは無かろうか。

 そして肝心な規則として、此の場は隠しページにて開設せねばならぬ。「エゾシカの嘶き」と肩を並べる扱いであれば「エゾシカの嘶き」の存在意義及び遅筆の影響を一生懸命払拭する意義が失われるのだ。更にいやらしい工夫として、文字色と背景色とを同化させて単にアクセスしただけでは全く文字が読めぬ等も面白かろう。

 歩きながらコーナー名をあれこれ思案する。「エゾシカの嘶き」を容易に想起させつつ亜流さをアピールする名称。亜流に相応しい動物としては真っ先にヤブイヌが想起されよう。「ヤブイヌの嘯き」「ヤブイヌの雄叫び」「ヤブイヌの呟き」等が候補に挙がるも最終的には其の鳴き声の甘美さと「裏でこそっと」という其のコーナーの性質から「ヤブイヌの囁き」に決定した。私の広告代理店に於けるネーミング提案経験が最も役に立った一瞬と言えよう。

 そんな訳で一月余り前に「ヤブイヌの囁き」が正に囁きの如く静かに登場した。何処からのリンクも為されていないばかりか、「EZOSHIKA TOWN」とは別サーヴァーにて運営するという手の込んだ隠し振り。其れにしても一体誰が斯様なページを目聡く見付けられようか。当然の如く他者からのアクセスの気配無く、「EZOSHIKA TOWN」のトップページに隠しリンクを設置するに至った次第。


2001/10/27

牡蠣の悲喜劇

 2001/03/14で触れた牡蠣サイトの牡蠣を二週間振りに味わう事となった。つい先日殻付牡蠣の出荷が始まったという事で、昨シーズンに初めて此方の牡蠣と接した時と同じ方法で食する事により、当時を思い起こしつつ熟した牡蠣と若牡蠣との味比べを行おうと考えた次第。無論生食用に剥身も忘れずに注文。

 今回も牡蠣サイト管理人の方から調理時間について事前に丁寧なレクチャーを頂き、感謝の念を抱くと共に、牡蠣なる食物が同じ料理でも其の時季に応じた調理方法が存在するという、正に其の時々の「旬」を持つという点に多大な関心が向かい、期待感も一層煽られたのだ。

 そして前回(2001/10/13参照)同様早朝に牡蠣を受け取る事が出来、早速我慢出来ずに殻付きを数個電子レンジに放り込む。待つ事暫し、電子レンジの扉を開けば其処は牡蠣香の独壇場。早速口に放り込む。熟した牡蠣の味香が円やかだったのに対し、若牡蠣の味香は直接的、鋭角的に感じられた。此は人間と同じでは無いか(言う迄も無いが人間の味香の話では無く性格の話である)。

 実は此の時は未だ完全に目も醒め遣らぬ状態であった為、暫し仮眠を取ってから再度口にしようと思っていたのだが、此の第一陣の味香が「さあもっと食え」と言わんばかりに直接的であった為、身体は私を裏切り更に数個の殻付きを電子レンジに運んでいたのであった。

 昼食では生牡蠣も味わおう、其の前にスーパーに行って其れなりの調味料を揃えておこう、などと考えつつ仮眠した積もりだったにも拘わらず、目覚めた時には既に申の刻を過ぎていた。昼食も買い物も、おまけに競馬中継も楽しめなかった悲しみに打ち拉がれつつ薄暗い中スーパーに足を運び、ポン酢や浅葱を購入して帰宅した。

 悲劇は寝過ごしに留まらなかった。さあ夕食の下拵えをしようとポン酢の瓶を持った処誤って落としてしまい、瓶が割れ内容物が全て飛散したのだ。此は生牡蠣を食するのを止めようとする誰かの何等かの意思が何処かで働いたのでは無いかと思い、今回は生食を諦める事としてコンヴィニに足を向け、新たな食材を買い込んで来た。

 新たな目的は牡蠣グラタン。此処暫くパスタやピザに現を抜かした食生活を送っている私にとって最も自然と思われる調理法を選択する事とした。牡蠣の味を活かす為、市販のシチュー粉を溶く際に牛乳の代わりに豆乳を用いたりブイヨンの代わりに鰹節を用いるなどであっさり目にクリームソースを造り、ブロック野菜と牡蠣とを混ぜ合わせ、最後にチーズとパン粉をかけてオーブントースターにて焼き込む。

 パン粉が真っ黒に焦げていたものの一払いすれば狐色の部分が現われほっとした。口に運んで判明。牡蠣が此程迄にチーズやクリームソースと相性が良いとは今迄気付かなかった。美味しい牡蠣しか持ち得ぬ甘さや辛さが、チーズやクリームソースの持つ其れ等と方向的に一致している事が其の要因では無かろうか。

 今回の経験に因り牡蠣の愉しみ方が一気に広がると共に、今回味わった度々の悲劇を超える喜びを味わえた次第。


2001/10/26

やぶいぬマンガ

 普段訪れているサイトの一つに於いては、来訪の際に所謂メモリアルナンバーを獲得すれば、好きなキャラクターの動物で漫画に登場し、其処でヤブイヌ達と共演出来るという此の上無い特典が付与される。別に其の特典に惹かれてアクセスしている訳では無いのだが、矢張り屡々来訪するサイトなだけに機会が有れば是非其の恩恵に与りたいものである。

 惜しかった経験は幾度か存在する。最も惜しかったのは、メモリアルナンバーを僅かに八上回った時であり、此の時ばかりは布団の裾を噛む位に悔しがったものである。そうこうしながら早一年半、偶々先日アクセスした処メモリアルナンバー迄後十余りだった為、暫く経って覗いた処、幸運にも70000という素敵な番号を獲得する事が出来たのだ(蛇足であるが其のサイトのプロヴァイダのカウンターはリロードでは更新されぬ為、意図的に番号を獲得する事は不可能と言って良い)。

 其の時私は興奮の余り動悸が激しくなるわ呼吸が乱れるわ頭がふらつくわで大変な状態であり、そんな中通常ではさほどの作業でも無い画面の保存やサイト管理人へのメールに粗相無き様多大な神経を遣い、やっとの事で申請を済ませる事が出来た次第。

 温めの風呂に暫く浸かり何とか気を鎮めた後、どの様なキャラクター設定をお願いするか考えてみる。動物は勿論エゾシカを希望するのだが、此に名前を付けねばならぬ。「エゾシカのエゾシカさん」だったら訳が判らぬ。いっその事名前を本名にしようかとも思えどプライヴァシー開示に関して其処迄の踏ん切りも付かぬ。結局私が好きだった競走馬から名前の一部を頂き「カバリー」と命名した次第。

 此だけではキャラクターの一部に過ぎぬ。其の漫画では数駒乍ら主人公の動物のキャラクターを活かしたストーリー、時には笑いのツボを突いた「下げ」迄採り入れている為、漫画が創りやすい様或る程度の人格設定を行った方が良かろうと思い、取り敢えずは旅好きという点を其のサイトの管理人の方に申し上げた。

 一週間も経たず、本日の出勤前に「漫画が完成した」とのメールを頂いたのだが流石に拝見する時間が無かった為帰宅後真っ先に其のサイトにアクセスしてみた処、其処には立派に「エゾシカのカバリーさん」が登場していたのだ。而も内容が良い。只単に面白いだけでは無い。「エゾシカの嘶き」を熟読玩味して頂き、其れを元に何とも漫画の設定に合ったキャラクターを設定して頂いていたのだ。漫画にして頂いた感動だけで無く、漫画に相応しいキャラクター設定の為、わざわざ「エゾシカの嘶き」を過去に遡り丁寧に読んで頂いた事が嬉しくて堪らなかったのだ。


2001/10/25

コンヴィニ弁当

 先日の事、普段訪れているサイトに於いて、私が何時か作品化しようと暖めておいたネタが偶然用いられていた事に内心悔しがりつつ、最近同様の問題意識が強まりつつあった為に敢えて此の際私も作品化する事とする。

 此処暫く昼食の際にコンヴィニ弁当を食する機会が多いのだが、正直な処何時も食する際に或る種の蟠りを抱いて居り、更に其の蟠りは十年以上私の中に存在した儘一向に拭われぬばかりか増幅する一途を辿っているのだ。

 先ず一点、パッケージ内に温めるべき物と温めるべきで無い物とが混在している状況に戸惑いを感じる。一体何処の世界にサラダや漬け物やタルタルソースを一々加熱する輩が存在するのだ。自宅に持ち帰り弁当の内容物を別容器に移し替えて温める位の時間があるのであれば兎も角(左様な時間があれば最初からコンヴィニ弁当など購入せぬ)少なくとも店頭の電子レンジで弁当を加熱するというシステムが或る程度定着している現状の下、現在のコンヴィニ弁当に於いて必ず生じる問題であろう。例えばサラダや漬け物の部分を購入時に簡単に取り外したりは出来ぬものか。

 次に、ハンバーグソースやグラタン等の脂系汁物を温める際、蓋と容器との接合面に汁が漏れ溜まっており、蓋を開ける際に必ず手が汚れる。酷い時には手が汚れるだけで無く汁が弾ける時すら存在する。容器に改善の余地は無いのであろうか。

 更に言えば、所定時間の加熱を施した積もりが内容物だけで無く容器にも多大な影響が及び、一部が溶けている物が存在する。而もこういう弁当に限って、冷えても食する事の出来る食品では無く、グラタンやパスタ等の様に加熱せねば到底口に入れる気のせぬ食品である場合が多い。どないせえっちゅうねん。

 昔観たテレヴィ番組に於いて、或るコンヴィニ企業が、消費者の視点で味を確かめるという趣旨で、役員会議等の席上で自社で発売している弁当を食する光景が紹介されていた。本当に彼等が消費者と同様の行動をとって食しているので有れば、蓋を開ける時点で手をソースで汚し、しなしなになった生温かい生野菜を口にしては不味さにおののき、会議の席上で「此ではいかん、早急に対策を講じるべき」と口角泡飛ばして対策を議論しては会議終了後に急いで具体的対策に取り組んでいる筈。想像するに実際の処、会議の席上に至る迄の間、部下達が丁寧に温めるべき食材と冷やすべき食材とを事前に分類して食材に応じた適切な温度にし、蓋を開けても汁が飛散せぬ様丁寧に容器から漏れ溜まった汁を拭い、会議の席上に供しているのであろう。それどころか彼等は私生活に於いてもコンヴィニ弁当を購入して食する機会など存在しないのであろう(だからこそわざわざ会議の席上で食するのであろうが)。勝手な推測に基づくものではあるが、斯様な人々がさも消費者の視点を持ったかの振りをして商品開発を論じている内は、私の蟠りも決して拭われず増幅していくのであろう。


2001/10/24

詰問

 今朝の事、先日私の職場に配属された後輩が正に私を詰問しようとせんばかりの表情で私の元に来た。名前を呼ばれ彼と目を合わせた時に只ならぬ雰囲気を感じ取った私は、一体何を詰問されるのかと些か恐怖の面持ちで彼の次なる言葉を待っていた。

 どうやら昨日彼が仕事の関係で或る看護婦と話していた処、共通の知人として看護婦の口から私の名前が出てきて驚いたとの事。「貴様は忙しそうにしながら看護婦との合コンに現を抜かすとは何事ぞ。私は貴様を見損なった」なる趣旨の捨て台詞を後輩から浴びせられ仰天。名古屋という土地及び人間関係の範囲が如何に狭いかを身を以て体感する事となった。

 其れにしても此の後輩の発言、真に合コンを悪なる存在と決めつけ其れに現を抜かした(実際には単に知人の誘いに乗じただけなのだが)私を批判しているとは思い難く、屹度「次は俺を誘え」と暗に主張しているのであろう。しかし残念な事に、当の看護婦、一体どの合コンで知り合った誰なのかが未だに全く想起されぬ為、直接は勿論の事人伝による彼女との接触が能わぬ。流石に「貴様は合コンで知り合った人間を一々覚えられぬ位数多くの合コンをこなしているのか。私は貴様を見損なった」との謗りを受けぬ様、後輩に其の事実は伝えて居ない。


2001/10/23

大河ドラマ

 今期のNHK大河ドラマは視聴率が頗る低調との事である。昨今の大河ドラマの傾向として、現代人の一般常識の範疇で愉しむ事が出来る時代背景か否かで視聴者の食い付きが大きく左右される様であり、其れを考えると日本史の教科書に於いては二度の元寇以外特に採り上げられる機会も無く人生訓として人口に膾炙するネタも殆ど無い鎌倉時代中期にスポットを当てた以上食い付きの悪さは或る程度覚悟せねばならぬ事であろう。後は其の時代が実際に魅力有るものなのかだらだらと時が流れて行くのかで、其の後の視聴者の定着及び獲得が予想されよう。

 其れはさておき嘗て大河ドラマを観る習慣など無かった私が、最近になって裏番組の「どうぶつ奇想天外!」には目も呉れずに毎週の様に大河ドラマを観ているのだ。元々視聴率が低調なる話を耳にしてどれ程魅力が無いのかを確認する為に観た処、其れなりの魅力を感じた次第。

 確かに地味な物語ではある。クライマックスとなるべき事件は日本が他国に侵攻されるという非常に稀有な出来事であるにも拘わらず、一般的には年号と事件名と戦闘の相手方と「神風」なる言葉位しか認識されて居らず、主人公は鎌倉時代に於いて恐らく五本の指に入る位の有名人であるにも拘わらず、一般的には精々「元寇の時の執権」としか認識されていない。いわば今回の大河ドラマのテーマは日本史に於けるヤブイヌ的存在と言えよう。

 そんな中で私が魅力を感じているのはストーリーが上手に描かれているとかそういったものではなく、本来の歴史と突き合わせて多大な切なさを味わう点なのである。主要登場人物達の様々な対立と其れがもたらす孤独を目にするに連れ、彼等が皆史実上哀しい結末が訪れる事に全く気付かず其の時代を生きているのが切なく感じられるのだ。

 本来歴史を振り返り何等かの作品に仕上げるには、勝者と敗者とを明確にし、勝者を主人公として其の栄華振りを描く事になろう。処が今回の時代、一体誰が勝者たり得よう。或いは立場を強め栄華を謳歌した者が存在するのか。兄を追討し他国を撃退するなど一見勝者たる資格を有するかの様に見える主人公ですら、此等により何等得るもの無く早世した。主人公の家臣の中での勢力争いも、霜月騒動で執権を味方に付け一旦勝負付けが済んだかに思われた処、勝者であった筈の者が今度は執権に討伐された後、執権一族は勢力を拡大する事無く滅亡の一途を辿る。其の中で斯様な史実など知る由も無く己の勝利を信じて皆生きていく哀れさは、此の時代をおいて他にそうそう有るまい。尤も此が一般受けせぬ最大の要因とも言えるのだが。


2001/10/22

ヤブイヌ変奏曲

 「ヤブイヌ」なる語を日常生活に於いて頻繁に用いていると流石に時として若干の飽きを感じる為、偶には異なる表記を行ってみる。

 ヤヴヰヌ。そこはかと無く露西亜文化の香りが漂う。ヤヴヰヌ・ドストヱフスキイだとかヤヴヰヌ・ヰワノヴィッチだとか、文学に絵画に優れた作品を遺していそうな格調有る名前では無いか。

 破犬。逆立ち放尿や逆走や水掻き付きの手足や甘美な鳴き声など、様々な常識を打破する犬という意味では正に此の表現こそヤブイヌに相応しいのでは無かろうか。

 夜武威怒。特定の漢字以外の言語能力が著しく欠けた珍走団の奴等(因みに此奴等には言語能力のみならず凡そ社会適応能力だの自立能力だの須く欠落しているのだが一々挙げて居ればきりが無い為此処では触れぬ)が好みそうな名前であり、高架下にスプレーで殴り書きされている様子が窺えよう。此奴等には「野不異奴」なる呼称を付与する事としたい。

 夜撫慰濡。女性が夜の床で一人肉体を火照らせヤブイヌに犯される様を想像しながら身を捩らせつつ自慰に耽っては愛液をじわじわと湧き出している光景が誰しも容易に想起される位エロティックな表記である。

 此処迄想像してそろそろ飽きてきた。矢張りヤブイヌはヤブイヌで良かろう。


2001/10/21

門司とレトロ

 先日訪れた門司(福岡県)は、駅舎や銀行等の旧い建物が並んでいる事からであろう、「門司レトロ」との惹句が街全体に溢れていたのだが、実際に街の様子を観て私は何かしら居心地の悪さを感じる事となったのだ。

 確かに所々に存在する旧い洋館等、個々の建物自体は其の建造美を誇るだけで無く街の機能として人々が足を踏み入れたりする事によって精気に充ちていた様に思え、非常に理想的な風景のパーツと化していたのだが、此等と混在して如何にも中途半端に現代的なホテル、無機質な跳ね橋、東京のウォーターフロントを意識したかの様な運河脇のショッピングモール、アダムスキー型UFOを意識したかの如き前近代的な遊覧船が混在して居るのだ。そして極めつけに、一体此の街の主張するレトロとは何ぞやと其の存在の根元を疑わずには居れぬ地上100米を超す黒川紀章設計の未来的デザインのマンション「レトロハイマート」が街のシンボルとしてレトロ街に高く聳えるのだ。

 此の街の目指す処は単なるレトロでは無く「レトロと現代との融合」なのであろうか。仮に私が今此の街の自治体の長になれば左様な詭弁を用いるであろうが、此の様は決して融合では無く混合である。赤身と脂身に喩えて言えば前者が霜降り肉、後者が牛丼の具といった処か。

 素敵な建物が点在する一方で、街の彼方此方でカメラを構えようが必ず「嗚呼あの建造物が無ければなぁ」と思わざるを得ない無念さ。此の無念さが払拭され四方八方から真のレトロを感じ得たのは、観光地区から外れた商店街を歩き、一昔前の店造りのアーケード街が生活感溢れる地元民で賑わっている様子を体感した時であった。


2001/10/20

缶飲料のトレンド

 考えてみれば缶飲料程個々人の嗜好や飲用時の気分や体調等により選好される幅の広い商品はそうそう無いような気がするのだが、不思議な事に一定のブームが業界全体を周期的に襲い、猫も杓子も挙ってブームに乗った飲料を選好しようとする傾向にあると言えよう。此処暫くを振り返っても、お茶ブーム、スポーツ飲料ブーム、無糖・微糖珈琲ブーム、紅茶ブーム、天然水ブーム…何れも各社から雨後の筍の様に続々と新商品が登場しては、次のブームの頃には多くのブランドが消え去ってしまうのである。

 さて十年程前に、桃飲料ブームが訪れた事があった。どちらかと言えばソフトドリンクでは無くアルコール系缶飲料の世界にブームが訪れ、酒が飲めぬ私ですらブームに便乗して桃リキュールを購入する(1999/08/08参照)位、桃が遍く世間を賑わせていた。そして其の後にはバナナブームが訪れ、矢張りアルコール系缶飲料を中心にバナナブームが訪れたのだ。更に此の時ソフトドリンク界に於いても此亦歴史に残る一大ムーヴメントが沸き起こり、カルピスウォーターが爆発的な売れ行きを示し、本来カルピスの独擅場だった市場に於いても各社から登場したバッタモンが大いに賑わっていた。

 トレンドを予測し日本経済新聞を始めとするマスコミを動かしては世間に警鐘を鳴らすという、現在「エゾシカの嘶き」上で行っている様な事に当時より関心があったのであろうか、若かりし頃の私は此等のトレンドを分析し、次なるトレンドを予測していた。即ち、「桃」「バナナ」「カルピス」何れもそれぞれ「尻」「陰茎」「精液」といった性的暗示を含む代表的な比喩表現であり、人間の三大欲の内、食欲と性欲との密接な関連に裏付けられた非常に理に適ったブームであると結論付け、次なるブームは「乳」であると予測しては街の自動販売機やコンヴィニに牛乳系の缶飲料が所狭しと並び市場を席捲する様子を脳裏に浮かべていたのだ。処が予想に反して缶飲料に於ける乳ブームは訪れる事が無く、何処をどう間違えたのか、エロヴィデオに於いて妊娠或いは出産した女優が性交時に母乳を噴出させるという「母乳ヴィデオ」なる分野が一大市場として確立したのであった。

 今になって振り返れば、私の予測には致命的な欠陥があった。尻にせよ陰茎にせよ精液にせよ、其れ自体が性的な存在である一方、母乳については其れの出所は性的であるものの其れ自体は決して性的な存在とは言えないのだ。若さ故の未熟さがもたらした過ちであったと、今になって省みる次第。


2001/10/19

恋しい存在

 恋しい存在と距離を置く事により人は其の恋しさが益々募るものの或る頂点を越えれば其の恋しさは時と共に失せていくものだと思っていたのだがどうも一概にそうとも言えぬ事に気付いた。

 関西地方を離れて何年が経とうか。中京地区で暫し過ごした後、ちゃきちゃきの江戸っ子に成った処、暫くの間は食事すら喉を通らぬ位其の文化の相違に戸惑っていたのだが次第に其の文化にも慣れた積もりであり、其の後中京地方に寓居を移し今に至る。にも拘わらず今頃になって無性にたこ焼きだの関西饂飩出汁だの、幼少の頃より頻繁に口にしていた食文化が恋しくて堪らず勢い余って己から其れを切望し希求するに至って居るのだ。

 ちゃきちゃきの江戸っ子時代にも関西風たこ焼きを求め口にしたりはした(1999/10/15参照)のだが、それとてさほど積極的に熱望した訳では無い。而るに最近では其の味が恋しくて堪らなくなり、昼食の際に近くの関西風たこ焼きを購入しては職場で食する機会すら存在する。そして先日には、日清どん兵衛を口にしようとした処、カップの蓋の裏に、滋賀県以西に於いては同一パッケージにて関西風の出汁を提供している旨説明があるのを目にして、今度滋賀県以西に足を運ぶ機会があればしこたまどん兵衛を大量購入すべしと意を決したのだ。

 其の時固く心に誓ったにも拘わらず、先日の福岡旅行に於いて購入し忘れた次第。


2001/10/18

二○加煎餅

 思えば幼少の頃には怖い物が数多存在した。2000/03/03で触れた、そごうだの関西テレビだの大阪市だののマークもそうであるし、何を隠そう今でこそ何とか人並み程度には動物に接する事の出来る私が、大小様々な動物を頗る怖れており犬に吠えられただけで「噛まれる〜」と言っては涙ぐんでいたのだ。

 さて怖れていたものの一つに「二○加煎餅」があった。名称を見てピンと来る人はそうそう居まいが実物を見れば大抵の人が記憶を呼び起こす事が出来るのでは無かろうか。福岡の菓子土産としては「ひよこ」(話は逸れるが私が数年前に江戸っ子としてデビューした際東京駅構内にて此が「東京銘菓ひよこ」と銘打たれて販売されているのを見て、ひよこは福岡銘菓と思い込んでいた常識が覆され多大なショックを受けたのであった。結局同一の製造元と判明したのは此の作品をしたためる為に資料収集をしていた過程の事である)に次ぐ地位を占めていると思しき、横長長方形の煎餅に垂れ目垂れ眉が描かれたものである。

 実家に此の煎餅が置いてあるのを見て、上半分しかない不完全な顔、それで居ながらやたらリアルな目眉、そして何時でも飽きる事無く私の方をやや上目遣いに眺めている眼が堪らない恐怖を私に植え付けたのだ。そして其の煎餅は恐らく煎餅としては不幸な事に私の口に入る事無く、兄妹喧嘩の一環として相手を吃驚させる為に眼前に翳すという目的でのみ使用されたのだ(屹度最終的には家族の誰かが口にしたのであろうが)。

 其の時の罪滅ぼしの一助とすべく、先日の福岡旅行に於いて聢と購入した次第。


2001/10/17

人生の選択

 職場に居て今一つ気分が優れなかった為以前から参加を表明していた合コンを急遽断り帰宅した処知らぬ間に眠りに落ち夢を見ていたのだが此が亦何時もとは比べ物にならぬ位鮮明なものであった。

 どういう訳か私は寓居脇の名古屋鉄道を利用していた。始発の新名古屋駅(実際には新名古屋駅始発の列車など無いのでは無いか)から電車に乗っていた処、発車直後に直ぐに停車したり、ドアを閉めないまま暫く走ったりと、運転士の様子がおかしい事に気付いた。其の不安は、列車が本来の線路を外れて突然別の支線に入っていった時に頂点に達し、其の直後、運転士が死んでいる事が判明したのだ。其れでも列車は進む内、今度は乗客が先頭から次々と惨殺死体の状態と化し、終点に着く頃には生存者は私だけとなっていたのだ。因みに皆の死因は全く判らぬ儘である。

 終点の車内では警察の現場検証が始まるも、布団の間から浴槽から本棚から車内の至る所で死体が次々と発見されていき(夢だから一々気にすればきりが無いのだが、何故列車に布団だの浴槽だの本棚だのが存在するのだ。而も本棚は収められている書物からして明らかに私の寓居の物では無いか)、唯一生き残った私は其の車内で一夜を過ごすよう警察から命じられたのだ。死体の山に囲まれた車内で落ち着かぬ儘床に就いた処怪しげな女性二人(因みに此処等辺で、テレヴィにPUFFYが登場していた模様)が登場し、「人間はいつか死ぬものなのよ、恐がらずに笑い飛ばす位明るくなりなさい」と私に説教して去っていき、気付けばそれぞれの死体が生き返って皆眠って居たのだ。

 本筋のストーリーが気色悪いのに加え、途中でモルモット大のクワガタに手を噛まれたりなどというシーンも有り、久方振りに寝覚めの悪い思いを味わうに至った。無理を押して合コンに参加して居れば斯様な目に遭う事も無かったであろうに。人生の選択を大いに誤ったと感じ入った次第。


2001/10/16

生きていくのに必要な事

 「学校では生きていくのに必要な事を何一つ教えてくれない」と主張する向きが、分別付いた餓鬼共の中に存在するのだが、其の度に無性に彼等に問いたくなる。「其れでは貴方は学校以外の場所で生きていくのに必要な事を学んでいる(若しくは学ぶ積もりがある)のか」。

 別に私は学校なるものの価値を無条件に受け容れる訳では無いばかりか寧ろ己の中学高校生活を通じ学校の存在を頗る批判的に捉えている。マスメディア(新聞を除く)を含め他の文化とは隔絶された寮生活という其処でしか通用せぬ生き方や文化は僅かながら身に付いたかも知れぬが凡そ「生きていくのに必要な事」を学んだとは思えぬ。だからこそ受験勉強の傍ら危機感を抱き、せめて(此の学校に於いて「合法的」な文化吸収手段である)書物から何かを得ようと取り憑かれたかの様に読書に狂い、卒業後も己に「生きていくのに必要な事」が足りぬ事を認識しつつ自分なりに吸収し、未だ人並みを越えるに至らずとも、せめて生きていくのに最低限必要な事位は弁えつつ短い乍らも此処迄生きてきた積もりである。

 必ずしも皆が皆とは言う訳では無いのだが、只単に「学校よりも他の遊びの方が楽しい」「授業が鬱陶しい」「先生が嫌い」「校則が厳しい」などといった理由の隠れ蓑として冒頭の主張が声高に為され、而も此等を避ける事のみを目的として肝心の大義名分たる「生きていくのに必要な事」を他の場で何一つ学ぼうとせずに害毒として世に蔓延る輩共を目にするにつけ、其の卑怯さ、狡さが他人事乍ら、彼等と否が応でも同じ空気を吸わねばならぬ者として恥ずかしくて恥ずかしくて堪らぬ。


2001/10/15

やりうどん

 先日博多にて、立食い饂飩屋の店頭に「やりうどん」なる看板が設置されているのが目に入った。此が店名を表すのか「きつねうどん」「カレーうどん」等といった様に饂飩の種類を表すのか店内に足を踏み入れなかった為判らぬのだが、何れにせよ其の名前は私に大多数の人間同様「やりちん」「やりまん」と同種の感覚を想起させるのに充分であった。

 性欲旺盛な男性饂飩が女性に迫る。「さあ早く俺を咥えて呉れ」「どや俺の腰の強さは」「俺の汁を一滴残らず味わわせてやる」。或いは淫乱に身悶えする女性饂飩が男性に迫る。「私の白い肌をもうめちゃめちゃにして」「ほら私もうこんなにお汁が湧いてるの」「どう?蚯蚓千匹より気持ち良いでしょ?」。

 最近年齢の衰えと共に柔軟な発想力、想像力の衰えが懸念されていたのだが、風邪で衰弱した状態に於いても此の程度の発想力、想像力が発揮される事が確認出来、何かしらほっとした次第。


2001/10/14

サーヴィス

 先日柳川を訪れた時の事(2001/10/07参照)、川下りの後に船着場近くの飲食店に入り席に着いたのだがなかなか注文伺いが来ない。暫くしてバイトと思しき若い女性が近くの卓に片付けに来たのだが私には全く気付かぬ様子であり、片付けの最中という事もあり私からは声を掛けぬ儘にしておいた。程無くもう一人バイトらしき若い女性がやって来たので注文伺いだろうと思っていたら何と片付け中の女性と合流し、業務とは到底関係の無い話で嬌声を挙げ談笑しているでは無いか。私より後に入店した集団に別の注文伺いが来たのを目にして自分が無視された事を怒りつつ、談笑中の女性を呼び付けやっと注文に至った。

 待つ事暫し、元々料理に時間が掛かる事は予想していたのだが、他の客には茶やお絞りが宛われている一方私の卓には何れも来る気配が無い。先程の嬌声女性が近くに来た為茶を所望すれど茶を持参しなかった事を詫びるどころか返事一つせずに奥に戻る。客に言われて持参する事を恥と思えよ而も不備を指摘されれば一言詫びるのが当然であろうがと思って居た処案外すんなりと彼女が戻ってきたのだが、彼女が持って来たのは茶だけであった。通常、茶が置かれていない不備を指摘されたら、言われる迄も無くお絞りが置かれていない事についても気付く筈であろう。一体何を考えているのだ。

 更に彼女が茶を卓に置いたのを見て私は言葉を失った。恰も嫌な上司に対してOLが嫌がらせをするかの如く、湯呑みが茶托の上で傾いており、茶の一部が茶托に零れた状態であったのだ。斯様な状態の茶を無言で卓に置かれる程の事を私が何時彼女にしたと言うのだ。

 結局お絞りが来ない儘料理が出て来たのを見て、私の怒りは心頭に発し、料理を持参した中年女性に対し、此の店では料理が来る前に一々茶だのお絞りだの客から所望しないと出さぬのかと怒鳴る事となった。先程の馬鹿娘或いは此に負けず劣らずぞんざいな対応をする人間が登場しようものなら茶をぶっ掛けて店を出る積もりだったのだが其の中年女性の対応が非常に丁寧であった為、食事を無事口にする事が出来た次第。

 さて私が怒鳴った後、近くのテーブルに居た訳知り顔の老夫婦が「店だって忙しいんだから…」と囁いていた事が私の怒りを増幅させた。客を放ったらかして談笑に興じるのが「忙しい」状態なのか。忙しい状態だと注文を取ったり茶やお絞りを持ってきたり挙げ句の果てに茶を零したりしても詫びの一つすら出来ぬのか。大いに詫びるべき処で詫びの一つすら出来ぬ輩に詫びを要求するのがいけない事なのか。

 大体私は別段急いでいた訳では無いし、料理の前に茶が飲みたかった訳でも無ければ食事の前に手を拭いたかった訳でも無い。只単に、同じ金を支払いながら合理的な理由無く明らかに他の客と異なる扱いを受けている事を怒り、其れを是正する様其の都度要求していただけである。斯様な事など役務の対価として金銭を受け取る以上はサーヴィスの基本中の基本、サーヴィスの原点として常に認識しておくべき事では無いか。

 サーヴィスを提供する店側(馬鹿娘個人の問題とも言えようが馬鹿娘に然るべき教育すら施さずに雇う店も同罪である)に加え「忙しいから」という理由で此を正当化しようとする客を目にして救いようの無い気分に浸り、もう二度と訪れる事の無い店を後にした次第。


2001/10/13

若牡蠣

 2001/03/14で触れた牡蠣サイトの牡蠣を、今シーズンを迎えて早々に賞味する事とした。前回はシーズン終盤という事もあり完熟の殻付牡蠣だったのだが、今回は開幕早々という事で、若牡蠣を剥身で味わう事となった。

 牡蠣サイト管理人の方に注文を申し込んだ処、牡蠣の成育状況について丁寧なレクチャーを頂き否が応でも事前の期待感が高まる。あれこれ調理法を考えては口中に広がる味香りを想像しつつ配達予定日を待っていた処、配達予定日の早朝いきなりに牡蠣が到着。普段の休日は午前中に覚醒する事すら稀な私が辰の刻にしっかり目覚めて居たのは牡蠣への期待感の表れか。

 袋にぎっしりと詰まった牡蠣の一部を即生食する事に。一掴みの牡蠣を氷水で洗い、何も付けずに其の儘一つずつ口中へ運べば新鮮な証であろう、貝柱がサクサクといった感じで歯に当たる。前回同様苦みやえぐみは微塵も感じられず、牡蠣を嚥下した後口中にはどういう訳か懐かしの玉子ボーロの風味が広がるのだ。其の蛋白質の美味こそ正に「海のミルク」と呼ばれる所以であろう。

 そして今回のメインイヴェント、牡蠣飯。前回賞味し其の円やかさに意外感すら感じて居た牡蠣の出汁を余す処無く純粋に味わう方法として此の手段を選んだ次第。此の為だけに普段滅多に購入せぬ新潟産コシヒカリの新米に天然水を予め準備し、牡蠣以外には一撮みの塩すら入れずに米を炊く。

 待つ事小一時間、炊飯器の蓋を開けた途端調理場全体に広がる全く臭み無き牡蠣湯気に暫し陶酔。炊き込み御飯特有の炊きむらが生じて一部生煮え状態になって居るが其の分は此の香りで充分にカヴァー可能。若干の磯色を帯びた乳白色の飯を掻き混ぜて居る内、釜の底で出汁が香ばしく焦げている事が判明。出汁が飯の隅迄充分に行き渡っている証に他ならぬ。

 愛用のポケモン茶碗に飯を装い先ずは米の部分を口に運ぶ。恰も米粒が牡蠣の分身であるかの如く、噛む度に牡蠣のエキスが口中に染み渡る。次に牡蠣を口に運ぶが、此程米に味を分け与えたにも拘わらず其れ自体にはグリコーゲンの甘みが凝縮されて居り、此亦苦みや臭みとも無縁のもの。しかし其れにしても調味料で味を調えずともよくぞ此処迄全体に旨味が染み渡る事よ。

 夕食では違った愉しみ方を行う事にした。天然水で鰹節を煮て出汁を取り、此を牡蠣飯にかけて食す。先日の愛媛旅行の際に味わった、今治鯛飯(鯛の炊き込み御飯)と宇和島鯛飯(白飯に鯛の切身と卵と出汁を混ぜ合わせたものをかける)から着想を得た次第。

 炊き込んで縮こまった牡蠣が海の仲間と再会して喜んでいるかの如く、牡蠣が出汁を吸い潤いを取り戻す。濃厚な牡蠣粒と、米に染みた淡泊な牡蠣味とを然りげ無く仲介するかの如き淡泊な出汁。此の時点で私の牡蠣賞味方法が、牡蠣味を単独で味わう段階から他の味とのコラボレーションを愉しむ段階に突入したのだ。今後は牡蠣の事を考える際、如何に味わうかのみならず、何と組み合わせて如何様に味わおうかという思索を巡らす事となろう。


2001/10/12

テレヴィの優位性

 従来テレヴィというマスメディアの優位性として即時性が挙げられて居り、報道や旬の情報提供に於いて其の優位性が如何無く発揮されている。而るに時として其の優位性を全く無視した番組造りが為される事があるものである。

 京都に寓居を構えていた学生時代の事、経営不振が叫ばれていた地元のテレヴィ局が番組内容を大幅に改変した。番組制作費を抑制する意味だと思われるのだが何と驚くべき事に、午前中に一度放送した数時間に亘るニュースや情報ワイドショーを、午後だの夜だのに再放送するのだ。情報ワイドショーはまだしも画面に「この番組は再放送です」なるテロップを常時表示した儘ニュースを再放送する様は見るに耐えられぬ位の哀れさを感じたのであった。尤も此は企業体たるテレヴィ局の経営不振という明確な理由があり其の事情自体遍く知られていた為止むを得まい。企業体として体を成さなくなり放送事業免許を取り消されるよりまだましであろう。

 処で私がちゃきちゃきの江戸っ子時代に毎週末に欠かさず観ていた音楽ランキング番組、名古屋では此が一週間近く遅れて放送されるのだ。旬の音楽事情を毎週毎に順位付けする処に意義のある此の番組が、次の「旬」が到来する頃にやっと放送されるとは。平日深夜に此の番組を観た週末に旅先等で、内容的には二週後の同じ番組を目にしては順位の激変振りに戦く度に、中部地方の人々は此の事実を知っているのかどうか、知らぬ儘他地域に比べ周回遅れの情報をさも最新情報の様に思い有り難がって居るのでは無いか、ひょっとしたら他地域と比べて五日遅れの情報を「全国に二日先立ち情報を入手している」と勘違いして優越感に浸って居るのでは無かろうか、などと余計な心配をすると共に、即時性が期待されるテレヴィに於いて旬を外れた情報番組を流すテレヴィ局の見識に嘆息し、左様な情報を有り難がる中部地方の人々を憐れまざるを得ないのだ。


2001/10/11

鹿と狂牛病

 日本国内に於ける狂牛病騒動(此処で「騒動」なる言葉を用いるのは、甚大な被害を当事者や野次馬が単に騒ぎ立てているかの様な意味合いが感じられ避けようと思ったのだが、何時もの如く広辞苑を繙き確認した結果「非常の事態。事変」なる意味が存在した為其の積もりで用いる事とする)に纏わる報道を目にしては幾ら肉欲が薄く挽肉以外の牛肉を自ら口にする事の無い私ですら、生活の随所に牛製品が関わっている事を意識しては相応の恐ろしさや気色悪さを感じている。更には此に輪を掛けるかの如く行政側の人間の一挙手一投足が日に日に不安感を助長していると言っても過言では無かろう。

 其れはさておき、新聞やテレヴィでは目にせぬ狂牛病に纏わる報道を、新聞社のウェブサイトに於いて発見した。「野生ジカの『狂牛病』で哺乳類学会が緊急アピール」なるタイトルを冠した記事、北米に於いても野生ジカに狂牛病に似た「慢性消耗性疾患」なる病が発生している為に日本に於いても養鹿場管理を徹底せよとの緊急提言が為されたとの事である。

 此の報道を目にして先ず自然に驚いたのが、鹿にもあの症状が発生するのかという点だったのだが、然為れば鹿を見れば獣触を嗜まずには居れぬ私に感染する危険は無いのか(狂牛病と同一の病で有れば所謂「危険部位」を身体に取り込まねば大丈夫なのだろうが)。次いで驚いたのは「日本哺乳類学会」なる愉快な集団が存在したのかという点。更に驚いたのは此の学会の今回の総会、全国組織である為「持ち回り」で開催しているものと推測されるが、沖縄県宜野湾市という、総会を開催するというよりは総会に託けて観光の一つでも行いたくなるような土地で開催された事である。更に先程調べてみれば此の学会、事務局が北海道札幌市では無いか。

 其れにしても斯様に心惹かれる報道が、ネット以外で目にする事が出来なかったのが非常に残念であった。


2001/10/10

少年と大人との境界線

 少年と大人との境界線を定義するので有れば、私は其の一つとして「猥本を購入する時に恥じらうか否か」を挙げたい。無論猥本に限らず、レンタルヴィデオ店に於けるエロヴィデオレンタルでも構わぬ。序でに言えば大人の中でも、青年とオッサンとの境界線としては、「猥本を購入する時に然りげ無く購入するかわざと店員を困らせるかの様に誇示しながら購入するか」と考えている。

 さて此処暫く、私は或る猥本を求めて居た。2001/06/15も採り上げた団鬼六の小説を書店に求め、近場であろうが旅先であろうが書店を見つけては必ず男性作家のコーナーを巡っていたのだ。言う迄も無く此は私の助平心だとか加虐欲・被虐欲の類がそうさせるのでは無く、只単に、美しく個性あり其れで居て読者に与える印象度を劇的に高めるという彼ならではの日本語表現を味わい己の作品にも是非活かしたいという純粋な文学欲及び崇高な向上心に因るものである。

 処が何処の本屋に足を運んでもなかなか団鬼六の書物が見付からぬ。推理小説やミステリー専門の書棚に目を遣っても見当たらぬ。そうこうしている内に私が訪れるサイトに於いても団鬼六の「人妻嬲り」が紹介されており、私の団鬼六欲も一層高まるのだ。

 或る日ふと職場近くの書店で文庫本を漁っていて仰天した。何と新潮文庫から彼の作品が出版されて居るでは無いか!彼のイメージ的に大衆向けの文庫は想像が付かず、今迄ハードカヴァー本売場しかチェックしていなかったのが災いした。漸く探していた書物を発見したものの、私はどうしても其処で団鬼六の書物を購入する事が出来なかった。実は其の書店、業務上私との付き合いが密接であり、普段から会社の名前で無理と思しき注文を行ったりでお世話になっているのだ。加えて其の本屋の女性店員と嘗て密かに合コンをした事もあり、妙な行動が何かと己の身に危機を及ぼし兼ねぬ。

 そうこうしている内、先日の九州旅行の最中小倉駅駅ビルの書店にて団鬼六の文庫本を発見した。即購入しようと思いつつレジを覗けば若い娘。此処で私には二つの選択肢が浮かんだ。件の文庫本の上に真面目そうな書物を重ねてレジに持って行くか、其れとも団鬼六など物ともせぬ位の猥本とカップリングさせてレジに持って行くか、である。旅の恥は掻き捨て、私は後者を選択しようと、猥本、而も出来るだけタイトルが強烈なものを漁っていた。然し其の内に、顔中から大量の汗が噴き出る位に己が緊張している事に気付き、結局前者の選択肢を採る事となったのだ。

 冒頭に述べた境界線の定義に基づけば、私は「オッサン振ろうとして実は少年のような心を持ち合わせている」という事になろう。此の定義付けも我ながらなかなか優れたものと言えよう。


2001/10/09

ガオレンジャー

 先日の朝ホテルでテレヴィのスウィッチを入れた処、「百獣戦隊ガオレンジャー」なる番組が放映されていた。出発せねばと思いつつもタイトルの中の漢字一文字に惹かれてオープニングのみ眺める事とした。どうやら五人の戦士がそれぞれ獣の被り物をして敵と闘うという趣向になっているようなのだが、彼等が何の獣の被り物を着用しているのかをよく見て私は異を唱えずには居られなかった。

 獅子、鷲、鮫、水牛、虎と揃ったラインアップ、先ず鷲と鮫が「獣」とされている処に大いに不満在り。此では「獣=強い、凶暴」なるイメージを以てキャラクター創りを行っているとしか思えず、余りに獣に対して失礼では無いか。そして残る者達も水牛は兎も角、獅子に虎と何故斯様に猫科を贔屓するのだ。という訳で、私がテトム(どうやら嘗て五人の戦士と獣とを引き合わせ、戦士にそれぞれの獣の被り物を宛った人らしい)になったとして、改めてガオレンジャーを選定する事とする。

 先ずは海と空をフィールドにする為に不自然に選定された鮫と鷲を見直す。海は海豹、空はモモンガが私の趣味的にも最適と考える。陸については地を駆ける存在と地を飛び回る存在が必要。其れで居て力強さを感じさせる獣としては、馬とカンガルーが適任であろう。最後に彼等を統括するリーダー格的存在の獣を選ばねばならぬ。此に相応しいのは、最も原始的な犬として犬仲間から大先輩として一目置かれ、犬にして水掻きを持つだけで無く、獣として逆立ち放尿に後ろ向きダッシュという底知れぬ、否、空恐ろしい能力を持ち敵を畏怖させるヤブイヌを置いて他に居るまい。

 ガオホース、ガオカンガルー、ガオアザラシ、ガオモモンガ、ガオヤブイヌ。キャラクター選定にも一本筋がびしっと通っており、現在の五人よりはずっと相応しいのでは無いかと信じて疑わぬ。何時の日か彼等がレギュラーの座を奪う事をテレビ朝日に期待する次第。


2001/10/08

旅と健康

 実は前回の愛媛旅行(2001/09/22参照)の最中、喉風邪に罹患してしまったのだが、今回の福岡旅行に於いてもすっかり熱風邪と鼻風邪と腹風邪にやられてしまった。そんな中昨日迄の好天が嘘の様な曇天の下、ホテルを出て海の中道公園(福岡)に向かった。体調の事もありせめてあと数時間何とか天気が保たぬかという淡い期待をよそに、無情にもというか見事にもというか、公園に到着後園内の「動物の森」迄数キロの道中で大雨に見舞われる事となった。もう此の儘帰ろうかと此迄に無く弱気にもなったのだが結局園内バスの停留所で暫し雨宿りをする内、動物の森方面のバスが到着し、無事獣香を味わい馬やカンガルー達と獣触を愉しむ事が出来た次第。

 さて其れにしても、前回の旅行に続き今回も旅先にて病に襲われるとは。老いていく内に私の心身が環境の変化に耐え切れなくなった所為なのだろうか。否否今後旅を愉しみ余生を過ごす事を考えれば左様な結論には落ち着きたくない。其処で私は他の理由を考え付いたのだ。

 夏頃から毎日愛飲している青汁、常に冷凍状態で保存している為に出先では直販店舗を見付けぬ限り味わう事が出来ぬ。従って旅行中にはまず青汁を口にする事が無い。北海道旅行の際(2001/07/22参照)に「青汁」と銘打った缶入り飲料を発見し喜び勇んで口にしたものの、此は「青汁」では断じて無く私の苦手とする「野菜ジュース」であり、到底購入に値せぬ。そんな訳で、旅先に於いて生活のリズム及び健康のバランスを崩す為に、旅先にて不健康に陥るのでは無いかと思い至った次第。

 然しそうであるならば、直販店舗の無い土地を旅する際には必ず体調を崩す事になってしまうでは無いか。何か良い解決法は無いのか。


2001/10/07

柳川川下り

 2001/09/30で触れた今回の九州旅行、結局初日に門司、今日は大牟田動物園に柳川、明日に福岡市海岸部の「海の中道動物の森」をそれぞれ訪れる事とした。

 さて本日、道中切符を紙一枚すら入るかどうか判らぬ様な椅子の隙間に落とすというハプニングを経て大牟田動物園に足を運んだ後昼に柳川到着。柳川といえば何はともあれ最も楽しみにしていた川下り。珍しく天候にも恵まれ心躍らせ乗船場に向かいいざ小舟に乗り込もうとして私は些か躊躇した。

 私が案内された舟には三人の先客が居た。強面の男性二人に退廃的な女性一人。少なくとも見た目を解釈すれば誰がどう見てもチンピラ及び其の舎弟及び愛人という組み合わせ。人間二人分の幅しかない小舟、先頭部分には舎弟と愛人、其の後ろにチンピラといった組み合わせ、順当に私が入れば正に三人に囲まれる事となる。人並み以上に気の弱い私は彼等の輪の中に入る勇気など持ち得ず、一人分離れた処に胡座をかいて座っていた。

 処が次から次に乗客がやって来る。私は少しずつ先頭部に近付きつつあくまでも三人の先客とは一線を画すかの如く距離を保っていた。そうこうしている内に舟も満席に近付き、人の流れが一時止んだ事から船頭が舟を出すものと思われた。しかし彼は余りに無情であった。暫く後にやって来た数人の団体を全員乗船させようとしたのだ。こうなると私が不自然に開けていた空間など迷惑の極み。船頭からも席を詰める様指示があり、私は正に三人にぴたりと囲まれた体制で川下りを楽しまねばならぬ羽目に陥ったのだ。

 視線を何処に遣っても顔を上げている以上彼等が視界に入る。気に入った景色があればとことん凝視する性格が災いし、彼等と眼が合って「何じろじろ儂等見てんねんワレ」と因縁を付けられる危険を孕む私は結局、手にした柳川の地図に眼を落としつつ時折首が折れんばかりに不自然に外側に顔を向け、心の中でさめざめと涙を流しつつ一時間余りの川下りタイムを過ごしたのであった。


2001/10/06

続・ウルトラマンコスモス

 最近「エゾシカの嘶き」に於いては実際の執筆日と作品の公開日に約一ヶ月程度の乖離が生じて居り、ウルトラマンコスモスに言及した2001/09/02の作品をしたためたのも実際には長月の晦日近くの事であったのだ。

 其れから一週間、本日付の日本経済新聞「NIKKEIプラス1」のコラムで「ウルトラマンコスモス」が登場し、私が驚き指摘したテレヴィ欄に於ける「マンコ」なる文字列の登場など其れがどうしたと言わんばかりに大見出しで「マンコ」を露出していたのだ。

 行動の素早さ、「エゾシカの嘶き」への挑戦的な態度に私は舌を巻くと共に、好敵手として相変わらずの行動に嬉しさすら感じた次第。


2001/10/05

禁煙への感謝

 近年公共の場に於ける非煙コーナーに於いて「禁煙にご協力ありがとうございます」なる掲示なり案内放送なりに出会す事が屡々あるのだが、此の表現に私は其の場所への多大な居心地の悪さを感じずには居れぬ。

 此が若し、「自然な空気(別に煙草の煙のみが「不自然な空気」とも思えぬが、他に好ましい表現が見つからぬ為此の表現を用いた次第)を保つ事」への協力の感謝であれば兎も角、「禁煙」への協力の感謝という事であれば、感謝の対象は明らかに排煙者のみとなろう。

 其の場所の管理者が利用者に要請を行い其のお礼として感謝の念を表す事自体には問題は無い。処が排煙者に対しては礼を述べる一方で非煙者に対して何等物を言わぬという事は、其の場所の管理者にとって重要な事は其の場所の空気を自然な状態に保つ事では無く、「禁煙にせねばならぬ」というルールを貫く事と解されよう。此では事の本質が其の場所の管理者に全く理解されていないという事では無いか。

 それともう一つ。私は未だ嘗て、食物の味と同時に其れを打ち消すのに充分な煙草の味を感じ取る事を余儀無くされる飲食店だとか、非煙席が満席の為排煙者の巣窟と化した車両に閉じ込められる事を余儀無くされる列車だとか、前の客が残したとしか考えられぬ煙草の臭いが部屋中に充ちたホテルだとかに於いて、其の場所の管理者から「排煙にご理解頂きありがとうございます」なる礼を言われた事など一度たりとも存在せぬ。排煙者が排煙を行わぬ事が持ち上げられて、非煙者が排煙を味わう事に対しては何等言及されぬとは、何か非道く間違っているのでは無いか。


2001/10/04

正義感を貫く為の夢

 私の抱く細やかな夢の一つに、合コンの席上等に於いて、乳の谷間を露出した格好で登場する女性に一度で良いから言い寄られてみたいというものが有る。此であれば他の大多数の男性も同様の夢を抱くであろうが私の夢の骨子となるのは此処からである。言い寄られた結果尻尾を振ってほいほい付いて行くのでは無い。肝心の乳本体を見せずして「乳の谷間だけを露出して良い気になり乳の谷間だけ見せれば世の男性は自分に靡く」などという浅ましい性根を思いっ切り叩きのめす事が目的なのだ。

 只でさえ2001/02/22で触れた通り乳の谷間だけを露出して恰も大サービスを行っているかの如き態度に反感を抱いているというのに、ましてや其の格好で男性を誘惑する場に登場し現に男性を誘惑しようとする態度が、「お前ら阿呆やから実物を見せる迄も無く此の程度で充分悦ぶやろ」などと宣告されているかの様な気分になり、強い怒りを覚えると共に、世の中貴様が中心に回っている訳では無い事を思い知らせずには居れないのだ。

 其れにしても私も歳を重ねるに連れ、正義感が益々強くなっているようである。


2001/10/03

ヤブイヌの悲劇

 先日のニューヨーク同時多発テロの首謀者と目された人物の引き渡しを巡り米軍がアフガニスタンに対し攻撃を加えようとする流れの中、此をイスラム社会に対する攻撃と捉えるイスラム圏国家の群衆が反米デモを行っている光景がテレヴィに映し出されたのだが其の映像は私には正視に耐えぬ位衝撃的なものであった。

 「ブッシュは犬だ!」と叫ぶ群衆が米国大統領の人形を掲げて殴り引き裂く光景。人形には米国大統領の名が記されているのだがよく観れば「BUSH DOG」と書かれていたのだ。

 此ではヤブイヌでは無いか。何故罪がないばかりか絶滅の危機に瀕しているヤブイヌが斯様な仕打ちを受けねばならぬのだ。其れともイスラム圏に於いてはヤブイヌは侮蔑の対象とされて居るのであろうか。何れにせよ今回の同時多発テロに起因する悲劇の一つであると言えよう。


2001/10/02

とべ動物園

 先日とべ動物園(愛媛県)に向かった時の事、駐車場から正門に至る迄の間、一体此処は何処なのか、何かのイヴェントでも開催されているのかと思われる位の混み具合であった。三連休の真っ只中の好天の下とは雖も一般的な動物園と思しき処である。恩賜上野動物園の様に地の利を活かしている訳でも無ければよこはま動物園ズーラシアの様にヤブイヌといった目玉動物が鎮座している訳でも無い。斯程の混み具合は上記二箇所を除けば私が嘗て足を運んだ国内30箇所近く(正確に数えたのは今回が初めてなのだが案外少ないものである)の動物園の中でも随一では無かろうか。

 驚いたのは人間の量だけでは無い。其の質も亦私が舌を巻く位のものであったのだ。正門に至る迄の間には動物の足跡が道路に埋め込まれ、辿っていくと何の動物の足跡なのか正解が表示されるという趣向が繰り返し為されているのだが、私の直前の幼児が足跡を一目見ただけで「麒麟!」「象!象!」「んーとね、これはペンギン!」などと次々と言い当てて居るのであった。世間の成人男性並みには獣を嗜んでいる積もりの私ですら、足跡当てでは彼に一目置かざるを得なかったのだ。そして彼が熊の足跡を当てられなかった時には私迄もが悔しい思いをする位であった。

 園内では動物の餌が人間用の菓子を上回る勢いで飛ぶ様に売れており、皆が挙って我先に動物達に給餌する。これでは園内の動物達も嬉しい悲鳴を上げる事であろうと思った通り、各コーナーから動物達の嬉しい悲鳴が挙がっていた。一方昼になれば人間達の給餌の時間。園内には「お昼の時間です。園内の芝生をご自由にご利用下さい」との給餌アナウンス。食堂は長蛇の列、園内の芝生は所狭しと家族連れで埋まっている。其れで居て各動物舎の前には人集り。一体貴方達は何処から湧いて出たのだ。

 動物心に燃えているのは客だけでは無い。園内の掲示にも独特の工夫が凝らされていた。絶滅危惧種の動物舎の前では其の旨説明された看板に留まらず「どうすれば彼等が絶滅せずに楽しく生きられるか、一度考えてみましょう」「我々の生活が便利になる一方で動物の住処が狭くなります。一体どちらが幸せなのでしょうか」「子供に対して『飼育係の人に怒られるから御菓子を動物にあげちゃ駄目』という叱り方はおかしいのではないでしょうか?『動物が病気になるから』と教えてあげるべきでは無いでしょうか?」など、訪問者に只単に眼前の動物を見せるのみならず其等を通じて積極的に考えさせようとしている独自の姿勢が読み取られ、単なる「展示の為の動物園」を超えた処に動物園側の熱い思いがひしひしと感じられた。

 そう便利な地にある訳でも無い動物園に於いて、施設(愛媛県)側も客(大半が愛媛県人か)の側も熱い動物心を持ち合わせている光景を目の当たりにして、松山市周辺をはじめとする愛媛という土地柄に溢れる熱き動物心に甚く心を打たれ、私の動物心も大いに共鳴した次第。


2001/10/01

検索エンジン・2001/09

 前回の検索語ランキング(2001/09/01参照)で並み居る強豪古豪達の猛追を退け見事トップに輝いた此の夏の上がり馬「エゾシカの嘶き」、今回もトップを目指し直走っていた処、ゴール前で有力馬にハナ差凌がれ二着に甘んじた。そして勝ち馬となった強豪有力馬の名は、当ランキングに於ける連勝記録を有し「『エゾシカの嘶き』検索語ランキング界のテイエムオペラオー」として君臨する「包茎写真」であった。因みに「エゾシカの嘶き」の後には、三着に少し離れて古豪「陰茎写真」、四着には矢張り此の夏上位に入り注目を集めた「エゾシカ」、そして僅差で五着に、此迄も上位で馬券に絡んできた「強姦小説」が入り、強豪と人気上がり馬が上位を占めるという比較的本命サイドの決着となった。

 さて他の出走馬に目を向ける。「おめこしたい」「セックス」「エロメルマガ」なる露骨極まる珍名馬達が意外と好走。そして更に下位に目を向けてみる。「純情 小説 官能」。純情且つ官能という点がやけにそそられる。「団鬼六の小説」。単に団鬼六では無くわざわざ「小説」と断っている処に馬主の拘りが垣間見られる。「バター犬」。本筋とは関係無いが、食品+獣=性具という日本語の妙が感じられる馬名である。

 とまあ、昨日のスプリンターズステークスに於いて、必勝馬券を彼方此方で吹聴し、銀行から有り金叩いて馬券を購入する積もりが目覚めれば既に其のレースが終了して居り、而も其の予想が珍しく的中していた悲しさや悔しさをぶつけるが如く、何時もの検索語ランキングを競馬風にしたためた次第。


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