第二次世界大戦期の日ソ関係史
年月日 | 事項 |
1940.9.27 | 日独伊、三国同盟締結 |
1941.4.13 | 日ソ中立条約締結(公布は4月30日) |
1941.6.22 | 独ソ戦開戦 |
1941.7.2 | 御前会議にて、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定 『独ソ戦争ノ推移 帝国ノ為メ 有利ニ進展セバ、武力ヲ公使シテ北方問題ヲ解決シ 北辺ノ安定ヲ期ス』 (独ソ戦が、日本のために有利に進展したならば、ソ連に対して武力行使をして、満州など北方の問題を解決する) |
1941.7.7〜8.9 | 関東軍特別大演習(関特演) 7月7日、動因命令が下った関東軍特別大演習は、北満に膨大な人力と資材が集積され、関東軍は約 70 万人の兵力と軍馬約 14 万頭、飛行機約 600 機を擁するにいたった。演習とはいえ、内実は対ソ連戦準備の歴然たる軍事行動だった。独ソ戦の進捗によっては、ソ連に対して武力行使を目指していた。しかし、独ソ戦の戦況に進展はなく、8月9日、参謀本部は年度内の対ソ連武力行使の中止を決定した。 |
1941.8.14 | 大西洋憲章 |
1941.9.24 | ソ連邦政府、大西洋憲章への参加を宣言。 ソ連邦政府は、『実際に適用するに当たっては、夫々の国家事情、必要性および歴史的特殊性が必ず考慮されるべきであることを念頭に置きつつ』、憲章への参加を声明した。 |
1941.10.18 | ゾルゲ事件 10月15日の尾崎秀実の逮捕に続いて、18日にはリヒャルト・ゾルゲが逮捕された。 |
1941.11.26 | 大日本帝国海軍機動部隊、択捉島の単冠(ヒトカップ)湾を出港 |
1941.12.8 | 日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、太平洋戦争開戦 |
1942.1.1 | 連合国共同宣言 26カ国により、単独不講和などが宣言された。 |
1943.1.1.14〜25 | カサブランカ会談 米ルーズベルト、英チャーチルの会談。イタリア本土上陸作戦などを協議。また、枢軸国が無条件降伏するまで戦うことが宣言された。 |
1943.1〜1943.2 | 1943年1月下旬から2月上旬にかけて、スターリングラードを侵攻していたドイツ第六軍は降伏。これを機会に、独ソ戦におけるソ連の立場が次第に優位になる。 |
1943年夏 | クルスク大戦車戦。1943年7月から8月にかけて、ソ連・ドイツの間で戦車戦が行われた。この戦い以降、戦線はソ連の攻勢となる。 |
1943.9.15 | 日独共同宣言 |
1943.11.6 | 大東亜共同宣言 |
1943.10.19〜30 | 米英ソ三国外相会談(モスクワ会談)。 モスクワ会談の席上、ハル米国務長官は、ソ連外相モロトフに対し、千島列島・南樺太をソ連領とする見返りに、日本との戦争に参戦することを求めた。この要求に対して、ソ連外相モロトフは即答を保留した。モスクワ会談最終日の10月30日、晩餐会の席上で、スターリンは、ハル米国務長官に、ドイツに勝利した後に日本との戦争に参加することを、伝えた。 |
1943.11.22〜27 | カイロ会談。 米国大統領ルーズベルト、英国首相チャーチル、中華民国総統蒋介石により、対日戦の軍事面での協力と将来の領土について話し合われた。27日にカイロ宣言が発表された。 カイロ宣言は米・英・中、三国の日本国に対する将来の軍事行動を協定したものであり、日本国の侵略を制止し、日本国を罰する為に、今次の戦争を行っていること、日本に無条件降伏させることが宣言された。 |
1943.11.28〜12.1 | テヘラン会談。 米国ルーズベルト、英国チャーチル、ソ連スターリンのほか、三国の外相・軍指導者らが出席した。会談の主な目的は連合国側の作戦の調整(第2戦線)であったが、会談での議題は多岐にわたり、戦後の世界平和維持機構の枠組みなどについての意見交換もあった。この会談の中で、スターリンは、ルーズベルトに対して、千島列島・南樺太をソ連領とする見返りに、ドイツ降伏後、日本との戦争に参戦することを約束している。 |
1944.6.6 | ノルマンディー上陸作戦 |
1945.2.4〜11 | ヤルタ会談 |
1945.5.7 | ドイツ降伏 |
1945.5.9 | 大本営、対ソ作戦準備を命令(大陸命第1326号) |
1945.7.26 | ポツダム宣言 |
1945.8.6 | 広島、原爆投下 |
1945.8.8 | ソ連、対日宣戦布告 |
1945.8.9 | ソ連対日参戦。 長崎原爆投下。 |
1945.8.10 | 御前会議にて、ポツダム宣言の条件付受諾(天皇制の存続)を決定し、米国に通告。 |
1945.8.10 | 22時、極東ソ連総司令部は第二極東方面軍第一六軍に対し、北太平洋艦隊と共同して、翌朝、サハリン国境を越え、南サハリン侵攻作戦を開始する命令を下した。 |
1945.8.11 | サハリンで、日ソの戦闘が始まる。 |
1945.8.13 | 米国、ポツダム宣言の条件付受諾(天皇制の存続)に対して、『日本の最終的な政治形態がポツダム宣言に従い,日本国民の自由に表明された意志によって樹立されるべきものである』と回答。 |
1945.8.14 | モスクワでソ華友好同盟条約(「ソヴィエト」社会主義共和国聨邦中華民国間友好及同盟条約)調印 |
1945.8.14 | 御前会議にて、ポツダム宣言の受諾を決定。駐スイス日本大使館、加瀬公使より、米・英・ソ・中に、ポツダム宣言受諾の用意あることを通告。 |
1945.8.14 | 終戦の詔書。天皇が、日本国民に向けて、ポツダム宣言受諾を連合国に通告したことを表明したもの。国際法上の停戦文書と誤解されることがある。 この詔書は、翌日、玉音放送として、日本国民に向けてラジオ放送された。 |
1945.8.15 | 現地時間8月15日未明(モスクワ時間8月14日)、極東ソ連軍総司令部は第二極東方面軍司令官と、太平洋艦隊司令官に対し、カムチャツカ現有勢力によって、千島列島北部占領を目的とする作戦を準備し実施するように命令。 |
1945.8.15 | 大本営、現任務の続行を命令。ただし、積極的侵攻作戦は見合すとされた(大陸命第1381号、大海令第47号)。 1982年4月、閣議決定により、8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされた。なお、1963年より全国戦没者追悼式が行われている。 この日が戦争終了の日とされている場合がある。 |
1945.8.16 | 大本営、自衛のための戦闘を除く戦闘停止を命令(大陸命第1382号)。 16時、天皇は全軍隊に対して、即時停戦の大命を発したことを、マッカーサー宛通告。 注)8月17日、8月18日に、全面的戦闘停止は、今後指定する日時以降に行うように命令している(大海令第49号、大陸命第1385号)。 |
1945.8.17 | 5時、千島列島北部占領作戦開始。 |
1945.8.18 | 18日早朝、千島列島最北端の占守島で、戦闘が始まった。 19日朝、占守島日本軍、停戦を申し入れる。交渉の結果、19日18時00分、占守島・幌筵島・温弥古丹島の日本軍第九一師団は無条件降伏するとの文書に調印がなされた。 20日8時20分、ソ連軍艦隊が第二千島海峡に入ると、日本軍は降伏合意を無視して、奇襲攻撃、なおも戦闘が続いた。 21日7時、グネチコ少将は第九一師団に対して、日本軍は直ちに降伏するよう、最後通牒を渡した。回答は21時に得られた。 22日14時、占守島日本軍は降伏を開始し、23日夕方、降伏完了。 |
1945.8.18 | 米大統領トルーマン、スターリンに対し、千島列島全土をソ連が占領することに同意を伝える。 |
1945.8.18 | 大陸命 第1385号(18日)、大海令 第五十号発令(19日) 「大陸命・大海令」とは天皇が陸・海軍に発する最高命令 日本軍人が捕虜となることや、武装解除を受けることを認めた。 |
1945.8.19 | 午後3時30分、ジャリコーヴォ村で、秦総参謀長ら、ワシレフスキー総司令官らと会談。 日本軍は、今後、抵抗を止めて、ソ連軍に武器を引き渡すことが言い渡された。 秦総参謀長は日本国家の代表ではないので(天皇の全権委任状を持っているわけではないので)、この会談は停戦交渉ではない。 |
1945.8.22 | 大海令 第五十三号発令、大海令 第五十四号発令 「大陸命・大海令」とは天皇が陸・海軍に発する最高命令 海軍の全面的停戦、自発的武装解除を命令 大陸命 第1388号発令 外地の作戦軍に、8月25日0時より全面的に停戦すること命じた。しかし、支那派遣軍にだけは、「局地的自衛の措置を実施すること」を認めた。この結果、華北では、武装解除を求める共産党軍とこれを拒否する日本軍との間で、激しい戦闘が生起することになった。 |
1945.8.23 | 太平洋艦隊参謀部より、北太平洋艦隊司令部宛に、『本日、千島列島の択捉島と国後島に海兵二個小隊を乗せた掃海艇二隻を派遣すること。抵抗がなければ、降伏を受け入れること。』との命令が伝えられた。 |
1945.8.24〜31 | 占守島以外の北千島占領の経緯(これらの島々の占領は、ほとんど無抵抗だった。) 8月24日:幌筵島 8月25日:温弥古丹島 8月25日:捨子古丹島 8月25日:松輪島 8月27日:新知島 8月31日:得撫島 |
1945.8.25 | 樺太方面降伏 8月25日正午までに、南樺太はすべてソ連占領下となった。 |
1945.8.26 | 12時50分、南樺太、大泊に停泊していたソ連軍艦船のうち、二隻の掃海艇が択捉島に向けて出航。 |
1945.8.28 | 13時35分、ソ連軍水兵、択捉島留別湾に上陸。同日、択捉島占領。 |
1945.8.28〜9.27 | 8月28日 連合軍先遣隊、厚木到着(GHQ設置) 8月28日 米艦隊、横須賀入港 9月1日 米第八軍、横浜に上陸開始 9月8日 米騎兵第一師団、東京へ進駐 9月27日 米第六軍、大阪に進駐 |
1945.9.1 | 択捉島占領とは別の部隊が、国後島を占領。 択捉島占領部隊は、色丹島を占領。 |
1945.9.2 | この日、日本国は正式にポツダム宣言を受諾(無条件降伏)し、第二次大戦は終了した。 ( 降伏文書調印に関する詔書 降伏文書調印 ) |
1945.9.2 | 一般命令第一号発令。満州・南樺太・千島はソ連の占領地とされた。 |
1945.9.2 | 大陸命 特第一号発令 「大陸命」とは天皇が陸軍に発する最高命令 全陸軍に対して、全面的停戦、武装解除を命令 |
1945.9.3 | 小笠原諸島の父島・母島の正式降伏(米駆逐艦ダンラップ艦上で調印) 米海兵隊、650名父島、250名母島上陸(10月) |
1945.9.3〜5 | 歯舞群島占領 |
1945.9.7 | 沖縄、奄美、南西諸島 降伏 越来村字森根(現:嘉手納基地)で、生き残った日本軍の指揮官と米軍の指揮官が、降伏文書に調印。奄美群島と宮古・八重山群島を含めて、沖縄では正式に戦争が終結し、米軍の占領下となる。(しかし、沖縄では、そのあとも、敗残兵狩りが行われていた。) 降伏文書の調印は9月7日午前11時30分、日本陸海軍を代表して、宮古の第28師団長納見敏郎中将が六枚の写しがある降伏文書に署名、奄美の独立混成第64旅団長の高田少将、沖縄方面根拠地隊の加藤少将も続いて署名した。最後に沖縄の米第10軍司令官スティルウェル将軍が署名した。 9月14日以降、宮古・石垣・奄美大島・南北両大東島の日本軍は武装解除される。 |
1945.9.3〜9.16 | 9月3日 比島方面降伏 9月5日 蘭印方面降伏 9月6日 ラバウル方面降伏 9月8日 支那派遣軍降伏 9月9日 ボルネオ方面降伏 9月9日 南方軍降伏 9月12日 ビルマ方面降伏 9月13日 ニューギニヤ方面降伏 9月16日 香港方面降伏 |
1945.9.21〜10.1 | 奄美武装解除・占領 9月21日:沖縄から飛来した米軍第十司令部の一行10名は、徳之島天城村平土野港に上陸(武装解除)。 9月25日:瀬相で陸海軍武装解除 10月1日:約60人の米兵、名瀬に進駐 米国海軍軍政府布告第2号(9月25日より有効) (奄美群島は翌年2月2日に米国軍政下に入り、2月4日以降、奄美と日本本土との一般旅行が禁止された) |
1945.10.4〜10.6 |
北海道進駐 10月4日、アメリカ軍・第77師団第306旅団、レイ・L・バーネル代将以下4000余人が函館に上陸。 10月5日、第77師団を主力とする8000余人が小樽に上陸。 10月6日、第77師団第305連隊5399人が旭川に進駐。 10月26日時点、北海道の駐屯地別兵員数 函館 4297(バーネル代将)、小樽 4563(イソワク少将)、札幌 5616(第九軍団司令官 ライダー少将・ブルース少将)、旭川 5399(キンブレル大佐)、室蘭 1006(クーネー中佐)、稚内 200(グリーアサン中尉)、美幌 300、帯広 250 総員21630 (出典:函館市史) |
1945.10.25 | 日本軍(安藤利吉 台湾総督を司令官とする第十方面軍)は中国軍(陳儀 台湾省警備総司令官)に降伏し、台湾の行政権が陳儀を行政長官とする中華民国に移った。 |
1945.11 | 日本外務省は、平和問題研究幹事会を設置、講和のための準備を開始した。 ここで作成された資料のうち、領土問題関連は非公開のままとなっている。作成された資料のうち、36冊が米国政府に提出されている。このうち7冊が、領土関連である。西村熊雄によると、提出された領土問題に関する7冊の資料のうちで、北方領土問題関連は、次の3冊である。 1946年11月提出「千島、歯舞、色丹」 1949年1月提出「樺太」 1949年4月提出「南千島、歯舞、色丹」 (日本政府が現在主張している、四島返還論に、きわめて困難をきたす資料が含まれているため、外務省は非公開としているとの憶測がある。) |
1946.1.29 | GHQ指令 SCAPIN 677号発令。 この指令により、日本は歯舞・色丹を含む千島や竹島、沖縄、奄美、小笠原などの行政権を失う。 |
1946.2.2 | ソ連邦最高会議、サハリン島南部及びクリル諸島(千島列島)の国有化。 |