千島南部/ロシア・日本関連年表

年代 事項
奈良・平安時代 南サハリンから北海道北東岸、知床・根室半島、南千島のオホーツク沿岸で、金属器をもつ石器文化、オホーツク文化が起こる。この文化の担い手は、アイヌ系ではなく、樺太に住むギリヤーク族か、アリューシャン列島に住むアレウト族か、アムール下流域のウリチ族に近い人たちだったと考えられている
奈良・平安時代 オホーツク沿岸でオホーツク文化が栄えていたころ、東北北部から北海道にかけて、擦文文化が起こっている。擦文文化の担い手は、アイヌ(あるいはその前身)である。
8世紀末 坂上田村麻呂、東北地方のアイヌ征伐開始
12世紀前半頃 擦文文化はオホーツク文化と融合する形で、アイヌ文化へと変容する。
13世紀半頃 樺太アイヌとギリヤークは抗争を繰り返す。ギリヤークの要請にこたえる形で、蒙古・元朝、樺太に出兵(1264〜1308)。
鎌倉時代〜室町時代ごろ 和人、函館〜江差の海岸線付近地域に進出
(17世紀半ばごろまでは、これ以遠の和人の進出はない)
1443年 安東盛季が南部氏に破れ、津軽十三湊を放棄し、蝦夷島に逃げ渡る。この後、多数の豪族が渡来、和人の本格的な北海道移住始まる。
1457年 コシャマインの乱(和人、北海道から追い出される危機)
これより約1世紀、アイヌの蜂起が相次ぎ、生き残った和人の多くは松前付近に集結し、後の和人地の原型ができる
1482年 夷千島王(えぞがちしまおう)、朝鮮へ使いを送る。
注)夷千島王:北海道を治めていた政治勢力と思われる(安東氏説、アイヌ説、偽使節説等、諸説ある)
1514年 このころ、上ノ国の花沢館主蠣崎氏は、他の館主を被官化して勢力を伸ばしていた。1514年、蠣崎氏は松前の大館に移城して蝦夷島における和人勢力の唯一の現地支配者の地位を確保する。
1551年 蠣崎氏、「夷狄の商舶往還の法度」を公布して天の川―知内川間の地を和人専用の地 (和人地) とする。
1552年 イワン4世(雷帝)カザン攻略
この時から、ロシアのシベリア進出が始まる
1565年 イエズス会宣教師ルイス・フロイス、インド・ゴアの本部に報告書を送り、アイヌおよび蝦夷をヨーロッパに紹介。
1585年 西シベリアのシビル・ハン国、ロシア人ストロガーノフらにより滅亡
1593年 豊臣秀吉、蛎崎氏に朱印状を与える
1599年 蛎崎氏、松前氏へ改姓
1604年 幕府(徳川家康)、松前藩主に北海道での交易の独占権を与える。この後、松前藩は「場所請負人」を通したアイヌの間接支配を広げてゆく。
1624〜28年頃 松前藩、アッケシに「場所」を開く
1635年 松前藩士、サハリン島(樺太)上陸
1639年 幕府、鎖国令
1639年 モスタヴィチン、オホーツクに到達
これより先、1604年:トムスク、1628年:クラスノヤルスク、1632年:ヤクーツクが開かれている
1643年 ポヤールコフ、アムール探検
1643年 オランダの航海家M.G.de フリース、東インド総督の命令をうけて1643年、第 2 回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム Castrikum 号に乗船、日本の東岸を北航して、サハリン (樺太) 東岸のテルペニエ (知床) 岬の北、北緯 48度54分に到達した。この間、択捉 (えとろふ) 島とウルップ (得撫) 島を発見して、それぞれをスターテン・ラントとコンパニース・ラントと命名し、サハリンと千島のアイヌとも接触。帰路の8月16日〜9月1日、北海道の厚岸 (あつけし) で船を修理したが、そのさい松前藩の蝦夷交易船上乗役小山五郎兵衛の船体調べを受けている。この航海はヨーロッパ人による日本北辺調査の最初にあたり、フリースは奥羽北岸からサハリン南東岸にかけての実測地図をのこした。
1644年 幕府、「正保御国絵図」を作成
 松前藩より提出された国絵図に基づいて作成された北方には北海道のほか樺太・千島と思われる島も記載されている。
 千島と思われる島々は、北海道東部に固まった小島として描かれていて、それぞれに名前が付けられている。クナシリ・エトロフの名前も見られるが、キリタップ、カムチャツカと思われる名前も見られる。島の大きさや位置関係はほとんどでたらめで、この地図が、交易相手のアイヌの伝聞からまとめたものである事は明らかである。
1648年 デジニョーフ、太平洋に到達
1652〜58年 ステパーノフ、サハリン(樺太)探検
1669年 シャクシャインの乱
国後周辺を除く全アイヌ部族が結集し、松前藩と戦う。松前藩側の和議を受け入れたが、和議の酒宴で松前藩に暗殺され、乱は終結した。
1688年 松前藩、キイタップに「場所」を開く
1689年 ロシア、清国とネルチンスク条約締結
1695年 アトラーソフ、カムチャツカ探検
アトラーソフはクリル列島を紹介している。(1700,01年報告で、クリルの名称が使われている。)
1697年 ピョートル大帝、総勢250名の大使節団をオランダ等に派遣。自らも使節団に加わる。
1697年 カムチャツカ探検中のアトラーソフにより、日本人漂着者「伝兵衛」保護される。その後、伝兵衛は1702年にピョートルに拝謁している。
このころ、カムチャツカはロシアの支配下に置かれる。
1697年 アトラーソフ、カムチャツカより北千島を望見
日本人漂着民、大阪のデンベイを引き取る。このときデンベイは捕虜になっていた。
1700年 松前藩、千島・樺太を含む蝦夷全図を幕府に提出(現物は関東大震災で失われる)。1644年に作られた「正保御国絵図」と、ほとんど違いはない。
1701年 デンベイ、モスクワ到着(12月)。デンベイの証言により、ロシアは日本に対する詳細な知識を得た。なお、1702年1月8日、デンベイはピョートルに謁見している。
1702年 ピョートル大帝、日本との交易ルートをひらくようにとの勅令を出す。
(勅令が出ても、実際には簡単に実行できるものではなかった。)
1702年 江戸に基盤を持つ材木商飛騨屋、蝦夷地の蝦夷檜(エゾマツ) に目を付け進出、松前藩よりエゾマツ伐採の独占権を獲得、沙 流・釧路・石狩・夕張・天塩などの材木を江戸・上方に運び巨利 を得る
1705年 ペテルブルグに日本語学校開校
1710年 日本人「サマニ」カムチャツカに漂着し保護される
1711〜13年 アンツィフェーロフとコズイレフスキーのクリル探検。
 1711年8月、千島最北端の占守島に上陸。さらに、第2島のパラムシル島に立ち寄り、住民にサヤーク(毛皮税)の献納を求めるが拒絶される。 1713年、コズイレフスキーは再び占守島に立ち寄った後、パラムシル島に上陸し、苛烈な戦いの末、住民にサヤークを献納させ、ロシアの支配を認めさせた。 このとき、コズイレフスキーは、パラムシル島に交易に来ていた択捉島の住人シタナイを連れ帰る。
1712年 大隈国の商船、難破してエトロフ島に漂着。アイヌに送られて厚岸に帰還。松前から江戸に戻る。
1713年 コズイレフスキー、シタナイの話を元に、マトマイ島(北海道)までの15島が掲載されていた地図を作成。(この地図は現存しない。)
1715年 松前藩主が幕府に提出の上申書の中で、「北海道本島・千島・カムチャツカ・樺太は松前藩領で自分が統治している」と報告
1716〜17年 ピョートルの命により、コジマ・ソコロフ、ニキフォル・トレスカ等、オホーツク=カムチャツカ間のオホーツク海 横断航路開拓。
1721年 皇帝ピョートルの命により、測地技術者のエヴィレイノフおよびルージンはカムチャツカ方面探検を行う。クリル列島第6島に到達したと思われる。1722年ごろカムチャツカ・クリルの地図を作成。
1726年ごろ  コズイレフスキー、エトロフ島民シタナイの話に基づき、報告提出。彼の報告に基づき、ショスタコフはカムチャツカ・海島の地図作成した(この写しが現存している)。
 クナシリでマトマイ島とクナシリ島、エトロフ島とクナシリ島の交易が行われていること、 択捉・ウルップ島民はどこの支配も受けていない事、クナシリにマトマイの支配が及んでいるか不明との記述。
1728年 ベーリングの第一回北方探検
1729年 薩摩から大阪に向う商船、難破してカムチャツカに漂着。ソーヤ・ゴンザの2人は、その後モスクワで日本語教師となる
1731年 国後・択捉の首長ら松前藩主をたずね献上品をおくる
1733年 ベーリングの第二回北方探検(1733年〜1741年)
1734年 ロシア最初の日本に関する書物「日本紀事」出版
1737年 松前藩、キリタップのアイヌの騒乱により、交易船派遣を中止
1738年 ベーリング探検隊の別働隊シパンベルク、ウルップ沖に到達。ここで引き返す。
1739年 シパンベルク再びクリルを南下し、千葉県沖に到達。
帰路、7月には、色丹島・野付半島と思われるところに上陸。このとき、住民から「日本の支配下にあるのはマツマエ島のみであり、このあたりは誰の支配下にもない」との説明を受ける。(ここで言っている日本とは和人の事ではなく、アッケシアイヌのことと思われる。)
シパンベルクは「これらの島々は誰の支配下にないので、女帝陛下の支配に入れることは可能」と報告している。
1742年 シパンベルク隊のシェルチング、樺太東岸を探検し測量
1744年 竹内徳兵衛一行の漂流
1745年  『サンクトペテルブルクの帝国科学アカデミー編纂の、地理学的手法と最新の観測に基づく、辺境地方を含む全ロシア帝国の一二葉の部分図とこの大帝国の全図よりなるロシア地図帳』 が出版された。
 この地図では、ベーリング、シパンベルグ等の航海上の発見を集大成し、はじめてオホーツク地域がほぼ正確に認識されている。ただし、樺太南部・蝦夷が欠落している。
1747年 修道司祭イオアサフ、千島に渡り、先住民布教に当る。1749年までにシムシュ島・パラムシル島のアイヌ208人をロシア正教に改宗。
1700年代終りには、中・北千島の多くのアイヌはロシア正教ととなる。
1753年 ロシア日本語学校、イルクーツクへ移転
1754年 松前藩、国後島に「場所」を開く
松前藩、国後島に始めて交易船を派遣
1755年 クラシェニンニコフ、『カムチャツカ誌』を著す。
(千島列島の各島々に関する、当時としてはかなり正確な記述)
1759年  藩吏湊覚之進、前年に起こったノシャップアイヌとソウヤアイヌの大規模な争闘の調停のため、アッケシに赴く。
 このとき、湊覚之進は上乗役の牧田伴内から、3年前にロシア船がアッケシに来航した事を聞く。牧田伴内の話では、ロシア船は100人ほどが乗り込んでいる商船のようで、出航の折には大砲をとどろかせたとのことだった。
 湊覚之進はこのとき、択捉乙名カツコロに会い、千島のロシア人についての話を聞いている。
 この話は、日本にのみ記録が存在し、ロシア側には対応する記録が存在しない。
1761年 シベリア総督ソイモノフはカムチャツカ・オホーツク長官プレネスネルへの命令書の中で、フィグールヌエ諸島調査の必要性を指摘。フィグールヌエ諸島とは、歯舞諸島のことと思われる。
1766〜69年 イワン・チョールヌイ、ウルップ島・択捉島に到達。周辺のアイヌから毛皮を取り立て、さらに、過酷な労働を強いた。さらに、ウルップ島で多数の女性を集めてハーレムを作った。
1770-72年 ウルップ島のアイヌ、ロシア人と衝突、ロシア人20名殺害し、周辺のアイヌはロシア人を千島列島から追放。
1771年 ポーランド人流刑囚べニョフスキー、カムチャツカを脱走し日本に寄航。ロシアの南下を警告。ハンペンゴロウの名で知られる。
1774年 飛騨屋久兵衛、松前藩から室蘭・厚岸・霧多布・国後(翌年には宗谷も)場所での交易権を請け負う。飛騨屋は定置網などの漁法を持ちこみ、地域のアイヌを奴隷として牛馬のように酷使、餓死者が頻発。
国後場所では、大舟で渡来した飛騨屋をクナシリ島の首長ツキノエらが拒絶、船の積荷を奪い追い返した。この行動に対し、松前藩は報復として、北海道本当の他の和人に対し、ツキノエとの交易を禁止を指示、経済封鎖を行う。ツキノエらは、ロシアと交易。
1776年 ロシア人貴族アンチャーピン、ロシア商人シャパーリンはウルップ島を訪れ、アイヌと和解を果たした。シャパーリンは択捉、国後に渡り、そこで、サヤーク(献上品)を取る。
1778年、79年 ロシア人シャパーリンら、ナタリア号にてクナシリ島の首長ツキノエの案内によってノッカマップ(ロシア側資料ではNotokome)、アッケシに来航、さらに翌年にも来航し、通商を求めて松前藩と交易交渉。
松前藩の回答は「国策により通商はできない、長崎に行ってくれ」という回答。松前藩、この事実を隠し、幕府には報告せず。
1779年 ロシア帝国エカテリーナ2世、クリル(アイヌ)への不法行為の禁止、課税の禁止をイルクーツク総督へ通告。(8年後のも同様の通告)
1779年 イギリス軍艦、千島を実測
1779年 近藤重蔵が蝦夷地を探検。
1780年 このころ、ウルップ島を中心に地震が多発。
6月29日には、ウルップ島東方沖を震源とする推定マグニチュード8.2の地震により津波が発生。津波高はウルップ島で10-12m、択捉島で10m。
アンチャーピンら、ウルップ島から引き上げる。
1782年 シャパーリンら、ウルップ島から引き上げる。
1782年 クナシリ島の首長ツキノエら、飛騨屋との交易を承諾
1782年 大黒屋光太夫、アリューシャンのアムチトカ島に漂着
1783年 蝦夷地大飢饉。宗谷・目梨のアイヌ800〜900人、樺太アイヌ180人餓死。
1783年 仙台藩医師、工藤平助(1734-1900)、このころ『赤蝦夷風説考』を著す。
 工藤は江戸詰めの医師であったため、蘭学者との親交があった。当時、識者の間で注目を集めつつあったロシアの情報を、老中田沼意次の用人三浦庄二の依頼を受けて、まとめたものと言われている。
1785年 クルスク生れの商人シェリホフ、イルクーツクを根拠地とした会社(露米会社)を組織して、北太平洋で活動する。また、日本との通商を模索した。
1785年 田沼意次、実地調査を目的として、5名の普請役(山口鉄五郎高品、庵原弥六宣方、伊藤玄六郎行信、皆川仲右衛門秀道、青島俊造政教)および5名の下役を北方に派遣する。5名のうち2名は東蝦夷調査、2名は西蝦夷・樺太調査、1名は松前に残って江戸との調整にあたった。東蝦夷調査の一行は厚岸に到達したのち、松前に引き返す。
1786年  幕府調査隊、前年に引き続き蝦夷地調査を行う。東蝦夷調査隊の一行、青島俊造の配下に最上徳内が加わっていた。
 一行に先立って松前を出発した、最上徳内は、厚岸首長イコトイを案内人として、国後南岸を通り、択捉島に上陸する。エトロフ島には、ロシア人が居住していること、択捉島現地人の中にキリスト教を信仰する者がいる事を確認している。
 さらにウルップ島へ上陸し、ここでも、ロシア人の居住後を発見する(ただし、ウルップ島ではロシア人は確認していない)。
 最上徳内は択捉島で出会ったロシア人(イジュヨゾヨフ等)から、千島およびそれ以北の状況を聞いて、北方地図を作成している。この地図は日本が千島列島を正しく把握した最初の地図である。
1788年 飛騨屋、クナシリ場所にて、大規模な搾粕製造を開始。この頃の飛騨屋はアイヌを酷使し、反発するアイヌに対し、暴力行為を繰り返し、毒殺すると脅迫した。また、和人の支配人や番人らの、アイヌの女性に対する不法行為が頻発した。また抗議に来た夫を虐待する等、非道な行いが横行した。
1789年 クナシリ・メナシの戦い
 クナシリ・メナシ(北海道東部地域)のアイヌは飛騨屋の横暴に対して、一斉蜂起、北海道・クナシリ合わせて、和人71人を殺害。この事態に、松前藩は総勢約260名の大軍を派遣して鎮圧にあたる。反乱は戦わずして鎮圧される。
1790年 最上徳内『蝦夷草紙』を著す。
「近来より赤人(ロシア人)ども年を追って多く渡来し、二十一島を押領し、彼が国内なりとて、土人を撫育、教導し諸土産をとり、二十一島の租税とす」と記す。最上徳内の認識では、第19島がエトロフ島、第20島がクナシリ島、第21島がシコタン島、そして、第22島が北海道島であったので、北海道以外、ロシア領とされたとの意味になる。
1791年 大黒屋光太夫、ペテルブルクでエカテリーナ女帝に拝謁
1792年 ロシア使節ラックスマン、根室に来航、通商を求めるが翌年拒絶される。
このとき、大黒屋光太夫帰国。
1794年 クルスク生れの商人シェリホフ、宣教師・移民を千島に送る。
さらに、ズヴェゾドチョトフを指揮者として、流刑者(4家族38人)・狩猟者(20人)をウルップ島に送り、ロシアの基地を再建。
1796年 ブロートン率いる英国船プロビテンス号が虻田に来航、翌年根室に来航する。
1798年 江戸幕府、蝦夷地に調査隊を派遣。一行中の近藤重蔵、翌年、最上徳内を案内人としてエトロフ島に到達し、ロシア人の立てた十字架を引き倒した後「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
幕府はエトロフ島のアイヌ人にロシアとの交易を禁止した。当時、択捉島アイヌの中にはロシア正教を信仰するものがあったが、幕府は島民の持っていた聖像を取り上げ、キリスト教を厳禁した。
1799年 レザノフ、1796年に廃止された露米会社を復活させる。
1799年 江戸幕府、対露緊張切迫に伴い、東蝦夷地を直轄地とし、津軽・南部両藩に蝦夷地の警備を指示。
(1807年には和人地、西蝦夷地をも直轄地に加えた。幕府直轄は、経費の負担が大きく開拓事業の成果はあがらなかったため、1821年には松前藩の管理に戻された。)
1799年 択捉島を支配した日本は択捉アイヌにロシアとの交易を禁止したため、ウルップ島のロシア人は食糧難となりカムチャツカへ引き上げた。
1800年 高田屋嘉兵衛、択捉島にいたる航路や同島に漁場を開拓。
1801年 幕吏、富山元十郎はウルップ島に渡り「天長地久大日本属島」の標柱を立てる。
1804年 レザーノフ、長崎来航。通商を求めるもことごとく、拒否される。
1804年 蝦夷地に寺院建立される。
(ウス−善光寺、シャマニ−等樹院、アッケシ−国泰寺 の3寺。)
1806年10月 レザーノフ、部下のフォボストフとダヴィドフに命じ、サハリン・クシュンコタン攻撃。
1807年3月 江戸幕府、対露緊張切迫に伴い、樺太・国後・択捉を含む、全ての蝦夷地を直轄地とし、蝦夷地全体が幕府の直接の支配下となる。択捉島は南部藩、津軽藩が警備を担当。
1807年6月  フォボストフ、前年に続き、択捉島攻撃。択捉島紗那は幕府の命令により津軽・南部藩の藩兵が警備をしていたが、ロシア側の一方的攻撃に対して山中に退却。(攻撃したロシア人はせいぜい10数人、警備の藩兵は200人ほどと考えられている。)
 これらの事件に関し、フォボストフとダヴィドフはサンクトペテルブルグの軍法会議で有罪となり投獄された。レザーノフはそれより先、クラスノヤルスクで死亡している。
1807年 羽太正養(1754-1814) 『休明光記』刊行。ロシアの千島、樺太への進出の状況を詳述。
1808年8月 フェートン号事件
イギリス軍艦フェートン号は、オランダ船を偽装して長崎に入港。オランダ人を人質に取り、さらに、湾内の和船を焼き払うと脅迫して、薪水や食料を脅し取る。
1808-9年 松田伝十郎・間宮林蔵、カラフト・アムール川下流域を調査。
 1808年、松田伝十郎は樺太が島であることを視認した。遅れて、間宮林蔵も、これを再確認した。さらに、林蔵は翌年、再調査を行う。このときの探検により、これまで、アイヌ等により言われていた、樺太が島であることが、日本人によって、確認された。
 かつては、樺太と大陸を隔てる海峡を、日本では間宮海峡と呼んでいたが、最近はタタール海峡、あるいは韃靼海峡と呼ぶ。タタールと韃靼は同じ意味で、この付近に住んでいる民族名である。
 なお、1849年、ロシアの探検家ネヴリスコイは、タタール海峡には船舶が通行できることを発見している。このため、タタール海峡のことを、ネヴリスコイ海峡と呼ぶこともある。
1809年 高橋景保「日本辺海略図」をあらわす。
後に、高橋は、クリル列島と千島が同じ地名で、国後・択捉を含むものであると書いている。
1811年 江戸幕府、ロシア船の船長ゴローニンら八名をクナシリ島で捕らえ、松前に2年間拘禁する(ゴローニン事件)。
1812年 ロシア帝国、高田屋嘉兵衛(エトロフ島場所請負人)をクナシリ沖で捕らえカムチャツカに連行する。
1813年 ゴローニン、高田屋嘉兵衛 解放
1815年〜1817年  イルクーツク総督は日露関係の問題に関する回答を期待して、南千島に船舶を派遣、しかし、何の成果も得られなかった。
 このときを最後に、ロシアの千島・日本への進出は、千島北部二島を除いて途絶えた。(再開は1854年のプチャーチンの長崎来航)
1821年 幕府は蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1821年 9月4日、ロシア皇帝アレキサンドル一世、勅令により、アメリカ西海岸からロシア領の北の島々近海での、外国人の捕鯨や漁業を禁止。禁止区域に、ウルップ島以北の千島諸島が含まれていた。この頃、ロシアでは、ウルップ以北がロシア領であるとの認識が確立しつつあったことが分かる。
1849年 松浦武四郎、色丹・国後・択捉島を旅行。
色丹島に関して「昔は夷人小屋が三十軒もあったというが、今は一軒もない」と書いている。
1853年 ロシア使節プチャーチン、長崎に来航
1855年 箱館開港決定により、幕府は箱館近辺を松前藩から上知させ、函館奉行を置く。
翌年、幕府は全蝦夷地を直轄、松前藩の領地は、和人地のみとなる。
1855年 下田条約(日露通好条約)締結
江戸幕府とロシア帝国は、エトロフ島までを江戸幕府の領域、千島は得憮水道を境界、カラフトは両国の雑居地であると、住民を無視して勝手に決定する。
1856年 江戸幕府、和人の蝦夷地への入植を奨励、箱館奉行、アイヌの本格的な和風(同化)政策を開始。
1858年 日露修好通商条約締結
1859年 東シベリア総督ムラビヨフ・アムールスキー来日し、全サハリンの領有を主張
1861年 幕府代表団、サンクトペテルブルグにおもむく。このとき、北緯48度線でサハリンを分割領有するとの提案を受けるが、妥結には至らず。
1867年 幕府代表団、再び、サンクトペテルブルグにおもむく。北緯48度線でサハリンを分割領有する提案の受諾を伝えるが、このときは、ロシアは全サハリン領有に変わっていた。
1869年8月15日 蝦夷地を北海道と改称
このとき、国後島・択捉島をあわせて「千島国」とし、同国に五郡を置いた
1872年7月7日 ロシア、東京に公使館設置
1875年 サンクトペテルブルグ条約(いわゆる、千島樺太換条約)により、日露国境確定。これまで「ウルップ以北の千島は露西亜領、樺太は日露国境未確定」となっていたものを、樺太の全権利を露西亜に渡す代わりに、ウルップ島以北の千島も日本領とした。
この条約により、1855年条約の国境線条項は失効した。
1884年  クリルアイヌ97人、占守島から色丹島に強制移住(3名逃げたので色丹に移住させられた者は94名)。このとき、日本政府は占守島のすべての家を焼き払い、クリルアイヌが占守島に逃げ戻らないようにした。色丹島に移住した後、彼らの多くは死に絶えた。
 なお、クリルアイヌのうち9名は、千島樺太換条約のとき、ロシアに移住している。このときの子孫がポーランドで暮らしているとのことです。(クリールチクさん)
1885年 明治18年布告第1号(明治十八年一月六日)により、根室縣下根室國花咲郡ノ内「シコタン」島自今千島國ヘ編入色丹郡ト稱ス
1891年5月11日 ロシア皇太子、大津にて巡査により障害を受ける(大津事件)
1904年2月8日 日本海軍、仁川沖のロシア艦隊を攻撃。日本海軍の駆逐艦、旅順口を奇襲攻撃。
これらの攻撃は、宣戦布告前になされたため、ロシア人の間には「日本人は卑怯である」との考えが広まった。(ロシア以外でもフランスなど、日本卑怯論は大きかった。)
1904年2月10日 日本、ロシアに対して宣戦布告を行う。日露戦争勃発。
1905年4月1日 日露戦争が日本に有利に展開してくると、日本は韓国に対して通信合同を押し付け、韓国の通信主権を乗っ取った。
(日露戦争勝利によりロシアの妨害がなくなると、11月7日に新たな日韓協約を押し付けたのを手始めに、韓国を植民地にしてしまった。なお、韓国が日本の植民地から解放されるのは、1945年8月15日、日本敗戦のときである。)
1905年6〜8月  日露戦争により両国が疲弊する中、米国大統領 T.ローズベルトの斡旋により、講和の気運が高まった。 6月9日、ローズベルトの講話勧告が出されると、講和前に領土を奪い取ろうとした日本は、7月7日急遽樺太に上陸し、またたくまに南樺太を占領する。原野に逃げ込んだロシア軍を一掃したのは、講和会談開始20日後の8月30日であった。
1905年8〜10月 ポーツマス条約。この条約により、樺太南部、日本領となる。
8月10日、第1回日露講和条約。9月5日、日露講和条約調印。10月15日、日露講和条約の批准通告・発効。10月16日、日本では日露講和条約を公布した。
1918〜22年 シベリア出兵
1920年 尼港事件により、日本、北樺太占領
1925年 日本、占領下の北樺太から撤退
1933年 樺太島域のアイヌに日本国籍
1939年 ノモンハン事件(ハルハ河会戦)
1943年
1945年
1946年1月29日
カイロ宣言
ヤルタ会談、ポツダム宣言、ソ連対日参戦、日本敗戦(無条件降伏)。。。と続く
GHQ指令 SCAPIN 677号
この指令により、日本は歯舞・色丹を含む千島、竹島などの行政権を失う。
など


 この部分は、日ソ関係史にいろいろな出来事があるので、別に記載します。ここをクリックください。
1946年9月10日 外国郵便取り扱い規則実施。このとき、外国に郵便が出せるようになった。
この規則では、千島列島(歯舞諸島を含む)は外国扱いであり、この状態は現在も続いている。
1950年11月 千島及び歯舞諸島返還懇請同盟発足。
この団体は、北海道を中心にした、千島・歯舞の返還運動団体をまとめて作られたものである。懇請同盟の名称から、この当時、「千島」の範囲に色丹・国後・択捉が含まれていた事がわかる。
1952年 サンフランシスコ平和条約
1953年 「日ソ貿易会」設立。1955年に「日ソ東欧貿易会」に改組
1953年 1953年12月25日 奄美諸島が日本へ復帰
1956年 日ソ国交回復
共同宣言の9条には次のように記されている。
「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」
1958年7月 1955年5月に設立された「千島列島居住者同盟」は、「社団法人千島歯舞諸島居住者連盟」と名称変更。連盟の名称から、この時期に至るも、「千島」の範囲に色丹・国後・択捉が含まれていた事がわかる。
1963年3月 千島及び歯舞諸島返還懇請同盟は、改組して、北方領土復帰期成同盟と名称変更。さらに、1965年4月、改組して社団法人北方領土復帰期成同盟となる。
1968年5月 米国シーボルト・ワールド・エアウエーズ社の旅客機、国境侵犯により、択捉島天寧飛行場に強制着陸。
1968年 1968年6月26日 小笠原諸島返還
1972年 1972年5月15日 沖縄返還
1987年5月 これまで、日本政府により、1855年下田条約、1875年サンクトペテルブルグ条約日本語訳を根拠に、北方四島は千島列島に含まれないとの説明がなされてきた。雑誌「世界」5月号において、和田春樹は、『下田条約日本語文や、サンクトペテルブルグ条約日本語訳は誤訳であり、下田条約の露・蘭・中文や、サンクトペテルブルグ条約正文である仏文では、日本政府の主張は成り立たない』事を立証。
1992年4月 駐モスクワ日本大使館、1855年の下田条約ロシア語文を捏造したパンフレットを作成し、ロシア国内で配布。ソ連国内で激しい非難を浴びた。
国後・択捉がサンフランシスコ条約で放棄したクリル諸島に含まれないと主張をするために、ロシア語条文を捏造した。
1995年10月 1995年10月1日〜5日、渡辺幸治駐ロシア大使、日本の大使として初めて南樺太を訪問。
1997年12月 サハリン出張駐在事務所開所式
この式典に、鈴木宗男北海道沖縄開発庁長官が出席。現職閣僚として戦後初の南サハリン訪問であった。
2001年1月 1月29日、ロシア・ユジノサハリンスクに、在ユジノサハリンスク総領事館開館。
南サハリンがロシアの領土であることを、日本は事実上公式に認めた。

最終更新:2017.4

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