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闇の人・光の人(4-6)に戻る

高村を乗せたタクシーは入院病棟の玄関先に止まった。高村は料金を払うのにも手が震え、小銭を落としそうになった。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせてタクシーを降り、杖をつきながら中へ入ってゆこうとした。
普段、病院とその周りしか歩いていないため、段差につまづき倒れそうになった。近くにいた男性が支えてくれたから良かったものの、一歩間違えれば頭に怪我をしていたかもしれなかった。その人は高村に肩を貸してくれ、エレベーターの前まで連れて行ってくれた。
「何階ですか?」
「五階です。助かりました。ありがとうございました」
「じゃあ、気をつけて」
男性は高村の身体をそっと押し出すようにした。高村はエレベーターのボタンを押してから振り返ったが、その時にはもう彼の姿はなかった。
いい人がいるものだと思いつつ、後ろのポケットに何気なく手をやると、財布がなくなっていることに気づいた。あの野郎、そう声に出したが後を追っても無駄なことはわかっていた。怒りと悲しみが同時に襲ってきた。
エレベーターの扉が開き、重い身体を引きずるようにして高村は乗り込んだ。五階まで上っていく時間が長く感じられた。
ようやく着いたと思ったら、まだ四階だった。乗り込んできた若い夫婦が怪訝そうな顔をして高村を見た。悪いことが何もかも一度に押し寄せてくる。高村は憎しみにとらわれた。エレベーターの壁を思いきり殴ってみたかった。乗り合わせた夫婦は恐怖の叫びを上げるか、あるいは哀れみを持って見つめるか。高村は試してみたかった。しかし拳を握ったところで扉が開き、目の前に妻が立っているのを見た瞬間、彼は理性を取り戻した。
「あなた、大丈夫? 冷や汗かしら」
そう言いながらハンカチで額をぬぐってくれた。
「財布をすられたよ。大して入っちゃいないが、病人だと思ってつけ込まれたんだ」
「スリが多いのよ。だから、下で待っていようと思ったんだけど、間に合わなかったのね。身体は大丈夫?」
高村はこくりと頷き、あらためて妻の顔を見た。視野が欠けてきていた。いつの間にこれほど悪くなったのだろうと思うほどだった。
「お母さん、今は落ち着いているわ。さあ、行きましょ」
妻の肩につかまって高村は歩いた。病室にたどり着くまで高村は妻の話に相づちを打つのがやっとだった。やがて訪れる全盲の恐怖に彼はとらわれていた。

大部屋の病室の窓際で、母親は目を閉じていた。腕には点滴の管をつけていたが、表情は柔らかだった。兄が立ち上がって高村の肩を抱いた。
「幸い、病状は落ち着いているようだが、しばらく入院しなきゃならん。手術は無理だと医者は言っていた」
高村は次々と襲ってくる不幸に歯ぎしりしたい気分だった。
「おまえの方はどうだ」
「俺は大丈夫だよ、兄さん。もう退院してもいいくらいだ」
「ほんとなの?」
妻の顔が輝いた。高村は引きつった笑みを浮かべながら頷いた。そして母親の側に座って、その寝顔をじっくりと見た。しばらく見ないうちに随分頬がやつれていた。ゆっくりと上下する胸が、生きている証に思えた。高村は母親の手を握った。かすかに握り返す感触があった。不安や怒りそして憎しみ、そんな暗い心に一筋の光が差した。
「つきそいは俺と女房でやるから、おまえは心配するな。恵子さんも修の面倒を見ないといけないしな」
「すみませんお義兄さん。私もできるだけ来られるようにしますから」
「いやいいんだ。ここは俺たちに任せてくれ」
「修はどうしたんだ。一人で家にいるのか」
高村は急に息子のことが心配になってきた。いままでそのことに気が回らなかった自分に腹が立った。
「お隣に預かってもらってるの」
隣、と聞いて高村は身震いした。彼が病気になり、それが難病であることがいつのまにか知れると、それまで挨拶もしなかった隣家の嫁が頻繁に彼の家を訪ねるようになった。そして自分が信じている宗教をしきりに勧めるのだった。高村が相手にしないと、彼女は妻に向かって説教のようなものをした。妻は適当にあしらっていたが、側で聞いていると腹が立つほどしつこく、高村は彼女が来るとトイレに閉じこもることにした。すると彼女はトイレの扉のところにまで来て、信心を勧めた。
「あんな家においてちゃいけない。すぐ迎えに行くぞ」
怒気を含んだ声で高村が言うと、妻は「心配ないわ」と繰り返して言うばかりだった。
「修が洗脳でもされたらどうするんだ」
「そんなことする人じゃないわ。それにお姑さんも一緒なんだから」
「お前まであの女の味方か。それとももうあの女につけ込まれてしまったのか」
「大きな声を出さないで。ここは病院なのよ。他の人に迷惑だわ」
「とにかく今すぐ家に帰るんだ。兄さん悪いけど、母さんのこと頼む。隣の連中は変な宗教に凝ってて、俺たちを入信させようとしてるんだ。このままじゃ、修が危ない」
「おう、俺に任せておけ。しかし、お前病院に戻らなくていいのか」
「今夜は自宅に泊まってくるって言って、許可もらったんだ。さあ、恵子行くぞ」
高村は立ち上がって、病室を出ようとした。しかしベッドの脇に脚をぶつけて叫び声を上げた。
「あなた、ほんとに大丈夫なの?何だかおかしいわ」
「おかしくなんかない。もう直ったんだ」
ふらつきながらも高村は妻の手を取り、引っ張ったが彼女は動こうとしなかった。
「もういい、俺一人で行ってくる」
彼は妻の手を離し、あちこちにぶつかりながら病室を出た。視界が針の穴ほどに小さくなっていた。彼女が追ってきて、廊下で彼を捕まえた。
「あなた、見えてるの?」
高村は振り返って妻を見た。いや、見ようとした。しかし、灰色の雲がわき上がるように押し寄せてきて小さな光の穴をふさいだ。涙が頬を伝うのがわかった。
妻がそっとその涙をぬぐってくれた。
「ごめん。頭が混乱していたんだ。迷惑をかけた」
「もう、見えないのね」
「ああ、すっかり見えない」
わっと言って、彼女は彼の胸に顔を埋めた。背中をさすっても彼女のふるえは止まらなかった。
「どうかされましたか」
ナースらしい人の声が聞こえた。どこかとても遠いところから聞こえてくるようだった。
高村は雲の上に浮かんでいた。視力を失うとはこういうことなのかとあらためて思った。かき分けてもかき分けても雲はとぎれない。もう光が差すことはないのだった。
「病院に戻るよ」
「私も一緒に行くわ」
彼は妻の肩につかまった。今までは軽くさわっているだけだったが、これからはしっかりと握っていなくてはいけなかった。
「足元に気をつけてね。ゆっくりとよ」

高村は失明後、一週間で退院した。医者の言葉によれば「もう病気は固まった」ということらしかった。直ることはないが、これ以上ひどくはならないだろうということだった。「これからは、あなたの手や耳が目の代わりになります」と医者は言った。
高村は全寮制の盲学校に入り、自分より二回りも年の離れた生徒に混じって、点字や杖の使い方、あんま、マッサージなどを学んだ。
ステッキを使って、障害物との間の距離を測りながら歩き、耳をすますことで何かが近づいてきたり遠ざかってゆくのを感じた。ただの凹凸でしかなかった点も、やがては文字として認識できるようになった。指先は微妙なツボをとらえることができるようになり、腕や肩に筋肉がついてきた。
不思議なものだと高村は思った。何かを無くせば、それを補うように別の力が湧いてくる。やがて高村は、目が見えないことをそれほど不自由に感じなくなっていた。
盲学校を卒業して、自宅に「あんま・マッサージ」の看板を掲げるまでの間に、祖母は亡くなり、息子は小学生になった。

青木が訪ねてきたのは、仕事を始めて一週間ほどたった頃だった。仕事といってもほとんど客はなく、一日中本を読んでいることもあった。妻の収入だけでは生活していけない、本当に仕事が軌道に乗るのだろうかと不安に感じていた頃でもあった。
「随分元気そうですな」
青木にはわずかだが視力が残っていて、顔を高村に近づけながら言った。
「入院されている時より、ずっと身体も丈夫そうになられましたね」
「まあ、体調はいいですけどね。仕事が………」
「しばらくすれば常連のお客さんもつきますよ。私も最初は厳しかった。でも今は、そこそこ稼いでますよ。まあ、自分が食べていける程度ですけどね」
「不安なんですよ。そのうちにツボを忘れてしまうんじゃないかって」
高村は正直に言った。青木にだけは本当の気持ちが言えた。鬱屈した気持ちで毎日を過ごしていた彼にとって、青木は清水の流れる小川のような存在だった。
「高村さん。もしよかったらボランティアをしませんか」
青木のその言葉は高村の心に素直に入ってはこなかった。ボランティアというのは助ける人の事じゃないか。障害のある自分が人を助けるなんてできるわけがないじゃないか。彼はそう思った。
「私はね。週一回、老人ホームでマッサージのボランティアをやってるんです。皆さん喜んでくれますよ。肩が軽くなったとか、腰が伸ばせるようになったとか言ってくれるんです。でも私一人で一日にできる人数はしれてます。あなたも一緒に来てくれたら、もっとたくさんの人の身体を治してあげられると思うんですが」
「私にできるでしょうか」
「できますとも。高村さんも、苦しみながらいくつもハードルを乗り越えてこられたんですよ。そんな人には心がある。心は伝わりますよ。あなたのその指先や腕から」
高村は久しぶりに身震いするような感動を覚えた。
早速その夜、妻に相談をすると大賛成してくれた。そして翌週から、彼は青木とともに老人ホームに出かけるようになった。
最初は黙々とマッサージをしていた高村だが、次第にうち解けて世間話もするようになり、自分の心が開かれてゆくのを感じた。誰もが喜んでくれた。帰り際に握手を求めてくる人もいた。週一回のボランティアが高村は楽しみになってきた。ただ、行き帰りのタクシー代を施設が払ってくれることが気にかかっていた。そのことを青木に言うと。
「いいじゃないですか高村さん。それより、もっともっと皆さんに喜んでもらえるようにしようじゃありませんか」
そう言って励まされた。どこまでも前向きで明るい人だと高村は思った。自分は小さな事にこだわりすぎる。お客が増えないのもそう言うことが原因かもしれない。もう少し融通のきいた人間にならなければ。高村は身体に力がみなぎってくるのを感じた。

ボランティアを始めて三ヶ月ほどたった頃から徐々に客が増え始めた。マッサージの技術も上がったのを感じた。客が客を呼び、夕食をとっている暇のない日もあった。妻は喜ぶよりもむしろ高村の体調を心配した。
「夜は六時までとか、水曜日と土曜日は休みだとか決めておいたらどうかしら」
「いや、でもせっかく来てくれるんだから。それに自営業ていうのは、休みなんてあってないようなものじゃないか」
「お金のことなら心配いらないわ。何とか三人食べていけるし」
「でも、修の学費のこともあるだろ。これから高校や大学にも行かなきゃならないし」
そこでふっと妻が黙り込んだ。
「どうかしたのか」
「修のことなんだけど。どうも学校で嫌なことがあったみたいなの」
「どうしたんだ」
「先生が親の職業のアンケートをしたみたいなの。修ったら、マッサージは何業ですかって先生に聞いたらしいの。そしたらみんなに笑われたんだって」
「馬鹿にされたのか」
「悪い気持ちはないんだと思うけど、マッサージって言う職業が珍しいからかもしれないわね」
「普通のサラリーマンじゃなきゃいけないってことか。自営業の子だっているじゃないか」
そこまで言って高村は、最近、修と話をあまりしていないことに気づいた。夜遅くまで客が話し込んでいく日もあったし、家族三人で夕食をする日が珍しいくらいになっていた。
以前は、庭先でよく修を肩に乗せてやったものだった。妻は危ないからやめるように言ったが、修は喜んでいた。他の父親のようにキャッチボールをしたり、ドライブに連れて行ったりすることはできなかった。だから、父親でしかできないことを修にしてやりたかった。それが庭先での肩車だった。修は自分の身体を支えている父親の存在を強く感じていたことだろう。
「お前の言うとおりにするよ。これからは家族三人の時間を大事にしよう。修だってもっと大きくなれば、自然に俺たちから離れていくだろう。だから、今は一緒にいなきゃな」
「ありがとう」
「いや、お前が言ってくれなかったら、俺はずっとこのままだっただろう。自分のことしか考えていなかったんだ」
妻はそっと高村の肩を抱いて頬をすり寄せた。
本日は閉店いたしました。高村はそうつぶやいて妻の身体を引き寄せた。
翌日、高村は施術時間と休日を決めた。妻に頼んで、なじみの客には連絡をし、玄関には案内の紙を貼った。

それから一週間、一ヶ月と経ったが、思ったほど客は減らなかった。
土曜日の午前中は青木と老人ホームへボランティアとして行き、午後はゆっくりと過ごした。日曜日は修と遊ぶ日と決めていた。車の免許を取った妻と三人でドライブに行くこともあった。妻とまだ結婚する前によく訪れたヨットハーバーに行った時は、始めて手をつないだことを思い出したりした。
しかしそのうちに、修の方があまり近づいてこなくなった。親と一緒に過ごすよりも友達と遊んでいる方が楽しいらしく、高村は少しがっかりした。
「修の方が親離れしたのよ。でも、そのほうがいいかもね」
「まあ、いつまでも甘えん坊のままで、引きこもりなんかになられても困るしな」
「男の子は外で思いきり遊んだ方がいいのよ。そのうちガールフレンドなんか連れてくるかもね」
高村の寂しそうな表情を読み取ったのか妻はそんなことを言った。
「ガールフレンドか。あいつ好きな子でもいるのかな」
「そりゃいるでしょ。私には目星がついてるのよ」
「誰だ、隣の遙子ちゃんか」
「男って鈍いわね。この間、修が風邪引いて休んだとき、ノート届けてくれた女の子がいたでしょ」
「そうだったかな」
「結構可愛くて活発そうな女の子だったわ。その子のこと聞いたら、修ったら真っ赤になったのよ」
「そうか、あいつもそんな年頃か」
高村は知らないうちに成長している息子のことを思った。声変わりも間近いかもしれないなと独り言のように言った。妻はただくすくすと笑っているだけだった。

ある日、久しぶりに、修のほうから高村に話しかけてきた。治療が終わって客が帰った後、居間でお茶を飲んでいるところだった。
「お父さん、どうして目が見えなくなったの?」
突然そう言われて、高村は湯飲みを持ったまま、しばらく答えられなかった。
「ベーチェット病って言う病気なんだ」
「もう直ったの?」
「ああ、どうしてそんなこと聞くんだ?」
「その病気って移るの?」
「移りはしないさ。お前にも母さんにも」
高村は、湯飲みをテーブルにおいて点字本を手元に引き寄せた。
「じゃなくて、遺伝とかさ」
「この病気は遺伝はしないんだ。その証拠に、叔父さんも、お祖父さんも、親戚の誰もなってないじゃないか」
本を開いて、続きを指先で読み始めた。そうでもしないと落ち着かなかった。本当なら、息子を膝の上にでも乗せてやるべきだったかもしれない。
「それならいいけど」
「誰かに言われたのか」
「別に。ただ聞いてみたかっただけ」
「お前が心配することはないんだ。この病気はお父さんだけで終わりだ。もう誰もならないさ」
思わず力が入って息子を叱るような口調になっていた。高村は病気になり始めた頃の何ともしがたい怒りがよみがえってくるのを感じた。そんな父親の表情を黙ってみていたのか、修は口をつぐんだままだった。それから、友達のところへ行くと言って出かけていった。

高村はふと不安になった。ベーチェット病になる人は、遺伝子のある部分に異常がみられるということを、まだ病気にかかりはじめた頃に読んだことがあった。
自分の遠い親戚に、ベーチェット病にかかった人がいるかどうかはわからなかった。ましてや何世代も前の先祖が仮になっていたとしても、その頃はまだ病名さえわからなかっただろう。
統計によると、この病気は、自分がなったから子供もなるという確率は非常に少ないようだった。
だが、高村は重苦しい気分から抜け出せなかった。せっかく日差しが戻った家庭にまた別の影が忍び寄ってくる気がした。そんなことはない、だいじょうぶだ。彼は何度も自分にそう言い聞かせたが不安が去ることはなかった。

高村は居間に座って雨の音を聞いていた。ひさしを叩く激しい音がやんだかと思うと、今度は庭に雨水がしみ入っていく音が聞こえた。
今日は老人ホームに行く日だった。しかし昨晩、青木から「都合が悪くなって行けなくなった。高村さんも一人では心細いだろうから取りやめにしたいがどうだろうか」という電話があった。高村も一人で行くのは不安だったので、青木の言うとおりにした。「連絡は私の方からしておきますから」と青木は忙しそうな口調で言って、電話を切った。
ボランティアに行く日は休みにしていたので、少し手持ちぶさただった。妻も息子も出かけていた。妻が作っておいた昼食を食べると眠くなってきた。このごろは、昼寝をする癖がつき、客が玄関のチャイムを鳴らす音で目が覚めるということもしばしばだった。
疲れているのだろうかとも思ったが、それほど身体を動かしてはいない。ただ寝付きが悪いのは事実だった。修も自分と同じ病気になりはしないだろうかという不安が常につきまとっていた。夜、布団の中に入ると目がさえて、そのことばかり考えるのだった。
いつ起きるかわからないこと、それも、ほとんどあり得ないことなのに、何故それほど彼の心をがっしりとつかんで離さないのか。それはただ単に嫌な予感という言葉で表現できることではなかった。
高村は青木と話したかった。青木ならきっとこう言うだろう。
「そんなこと心配してどうするんですか。外れくじは私たちが引いたんだから、後は当たりしか残ってませんよ」と。
高村はおもむろに立ち上がり、電話の受話器を上げた。そして、短縮番号の三番目のボタンを押した。高村の家の電話機には三つだけ番号を登録することができた。一番目が恵子の会社。二番目が兄の家。そして三番目が青木の自宅兼治療所だった。しかし受話器の向こうから流れてきたのは感情のない女性の声だった。 「この電話はお客様の都合により現在使われておりません……」
高村は受話器を置いた。青木の身に何かあったのだろうか。昨夜の青木の話し方にはいつもにない焦りのような調子があった。
居間に戻りあぐらをかいて座り、考えをまとめようとしていると、車が家の前で止まる音がした。青木かもしれない。そう思って玄関まで歩いていった。
「高村さんお見えですか」
聞き慣れない声だった。高村は鍵を外した。ドアが開いて冷たい風が入ってきた。
「県警のものですが」
野太い声だった。
「目が見えないんですが」
高村は、男が身分証を見せているのを感じてそう言った。
「中に入れていただいてもよろしいでしょうか」
「え、ええ、どうぞ」
高村は後ろに後ずさった。
「青木浩三をご存じですね」
「ええ、知ってます」
「一緒に老人ホームにボランティアに行かれてましたね」
「はい。今日もその日なんですけれど、昨夜青木さんから電話があって、今日は中止になったんです。青木さんに何かあったんでしょうか」
「今青木がどこにいるかご存じですか」
「いえ、知りません。さっき電話しましたがつながらなかったんです」
「そうですか。もし、青木から連絡があったりしたら、電話していただきたいんですが……。ご家族の方は」
「今出かけてます。もう帰ると思いますが」
「それでは、この名刺に書いてある番号に電話して下さい」
男はそっと高村の手のひらに名刺をおいた。
「失礼します」
警官は去った。高村は玄関の鍵をかけることも忘れてその場に立ちすくんでいた。
昨夜、青木から電話があったのは十時頃だった。いつもの落ち着いた調子の声に何の変化も感じられなかった。あわてている様子も、追い込まれている感じもなかった。いったい彼に何があったのだろうか。高村は、落ち着かない気持ちのまま座り込んだ。

今は何も言えない、と警察は言った。青木が何か事件に巻き込まれたことは確かだった。高村はボランティアに行っている養老院へ電話をした。
「私、高村と申しますが、院長さんはお見えですか」
「高村さんですか。私、受付の八木です。高村さんのところにも警察の人が来ましたか?」
八木という女性は、いつも高村と青木が行くと、明るい声で出迎えてくれる女性だった。
「ええ、少し心配になったので、電話してみたんですが」
「青木さんは、ここの金庫からお金を持っていったんです」
「そんな馬鹿な。あの人の視力で、金庫を開けるなんてとても無理ですよ」
「それが、そうじゃなかったんです。青木さん、片目は、はっきりと見えるんです」
「どうしてあなたにわかるんですか」
「私、一ヶ月くらい前に、青木さんが院長の部屋を物色しているのを見たんです。私がいることに気がつくと、迷い込んでしまったとか言ってごまかしていましたけど」
「で、盗まれたのはいつです?」
「昨日です。青木さんが突然見えて、明日は来られないから代わりに来ましたと言って。院長が留守をする日だって事を知っていたんでしょうね」
「それで院長さんは」
「今、警察に行っています。それと高村さん、青木さんからお金を受け取ってみえましたか?」
高村は、一瞬自分が疑われたのかと思った。
「とんでもない。私はボランティアとして伺っていたんですから」
「やっぱりそうですか。青木さんには毎月謝礼をお渡ししていたんです。高村さんの分も含めてですけど」
高村は急速に心が萎えてゆくのを感じた。膝が震えて立っていることもできないくらいだった。
「そんなことをする人とは思えない」
「私もです。でも青木さんは、事業を拡大しすぎて借金に追われていたみたいなんです」
それからは何を話したのかも覚えていなかった。妻が帰ってきて、肩を揺さぶり、自分の名を呼ぶまでの間、高村は電話台の前でうずくまっていた。

高村は縁側に座っていた。時折、前の道路を車が通りすぎるだけの静かな日だった。日差しが柔らかく身体を包んでいた。
初めて発作があったのもこんな暖かい春の日だった。あれから七年経った。その間に青木に出会ったことで自分がどれだけ救われたことか。高村はまだ目が見えていた頃に見た青木の笑顔を思い出した。
何かの間違いであって欲しかった。もしかしたら誰かが青木に罪をかぶせたのかもしれない。幾度となく彼はそう考えた。しかし事実はそうではなかった。一ヶ月の逃亡の末、青木は逮捕された。
人間にはいろんな面があるものだと高村は思った。それが様々な人との関わりの中で表れる。残念なことだが事実を認めないわけにはいかなかった。
やがて学校帰りの子供達の声が聞こえてきた。高村は立ち上がって中庭の方へ歩いていった。修が走り寄ってきて、がっしりと高村の身体に組み付いた。
「父さん、相撲やろうよ」
「よし、着替えてこい」
「いいよ、このままで」
修はぐいぐいと押してきた。高村は修の腰のベルトをつかんで持ち上げようとした。しかし重すぎてできなかった。いつからこんなに重くなったのか、それとも身体に力がついたのか。ふと気がゆるんだその隙に修に投げられていた。中庭に仰向けに転がった。
「父さん、大丈夫?」
顔の側で修の声がした。声が変わりかけていた。高村は思わずうれしくなり笑い声を上げた。
「痛くない?」
「ああ、痛くない。でも起こしてくれ」
修は高村の肩を後ろから支えて起こしてくれた。
「何やってるの二人して」
自転車のブレーキ音がした。妻が帰ってきた。
「馬鹿ね。ケガでもしたらどうするの」
妻は高村の背中の砂を払い落としながら言った。
修は黙ったままでいた。怒られると思っているのだろう、身動きしないのがわかった。
「二人とも子供みたい」
「いや、二人とも立派な大人だ」
高村は宣言するようにそう言った。
「さあ手を洗ってきて。おみやげにシュークリームもらったのよ」
「やったあ」
修はそう言って、家の中に駆け込んでいった。
「恵子」
「なに?」
「修が声変わりしたのわかるか」
「そう? でもあなたの耳は少しの違いでも聞き分けられるから……修が、声変わりか。何だかうれしいような寂しいような感じ」
高村は嬉しかった。ここまで来られたことが自分たち家族だけの力ではないと思った。暗く沈み落ち込んでいる高村の心に光を投げかけてくれたのはいつも青木だった。彼に感謝する気持ちはかわりなかった。青木は結果として高村に立ち直るきっかけを与えてくれたのだ。

10

建物の中に入ると、かび臭い匂いが漂っていた。
付き添ってくれた係員が「ここでお待ち下さい」と言って、高村を椅子に座らせると、足音を響かせて遠ざかっていった。
冷え冷えとした中で静かな時間が流れていった。やがてドアの開く音がして、二人分の足音が聞こえた。自分の前に一人の人間が座るのを感じた。
「高村さん、青木です」
その声はかすれていて、今にも消えてしまいそうだった。
「ご迷惑をおかけしました」
「青木さん」
「申し訳ないことをしました」
「違うんです。私は一言お礼を言いたくて来たんです」
高村はガラス窓の向こうで青木が笑ったように感じた。
「おかしいですか?」
「いえ、そんな……。罪を犯した私にお礼だなんて、とんでもないと思っただけです」
高村は膝の上に乗せている拳を握りしめた。
「病院で自分を見失いそうになっていた時、あなたに海辺の方へ連れて行ってもらいました。青木さん、私はあなたが乗り越えてこられた苦しみを知ったことで、一つの危機を逃れることができたんです」
青木は黙っていた。高村は彼が話し出すのを待たずに言った。
「退院してからも随分励ましてもらいました。ホームのボランティアに誘っていただいたおかげで、未熟だった自分の技術に自信が持てるようになったんです。私は青木さんにここまで導いてもらったんです」
「高村さん。私はあなたを利用していたんですよ。謝礼も自分一人の懐に入れて……。そんなことを言っていただく資格なんかありません」
青木は涙声で言った。
「私は、事業を拡大しすぎたんです。借金がふくらんで、どうにもならなくなって、ホームのお金に手を出してしまったんです。これは事実です。私は、ここで罪を償います。そして時間がかかっても必ずお金を返します。高村さんの手に渡るべきだったお金も……」
「お金のことはどうでもいいんです。もう忘れてください。私は、そんなことを言うためにここへ来たんじゃありません」
青木はしゃくり上げるようにして泣いていた。高村はそれが収まるまで少し待っていた。
「青木さんは私に光を与えてくださったんです。そのことだけはどうか心にとどめ置いてください」
二人の間に沈黙の時間が流れた。
「それは……。それは違いますよ」
きっぱりとした口調で青木は言った。そして椅子から立ち上がった。
「あなたに光を与えているのは、あなたの奥さんであり、息子さんですよ」
高村は胸をえぐられるように感じた。妻の顔が浮かび、足にまとわりつく息子の温もりを感じた。
「いいご家族をお持ちだ。特に奥さんはご苦労されたと思います。でも明るいお方だ。いつお会いしても、目に輝きのあるお方だ。私のごくわずかしか見えない視力でも奥さんの放っている光はまぶしいくらいですよ」
扉の閉まる音がした。かび臭い風が高村の頬をなでた。
「行きましょう」
係員が高村の肩を叩いた。
「迎えの方がみえています」
高村は立ち上がり、係員の肩につかまり歩いていった。ひんやりとした廊下には二人の靴音だけが響いた。 外に出ると暖かい空気に包まれた。
「お話しできた?」
妻が彼の腕をとった。
「あの人は悪い人じゃない」
「そうね。随分助けていただいたものね」
妻は車のドアを開けて、高村を助手席に座らせた。彼は手探りでシートベルトを引き、バックルに差し込んだ。一ヶ月前に妻は車の免許を取り、中古の軽自動車を買ったのだった。車が動き出した。
「兄貴の様子はどうだった」
「元気そうだったけど、無理にそうしてるって感じもしたわ」
そうだろうな、と高村は思った。兄は腎臓を病んで、週に三回透析に通っていた。今まで大きな病気をしたことがなかっただけに、兄は精神的に参っているはずだった。
高村は窓を少し開けて風を入れた。
「家に着くまでまだ一時間くらいかかるわ。途中のサービスエリアで休憩するからね」
「ああ、帰り道なんだけど、四日市のインターで降りて、湯の山街道を走ってくれないか」
「いいけど、どうして?」
「線路を見たいんだ」
その一言で妻はわかったらしかった。
高村が初めて発作を起こした所。そこは彼にとって苦しみの始まった場所であり、そこから徐々に光を奪われ、闇の中に落ちて行ったのだった。そこを通ってみたくなったのは、今日が初めてだった。今まではずっと避けていた。
「今でも変わってないかな」
「そうね、少しお店なんかも増えたけど、道の両側は田んぼがまだ残ってるわ。電車は赤い車両に変わってね。仕事の帰りに時々出会うことがあるわ」
「今までそんな話しなかったじゃないか」
「あなたが聞きたくないだろうと思って……」
「もういいんだ。今では懐かしい場所だ」
妻はラジオのスイッチを入れた。FMから流れてくるのはクラシックだった。妻はクラシックはあまり好きな方ではなかった。それでもチャンネルを変えようとしない理由が高村にはわかった。
「お前には感謝している。頭を下げても下げきれないくらいだ」
「頭なんか下げなくていいの」
「怒ってるのか?」
「怒ってるわ」
それから彼女は、ようやく好きなポップスチャンネルに変えた。澄んだ声のバラードが聞こえてきた。
高村は背もたれに身体を預けた。ラジオから聞こえてくる音楽がここちよく、次第に眠くなってきた。隣で妻が曲を口ずさんでいるのを聴きながら、高村は短い眠りに落ちた。

(了)

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