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第44回北日本文学賞3次予選通過作品(2010年)

七月の中旬になっても梅雨が明けず、目の前を流れる川の水かさも随分増えていた。橋の手前に立ち、麻美は叔母を待っていた。
ここは二年前、叔母が手を振って迎えてくれた場所だった。あの時、麻美は、自分の中にあるパズルをどう組み合わせていいかわからず、叔母に会いに来たのだった。
「迷ったときは半歩前よ」というのが叔母のアドバイスだった。その言葉通り、麻美は半歩前に踏み出した。踏み出したとたんにパズルは一つの絵になった。未来に向かっていく自分の姿をそこに見いだしたのだった。
麻美は派遣の仕事を辞め、付き合い始めた男性と別れた。そして、二〇代の頃の夢だった、陶芸作家をめざす道を選んだ。母親に早く死なれ、ずっと父親の世話をしてきて、いつの間にか麻美は四〇歳に手が届くところまで来ていた。しかし、今からでもやれると思った。それだけ叔母の言葉には説得力があった。
そして叔母のほうも半歩前に踏み出した。結婚して数年で夫に先立たれ、周囲が再婚を進めても一切断り、山あいのこの街にずっとひとりで暮らしていたが、五十歳になったその年に再婚を決めたのだった。相手は十歳年上の鉄道員で、定年になって、好きな釣りを楽しむために海辺に家を買った。彼は二十年ほど前に離婚したらしかった。
男の名は高瀬といった。目を細めて笑う仕草が麻美にはかわいいと思われた。麻美の父親のことを兄さんと呼び、すぐ仲良くなった。彼は四国の出身で、両親とは早くに死に別れ、血縁者はほとんど残っていなかった。別れた妻との間に娘さんが一人いるらしかったが、叔母も高瀬もそのことは話したがらなかった。
雨がまた降り出した。麻美は持っていた傘を広げてかざした。傘を打つ雨の音が耳に響いた。
麻美と父親が住んでいる今の家は、叔母から譲り受けた。この街には有名な陶芸村があり、作家がそこに集まって住んでいた。麻美がこの地に移り住むことを叔母も勧めてくれたし、麻美自身もそれを望んだ。
橋の向こうに黄色い花柄の傘が見えた。叔母はその傘に身を隠すようにして歩いていた。麻美は声を出して呼びかけようとしたができなかった。
橋を渡る間際になってようやく叔母は麻美に気がつき、傘を投げ出しそうな勢いで上に持ち上げ、「麻美ちゃん」と叫んだ。麻美は小走りになって近づいていった。
「バス遅れてたの?」
「坂をあがる手前でスリップしたのよ。びっくりしたわ。このまま崖の下に落ちていくんじゃないかって思ったぐらい」
二人は声を合わせて笑った。降り続く雨を跳ね返すような笑い声だった。
二人は傘を並べて歩いた。麻美は叔母の表情に懐かしさがあふれてくるのがわかった。ずっと一人でいた頃のことを思い出しているのだろうと思った。
「お父さん出かけてるの。会社のOBと麻雀大会だって。夕方には帰ってくるわ」
「お酒はもうやめたの?」
「ほとんど飲まないわ」
「たいしたものね。ちゃんと自分の言ったことをやるんだから。同じ兄妹でも随分違うわ」
玄関を入ると、叔母は長いため息をついた。麻美は用意してあったタオルで彼女の背中を拭いてあげた。随分やせたのが触っただけでわかった。それを察したのか、叔母は「自分でやるわ」と言って、タオルを手に取った。
部屋にあがり、叔母はソファに腰を下ろした。麻美は土産にもらったケーキを紅茶と一緒に出した。
「どう、おじさんの具合は」
「もう、子供みたいで弱ったわ。わがままなことばかり言って」
そう言いながらも叔母は笑顔を絶やさなかった。
「私の絵、まだ置いてあるのね」
リビングの正面に飾ってある風景画を見ながら彼女は言った。
叔母は若い頃描いた絵を大切に持っていた。この家から出て行くとき、全部処分すると言ったのだが麻美は引き止めた。
「麻美ちゃん、仕事のほうはどうなの」
「今は先生について修行中ってとこね。時々展示会にも出しているけど買い手はつかないわ」
「まあこれからよ。でも夢がかなって良かったじゃない」
麻美は家から車で十分くらいに所にある作家のアトリエに通っていた。今まで自分の中に眠っていたものを少しづつ見つけだして創作を続けていた。
「しばらくここから通わせてもらうわ」
「遠慮はいらないからね」
高瀬は末期のガンにかかっていた。海の近くに建てた家で釣りを楽しんだのは一年にも満たなかった。その地域には抗ガン治療のできる病院がなく、叔母が探し出したのは自分が三十年近くも暮らした街の市立病院だった。
テーブルに置かれた紅茶は三分の一ほど残った状態でぬるくなっていた。雨の音が大きくなった。麻美は窓辺に近づいていった。中庭に咲いた花々が、雨粒にたたかれて揺れていた。
「いやあ、まいったまいった」
見ると玄関で父親が濡れ鼠になって立っていた。麻美は急いでタオルを取りに行き、父親に渡した。
「傘持って行かないからよ。あれほど言ったのに」
「こんなに降るとは思わなかったんだよ。それにしても参ったな」
「大負けで参ったの?兄さん」
「おう来てたか」
父親は額から流れ落ちる水滴に顔をしかめていた。
「どうだ、高瀬さんは」
「今日は随分くたびれてたわ」
「そりゃそうだろう。長旅の上で入院と来れば、誰だってくたびれるさ」
「それでも、何にもしないよりはね」
「抗ガン剤ってきついんだろう」
「それでも、専門の先生だと随分違うそうよ。海の音を聞きながら家に閉じこもってるより、少しでも出かけられるようになればね」
「まあ、そうだな」
「それより、兄さん。床が水浸しになる前に着替えてお風呂にでも入ったら」
叔母はそう言って重苦しい雰囲気を蹴散らせた。そういうことが上手な人だった。叔母自身の内面は相当きついだろうと麻美にも察しはついた。しかしその中へ踏み込んで行ってはいけなかった。それが叔母と付き合うためのルールだった。
「こんな雨じゃなかったら、温泉にでも入りに行きたかったわね」
「行こうよ、叔母さん。お父さんには留守番してもらって」
「ついでに夕飯も食べてこようか」
「うん」
麻美はそそくさと食器を片付け始めた。女二人が急にうきうきしているところに、バスタオルを身体に巻いた父親が現れ、目をキョロキョロさせていた。

翌朝、小雨の中を叔母は病院へ出かけていった。麻美は仕事に行く準備をしながらも、昨夜叔母から聞いた話の余韻にとらわれていた。
高瀬が叔母と結婚する前からすでに進行性のガンに冒されていたこと。叔母はそれを知ってて結婚に踏み切ったこと。そのことは麻美も父親も知らなかった。それにあの頃の高瀬は、そんな病気を抱えているようには見えなかった。
「看取ってくれる人がほしかったんだろうな」
父親がそうつぶやいたとき、叔母は「そうじゃないの」と言った。
「病気を理由にして、自分のしたいことをあきらめるのは嫌だったのよ。今でもそうだけど」
高瀬が海辺に家を買ったのも、叔母を好きになりプロポーズしたのも、そういう思いがあったからだった。
病気になっても病人ではありたくない。自分で自分にブレーキをかけたくない。
四十歳になって陶芸作家への道を選んだ麻美には、その気持ちがわかった。まして叔母はそのことで迷っている麻美の背中を押してくれたのだ。高瀬の思いと重ね合わせるように叔母は麻美を見ていたのかもしれなかった。
麻美は車で仕事場へ向かった。この秋に向けて新しいシリーズのデザインを作っているところだった。これがうまくいけば、作家の卵として認めてもらえるかもしれないのだった。
麻美の先生は、吉原という名で、東京の芸術大学を出た後、この街にある陶芸会社に入った。その後、同期入社の梶川という作家と二人で陶芸村に移り住み共同の窯をもった。
梶川はすでにいくつかの作品展で入賞しているが、吉原は積極的な営業活動や根回しをしないせいか、作品は素晴らしいのに、あまり認められてはいない。しかし麻美は、吉原に師事して良かったと思っている。
「おはようございます」
麻美が扉を開けると、パソコンに向かっていた吉原が、微笑を浮かべながら左手で招いた。肩越しにモニターを見ると、3Dの器がそこに浮かんでいた。吉原はマウスを使ってその器を上下左右に動かしてみせた。
「これを基本のデザインにしようと思ってる。アレンジは麻美ちゃんに任せるよ。君のデッサンを基にして少し手を加えたんだ。もちろん麻美ちゃんの作品として発表するつもりさ」
「ありがとうございます」
麻美は胸が熱くなるのを覚えた。黒い画面の中に浮かんでいる映像をじっと見ていると、こみ上げてくるものがあった。
「僕はちょっと隣に行ってくるよ」
「梶川先生の所ですか」
「うん。ちょっとうちあわせがあってね。そうそう、彼の所に今日から新しい女の子が入ったんだ。麻美ちゃんにはいい話し相手になると思うよ」
「もしかして先生、その女の子が目当てで行くんじゃないでしょうね」
「バレた?」
そういって立ち上がると吉原は上着をはおって出て行った。
ドアが閉まると暖かい雰囲気が壁に吸い込まれるようにして消えていった。吉原がいるだけで部屋の空気が随分違う。一緒にいる麻美の心まで和ませてくれる人だ。
麻美はモニターの前に座り、いくつかの形状を作り、絵柄をマッピングしていった。パソコン上のことなので実際焼き上がったものとは違うが、簡単にシミュレーションできるのがよかった。麻美は試行錯誤を繰り返した。
ふとした瞬間に叔父と叔母のことが思い浮かんだ。今日は抗ガン剤を入れる日だった。副作用が少なければいいがと麻美は思った。一人が苦しむと、その人につながっている人にも苦しみが伝わる。
ドアが開いて吉原が戻ってきた。
「麻美ちゃん、友達を連れてきたよ」
見ると先生の横に女に子が立っていた。麻美より十歳くらいは若い感じがした。
「梶川さんのところに入った山下さんだ」
私は立ち上がり彼女にあいさつした。ほっそりとした体つき、黒くつややかな長い髪、大きくて潤んで見える瞳。人混みの中にいても目立つような存在感のある子だった。
「山下絵里香です。よろしくお願いします」
「遠山麻美です。こちらこそよろしく」
麻美はお茶を出してしばらく三人で雑談した後、彼女を二階の展示室に案内した。そこは吉原の作品を展示し、来客が求めれば即売もする場所だった。
「こういう並べ方もあるんですね」
彼女は一人で納得したように言った。
麻美には意味がわからなかった。ただ雑然と陳列しているだけだと思っていたが、先生なりの考え方というか意図があるようだった。自分にはわからないことを彼女が知っていると思うと少し悔しい気持ちになった。
「山下さんはどちらから来られたんですか」
「横浜です」
「こんな田舎にわざわざ?」
「母が梶川先生と知り合いなんです」
「それで先生のところで勉強を?」
「勉強っていうか、アシスタントですね。私はプロになるつもりはないですから」
麻美はなんだか煙に巻かれた気がした。鋭い感覚を持っているかと思えば、ただのアシスタントとしてここまで来たという彼女に違和感を覚えた。
「私、少し息抜きをしたかったんです。仕事からも家族からも離れて」
彼女はゆっくりと歩き回りながら言った。麻美は足を止めて彼女の横顔を見た。急速に自分の心が冷えてゆくのを感じた。
育った環境が違えば考え方も違うだろう。しかし、母親が亡くなり、父親の世話をしながら、気がついたら四十歳に手が届くところまで来ていて、これから自分の夢に向かって進もうとする麻美にとって、彼女の考え方は受け入れがたかった。彼女はきっと贅沢な暮らしをし、甘やかされてきたのだろう。そう思った。
「私がここにいるのは三ヶ月なんです。短い間ですけどよろしくお願いします」
彼女は麻美に笑顔を向けてから頭を下げた。
「三ヶ月ですか」
「ええ、短いです。でもいいんです。仕方ないから」
彼女は皮肉とも取れるような言い方をした。
「もう降りましょうか」
麻美はわざとぶっきらぼうな言い方をした。
「もう少し見てていいですか」
「じゃあ、スイッチ切っておいてくれますか」
「ええ」
麻美は彼女をその場に残し一人で階段を下りた。

入院して一週間がたち、叔父は仮退院を許された。週に二回通院して抗ガン剤を入れなくてはいけないが、白いベッドの上でじっとしていることから解放され、叔父の表情には柔らかさが戻った。病院に行かない日は、叔母と連れだって出歩いていた。
「一度、麻美ちゃんが仕事してるところを見てみたいな」
そんなことを言って、麻美を困らせることもあった。
「お前にもファンができて良かったな」
父親は呑気にそんなことを言った。
「でも、窯に入れて焼き上げるのって大変なんでしょ」
叔母がうまく話をそらしてくれる。
「そりゃあ、寝ずの番をしなきゃいけないから。でもその時が一番楽しいわね。時間をかけて自分の分身が少しずつ育っていくのを想像するの」
「今度はいつ頃焼くの?」
「十一月頃かな」
そう言った麻美の心にすっと冷たい風が吹き込んだ。食卓を囲んでいた父親や叔母も同じ風を感じたに違いなかった。しかし叔父は頬をゆるませ、遠くを見るような目つきで嬉しそうな顔をした。
「楽しみだな。分厚いコートを着て麻美ちゃんと一緒に見ていたいな」
「風邪引きますよ」
叔母が言った。漬け物を一つ二つと叔父の皿にのせている。父親はお茶漬けをかきこんでいた。
「隣の梶川先生のところに、新しい女の子が入ったの。横浜から来たのよ」
「随分遠くから来たのね。よほど熱心なのね」
「それがね、作家になる気はないらしいの。私から言わせるとちょっと遊びに来たって感じね」
「手厳しいわね、麻美ちゃん」
「そんなことないわ」
叔母と父親は顔を見合わせてほくそ笑んでいた。叔父はお茶をゆっくりと飲み干すと、両手を合わせて合掌した。それから自分のトレーを持って立ち上がり、足を引きずりながら台所まで運んだ。そんな叔父を叔母は何も言わずに見守っていた。

翌日、麻美が昼食から戻ると、叔父が吉原先生と話し込んでいた。ベージュのジャンパーを着、アディダスのニット帽をかぶっていた。叔母は後で迎えにくるというので、麻美は二階に案内した。
「ここに麻美ちゃんの作品も並ぶんだね」
「さあ、それはまだわからないけど」
叔父は両手を合わせ、祈るように目を閉じた。頬の肉は落ちているが叔父の表情は柔和だった。特に手を合わせている時は、輝かしいものを感じさせた。それは、叔父が毎日を大切に生きているからこそあふれてくるのだろうと麻美は思った。
叔母が迎えに来るまでまだ時間があったので、梶川先生のギャラリーに行くことになった。叔父と二人で砂利道をゆっくりと歩いた。大きな一枚ガラスのショーウインドウが見えてきた。
山下さんが陳列を直していた。叔父は目を細めて彼女を見た。彼女も麻美たちに気がついたようで会釈をした。
叔父の腕をとってギャラリーにはいると、山下さんはディスプレイスペースから降りてきた。
「ごめんなさい仕事中におじゃまして」
「いいえ、ようこそ。大歓迎です」
「こちら、私の叔父です」
「初めまして、山下です。アシスタントをしています」
「やあ、こんにちは。ここもいい雰囲気だねえ」
「あいにく梶川は外出中で」
叔父はギャラリーをぐるっと見回していた。ショーウインドウには夏の日差しが差し込み、器の影をあちこちに映していた。
「山下さん、一人でやったの?大変だったでしょう」
「先生が好きにしていいっておっしゃったので」
彼女は額に汗を浮かべていた。疲労の色は隠せなかった。
「配置のバランスが素晴らしいわ」
「そんなことないです。まだ途中ですから……」
叔父は両手を後ろ手に組んで、ギャラリーを歩き始めた。一通り見ると中央にあるソファーに身を沈めた。山下さんはそのサイドテーブルにグラスに入った麦茶を置いた。
「いいものを見せてもらいました。ありがとう」
「ありがとうございます。梶川にも伝えておきます」
「山下さんでしたね」
「ええ」
「私の娘がちょうどあなたと同じくらいの年頃でね。今は一緒に住んでないけど」
「そうなんですか。私の父もおじさまと同じくらいです」
日が少し傾いて、ショーウインドウから影が伸びてきた。その影がギャラリーの空間の一部であるかのように見えた。
「そろそろ迎えの車が来たようなので失礼します」
エンジンの音でわかるらしい、麻美が外に目を向けると、叔母の車が駐車場に入ってきていた。
「ごちそうさまでした」
そう言って叔父は手を合わせた。
叔母がドア越しに中をのぞいていた。麻美は叔父の手を取った。
「山下さんありがとう。またね」
「またいらしてください」
麻美たちが外へ出るまで山下さんは一緒に来てくれた。叔父は助手席に座ると大きく吐息をついた。
「動きすぎて疲れたんじゃないの?」
「いや、そんなことないよ」
叔母と叔父はそんな会話を交わした。
車はゆっくりと道を下り、走り去った。麻美はギャラリーの方を振り返った。山下さんはテーブルを拭きグラスを片付けているところだった。
今まで一度も娘さんの話をしなかった叔父が、彼女にはごく自然に話をしていた。彼女にその面影があるのか、それとも胸の奥に隠していたものが何かのきっかけで出てきたのか。麻美はそんな思いを巡らせながら仕事場に戻った。

それから一週間近く真夏日が続いた。街中と比べると涼しいとはいっても、空気は息苦しいほどで、さすがに叔父も参っているようだった。病院以外にはどこにも出かけず、夕方、川縁に涼みに出ることもなかった。
七月最後の日曜日、久しぶりに厚い雲が太陽を隠した。叔父は待っていたように叔母を誘い、朝方から出かけていった。二人を乗せた車を見送った後、麻美は父親と二人で居間にいた。
「高瀬さん、お前の作品を楽しみにしているんだ。毎日のようにそんな話ばかりしてるよ。秋までもってくれるといいんだけどな」
「お父さん、そんな話やめようよ」
「そうだな」
父親は何度も目を通した今朝の新聞をもう一度広げた。
麻美はやり残した仕事があると言って家を出た。本当はやり残した仕事などなかった。アトリエに行けば重苦しい雰囲気から抜け出せると思っただけだった。
車を降りて、ふと隣に目をやると、山下さんが出てくるところだった。麻美は彼女に呼びかけた。
「このあいだはありがとう」
彼女は軽く頭を下げて弱々しく微笑んだ。少し気分でも悪いのか、顔色がさえなかった。
「麻美さん、今からお仕事ですか?」
「ううん、何となく行き場がなかったから。山下さんは?」
「私もそうなんです。でも、ちょっと疲れちゃった」
「お昼まだだったら、一緒に食べない?」
「ありがとうございます。でも、あまりおなかすいてないんです」
「それなら、ちょっとしたピクニックなんかどう?」
「いいですね。ピクニックなんて久しぶり」
彼女の顔色が急に良くなったような気がした。麻美は自分もはやる気持ちを感じていた。
「私、行きたいところがあるんです。この近くに滝があるってきいたんですけど」
「ああ、蒼滝のことね」
「あおたき?ですか」
「そう、水がきれいで澄みきっているから、蒼い色に見えるの。だから蒼滝。わかりやすいでしょ」
「歩いていけます?」
「おしゃべりしながらゆっくり歩いても、二〇分ぐらいで行けるわ」
「よかった。麻美さんが来てくれて」
彼女は小さな妹のようにはしゃいだ。麻美は彼女の幼さが残る表情に親近感をいだいた。昼食は滝の近くにあるそば屋でとることにし、二人は肩を並べて歩き始めた。
「山下さん。今いくつなの?」
「この秋に三五歳になります」
「若く見えるわ。まだ二〇代の後半かと思ってた」
「苦労が少ないからですよ。ずっと親に甘やかされてきましたから」
「でも今は一人で生活してるじゃない。遠いところで」
「ええ。今は。一人でいるのも快適ですよね」
二人は久しぶりに出会った高校の同級生みたいによく喋った。
友達のこと、好きなタイプの人のこと、仕事の事、将来の夢についてなど………。
舗装されていない細い道に入ると、両側に立ち並ぶ木々が二人をいっそう親密にさせた。麻美は彼女の手を取ってみた。彼女は少し恥ずかしそうにした。女同士で手をつなぐのも久しぶりだった。
「叔父がね、この間、山下さんに自分の娘さんの話したでしょ」
「ええ。その人、今は一人暮らしされてるんですか?」
「前の奥さんの子なの。今は私の叔母と結婚してるから」
「そうなんですか。時々会われてるんですかね」
「わからないわ。叔父は、一切その話はしないから」
道はさらに狭くなり、下ってゆくと、竹を使った階段が作ってあった。空気は湿気を感じさせなくなっていた。滝の音がかすかに聞こえてきた。
「どうして山下さんに、娘さんの話をしたのかなと思って、不思議だったの」
彼女はしばらく黙ったままでいたが、やがて意を決したように言った。
「私と同じ先生なんです」
彼女の言った意味が麻美にはわからなかった。
「一昨日病院に行ったときに、叔父様に声をかけられました。先週こちらのアトリエに来られる前に、何度か私を見かけていたんだって、おっしゃってました」
「どこか悪いの?」
「私も抗ガン治療を受けてるんです」
木々の間からかすかに滝の姿が見えた。梅雨が長かったせいか、流れる水の量は多いようだった。
「私、肺ガンなんです。今は自分の骨髄を移植して落ち着いてるんですけどね。この髪もかつらなんです。これを取るといがぐり坊主の中学生みたいなんですよ」
麻美は淡々と語る彼女の言葉を半ば信じられないでいた。
「告知を受けた時、さすがに落ち込みました。大きな穴に向かって叫びたかった。どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないのって」
滝の音が大きくなった。その響きが木々にも伝わり、梢をかすかに揺らしていた。
麻美は混乱した頭の中で、あと二、三分もすれば着くだろうと考えていた。
「誰もが私を見る目に哀れみを含ませていました。私はそんなところから逃げたかった。だから、主治医の先生に相談したんです。しばらくの間、静かなところで一人で暮らしたいって。そうしたら、この街を紹介されたんです。病院も信頼できる先生がいるからって、紹介状まで書いてもらって」
重い雲の隙間から光が差した。風景が開け滝の姿が見えた。高さは五メートルくらい、幅は一メートルくらいのものだが、近くで見ると圧倒されるような迫力がある。
「体調は大丈夫?歩いて平気だった?」
麻美はようやく言葉を出すことができた。彼女のためを思って言ったというよりも、自分を助けるために言ったようなものだった。
「心配しないでください」
「ごめんなさい」
「そうじゃないんです。私、一昨日、叔父様から麻美さんのこと聞いたんです。作家になるためにがんばってること。それと、いろんなハードルを乗り越えてこられたことも」
「そんなたいしたものじゃないわ。わがままを貫いただけよ」
「叔父様って素晴らしい人ですね。誰よりも生きてるって感じがします」
麻美たちは滝壺の手前にある柵まで近づいていった。水しぶきが顔にかかるくらいの勢いだった。かすかに虹が見えた。
「私、本格的に作家を目指すことにしました。実は私も夢を持っていたんです。一度はあきらめたけど、もうあきらめないことにしたんです。病気を理由にするのは甘えてることなんだってわかったから」
彼女は麻美の方を向いた。いままでにない輝きがそこにはあった。
「麻美ちゃん」
そう呼ばれて振り返ると、カメラを手にした叔父と、叔母が並んで立っていた。
「いつ来たの?」
「さっきまでそこで、そば食べてたんだ。冷たくておいしかったよ。こしがあってね」
山下さんは叔父に頭を下げた。叔父は手を振ってそれに答えた。
「せっかくだから、滝をバックに、女流作家二人の写真を撮らせてもらおう」
早速カメラを構えた叔父を叔母はおかしそうに見ていた。麻美たちは顔を見合わせてから寄り添って腕を絡ませた。
「ハイ、チーズ」
叔父がそう言ってシャッターを切った。

(了)

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