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高村は縁側に座っていた。夕日が山の端に沈みかけていた。茜色の光が雲を染めていた。
母親がお茶を入れて持ってきた。
「母さん、面倒かけるね」
「何言ってるんだよ。私は好きでやってるんだから」
「父さんが寂しがってないかな」
「さあね。そんなことより、お茶が冷めるよ」
高村は頷いてお茶をすすった。お茶にお袋の味というものがあるとは思えなかったが、何故か子供の頃に戻ったように感じた。
「私はずっとここにいてもいいんだよ。恵子さんはどう思ってるかわからないけど、朝から晩まで仕事して、家事もこなして、修の面倒もみてなんて無理だよ。せめて、お前が退院してくるまでは、恵子さんの手助けをしたいんだよ」
「入院してもよくなるかどうか」
「よくなるよ。よくなってもらわなくちゃ困るよ」
母親は立ち上がって台所に盆を置きに行った。
高村は医師から入院を勧められていた。病状が思った以上に早く進み、仕事をしながらの通院や投薬では効果が出なくなってきたのだった。
会社に相談すると、あっさりOKがでた。ただし休職期間は三ヶ月しかなかった。中途入社扱いだからというのがその理由だった。それを過ぎると退職になるということだった。つまり俺をやめさせたいんだな、と彼は思った。
妻は朝早くから働きに出て、夜遅くに帰ってくる。勤め先からは正社員にならないかと誘われているらしかった。しかし、さすがに彼女は疲れが顔に出ていた。家事は義理の母親がやってくれるのに任せていたが、修の世話だけは自分でやらなければという思いがあるのだろう。仕事の日でも、昼休みには、修の様子を見るために戻ってきた。そして、休日はべったりと一緒にいた。
高村はそんな彼女の様子を見ると、妻にとって義理の母は他人と同様なのだとつくづく感じるのだった。
「目が見えなくなったら盲学校へ行くことになる。そこで、点字や、鍼、灸を勉強するらしい」
「そんな心配しなくても大丈夫だよ。よくなるって言ってるじゃないか」
「いや、そういうことも考えておかなきゃいけないんだ」
話をしているうちに日が沈んでしまった。
縁側の庭に、妻の自転車が置いてある。前に子供乗せを付け、後ろには買い物を入れるかごが付いている。スーパーに買い物に行ったりするのだが、坂道を上るときは、自分は降りて、自転車を引いてくるらしい。修を前に、買い物を後ろに乗せた自転車を、額に汗を流しながら押して歩く彼女の姿を想像すると、不思議なことに、その彼女の顔には笑顔が浮かんでいるのだった。楽しくてしようがない、そんな感じなのだった。
「ただいま」
玄関の扉が開いた。高村が立ってゆくと、恵子は修を抱いたまま三和土で待っていた。子供は母親の胸の中でぐっすりと眠っていた。掲げるようにして差し出された修を高村は抱き寄せ、その温もりを感じた。
「友達に送ってもらったの」
そう言いながら彼女は靴を脱いだ。仕事用に買ったワンピースを着ている。
「どうだった?」
「うん、なんとかなりそう」
その瞳には輝きというよりも安堵があった。
保育園に行ってくるといって出て行ったのは、昼食の後だった。恵子としては、修をいつまでも義母に甘えさせていてはいけないと思ったのだろう。仕事の日は保育園に預かってもらうことにしたのだった。修にとってもその方がいいだろうと高村は思った。
保育園が受け入れてくれるかどうか彼女自身も心配していたが、最近はそういう相談も多く、家庭の事情を鑑みて対応してくれたということだった。
高村の母親は、そんなことにお金を使わなくてもと言ったが、妻は耳を傾けなかった。それには一つ理由があった。母親が肝臓を患っていることだった。いくら孫がかわいいからと言っても、体がついていかない時もある。この家に来てからも、一度倒れて二、三日寝込んだことがあった。
高村は視力が落ちていてはっきりとわからないが、妻には母の目が黄色くなっているのがわかるらしかった。黄疸が出ているのだった。病院で薬をもらってはいるが、もし過労で倒れられたりしたら、と妻は心配していた。
「きっと、いい友達ができるわ」
普段着に着替えてきて恵子は言った。
「けんかしなきゃいいがな」
「あら、けんかぐらいしなきゃダメよ。男の子なんだから。一人っ子はけんか慣れしてないから弱いのよ」
そう言ってから妻は急に口をつぐんだ。本当はもう一人子供がほしかった。次は女の子がいいなと二人で話していた頃が懐かしかった。
「さあ、夕飯の支度でもするかね」
母親が立ち上がって台所へ消えた。その後に妻が続いた。
高村は修を抱えたまま縁側まで行った。彼は眠っている子供の顔をじっくりと見た。鼻が高いところは妻に似ている。目元は自分にそっくりだ。
お前を俺と同じ病気にはさせないからな。高村は小声でささやいた。そして、この子の顔を今のうちに目に焼き付けておかなければと思った。
やがては成人し、結婚もするだろう息子が、どのように成長してゆくのか、それを見られないのは残念だった。何とか輪郭だけでもいいからうっすらと見えるだけの視力が残ってくれないものだろうか。そう思いながら息子の顔を両手で触った。子供はくすぐったかったのか目を覚まし、彼の膝から逃げていった。

高村は立ち上がり網戸を閉めた。夜が近づいていた。
彼は目を閉じてゆっくりと歩いてみた。方向が全くわからない。すねにテーブルの角が当たり、居間の真ん中にいるのだとわかった。しかし自分がどちらを向いているのかわからない。左に進んでみた。何かに頭をぶつけた。冷たい汗が額に浮かんだ。
闇に包まれるというのはこういうことなのかと、高村はあらためて不安を感じた。息苦しくなり、彼はそのまま座り込んだ。身体の回りに漆黒の壁が立ちはだかり、閉じこめられているような気分だった。
「何をしてるの」
妻の声でわれに返り、彼は目を開けた。
「子供みたいなことして、ものを壊さないでちょうだい」
「少し練習してたんだ」
「練習だなんて……。そのことが起こってからでいいじゃない」
彼女は高村の隣に座り込んで、背中をさすり手を握った。息苦しさが次第に和らいでいった。それがわかったのか、彼女は高村の肩を軽くたたくと、立ち上がって台所の方へ戻った。
そのこと、は身近に迫っている。時間がない。今できることは何だろう。彼は考えた。入院するまであと三日間ある。旧友を訪ねて回ろうかとも思ったが、同情の視線を受けるのは嫌だった。
そういえば新婚旅行以来、妻と旅行に行ってなかった。鉄道の勤務は不規則で、まとまった休みも取れなかった。母親に留守番を頼んで妻と二人で旅行に行こう。そう考えると、高村の不安はどこかに吹き飛んだ。 彼はチラシの裏側にボールペンで計画を書いてみた。三つほど案を作ったところで、台所の方へ行った。紙を見せると妻は、濡れた手を布巾で拭き改めて紙を手に取った。
「三番目がいいわね。有給休暇も余ってるし、課長に頼んで休みをもらうわ。それと、電車の時間は調べといてね」
「乗り換え案内なら俺にまかせてくれ」
台所に笑い声が響き渡った。高村の足に修がしがみついてきた。

高村の計画は実現しなかった。
出発日の前日、彼は激しい頭痛と高熱に襲われて、病院に運ばれた。彼は妻が手を握っていてくれたことしか覚えていなかった。気がついたときには、病院のベッドの上だった。側に誰かがうずくまっているように見えて手を伸ばしてみると、妻の上着だった。彼女の抜け殻だけが残っているような気がした。
「高村さん、目が覚めましたか」
白衣を着た医師と看護師が部屋に入ってきた。
「奥さんは別の部屋で休んでおられます」
「妻に何かあったんですか」
「いや、お疲れになっただけです」
看護師が点滴を取り替えた。そのとき彼は、自分が右目に眼帯をしていることに気づいた。
「高い熱が出たのは初めてですか?」
「ええ。何が原因なんですか」
「この病気は、いろんなところに症状が出るんです。幸い脳には異常は見られませんでしたが」
「この眼帯は何ですか」
高村は自分でもおかしな質問をしていると思ったが、それ以外に言葉が出てこなかった。
「緊急で、右目の手術をしました」
「というと」
「今は何ともいえませんが」
医師は途中で言葉を句切り、カルテらしきものに何か書き込んで看護師に渡した。
「若干視力は残る可能性があります。希望を持ってください」
そういって医師は微笑んだ。
希望か……と高村は自嘲気味につぶやいた。目が見えなくなるだけで、命に別状はありません。そう言われたような気がした。生きていればいいという問題じゃない、そう言い返したかった。

医師たちが去っていくと、高村は目を閉じた。穏やかで楽しい休日を過ごすはずだった。それを自分がぶちこわした。家族の楽しみを奪ってしまった。後悔の気持ちと悔しさで胸がいっぱいになった。彼は目を閉じて両手を握りしめた。そうすることで、気持ちを少しでも落ち着かせようとした。しかし、余計に力が入るだけで、むしろ気持ちは高ぶっていった。
人が入ってくる気配がした。高村は妻だと思って目を開けたが、そうではなかった。
「こんにちは」
背の高い初老の男がそう言って、しばらく彼を見つめていた。パジャマ姿で無精ひげを生やしていた。柔らかい表情で、静かに見つめられているうちに、高村は興奮がゆっくりと静まっていくのを感じた。
「青木といいます。ああ、そのままで」
男は起き上がろうとする高村を手で制した。
「安静にしている方がいいですよ。でも落ち着いたら散歩でもなすったらいい」
青木は彼の枕元まで来た。杖をついて歩くのでコツコツという音が響いた。
「私もあなたと同じ病気なんです」
青木は、私もあなたと同じ大学でしたとでも言うような口調で言った。
「高村といいます。よろしくお願いします」
青木は高村の右手の上に左手を乗せた。がっしりとした骨太の手だった。
「これでも昔は漁師をしていたんです。散歩をすると潮の香りがして、元気だった頃を思い出します」
「ここは長いんですか」
「もう三ヶ月ほどになります。左目はほとんど見えません。右目の視野も半分ぐらいになっています。でも、よく散歩に行くんですよ。先生も勧めてくれます。時々、気に入った看護師さんを連れ出したりして、婦長に怒られてます」
青木はペロリと舌を出してから笑った。その笑みに誘われるように高村の頬がゆるんだ。
「私は話が好きでしてね。お疲れだったらそう言って下さい」
「いえ、かまいませんよ。それより椅子にでも座って下さい。立ったままだと疲れるでしょう」
「じゃあ、遠慮なく」
青木は椅子を引き寄せて座った。
「この病気になって、もう五年になります」
青木はそう語り始めた。発病から、病院探し、治療方法など。高村にも参考になることが多かった。
「この病気は、世界中のどこにでもある病気じゃないそうですね」
「風土病ってことですか?」
高村も病気に関する医学書を読んだりしたが、治療方法のことにばかり目が向いて、青木の言うようなことには関心を持ってなかった。
「シルクロードってあるでしょう」
「ええ、商人が絹を運んだっていう道ですよね」
「そう、そのシルクロード沿いにある地域にしか患者はいないそうなんです。不思議なものですな。DNAの一部が特殊な形になっているらしいんですよ」
「でも遺伝はしないって聞いてますが」
高村は修の顔を思い浮かべながら言った。
「ええ、私の家族や親戚にもこの病気になったものはいません」
「私たちは運が悪かったと言うことでしょうか」
「そう後ろ向きに考えるのはやめましょう。目が見えなくなると、他の器官が優れてくるらしいですから。その分得したと思えばいいんですよ」
青木はそこまで言うと立ち上がった。
「またお話しさせて下さい。今日はありがとうございました」
青木は自分のベッドの方へと歩いていった。
「カーテンを閉めてもいいですか」
青木はついたて越しに言った。西日がまぶしいのだろうと高村は思った。
「どうぞ」
「散歩したあとは、食事が出るまで眠ることにしてるんです」
青木は遮光カーテンを半分ほど締めた。高村のベッドから見ると部屋全体の半分は夕日に染められ、もう半分は日没の後のように薄暗くなった。
入り口の扉は半分ほど開いたままになっていた。そこに人影が見えた。恵子だった。妻は少しふらつきながら高村のベッド近くまで来た。
「心配かけたね。それに旅行も行けなかった」
「そんなことより、体調はどうなの?」
「寝たきりだったからか、腰が痛いよ。お前の方は大丈夫か」
「少し疲れがたまっていただけ。もう大丈夫よ」
妻は椅子に腰掛けて、コートを手に取り膝の上にのせた。
「隣の人が眠ってる」
「ああ、青木さんね」
「話したのか?」
「あなたが眠ってる間に」
かすかに青木のいびきが聞こえてきた。
「元気な人だ。うらやましいよ」
「でも、ここまで来る間に、きっとあなたのように苦しんだはずだわ」
「そうだな。身体の具合が悪いと気分はふさぐし、ましてや、直る見込みのない病気だと思うと、誰彼となく怒りをぶちまけたくなる。あの人にもきっと、そんな時期があったに違いない」
「あなたは今、どうなの?」
「この部屋のようなものだな。明るさ半分、暗さ半分」
妻は少し寒くなったのか、コートに袖を通した。
「そろそろ夕食の時間じゃないか。家の方はいいのか?」
「お母さんが見ててくれるわ」
「修が寂しがってるだろう。ママの匂いって言うのはやっぱり違うからな」
「あなたもそう? 私よりママの方がいい?」
「俺は大人だから。好きな人と一緒にいるほうがいいさ」
「無理しちゃって。でも、今のは点数高いわよ」
彼女は彼の手を取って指を絡ませた。高村は恋人時代の頃を思い出した。あの頃は、彼女を家に送って自宅に帰ってからも、彼女の手の感触がいつまでも忘れられなかった。
「明日から仕事だろ?今日は早く寝ないとな」
彼女は高村の頬に自分の額をこすりつけた。高村は右手で彼女の背中をそっとなでた。
廊下の方で、配膳の準備をする音が聞こえてきた。青木のいびきはよりいっそうひどくなっていた。

消灯になってから何時間も寝付けず、少し眠ったかと思うと目が覚めた。まだ夜明け前だった。そして朝の光がカーテンの隙間から差し込むまで一睡もできなかった。そんな日が一週間も続いた。
高村は様子を見に来る妻に当たり散らすようになった。わがままな子供のようだと自分でわかっていても、気持ちを抑えられなかった。そんな高村を妻は悲しげな目で見た。

ある日、青木が高村を散歩に誘った。梅雨の中休みで、青空が広がり、病院の中庭には紫陽花が一面に咲いていた。
「ちょっと海を見に行きませんか」
青木はそう言って、立ち入り禁止と書いてある扉を開けて、細い道へ入っていった。高村は黙って彼の後に続いた。
防風林がどこまでも続いているように思われたが、しばらく進むと波の音が聞こえてきて、海が近いことがわかった。心の砂浜に、澄みきった海水が押し寄せては引いてゆくような気がした。こもっている不安や怒りを洗い流してくれるようにさえ思えた。
「ほら、あそこに見えるでしょう」
青木が指さした方を見ると、木々の間から水平線が見えた。二人は近くのベンチに腰を下ろした。
「こうやって見てると、海ってのは穏やかなものです」
「漁の時は大変だったでしょう」
「まあ。仕事ですからね。荒れた海ほど怖いものはなかったです。でも、明け方に一仕事終えて帰ってくるときには、煙草を吹かしながら、オレンジ色の光に見とれていたものですよ」
青木はその時を思い出すかのように、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。高村も勧められたが断った。
「婦長には内緒ですよ」
青木は携帯用の灰皿を取り出した。
「高村さんはどんな仕事をなさってたんですか」
「鉄道会社にいました。営業なんかもやりましたが、電車の運転が一番楽しかったですね」
「それはうらやましいですな。私の甥っ子が鉄道ファンでしてね。駅舎や汽車の写真を撮ったり、自分の家の一間にミニチュアを作って小さな電車を走らせてますよ。あいつに言ったら、高村さんにサインをもらってくれって言われるかもしれませんよ」
「いやあ、船を操る方がずっと難しいですよ」
「でも、そう言う点じゃあ、私たちは二人とも何かを運転していたってことですね」
青木は煙草を消して灰皿の中にしまった。
「私もこの病気になって、漁に出られなくなってからは、随分気落ちしました。気分が腐るって言うんですかね、周りの人に当たり散らして、迷惑もかけましたよ」
高村は、青木が最近の高村の言動のことを言っているような気がした。
「ここへ入院すると同時に、妻は子供を連れて家を出て行きました。離婚届が送られてきましてね、後は私が印鑑を押せばいいだけの状態になっていました。まるで保険の契約書みたいで、現実感がなかったですね。結局、私は印鑑を押して送り返してやりましたよ。その時は、そう言う気分でしたな」
高村は自分の妻が息子を連れて出て行く姿を思い浮かべた。彼女にとってはその方がいいのかもしれないとも思った。
「でも、今じゃ後悔してますよ。一言謝って引き留めていたら変わっていたかもしれないってね」
海からの風が木々の葉を揺らした。波がきらきらと輝いていた。二人はしばらくの間無言だった。
「実は私、来週退院するんですよ」
「そうですか。それはおめでとうございます」
「まあ、病気が治った訳じゃないですけどね。ある程度落ち着いたって言うか、安定期に入ったようで、まあ、これ以上は悪くならないだろうっていうのが先生の見立てです」
「じゃあ視力は残ったってことですね」
「ええ」
青木の横顔にぎこちない笑みが浮かんでいた。これ以上先のことは聞かないでくれと言っているかのように。
「戻りましょうか」
青木は灰皿をポケットに入れて立ち上がった。高村は立ち去る前にもう一度海の方を見た。
久しぶりに歩いたせいか、戻ってくると高村は眠くなってきた。ベッドに入るといつの間にか眠っていた。
気がつくと夕食の準備が始まっていた。
今日は来なかったなと高村は思った。毎日仕事と子育てに追われて妻はきっと疲れているんだろう。見舞いに来ても、いらいらした自分に怒りをぶつけられてはストレスがたまるばかりだ。来たくない気持ちもわかった。
夕食後、高村は担当の医師に、不安で眠れないことを訴え、精神安定剤と睡眠薬を処方してもらった。飲んでみると少しは気分が落ち着くように思えた。

翌週、高村は退院する青木に付き添っていった。
出口付近には看護師が何人か待っていた。婦長から大きな花束を贈られ青木は顔を赤くしていた。タクシーが滑り込んできて青木はそれに乗った。
「高村さん、また連絡しますよ。せっかくご縁ができたんだし、あなたとは馬が合いそうだ」
「よろしくお願いします」
高村は頭を下げた。看護師たちが動き出そうとする車に近寄ってきて、皆それぞれ青木に言葉をかけた。涙ぐんでいる者もいた。やがて青木を乗せたタクシーは病院を出ていった。
青木は視覚障害者の施設で点字や針灸を習うと言っていた。マッサージ師の資格を取り、自宅で開業したいとも言っていた。
高村は青木の節くれ立った手を思い出した。その指先で指圧をする青木の姿を想像した。商売として成り立つのかどうか、それだけで生活してゆけるのかどうか、高村はそんな心配をした。海を見ながら微笑んでいた青木の、もう片方の横顔に潜んでいたであろう表情が今見えたような気がした。
「部屋へ戻りましょう」
看護師の一人にそう言われ高村はわれに返った。
「もう少しここにいたいんです」
「あまり遅くならないようにね」
彼女はそう言って去った。
青木は人気者だった。誰彼となく声をかけては笑わせ、若い看護師からは恋愛相談まで受けていたようだった。高村も青木に声をかけられたことで鬱屈した気持ちから抜け出せた。その彼がいなくなってみると、周りの風景さえもの悲しく思えてきた。側に誰もいないという寂しさを痛感した。
「高村さん、電話ですよ」
婦長が近づいてきて彼に言った。
「すみません、すぐいきます」
けわしい表情で彼を見ていた婦長は、駆け出そうとした彼を止めて、手を握り背中に手を当ててくれた。
「あわてなくていいのよ。ゆっくりね」
「ええ」
妻は今日も来なかった。もしかしたら……そんな不安がよぎった。
ナースステーションで受話器を取った。高村は聞こえてくる言葉をおそれた。自分からは声が出せなかった。
「もしもし、あなた?」
妻の声だった。息が上がっていた。別の不安を彼は感じた。
「もしもし、聞こえてるの?」
「ああ、すまん。ちょっと走ったものだから」
「落ち着いて聞いて。お母さんが倒れて病院に運ばれたの。今、私とお兄さんで付き添ってるんだけど」
「大丈夫なのか」
「ここ二、三日調子が悪かったの。病院に行きましょうっていっても、行きたくないって言われるから、私、仕事休んでたの」
そうか、それでこっちにこれなかったのかと、高村は倒れた母親のことより自分のことを考えていた。 「あなた、今出てもいいか先生に聞いてみて。病院に来てほしいの。お母さんあなたの名前をさっきから呼んでるの」
「ああ、わかったちょっと待っててくれ」
「何かあったの?大丈夫?」
「いやなんでもない。青木さんが今日退院したんだ。それで話し相手がいなくなってぼんやりしてたんだ」 高村は主治医に連絡を取ってもらった。OKが出たことを妻に伝え、タクシーを呼んでもらった。
母親が自分を呼んでいると妻は言った。単なるうわごとならいいがと車の中でも落ち着いていられなかった。

(つづく)

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