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校門の前で彼女は僕を待っていた。焦げ茶色のコートにすっぽりと身を包み、編み目の大きなマフラーをぐるぐる巻きにして、目と鼻だけを見せていた。
「遅かったね」
「ごめん、ごめん。担任に教室の掃除をやらされたんだ」
「陽が沈んじゃったじゃない」
「寒かっただろ」
「寒いのは平気よ。でも陽が沈む前に行きたかったの」
「行きたかったって何処へ」
「川原」
川原と聞いて僕は寒けが走るのを感じた。三年前、僕はそこで恐ろしいことを目にしたのだった。
「川原なんか行ってもつまらないよ」
「私行きたいの」
彼女はマフラーを首から外して僕の肩にかけた。
「どうしても行きたいのなら日曜日にしよう。それに昼間の方が景色もきれいだし」
「日曜日の昼間なんて、子供が一杯いてうるさいから嫌」
「にぎやかでいいじゃないか」
「だめよ」
彼女は目を落として、足先で石ころを蹴った。
「じゃあ、今度の土曜日にしよう。土曜日なら日曜より人も少ないし、天気もよさそうだし」
「私夕焼けが見たいの、あそこで」

三年前、僕は中学の一年生だった。その頃近所に住んでいる田村浩一とよく遊んでいた。遊んでいたというよりはいじめられていたと言ったほうがいいかもしれない。周りからみるとじゃれあっているように見えたかもしれないが、僕にとっては、彼の行動も言葉も小さなナイフのように僕を傷つけた。しかし金をせびるわけでもなく、刃物で実際に切りつけたりするわけでもなかったから、誘われたときに断れなかった。むしろ僕の優柔不断なところと、ふわふわ漂うように生きているところに、彼は支え棒のようになってくれていたのかもしれなかった。
ある日、雨が上がった後の夕暮れのことだった。浩一から放課後に川原まで来るように言われた。僕は仕方なく塾をさぼり、親に怒られるのを心配しながらも、自転車で川原に向かった。
浩一は半ズボン姿で土手の上に座って待っていた。
「遅かったじゃないか」
彼が不機嫌でいるのは一目みてわかった。待たせるのは平気だが待つのは嫌いというタイプだった。
「面白いことやろうぜ」
彼はにやっと笑って僕の腕を引っ張った。
「何するんだ」
「いいからこいよ」
彼は土手を滑るように降りてゆき、僕も後に続いた。川の水はいつもより増えていたが、それでも膝までは届かなかった。
「我慢比べだ」
彼はそう言って川の中へ入っていった。夕暮れはやがて夜の闇に取って代わられようとしていた。向こう岸にぽつりぽつりと家の灯が見えるほかは何もなかった。
「何やってるんだ、早く来い」
彼の声にとげとげしいものが混じっていた。僕はその声に追われるように足を進めた。
「ようし、向こう岸まで競争だ」
よどんだ流れの中、僕は急いで追いつこうと彼の後を追った。石ころにつまずいて滑りそうになったり、泥に足がはまったりして中々前に進まなかった。おまけにズボンのままで入ったので、水が股の上までしみてきて僕は泣きそうになった。彼は一メートルくらい先からにやにや笑いながら僕を見ていた。その目を避けようとしてうつむいた途端、足先がズブッとぬかるみにはまりこんだ。あっという間に両足がぐんぐんと沈み込んでいった。足をあげようとしても全く動かなかった。彼の方を見ると、すでに向こう岸にたどり着いてにやにやしながらこちらを見ていた。
「おい、どうした、歩けないのか。背がどんどん縮んでるぞ」
「助けてくれ。足が抜けないんだ」
すでに僕は膝辺りまで泥の中に埋まっていた。僕は四方八方に叫んで助けを求めたかったが、恐怖のあまり声が出なかった。
「助けてくれ。このままじゃ、死んじゃうよ」
「それくらいで死ぬものか」
「お願いだよ、助けてよ」
「ようし、じゃあ、好きな女の子の名前を言え」
僕は恵子のことを思い浮かべた。いつも遠くからみているだけで話したこともなかった。クラスで一番可愛い子だった。
「恵子。相沢恵子」
僕は消え入るような声で言った。
「何だって?聞こえないぞ」
「相沢恵子!」
僕は声を振り絞るようにして叫んだ。
「僕は相沢恵子が好きです。そう言ってみろ」
彼はにやにや笑いを続けながら言った。
「僕は相沢恵子が好きです。僕は相沢恵子が好きです。僕は……」
僕は何度も何度も言った。そのうちに涙声になっていた。恵子の顔が目に浮かんだ。
彼は腹を抱えて笑いだした。
「ようし、助けてやる。お前が恵子に惚れてたなんて知らなかった。だけどあきらめたほうがいいな。あいつは俺の女なんだ」
泥の中から助けられた僕は一人で自転車に乗って帰った。服を汚したことと塾をさぼって遊んでいたことで母親に叱られ、僕は夕食も食べずに布団の中に入って泣いていた。
翌日学校を休むと、浩一は恵子を連れて見舞いにやって来た。僕の母親には丁寧な挨拶をしたが、僕たち三人になると態度が変わった。僕の目の前で彼は恵子といちゃつき始めた。身体に触ったり、キスをして見せたりした。僕の中で膨らんでいた彼女への思いは急速に嫌悪に変わった。浩一への気持ちは恐れから憎しみに変わった。

土曜日、授業が終わると、僕は彼女とパンを買って近くの公園で遅い昼食を取った。彼女がどうしても夕焼けが見たいというので、仕方なくボーリングをして時間を潰すことになった。三ゲームやったが、僕は散々な成績だった。ガーターミスを連発して、百を越えることはなかった。おまけに腕をひねってしまい、「情けないわね」と彼女に言われてしまった。
しかし夕方になり、川原に向かうころには彼女の機嫌も直っていた。二人で並んで自転車を押しながら、彼女の嬉しそうな横顔を見ていると、自分にこんな時が訪れるなんて想像もしなかった頃のことを思い出した。しかしそれはもう過去のことだった。あのことも彼女は知らない。知っているのは地元の何人かだけだった。それに、知っていると言っても、それは事実ではなかった。
初冬の夕陽は土手のススキを金色に輝かせていた。風が吹くと金色のきらめきが飛んでいるかのようだった。
「私田舎に引っ越してきてすごくショックだったんだけど、都会ではこんな風景みられないから、転校になってよかったなって思うときもあるの」
彼女は僕の方を見ながら言った。
「僕はずっと田舎だから、こんなの見慣れてるけどね」
「ねえ、高校生のくせにこんな風景に引かれるのって変?」
彼女は上目使いに僕を見た。その表情がすごく可愛かった。
「そんなことないよ」
「ほんとに?」
「僕も好きだよ、こんな風景」
「嘘、さっき見慣れたって言ってたくせに」
僕が笑うと彼女も笑った。
土手の下に自転車を置いて、僕たちは川原を見下ろせるところに座った。彼女は持ってきたピクニックマットを広げた。僕は彼女にくっつきすぎないようにしながら横に座った。
「お弁当か何か作ってこようかなって思ったけど、やめちゃった」
僕は何も答えずに川面を見つめた。三年前とおんなじ風景がそこにあった。違うのは橋が新しくなったことと、向こう岸にアパートがいくつか出来たことだけだった。さすがにあの場所に目を向けることは出来なかった。僕は視界にあの場所が入らないように気をつけながら、彼女のおしゃべりに相づちを打っていた。

僕が翌々日に学校へ行くと、浩一は何事もなかったかのように手を振って近づいてきた。
「今日、恵子と川原に行くんだけど、お前も来いよ」
「いや、やめとくよ」
「何で、いいじゃないか。三人で楽しく遊ぼうぜ。もう変なことなんかしないからさ」
僕は何も答えずにその場を去った。教室に入ると恵子が手を振って近づいてきた。今まで相手にしたこともなかった僕に笑顔で。僕は嫌悪の中に嬉しさが交じるのを否定できなかった。
「浩一くんに聞いたと思うけど、一緒に行くよね」
「ちょっと、まだわからない」
「そんな冷たいこと言わないで。ねっ」
彼女は有無を言わさない言い方で言った。僕は放課後少し遅れて川原に向かった。
浩一と恵子は先に来ていた。
「もうちょっと先にいいところがあるんだ」
浩一はそう言って、ついてこいと手で合図した。僕は泥にはまった場所から離れられてホッとした。しばらく歩くとススキの野原が見えてきた。
「あのススキを倒して俺と恵子の部屋を作るんだ」
「いいわね、柔らかそう。さすが浩一君、頭いい」
「おい、あのススキを倒して俺達のために大きなクッションを作っとけ。その間俺と恵子は向こうで遊んでるから」
唇を噛みしめながらも僕は頷いた。二人は少し離れたところで石投げをして遊び始めた。
僕はススキを根っこから倒していった。足で踏みつけ、それから身体で重みをつけながら、少しずつ倒していった。なかなか作業ははかどらず、額に汗が浮かんできた。
「早くしろよ。鈍くさいやつだな」
浩一の言葉が胸にぐさっと刺さった。それに輪をかけるかのように恵子のはしゃぐ声が聞こえた。日が暮れる前に、ようやく二人が座れるくらいのスペースが出来た。四方は背の高いススキに囲まれていて、まるで一つの部屋のようだった。
「できたよ!」
僕はハアハア言いながら言葉を搾り出した。二人はスキップしながら近づいてきた。
「よおし、なかなかいいじゃないか」
「ありがとう。素敵な部屋を作ってくれて」
「お前は向こうへ行って誰も来ないか見張ってろ」
浩一はそう言うと恵子の肩を抱いてススキの部屋へ入っていった。
「何してるんだ、早く行けよ。ここは子供の来るとこじゃないんだ」
僕は中で二人がいちゃつき始めるのを目にして側を離れた。

初冬の夕暮れは早い。
彼女は僕の肩にそっと頭を載せてきた。彼女の香りが漂ってきた。甘くて透明な香りだった。そっと手を握ると彼女は腕をからませてきた。土曜日の夕暮れ、川原で遊んでる人はほかに誰もいなかった。僕は目を閉じて幸福感に浸った。
「誰か来たわ」
彼女の声に目を開けると、向こう岸を、子供が犬を散歩させていた。小学生くらいだろうか、自分の身体より大きな犬を連れていた。子供は立ち止まると僕たちの方をちらっと見た。彼女は身を起こして僕から離れた。子供は土手を駆け降りようとしゃがみ込んだ。
「降りちゃだめだ。そこは危ない」
僕は自分でも驚くくらいの声で叫んでいた。彼女は口をぽかんと開けて僕を見た。
「どうしたの、びっくりするじゃない」
「戻るんだ、土手の上に戻れ!」
僕は立ち上がって子供に注意した。子供は目を見開いてあたふたと土手の上に戻った。そして犬を連れて逃げるように去っていった。
「あんな言い方しなくてもいいじゃない。かわいそうに」
「ごめん、ちょっと思い出したことがあって」
「座って、ほら陽が沈んでくわ」
彼女は僕の腕を引いた。
「うん。驚かせてごめん」
僕は彼女の側に座り直した。彼女は潤んだ瞳で僕を見た。
「事故があったんだ。あそこで。三年前に」
「私、知らなかった」
「地元の人間しか知らないよ」
「危ないのならどうして看板を立てないのかしら」
「今はもう大丈夫なんだ。あの頃はぬかるみがひどくてね」
夕陽はもうほとんど沈んでいた。雲がオレンジ色に輝いたかと思うと、あっという間に空には闇が訪れた。

浩一と恵子は、それから毎日僕を見張り番にして、ススキに囲まれた空き地でいちゃついた。僕の心の中に、あきらめと同時に恐ろしい考えが芽生え始めた。
その考えを実行しようとしたのは、一週間程経ってからだった。僕は浩一と恵子が来る前に、一人でこっそりと空き地に行き、二人にわからないように文房具屋で買った画鋲を撒いたのだった。裸になって抱きあう二人の身体にそれが刺さり込むのを想像すると、胸がわくわくした。小さな画鋲は倒れたススキにうまく隠れ、そこにあることなど全くわからなかった。そしてその日、いつものように僕は二人を待った。
しかし一時間経っても二時間経っても二人は現れなかった。僕は残念に思うと同時に少しホッとした。僕が画鋲を撒いたことを知ったら浩一は何をするかわからなかった。
仕方なく帰ろうとしたときだった。恵子がこちらに向かって、髪を振り乱しながら走ってきた。
「ねえ、浩一君が大変なの。早く来て。このままだと死んじゃう」
僕の胸はときめいた。浩一が死ぬ。なんて素晴らしいことだ。
「聞いてるの?早く来てよ」
周りはすっかり暗くなっていた。僕は恵子に腕を引っ張られながら後に続いた。
そこは僕が膝までめり込んだ場所だった。浩一が川の中に頭を突っ込んでいた。
「遊んでたら、転げ落ちちゃって」
恵子がしゃくり上げながら言った。僕は土手を降り、浩一のところまで近づいていった。かすかにうめき声が聞こえていて、軽い脳震盪を起こしているようだった。
「私、大人を呼んでくるから、それまで浩一くんを頼むわ。何とか引き上げて。窒息しちゃう」
僕は、浩一がめり込んだ頭を抜こうとして、川底で両腕を突っ張っているのに気づいた。僕は彼の身体を両腕で抱えて反り返ろうとした。しかし自分も足を取られてひっくり返ってしまった。彼の大きな身体を自分が起こせるとはとても思えなかった。周りには誰もいず、恵子もまだ戻ってきていなかった。もしこのまま何もせずにいたら浩一は死んでくれるかもしれない、僕はその考えを封じ込めることが出来なかった。

「助けようとしたんだ」
僕は彼女に言った。あたりはすっかり闇に包まれていた。彼女はマフラーをバッグから取りだして、僕の首に巻いてくれた。僕が寒さで震えていると思ったに違いなかった。
「でも、無理だった。友達が大人を呼んできたときには肩まで泥の中にめり込んでいたんだ」
僕は声を詰まらせていった。彼女は僕を抱きかかえるようにしてそっと背中を擦ってくれた。
「仕方ないわ。自分を責めないで」
「浩一は死んだ」
僕はぽつりと言った。言うことでそれが過去のことであることを自分に言い聞かせた。
「ごめんね、嫌なことを思い出させて。私がわがまま言わなきゃよかったのに」
「いや、いいんだ。僕はずっとここから目を背けてきた。でも事実は変えようがなかったんだ」
僕はゆっくりと立ち上がった。彼女はピクニックマットを折り畳んでバッグの中に入れると、僕に寄り添って腕を取った。

浩一の葬儀はしめやかに行われた。僕は彼を助けようとしたことで彼の両親に感謝された。クラスのみんなは僕を英雄のように扱った。そして恵子は誰にも言わずに転校していった。

僕は彼女と手をつなぎながら歩いた。自転車のあるところまで行くと、彼女は思いだしたように僕の頬に口づけした。
「苦しみが消えるおまじないよ」
「もう大丈夫さ」
僕は言った。しかし僕は、彼女にも本当のことは言えないだろうと思った。あの時浩一の身体を本気で引っ張っていたら、彼は助かったかもしれないということを。いや、それは嘘だ。彼の体を押さえつけていなければ助かったかもしれないだろうということを……。

(了)

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