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納戸のドアを開くと、淀んだ空気と薄暗い明かりの中に祖母の姿が見えた。布団を首のところまでかぶり、目を閉じて口を少し開けていた。中へ入ろうかためらっていると、祖母はうっすらと目を開けた。
「浩一か」
しわがれた声がそうささやいた。浩一は右手にチョコレートの箱を持ち、それがつぶれかけるほど強く握っていた。
「お帰り。今帰ったんか」
浩一はゆっくりと祖母の枕元へ近づいていった。引き出しやタンスが祖母の布団を囲むように並んでいて、檻に閉じ込められているように見えた。
「おばあちゃん。当たったで」
浩一はチョコレートの箱の先に付いている金色の紙を見せた。
「よかったなあ。おばあちゃんが買うても、いっぺんも当たらんかったのに。浩一は運がええ」
そう言って祖母は、しわだらけの顔に笑みを浮かべた。
祖母の両目は黄色く濁っていた。そして、布団から出ている顔も黄色く染まっていた。祖母は胆のうを患っているのだった。元気な頃は一緒に買い物に行って、お菓子を買ってくれたりしたが、今は病院へ行くか寝ているかのどちらかだった。じっと何かを待っているかのような祖母の姿を見ると、たまらない寂しさがこみ上げてきた。
「おばあちゃん、眠いんか。水でも飲むか」
「いいや、いらん。お前、塾に行くんとちゃうか」
「今日は休みや。先生が病気やから」
「そうか、先生も病気か」
祖母は話しているのも疲れたのか目を閉じた。浩一は布団の中に手を入れて祖母の手を握った。骨と皮だけになってしまった手は熱かった。何か悪いものが自分にも伝わるような気がして、浩一はそっと手を引いた。
天井からぶら下がった明かりは、黄色い豆球だけが点いていた。それを見ていると、自分の目の中まで黄色くなってゆくように思えた。浩一はもう一度祖母を見ると、静かな寝息を立てて眠っていた。浩一は鏡台の上に金色の紙を置くと部屋を出た。

祖母はもともと父親の兄である叔父の家に祖父とともに住んでいた。父親が入院し、母親が働きに出なくてはならなくなったため、昼の間、浩一の面倒を見るために来たのがきっかけだった。叔父の家は歩いて三十分ほどのところにあったから、昼間だけいて帰ることもできたが、祖母は帰ろうとしなかった。
父親が退院し、母親は夕方すぎには帰ってくるようになった。それでも祖母は浩一の家にいた。父親が視力を失い、身の回りの世話をする必要があるからという理由だった。時々、浩一より二つ上の従姉が、学校の帰りに寄った。従姉とは小さい頃からよく遊んでいたので、浩一は嬉しかった。
祖母が病気を患うようになると、叔父や叔母が母屋(おもや)に帰るように言った。しかし祖母は目が見えなくなった息子が不憫だからと断った。祖父が来ることはなかった。叔父の話だと、足の関節を痛めているらしかった。

浩一が金色の紙を見せた翌日に、祖母は亡くなった。
目の見えない父親は、黒い服を着て窮屈そうに居間に座っていた。父親の膝の上に乗って遊ぼうとすると、いつになく厳しい声で「今日はやめとけ」と言った。母親は電話をしたり、近所の人に挨拶にいったりと走り回っていた。
浩一は祖母が亡くなったということにまだ実感を感じなかった。朝起きたら、納戸から祖母の姿が消えていて、母親が泣いていた。父親が「ばあちゃんが死んだ」と独り言のように浩一に言った。ただそれだけだった。浩一は病身の祖母を祖父が背負って連れて行ったのではないかと思った。足の痛みを我慢しながら、一歩ずつゆっくりと母屋へと向かっている祖父の姿を想像した。その背中には、黄色く染まった祖母が紐でくくりつけられていた。
「浩一、服を着替えんと、もうじき迎えの車が来るから」
母親にそう言われて、浩一は入学式の時に着たような黒い服を着た。車が来て、母親が父親の手を自分の肩に乗せ玄関へ向かった。足をするようにして父親は続いた。
「浩一、早く」
そう母親に言われて、浩一は何か忘れ物をしたような気になった。納戸のドアを開けるとまだそこに祖母がいるような気がしてならなかった。

母屋の座敷の戸はすべて取り外されていた。庭には花輪がいくつも並び、その白や黄色の花の色が目にまぶしかった。浩一が一人庭に立っていると、親戚の人が近づいてきて中に入るように言った。
読経と焼香の続く間、浩一は祭壇に飾られた祖母の写真を見ていた。顔を少し横に向けて口元をほころばせている。いつ撮ったものなのか、頬もまだふっくらとしていた。おそらく母屋にいた頃の写真だろうと浩一は思った。
祖父は焼香に訪れた人々に頭を下げていた。叔父と父親がその隣に並んで座っていた。従姉の理恵子は台所で、叔母や母親を手伝っていた。中学生になった彼女は、大人びて見えた。二、三年前まではよく一緒に遊んでいた。兄弟のいない浩一には姉のような存在だった。
長い時間が経った。最後にみんなが祭壇の花を手折って棺桶の中に入れた。お盆のようなものに入れられた花を浩一も手に取った。花の茎から水が滴り落ちた。母親に促されて、浩一は祖母の腕の近くにその花を入れた。祖母の顔はもう黄色くはなっていなかった。鼻に白いものが詰められているだけで、あとはただ眠っているようにしか見えなかった。納戸の中で眠っていた時よりもずっと安らかに見えた。やがて棺にはふたがかぶせられ、銀色の布で覆われた。そのとき浩一は何を忘れたかに気がついた。

焼き場へ向かう長い行列が続いた。浩一はその中に自分の姿を隠した。母親も叔父も見ていないときに、そっと抜け出して家に向かって走った。気づいたり、呼び止めたりするものは誰もいなかった。
息を切らしながらようやく家にたどり着くと、浩一はポストの中に隠してある鍵を使って中に入った。急いで靴を脱ぎ、台所を通って納戸の前まで走った。扉の前に立ち、浩一は呼吸を整えた。引き戸を一気に開けると、昼間でも薄暗いその部屋のカビ臭い空気が漂ってきた。祖母が寝ていたところには畳に黒いシミが残っていた。鏡台の上に金色の紙が飾りのように置かれていた。それをポケットに入れると浩一は部屋の中を見回した。部屋はもう黄色くはなかった。代わりに、薄墨で塗ったような空気が漂っていた。それが、「お前は運がええ」と言った時の祖母の微笑をかき消してゆくように思えた。あの黄色い光が浩一には恋しかった。あの色は決して病気の色ではなかった。祖母が生きていることの印だった。今、この部屋にあるのは、何か近づきたくないものだった。何もないということが、浩一にとっては、何物にも代え難く重く感じた。部屋全体が覆いかぶさってきて、自分をつぶしてしまいそうに感じた。
浩一はポケットに金色の紙が入っていることを確かめて、部屋を出た。

浩一はなんとか葬列の最後の方に追いついた。近所の人が、「小便にでも行っとったんか」と言って笑った。浩一は密集した木々の中を進むようにして、前へ前へと進んだ。体が小さいので楽々と前の位置まで戻ることができた。理恵子が浩一に気づいて、「どこにいってたの?」と耳元でささやいた。息がくすぐったかった。浩一はポケットから金色の紙を取り出して彼女に見せた。
「何それ」
「おばあちゃんにあげるの忘れたんだ」
「もうだめよ。フタがしてあるんやから」
理恵子は少し怒ったように眉間にしわを寄せた。一緒に遊んでいた頃、浩一がいたずらをしようとすると彼女はよくその表情をした。
「もう、クギが打ってあるんよ」
彼女は浩一の表情も見ずに前を向いた。真新しいセーラー服にはきれいな折り目がついていた。

両側に田んぼが広がる中を葬列は続いた。坂道を下ってゆくと、小さな屋根と煙突が見えた。周りには五、六人の男たちが立っていた。
ようやく先頭にいた叔父たちがそこにたどり着いた。棺桶を持っている親戚の人たちは汗を流していた。僧侶が数珠をもみ合わせるようにしてから祈りの言葉を口にした。それを合図のようにして、棺桶が屋根の下まで運ばれ、石でできたくぼみの中におさめられた。男たちがそばに積んであった乾いたわらを敷き詰めた。
母親や叔母が泣いていた。目の見えない父親は、手を前に組んでうつむいていた。叔父がそっと頭を下げると、僧侶が短いお経を読んだ。それから男たちがわらに火をつけた。ぼおっと炎が立ち上がり、そばにいた人たちは身を引いた。
浩一は理恵子のそばに立って見ていた。彼女はハンカチで目を押さえていた。空はどんよりと曇り、薄日さえさしていなかった。僧侶は再び読経を始めた。誰もが目を閉じて手を合わせた。浩一は燃え盛る炎をじっと見ていた。黒い煙が立ち上り空に広がっていった。理恵子に肩を叩かれ、浩一も目を閉じて手を合わせた。
僧侶の読経が終わり、浩一は目を開けた。焼き場を取り囲むように黒ずくめの大人たちが立っていた。次第に誰もが目を開け、合わせていた手を下ろした。時間が経つにつれて、ざわざわとした話し声があちこちで聞こえた。浩一の後ろから誰かの声が聞こえてきた。何を話しているのか最初はわからなかった。振り返ると、しゃべっているのは、近所の人だった。
「とうとう母屋には帰らんかったんやなあ」
「仲が悪かったからなあ」
その言葉だけがはっきりと浩一の耳に入った。後はすべて雑音に変わってしまった。
炎は棺全体を包み勢いを増していた。赤い炎の中に黄色い光が見えた。それが納戸の部屋の色に似ていた。黄色い光が祖母を包んでいるように思えた。
浩一は金色の紙を取り出して眺めた。所々色がはげ始めていた。本当は当たったのではなかった。それは浩一が絵の具で塗った金色だった。ただ、具合の悪い祖母に見せたかったのだった。「あばあちゃん。当たったで」そう言って喜ばせたかったのだった。祖母は「お前は運がええ」といって微笑んだ。手に取ってみることもなかったが、それが本物ではないことを祖母は知っていたのではないだろうかと浩一は思った。
燃え盛る炎に向かって浩一はそれを投げた。しかし届くことはなく雑草の中に消えていった。

あたりは薄暗くなってきていた。理恵子は手をこすり合わせては、時折自分の息を吹きかけていた。浩一は足の感覚がおかしくなっていた。これほど長い間立ちっぱなしでいたことはなかった。自分の足が自分のものではないような気がした。しびれているわけではなかった。ただ、首から下が自分のものではないような妙な感じを覚えた。
「浩ちゃん、大丈夫?」
理恵子が心配そうな表情でのぞきこんだ。一瞬彼女の顔が見えなくなった。目の前が真っ暗になって、自分が遠いところに行ってしまうような気がした。やがて、霧が晴れるように意識が戻った。
「火が消えとる」
浩一の口から言葉が勝手に出てきた。見ると、その言葉通り、炎はすでに消えていた。男たちが水をまいた。うなるような音とともに白い煙が立ち上り、焼き場の屋根に吸い込まれていった。
僧侶が叔父と叔母に向かって何事かささやいた。二人は前に進み出た。浩一の父親は母親の肩に手をのせ、一歩ずつ確かめるようにしてその後に続いた。理恵子と浩一も呼ばれた。
祖母が横たわっていたところには、学校の理科室で見たことのある骸骨が横たわっていた。所々骨が崩れ、灰になっていた。骨は真っ白なものだと浩一は思っていたが、所々黒ずんでいたり黄色くなっていたりした。叔父が長い箸で祖母の骨を拾って骨壺の中に入れた。その箸は、叔父から叔母へ、そして浩一の両親へと渡された。理恵子にも浩一にも順番は回ってきた。

母屋に戻り、再び読経がされた後、座敷いっぱいにテーブルが並べられた。親戚や近所の人たちが表情を緩ませて席に着いた。食事や酒が運ばれ、あちこちから笑い声さえ聞こえた。
浩一と理恵子は、母屋の食卓で食事をした。叔母たちは食べる暇もないくらいに座敷と台所を行き来していた。積まれていたビールは一気に空になった。
食べ終わるとしばらくテレビを見ていた。座敷からはにぎやかな笑い声が響いてきた。葬式の後というのはこういうものなのかなと、浩一は少し不思議に思った。ついさっきまで泣いていた人達が、肩から荷を降ろしたように元気になり、今では祝い事でもしているようだった。
台所で洗い物をしていた叔母は、理恵子に、浩一を連れて部屋に行くように言った。車が二台置いてあるガレージの上が彼女の部屋だった。二人は裏口から出て鉄の階段を上っていった。
そこは浩一の部屋よりずいぶん広かった。ぬいぐるみが机の上にいくつも置いてあった。本棚には漫画の本や参考書が並んでいた。理恵子はテレビをつけ、クッションを抱えながら座り込んだ。
浩一はカーテンを少し開け、窓際に立って庭を見下ろした。並んでいた花はすでに片付けられ、テントもたたまれていた。座敷から漏れている明かりが、砂利を敷いた庭をかすかに照らし出していた。
左の方には離れが見えた。祖父の部屋はそこにあった。座敷とは渡り廊下でつながっていた。自分の家にやってくるまでは、祖母も祖父と一緒に寝ていたらしかった。
離れは真っ暗で、雨戸が閉まっていた。そこだけ沈み込んでいるような錯覚を覚えた。にぎやかな座敷とは対照的に、墓場のような静けさと誰も受け付けない閉鎖的な雰囲気を感じた。渡り廊下を歩けば数秒で行けるはずなのに、そこには長い橋が架かっていて、浩一の足では渡れないような気がした。
「おじいちゃんとおばあちゃんは、いとこどうしやったん」
いつの間にかそばに理恵子が来ていた。
「私と浩ちゃんもそうやね」
そい言うと彼女はカーテンを閉めた。二人は窓際からはなれた。
理恵子はテレビを消して机の前に座った。スタンドの明かりをつけて本を読み始めた。柔らかい光が彼女の頬を照らした。
浩一は壁にもたれ、両足を抱えた。車がエンジンをかけて走り去ってゆく音が聞こえた。ドアが閉まる音。エンジンの音。タイヤのきしる音。それがいくつも次々と聞こえた。
理恵子は本のページをめくりながら、あくびをした。浩一はそっと立ち上がり、カーテンの隙間から外をのぞいた。
座敷の障子を開けて、祖父が廊下に出てきた。ガラス越しに庭を見ていた。背中が曲がり頭は禿げていた。鼻の形がどことなく祖母に似ていた。祖父はゆっくりと渡り廊下を歩いて、真っ暗な離れの中に溶けてゆくように消えていった。
「おじいちゃんとおばあちゃんは仲が悪かったん?」
浩一は理恵子に向かって言った。彼女は夢から覚めたような目でこちらを見た。
「誰がそんなこと言ったん?」
浩一は近所の人がと言おうとしてやめた。
「おじいちゃん、家に来たことなかった。おばあちゃんがずっと病気で寝てんのに、いっぺんも来んかった」
「おじいちゃんは腰が痛くて車にも乗れへんのよ。行きたくても行けんかったんよ」
理恵子はため息をついて本を閉じると浩一の方に向き直った。
「おじいちゃんとおばあちゃんは、子供の頃、よう一緒に遊んだって言うてた。昔はどんな遊びしたんかわからんけど。私と浩ちゃんも一緒に遊んだね。今はあんまり遊ばんけど」
浩一は理恵子の瞳の中に柔らかい光を見た。

(了)

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