メニュー

 

昭和四十年春。日差しの柔らかな日だった。高村浩は運転席に座っていた。右側は穏やかな丘陵、左側は田圃が続いていた。信号よし、と指さし確認をしてから時計を見た。次の駅まであと一分。時刻表通りだった。
ここからレールは緩やかにカーブしてゆく。いつもと一緒だ。高村はかすかに微笑を浮かべた。しかし次の瞬間、彼は急ブレーキをかけた。電車は車輪をきしませながら速度を落として止まった。
「どうしました」
ドアを開けて車掌が入ってきた。ざわざわした雰囲気が伝わってきた。
高村は無言でレールを見つめていた。
「高村さん」
「レールが変だったんだ」
車掌は身を乗り出して前方を見つめた。車掌の吉田は入社して三年目だった。高村より一回り近く若かったが、よく気が利く男だった。
「異常は特に見あたりませんが、何か落ちてでもいたんですか?」
「いや、そうじゃないが」
「とにかく私は、車内放送を入れて、それから駅に連絡します」
高村は額に浮かんだ冷たい汗をハンカチで拭き取った。眼鏡を外し、もう一度かけ直した。レールは春の光を受けて輝いていた。何の異常もなかった。
「川島駅で待機してくれるそうです。お客様にケガはありません」
「そうか。すまなかった」

吉田は頭を下げて出て行った。高村は運転を再開したが、不安は消えなかった。
あれはいったい何だったのだろう。緩やかにカーブしながらまっすぐに伸びていたレールが、急に八の字に曲がって見えたのだ。
ここ二、三日ずっと目が充血していたのは確かだった。痛みもあった。朝起きると目やにが一杯だった。妻は心配したが、高村は特に医者に行くこともなく市販の目薬を差し、そのうちに直るだろうぐらいに思っていた。
やがて川島駅に着き、そこからは終点まで何の異常も感じずに行き着くことができた。高村は乗客がすべて降りるのを確かめると、車内点検をしながら自分の方に向かって歩いてくる吉田を待った。
「夕方からの勤務は変わってもらうよ。ちょっと医者に行ってくる」
「そういえば、目が真っ赤ですよ、高村さん」
回送の表示をして鍵を閉めたあと、高村は駅長室にそのまま向かった。またあのことが起こったら、そして万が一事故にでもなったら、そう思うと不安でならなかった。

高村は着替えをすませると、駅から歩いて十分ほどのところにある眼科に向かった。何年か前、ものもらいになったときに行ったことがあった。公園の外れに古びた小さなビルがあり、そこの二階だった。
受付で症状を話し、しばらくの間椅子に座って待っていた。雑誌を手に取り、読むともなく眺めていたが、目が痛くて結局やめにした。
名前を呼ばれ視力や眼圧を計った後、診察室に入った。医者は高村の目を見ると、何も言わずに何種類かの薬を目に差し、あふれた薬をガーゼで拭き取った後、部屋の灯りを消した。看護婦が彼の前に検査機器をスライドさせ、器具の上にあごをのせて額をつけるように言った。医者はいろんな方角から光を照らしながら検査した。高村は闇の中に自分の目の血管が浮かび上がるのを見た。やがて看護婦があごを器具から離すように言い、検査機器を元の位置に戻した。部屋の灯りがついた。
「目が炎症を起こしていますが、かなりひどい状態です」
「結膜炎ですか」
医者は目の見本を机の上から取って高村の方に差し出すようにした。
「これが虹彩といって茶目の部分です。それから、ここがぶどう膜。このあたりが炎症を起こしています。ステロイドで抑えることはできますが」
医者はそこで言葉をくぎり、高村に口を開けるように言った。
「口の中が痛くないですか?」
「ああ、口内炎です。時々なるんですよ。でも、そのうちに直っていきますから」
「それとこの肘のところですが。赤くなっている」
高村は医者が何を言おうとしているのか分からなかった。早く目薬を出して解放してくれと言いたかった。 「とりあえず目薬を出しておきますが、市立病院への紹介状を書きますから、明日にでもそこで診察を受けて下さい」
「どういうことですか?」
「あそこには専門の先生が見えますから」
「そんなに悪いんですか」
「私が見た限りでは、ベーチェット病の疑いがあります」
「ベーチェット病。聞いたことないですね」
「自分の持っている免疫力が自分を敵と間違えて攻撃する病気の一種です」
そう言われても高村にはよく分からなかった。ぼんやりしたまま診察室を出て、受付で薬と紹介状をもらいお金を払った。
高村は帰りにバスを選んだ。電車に乗れば同僚と顔を合わすだろうし、声をかけられたくはなかった。バスの一番後ろに座り、混乱した頭を何とか整理しようとした。どこかでバスが止まり、ドアが開き、また閉まる。その時の音が自分の吐息のように聞こえた。
医者はベーチェット病の疑いがあると言った。膠原病の一種と考えられていて、原因不明の難病だということだった。高村は胸のポケットに入っている紹介状を見てみたくなった。しかしまさか日本語で書いてあるとも思えなかった。
バスは田園地帯を走った。レールが曲がって見えた近くを通ったとき、恐怖で全身がふるえた。
もうこの仕事はできなくなる。入社して十五年、営業、事務、乗車業務と部門を変わったが、今の仕事が一番好きだった。自分の生まれ育った田園風景の中を走るのは、想像していた以上に心楽しいものだった。
季節の移り変わりを景色の色で感じた。山奥の終着駅では野鳥のさえずりを聞くことができた。朝、夕は混雑するが、昼の間は乗客も少なかった。大きな事故も、客同士のトラブルも起こらなかった。
一昨年、男の子が生まれた。結婚して五年目にしてようやく授かった。その前の年にも妻は妊娠したが死産だった。それだけに喜びも大きかった。
家に帰って、妻にどう説明すればいいだろうか。高村がそんな事を考えている間に、バスは自宅近くの停留所に着いた。

翌日、高村は休みを取り、紹介された市立病院に行った。ロビーには長いすが三十以上並んでいたが、人がぎっしりと座り、受付のアナウンスを待っていた。世の中にはこんなにもたくさんの病人がいるのかと思うと同時に、自分もその仲間に入ったことを苦々しく感じた。
昨夜、妻には本当のことは言えなかった。ただ目が痛いから医者に行ったことと、精密検査を受けた方がいいと言われたことだけを話した。胸のポケットに入っている封筒の中身が胸をちくりと刺したが、高村は怖くて言い出せなかった。息子はもう寝ていたので、寝顔だけをそっと見て、味も分からない食事をした。
高村は自分の名前が呼ばれているのに気づいて受付に行った。若い女性が透明なファイルに入ったカルテを渡してくれ、診察を受ける場所を教えてくれた。
眼科は一階の一番奥にあった。そこでも順番待ちの列が長く続いていた。悪夢でも見ているかのようだった。次はあっちへ、今度はまた別のところへと回され、自分の順番が来る前に目が覚めてしまうような気がした。高村はたとえ悪夢でもいいから今の状態が夢であってくれることを祈った。
しかしそれは夢ではなかった。医者から告げられたことは、自分がベーチェット病であること、症状は良くなったり悪くなったりを繰り返しながら進行していくこと、視力を失う可能性があること、特定疾病として治療費の免除があることなどだった。原因は不明で、治療も対処法しかないと言うことだった。
高村は診察室を出た。地に足が着いてないような感覚だった。仕事もできなくなる、妻や子の顔も見られなくなる、田舎の美しい風景も漆黒の闇に変わってしまう。
生活費はどうしたらいいのか。今までごく当たり前に過ごしていた生活が白紙になる。そこにどのような絵を描けばいいのか。高村は、線一本さえ引くことのできない自分を感じた。

「恵子さんにはもう言ったのか」
兄の信雄は助手席にいる高村に言った。
「いや、まだなんだ。どう言い出したらいいか分からなくて」
「黙ってちゃだめだろ。早く知らせなきゃ」
「動揺すると思うんだ。子供もまだ小さいし。悪い影響を与えそうな気がしてさ」
「とにかく今の状態を説明しないと、恵子さんだって不安だと思うぞ」
高村は兄の車の中でため息をついた。
バスで帰るつもりだった。停留所で並んでいた時、ふと兄の顔が浮かんだ。
一人で帰るのが怖かった。一人で抱え込むにはあまりにも重い事実だった。病院に戻り、公衆電話から兄に電話をした。水道工事の仕事を自宅でやっている兄は、たまたま家にいた。弱々しい声で話す高村に、兄は何度も聞き返した。
「悪いことばかり考えるな。とにかく恵子さんに話をすることだ。お前は小さい頃からそうだった。何でも嫌なことは後回しにして、どうしようもなくなってから俺に頼ってくる」
「わかったよ」
高村はやり場のない苦しみをぶつけるように叫んだ。兄はむっとした顔でハンドルを握りなおした。
「この病気になるのは、十万人に一人だそうだ。俺が何でその一人に選ばれたのか不思議でしょうがないよ。兄貴は病気一つしたことないのにな」
「今のところはな。だが、先のことは誰にも分からん」
「兄貴に愚痴を言ってもしょうがないけど」
「今お前にできることは、恵子さんや会社の人事にきちっと話をすることだ」
「クビになるかもな」
「だったらうちで働けばいい」
「兄貴の会社で何をするんだ」
「まあ、肉体労働だな。その代わり肩書きは専務にしてやる」
高村は笑った。ここ二、三日で久しぶりのことだった。
小さい頃はよくけんかをし、お互い別々の道に進んだが、最後に高村が頼ったのは兄だった。自分がいかに兄を信頼しているかという証拠だなと高村は思った。
「さあ、家に着いたぞ」
「兄さんも一緒にいてくれないか」
「情けない奴だな」
そう言いながらも兄は、車を降りると高村と一緒に玄関に向かった。

「あら、お兄さんに乗せてきてもらったの?」
恵子は高村と兄とを見比べながら言った。
「すみません。あがって休んでください。仕事は大丈夫なんですか」
「今日はあいにく、開店休業でね」
兄はそう言ってたたきにあがった。高村も続いて靴を脱いだ。
恵子はお茶を持ってきて二人の前に置いた。
「修は寝てるのか」
「ええ。向こうの部屋で。ここのところよく寝ますわ。春になると子供も眠くなるんでしょうか」
「実はね、恵子さん」
切り出したのは兄だった。高村は話の穂を次いだ。すべて話し終えると、恵子は唇を引き締めるような表情をした。
「今すぐというわけじゃないが、目が見えなくなる可能性がある。そうなると仕事がなくなる」
高村がそう言うと、恵子は首をかしげるようにした。
「私が働くわ。それに、目が見えなくてもできる仕事は一杯あるじゃない」
「そうはいってもすぐには収入に結びつかない。お前に貧しい思いをさせなきゃならん。修にもだ」
「大丈夫よ、なんとかなるわ」
恵子は高村の目をじっと見つめた。
「恵子さんの勝ちだな」
兄はそう言って席を立った。
「ゆっくりしていって下さい、お兄さん」
「いや、もうそろそろおいとまするよ。じゃあな、浩」
高村は恵子が泣き崩れるものだと思っていた。
「あなた、お兄さんをお見送りして」
「ああ」
気の抜けたように立ち上がり、高村は車まで兄を送った。
「いい嫁さんもらったな」と兄は言った。
家に戻ると、妻は部屋の隅の方でシャツにアイロンをかけていた。高村は黙って彼女の手先を見ていた。ジュッと言う音がした。シャツに水滴がいくつも落ちていった。恵子は濡れたところを何度もアイロンでなぞった。高村は側に行って彼女の肩を抱いた。
「危ないからあっちに行ってて」
そう言って彼女は高村の手を離した。瞳にはあふれんばかりの涙があった。
高村は立ち上がって窓から外を見た。灰色の雲がいくつか浮かんでいた。山の端は黄色く染まっていた。
「会社に電話するよ」
「そうね」
恵子はシャツを持って寝室へ行った。
高村は戸を開けて、ベビーベッドで寝ている息子の顔を見た。今、この顔を目に焼き付けておかなくては、と一瞬思った。
しかし息子にとってそれは迷惑なことではないだろうか。毎日、いや毎年彼は成長してゆくのだ。その時その時の彼を感じてやることのほうが大切なのではないか。声や匂い、足音、身体の動きから来る風の流れ、そう言うものを感じてやることが、父親としての努めではないか。そう思うと、今がすべてではなくなり、心が少し軽くなったようだった。
高村は会社に電話をした。上司に病気のことを話すと、とにかく明日事務所に来るようにと言われた。
妻と会社に話をしたことで、高村は胸のつかえが取れた。これから病気と闘っていくんだという気持ちも出てきた。しかし、どうやって闘えばいいんだ。自分の免疫力で自分を壊していく病気なんて聞いたこともなかった。家族や知人にそんな病気になった者はいなかった。
同病相憐れむという言葉があるが、同じ病気の人に出会うことさえできない。悩みや苦しみを分かち合おうにもその相手がいない。特効薬もない。原因が不明だから対症療法しかない。ない、ない、ない。
高村は窓辺に行ってカーテンを閉め、居間の灯りをつけた。夕暮れを見たくなかった。これから闇へと向かってゆく風景が自分に似ているようで怖かった。
台所から野菜を刻む音が聞こえてきた。時計を見ると六時を過ぎていた。部屋の隅にはアイロンが置かれたままになっていた。妻の涙を蒸発させた熱はもう残ってはいないのだと思った。

事務所はひっそりとしていた。ときおり電話が鳴ったり、旅行会社の営業マンが訪ねてきたりしたが、それ以外は、人が働いているとは思えないような静かさだった。時間はゆっくりと流れ、分刻みの正確さは要求されなかった。
高村は机をあてがわれ、書類を眺めて一日を過ごした。
初めて症状が出てから一ヶ月が経っていた。上司から広報部へ行くように勧められた。受け皿があっただけ幸運だった。しかし、もし失明したら、退職するしかないという覚悟もしておかなくてはいかなかった。
目の炎症は、ここ二週間程は落ち着いていたが、胸が圧迫されるような感じがあり、胃腸の具合が悪かった。医者は薬の副作用だといっていたが、高村はそう安気に考えることはできなかった。
休日には市立の図書館まで足を運び、ベーチェット病に関する本をむさぼるように読んだ。しかし、そこには彼の知りたい事は書かれていなかった。失明後、生計を立てていけるのか、それが一番の不安だった。 妻は友人の紹介で働き始め、修の面倒を見るために兄の家から祖母がやってきた。もともと祖父と仲の良くなかった祖母は、本家から通ってくるのではなく、高村の家で寝泊まりするようになった。妻は最初のうち午前中だけの勤務だったが、仕事先から勧められて、夕方近くまで働くようになった。
妻としては姑と一緒に暮らすのは本意ではなかっただろうが、暗い表情をすることもなく週五日働きに出ていた。修は元々祖母になついていたので、毎日祖母が家にいるのが嬉しいようだった。

仕事にも慣れた頃、人事部長から呼びだしがあった。高村が上の階にある部長に部屋に入ってゆくと、部長は椅子から立ち上がり、応接用のソファに座るように勧めた。高村は、笑顔で表面を繕った部長を見ながら、ついに来たかと思った。以前から鉄道部門を売却する話があり、それに伴って人員削減をするという噂があった。
「体調はどうだね」
恰幅のいい人事部長は、親身のこもった言い方をした。
「今のところ落ち着いています」
「そうか。それはよかった」
いつまで笑っているんだ。高村は冷ややかに部長の笑顔を眺めた。
「実はね、うちの会社は鉄道部門を売却することになったんだ。まあ、以前から噂にのぼっていたから知っていたとは思うがね」
「そうですか」
「うむ。それで、まあ本部も削減しなきゃならない」
「やめろと言うことですか?」
高村はのどを詰まらせながらいった。
「とんでもない。君は優秀な人材だ」
その言葉が本心でないことは確かだった。
「部長。早く本題に入ってください」
「私としてはうちに残って欲しい。他の役員もそう言っている」
「向こうへ行けということですか」
「あちらさんが望んでいるんだ。一部上場の会社だよ、君。そんな仏頂面をするもんじゃない。鉄道だけじゃなく、不動産や百貨店もやってみえる」
「私の病気のことは知らせてあるんですか」
「今日は君の気持ちを確かめたかったんだ。行ってもらえるね」
高村が黙っていると、部長は立ち上がり、机の引き出しから封筒を取り出し彼の目の前に置いた。
「これは、あちらさんのパンフレットだ。新入社員向けだが参考になると思うよ」
「待ってください。私はまだ返事をしていません」
「君だけじゃないんだ。役員の中にも降格して向こうに行く人がいるんだ。まして」
「病気の人間は当然だということですか」
「そんなふうにとらないでもらいたいな。クビにならないだけでもましだと思えないかね」
「今の言葉はよく覚えておきますよ」
「訴訟でも起こすかね」
部長の顔がゆがんだ。本心が見えたと高村は思った。老獪(ろうかい)といわれる人物だ。自分だけは損をしないように根回しをしているに違いない、と高村は思った。
高村は封筒の中身を見もせずに差し戻して立ち上がった。
「安心してください。私は誰も訴えたりしませんよ。ただね」
「何だね」
「私の病気は一万人に一人の確率でしかかからないんです」
「だから」
「うちの従業員は何人ですか」
「三千人だよ」
「だったら、私の気持ちを理解できる人は一人もいないですね」
そう言って、高村は背を向け部屋を出て行った。

新しい職場で一通りの研修を終えると、高村は駅前の百貨店に配属された。仕事の内容は入荷してくる荷物のチェックや整理が中心だった。きらびやかな百貨店の裏側は、打ちっ放しのコンクリートと、ひび割れて水漏れのする灰色の壁に囲まれていた。給料は半分に減った。
同僚の中にもこちら側に来た者はいるが、ほとんどが鉄道部門で働いていた。
あの春の日、レールが曲がって見えた時に、車掌をしていた吉田が高村を訪ねてきた。彼もこちらに移ったうちの一人だったが、気配りの良さと明るい性格で新しい職場にもすぐになじんだようだった。高村は五時に勤務が終わるので、吉田を夕食に誘った。
「みんな高村さんのこと心配していますよ」
そう吉田は言った。しかし高村は、彼らが心配しているとは思わなかった。仕事帰りに電車に乗っていると同僚と顔を合わすこともあったが、彼らは会釈だけして去るだけだった。誰もが自分のことで精一杯で、落ちていった人間に気を遣う余裕などないのだった。
酒が飲めない高村は、肴をつつきながら吉田の気遣いを嬉しく思った。
「今、僕は大阪線に乗ってるんです。近いうちに特急の運転をさせてもらえそうなんです」
「それはよかったな」
吉田はグラスに残ったビールを一気に飲み干した。
「ノンストップ特急っていうんです。憧れてましたから」
「うまくやってるようじゃないか」
吉田はにっこりと微笑み、口についた泡をハンカチで拭いた。
そうか。あの時のあんたより出世したよって言いに来たんだな、と高村は思った。吉田に邪意がないことは分かっていた。しかし高村は今後は昔の同僚に会うのはやめようと思った。今の仕事に専念し、働けるだけ働こう。そして、いざというときのための準備をしておこう。昔の感情になど浸っている暇はない。時間はどんどん過ぎ去っている。病気の方も、一時良くなっていた目の炎症がぶり返してきつつあった。
「どうかしたんですか」
箸を止めてあらぬところを見ていた高村の顔をのぞき込むようにして吉田は言った。
「いや、なんでもない。それより君の運転する特急に乗ってみたいな」
「やだなあ。高村さんに乗られると、なんだかチェックされている気がして緊張しますよ」
「仕事に緊張はつきものだよ」
自嘲するように高村は言った。立ち上がってトイレに行くふりをして会計を済ませると、吉田の肩に手を置いた。
「今日は俺のおごりだ。君の昇進祝いさ」
「すみません、そんなつもりじゃなかったんですけど」
「まだ酒が残ってるじゃないか。ゆっくりしていくといい。僕はもう帰るよ」
吉田は怪訝そうな目で彼を見上げた。
「朝から子供が熱を出しててね、今電話したらまだ下がらないようなんだ。悪いね、せっかく来てくれたのに」
「お送りしましょうか」
立ち上がろうとする吉田の肩を高村は押さえつけた。
「いや、大丈夫だ。それから、こっちの会社に来た連中に言って置いてくれないか。高村は元気そうだったと。少しも落ち込んでいなかったとね」
高村はまとわりついてくる吉田の声を無視して外に出た。追いかけてこなかったなと思った。空を見上げるとどんよりと曇っているのか星さえ見えなかった。最も周りのネオンサインが明るすぎるからなのかもしれなかった。

(つづく)

闇の人・光の人(4-6)へ進む
このページの最初へ戻る

著者別メニュー