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エレベーターの扉が開くと、暖かい光に包まれた清潔なフロアーが目に入った。左手に催し会場を案内するポスターが貼ってあった。「全国ガラス工芸展」という文字が書かれていた。
亜美は、高まる期待に胸をふくらませ、会場の方へ歩いていった。都心で一人暮らしをしながらグラフィックデザインの仕事をしている彼女は、アイデアに行き詰まると、美術館へ行ったり、様々な展覧会に赴くのを習慣にしていた。
会場にはすでに多くの客が詰めかけていた。いくつかのブースに分かれていて、全国各地にあるガラス工房の、選りすぐられた作品が並んでいた。
亜美は、ゆっくりと順路に沿って歩いていった。派手な装飾を施したランプから、小さなアクセサリー類まで、色々と見て回ったが、彼女の心に何かを呼び起こすものは見当たらなかった。
人いきれとざわついた会場の雰囲気に少し疲れてきた時、隅の方に小さなブースを構えている工房が目にとまった。木製のテーブルを二つ並べただけのものだったが、亜美と同じ年代の女性が数人、器に魅入られたような表情で屈み込んでいた。「柏木ガラス工房(伊豆高原)」というパネルがかかっていた。
近づいて見てみると、どれもシンプルなデザインで、安らぎと純粋さを感じさせた。中でも一つの作品が、亜美の遠い記憶を呼び覚ました。それは、両手にすっぽりと入るくらいの大きさで、ススキのようなレリーフを施し、淡い色調のドットをちりばめた器だった。
そのデザインは、亜美の高校時代の友人だった優子が、修学旅行の時に作った作品にあまりにもよく似ていた。彼女の胸に、もしかすると、という思いが浮かんだ。作者名を見ると「早川優子」とあった。同じ名前だった。
亜美の高校は修学旅行で伊豆へ行った。彼女は優子と一緒のグループで行動し、中伊豆にあるガラス工房で絵付けの体験をやった。その時に優子は、ススキの模様を描き、カラフルなドットをバランスよくちりばめていた。
優子は亜美と同じクラスで、頭が良く、可愛くて、男子にもかなり人気があった。高校を卒業して、亜美は他の仲の良かったクラスメイト達とともに、関西方面の大学へ行った。優子は地元の国立大学に入り、将来は教師になるはずだった。しかし、同じゼミの男にストーカーのようにつきまとわれて、ノイローゼ気味になって休学したのだった。
同窓会にも出てくることがなく、亜美達が連絡をとろうとしても、母親の方から、誰とも会いたくないというので連絡しないで欲しいと言われた。いつの間にか優子の一家は引っ越ししてしまい、それ以降の消息は誰にも分からなかった。亜美は、いつか優子が元気な姿を自分の前に見せてくれるのを、待つしかないと思うようになった。
あれから十年以上がたっていた。大学を卒業してから東京へ出て来て、日々の仕事に追われるうちに、優子の事も心の片隅に追いやられていた。しかし今、一つのガラスの器との出会いによって、亜美の心の中は優子への思いで一杯になった。
亜美は、早川優子という作家に会いに行こうと思った。同姓同名の別人でもいいから、自分で足を運んで確かめてみたかった。彼女は工房のパンフレットを手にすると、会場を後にした。

海岸線を走る列車の窓からは、大島が遠くの方にかすんで見えた。空気が澄んでいれば、もっと遠くの島まで見えるはずだったが、五月下旬のその日は、霞がかかったように、海の輝きも見えなかった。
優子の作品と出会ってから、三ヶ月近くがたっていた。編集長に無理を言って、三日間の休暇をもらったものの、自分のしていることが何だかおかしく思えてきた。デパートで見た作品が、本当に優子が作ったものだと信じている自分の心に、孤独感を覚えた。デザインの世界で生き残ってゆくために、必死に働き、若く新しい才能を持った社員が入って来る度に、平静を装いながらも、追い抜かれ落ちこぼれてゆく自分の姿を想像しない日はなかった。田舎に帰ってしまおうかと思うこともあった。故郷のクラスメイトたちはみんなどうしているのだろうかと、仲の良かった友人に電話したこともあったが、何人かはすでに結婚して家を離れ、何人かは久しぶりねと言いながらも、それ以上は会話が進まなかった。
列車はトンネルを抜け、海岸線を離れた。右手に小高い山が見えた。修学旅行の時、優子たちと一緒に登ったことが思い出された。優子、恵理、麻衣子、そして、亜美。四人はいつも一緒にいた。そして、中でも一番輝いていたのは優子だった。彼女の透き通った瞳に見つめられると、同性の亜美でも胸が騒ぐほどだった。

伊豆高原の駅に着いたのは一時過ぎだった。ペンションへのチェックインにはまだ間があったので、レンタカーを借りて工房を訪れることにした。坂道を上り、狭い道を自転車に乗った学生とすれ違ったりしながらも、目的地には意外と早く着いた。
工房の隣には、香水を扱う店や、絵本を集めた店など、若い女性が惹きつけられる店がいくつも並んでいた。休日にはかなりの人出があるだろうと思われた。
駐車場に車を止め、階段を上がってゆくと、窓ガラス越しに店員が笑顔で挨拶をした。工房の手前が店になっていて、亜美はまず、並んでいるガラス製品を眺めて歩いた。太い梁からいくつもの小さなスポットライトが降りていて、その光が、ガラスの器を内側から輝かせていた。しかし、優子の作品らしいものは見当たらなかった。
吹き抜けになっている二階に上がると、そこは作者別のコーナーになっていた。「早川優子」という名前を探すのに、さほど時間はかからなかった。近くにいた店員に声をかけてみた。
「すみません。この作品を作った方に、興味を持ったのですが」
「ありがとうございます」
「素直で可愛い作品ですね。何だか心が癒される感じがします。できれば作者に会ってみたいのですが」
「はあ、しかし、早川さんは、この工房の人ではないんです。時々作りに来られるだけで、私もよくは知らないんです」
「お会いするのは無理でしょうか」
「少々お待ち下さい。責任者に聞いて参ります」
そう言うと店員は、奥の扉の方へ向かって歩いていった。亜美はショーケースの中に並べられた作品を見た。ワイングラス、ボール、トレーなど、実用的なものが多かった。デザインは、展示会で見た器と同じだった。ススキのようなレリーフと、カラーのドット。優子が作ったものに違いないと亜美は思った。
しばらくすると、中年の女性が近づいてきた。地味な服装をしていたが、どこか気品を漂わせる細身の女性だった。
「柏木と申します。早川の作品に興味を持たれたということで、ありがとうございます」
そう言うと、女性は名刺を差し出した。柏木ガラス工房代表という肩書きがあった。
「私、もっと他にも早川さんの作品を見たいんです。それと、できればご本人に会ってお話を伺いたいと思いまして」
そう言って亜美は名刺を取り出した。芸術雑誌のデザイナーであることを利用して、取材という形で会わせてもらえないだろうかと思ったのだった。
「一度、早川の方に連絡をとってみます。こういう雑誌で紹介していただければ、彼女にとってもチャンスだと思いますし」
「あの、私、今日はこちらの近くに泊まっていますので、携帯の方に連絡していただけるとありがたいのですが」
「わかりました。でも、彼女はあまり表に出たがらない性格で、私も無理強いはしたくないものですから……。もし会えないということでしたら、私の方からお返事させてもらいます」
「ええ、わかりました」
亜美は柏木に頭を下げると一階に降り、別棟にある工房へと向かった。店舗から続く廊下を進んでゆくと、右手に、学校の教室を一回り小さくしたような部屋があり、長いテーブルがいくつか並んでいた。中に入ってみると、その奥はガラス張りになっていて、作業している人の姿が見られるようになっていた。ペイズリー柄のバンダナをした女性が、長い棒に息を吹き込んで、赤くなったガラスの球を膨らませていた。
「すみません、今日は教室が休みなので」
そう言われて振り返ると、無精ヒゲを生やした小柄な男性が立っていた。髪には白いものが混じり、四十代の前半ぐらいに見えた。
「いえ、いいんです。ちょっと見学したかっただけで」
男は、作業ズボンから取りだしたタオルで顔を拭きながら、恥ずかしそうに微笑んだ。亜美はガラス窓から離れて歩き出そうとしたが、優子の事を彼にも聞いてみることにした。
「あのう、早川優子さんという方もこの工房に時々来られるのでしょうか」
「どうしてですか」
「私、早川さんの作品を見て、どんな方なのかなって興味を持ったものですから」
「ああ、そうですか。彼女の器は若い女性に人気なんですよ」
「明日来たら会えるでしょうか」
「さあ、それはどうか。彼女は定期的には来ないので」
それだけ言うと彼は、雑巾でテーブルを拭き始めた。亜美は教室を出ていく前に、振り返ってもう一度彼を見た。いくつもあるテーブルを黙々と拭いている姿に、亜美は何かを思い出しそうになった。しかし記憶ははっきりした形になる前に崩れていった。

ペンションにチェックインして、亜美は部屋の窓から景色を眺めていた。新緑が夕陽に赤く染められ、鈍色の輝きを帯びていた。優子は連絡をくれるだろうか、そう思いながらベッドに腰をかけてミネラルウオーターを飲んだ。
やがて日が沈み、窓から涼やかな風が入ってきた。一人で夕食を取った後、散歩に出てみた。温泉宿が近くにあるのか、浴衣姿の女性が何人か歩いていた。カラン、コロンという下駄の音が耳に残った。温泉なんて随分来ていないなと思いながら、近くにあるベンチに腰を下ろした。携帯の待ち受け画面を眺めていると電話が鳴った。
「もしもし、早川と申しますが」
受話器から、か細い声が聞こえてきた。
「あのう、私、亜美。わかる?」
息を吸い込む音が聞こえ、一瞬の沈黙の後、堰を切ったように懐かしい声があふれ出てきた。
「やっぱり亜美ちゃんだったんだ。会いたかった」
亜美は来てみてよかったと思った。
「元気そうでよかった。ほんとに久しぶりね」
「私がここにいるって、どうして分かったの?」
「デパートで、作品展があったでしょ。器のデザインを見て、優子じゃないかなって思ったの。修学旅行の時に優子が描いたのとそっくりだったから」
「覚えててくれたのね。私があの時描いたものを」
「もちろんよ。すごく印象に残ってたもの。同姓同名の別人だったらどうしようっていう不安もあったけど、その時は、雑誌の取材でとか言ってごまかせばいいと思って、カメラまで持ってきたのよ」
「私、柏木先生から名刺をもらった時、驚いたの。先生にどんな感じの人だったか聞いて、亜美に間違いないと思って電話したの」
「ていうことは、私もまだまだ老けてないってことよね」
「きれいな人だったって、先生おっしゃってたわ」
「ほんとに?そんなこと言われたの初めてよ」
優子は電話口でくすくすと笑った。それから少し間を置いて、言葉を選ぶような感じで話題を変えた。
「高校の時のみんな、どうしてるのかな」
「恵理は結婚してニューヨークに住んでるわ。麻衣子は北海道の農家に嫁いだの。信じられないでしょ」
「あの、虫が嫌いだった麻衣子が?」
「そうなの。今じゃ、じゃがいも作りで忙しいらしいの。それとね」
「ねえ、明日ゆっくり話さない?何だか今全部聞いてしまうと、話すことがなくなってしまうような気がして」
優子はそう言って黙り込んだ。高校の頃のクラスメイト達が今どうしているか、それ以上先のことは、彼女にとって触れられたくない過去であることには違いなかった。でも何故?今のこと、これからのことを話せばいいじゃない、と亜美は思った。しかし優子の気持ちを考えて亜美は言った。
「そうね。明日会える?」
「会えるわ。仕事って言っても、やってるようでやってないようなものなの。私フリーだから。時々あの工房で作らせてもらってるだけで」
優子は、明日の朝、ペンションまで行くと言った。亜美は「楽しみにしてる」と言って電話を切った。

翌日は雲一つない晴天だった。ペンションの庭先には光があふれていた。緑が目に痛いほどまぶしかった。
約束の時間から十分ほど遅れて優子はやってきた。十年前と比べて少しやせたようだった。右目に眼帯をして、髪をショートカットにしていた。亜美の方を見て笑ったときの八重歯が、高校生の頃と一緒だった。懐かしい思い出が一瞬のうちに亜美の心を駆け巡り、目頭が熱くなってきた。
「ごめんね、遅れて」
「ううん、いいの。歩いてきたの?」
「工房の人に、近くまで乗せてきてもらったの」
「目、どうかしたの?」
「ああ、ちょっとガラスの粉が入って……。大げさでびっくりしたでしょ」
「大丈夫なの?」
「全然、平気よ」
優子は、すり切れたジーンズとチェックのシャツという格好だった。亜美の視線に気づいたのか、優子は恥ずかしそうに笑って言った。
「汚い格好だけど、いつもこんな感じなの」
亜美は階段を下りて優子の隣に立った。
「迷惑じゃなかった?」
「嬉しかったわ。私、ずっと人を避けてたんだけど、最近は、随分落ち着いたの。でも、まさか亜美が、私の作品を見てくれたなんて思わなかった。東京に出て来てどれくらいになるの?」
「大学を卒業してすぐ。最初は夢中で仕事してたけど、今はちょっとスランプ気味ね」
「どんな仕事してるの?」
「挿し絵を描いたり、文章と写真のレイアウトをしたり」
「素敵な仕事ね」
「でも、優子だってすごいじゃない。修学旅行の時に作ったのも、優子のが一番出来がよかったけど、まさかガラス工芸の作家になってるなんて、思ってもみなかった」
「そんな立派なものじゃないの。私は趣味で作ってるだけ。週に二、三回工房に行って、後は家で本を読んだり、散歩をしたり。ぜいたくしないから何とか生活していけてるけど」
「優子の家に行ってもいい?」
「すごくごちゃごちゃしてるけど、よかったら」
「ここから近いの?」
「車で十分くらいかな」
「じゃあ、私のレンタカーで行こう」
そう言って亜美が歩き出そうとした時、優子の顔に一瞬怯えのようなものが見えた。

優子のアパートは小高い丘の中腹にあった。にぎやかな店が立ち並ぶ通りからは外れていて、静かな場所だった。階段を上り、二階の奥の部屋に向かった。
「短期間で借りる人が多いから、入れ替わりが激しくて、誰が住んでるのかもわからないの」
優子はそう言ってドアを開けた。廊下をまっすぐ進むと、キッチンとリビングが一つになっていて、右側に、白くて長いテーブルが置かれていた。書棚には、優子の作品がいくつか並んでいた。
「紅茶か何か入れようか」
「ありがとう」
亜美は、少し距離を置いて、並んでる器をゆっくりと見ていた。デパートや工房の店舗で見たのとは違うデザインの作品もいくつか並んでいた。しかし、どれも共通のテーマを持っているように感じられた
「ここで、デザインとか考えるの?」
出された紅茶を飲みながら亜美は尋ねた。
「私、結構いい加減だから、工房に詰めてるときに一気に作るの。家ではスケッチブックにちょっと落書きしたりするだけ」
「でも、売れてるんでしょ。優子の作品」
「売れ始めたのはここ一、二年くらいから。それまではずっと親のすねかじってたの。恥ずかしいけど、今でも部屋代は親に払ってもらってるのよ」
「ご両親はどこに住んでみえるの?」
「三島。母の実家があるから。心配なのか、時々見に来るのよ。もう三十近いのに、まだまだ子供扱いなの」
「優子は可愛いもんね。話し方も高校生の頃と全然変わってない」
亜美は、都会の喧騒にもまれてすさんでいる自分と比べて、純粋なままでいる優子をうらやましく思った。
優子は、窓から見える景色を、ぼんやりと眺めていた。
「ここからは、海は見えないの。残念ながら。でも、山もいいでしょ」
「そうね、紅葉とかもきれいなんでしょ」
「この辺は、冬になってもほとんど雪は降らないけど、あの山の頂だけは白くなるの」
昨日の電話とは違って、優子の声に弾んだ様子はなかった。亜美は、優子が本当は会いたくなかったのではないかと思った。しばらく二人とも、黙ったまま紅茶を飲んでいた。
「昔のこと思い出すわ。いつも一緒にいたじゃない?私達。亜美と恵理と麻衣子と。みんな今はばらばらになってるけど、いつかこの小さな部屋で、パーティーでもやれたらいいなって思う」
「やろうよ。みんな絶対来るよ。優子がどうしてるのか、みんな心配してるんだから」
「逃げ隠れするつもりはなかったの。でも、みんなに会えるような状態じゃなかった」
亜美は優子の眼帯を見た。優子はそれに気づいたかのように顔を反らせて立ち上がり、窓の方へ歩み寄った。
「私、大学時代に付き合っていた男に、ひどい目にあわされたの。結局は、教師になる夢も諦めて、退学したの」
「優子が休学したってことだけは聞いたわ。その、ストーカー男のせいで」
「最初は好きでつきあってたんだけど、あまりにしつこくて、束縛するようなことばかり言うから、私、ちょっと精神的に不安定になったの。半年くらい学校を離れていれば、彼も私のことを諦めるだろうと思ってた。でも、それではすまなっかったの」
重い沈黙が、澱のように部屋の中に降りてきた。亜美は優子の言葉を待った。
「ちょっと異常っていうか、休学中にも家の前をうろついたり、何度も電話をかけてきたりしたの。だから、もう別れて欲しいって言ったの。そうしたら……。こんな話聞きたくない?」
「ううん、話して。話すことで優子の気持ちが楽になるかもしれないし」
優子は窓のカーテンを締めた。部屋の中が薄暗くなった。
振り返った優子の、眼帯をしていない左目から、涙があふれそうになっていた。優子はテーブルの左側にある戸棚から、薄紙に包んだ器らしいものをいくつか取り出した。そして、一つずつ包みを開いてテーブルの上に並べていった。
「ここへ来た頃は、こういうのばかり作ってたの。一つ一つ手間をかけて、時間をかけて、それに夢中になることで嫌なことを忘れようとしていたの」
包みをほどかれた器は、アールヌーボー時代を思わせる作りで、色合いは暗く毒々しいものだった。エミール・ガレやドーム兄弟の作品を真似た、昆虫や植物を浮き彫りにさせる手法のようだった。幾層もの色のガラスを重ねた上に、トカゲとか蝉がしがみついていた。デパートの作品展で見たような、繊細な曲線や、女性らしい可愛らしさは全くなく、なにかを封じ込めでもするかのような作品ばかりだった。亜美には優子の心の闇が感じられた。目の前にある器を作っている優子の姿を想像しただけで、胸が苦しくなった。
「優子、辛かったのね。これを見てると、優子が誰とも会いたくなかった理由がわかるような気がする」
「もう一つあるの」
そして、優子が最後の包みを開けたとき、亜美は戦慄を覚えた。それは小さな緋色の花瓶に、人間の眼球を埋め込んだものだった。その目は優子の瞳だった。高校生の頃、仲間たちに囲まれ、ひときわ輝いていた彼女の澄みきった瞳がそこにあった。
「別れて欲しいって言った翌日、彼に、最後のデートがしたいって言われて、ヨットハーバーに近い海岸へ行ったの。彼は尋常じゃなかった。体中を震わせて、まるで痙攣でもしているようだった。私は何とかして落ち着かせようと近づいたの。そしたら彼が殴りかかってきて……」
優子は眼帯をゆっくりと外した。左目からは滴のように涙が流れ続けていたが、右目は濡れてさえいなかった。それは、悲しみも喜びも表現することのできない目だった。
「右目は摘出するしかなかったらしいの。私は二日間意識を失っていたから、自分の目がなくなっているなんて知らなかった」
右目は優子の顔の輪郭に合うように作られていたが、義眼だということはすぐにわかった。
「普段は眼帯なんかしてないの。工房の人たちは別に何にも言わないし、街の中も平気で歩けるけど、昔のクラスメイトに久しぶりに会うのは、ちょっと怖かった。素顔のままではね」
優子はハンカチをとりだして、左の頬を濡らしている涙をぬぐった。
「なんてひどいことを……」
「彼はたぶん、自分でも何をしているのかわからなかったと思うの。警察に捕まって、私の目を潰してしまったことを知ると、取り調べ室で、狂ったように泣いていたらしいわ」
テーブルに並べられた過去の器たちは、亜美に、優子のすさまじい煩悶を感じさせた。眼球の埋め込まれた花瓶は、もう見ていることもできなくなった。亜美は頭を抱えてテーブルにうつぶせてしまった。
「なんてかわいそうなこと。その男の目を私が潰してやりたいくらい」
「もういいのよ、終わったことだから」
「でも、ひどすぎるわ。許せない」
「違うの。彼は自殺したのよ。彼の両親が地元の有力者だったから、新聞にはいっさい出なかったけど」
亜美は優子を見上げた。淡々と話す口調とはうらはらに、優子の身体は小刻みに震えていた。
「彼は執行猶予の期間中に、自分の部屋で首を吊ったの。ぶら下がってる彼の体の下には、自分でえぐり出した右目が落ちていたらしいわ」
優子はそれだけ言うと、再び器を薄紙に包んで、棚に片付け始めた。
「ずっととっておこうと思ったけど、近いうちに捨ててもいいような気持ちになれたわ。亜美のおかげよ」
一つ一つ、丁寧に包み直してしまってゆく優子の姿を見て、亜美は自分の胸に、溶けた鉛が注ぎ込まれるような気がした。
「私、左目の視力も少し落ちてきているの。だから、もうあまり細かい仕事はできないかもしれない」
亜美の隣に立ったまま、優子は言った。
「だから、デザインだけにしようかなって思ってるの」
「大事にしなきゃね」
「そう、もう、一つしかないから。それに片目だとすごく疲れるの」
風でカーテンが揺れ、陽射しが部屋に差し込んだ。光の中を埃が舞っていた。過去の器を包んでいた紙についていたものだろうか、亜美がそう考えているうちに、それは消えていった。
「働かなくちゃ、生きてゆけないからね。いつまでも親に頼ってはいられないし。私、売り場の店員の仕事もやろうかと思ってるの。これでも、体力には自信があるのよ」
「そうね。修学旅行で山に登ったときも、優子は余裕だったものね。恵理も麻衣子も途中で座り込んでぐったりしてるのに、どんどん登っていくんだもの」
「あの時に見た風景は忘れられないわ。空気が澄んでいて、水平線の方まで海のきらめきが見えた。だから私、逃げるようにしてここへ来たの。ここには、一番楽しかった頃の思い出があるから」
「優子なら大丈夫。きっとやっていけるよ。器のデザインだけじゃなくて、イラストとかも書いてみたら。一度私に送ってくれたら、編集長に見てもらうわ」
「ありがとう、亜美」
「優子がこんな目にあってたなんて、私、全然知らなかったから、勝手にいろんなこと想像して……」
「もういいのよ。自分を責めるのはやめて」
そう言って優子は亜美の手を握った。彼女の小さな手はかなり荒れていた。傷もいくつかあった。それを包み込むように亜美は両手で握り返した。
「亜美の手ってあったかい。あの頃と一緒だわ」
亜美は立ち上がって、優子をそっと抱きしめた。彼女の左頬を優子の涙がぬらした。亜美が背中を何度もさすっているうちに、優子の震えは徐々に治まっていった。
「ねえ、優子、何か食べに行こうか」
「そうね。涙が出つくしたら、なんだかお腹がすいてきちゃった」
亜美は身体を放して優子を見た。まだ涙の跡は残っていたが、表情には柔らかさが戻っていた。

亜美は優子に道を教えてもらいながら、車を走らせた。繁華街を通りすぎ、山道を登ってゆくと、竹林の中にひっそりとたたずむ店が見えてきた。そこで、打ち立ての蕎麦を二人は食べた。
箸をおいて、そば湯を飲んでいると、優子がしきりに左目をハンカチで押さえ始めた。
「ねえ、私の目赤くなってる?」
「別になんともなってないけど。痛いの?」
「さっきから、目の前を虫が飛んでるように見えたんだけど、急に砂のようなものが、目の中でざあって流れだしたの」
「近くに病院ある?」
「駅の近くに目医者さんがあるけど」
「じゃあ、すぐ行こう。ちょっと待ってて」
亜美は支払いを済ませると、車を飛ばして病院まで優子を連れていった。
診断の結果は、眼底出血らしかった。砂のように見えるものは、しばらくすれば消えてゆき、大事には至らないということだったが、さすがに優子は落ち込んでいた。
亜美はペンションに電話して、その日の宿泊をキャンセルし、優子のアパートに戻る途中で荷物を取ってきた。
その夜、亜美は優子に寄り添うようにしてベッドに入った。亜美はこれからの優子の事が心配で眠れなかった。不安を抱えて生きていくのは誰も同じだが、優子の場合は、毎日何とか乗り切って行けば済むことではなかった。もし左目も見えなくなってしまったら、一体どうしたらいいのだろうか。夜明けまで亜美は眠れなかった。

窓から薄日が差し込んできて、亜美は、ようやく少しだけ眠ったことに気づいた。優子は側にいなかった。キッチンの方から音が聞こえてきた。
「亜美、起きた?」
「優子、もう大丈夫なの?目の方は」
「うん、少しよくなったみたい。それより、昨夜はお風呂も入ってなかったね」
亜美は自分の髪を触ってみた。湿ってべたべたして気持ち悪かった。いつも髪には気を使い、さらりとした、流れるような感じを保つようにしていたのに、こんなことは初めてだった。しかし、髪を洗うことも忘れて、優子に寄り添って寝た夜が、とてもいとおしく思えた。
「朝食ができたわよ」
優子がトレーに、トマトジュースとスクランブルドエッグ、そしてトーストとグレープフルーツを載せて運んできた。亜美はまるで自分の方が病人のように思えてきた。
窓から暖かい光が斜めに差し込んできて、優子の横顔を照らしていた。優子は昨日の不安を忘れたかのように微笑んでいた。
「私のいつもの朝食。母親が作ってくれてたのと同じなのよ」
「健康的な朝食ね。私なんか、ほとんど毎日、会社の近くのファストフードで済ませてるわ。おいしそう」
亜美は、微笑みを絶やさない優子を痛々しく思った。自分のために気を使ってくれているのだろうか。本当は泣きたくて仕方ないのではないだろうか。そう考えると、胸が詰まって来るようだった。
「ねえ、亜美。私のことはもう心配しないで。亜美にだって悩みはあるでしょ。中味は違っても、辛いのは同じなのよ。とにかく、今日は楽しく過ごそうよ」
「ねえ、優子。無理してない?」
亜美の問いかけに、優子はただ微笑みで答えた。

二人は朝食後、付近を散策した。優子は、道端に咲いている花の名前を、一つ一つ教えてくれた。その中には、優子の作った器にデザインされていたものもあった。丘の上から眺めると、海岸線を電車が走ってゆくのが見えた。
「ねえ、もう少し歩ける?そこの角を曲がったところに、温泉宿があって、こぢんまりとしてるけど、庭園に囲まれた露天風呂がとても素敵なの」
「泊まらなくても入れるの?」
「大丈夫。最近はね、日帰り入浴とか、昼食付きプランとか色々あって、安い値段で温泉を楽しめるのよ」
亜美は普段あまり歩いたことがないので、足が痛くなってきたが、優子に手を引かれながら後に続いた。
石段を降りると宿の玄関が見えた。古い民家を移築したようで、昔、祖父の家に行ったことを思い出した。
フロントで入浴券を買い、スリッパに履き替えて、磨き抜かれた木の廊下を歩いてゆくと、右手に女性用の入り口があった。脱衣所で服を脱いでいると、修学旅行の時、みんなで胸のふくらみを比べあったのを思い出した。一番大きかったのは恵理で、二番目が優子だった。亜美はその頃、ほとんどふくらみがなかった。
身体を洗ってから、二人は露天風呂につかった。湯の花が所々で浮いていた。庭園が目の前に開けていて、囲いのすき間から海が見えた。肩まで浸かっていると、身体の中から、疲れや悩みが消えてゆくような気がした。
「私、工房で働いてる人から、付き合って欲しいって言われてるの」
八重歯を見せて、はにかみながら優子は言った。
「そうなの?もしかしてペンションまで送ってきてくれた人?紹介してくれればよかったのに」
「あの時はまだ、どう返事しようか迷ってたの。でも、亜美に会って、昔のことを話せたおかげで決心がついたの」
「どんな感じの人?」
「とっても地味で、まじめな人。私が学生だった頃には、絶対目に留めなかったような。亜美だってきっとそうよ」
亜美は、昨日工房を訪れた時に見た男性のことを思い出した。一人で黙々とテーブルを拭いていた彼。それは、高校の頃、優子に片思いをしていたある男の子の姿と重なった。高校生の頃には、かっこよくて、目立ってて、おもしろい男の子にしか興味はなかった。それは亜美も優子も同じだった。
「私、ようやく男の人を見る目ができたように思うの。その人に頼りたいっていう気持ちもあるけどね。一人で気を張って生きて行くのはもう疲れちゃった」
「その人のこと好きなの?」
「好きよ。でもそれだけじゃないの。なんて言ったらいいのかな……愛しい気持ちを感じるの。その人を見たり、その人と話してると」
「愛しい気持ちか……。深い言葉だなあ。私はまだ、そんな気持ちを感じる人には出会ってないわ」
亜美は自分の過去を振り返りながらそう言った。何人かの男と付き合ってはきた。一緒にいるだけで夢心地になるような男、身体だけを求めていた男、だらしなくて金に汚かった男。自分は彼らに愛しい気持ちを感じただろうか。答えは否だった。
「私、その人と付き合うことにしたわ。今日にでも返事をするつもり」
「おめでとう。よかったね」
「亜美はどうなの」
「私の方は、今は男断ちしてるの。でも、優子のように、愛しい気持ちを感じる人が現れたら、一ヶ月もしないうちに結婚しちゃうかも」
「ほんとに?その時は、すてきな器をプレゼントするわ」
風呂から上がり、休みどころで冷たいものを飲んでから、二人は優子のアパートに戻った。

優子が、午後から工房で体験教室があるというので、亜美はそれに参加してみることにした。平日だというのに、たくさんの若い女性が工房の教室に集まっていた。手法によってグループに分かれているようで、亜美はサンドブラストをやってみることにした。
講師の中の一人を呼んで、優子が紹介してくれた。
「高校の頃の同級生で、佐藤亜美ちゃん。わざわざ東京から会いに来てくれたんです」
「林田です。あなたは先日工房にいらっしゃった方ですね」
亜美はペコリと頭を下げ、悪戯っぽく微笑んで見せた。
それはやはり一昨日、教室で話しかけてきた男性だった。さすがに今日は無精ヒゲを剃っていた。
彼は、亜美の選んだサンドブラストの講師だった。物静かな口調で、丁寧に教えてくれた。優子はと見ると彼の横顔をじっと見ながら、微笑んでいた。高校生の頃付き合っていた彼と、よく授業中に見つめあっていたが、それとは違って、もっと暖かさというか思いやりというか、そんなものが加わっていた。
「先日はすみませんでした。早川さんのお友達だとは知らなかったもので」
林田が亜美に話しかけてきた。
「先生はずっとこちらの工房にみえるんですか」
「私はもう二十年近くになります」
「じゃあ、優子がこちらへ来たときから知ってみえるんですね」
「ええ、その頃は、私もまだアシスタントでした。早川さんは、何時間もたった一人で作品を作り込んでました。彼女が作るものをずっと見てきましたが、ここ一、二年で随分と変わりました」
「それはきっと、先生のアドバイスのおかげですよ」
「私は何もアドバイスなんかしてません。ただ、じっと彼女を見守っていただけです。周りのみんなも、暖かく彼女を見守ってきました。きっと辛いことがあったんでしょう。来た当初は、一人で泣いていることがよくありました。でももう大丈夫だと思います。ここで、彼女は自分を取り戻すことが出来たんです。今の作品には、彼女の持ち味が百パーセント活かされていると思います」
「先生は、優子のことをどう思われてるんですか」
亜美はわざとらしく聞いてみた。林田は顔を少し赤くしてはにかんだ。
「いい子だと思いますよ。作家としてもこれから伸びて行くと思います。彼女は自分の方向性を見つけたように思います」
「それと、もう一つ見つけたものがあるんじゃありません?」
「もうひとつ?」
「優子にとって大切な人ですよ」
彼は顔を真っ赤にし、優子の姿を目で追った。優子は別のグループのところで、遅れている人に詳しく説明していた。彼の優子を見る目にも、優子が彼を見ていたのと同じものがあった。彼の瞳の奥から放たれている光は、命を込めて作り上げたガラスの器が放つ輝きのようだった。

体験教室を終えると、三時を過ぎていた。亜美は、そろそろ東京へ戻らなくてはならなかった。明日の編集会議の準備もあり、荷物を持ってレンタカーへと急いだ。優子は駅まで一緒に行くと言って、助手席に乗った。
「いい感じの人じゃない。優子の事、大事にしてくれそう」
「さっき、返事しちゃったの。とっても喜んでくれてた。亜美にもよろしくって言ってたわ、彼」
「おめでとう。何だか今日の優子、今までで一番輝いてるよ。高校生の時よりも。みんなに囲まれて笑っていた時の優子よりも、ずっと素敵よ」
「ありがとう。亜美がわざわざ会いに来てくれたおかげで、心に引っ掛かっていたものがとれたわ。とっても重くてねじくれた重りだったけど」
「私も優子のおかげで、スランプから脱出できそうよ。それに、男断ちもやめようかと思ってるの」
「恵理や麻衣子にも会いたいな。いつか本当に四人でまた会えるといいね」
「それなら私に任せといてよ。きっと二人を連れてくる」
二人の会話は途切れることがなかった。昨夜の重苦しさは嘘のように消えていた。

レンタカーを返し、駅の構内に入ると、ガラス工芸の作品を並べたコーナーが設けられていた。
「今日から、工房の先生が展示会をやってるの。亜美がデパートの展示会で見たものも、いくつか並んでると思うけど」
電車の時間まで、まだ余裕があったので、亜美は優子の作品を探した。それは、中央の辺りに並んでいた。
「これが彼の作品なの」
優子に言われたほうを見ると、色鮮やかな器が並んでいた。原色を使った大きな花瓶やインテリア用の皿には、ガラスというよりも陶器に近い質感があった。優子のとは対照的に、実用性には欠けるが芸術性は高いように思われた。見た目では分からない情熱が、彼の心の中にはあるのだと亜美は感じた。
「無理しない程度に作るから、また見に来てね。その時は彼氏も連れてきて。それから、恵理と麻衣子にも、元気でやってるって伝えてね」
優子はそう言って微笑んだ。右目も左目と同じように輝いていた。それは、優子が、自分の右目に命を吹き込んだかのようだった。
列車の出発時刻を告げるアナウンスが流れた。慌てて改札口に走り込んで、亜美はもう一度優子の方を振り返った。いつまでも手を振り続ける優子の側には、いつの間にか林田が立っていて、亜美に頭を下げた。
並んでいる二人の姿には、何か通じ合うものがあった。おそらく、林田の方にも、誰にも話せない辛いことが過去にあったのではないだろうか。だからこそ、優子の痛みを感じ、優しく見守ることができたのではないだろうか。そして、二人ともが、それぞれ長い時間をかけて苦しみを乗り越え、自分らしさを見つけたのではないだろうか。亜美はそう思った。
亜美は二人に頭を下げると、ホームへ向かって走った。

電車に乗り込み、窓際に座ると、亜美は手鏡を取りだして自分の顔を映した。化粧をしていない顔は、考えていたほどひどくなかった。優子に会えたおかげで、肩の力が抜けて、自然体になれたような気がした。
亜美は、明日からは柔らかい気持ちでデザインしてみようと思った。鏡をバッグにしまい、代わりに、先程工房でサンドブラストしたグラスを取りだした。星を五つ描き、それを一本の線でジグザクにつなげた、シンプルなデザインだった。光にかざしてみると、砂を吹きつけて彫った部分が、白く浮き上がって見えた。

(了)

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