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バスの窓から、雨に煙る島が見えた。重く垂れ込めた雲のせいで、鉛色の海の中に埋もれているかのようだった。桟橋が近づくと、胸が急に縮むような痛みを感じた。
バスは祐子一人を降ろしただけだった。海の匂いが漂っていた。目の前に海があるっていいねっと、学生の頃、友人に言われたことがあったが、祐子はむしろこの匂いが嫌いだった。
「おとうさんがちょっとおかしんよ。ねえ、祐子ちゃん、一度見に来てくれへん?」
峰子から電話があったのは一週間ほど前だった。
「おかしいって、どういうこと?仕事を辞めたから気が抜けたんじゃないの?」
「それがさ、時々一人でぽつんと部屋の真ん中に座ってんの。まっすぐに正座して、話しかけても、うんともすんとも言わへんのよ」
祐子の胸に、まさか、という気持ちが広がった。彼女の父はまだ六〇歳を少しすぎたばかりだった。一年前に帰ったときには、相変わらずステテコ一枚であぐらをかいてビールを飲んでいた。
「祐子も別嬪になったな。死んだ母ちゃんにそっくりや。彼氏ができたらお父ちゃんにまず紹介せなあかんで」
そんな軽口をたたいて、峰子の作った肴をおいしそうに食べていた。

峰子は近くの温泉宿で仲居をしていた。母が亡くなってしばらくしてから、父は彼女を時々家に連れてくるようになった。高校生だった祐子はそんな父に嫌気が差し、島には戻らないつもりで東京の大学へ行った。在学中にCADの資格を取り、卒業後は建築関係の仕事をしていた。
「今度の土日に帰るから、それまで様子を見てて」
「もしかして、ぼけたんちゃうかって思うんよ。どうしたらええかわからんし」
「ひどくなるようだったら病院へ連れてって。総合病院に行って受付で症状を言えば、それに合った科に回してもらえるから」
「そうやな、そうするわ。ほんなら土曜日に待ってるわ。祐子ちゃんの顔見たらお父さんも元気になるかも知れへんし」
「峰子さんしっかりしてよ。近所の人にも相談して。島には年寄りが多いんだから、同じようなことで困ってる人もたくさんいるはずでしょ」
「うん、ありがと。やっぱり祐子ちゃんに電話してみてよかったわ」
気の抜けたような峰子の声に、思わず投げ捨てるように受話器を置いた。

島へ向かう船が近づいてきた。十数人しか乗れないような小さな船だった。一年前まで、祐子の父がこの船を運転していた。ごま塩頭を斜めに傾け、右手には常に煙草をくゆらせていた。一日に二箱以上は吸っていた。何度注意しても父は煙草を放さなかった。
桟橋に舳先が近づくと、初老の運転手がエンジンを止め、船から出て来てロープを柱にくくりつけた。乗り込もうとする祐子に彼は手を差し出したが、彼女はそれを無視するように甲板から客室へと入っていった。
少し遅れて、タクシーから降りた中年の女性たちが、かん高い笑い声を上げて入ってきた。おそらく、この島にある温泉宿に泊まる客だろうと祐子は思った。
ロープを外し運転席に戻った男は、エンジンをかけると後ろを向いて船をバックさせた。彼は時々祐子の方をちらりと見た。
「祐子ちゃんやろ。久しぶりやな。おいちゃんのこと覚えてるか?」
「いえ、すみません」
「そら、そやろな。年寄りの顔なんか皆同じように見えるからな」
笑った顔に祐子は見覚えがあった。しかし名前までは出てこなかった。
「鵜崎や。祐子ちゃんのお父さんには随分世話になった」
鵜崎という名を聞いて、祐子はあっと息を飲み込んだ。父がまだ漁師をしている頃、よく一緒に博打をしていた男の名だった。母親が時折愚痴を言っていたのを思い出した。
「お父さん具合悪いみたいやな。峰ちゃんがおととい家に来て、女房に相談してったらしいわ。俺も休みの日は病院に行っとるから、知らんかったんや」
船を半回転させると鵜崎は前に向き直り、それからは一言も話さなかった。祐子は窓から外を眺めた。どんよりと曇った空にはカモメも飛んでいなかった。

父が運転しているとカモメがいつも付き添うように飛んでいた。祐子は父に「お父さんはカモメに好かれてるんやね」とよく言ったものだった。まるで声援を送るようにカモメは鳴いていた。父は煙草の煙を吐きながら、ただ黙って笑っていた。

島に着くと、祐子は鵜崎に一言礼を言って船を降りた。冷たい雨が降っていた。一緒に降りた女性達は、旅館から出迎えに来た女に一本づつ傘を渡された。桜色の傘が次々に開いていった。
「傘持ってけや。なんぼでもあるんやから」
鵜崎が差し出した傘を断り、祐子は早足で歩き始めた。
「相変わらず、強情な娘や」
鵜崎がそうつぶやくのを背中で聞きながら、祐子はまっすぐ家に向かった。
民宿が立ち並ぶ狭い小路を抜け、坂を上っていくと、実家の屋根が見えた。いくつか瓦のはがれかけたところがあり、家の中の雑然とした様子が想像された。
峰子は、手料理がうまく、身の回りの世話をするのは上手だったが、掃除とか、庭の手入れは苦手なようだった。いつ帰っても日付の古い新聞が居間に転がっていたり、取り入れた洗濯物が散乱していた。母がいた頃の、清潔で埃一つなかった家が、次第に汚れていくのを帰省するたびに感じ、祐子は憂うつになった。

家の前に立ち、玄関のチャイムを鳴らそうとして、祐子は家の中から異臭が漂い、すすり泣きが聞こえてくるのに気づいた。
「祐子です。峰子さん、入るわよ」
そう言って合い鍵でドアを開けると、目の前に父が立っていた。目はどんよりと曇り、祐子を見ているようで見ていなかった。下半身は裸だった。
「お父さん、私。わかる?」
祐子が父の腕をゆすってそう言っても、何の反応もなかった。吐く息から煙草のやにの匂いがするだけだった。そして先程の異臭が何だったのか祐子にはようやくわかった。父の尻から一つ二つと大便が落ちてきたのだった。
祐子は持っていた手提げのバッグからティッシュを取り出し、お尻を拭き、土間に落ちた便を包んでトイレに向かった。自分の手の中にあるものが祐子には暖かく感じられた。父がまだ人間として生きている証拠であるような気さえした。
便を流し、手を洗ってから、すすり泣きの聞こえるほうへ走っていった。寝室の方から泣いているとも笑っているともとれる峰子の声が聞こえてきた。
襖を開けた瞬間、目に飛び込んできた光景を見て、祐子は今まで我慢していた震えが全身に起こった。布団の上に座り込んだ峰子の着物は糞尿にまみれていた。部屋中にティッシュの塊が散らばり、壁には尿の飛んだ跡がいくつも見られた。
「祐子ちゃん、お帰り」
峰子の声を聞いて我に返った祐子は、その場に座り込んだ。

今まで張りつめていたものが一気に崩れてゆくのを感じた。父と峰子の暮らす家から遠く離れ、田舎の言葉もすっかり使わなくなり、コンピューターと向き合って夢を紡ぎだしていた自分は粉々に吹っ飛んでしまっていた。
「ついさっきまで、大変やったん。ちいちゃな子供に戻ったみたいに、あっちこっちで、おしっこやうんちして、私の服までこんなんになってしもた」
峰子はほつれた髪をかき上げながら、弱々しく微笑んだ。
「祐子ちゃんの顔見たら、ちょっと落ち着いてきたわ。やっぱり、きてもろてよかった」
「峰子さん。服脱いでお風呂に入って。仕事なんでしょ、これから」
「今日は休みもろたん。祐子ちゃんにおいしいもの食べてもらお思て」
「とにかくお風呂に入って身体を洗わなくちゃ。その間に私、掃除しておくから」
「ええの、ええの。祐子ちゃんはそんなことせんでも。全部私がやるで」
「峰子さんは掃除が苦手なんでしょ。だから家がどんどん汚くなるのよ。屋根の瓦だっていくつかはがれてるのに、全然気づいてないでしょ。あなたはそういう人なのよ」
一気にそうまくし立てた後で、祐子は峰子を責めたことを悔やんだ。
「ほんまに、ごめんね。私には祐子ちゃんのお母さんみたいなことはできんけど。お父さんのこと好きやから。ほんまに、ごめんね」
峰子は立ち上がり、手に握りしめた雑巾で壁を拭き始めた。
居間に戻って玄関の方を見ると、父はたたきに座り込んでいた。船の舵を取っていたときと同じように首を少し傾けて、煙草を吸うまねをしていた。
祐子は隣に座り、横顔を見た。満足そうに笑っているのが妙におかしかった。たぶん、父は今海に出ているのだろうと思った。
「お父さん、カモメが飛んでるね」
幼いころに言ったのと同じ言葉を口にしてみた。
「ほら、みんなお父さんの船についてくるよ。お父さん、カモメに好かれてるんやね」
「おう」
初めて父は声を出した。そしてありもしない煙草にまた火をつけた。胸一杯に吸い込んで吐き出し、灰を操舵席の近くにぶら下げた缶に入れる真似をした。
「お前、今、名古屋に行っとるんか」
そう言って父は祐子の方を見た。おそらく他の誰かのことを思い浮かべているのだろう、自分の娘だということさえわかっていないようだった。
「ううん、東京。東京でね、仕事してるんよ。お父さんの好きな、海のすぐ側で仕事してるの。テーマーパークを作るのよ。すごく大ききな、遊園地みたいなもの」
しかし、父には祐子の話は伝わってないようだった。
「明日から台風が来る。今日は、はよう帰ったほうがええ」
台風はもう来ている。祐子はそう思った。

自分は、順調にやってきた仕事をやめて、ここで暮らさなくてはいけないだろう。いくら何でも、自分の親を他人の峰子一人に任せるわけにはいかない。
風呂場で峰子が体を洗っているようだった。洗濯機の回る音もする。祐子は父の下着を取ってくると、濡れたティッシュでもう一度お尻を拭いてから下着をはかせた。
「おい、雨戸閉めとけよ」
父はそう言うと、おもむろに立ち上がり、居間に座り込んだ。腕を降ろし、拳を握りしめて畳にこすりつけている。よどんだ瞳で、じっと窓の外を見ている。鉛色の雲が空を覆い、雨が斜めに吹きつけている。窓ガラスを伝う雨は次第に風を伴い、波のしぶきのように打ちつけてきた。

祐子は、まだ異臭の残る座敷に寝ころんだ。父が眠ってしまうと急に疲れが出てきたようだった。台所の方から峰子の声がした。
「祐子ちゃん、疲れたやろ。今ご飯作っとるから、もうちょっと待ってね」
「お父さんいつからなの?去年帰ったときには何ともなかったみたいだけど」
「半年くらい前から、物忘れがひどうなってね。時々、目まいもするっていうてたん。そやけど、あの人、がんこやから、病院へ行こうて言うても、いうこときかへんの」
「それでほっといたの?」
祐子は天井に投げつけるように言葉を吐き出した。
「ごめんね、もっと早いうちに先生に見てもらうべきやったわ」
峰子はお盆に夕食をのせて運んできた。祐子は起き上がり、峰子をキッとにらんだ。その視線を避けるように峰子は顔を背けたが、笑顔だけは取り繕っていた。
「月曜日に病院に連れてくわ」
「いまさら遅いわよ。娘の私のことだって分からないのよ」
「そやけど、坂の上の田崎さんとこのおじいさんも、いっぺんひどうなったけど、今は薬で落ち着いてるってゆうし。記憶が戻ることもあるって、ゆうてみえたから」
峰子は食卓の前に座り、食べて、と言った。

食事をしていても、祐子は味がしなかった。これから先のことを考えると不安で仕方なかった。
「私、会社やめて、こっちに住むわ。峰子さんが働いてる間に何かあったら大変だもの」
「そやけど、祐子ちゃん、ええ仕事しとるんやろ。私には難しゅうてわからんけど」
「じゃあ、峰子さんが仕事やめるの?どうやって二人で食べていくのよ。収入もないのに。それとも、私に仕送りしろって言うの?」
「そんなこと言うてないわ。私、働きながら面倒見る」
「入院させたほうがいいんじゃないの?」
「私、そばにいたいの。それに、いろんな人に聞くと、家族がそばにいたほうがええって言うから」
「峰子さんは家族じゃないわ。家族は私だけよ。娘の私だけ。あなたは赤の他人よ」
一瞬、峰子の箸の動きが止まった。ひどいことを言ってしまった、と祐子は思った。しかし、自分を娘だということが分からない父に対する哀しさとか怒りをぶつける相手は峰子しかいなかった。これでは峰子に甘えていることになる、と祐子は思った。家族ではないと口に出しておきながら、今、一番身近にいるのは峰子だけなのだと思うと、祐子は何も言えなくなった。二人はただ黙々と箸を動かして食事をした。

朝早くに、鵜崎に対岸まで送ってもらい、タクシーで病院へ向かった。いろんな検査をし、終わったのは昼過ぎだった。結果はまだ分からないが、脳梗塞性の認知症の疑いがあるということだった。一週間後に結果を聞きに来ることになった。
船着き場に着くころには陽が沈みかかっていた。
船が来るまで、祐子は、夕陽に赤く染まった海を眺めていた。父はそばに座っていた。膝を抱え、何か順番を待つ子供のようだった。海を見てまぶしそうにしていた。峰子は、そんな父を、子供をあやすようにして肩に手を置いていた。カモメの飛んで行く方向を指で示したり、行き交う小舟に手を振って見せたりした。そんな峰子のしぐさに父は時々小さな声を上げて笑った。
父が子供に戻っている。その母親は峰子。そして私はいったい誰?祐子は自分の役割が何なのか分からなかった。昨夜、峰子に対して言った言葉が、こだまのように自分に帰ってきた。そして父が自分に向けた目を思い出した。鉛色に濁った目。それは暖かく迎えてくれる目でもなく、冷たく突き放す目でもなかった。
「あっ、来たよ。ほら、鵜崎さんが」
峰子は父にささやいた。わかっているのかいないのか、父は歯をむき出しにして喜んだ。陽は水平線の下に隠れ、空は、あかね色から薄紫へと変わりつつあった。
「祐子ちゃん、最終便やで。はよう乗らな」
そう鵜崎に言われて、自分がまだ埠頭にたたずんだままでいることに気づいた。

一週間後、祐子は一人で検査の結果を聞きに行った。医師は、脳の画像を見せながら彼女に説明した。難しい用語は分からなかったが、要するに、小さな脳梗塞がいくつも出来ているということ、それが原因で認知症の症状が出ているということだった。そして、患者への接し方(家族の方へ)というパンフレットをもらい、説明を受けた。
薬を受け取って病院を出ると、祐子はまっすぐ家に帰らずに、タクシーに乗って、水族館へ行った。
小さい頃、父と母と三人でよく出かけたものだった。もう十年近く来ていなかった。その間に水族館は建て増しされていた。新館はデザイン的にも美しく、回廊を巡るような感じだった。
父の肩車に乗って、水槽を泳ぐ海亀を見たり、ピョンピョンと飛び跳ねるペンギンに心を躍らせたことを思い出した。側には母がいた。家族三人で、その中心にはいつも祐子がいた。
一通り見終わって、休憩所の椅子に座っていると、作業着姿の青年が近づいてきた。
「祐子ちゃんと違うか?」
見上げると彼女にも見覚えがあった。浅黒い顔に、親しみを感じさせる細くて小さな目。そして並びのいい真っ白な歯。
「覚えとる?俺、和也。中学まで一緒やった」
「ああ、和也君。久しぶり。随分背が伸びたから分からなかった。今ここで働いてるの?」
祐子は徐々に彼のことを思い出した。確か、世界を巡る船乗りになりたいと言って、高等専門学校に行ったはずだった。
「船に乗ってるんだと思ってた」
「ちょっと事情があって、ここに就職したんや。祐子ちゃんに会うのって何年ぶりやろ」
「ほんと、何年ぶりかな。私も、高校卒業してから、ずっと東京で暮らしてて、島には年に一回ぐらいしか帰らなかったから」
「すっかり、標準語が身に付いたな。それにやっぱりあかぬけとるわ。都会の女の子は違うな」
「いややわ。お世辞なんかゆうて」
思わず忘れていた方言が出て、祐子は自分でもおかしくなった。今の仕事仲間にはない新鮮さと逞しさを和也に感じ、祐子は少しだけ胸をときめかせた。しかし、それを悟られまいと、わざと硬い表情を作った。
「父親が体調が悪くて、今、実家に帰ってるの」
「そうなんか。そらあ心配やな。俺もおふくろが膝を痛めとるから、休みの日には島に帰るようにしとるんや」
「何だか気晴らししたくてここに来たんだけど、疲れちゃった」
「よかったら、一緒に帰らへんか。今日は後二十分くらいで終わりやし、明日休みやから」
「うん、ありがと」
「そしたら、あそこの喫茶店で待っとって」
「ううん、ここでいい。何も飲みたくないし」
「そうか、そんなら、あとで」
和也はそう言うと小走りに出口の方へ向かって行った。祐子は和也の後ろ姿をずっと見ていた。元気があふれていると思った。和也君、私にもその元気を少し分けて、そう心の中でつぶやいた。

椅子の背にもたれて、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。肩をそっと叩かれて祐子は目を覚ました。
「疲れとるんやなあ。このまま寝ていきそうやったで」
「ごめん、和也君」
見上げると、Tシャツにチェックのシャツをはおった和也が、白い歯を見せて笑っていた。
和也のたくましい背中を見ながら、祐子は後をついていった。駐車場は、駅裏の寂れた場所にあった。
和也は車の鍵をとりだしてドアを開けた。祐子は助手席に乗り込み椅子を少し後ろにずらせた。
車は狭い道をするすると抜けて大通りに出た。道路も以前と比べて整備が進んでいた。テーマパークが近くにできた頃にがらっと変わったようだった。しかし、島へ向かう道へ左折してしばらく行くと、急に田舎の風景に戻った。この地区独特の、槙の生け垣に囲まれた家並みが続き、やがて海が姿を見せた。砂浜の広がる海岸で、サーファーが何人か波乗りをしていた。和也は、中学生の頃の同級生が今何をしているかということを、一人で喋っていた。祐子はそれに相づちを打ちながらも、心はどこか遠くにあった。
やがて船着き場の駐車場が見えてきた。
車を降りて、二人は船の時間を見に行った。次の船が来るまでまだ三十分あった
一週間前に父や峰子と見た風景が目の前にあった。空があかね色に染まり、白いカモメが舞っていた。波は静かに揺れていた。潮の香りが髪にまとわりつく感じがした。
ここが、私が生まれて育ったところ。そして私はここを出ていった。久しぶりに帰ってきたら、私を知っている人はいなくなっていた。祐子はそんなことを心の中で言葉にしてみた。
「鵜崎さんが来てくれるって。今電話で頼んだらオーケーやて。祐子ちゃんも一緒やって言うたら、すぐ行くってさ」
祐子は携帯をポケットにしまう和也をじっと見た。
「なんや、祐子ちゃん。怒ってんのか。そんな、じっとにらまんでくれよ」
「ありがとう、和也君。久しぶりに会えてよかった」
「なんや、あらたまって気色悪いがな」
祐子は和也から顔を背けて外海の方を見た。水平線がぼやけて見えた。

一週間後の朝、久しぶりに晴れ渡った空を、父が玄関先で仰ぎ見ていた。いつも表情の少ない顔に、笑みが浮かんでいた。
「ねえ、祐子ちゃん。お父さん、今日はなんか上機嫌やね」
「そうね。薬のおかげで少し調子が良くなってきたのかもね」
「そうや。鵜崎さんに電話してみよ」
祐子が聞き返す間もなく、峰子は受話器を取っていた。何を話しているのかよく聞き取れなかったが、最後に「ほんなら、頼むわね。待っとるで」という言葉が聞こえた。
「祐子ちゃんも行くやろ?」
「どこにいくの?お父さん一人にしちゃだめじゃない」
「みんなで行くんよ。船もあいとるっていうし、こんなええ天気やから、外まで出たらどんだけ気持ちええやろか」
峰子は父のそばへ行って、一緒に青く澄んだ空を眺めた。縁側に座り込んだ祐子は、二人の後ろ姿を見て、一瞬、峰子を母と見違えた。背格好も、顔の作りも全く違うのに不思議だった。おそらく、小さい頃にこんなふうに二人が寄り添って楽しそうにしている姿を見たのだろう。それが深い記憶の底からよみがえったのだろう、そう祐子は思った。

しばらくすると、鵜崎が右手を何度も上げ下げしながらやって来た。その後ろに和也がいた。和也は照れ笑いをしながら祐子に手を振った。
「おおい、春雄。元気そうやないか」
春雄というのは父の名前だった。呼びかけに答えるように父は、鵜崎に向かって手を上げた。
和也はちらっと祐子を見てから、父に視線を向け頭を下げた。父は何の反応も見せず、鵜崎の方だけを見ていた。
「ごめんな、鵜崎さん。勝手なこというて」
「ええて、ええて。こっちも暇でどうしょうか思てたんや。久しぶりに外まで出ると思うとワクワクするわ。いっつもおんなじとこの往復やからな」
「さあ、お父さん行こ」
峰子は父の腕を取って歩き出した。
「ねえ、大丈夫なの、船なんかに乗せて」
祐子は、鵜崎と峰子のどちらにともなく言った。
「大丈夫やて、祐子ちゃん。春雄は海が好きやったんや。今日のこの顔は船に乗っとる時の顔や。昔、俺と一緒に釣りに行った時の顔や」

船は鵜崎がいつも旅館の送迎用に使っているものだった。後ろの方がちょっとしたデッキになっていて、運転する鵜崎を残して四人はデッキの椅子に座った。エンジンがかかり、水しぶきが上がった。
父はずっと空を見ていた。何かを探しているのか、それとも遠い記憶の中に入り込もうとしているのか、まばたき一つせずにじっと見ていた。峰子はその横に座って手を握っていた。
船は一気に外海に向かって走りだした。海面を引き裂くようにして船は進んだ。波が船尾から立ち上がり二手に分かれていった。風を受けてなびくカーテンのように揺れながら、やがて波はテトラポットに飲み込まれていった。
外海に出ると、船が急に揺れた。思わず祐子は和也の肩に手を置いた。
「大丈夫か、祐子ちゃん」
和也は両手で祐子を支えた。それを押し戻すようにして祐子は席に座り直した。胸をコツンと叩かれたような気がした。
「あそこにぼんやり見えるんが、知多半島や」
エンジンの音に負けないくらいの大きな声で和也は言った。
海の色が変わった。よどんだ入り江の海しか見ていなかった祐子には、新鮮な青だった。東京の湾岸でも、こんな色の海は見たことがなかった。この色を表現するとしたら、いったい何というのだろうと祐子は思った。陽光がデッキにいる四人に降り注ぎ、海はゆったりと揺れながら光を飲み込んでは跳ね返していた。
「ちょっとここで一服や」
鵜崎がエンジンを止めてデッキに上がってきた。煙草を取りだすと安物のライターで火をつけた。
峰子は海を見つめたまま薄ら笑いを浮かべている父の肩を何度もさすった。そのうち、父は声を出して笑い始めた。祐子が幼いころによく聴いた声だった。
「何がおかしいんや、春雄」
鵜崎の問いかけに答えもせず、父は笑い続けた。
「きっと、楽しいこと思い出したんやわ。やっぱり来てよかった。こうやってみんなで一緒にいるんが一番ええんやわ」
祐子は相づちを求める峰子の目をそらすように顔を背けた。その時、間近に揺れる波が目に入り、急に気分が悪くなった。

祐子はそっと一人で中に入り、椅子に座り込んだ。体が上下に大きく揺れた。目を閉じて、自分のお腹を抱えるようにした。顔から血の気が引いていくのを感じた。祐子はたまらず、椅子に寝ころんだ。
船の揺れは途切れることなく続いた。横になるともっと気分が悪くなる、せめて体を起こさなければ、そう思った瞬間、分厚い手の平が彼女の髪をなでた。そして、何も言わずに背中をさすり始めた。和也だろうか。そう思って振り向くと、そこには父の瞳があった。今までずっとよどんでいた鉛色の瞳が、その時、透明な輝きを取り戻していた。祐子をまっすぐに見ていた。そして、口を開いて何かを言いかけた。
「お父さん?」
祐子がそう言って起き上がろうとした瞬間、シャッターが閉じられるように父の瞳は輝きを失った。手をだらりとたらし、椅子に座り込むと、いつもの無表情な父に戻った。
「お父さん気づいたんやね」
峰子が体を揺らせながら近づいてきた。
「ううん。違うみたい」
そう言ったものの、祐子は一瞬の光を取り戻した父の瞳を信じた。

船着き場に戻るころには、祐子の気分も落ち着いていた。和也と鵜崎がロープで船を固定していた。
祐子は父の顔を見た。随分表情が豊かになってきたように思えた。きっと私のことを分かってくれる、私のお父さんに戻ってくれる、そう祐子は信じた。
「鵜崎さん、今日は楽しかったわ。旅館の人に怒られへんわね」
「何を今になって心配しとるんや。ちゃんと社長に断ってあるで。物分かりのええ人やから大丈夫や」
「ほんなら、ありがとう。和也君もありがとう」
峰子は父の腕を取りながら、ゆっくりと歩き出した。祐子は和也に手を振り、鵜崎には頭を下げた。
「お昼はそうめんでええやろか」
振り返って尋ねる峰子に祐子は頷いた。

(了)

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