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第18回四日市文芸賞優秀賞受賞作品(2002年)

コトリ、という音が玄関の方から聞こえた。父が母の墓にお参りに行く時間だった。朝六時になると父は必ず出かけた。寒い日も暑い日も、雨の降る日も風の強い日も、夜遅くまで接待をしたときも、その習慣を欠かすことはなかった。麻美は今日もその音で目を覚ました。二階の窓から下を見ると、父が自転車に乗って出かける姿が見えた。
昨夜麻美は父に、今付き合っている梶田のことを話した。結婚式場の催したパーティーで出会って三ヶ月になったが、先日彼から父に会わせて欲しいと言われたのだった。特に目立ったところのない梶田だったが、来年四十歳になる麻美には、まじめな彼が、自分の生涯の伴侶としてふさわしくないとは思えなかった。
「お父さんに会いたいって言ってるのよ」
「お前はどうなんだ」
「私は、会ってもらってもいいと思うわ」
「会って欲しいのか」
そう言われて麻美は黙り込んでしまった。自分としても、本当に彼のことを父に会わせたいとまで思っているのか自信がなかった。母親が亡くなってからずっと今まで、妹の絵里子と父のために、家庭の主婦がやっていることを一人でやりこなし、恋愛をする余裕もなかった。昨年妹が結婚し、父も定年を迎えて、ようやく自分にも機会が回ってきたような気がしていたのだったが、失った時間を取り戻そうと焦れば焦るほど、空回りをしてしまうのだった。
「もし会うんだったらいつがいい?」
「今月は夏祭りの手伝いで忙しいから無理だな」
「じゃあ、来月まで待ってもらう?」
「ああ」
そう言ったあと、父は空になったコップに自分でビールを注いだ。それからはチャンネルをいろいろ変えながら、結局はプロ野球をずっと観ていた。
朝食の用意ができ、麻美が新聞に目を通していると父が帰ってきた。額の汗をハンカチでぬぐいながら、台所の椅子に座った。
「今日は風がないから、暑くてたまらん」
「昨日から急に暑くなったわね」
「避暑にでも行きたいところだな」
「直子叔母さんのところは、涼しいでしょうね」
「そう言えば、今年はまだあいつのところに行ってないな」
「五月に行こうって行ったのに、お父さんたら寒いから嫌だとか訳のわからないこと言うんだもの」
「そうだったかな」
父は麻美から新聞を取り上げて、スポーツ欄を読み始めた。
「お前、行ってきたらどうだ。一泊くらいして、温泉にでも入ってきたら」
「お父さんは行かないの?」
「お盆まではボランティアで忙しいからな」
「ボランティアって言うけど、お父さんの目的はお酒でしょ」
「ばれたか」
冗談を言い合ううちに、麻美は昨夜から引きずっていた重い気持ちが、少し軽くなったような気がした。叔母のところに行って話を聞いてもらえば、もっとすっきりするかもしれない、と思った。
「行ってこようかな。叔母さんのとこ」
「いつ行くんだ」
「あさって」
「あさって?えらく急だな」
「思い立ったが吉日って言うでしょ」
「古い言葉を知ってるな」
「ええ、古い人間ですから」
麻美はそう言うと、自分のトレーをもって立ち上がり台所へ向かった。

その日、麻美は会社から戻ると、夕食を食べてから叔母に電話を入れた。
「もしもし、麻美です」
「あら、久しぶりね。元気でやってる?」
電話の向こうからは、旅館のおかみさんのような張りのある声が聞こえてきた。
「うん、なんとかやってるわ」
「お父さんは相変わらず?」
「好きなお酒を飲んで、ごきげんな毎日よ。今日も友達と飲みに行くって言ってたわ」
「そりゃあよかった」
「ところでね、おばさん」
「何? 借金の相談?」
「違うわよ。おばさん今週あいてる?」
「私はいつもあいてるわよ」
「よかった。じゃあ土曜日に泊まりに行ってもいい?」
「大歓迎よ。お父さんも一緒に来るの?」
「お父さんは、ボランティア活動で忙しいらしいの」
「そう、残念ね。でも女二人だけの方が楽しいかもね」
「うん。いろいろ話しようね」
「声がかれるくらいにね」
麻美は子供の頃に戻ったような気持ちになっていた。よく妹と二人で叔母のところに遊びに行ったものだった。子供のいない叔母夫婦は、毎年小さなお客が泊まりに来るのを楽しみにしているようだった。山に囲まれ、美しい渓流が流れる温泉地であるそこは、ちびっ子達にとって、大きな遊園地のようなものだった。いろんな遊びが待ち受けていて、麻美も絵里子もワクワクした。おてんばの妹は昆虫採集をしたり、河原で遊んだりしてよく騒いだ。
麻美は涼しい木陰で本を読んだり、鳥や虫の声を聞くのが好きだった。とくにカジカの声が好きだった。小学生の頃はそれがどんな生き物なのかわからなかった。きっときれいな羽根を持った鳥なんだろうと思っていた。しかし図鑑で調べてみて、それがカエルだということを知り驚いた。カエルといえば、グエッ、グエッ、と鳴くものとばかり思っていたので、少なからずショックだった。
「じゃあ、夕方までには行けると思うから」
「おいしい川魚を用意しておくわ」
「あんまり無理して作らないでね」
「大丈夫よ。毎日ぶらぶらしてるんだから。たまには張り切って身体を動かさなくちゃ」
麻美は時計を見て、梶田に電話をしなければならなかったことを思い出した。ワクワクした気持ちが急にしぼんでいった。受話器をただ握っているだけで、言葉を出すことができなかった。
「じゃあ、土曜日ね。楽しみにしてるわ」
叔母は、そんな麻美の気持ちを察したかのように、電話を切った。
それから、彼女は梶田のアパートに電話をかけた。八時頃までには電話をすると言ってあったのに、九時を少し過ぎてしまっていた。怒っているだろうかと思った。しかし何度ベルが鳴っても、彼は電話に出なかった。時間までに電話がなかったからどこかへ出かけてしまったのだろうか。それとも怒って電話に出ないのだろうか。いずれにしても返事を延ばすことができて麻美は少しホッとした。また明日電話すればいいわ。今日は電話したんだし、必要なら向こうから電話してくるはずだわ。そんなふうに、都合よく理由付けをして、テレビをつけた。

翌日、麻美は一日中週末のことを考えていた。派遣先の仕事場でもうっかりミスを何度もやってしまい、麻美ちゃんらしくないね、と課長に言われてしまった。しかし、そんなことより、叔母のところへ行くことの方が楽しみで仕方なかった。
時間が来ると早々に帰り支度をし始めた麻美に、隣でワープロを打っていたアルバイトの女子学生が、「先輩、デートですか?」と微笑みながら声をかけてきた。いつもきっちりとしていて完璧に仕事をこなす麻美に、敬意を払いながらもどこか近づきがたさを感じていた彼女も、今日は親しみさえ感じていたに違いなかった。しかし梶田とデートをする日に、こんなにワクワクした気持ちにはならなかった。
家に帰り、父と夕食をとってからソファに横になっていると、電話が鳴った。梶田からだった。
「もしもし、麻美さん?」
「ごめんなさい。昨日電話したんだけど、九時過ぎになっちゃって」
「ちょっと買い物に行ってたんだ。コンビニにね」
「そう」
「それで、いつ行けばいいかな」
「それが、父は今月ずっと忙しいの。来月でよければ」
「いいよ、来月で」
「ごめんなさいね。こっちの都合ばかり言って」
「いや、そんなことないよ。ところで週末は会えそう?」
「それが、明日からちょっと親戚の家に行かなきゃいけないの。日曜日には戻るから、また電話するわ」
「そう。じゃあ」
「ごめんなさい」
麻美は、相手が切るのを待ってから、静かに受話器を戻した。ソファに横になっている父の方を見ると、サッカーの試合を観るともなく見ていた。何だか味気のない会話だなと思った。妹は彼氏から電話がかかってくると、二時間ぐらい話していたものだった。同じ大学で知りあって趣味も同じなら、話す内容もたくさんあるのは当然だが、それでも二時間もの間何を話していたのだろうと、不思議で仕方がなかった。
「来月にしてもらったわ」
「うん?」
「梶田さんのこと。一昨日言ったでしょ」
「ああ、そうだったな」
「ねえ、お父さん。娘のことが心配じゃないの?」
「心配さ。だから気にしてるんじゃないか」
「そうは見えないけど。娘が一生独身でもいいの?それともずっとそばにいて欲しい?」
「いや、俺は一人で大丈夫さ。いざとなったら料理もできる。母さんが入院してたころは俺が作ってたんだからな」
「もし結婚しても、週に一回はお父さんの様子を見に来るわ」
「それじゃあ酒が好きに飲めないな」
父は起き上がって残っていたビールを一気に喉に流し込んだ。
「勝手にしなさい」
その言い方が母親にそっくりだったのを思って、麻美はおかしくなった。

叔母の家へ電車で行くのは久しぶりだった。いつもは父か妹が運転する車で来ていたので、何か新鮮な気持ちになった。終着駅に下り立つと、沢の音と蝉の鳴き声が聞こえてきた。改札口には初老の駅員が立っていた。麻美は少し会釈をしながら彼に切符を渡した。
「観光でしたら、すぐ先に案内所もございます」
駅員は彼女の目をまっすぐに見ながら言った。
「ありがとうございます。でも観光じゃないんです」
「そうですか。失礼いたしました」
彼は顔を少し赤らめながら微笑んだ。七月の末、避暑地と言えどもさすがに陽射しは強かった。彼女は額の汗をぬぐいながらバス停に向かった。雨が降ったのか路面が少し濡れていた。時間を確かめようと時刻表に目をやると、客を待っていたかのようにバスが滑り込んできた。
乗客は彼女一人だった。よくクーラーの効いたバスはまもなく発車した。土産物屋の並ぶ通りを過ぎ小さな橋を渡ると、温泉街に向かう急な上り坂にさしかかった。彼女は左手の方に目をやった。記憶がよみがえってきた。釣り堀で鱒を釣ったり、ロープウェイで山頂まで行ったり、叔父の車に乗せてもらって、熊牧場へ行ったり・・・。
高校生になって陶芸に興味を持った彼女は、地元に住んでいる有名な作家に会うこともできた。その先生に弟子入りして真剣に作家を目指そうかと考えたこともあったが、当時まだ元気だった母親に大反対されて、興味もない短大の家政学部に行った。そのことは今でも後悔していた。もしあの時、母親の反対を振り切ってここに住んでいたら、母親が死ぬこともなかったかもしれないと思った。それがどういうつながりがあるかはわからなかったが、何故かそんな気持ちになるのだった。
叔父はむしろ麻美に来て欲しがっていた。叔母夫婦は子供がなく、下宿先として部屋を提供できるくらいの広い家に住んでいたこともあって、彼女を養女にしたいとまで言ってきたこともあった。逆にそれが母親の反対を招いたのかもしれなかった。その話があってから、母親は決して叔母のところに行こうとはしなかったのだから。
バスは坂を一気に登り、川筋を左に折れた。麻美は窓際にあるボタンを押した。「次止まります」という表示が運転席の上に出た。
バスを降りると、涼しい風を頬に感じた。駅で聞こえていた沢の音が大きくなっていた。夕陽に赤く染まった古い家並みを通り過ぎ、しばらく歩くと、叔母の家が対岸に見えてきた。すぐ目の前に見えるのに、橋を渡るためにぐるっと回らなくてはならないのだった。
「不便なところでしょ。年取る前に売り払いたいんだけどね」と言いながらも、叔母は叔父が亡くなった後もずっとそこに住んでいた。叔父が亡くなった時、叔母はまだ三十歳を少し過ぎたばかりだった。細面で色白の彼女には、再婚の話もあったとは思うが、結局は一人のままでいることを選んだ。その理由を麻美は、叔母が叔父のことを深く愛していたからだと思っていた。病気がちの夫と接する彼女を見ていると、子供心にも二人の絆の強さがわかったからだった。どうやって出会いどんな過程で結婚したのか聞いたことはなかったが、きっと熱烈な恋愛結婚だったんじゃないかと、今でも思っていた。
橋を渡ると叔母がすぐそこまで出てきてるのが見えた。麻美が手を振ると、叔母も同じように手を振って近づいてきた。
「いらっしゃい。久しぶりね」
「ほんとにご無沙汰してます。これ、いつもの時雨煮ね」
「ありがとう。あの人がいると喜ぶんだけどね。早速仏さんに供えるわ」
「父も来れるとよかったんだけど」
「いいのよ。さあ行きましょ」
「直子叔母さん元気そうで安心したわ」
「私はいつも元気よ。風邪なんかひいたこともないのよ」
「仕事はまだ続けてるの」
「今は上のホテルで午前中だけ掃除婦してるわ。中国人の男の子がね、私のこと、お母さんって言ってなついてるのよ。この間なんか中国から送ってきたっていうお茶をくれたの。あとで飲ませてあげるわ」
「相変わらず社交的ね」
「そうよ。友達いっぱいいるんだから」
「じゃあ、今日は、たくさんの友達の誘いを断ってくれたのね。私のために」
「そう、大変だったわ。チャイニーズとデートする予定だったのよ」
「え?本当?」
「まあ、それは嘘だけどね」
二人は大きな声で笑いながら川筋を歩いていった。
家の中は更に涼しかった。
「さあ、上がってちょうだい。慌てて片づけたから、あんまり隅々まで見ないでね」
「失礼します」
何故か叔父がいるような気がして、麻美はそう言った。仏壇で手を合わせ、叔父の写真をゆっくりと眺めた。まっすぐな鼻筋が特徴的で、昔はシャレ者だと言われていたらしい。確かにそんな気がした。涼しげな目元と濃い眉は写真の中でも健在だった。
「いつも思うけど、おじさんてカッコよかったのね」
居間に戻りながら、麻美は独り言のように言った。
「その写真は元気な頃の写真だからね」
麦茶を差し出しながら叔母は言った。
「でも、結婚してすぐに倒れちゃって、それからは入退院の繰り返し。思い出す度に嫌になっちゃう」
「大変だったわね。私も母親のことがあったからよくわかるわ」
「お互い苦労したわね。でも、麻美ちゃんもようやく自由の身になったんじゃない。絵里ちゃんも結婚したし、後はあなたの番ね」
「だといいんだけど」
「いい人いないの?」
叔母はそう言って麻美の顔をまっすぐに見た。
「お付き合いしている人はいるわ。お見合いパーティーで知りあったんだけど。年は一つ上、ごく平凡な人よ」
「そう、全然知らなかったわ。麻美ちゃんにボーイフレンドができたなんて、お父さんから一言も聞いてないのよ」
「父はあまり興味がないみたいなの」
「可愛い娘を手放したくないのかもね」
「やめてよ、可愛い娘だなんて。二十歳やそこらの女の子じゃないんだから」
「あら、そんなことはないわ。父親にしてみれば、娘はいくつになっても娘のままなのよ」
「そうかなあ」
麻美は、麦茶をズズッと音をさせて飲んだ。
「お父さん、心配してると思うわ。麻美ちゃんには、特に幸せになってもらいたいと思ってるんだから」
「どうして、特に、なの?」
「だって、一番苦労したのは麻美ちゃんなんだから、当然でしょ」
空になった茶わんを片づけながら、叔母は言った。
「そろそろ夕飯の準備しなくちゃ」
手伝うと言う麻美を、今日はお客さんなんだから座っててと言って、叔母は一人で台所に立った。やがてテーブルには、山菜料理から川魚料理まで、素人が作ったとは思えないメニューが並べられた。
「すごいね、いつも感心しちゃう。見た目もおいしそうだけど、ほんとにプロ顔負けの味なんだもの。私もこれだけ作れたらなあ」
「大丈夫、作れるわよ。私だって、お嫁に来たときは、目玉焼きと野菜炒めしか作れなかったんだから」
「叔母さんは、いくつの時に結婚したの?」
「二十二歳よ。あの頃では普通かな」
「二十二歳か。私の半分くらいの年で結婚したのね」
「そんなこと気にすることないわ。今は晩婚が普通なんだから。さあ食べましょうか」
二人はビールで乾杯をし、思い出話に花を咲かせた。父や妹がいないので、いつもなら話しにくいことも遠慮なく話せた。ビールの酔いも手伝って、麻美は本題に入った。
「私、今とっても不安なの」
「ボーイフレンドのこと?」
「うん。父に会わせて欲しいって言われてるの」
「まあおめでとう。プロポーズされたのね」
「プロポーズじゃないわ。ただ、父に会ってみたいだけなんだと思う」
「麻美ちゃんも鈍いわね。それがプロポーズなのよ。気づいてあげなくちゃ」
「違うの。私には何となくわかるの。こいつの家庭をちょっと調べてみてやるかっていう、そんな感じがするの」
「そんなふうに思っちゃ、その人かわいそう」
「ううん。きっとそうよ。そうにきまってるわ」
麻美は、箸を動かすのを止めてしまった。中途半端に残った料理が、テーブルの上で色あせていった。
「麻美ちゃんがそう思うのなら仕方ないわね。その人の努力が足りないのかもね。お父さんはどう言ってるの?」
「あまり乗り気じゃないみたい。今月は忙しいとか、お前はどう思ってるんだとか、そんな調子で」
「そう。じゃあ、麻美ちゃんもあまり乗り気じゃないのね」
「私はそんなことないのよ。あの人でもいいかなって思ってるの。色々選んでる歳でもないし」
「年齢なんて関係ないと思うわ」
「でも、結婚式場のカウンセラーにも言われたの。あなたの年齢では、あまりぜいたくは言えませんよって」
「失礼なやつね。それに麻美ちゃんも、そんなやつの言うことを真に受けるなんて」
「恋愛からもう随分遠ざかってるから、臆病になってるのかもしれないわ」
麻美は自分の両手を見つめた。水仕事をするせいか、しわがかなり目立った。
「会社とかに好きな人はいないの?」
「いいなって思う人はいるけど、そういう人に限って結婚してるの。それに、たとえ相手が独身でも、年齢のことがあるから何だか恥ずかしくて」
「だから好きでもない人と結婚しようっていうの?」
「そんなんじゃないけど」
「何も無理して好きでもない人と結婚することはないと思うわ。出しゃばりな連中がうるさく言うかもしれないけど、自分の気持ちに正直にならなくちゃ。ほんとにしたいことをしなきゃだめよ。自分で自分に垣根を作ってしまわないで、自分が本当に何をしたいかをよく知らなくちゃ」
麻美は叔母の瞳をじっと見た。そこには優しさと同時にうわべだけではない真実が含まれていた。
「叔母さん、ありがとう。いいきっかけをもらったわ」
「叔母さんの小学生並の頭も、たまには人の役に立つって事がわかってよかったわ」
叔母は、冷蔵庫から新しいビールを出してきて言った。
「もう一杯飲む?」
「いただきます」
二人は、お互いのグラスにビールを注ぎ乾杯した。

麻美は、少し飲み過ぎたせいか眠くなってしまった。食器を片づけた後、ソファに横になり目を閉じていると、知らないうちに眠ってしまった。どれくらい眠ったのか覚えが無かった。起き上がって叔母を探そうとした時、かすかな声が聞こえてきた。叔母は泣いているような甘えるような声で、誰かに話しかけていた。麻美は再び目を閉じて、悪いとは思いながら叔母の声に耳を傾けた。
「だめよ。今、兄の子が遊びに来てるの。ええ、そう。今日はだめなの、本当に。お願いだから・・・」
麻美は、それが電話であることに気づいた。相手は一体誰なのだろうと思った。胸の鼓動が大きくなった。
「嫌・・・。そんなこと言わないで。うん、きっと・・・。うん、そうするわ。じゃあ」
そうやって電話は切れた。しばらく麻美は目をつぶっていた。胸の鼓動はなかなか治まらず、叔母が男と抱きあっている姿が、脳裏から消えなかった。
「麻美ちゃん。さあ、起きて。お風呂に行くわよ」
麻美は、今起きたかのように目をこすりながら声の方を見た。叔母が浴衣姿で立っていた。
「さあ、これに着替えて」
そう言って叔母は、紺色の浴衣を渡した。
「ごめんなさい、眠っちゃって。今何時?」
「まだ八時よ。近くに露天風呂ができたの。お肌がすべすべになるのよ」
黒髪を後ろで束ねた叔母の浴衣姿は、五十歳を過ぎているとは思えないくらいあでやかだった。麻美は電話の声を思い出して、自分自身が熱くなるのを覚えた。
「眠気覚ましに行きましょ。向こうの部屋で着替えればいいわ」
二人は、叔母の家から歩いて十分くらいのところにある露天風呂に向かった。道は暗く、女一人では怖くて歩けないようなところだった。
「六月には蛍がたくさん飛んでいたけど、今は一匹もいないわね。見せてあげたかったのに」
「蛍見たかったなあ」
「でもね、蛍を身体に付けたまま家に帰るとよくないんだって」
「へえ、どうして?」
「浮気をしてきたって、旦那様に思われるらしいわ」
「やだ、そんなこと」
麻美は、さっきの自分の想像を叔母に見透かされたようで、耳まで真っ赤になった。幸い暗くてそれは見えなかったが、何もかも叔母が知っているような気がして怖くなった。もしかしてあの電話も、麻美が聞いていると知ってて、わざとしたことなのかもしれないとさえ思った。
腰の高さほどの草が両わきに生えている小道を下ってゆくと、ようやく小さな明かりが見えてきた。向こう側から、年老いた夫婦連れが歩いてきて、麻美達に挨拶をした。彼らが通り過ぎる時に石鹸の匂いがした。
露天風呂の入り口は、小さな明かりのついた玄関らしき扉から、左の方へ階段を下りたところにあった。男女別になっているらしく、受付でお金を払った後、二人は右手のドアを開けて中に入った。客は他にはいなかった。
麻美は湯に浸かりながら星の輝きを眺めていた。大小様々な星達が、キラキラと光りながら真っ暗な空から降ってくるような錯覚を覚えた。喋り疲れたのか、二人ともしばらく黙っていた。どこからともなくカジカの鳴き声が聞こえてきた。
「覚えてる?」
「なに?」
「麻美ちゃんは、カジカのこと鳥だと思ってたのよ」
「やだ、恥ずかしい」
「でも、こんなきれいな声で鳴くのが蛙だなんて、誰も思わないわよね」
「私、蛙はみんなグエッ、グエッって鳴くもんだと思ってたんです」
「私も、初めてこの町へ来たときに、これはなんていう鳥なのって旦那に聞いたわ」
「ほんと?」
「そしたらあの人ったらね、これはカジカっていう、きれいな水のあるところにしかいない、妖精のような動物なんだって言ったのよ」
「そんなロマンチックなこと叔父さんが言ったの?」
麻美は、噴き出しそうになるのを押さえて言った。
「そうやって女を騙してたのよね」
「叔母さんも騙された口ね」
「そうね。やられたって感じ」
麻美は、カジカのことを叔母に話している叔父の姿を思い描いた。気障っぽく煙草をふかしながら、遠くを見つめるようにして言ったのだろうか。いや、それでは安っぽい映画のようだ。そんな空想をかき消すように叔母は尋ねた。
「今付き合ってる人は、麻美ちゃんには何人目なの?」
「うーん、三人目かな」
麻美は過去の二人の男を思い浮かべながら、小さな声で言った。
「でも、前の二人は二十代の頃の人だから、ちょっとつきあい方が違ってたかな。結婚を意識して付き合ってたわけじゃないから。そのうちに母親が倒れて、それからは恋愛どころじゃなかったわ」
「これから、いっぱい恋愛しなきゃね」
「できるといいんだけど。ところで、叔父さんは何人目の人だったの」
「二人目よ。ちょっとの間、同時進行だったけどね」
「へえ、やるね。叔母さんも」
「その人とは三年近く付き合ってたの。よく電車でデートしたわ。貧乏だったからね。でも、好きだった。ずっと一緒にいたいなって思ったわ」
「じゃあ、どうして叔父さんと? よっぽど熱心に口説かれたの?」
「というより、計算が働いてね」
「計算?」
「天秤にかけたのよ。結婚するのならどっちがいいかって。あの人は次男で家もついていたし、顔も良かったしね。それに車も持っていた。私は小さい頃から狭い家で騒々しい毎日を送ってたから、静かなところで舅や姑の顔も見ずにゆったりとした生活をしたかったの。それができるなんて、逃す手はないって感じだったわ」
「後悔しなかった?好きな人と別れて」
「そりゃ後悔したわ。でも、私は静かでゆったりとした生活がしたかったの。だから仕方ないわ。結婚してすぐにあの人は病気がちになって、結局早くに死んでしまったけど、静かでゆったりとした生活は残してくれたわ。それに女一人が暮らしていけるだけのお金もね。不思議なもので、あの人と結婚することが決まってから、子供と遊んでいるところとか、家族で旅行に行ったりすることなんか想像さえしなかったわ。普通なら悲しいはずよね。子供もいず、旦那もいなくて、こんな田舎にたった一人で。でもね、私にとっては思い通りの人生なのよ」
叔母は、口を挟む余裕がないくらい一気に喋った。麻美は湯につかりすぎたのか、少し頭がぼおっとしてきて、縁の石に腰をかけるように身体を上げた。
「きれいな胸ね」
叔母の言葉に、麻美は両腕で胸を隠した。
「隠さなくてもいいのよ。麻美ちゃん中学生の頃からきれいな胸してたもの」
「そんな、恥ずかしい」
「でも、男なんて皆そういうところを見るのよ」
「そんな人ばかりじゃないと思うけど」
「あの人だってそうだった」
叔母は麻美から目をそらして、湯気の立つ水面を見つめた。
「あの人の麻美ちゃんを見る目、今でも思い出すわ」
「叔父さんが?」
「あの人、麻美ちゃんを女として見てたのよ。卑劣な男だわ。もし陶芸の勉強をするためにこっちに住み込んでいたら、ひどい目にあってたわよ」
麻美の身体を冷たい風が撫でていった。湯気が目の前で舞い上がり、一瞬叔母の姿が見えなくなった。
「知らなかった。そんなこと」
「ごめんね」
湯気の向こうから小さな声が聞こえた。
「でも、知っといてもらいたかったの。あの頃、お母さんに反対されて、麻美ちゃん随分落ち込んでたから。お母さんが反対した本当の理由を知っててもらいたかったの」
湯気が途切れ、叔母の顔がはっきりと見えた。その顔はいつもの優しい叔母の顔だった。
「今でも陶芸はやってるの?」
「なかなか機会がなくて、あまりやってないけど、去年、町の文化祭に花瓶を出したの。父の知り合いのところで作らせてもらって。一応入選したけどね」
「すごいじゃない。才能あるんだわ」
「でも、すごい人は一杯いるから」
「こっちに来て勉強すればいいのに。陶芸といったら、この辺は全国的にも有名でしょ。いい先生も一杯いるし」
「でも、この年齢で始めても遅いかなって」
「だめよそんな気持ちじゃ。さっき言ったばかりじゃない。自分で自分に垣根を作っちゃだめだって。飛び出していかなきゃ」
「私思い切りが悪いから」
「最初の一歩って言うのは、確かに力がいるわ。重いものを動かす時ってそうじゃない?でもね、よーいしょって力入れると動き始めるものなのよ。それに、いったん動き始めると後はそんなに力はいらないの」
「頭の中じゃわかるんだけど、体が動いてくれないの」
「麻美ちゃん、それは違うわ。まず体を動かすのよ」
「体を? 動かす?」
「誰かの言葉があるわ。そうそう。迷ったときは半歩前へって」
麻美は、叔母の言葉を頭の中で繰り返してみた。そして思いついた言葉を口に出した。
「勉強してみようかな。もう一度」
「ほんとに? それだったら私の方からお願いがあるの。もし、麻美ちゃんがこっちへ来るのなら、あの家を使って欲しいの。空き家にしておくのももったいないから」
「どういうこと?」
予想もしなかった話に、麻美は足を滑らしそうになった。
「私ね引っ越す予定なの」
「引っ越すって何処へ?」
「まだはっきりとは決まってないけど、今まで山ばかり見て過ごしてきたから、今度は海を眺めて暮らしたいなって」
「今の家はどうするの? もう戻ってこないの?」
「だから、麻美ちゃんが使ってくれるのなら安心だと思って」
「誰かと一緒に行くの?」
麻美はそう言って、先ほど叔母が電話で話していた相手のことを思った。
「お友達がいるの」
叔母は少女のような恥じらいを含んだ声で言った。
「恋人?」
「そんなんじゃないけど、気の合う人なの。私と一緒で、静かな暮らしを望んでる人」
叔母は夢見るような顔つきで言った。麻美はこれ以上詳しく訊いてはいけないような気がした。そして少し冷えた身体を再び湯船の中につけた。

夜、麻美はなかなか寝つけなかった。叔父が自分のことを女としてみていたということが、頭から離れなかった。思い出してみると、もしかしたらそうかも知れないという場面がいくつかあった。河原へ泳ぎに行った時、着替え終わったと思ったらすぐ横に叔父が現れたり、近くのキャンプ場でテント泊をした時、叔父が隣に寝ていたり・・・。
親切で楽しい叔父さんだと思って慕っていたのに、自分の気持ちが踏みにじられたようで悔しかった。涙が流れた。しかし声は出さなかった。必死でこらえた。叔母を悲しませたくなかったのだった。
涙を流したせいで気持ちが落ち着いたのか、知らないうちに眠っていた。夢の中で、麻美は子供に戻っていた。周りには父と母と妹と、叔父と叔母がいた。皆でキャンプに行き、薪を燃やしていた。炎の揺れかたが面白くて、麻美はいつまでも火を見つめていた。
『明日早いからもう寝なさい』と母が言った。
『俺がそばにいるから大丈夫だよ』叔父はそう言って、ビール片手にイスに座っていた。麻美は地べたに座り込んで、炎が消えてゆくまでじっと見ていた。振り返るといつの間にか叔父は眠っていて、側にビールの缶が落ちていた。叔父さんは私を自分の子供のように扱ってくれた。それが変なふうに映ったんだ。そう麻美は思った。

まだ夜明けが訪れる前に麻美は目を覚ました。そっと窓を明けて外を眺めてみると、川面に月が映っていた。藍色の空をゆっくりと雲が流れていて、それが時折月を隠した。静かでゆったりとした生活。叔母が言った通りの風景だった。叔母はそれを望み、そしてそれを手にした。
自分は一体何を望んでいるのだろう。麻美は自分の望みを、初めてゆっくりと考えるような気がした。結婚して子供を生み平凡な家庭を作ること?一度はあきらめてしまった陶芸の作家になること? 父と二人でこのまま暮らしてゆくこと? どれもが違っているようでもあり、どれもがそうしたいような気もした。でも、本当に自分が望んでいることをかなえられる人なんて、世の中に何人いるんだろう? 絵里子は望み通りの生活をしているのだろうか? 父は? 母親はどうだったのだろう?  人が望み通りの生活をするためには、誰かを犠牲にしなければならないのだろうか?  考えれば考えるほどわからなくなってしまった。
その時、下の方でコトリという音がした。父が母の墓参りに行く時と同じ音だった。寝ぼけているのだろうか、と思って窓から少し身を乗り出すと、下の玄関から男が出て来るのが見えた。足を少し引きずりながら、彼は川岸を歩いて去っていった。叔母が今つきあっている相手だろうかと思うと、麻美の胸は早鐘のように打った。叔母が叔父を裏切っている。仲が良くてうらやましく思っていたのに、叔父との思い出を捨てて他の男とここから逃げようとしている。そう思ったすぐ後で、麻美は叔母を許していた。そして窓を閉め、再び布団の中に戻った。

朝、下に降りてゆくと叔母は台所で忙しそうに立ち働いていた。
「ごめんね麻美ちゃんバタバタしちゃって」
「ううん。叔母さん、今日仕事なの?」
「急に電話がかかってきてね。中国の男の子が病気で休んじゃったらしくて、応援に来てほしいっていうのよ」
「まあ、それは大変。何時に出かけるの?」
「十時までには来て欲しいって。今日は麻美ちゃんを新しくできたお店に連れてってあげようと思ってたのに」
「どんなお店?」
「麻美ちゃんが修業したいって言ってたあの先生の妹さんが、陶芸のお店を開いたの。工房もあってね。芸大の学生が研修に来てるそうよ」
「うわあ、見たいなあ。ねえ、バスでも行ける?」
「よかったらホテルに行く時に乗せてってあげるわ。帰りはバスかタクシーしかないけど、それでもいい?」
「嬉しい、楽しみだなあ」
麻美は朝食を食べながら、胸がワクワクするのを感じた。後片づけを手伝い、急いで化粧をして着替えると叔母の車に乗り込んだ。
「せっかくゆっくりしてもらおうと思ってたのにね」
「ううん、すごく楽しかった。それにガラス工房も見れるなんて」
「昨夜言ったことだけど、考えておいてね」
「いつ引っ越すの?」
「来年のつもりだったけど、もしかしたら今年の秋になるかもしれないの」
「お父さん、このこと知ってる?」
「知らないわ。話しておかなくちゃって思いながら、ズルズル来てしまったから」
「私から言うのも変よね」
「近いうちに連絡するわ」
車は町並みを抜け、スカイラインへと続く道を上っていった。道の駅を通り過ぎると、右手に陶芸の店が見えてきた。
「じゃあ、ここで降ろすわね。ごめんねあわてさせて。また電話ちょうだい。お父さんによろしくね」
急いでそれだけ言うと、叔母は車を出した。麻美が手を振っていると、叔母もハンドルから片手を外して手を振った。
店に向かって歩いてゆくと、本日は臨時休業しますという札が出ていた。中には入れなかったが、麻美は外からショーウィンドウ越しに、並んでいる器を眺めた。彼女好みの飾り気のない食器類が、所狭しと並んでいた。奥の方に工房があり、そこは明かりがついていた。頭にねじりはち巻きをした大柄な男が、作業台に向かって腕を組んでいた。麻美はその男をじっと見つめた。無精ヒゲを生やしてはいるが、目鼻立ちははっきりし、雄々しい顔つきをしていた。長い髪を後ろの方で束ねているところが、少し芸術家気取りだった。二十代の後半から三十代の前半というところだろうか。浅黒い腕に浮いているであろう汗を麻美が想像していると、突然男は立ち上がり、麻美の方を見た。思わず声を出した彼女に、男は無邪気な笑顔を見せた。
駅に着くと、麻美は、父への土産をまだ買っていないことに気づき、電車の時間を確かめたあと、駅員に地酒を売っている店を尋ねた。
「お土産ですか?」
昨日改札口で話した駅員が外へ出てきてくれた。
「そこの道を上ったところにあります。ご案内しましょう」
駅員は足を引きずりながら麻美の前を歩いた。
「ありがとうございます、だいたいわかりますから」
「そうですか。じゃあわたしはこれで」
駅員は振り返って、敬礼のようなしぐさをした。その顔が叔母の家に飾ってあった叔父の写真と重なった。まっすぐな鼻筋、涼しげな目元と濃い眉。
土産を買った後、電車に乗り込んだ麻美は、疲れのせいかすっかり寝入ってしまった。もう少しで乗り換えの駅を通り過ぎてしまうところだった。

家に着くと、父が相変わらずビールを片手に野球を観ていた。
「ご飯は食べたの?」
「ああ、つまみを少しな。ビールで腹が膨れるから」
「だめよ、ちゃんとご飯を食べなきゃ、身体に悪いわよ」
「おれの主食はビールなんだ」
荷物を片づけ着替えをすませて居間に行くと、テレビが消えていた。
「どうしたのお父さん。野球は観ないの?」
「麻美。直子から聞いただろ?」
「叔母さん電話してきたの?」
「ついさっきな。お前が戻ってくる前に話しておかなきゃと思ったらしい」
「引っ越しのことね」
「あいつ、もしよかったら家を買ってくれないかって言うんだ」
「家を買うって、叔母さんの家を?」
「俺も開いた口がふさがらなかった。どういうことだって訊いたら、あいつ、何もかももう決めてるって言うんだ」
「私にはそこまではっきりとは言わなかったわ。売るつもりがあるようなことは言ってなかったし」
「男がいるらしいんだ。そいつと海辺の町に家を買ったらしい。秋からそこで暮らすことになるって言ってた。男の方も定年で、好きな釣りをするのに便利な家を探していたらしい」
「驚いたわ。叔母さんったら、何でもあっという間に決めてしまうんだから」
「昔からそうだったよ。結婚の時もそうだった。相手を連れてくるって言うから、いつも迎えに来る男だろうと思ってたら、全然違ってたものな」
父はそう言ってからビールをごくっと飲んだ。
「お前もう一度勉強してみる気はあるのか?」
「そりゃあ、やってみたいとは思うけど、今すぐには決められないわ」
「俺もすぐには決められないって言った。だが、静かな土地で余生を終えるのもいいなと思っているんだ」
「で、お父さんどうするの? 引っ越ししたら、飲み友達と離れ離れになっちゃうし、お母さんのお墓にもそう毎日はいけないわよ」
「お前次第だ。お前が、陶芸の勉強をしたいっていうのなら、この家を売って一緒に移ってもいい。それとも今付き合っている梶田とかいう男と結婚したいって言うのなら、この話はなかったことにする」
「そんな大事なこと私が決めてしまっていいの?」
「お前のことなんだから、お前が決めればいい」
「お金はあるの?」
「金のことなんか心配するな。ここを売った金で十分買える」
麻美は椅子に座って父の顔を見た。久しぶりに、父が父らしく感じられた。何年も母親代わりに世話を焼いていると、時には子供に対するような感情を持つこともあった。しかし、今の父は違った。麻美がまだ小学生の頃に、川へ釣りに連れていってくれた父。怖がる麻美の手を引いて向こう岸へ渡してくれた父の顔だった。
「今すぐ決められないなら後でもいいんだ。でも俺はお前が望むことをさせてやりたい。墓参りは週一回でもいいし、酒を飲むのもそろそろ減らさなきゃいけないと思ってたんだ」
麻美は胸が熱くなるのを感じた。そしてその熱さをそのまま言葉にして吐き出した
「私、勉強したい」
父はそれを聞いてゆっくりと頷いた。

夏はあっという間に過ぎた。いつもなら麻美は、夏バテをして食事もとれなくなってしまうのだが、今年の夏はやらなくてはいけないことが多くて、夏バテをしている暇もなかった。
「お父さん、忘れ物はないわね」
「ああ、大丈夫だ。それにまた取りに来ればいいんだから」
「何を言ってるの、もううちの家じゃなくなるのよ。黙って家の中に入ったら警察が飛んでくるわ」
「はい、はい、わかったよ」
父は荷物をトランクに積み込むと、家の玄関をじっと眺めた。いろんな思いが胸に込み上げてきているのだろうと麻美は思った。彼女自身の心の中も思い出で一杯だった。しかしいつまでも思い出だけに心を占領させておくことはできなかった。
「お父さん、早くしないと先に運送屋さんのトラックが着いちゃうわよ」
父は玄関で手を合わせて頭を下げると車の運転席にすべり込んだ。
「直子の彼氏に会えると思うとドキドキするな」
そう言いながらも、父が涙声になっているのを、麻美は聞き漏らさなかった。

車がつく頃には、すでに運送屋が荷物を運び終わっていた。家の中に入ってゆくと叔母が食器を片づけていた。
「なんだ、早いなあいつら」
「あんたがぐずぐずしてるからよ」
麻美は、二人のやり取りを聞きながらくすりと笑った。
「彼氏は元気か」
「元気ですよ。兄さんより二つも若いんだから。さあ、そんなとこに突っ立っていないで、自分のものだけでも書斎に運びなさい」
「相変わらずうるさいな。今やろうとしてたとこだ」
「そっちこそ、相変わらず口だけは達者ね」
「ごめんなさい、遅れちゃって」
麻美はエプロンを付けながら、台所に入っていった。
「ううん、全然。今の運送屋さんて、何もかもやってってくれるから楽だわ。それより麻美ちゃん、あの陶芸店で働くんだって?」
「うん、あそこの先生が、たまたま去年、私の出した作品を見ててくれたみたいで、アルバイトしながら、勉強させてもらえることになったの」
「よかったわね。あの先生なら、きっと麻美ちゃんの才能をひきだしてくれると思うわ」
「ほんとにラッキーでした」
「ううん、麻美ちゃん努力したもの。何度も先生のところに通って、自分を売り込んでたじゃないの」
「私、自分がこんなに積極的になれるとは、思ってもみなかった。これも叔母さんのアドバイスのおかげよ」
「まあ嬉しい。でも、好きなことっていうのは、人からエネルギーを引きだすのよ」
「そうね」
「お付き合いしてた人とはどうしたの?」
「向こうの方から断ってきたわ」
「まあ、失礼なやつね」
「いいの。その方が心苦しくなくて」
「好きなことをやっているうちに、本当に好きな人にも出会えるものよ。お見合いなんかしなくても大丈夫。麻美ちゃんは絶対恋愛結婚するタイプよ」
「そこまで言ってもらえるのなら期待に応えなくちゃ」
麻美は食器を片づけながら、こぼれてくる笑みを押さえられなかった。
家の中がだいたい片づいて、三人はテーブルについた。陽が落ちかけていて、窓には赤い光が差し込んでいた。
「引っ越し祝いにディナーをプレゼントしようと思うの」
叔母が父に向かって言った。
「それは申し訳ないな。で、一体何を作ってくれるんだ」
「これから食べに行くのよ。川向こうにおいしい魚を出す居酒屋があるの」
「ディナーって言うから、フランス料理かと思ったら居酒屋か」
「あら不満なの?」
「とんでもない、ありがたくいただきます」
「でね、そこに私のいい人も呼んでるの。丁度いい機会だから紹介しようと思って」
「まあ、叔母さんの彼氏ね」
「うん、今はね。でも、明後日から主人になるの」
「結婚するのか」
「そうよ」
「あきれた。おまえってやつはほんとに」
「すごいわ。おめでとう。私も叔母さんみたいな決断力のある女性になりたいわ」
「こんなのが二人もいたら大変だ」
三人は声を合わせて笑った。

居酒屋に入っていくと、テーブル席に座っていた初老の男性が近づいてきた。少し足を引きずって歩く歩き方に、麻美は見覚えがあった。そして顔をじっと見ると、終着駅にいた駅員だったことがわかった。
「あなたは、あの」
麻美は思わず指を差してしまった。
「お前、知り合いだったのか」
「ええ、駅で」
「この間、うちに来たとき、駅で会ったのね」
「ええ」
「そりゃそうよね。あそこの駅でたった一人の駅員なんだから」
「もしかして駅長さん?」
「ええ、元駅長です。高梨と言います」
四人はビールを飲みながらそれぞれ好きなものを頼んで食べた。父も年齢が近いせいか叔母の彼氏と話を弾ませていた。麻美は、これからの自分の夢のことなどを叔母に話した。これだけ自分のことを話すのは久しぶりだった。
三人がいい気持ちになって居酒屋を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。いつの間にか麻美は、父や叔母とは離れて高梨と一緒に歩いていた。
「ずっとこちらに住んでみえたんですか」
「いえ、こちらに来たのは三年前です。でも、ほんとにここは住みやすかったですよ。空気はおいしいし、人情はあるし、それに温泉がまたいい」
「それでも、釣りがしたいから海の方へ行くんですね」
「ええ、私の長年の夢だったんです。いつか海のすぐ近くに住んで、毎日釣り三昧の日々を送るのがね」
「叔母とはどうやって知り会われたんですか」
「こちらへ来てすぐに、山の上の温泉旅館に泊まる機会がありまして。その頃、直子さんはそこで働いていたんです。夜食事をしてから、立ち寄り湯に行こうと思って、場所を聞いたんです。そしたら、近くまで行く用事があるから一緒に行ってあげる、と言ってくれましてね」
「へえ、何だかロマンティックな出会いですね」
「まだ続きがあるんですよ」
「なんですか?」
「行く途中で、きれいな鳴き声が聞こえてきたんです。私は初めて聞く声だったもので、何だかわからなかったんです。ほら、今も鳴いてる」
耳を澄ますと、川のせせらぎに混じってカジカの鳴く声が聞こえてきた。
「私はてっきり鳥だと思いましてね。なんて言う鳥なんですかって訊いたら、彼女は、鳥じゃなくて妖精だって言うんです。きれいな水のある所にしかいない妖精だってね。後で同僚に聞いたらカジカガエルっていうカエルだっていうことがわかったんですけど、それを妖精だなんて言う直子さんがかわいく思えてきましてね」
麻美はただ黙ってうなづいていた。叔母が高梨を選んだ理由がわかったような気がした。そして叔父のことを、あの夜、卑劣な男だと言っていた彼女も、結局は叔父のことを愛していたんだろうと。
初秋を思わせる涼しい風が、麻美の髪を揺らした。雲一つない夜空には町中では見られない星がまぶしいばかりに輝いていた。

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