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梅の香りが桜の香りに変わる頃、中学の同窓会が行われた。父親の仕事の関係で、卒業前にこの山沿いの町を離れた僕にとっては、十五年ぶりの訪問だった。同窓会が二、三年毎に行われていたのは、送られてくる葉書で知ってはいたが、わざわざ遠くから駆けつけることはなかった。
旅館の駐車場に車を置いて、温泉街を迂回するように歩くと、スカイラインへと続く大きな道路に出た。暖かな陽射しに、薄手のセーターでも汗ばむほどだった。
そこから会場までは、さらに十分程かかった。駐車場に入りきれない車が、坂道にへばりつくように止まっていた。玄関近くには人があふれていた。その中の一人が僕の姿を認めて大きく手を振った。
「広之だろ、全然変わってないじゃないか」
「山下か、久しぶりだな」
僕はその大柄な男に近づいていった。白いポロシャツに紺色のスラックスをはいていた。握手をすると相手の腕のたくましさが伝わってきた。
「まだ、大阪に住んでるんだろう?わざわざ遠くまでご苦労さんだな」
「いや、この二月に中原にある支店に転勤になったんだ」
「なんだ、そうだったのか。じゃあ、車で三十分ぐらいじゃないか。連絡でもくれればよかったのに」
「みんな元気かな」
「相変わらずさ。と言ってもお前にとっては、転校してから一度も会ってないだろうからな。今日はここに泊まるのか?何なら俺のうちにでも来いよ」
「ありがとう。でも、温泉につかりたくて旅館をとったんだ」
「そうか。温泉か。お前もそういう年になったんだな」
「何言ってるんだ。自分だって同じじゃないか」
そう言うと山下は、春の空にかかった霞みを吹き飛ばすような勢いで笑った。玄関前にいた何人かが振り返った。懐かしい顔、思い出せない顔、忘れられない顔があった。しかし、僕の探している顔はなかった。
それから、集まっている同窓生達と挨拶を交わしながら、宴会場に入っていった。
「今何やってるんだ」
僕は隣に座った山下に尋ねた。
「庭師だよ」
「おまえが?」
「そう。まあ、かっこよく言うとガーデンデザイナーってとこかな」
僕と山下は、家は離れていたが、何となく馬が合って仲良くしていた。引っ越してからはほとんど交流はなかったが、十五年たった今も、彼の心にすっと入っていけるのがわかった。料理と酒が運ばれ、みんなが飲んで食べて、隣に座った同窓生と話に花を咲かせていた。
見回してみると、男の方はあまり変わっていなかったが、女の方はほとんど誰が誰だか見分けがつかなかった。僕は山下と懐かしい話を交わしながら一人の女性を探していた。
「みんなこの町に残ってるのか」
「八割くらいはな」
「そんなに?」
「田舎育ちだから、よそへ出て働くより、見知った顔のいる土地での方が気心も知れていいんじゃないか」
「そんなものかな」
「お前は今何やってるんだ?」
「印刷会社でチマチマした仕事をしてるよ」
「結婚は?」
「まだだ」
そう言って、僕はまた一人の女性を探した。あの頃と比べるともう少しふっくらとしているかもしれない。髪は短くしているのだろうか。僕の心は期待と不安で一杯だった。
「お前は?」
「俺もまだだ。こういう仕事してるとなかなか出会いがなくてな」
山下はアルコールが入ったせいか、顔を赤くして言った。
「お見合いパーティーとかあるじゃないか」
「ああいうのは苦手だな。何だか緊張してさ」
幹事がマイクをもって立ち上がった。教諭に挨拶をさせようとしているらしかった。眉の濃い鼻筋のすっきりした男が立ち上がった。
「浅倉先生だ。この間、校長になられたんだ」
山下が教諭を示していった。
「要領のいい先生だったな。高校受験の時に、父兄に向かって、内申書なんて言うのは私次第でどうにでもなりますって、言ったそうじゃないか」
「そんな先生じゃないよ。生徒一人一人のことを本気で考えてくれる人だ」
「えらくひいきにしてるんだな」
僕がそう言うと、山下は表情を少し固くしたようだった。僕と違って、卒業後も先生と交流があったであろう山下には、感じ方が違うのだろうと思った。
山下はビールを持って立ち上がり、隅の方で盛り上がっているグループのところに行った。何となく話し相手がいなくなって煙草をふかしているところへ声をかけられた。
「わかる?私が誰か」
「うん、わかる」
「じゃあ、名前言ってみて」
僕は目の細い、明るい感じのその女の子の名前を思い出そうと必死になった。
「忘れたんでしょう?私、広之君によくいじめられたのよ」
「ああ、絵美ちゃんだ」
「そう、あたり。さあ、ぐっと飲んで」
絵美はビールをどぼどぼとコップに注いだ。泡があふれて手首まで濡れてしまった。
「やだ、ごめんなさい。私おっちょこちょいで」
「変わってないね」
「まあ、ひどい。ここいい?山下君戻ってこないよね」
彼女は僕の隣に座り込んだ。
「大阪に行ったきり、全然音沙汰なしなんだもの。広之君って冷たいなって、みんなで言ってたのよ」
「今は中原に住んでるんだ。いつまでいられるかは分からないけど」
「そうなの。よかったじゃない。今のうちに昔の友達と遊んでおけばいいわ。結構地元に残ってるのよ」
僕はある女性の名前を出そうとしてやめた。
「三十になるなんて信じられないわ。広之君はもう結婚したの?」
「僕はまだだよ。君は?」
「私はおととし結婚したの。今は川向こうに住んでるわ。私が一番遅かったくらいよ。早い子は高校出てすぐに結婚したもの」
「そうか、みんな早いんだ」
「田舎だからね。周りがうるさいのよ」
「今日ここに来てる女の子はみんな結婚してるの?」
「結婚してるわ、来てる子はね。来てない子は、そうね、まだ独身か、遠くに住んでるか、死んじゃったか」
「死んじゃった?」
「そう、一人亡くなってるのよ。広之君は知らないと思うけど」
「誰?」
「純子」
僕の心の中で、ある少女の姿が一瞬にして粉々に壊れた。
「純子が?どうして?」
「交通事故だったのよ。お父さんと一緒に車に乗っててね」
それから一人で喋り続ける絵美に相づちを打ちながら、僕の心は十五年前の教室の中へ舞い戻っていった。

かび臭い教室だった。机には所々穴が開いていたし、窓ガラスには垢がしみついていた。純子とは中学二年の時に初めてクラスが一緒になった。あまり目立って可愛い子ではなかったが、僕には魅かれるものがあった。席が目の前だったこともあり、休み時間によく話をした。授業時間中は、時々彼女の細くて長い髪を盗み見ていた。それはとても弱々しく、さわると溶けて消えてしまいそうだった。先生が黒板に向かっていると、彼女は僕の方を振り向いて、可笑しそうに微笑むことがあった。その時に白い病的な顔に、ほんのりと明かりがともるような気がした。
僕は授業でわからないところがあると、放課後に彼女に尋ねることがあった。彼女は一つ一つ丁寧に教えてくれた。しかし理科系だけは苦手だったらしく、授業中はいつも机の上でピアノを弾くまねをしていた。
「理科の時間は必ずピアノ弾いてるね」
そう言ったことがある。彼女は何も言わずに微笑んでいた。
同じクラスになったその年の夏に僕は引っ越ししたから、純子とは四ヶ月くらいしかつきあいがなかった。しかし彼女のことは強く印象に残っていた。
五月のよく晴れた日だった。中間テストが近づき、放課後にノートを見せてもらっていた。それは先生の話を聞きながらメモしたとは思えないほど整然と書かれていた。彼女のノートをじっくり見るのは初めてだったので、その美しさに感動していた。
「どうしてこんなにきちんと書けるのか不思議だなあ」
「秘訣があるの」
「予習、復習をきちんとやること?」
「違うわ、これよ」
純子は自分の筆入れを僕の目の前に置いた。プラスチック製の筆入れの中には鉛筆が何本も入っていた。先がとがったままのものも二、三本あった。ほとんどの生徒がシャーペンを使っていたので、鉛筆しか入ってないことに驚いた。
「鉛筆の方が書きやすい?」
「これ使ってみて」
彼女は筆入れから一本取り出して、僕に渡した。
「よかったらこれあげる」
「僕に?」
「うん、使ってみて。とっても書きやすいよ」
僕は渡された鉛筆をじっくりと見た。それから自分のノートに落書きしてみた。滑らかで、それでいて濃すぎることもなく、すらすらと書けるのが気持ち良かった。
「こんな書き心地は初めてだ」
「これね、Fっていうの」
「エフって、鉛筆の名前?」
「ううん。Fはね、HとHBの中間なの。HBより薄いけど、Hほど堅くないから書きやすいの。それに余分な粉がでないから隣のページが汚れたりしないの」
「へえ、知らなかった。そんな種類があるなんて」
「私、一年生の時からずっとFを使ってるの」
あらためて彼女のノートを見てみると、文字が流れるように並んでいるのがわかった。
「シャーペンの芯でもFってあるのかな」
「あると思うわ。でも私は鉛筆の方が好き。毎日学校で使ったものを、家に帰ってから削り器で削って、先をとがらせるのが楽しみなの」
「変な趣味だね」
「そんなことないよ。広之君も今日からやってみたら」
「うん、この鉛筆使ってみるよ」
「じゃあ、私、塾に行くから帰る。よかったら一日ノート貸してあげるわ」
「ありがとう」
彼女は手を振って教室から出ていった。
それからしばらく僕はFの鉛筆を使ってみた。確かに書きやすかったが、削るのが面倒くさくなって、結局やめてしまった。
引っ越しが決まったとき、僕は純子にノートをプレゼントした。そして彼女は鉛筆を一ダースくれた。もちろんそれはFの鉛筆だった。
僕は純子に、恋愛感情を抱いていたとは思えなかった。旅先で気の合う人に出会ったような感じで、お互いもう会えなくなるとわかって少しは悲しい気持ちになったが、それをいつまでも引っ張ることはなかった。純子の方もそうだったと思う。新しい住所を渡したが、彼女から手紙が来ることはなかった。
大阪に引っ越ししてから、僕はクラブ活動や受験、進学そして就職と目まぐるしく変わる環境に夢中で、純子のことはしだいに忘れていった。しかし三十歳になる前に、長年付き合っていた恋人と別れて、心の奥底に小さな穴が開いた。そして、そこから純子の思い出が流れ出てくるようになった。仕事をしていても、中学の制服を着た純子のことを思い浮かべていることがあった。もし、今度同窓会の案内が届いたら、会いに行ってみよう。もしかしたら、結婚して子供もいるかもしれない。でも、あの消え入りそうな笑顔をもう一度見てみたい、そんなふうに考えていた。そして僕の気持ちが伝わったかのように、転勤が決まったのだった。

場所を移して二次会をやることになったが、僕は途中で帰ることにした。会の間中は、純子の死についてあれこれと聞くことが出来なかった。山下が旅館まで送ってくれるというので、聞いてみることにした。
「純子が死んだって聞いたんだけど」
「ああ、ここからちょっと山の方へ行ったところで、ガードレールを突き破って木にぶつかったんだ。運転していたのは親父さんだった。二人とも即死だったらしい」
「いつのことだ」
「もう十年も前だよ。純子は、東京の短大を出て向こうで就職したばかりだったんだ。お盆に実家に帰ってきた時だったらしい」
僕は一瞬目の前が真っ暗になった。その闇の中で炎が揺らめいた。
「その前の年の同窓会に来てて、随分きれいになってたんで、彼氏でも出来たんじゃないかって皆でからかってたんだけどな」
「見たかったな、きれいになった純子を」
山下はハンドルをぎゅっと握り直して、前をのぞき込んだ。
「お袋さんは二人の事故の後、心臓を悪くして、結局二年前に亡くなった。家族で残ってるのは妹だけだ。遥子っていうんだ。まだこの町に住んでる」
「一人で寂しいだろうな」
「実は俺、そいつと付き合ってるんだ」
「なんだ、そうなのか。それでよく知ってるのか」
「遥子はずいぶん苦しんだ。でも最近になってようやく明るくなってきたんだ」
「それは、お前が大事にしてやってるからだろう」
「いや、それほどでもないよ。付き合ってると言ってもまだ恋人未満だしな」
山下はようやくいつもの山下らしい笑顔を見せた。
「明日、もしよかったら線香でもあげに行ってやってくれ。あいつの家まで連れてってやるよ」
「ありがとう。俺、引っ越ししてから一度もお前に連絡しなかったな」
「お前は無精なだけさ。そんなことで友情が無くなったりしないぜ」
彼は僕の肩をぽんとたたいた。中学の頃もよくそうやって肩をたたかれた。その時の暖かい感じがよみがえってきた。
旅館まで送ってもらってから、僕は風呂に浸かりに行った。山の頂上へ向かうゴンドラの灯が露天風呂からよく見えた。今ではちょっとした夜景のスポットになっていて、恋人達に人気があるらしかった。もし純子が生きていれば、二人で遊びに行ったかもしれない。そんなことを考えると切なかった。

翌日は朝から雨だった。僕は山下が迎えに来るのをホテルのフロントで待っていた。やがて玄関でドタドタと言う音がした。大きな体に似合わない女性物の傘を手にした彼があらわれた。
「いやあ、遅くなってすまん。昨夜家に帰ったら弟が来てて、また飲んじゃったんだ」
「いいよ、気にするな」
僕が立ち上がると、山下の大きな体に隠れていた女性の姿が見えた。
「遥子だよ」
「はじめまして、遥子です」
僕は返事もできずに彼女を見つめていた。純子と違って健康的で、意志の強そうな目をしていたが、はにかむような動作や喋り方がよく似ていた。
「なんだよ、挨拶しろよ」
「ああ、すみません。幸田広之です」
彼女は可笑しそうな顔をして、山下を見やった。
「純子さんによく似てるんでびっくりしました」
「そうですか?あまり似てるって言われたことないんですけど」
僕はお悔やみの言葉も言えずにいた。
「彼女、午後から仕事があるんで、墓参りだけ付き合ってもらうことにしたんだ」
「忙しいところすみません」
「いえ、こちらこそ。ほんとなら家に来てもらうべきなんですけど、急に学校の用事が入ったものですから」
「彼女、中学の先生なんだ」
「難しい年頃だから大変でしょう」
「ええ、でも自分で選んだ仕事ですから」
「まあ、とにかく車に乗ろう。ここで喋っててもホテルの人に迷惑だから」
山下が先頭に立って三人はホテルを出た。
温泉街を抜けると左手に大きなゴルフ場が見えてきた。この町に住んでいたころ頃は、まだ雑木林だった。山下と二人して、自転車を傾かせながら、どれくらいスピードを出したままカーブを曲がれるか競争したものだった。
「ずいぶん発展したな」
「俺は発展だとは思わないな。俺に任せてもらえたら、ゴルフ場なんかじゃなく、県下最大のイングリッシュガーデンでも造るんだけどな」
助手席に座った遥子がそれを聞いてくすくす笑っていた。
僕は、後ろの席で二人を見ながら、似合いのカップルだなと思った。一見遥子は純子と似ているが、性格は正反対のような気がした。明るくて積極的で、てきぱきと何でもやりそうな感じがした。
ゴルフ場を迂回するように道を曲がり北へ向かうと、小高い丘が見えてきた。
「そこなんです、うちのお墓は」
「眺めのよさそうなところですね」
言ってから、しまったと思ったが、遥子は気にすることもなくこんなふうに答えた。
「いつも見られてるようで、悪いこと出来ないんですよ」
車を降り、三人で細い道を歩いていった。遥子は用意してきた花を左手に持って、山下の差す傘の中に入っていた。僕は少し離れて二人の後に続いた。三人は墓の前で、それぞれの思いを込めて手を合わせた。
「なるべく来るようにしてるんだけど、今月はちょっとさぼっちゃった」
「遥子のこと、誰も責めたりしないよ」
「だといいんだけど」
僕はそんなやり取りを黙って聞いていた。雨が体を冷やした。遥子の濡れた髪が艶っぽく光っているのを、僕は見て見ぬふりをした。
三人は無言で車に戻った。山下はエアコンを入れ、遥子はハンカチで彼の濡れた頭を拭いてやっていた。僕がそれを見ているのに気づいたのか、彼女はバッグから新しいハンカチを取り出して「使って下さい」と言った。淡い花柄のタオル地だった。受け取るときに、僕は遥子の指先に少し触れた。彼女はそれに気づいたのか、慌てて目をそらした。
遥子を駅まで送っていくということだったので、僕もそこで降り、歩いて旅館へ帰ることにした。
「じゃあな、広之。また電話しろよ。今度飲みに行こうぜ」
「ああ、近いうちに」
山下は二人を下ろすと車をUターンさせて走り去った。
僕は改札口まで彼女を送っていった。
「僕が純子さんと机を並べていたのは、三ヶ月くらいだったんです。でもすごく印象に残ってるんです」
「姉はあまり目立つほうじゃなかったと思うんですけど」
「ええ。でも、何となく気が合ってよく喋ったし、それに一番記憶に残ってるのは鉛筆をもらったことなんです」
「鉛筆?」
僕は遥子の瞳に不安な影を見たような気がした。
「ええ、純子さんはいつも筆入れに鉛筆をたくさん入れてました」
電車の発車を告げるアナウンスが流れた。遥子は我に返ったように駅員に向かって言った。
「すみません中で切符買います」
「じゃあ、いってらっしゃい」
遥子は走って改札を抜けていった。扉が閉まる直前に電車に乗り込み、僕に向かって小さく手を振った。彼女の瞳は憂いを含んでいて、何かを訴えようとしているかのようだった。

僕は旅館に戻り、シャワーを浴びた。休日は明日までもらっていたので、もう一日泊まってゆくことにした。近くの店で蕎麦を食べ、傘を差しながら少し歩いた。橋を渡り細い道を行くと源泉と書かれた石碑があった。しかしそこには湯は流れていなかった。周りを見ると何件かの宿がつぶれていた。その中には老舗の旅館もあった。玄関の窓ガラスにはひびが入ったままで、壁はしみだらけだった。
僕は来た道を戻り、勝手に布団を敷いて横になった。疲れていたのか、ぐっすりと寝込んでしまった。電話の音に目を覚ますと時計は午後五時を指していた。
「ロビーにお客様が見えてますが。女性の方です」
フロントからの電話に、僕のぼんやりしていた頭が徐々にすっきりしていった。鏡を見て、乱れた髪を整えてから部屋を出た。
フロントに降りてゆくと、遥子が立っていた。髪を濡らし、寒いのか身体を震わせていた。
「ごめんなさい、お休みでしたでしょうか」
「いえ、退屈してたところなんです」
「私、幸田さんにお聞きしたいことがあって」
彼女の瞳は、駅で別れた時と変わらず憂いを含んでいた。
「寒いでしょう。ちょっと待って下さい」
僕はフロントの女性にタオルを借りに行った。遥子は遠慮がちに受け取り、髪や服についた水滴をぬぐった。
「もう帰られたかと思ったんですが」
「懐かしくて、もう一泊したくなったんです」
僕は彼女を喫茶コーナーへ連れていった。
「傘も差さずに歩いてきたんですか」
「これくらいは平気です」
「風邪でもひいたら山下が心配しますよ」
彼女はこっくりと頷いてから言った。「私、気になることがあるんです。今日、駅で幸田さん、鉛筆のことを言われましたよね」
「ええ」
「うちの墓に、以前おいでになったことあります?」
「いえ、今日が初めてです。何しろこの町に来るのさえ十五年ぶりですから」
「そうですか。実は以前、うちの墓に鉛筆が置いてあったんです。これなんですけど」
彼女はバッグから一本の真新しい鉛筆をとりだした。それは純子の筆入れに入っていたのと同じメーカーの鉛筆だった。そして刻まれた英文字はFだった。
「僕がもらったのと同じ鉛筆ですね。これが純子さんのお墓においてあったのですか?」
「ええ、二年前のことなんですけど」
「彼女が誰かにあげたものかもしれませんね。僕にくれたように」
「いいえ、姉は幸田さん以外の誰にもあげなかったはずです」
遥子は毅然とした顔つきでいった。
「姉は生涯で好きになったのはたった一人だったって言ってました。その人にはこの鉛筆をあげたのよ、と言って、これと同じ鉛筆を見せてくれたんです。ちょうど事故にあう前の日でした。駅で、幸田さんから鉛筆のことを聞いて思い出したんです。もしかして幸田さんが鉛筆を置いていかれたんじゃないかと思って」
僕は丸太で胸を突かれたような気持ちだった。純子が自分のことを好きでいてくれたなんて、想像したことさえなかった。
「事故があったとき、私はまだ中学生でした。好きな人って言うのは、たぶん東京の大学で一緒だった人なんだろうと思ってました。でも、どうして事故の前の晩にあんなこと言ったんだろうって不思議でした。それまで、好きな人のこととかを私に話したことなんかなかったんです」
「純子さんは、何かを予感していたんでしょうか」
「かもしれません。姉はとっても感受性が豊かでしたから」
遥子の瞳に、僕は、純子の消え入りそうな白い影を見た。純子が自分のことを五年近くも思ってくれていたなんて考えられなかった。遥子は僕から目をそらせてタオルをぎゅっと握りしめた。窓を叩く雨の音だけが僕の耳の中で響いていた。
「すみません。おじゃましました。私、帰ります」
突然遥子は立ち上がった。グレーのスーツが皺だらけになっていた。
「送っていきましょうか」
「いえ、タクシーを呼んでもらいますから」
そう言うと遥子は伝票をもって立ち上がり、支払いを済ませるとフロントの女性を呼んだ。僕は席から立ち上がれなかった。今朝初めて見た時とは全く様子の違う遥子に戸惑うとともに、彼女に純子の姿がぴったりと重なって、悪寒と熱が一気に体を駆け巡った。

アパートに戻ってからも、僕は遥子の言ったことが気にかかっていた。純子にその時何があったのか、あるいは何が起こりつつあったのか、自分で調べてみたいという気持ちが日増しに強くなっていた。
ゴールデンウィークにも僕は大阪に帰らなかった。一つには山下と飲みにく約束があったからだが、遥子にも聞いておきたいことがあった。山下に内緒で遥子に会いに行けば当然彼は面白くないだろうし、三人で会っているときに純子の話を持ちだすのも憚れた。そこで僕は山下に、遥子と会って話したいことがあるということを、伝えておこうと思った。
約束の日、僕は中原市の中心部にある駅前の高架下で山下を待っていた。連休の真っ最中ということもあって、駅前は買い物客で賑わっていた。駅の北側と南側には老舗の百貨店がそれぞれ建っていて、若者からお年寄りまでたくさんの人が買い物を楽しんでいるようだった。
高架の下にはファストフードの店が軒を連ね、中高生がわが物顔で席を独占していた。女の子はほとんどが髪の毛を茶色に染め、携帯電話の画面を、吸い込まれるように見つめていた。 遥子から鉛筆の話を聞いて以来、僕は、純子と過ごした日々の記憶を辿った。純子は誰と仲が良かったのか。誰を嫌っていたのか。純子が何かをして皆を驚かせたことはなかったか。純子の行動の中から何かヒントが得られないかと考えた。
鉛筆のこと以外で、一つだけ印象に残っていることがあった。それは純子の違う一面を見たときのことだった。梅雨の真っ最中に社会見学で奈良の方へ行ったときのことだった。行きのバスの中では、皆わいわいやっていた。僕は山下と野球の話をしていたように思う。純子は隣に座った女の子の話に静かに相づちを打っていた。小雨の中、神社仏閣を見学した後、公園内の待合所で昼食をとろうとした時のことだった。クラスの誰かが、家族連れが座ろうとしていたテーブルに鞄を投げて場所取りをしようとした時、側にいた純子がものすごい剣幕で怒ったのだった。
『あなた達、そんな卑怯なことしちゃだめじゃない』と純子は言い、彼らの鞄をテーブルからつかんで投げつけたのだった。いつも大人しい純子がそんなことをするものだから、投げつけられた男子も驚いて、どうしていいかわからない状態だった。僕は純子の側へ行って落ち着かせようとしたが、彼女はその場から走り去り、結局次の集合時間まで姿を見せなかった。
帰りのバスの中で、純子は一番前の席に一人で座り、ずっと目を閉じていた。翌日、何もなかったように学校へ来た純子は、いつものようにまじめに授業をノートにとっていた。
『昨日はちょっとびっくりしたよ』と僕は彼女に言った。
『純子が怒ったのなんて始めてみたから』
『私もあんな大きな声を出したの初めて』と彼女は言った。
『恥ずかしくて皆の前から消えてしまいたくなったの』
『それで何処に行ってたの?』
『鹿と話をしてたの』
『雨の中で?傘も差さずに?』
『そうよ。だって鹿は嘘つかないもの。とっても可愛い目してるの。知ってた?』彼女はそれだけ言うとふっと微笑んだ。

「なんだぼんやりして」
僕は目の前に山下が立っているのに気づいた。
「何考えてたんだ?大阪に残してきた彼女のことか?」
「いや、なんでもないよ」
僕は山下に並んで歩き始めた。夕方になって人通りが増えていた。高架下を左手に曲がると飲食街が軒を連ねていた。山下は仕事の関係でよくこのあたりで飲むことがあるらしかった。僕はあまり飲めるほうではなかったので、山下には料理のおいしい店へ連れていってくれるように頼んだ。
「会社の連中とは飲みに行かないのか?」
「今の支店は飲めない人間が多くてさ。さすがに花見ぐらいは行ったけどな」
「つまらん会社だな。俺みたいな仕事してると、飲めなきゃ営業できないからな。体力勝負だよ、まったく」
山下の勧める店は、キャバレーと英会話学校の間にあった。さすがに料理は一品毎丁寧に作られていた。ボリュームは少なかったが、食べる楽しみを味わうことができた。
「いい店だな。遥子さんを連れてきたこともあるのか?」
昔話や仕事の話が尽きた頃、僕は言った。
「遥子のことだけど。あいつ、この間、お前のいる旅館に行ったらしいな」
山下はそれまでの豪快さをどこかへ置き忘れたような口調で言った。
「純子のことで、気になることがあると言って訪ねてきたんだ。二年前に彼女の墓に鉛筆が置いてあったらしい。それが、俺が純子からもらったのと同じ鉛筆だったんだ」
「お前に純子のことを聞いてどうするんだろうな。半年も一緒にいなかったのに」
山下は僕の話を遮るように言った。僕は少しむっとした。自分は誰よりもあの頃の純子と親密だったと思っていた。それに、鉛筆をもらったのは自分しかいないのではないかという気持ちもあった。
「実は俺の方も気になることがあるんだ。それで、遥子さんに会って確かめたいことがあるんだけど、会わせてもらってもいいかな」
「別に俺に許可をもらう必要なんかないじゃないか。お前が会いたければ会えばいい。遥子が一緒にホテルに行くって言うのなら行けばいいじゃないか」
「そんなつもりはない。ただ話を聞くだけだ!」
僕は山下をにらみながら言った。山下は煙草を口にくわえながら目をそらせた。
「悪かった、大きな声を出して。ただ俺は、短かった純子の人生の軌跡を追ってみたいだけなんだ。誰にも迷惑はかけない。俺一人でやる」
「そんなことをしてどうするんだ!」
今度は僕が驚くほうだった。山下は煙草を灰皿に押し付けると焼酎をぐいっと飲んだ。
「純子の過去をほじくり返してどうしようって言うんだ」
「ほじくり返すなんて言い方するなよ。疑問に思っていることがあるんだ。それを解決することが、純子や遥子さんのためにもなると俺は思うんだ」
「遥子はようやく立ち直ったところなんだ。この間も言っただろ。でも、お前に会ってからまた沈みがちになってるんだ。勤め先の学校でも周りの人たちは心配してる。また、鬱病にでもなったら大変だ」
「そうだったのか。知らなかった。遥子さんが鬱病だったなんて」
「ほんの一時期だけどな。まあ、今の状態はそう長くは続かないとは思うんだ。そのうちにまた明るい遥子に戻ってくれると思う。だから、これ以上あいつの心を乱さないで欲しいんだ。純子のことはもう過去だ。過去を追いかける人間は病気になる」
「わかった。もう遥子さんには会わないよ」
「そうしてくれ。お前の気持ちもわかるが、俺は、明るくて伸び伸びしてる遥子でいてほしいんだ」
「約束するよ」
僕のその言葉に山下はようやく笑みで答えた。
「でも三人で会うのなら大丈夫だ。あいつが元気になったら遊園地にでも行こう」
「いや、二人で行くといい。俺がいても邪魔なだけだから」
山下は照れながらおしぼりで顔をごしごしと拭いた。僕は手を付けてなかったビールを一口飲んだ。遥子にはもう会わない。絶対に。二人の幸せを邪魔してはいけない。心にそう誓った。
「何だか腹が減ったな。たこ焼きでも食うか。ここのたこ焼きは本場大阪の味で有名なんだ。ソースもいろいろ選べるんだぜ」
僕はいつもの山下に戻ってくれたことが嬉しかった。

(つづく)

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