11
絵美の携帯に何度かけてもつながらなかった。自宅に電話するのは気が引けたし、かといってこのまま会わずに済ましてしまうわけにはいかなかった。
僕はアパートの窓を開けた。濃い青のキャンバスに白い線をいく筋かひいたような空が広がっていた。それをじっと見ていると、波の音が聞こえるような気がした。
ヨット。この間、喫茶店で絵美に会った時、週末にヨットハーバーにいくような話をしていたのを思いだした。さっそく遥子に電話をして迎えに行った。
国道に出て、海岸沿いをまっすぐに南へ向かった。時折木々の間から海が見えたかと思うと、一気に風景が広がった。
「海が見えるよ」
「すごい。遠くの方までずっと海だわ。この辺は海水浴場なのね。きっと夏になったら賑わうんだろうな」
僕は久しぶりに遥子の子供っぽい笑顔を見た。最初に出会った時、山下の体に隠れるようにしていた彼女のことを思い出した。
「ヨットハーバーか、懐かしいな」
「広之さん、行ったことあるの?ここにいる間に?。それとも大阪から彼女でも連れてきたの?」
「山下と二人で行ったんだ。電車を乗り継いで」
「男二人で?」
「中学二年の時だったかな。二人で海の見えるレストランに入って、アイスコーヒーを頼んで、埠頭の方を眺めていたんだ。恋人達が何組か歩いていた。うらやましいなって思ったな」
「それを二人でじっと見てたの?何だか怪しい中学生よ」
「あいつはこんなこと言ったんだ。海の水って塩辛いんだ、お前知ってるかってね」
「わかるわ。私中学の臨海学校で初めて海で泳いだの。すっごく塩辛かった。まるで、コップに塩を入れてうがいをする時みたいだった」
「僕は、臨海学校の時に急に熱を出して休んだんだ。だから初めて海で泳いだのは社会人になってからだった」
「塩辛かったでしょ」
「うん、びっくりするくらい」
「私達って山の子供だから、海のことってよく知らないのよね」
「あの時、山下は別のことを言いたかったのかもしれない」
「どんなこと?」
純子のことが好きだ、そう言いたかったのではないかと僕は思った。
ヤシの木が並んだ道路へと左折すると、ヨットハーバーが目の前に見えてきた。新しいレストランがいくつかできていて、ログハウス風のものからコンクリートを打ちっ放しにしたシンプルなものなど、それぞれが個性的だった。
幾艘かのヨットがキラキラと光る海の上に浮かんでいた。
「あの中に私達の会いたい人はいるのかしら」
「いるかもしれない。でも、いなければいないでいいさ。こうやって海をゆっくり眺めるのも悪くないし」
車を駐車場にいれると、僕は遥子の手を取って堤防を歩いた。何組かのカップルが、海辺に足を投げ出して座り込んでいた。左手には管理事務所があった。使われてないヨットが波に揺れていた。堤防の先の方で大きなクーラーバッグの横に立っている女性がいた。煙草の吸い方でそれが絵美であることに僕は気づいた。片手には缶ビールをもって、ごくごくと飲み干していた。
「皆はまだ沖にいるのか?」
僕は両手をメガホン代わりにして叫んだ。遥子が一瞬足を止めるのがわかった。振り返った絵美の顔は、日に焼けて浅黒かった。
「どうして私がここにいるのが……」
「誘ってくれたじゃないか。一緒に行かないかって」
「迷惑でしたでしょうか」
遥子は僕より一歩下がったままで言った。
「あなたは確か、純子の妹さんね。今、幸田君と付き合ってるの?」
「はい」
「そう。じゃあ山下君は振られたってわけね」
絵美は横目で見ながら言った。そして何本目かの煙草にまた火をつけた。
「皆はどうしたんだ」
「オバサンには荷物番させて、若い子と海の上よ」
「それはお気の毒に」
絵美は素知らぬ顔をして煙を吐き出した。
「実は、訊きたいことがあって来たんだ」
「また純子のこと?しつこいわねあんたも。それに妹と付き合ってるんならもうどうでもいいじゃない」
「君は純子が東京にいる頃に一度会いに行ってるね」
「それがどうしたの。友達なら当然じゃない」
「君と純子が友達だったとは思えないけど」
カモメが三人の頭の上を鳴きながら通りすぎていった。僕にはカラスの鳴き声のように聞こえた。
「中二の頃だったわ。ヨットに乗らないかって浅倉先生に誘われて、ここに来たの。私ともう一人の女の子と。それに純子もいたわ。ほんとはあの子は数に入ってなかったんだけど、先生が連れてきたの。楽しくなかったわ、純子のおかげで」
「姉がヨットに?」
「乗ってすぐに気持ち悪くなってね。真っ青になって吐いたりするもんだから、結局中止になって、駅で解散したわ。でも純子だけは先生が家まで送っていった」
絵美はそれだけ言うと沖合の方を見た。白い帆がこちらに向かって近づいてくるのがわかった。
「純子は、それがきっかけで、自分が先生に特別扱いされてるって思ったのよ。私達がちょっとでも意地悪すると、すぐ浅倉先生に言いつけるからって言うようになったの」
「その話と君が東京へ行ったこととどういう関係があるんだ」
「話始めると長くなるからやめとくわ」
絵美はクーラーバッグを引きずって、近づいてくるヨットの方に歩き始めた。
「絵美さん、お願いです。教えて下さい」
遥子の声に、絵美は後ろを向いたまま立ち止まった。僕は波のうねりの中に純子の顔が見えるような気がした。うっすらと笑顔を浮かべた白い顔。
「女子高を受験する前の日だった。私は浅倉先生に相談したいことがあって、先生の家に行ったの。そしたら玄関口に純子のお父さんが立っていて、何か紙包みのようなものを渡してしきりに頭を下げてたの。先生は何度も断っていたみたいだけど、純子のお父さんはそれを押し付けるようにしていたわ。私は何だか怖くなってきてそのまま家に帰ったの。翌朝、駅で純子をつかまえて話してあげたの。あなた、わいろを渡してまで受かりたいのってね」
「父がそんなことをするはずありません」
「純子も同じように言ったわ。般若のお面みたいな顔をしてね。それで結局彼女は受験をしなかった。でもね、こんなこと言うと遥子さんは怒るかもしれないけど、あの子は女子高に行ってたら、いじめにあってたに違いないわ。大検をとって正解だったのよ」
「東京へ行った理由は?」
「せかさないでよ。長い話だって言ったでしょう」
ヨットが白い帆をたわませて間近にまで迫ってきていた。何人かが絵美に向かって手を振っていた。男達は皆、僕の同級生だった。
「私が東京まで行ったのは、純子に忠告してあげるためだったの」
「何を?」
男達の一人が気づいたらしく、大声で僕の名を呼んだ。手を振って答えながら僕は絵美の言葉を待った。
「純子は浅倉先生に夢中だったの。だから、わたしが直接忠告しに行ってあげたのよ。お父さんやお母さんが知ったら大変なことになるわよって」
「彼女は毎週東京から浅倉に会いに来ていたのか」
「私が見たわけじゃないわ。手紙が来たの。差出人のない手紙がね」
それだけ言うと彼女はクーラーバッグを引きずってヨットの方へ歩いていった。後には何本もの煙草の吸い殻が残されていた。遥子は全身から力が抜けたように座り込んだ。僕が肩を抱いて立ち上がらせようとしたが無理だった。日の落ちかけた空を優雅にカモメが飛んでいた。
12
その夜、遥子は初めて僕のアパートに泊まった。二人はシャワーを浴びてからビールを飲んだ。蒸し暑い夜だった。窓を開けていても、風が入ってこなかった。
「まだ、エアコンつけてないんだ」
僕は言いわけをするように言った。遥子は無理に微笑んで、グラスに残っていたビールを一気に飲み込んだ。
どちらからともなく唇を求めて、ベッドに入った。しかし愛撫を繰り返しても遥子は濡れなかった。
「ごめんね。薬のせいかもしれない」
「僕が余計な事しなければよかったんだ」
「自分を責めないで。私は姉のことが知りたかったの」
僕は部屋の白い壁を眺めた。所々ひびが入っていた。そこから水がにじんでくるような気がした。
「浅倉先生は、面倒見のいい先生だった。姉はそれを勘違いしたんだわ。寂しかったのよ。きっと」
遥子は僕の胸に顔をうずめた。涙が滴り落ちるのがわかった。僕にはただ彼女の背中をなでてあげることしかできなかった。
筆箱の中に並んだ鉛筆。その中から一本を取り出して僕に差し出す純子の顔。その顔を思い浮かべているうちに何か違和感を感じた。それが何なのか考えようとするまもなく消えてしまった。
鬱状態のひどくなった遥子は、医者の勧めもあり、しばらく仕事を休んだ。僕は週末になると、遥子の家を訪れ、一緒に夕食を作って食べたり、付近を散策したりして過ごした。純子の話題には、お互いに触れないようにしていた。
久しぶりに青空が広がった日に、二人でハイキングに出かけた。草の生い茂った細い道を進むとちょっとした広場にでた。石のベンチに座り、二人で作ったサンドイッチを食べながら、風の音を聞いたり、遠くを流れる小川のせせらぎに耳を澄ませたりした。
「私、中学生の頃に、『嵐が丘』って本を読んだの。夏休みに何か一冊本を読んで感想文を出すように言われたから。意味はよくわからなかった。人間関係が複雑で。でも、ヒースクリフって名前が印象的で、ずっと心に残ったの」
僕は遥子の表情を見ながら聞いていた。彼女が自分から話し始めるのは、体調がよくなってきたからかもしれないと思った。
「ヒースって、草の名前なのね。事典で調べたの。濃い緑色の長い草。一度イギリスに行って、舞台になった場所を見てみたいって、ずっと思ってた」
「体調がよくなったら、いけるよ」
「私、留学したかったの。でも、今からじゃ無理よね」
「そんなことないさ」
「私ね、学校をやめようと思うの。教師には向いてないみたい。子供は好きなんだけど、親がね。何でも学校や教師の責任にしたがるから。病院の先生には、重大な決定は今の時期にはしないようにって言われたわ。でも、私には重大なことには思えないの。私にはもっと他に何かできることがあると思うの。自分の中にある、まだ自分でも気づいてない何かが」
遥子はそこまで言うと、少し疲れたのか、ペットボトルに入れたお茶を飲んだ。僕とは目を合わせず、木々の葉叢から差し込む夏の陽射しを浴びるかのように顔を上に向け目を閉じた。
僕は遥子が自分と別れたがっているのではないかと思った。純子の過去を探し出す旅に二人で出て、行き着いたところには深くて暗い沼があるだけだった。残された道は、二人にとって別々の方向にしかないのかもしれない。遥子は自分と旅をしたことを後悔しているだろうか。僕自身は純子のことが少しでもわかってよかったと思っていた。しかし青白くくすんだ遥子の顔を見ていると、これ以上彼女と一緒にいても、彼女を苦しめるだけのような気もした。
13
梅雨が明けて、夏らしいきつい陽射しが照りつける中、僕は一人で純子の墓参りに行った。手を合わせ、あの頃の楽しかった思い出に感謝し、遥子の心に影を落とすきっかけを作ってしまったことをわびた。
結局、遥子は症状がひどくなり、入院することになってしまったのだった。退院するまでに最低でも三ヶ月くらいはかかるということだった。
入院する日に車で送っていった時、遥子は「お願いだから、見舞いには来ないで。汚れてる自分を見られたくないの」と言った。その言葉に僕は二人の距離を感じた。
「会いたくなったら、私の方から連絡するから」
別れの言葉かなと僕は思った。僕は、彼女の横顔を見つめたまま声が喉に詰まって何も言えなかった。病室まで荷物を一緒に運んだ後、ベッドに座り込んだ遥子はずっと窓の方を見ていた。僕が、「じゃあ」と声をかけても遥子はただ頷くだけだった。
純子のもとを去ったように、遥子とも別れる運命にあったのだと僕は思った。
山下は事業に張り切っているようだった。一度現場を訪れたら、真っ黒に日焼けしていた。遥子の事はお互いに口に出さなかった。浅倉に会いに行って真実を正そうとも思わなかった。もう終わってしまった、そんな気がした。
墓地から出て、なだらかな坂をゆっくりと下っていると、白いワンピースを着た若い女性が、向かい側から上ってきた。遥子と二人で東京へ会いに行った女性だった。相手も僕に気づき、抱えていた花束を落としそうになった。薄桃色の花びらが一つ二つこぼれ落ちていった。僕は静かに頭を下げた。
「お久しぶりです。こちらへはわざわざ?」
「近くに来たものですから、お参りさせてもらおうと思って」
「純子さんのお墓がどこにあるかご存知なんですか」
彼女は花の匂いを嗅ぐように顔を背けた。
「私、申し訳ないことをしたと思っています」
「何のことなのか僕には」
「東京へ二人でおいでになった時、私、嘘をついていたんです」
「どういうことでしょうか」
僕は彼女の清潔な部屋を思いだした。そして、緊張しながら受け答えしていた彼女の顔を。
「私、浅倉の娘です。と言っても離婚したので母親の姓になっていますが」
僕は、行き着いた暗い沼の向こうに、もっと暗い森があることを知った。
「私が中学生になったとき、両親は離婚しました。原因はいろいろあったんですけど」
「じゃあ、純子さんは、あなたが浅倉先生の娘さんだとは知らずにいたんですね」
「ええ、最後まで。でも、私の方は知っていました。両親が離婚してからも時々父に会いに行ってたんです。父は、純子さんのことを心配していました。自分の娘のことよりも」
「それは、教師としてですか」
「父は生徒達一人ひとりに対して熱心でした。特に問題のある子には」
「純子さんには何か特別な問題でもあったのでしょうか」
「父はよく私にいいました。この子は普通の枠の中では生きていけない子だ。何か特別な才能があるに違いない。だから、彼女の方向性を見つけてあげたいと」
僕は硬い表情で話す彼女をじっと見ていた。以前会ったときと違って、その瞳には深い悲しみの色があった。
「実の娘である私より、父には純子さんの方が気掛かりだったんです。私は悔しかった。それから何年かたって、まさか同じ大学に入るとは思ってもみませんでした」
「あなたは純子さんと知ってて声をかけたんですね」
「ええ、実際にどんな子なのか興味もあったので」
僕の額から汗がこぼれ落ちた。ハンカチを出してぬぐいながら、彼女を日陰にあるベンチに誘った。
「彼女は父の勧めでイラストの勉強をしていました。自分のやりたいことが見つかったと、父に感謝していました」
「あなたがついた嘘というのは何ですか?」
彼女は僕の目を初めて正面から見た。涙で潤んだその瞳は暗くよどんでいた。
「純子さんが毎週誰かに会いに行っていたとか、その人を苦しめてやると言っていたということです。彼女は父と恋愛関係にあったわけではありません。彼女は土日はほとんどバイトをして、イラストレーターになるための専門学校に通っていたんです。それを私は」
彼女の腕から花束が崩れ落ちていった。白いワンピースに薄桃色の花びらが付き、血がしみ込んだように見えた。
「手紙を書いたんです。誰でもよかったんです。純子さんの同級生なら。純子さんが浅倉先生とつきあっている、注意して欲しいって嘘を書いたんです」
彼女は花束を拾い上げて、枝を整えながら、暗い瞳からこぼれ落ちそうになる涙を懸命にこらえているようだった。
「私のせいなんです。私は、父の愛情を私から奪ったのは純子さんだと思うことで、自分の心を慰めていたんです」
「二年前にもあなたはここに来られましたか」
「ええ、鉛筆をお墓に置いたのは私です。純子さんがいつもイラストの下書きをするときに使っていたので、どうしてFの鉛筆を使うのか聞いたんです。そしたら、それも父に勧められたんだとか」
僕は純子の筆入れに並んでいた削りたての鉛筆のことを思い出した。そして、その中から一本だけ僕に向かって差し出したときの恥ずかしそうな顔を。
「あなたが、私のことを探しだしてくれると思ってました。純子さんは、中学の時に好きだった人に鉛筆をあげたことがあるって言ってましたから。そう言ったとき、化粧の上手になった彼女の表情に幼げな可愛らしさをみたんです。でも実際にあなたに会ったときには、本当のことは言えなかった。自分でも信じられないくらいに嘘の言葉ばかり出て来たんです」
彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。それは、どこまでも澄みきっているかのような涙だった。
「お参りして行って下さい。きっと彼女はあなたのことを許してくれると思います」
「いいえ、私は許してもらわなくていいんです。むしろその方が」
彼女は立ち上がって僕に一礼すると、背中を向けて歩いていった。坂道を上り、墓苑に入ってゆく彼女の姿は、暗い森の中に消えてゆく旅人のように見えた。
僕は木陰に座り込んで、浅倉の娘が戻ってくるのを待っていた。その場所からは町を一望することができた。今では、街道沿いにマンションやスーパーが建ち並び、広い土地を利用してメーカーの工場ができていたが、僕がいた頃は何もなかった。もっと緑が多く、空気も澄んでいた。
坂の上に目を向けると、彼女がゆっくりと降りてくるのが見えた。足下を確かめるように目は伏し目がちにし、時折、眼下に広がる町並みを眺める表情には、放心したような危うさが感じられた。僕が木陰に座っていることにも気づかず彼女は通りすぎようとした。
「送っていきましょう。バスは本数も少ないし、タクシーだってつかまらないでしょう」
僕の言葉に我に返ったかのように彼女は振り向いた。
「驚かせたのなら謝ります」
「ごめんなさい、全然気づかなかったもので」
僕は立ち上がって墓参の礼を言った。
「幸田さん。遥子さんの家に寄っていただけないでしょうか」
「彼女は今、入院しています」
「どこが具合でもお悪いのでしょうか」
「しばらくは誰とも会いたくないと思います。それに、あなたの話を聞いたらおそらくショックを受けるでしょう。それで症状がひどくならないとも限りません」
「でも、私、謝りたいんです」
眉にしわを寄せて彼女は言った。太くて濃い眉と、鼻柱の高いところが浅倉によく似ていた。
「僕があっちこっちと彼女を引っ張り回して、純子の過去を調べているうちに、よくなりかけていた病気がぶり返したんです」
「それは、私のせいです。私が本当のことを言わなかったから」
「あなたのせいじゃない!」
僕は、彼女に対して腹立たしい気持ちをぶつけてしまったことを恥じた。
「遥子は、母親を亡くしてから、ふさぎがちになったそうです。それでも何とか教師として務めを果たしていたし、友達と気晴らしに遊びに行ったりもしていた。僕が彼女に会わなければ、きっと幸せでいられたと思います」
「でも、あなたのおかげで、私、決心がついたんです。私が真実を話せば、遥子さんも自分を取り戻してくれると思います。連れてってくれませんか、遥子さんのところへ」
彼女の瞳を見て、僕は暗い沼の向こうにある森から、一筋の光が差し込んでくるのを感じた。
「わかりました。一応、面会できるか聞いてみましょう」
彼女はこっくりと頷くと、僕と並んで坂道を下り始めた。
並んで歩くと、背丈はほとんど変わらなかった。彼女の横顔には、教育者の娘としての品格のようなものが感じられた。しかし、それは彼女が自分自身に課した足かせのようなものかもしれなかった。
14
丘の上にある総合心療センターに着く頃には、陽が傾きかけていた。
「僕はここで待っています。遥子は面会に来て欲しくないようなので」
「遥子さんの気持ちもわかります。だってお化粧もしてないし、パジャマ姿なんでしょう。好きな人に見られたくないのは当然だと思います」
僕は待合室の椅子に腰をかけた。受付の女性が、彼女を通路へと誘った。リノリウムの床を、背筋をまっすぐ伸ばして歩いてゆく彼女の姿に、先程見たもろさはもうなかった。むしろ僕自身の方が自分の弱さを全身で感じていた。
彼女が戻ってくるまでの間、僕は煙草を吸ったり、窓から景色を眺めたりした。左手の奥の方に校舎が見えた。三階建てのその建物は、皮肉なことに遥子が通っていた高校だった。片道一時間半もかけて通った高校で、遥子はどんな三年間を過ごしたのだろうと思った。姉と父の死を心の中で引きずりながらも、山下やクラスメイト達に暖かく見守られて、遥子はごく普通の生徒として過ごしたに違いないと思った。
ふと時計を見ると、彼女が面会に行ってから三十分近く経っていた。僕は通路の方に目を向けた。壁にはパステル調の絵画が飾られていた。田園風景を描いた絵の中で少女が後ろ姿を見せていた。長い髪を肩まで垂らした少女の背中には、何の重荷も背負われていないように見えた。少女は丘の向こう側に何があるのか期待に胸を膨らませているようだった。今にも少女は走りだしてゆきそうだった。
僕が何本目かの煙草に火をつけた時、通路の向こうから彼女が歩いてくるのが見えた。僕は深く椅子に座り直した。灰皿には吸い殻が山のようになっていた。
「話してきました、遥子さんと」
「彼女は動揺していませんでしたか」
「ええ、静かに受け止めてくれました。本当のことを言ってくれて嬉しいと言ってくれました」
「そうですか」
「遥子さん、あなたのこと心配してました。それから、約束は忘れないって伝えて下さいって」
「とにかく、あなたのおかげで助かりました。遥子も真実を知ることができて、きっとほっとしていることでしょう」
「私のこと許してくれるかしら」
彼女の言葉は、純子に向かって放たれたように僕は感じた。
二人は病院を出て、駐車場に向かった。陽はすでに半分ほど沈んでいて、空は赤から紫へと変わりつつあった。僕は胸が少し苦しくなり、拳でトントンと叩いた。早く夜になってくれないかと僕は思った。昼間の暑さやまぶしさは平気だった。夜の暗さや寂しさも気にならなかった。しかし、夕暮れの微妙な色彩の移り変わりを眺めているのは苦痛だった。
「どうかしたんですか、幸田さん。しっかりして。遥子さんはきっとあなたのところへ帰ってくるわ」
「そうだといいんですけど」
「待っててあげて下さい。もう少しだけ」
「待ってますよ、いつまでも」
彼女を車に乗せると、僕は曲がりくねった坂道を下り大通りへ出た。
駅に着くと、彼女は礼を言って車を降りた。そして、僕の目を確かめるようにじっと見た。その瞳には輝きが宿っていた。彼女は暗い森を抜け、明るい丘を見つけたようだった。
15
九月の上旬になっても暑い陽射しが続いていた。僕はいつもより早く会社を出た。鞄の中には、突然もらった辞令が入っていた。九月十一日付で大阪本社に戻ることになったのだった。
中原市で過ごしたのはわずか半年あまりだった。まるで純子の過去をはっきりさせるために訪れたようなものだった。
夕陽は今、山の端に沈んでいこうとしていた。赤く染まった空に、今日は不思議と不安を覚えなかった。いつも夜の闇に覆われるまで会社の机にしがみついていた。僕は夕暮れを見るのが怖かった。しかし今の僕は、赤から紫に変わってゆく空をとても美しいと思った。
僕は、遥子や山下たちのことを考えた。遥子の体調はよくなったのだろうか。山下は事業をうまく成し遂げただろうか。絵美は、遠ざかってゆく若い日々に別れを告げることができただろうか。そして、浅倉の娘は父親との関係を取り戻したのだろうか。
時間はあまりなかった。引っ越しの手間も考えると、三日間の休みをもらったとはいえ、みんなに会えるのは一日しかなかった。
翌日朝早く、僕は山下の家を訪ねた。母親が出て来て、彼は仕事場に行っているということだったので、学校まで車を走らせた。
完成した小学校の庭園の入り口で、山下は両手を後ろ手に組んで、自分の作った庭を眺めていた。
「おう、広之じゃないか」
振り返った彼の笑顔には、以前と同じ親しみが込められていた。
「転勤することになったんだ。大阪に」
「もう転勤か。まだこっちに来て半年も経ってないじゃないか」
「ああ、何をしに来たのかわからないくらいだ」
そう言いながらも僕の脳裏には、純子と遥子の姿が浮かんでいた。
「遥子の調子はどうだ」
「よくなっているらしい。でもまだ退院はできないらしい」
「見舞いには行ってるのか」
「来て欲しくないって言うんだ」
「そうか、遥子らしいな」
そう言って山下は苦笑いをした。僕はかすかに嫉妬を覚えた。
「明後日には大阪に戻る。だからお前に会いに来たんだ」
山下はごつごつした大きな右手を差し出した。握りしめると満面の笑みを浮かべて彼は言った。
「遥子を待っていてやってくれ。あいつを幸せにしてやれるのはお前しかいない」
車の止まる音がして振り返ると、ショートカットの浅黒い顔をした小さな女の子が降りてきた。山下に向かって彼女は手を振っていた。
「俺、あいつと結婚するんだ。今年の十一月に。お前も来てくれるだろ?」
山下は彼女を呼び寄せるように手招きした。
「奈美って言うんだ。うちの会社で事務をやってる」
僕は彼女に軽く会釈をした。
「初めまして、奈美です」
「おめでとうございます。幸田と言います。結婚式にはぜひ出席させていただきます」
「よろしくお願いします」
彼女はペコリと頭を下げた。Tシャツにジーンズというラフな格好がよく似合っていた。
「親父に説教されたよ。会社の女に手を出すなんて最低だって」
「いいじゃないか。社内恋愛だろ」
「従業員三人の会社だけどな」
山下が笑うと、奈美も甲高い声で笑った。その声が空に向かってはしゃぎ飛んでゆくように僕には思えた。
「遥子の席も用意してある。もちろんお前の隣だ」
僕は胸に熱いものが流れるのを感じた。
「いい庭ができたな」
「うん。百パーセントとはいえないが自分でも満足している。浅倉先生にも見てもらいたかった」
「先生どうかしたのか?」
「脳梗塞で倒れられた。二ヶ月前のことだ。今はお嬢さんがつきっきりで看病されているみたいだ」
「そうか、それで……」
「どうかしたのか」
「いや、何でもないんだ」
それから、僕はヨットハーバーまで車を走らせた。
車を降り埠頭まで歩いてゆくと、日傘を差して立っている女性がいた。ゆったりとしたワンピースを着て、海の方をじっと見ていた。彼女の見つめる方に小型のモーターボートが走っていた。
「絵美ちゃん」
僕が声をかけても彼女は振り返らなかった。仕方なくそばまで近づいてゆくと、彼女は独り言のように話し始めた。
「私妊娠してるの。三ヶ月よ。向こうにいるのはダンナ。もう、昔の仲間と遊ぶのもやめたわ」
「俺は転勤になった」
「そう、寂しくなるわね」
絵美は横顔を見せたまま無表情に言った。
「君がか」
「まさか、遥子のことよ」
絵美はそう言うと、埠頭の先まで歩いていった。
「バカ。そっち言ったらだめだっていってるでしょ」
大きな声で、モーターボートに向かって彼女は叫んだ。そして、片方の手だけで、僕に向かって手を振った。
僕が病院に着いたのは夕方だった。受付の女性に、引っ越し先の住所と電話番号を書いたメモを差し出し、遥子に渡して欲しいと言った。女性はそれを二つ折りにして小さな封筒に入れると、「おあずかりします」と小さな声で言った。
16
大阪に戻って一週間ほどしてから、遥子の手紙が届いた。
広之さん、お元気ですか。
私は今月末に退院する予定です。
しばらくは家でゆっくり過ごしながら、週に一回通院することになると思います。教員生活には終止符を打ちました。これから時間をかけて自分が本当にしたいことを探してゆくつもりです。
広之さんが最後に病院に来たとき、私、近くにいたんです。声をかけようかと迷いました。でも、今はまだ見ているだけにしようと思いました。あなたの横顔を見ていると何だかとっても気持ちが安らぎました。ドアを出て駐車場へまっすぐに歩いてゆくあなたの後ろ姿を、夕陽が赤く染めていました。何だか、あなたが随分逞しくなったように見えました。
ところで、この手紙は姉の筆入れに入っていたFの鉛筆で書いています。気づきましたか?一本の鉛筆がきっかけでいろんなことがありましたね。でも、私達、もっと他に話すべきことがいっぱいあったと思います。十一月に山下さんの結婚式で会えるのを楽しみにしています。その時は少しでいいから未来の話をしましょう。広之さんはこれからどうしたいの? 私はしたいことがいっぱいあります。
それでは、また手紙を書きます。今度は自分のペンで書きます。体には十分気をつけて。仕事も無理しないで下さいね。
See you
遥子
机の引き出しに遥子の手紙を入れると、僕はそこから一本の鉛筆を取り出した。純子にもらった鉛筆は、高校の頃にほとんど使い果たしてしまったが、最初にもらったのだけはとってあった。握りしめると、あの時の純子の笑顔が思い浮かんだ
(了)