6
もう遥子を惑わせるようなことはしないと心に誓ったものの、自分なりに純子のことを調べたいという気持ちに変わりはなかった。僕はたった一人で調べることにした。
翌日、絵美に電話をかけた。同窓会の参加者名簿をもらったので、それを見て電話したのだった。結婚している女性に電話をかけるのはためらわれたが、もし万が一、絵美以外の人間が出たら、同窓会の連絡ということにするつもりだった。運よく彼女が受話器を取り、聞きたいことがあるというと、喜んで会うと言ってくれた。
中原市の外れにある上品な喫茶店で僕は彼女を待っていた。絵美はこの近くのスーパーでよく買い物をするらしく、わざわざそこを指定してきたのだった。店内は若いカップルで一杯だった。観葉植物があちこちに置かれ、テーブルや椅子もイタリアからわざわざ輸入したものらしかった。
二十分くらい待って、絵美がようやくやって来た。これからスーパーに買い物に行く主婦とは思えないような明るいグリーンのスーツを着ていた。
「広之君から電話がかかってくるなんて思ってもみなかったわ」
彼女はバッグを置いて足を組んだ。
「迷惑だったかな」
「そうじゃないんだけど、今度からは携帯の方に電話してくれない?もし私に会いたいのなら」
彼女はメモ用紙に携帯の番号を書いて差し出した。それから、髪をかき上げてシルバーのイヤリングをちらっと見せた。
「週末には、昔の仲間とマリーナで遊んでるの。広之君も来ない?スカッとするよ」
「ボートを持ってるのか」
「みんなでお金を出しあって買ったのよ。釣りをする子もいるけど、私はただ乗っているだけで十分。気持ちいいよ、潮風に吹かれながら昼寝するの」
「じゃあ、今度行ってみるよ」
「来る前に電話してね。そうそう、聞きたいことがあるって言ってたけど、何だった?」
「純子のことなんだ」
瞬間、絵美は顔を曇らせた。
「純子の何が知りたいの?」
「中学の時、誰と仲が良かったか教えて欲しいんだ。君は三年間ずっと一緒のクラスだっただろ?いろいろ知ってると思うんだけど」
「何でそんなこと聞くの」
「僕は同窓会で純子に会えると思っていた。それが、あんなことになっていたなんて。それで、せめて純子がどんな人生を生きていたのか知りたいと思って」
「あなた、純子に惚れてたの?」
「まあ、そういうことになるかな」
「ああいう女って、もてるのよね。男って単純だから、中身までよく見ないのよね」
「中学の時の友達を教えて欲しいんだ」
「そうね、あの子少し変わってたから、あんまり仲のいい子はいなかったみたいよ」
「高校は?」
「あの子、高校は行ってないのよ。大検を取って大学に行ったの」
「受験に失敗したのか?」
「ううん、試験を受けなかったのよ」
「どうして?」
「合格は確実だって言われてたみたいだけど、なにせ、試験の当日になって会場に行かなかったんだから。後で聞いたら映画を見に行ってたって言うのよ。わけのわからない子だったわ」
「じゃあ、ずっと自宅で勉強してたのかな」
「そうじゃないの?あんまり私達とは会いたがらなかったから。でも事故にあう前に、一度だけ同窓会に来てたわ。随分派手になってたな。まあ、東京へ行ったんだからそうなるのは当然かもしれないけど。ああいう子って彼氏ができると突然変わったりするからね」
「どんな様子だった?」
「様子って?」
「例えば何か心配事があるみたいだとか」
「そんなふうには思わなかったわ」
「そうか」
僕は絵美から視線を外して窓から外を眺めた。陽射しが少し傾いてきたようだった。
「じゃあ、純子をよく知っている人間はこのあたりにはいないわけだ」
「そうね……。ああ、一人いるわ。あなたもよく知ってる人よ」
「誰だ?」
「山下さんよ」
絵美はあざけるような表情をしていった。
「あの人、純子のこと追いかけて東京まで行ったのよ」
僕は自分の耳を疑った。
「でも、山下は妹の遥子さんと付き合ってるじゃないか」
「純子に振られたから妹の方に行ったんじゃないの?」
絵美は腕時計をちらっと見た。
「もうこんな時間。悪いけど、あたし買い物があるからもう出るわ。あなたは後で出てきて。一緒に出るところを近所の人にでも見られるとまずいから」
「ああ、ありがとう。話をしてくれて」
「じゃあね。それにしてもあなたも暇な人ね。純子のことなんか調べてどうするの。伝記でも書くつもり?」
「いや、気になることがあるんだ」
「純愛?」
「さあ、どうかな」
絵美は見下げたような微笑みを浮かべると店を出ていった。
山下が純子を追いかけて東京まで行った。僕は不意打ちを食らった気持ちだった。僕はしばらく喫茶店の中で考えた。中学の頃、山下が純子と一緒にいるところなんか見たこともなかった。二人の間には何かあったのだろうか。もし山下が純子に思いを寄せていたのだとしたら、どうして自分に何も言わなかったのだろう。
7
僕が店を出るころには空は赤く染まっていた。
夕暮れ。僕は、昔からこの時間帯があまり好きではなかった。何故かわからないが胸が苦しくなり、不安に襲われるのだった。
僕は駐車場まで足を引きずるようにして歩いた。
山下ともう一度話し合わなくてはならない。そう思いながら車を走らせていると、バス停に一人で立っている遥子の姿が目に飛び込んできた。僕は車を止めて彼女に呼びかけた。
振り向いた彼女の潤んだ瞳に、僕は吸い込まれそうになった。
「ちょっと、友人と会っていたんです。よかったら、駅までお送りしますけど」
「すみません、助かります」
遥子は助手席に乗り込んだ。
「仕事ですか、休日に」
「ええ」
遥子はそれ以上何も言わずにいた。夕陽がまぶしくて前が見にくく、僕は手をかざしながら運転した。遥子の横顔が少しやつれて見えた。慌てて出かけてきたのか化粧もしていないようだった。
「学校の先生も大変ですね。休みがあってないようなもので」
「生徒がスーパーで万引きしたんです。それで学校に電話があって、担任の私が呼び出されたんです」
「そうですか」
「大人しい子なのに、あんなことするなんて」
「他の子にやれって言われたんじゃないですか」
「さあ、どうかしら」
遥子の声は、霧の中を漂っているみたいにフワフワしていた。
「先日、山下と二人で飲んだんです」
「山下さんと?」
遥子は、突然現実に戻ったように僕の方を見た。
「遥子さんが僕と話をしたことで落ち込んでいると聞きました。純子さんのことをあれこれ調べてどうするんだというようなことを言われました。もうあなたとは会わないって約束したんです。あなたを苦しめることになるから。でも、会ってしまった」
遥子はふっと笑ったような気がした。それが諦めなのか嘲りなのか、それとも悲しみなのかはわからなかった。
「あの人、私に隠していることがあるんです」
「山下が、ですか?」
「私、連休前に姉の事故の事を調べてみようと思って、図書館へ行って古い新聞を探したり、警察で当時の書類を見せてもらったりしたんです。刑事さんは、何で今頃?、っていうような妙な顔をしてました」
僕は車のスピードを少し落とした。
「姉が亡くなった時、私はまだ中学生でした。だからかもしれないけど、周りの人は詳しいことを何も教えてくれなかったんです。車の事故で姉と父が亡くなったということ以外は」
「何かわかりましたか」
「山下は、事故の直前に、父の運転する車を見ていたんです。姉は父に向かって腕を振り回し、何か叫んでいたようです」
僕は目まいを覚えた。車を脇に寄せて止めた。腕を振り回す純子、ハンドルを取られて慌てる彼女の父親。迫ってくるガードレール。映像の断片が僕の頭の中で交錯した。
「私は子供じゃないんです。つらいことや悲しいことがあるって事は知ってるんです。姉のことを忘れて毎日楽しく過ごすことが大切だとは思いません。私は事実と向かいあいたいんです。それを皆して、はれ物に触るみたいに……。何だか私、ばかにされてるみたいで……」
「あなたはお姉さんとお父さんを同時に失ったんです。山下は優しいやつだから、あなたの傷が一日でも早く癒えるようにと、あいつなりに考えて、そのことは黙っていたんじゃないでしょうか」
遥子は首を左右に激しく振った。
「私、お葬式の後、あの事故の場所に一人で行ったんです。あんな見通しの良いところで、どうして父が運転を誤ったのか不思議で仕方ありませんでした。でも今わかったんです。姉は父の制止を振り切ってハンドルをわざと左に切ったんです。二人とも死んでしまうために」
「そんなことは考えちゃいけない」
「いいえ、考えなきゃいけないんです。真実を知るためにも」
周囲は陽が落ちて、闇が近づきつつあった。
僕は車のエンジンをかけ、ヘッドライトをつけた。道路に白い影が浮かんで消えた。
「幸田さん、お願いがあるんです。もしお急ぎでなかったら、姉が事故にあった場所に一緒に行ってもらえませんか」
「ええ、いいですよ。山下との約束は破ることにしましょう」
「今から行きたいんです。ご迷惑でなければ」
市街地を抜けると、しばらく両側に田畑が続いた。遥子は助手席で窓の外を眺めていた。横顔にはまだ幼さが残っていた。大切にしたい、傷つけたくない、そんな気持ちを山下が持つのも当然に思われた。
再び町並みが見えてきた。来春オープン予定と書かれた美術館を右手に見ながら進むと、スカイラインへ向かう道路が見えてきた。
そこから、純子が事故にあった場所までは、わずか五分足らずだった。対向車は一台も通らなかった。街灯が道路を明るく照らし、道幅も十分広かった。
その時純子は父親に向かって腕を振り回し、何を叫んでいたのだろう。いつもは穏やかな彼女が、顔を醜く歪ませ、歯をむき出しにして、ハンドルを必死につかもうとする父親を死へ誘ったのだろうか。それを見た山下は何を感じたのだろう。ただの親子喧嘩に見えたのだろうか。それともあまりにも恐ろしくて、無意識に記憶を消し去ろうとしたのだろうか。
「姉はたまに、ほんのたまにでしたけど、ものすごく感情的になることがあったんです」
遥子の声は闇の中から響き渡ってくるように聞こえた。
「いつもは、笑みを浮かべながら話すんですけど、それが突然別人みたいになるんです」
「僕には想像できません」
僕はそう言いながらも、あの社会見学の時の純子のことを思い出していた。場所取りをしようとした男子生徒のバッグを投げ捨て、甲高い声で彼女は叫んだ。『あなた達、そんな卑怯なことしちゃだめじゃない』
「幸田さんは、姉の大人しい部分しか知らないと思いますけど」
「ええ」
「姉はとても気性が激しかったんです。普段はそれを無意識に押さえ込んでいたようですけど。あっ、ここだわ」
遥子の言葉に僕はスピードを落として車を路肩に止めた。
「このガードレールを突き破ってあそこにある木にぶつかったんです」
今では何事もなかったかのように木々はまっすぐに伸びていた。僕はエンジンを切らずにパーキングライトをつけて車を降りた。赤いライトがチカッチカッと光って木々の葉を照らした。
遥子は僕に寄り添うように歩いた。冷気が二人を包んだ。
「寒くないですか?」
「ええ、平気です」
遥子の表情には少し落ち着きが戻ったようだった。引きつっていた顔が丸みを帯びてきた。
「山下があなたに何も言わないでいるのは、やはり、あなたを不安にさせたくないからだと思います」
遥子は答えなかった。そして一本の木の肌に手を添えて独り言のように言った。
「この木に触れていると姉の声が聞こえてくるような気がするんです」
僕は耳を澄ませた。しかし虫の鳴き声と、川のせせらぎがかすかに聞こえるだけだった。
「山下と純子さんは仲が良かったのでしょうか」
「つきあっていました」
遥子は当然のことのように言った。
「いつ、ですか」
「姉が中学を卒業してから東京へ行くまでの間だったと思います。つきあっていたと言っても、恋人同士ではなかったと思います。時々デートして話をするくらいで……。田舎ですから、その程度でも、つきあっているってことになってたみたいです。私から見れば、単なる男友達としか思えませんでしたけど」
僕は、自分がずっと心の中で暖めていたものが、書き割れのように崩れ落ちるのを感じた。自分だけが取り残され、舞台の下からあんぐりと口を開けて残骸を観ているような気がした。
「でも、姉はずっと誰か別の人のことを好きだったと思います。私にはなんとなくわかるんです。その人が幸田さんだったってことも」
遥子は木から手を放して僕の方に歩いてきた。彼女の瞳が星の光のようにキラッと光った。僕は彼女の腕をそっとつかんだ。一瞬のためらいの後、遥子を自分の腕の中に抱いていた。彼女の胸の鼓動が伝わってきた。それはパーキングライトの点滅に合わせるように脈打っていた。
「僕の記憶の中にいる純子さんは、僕が自分で作り上げた偶像だったのかもしれません。その証拠に、僕は彼女のほんの一部分しか知りません」
「それでも、幸田さんは姉と心を通じ合ってたんです。たとえそれが数ヶ月の間だったとしても。それに、何もかも知っていても心が通じ合わない場合だってあるでしょ」
「それは、そうだけど」
「人を好きになるってどういうことかしら。私にはよくわかってないみたい」
遥子は僕の腕の中で言った。僕は彼女の背中をそっとなでながら純子の命を奪った木をじっと見た。
「ごめんなさい。もう随分遅くなってしまったみたい。そろそろ帰らないと。幸田さん、明日から仕事ですよね」
「大丈夫ですよ。いつも夜更かししてますから」
遥子は僕の胸から自分の体を放した。
「実は今日、川田絵里に会ってたんです」
「川田、さん?」
「この間の同窓会で会ったんです。純子さんが亡くなったことを教えてくれたのも彼女なんです。それで、もう少しいろいろと聞きたいなと思って」
「何かわかりましたか?」
「親しかった友達が誰なのか聞いたんです。でも、あまりそういう人はいなかったみたいですね」
「姉は一人でいるのが好きでしたから」
「彼女から聞いたのは、純子さんが東京へ行った時に、山下が後を追いかけて行ったということだけでした」
遥子は、ふっと言う声を出して笑った。
「山下よりも、姉の方がずっと大人でした。東京へ行ったら向こうでボーイフレンドを作るつもりだったんでしょう。時々会ってデートするだけのボーイフレンドをね」
「純子さんはどうして受験を拒否したんですか?」
「さあ、本当のところは私にもわかりません。ただ、父を激しく罵っていたのを覚えています。母はただ隣でおろおろするだけで、私は自分の部屋へ行かされました。後になって姉に聞いたんですが、ただ、気が変わっただけよと言って微笑んでました。私も、それ以上は聞いても仕方ないと思ったのでやめました」
僕はパーキングライトを消して、ヘッドライトをつけた。滑らかにカーブする道路が目の前に浮かび上がった。
「大学時代に親しかった人はいないんでしょうか」
「そういえば、お葬式の時に、一人だけ東京から来ていた人がいたみたいです」
「男性ですか?」
「女性だったと思います。忌明けにお礼を送るときに気づいたんです。東京から来る人なんて他にはいませんでしたから」
「その人の連絡先はわかりますか?」
「ええ、家に行けば、たぶん」
僕は車を三差路でUターンさせた。街の明かりが一気に僕の目に飛び込んできた。扇形に広がる夜景は遠くコンビナートの方まで続いていた。
「きれいな夜景ですね」
「ええ、でも今の私には、何だか冷たい光に思えて仕方ありません」
8
次の週末に、僕は遥子と二人で東京へ行った。純子の葬儀に来てくれた女性は今も同じところに住んでいた。山手線のとある駅から歩いて十五分くらいのところに彼女のマンションはあった。ドアを開けてくれたのは、ほっそりとして目鼻立ちのはっきりした女性だった。濃い眉と切れ長の目が印象的だった。どことなく緊張している様子だった。
「純子さんとは入学式の時に知りあって以来仲良くしてました」
彼女は紅茶を二人に勧めながらそう言った。一DKの小さな部屋は小奇麗で、明るい色でまとめられていた。
「でも、本当の意味で心を開いてはくれなかったような気がします。彼女の中には私の知らない部分があって、そこには絶対触れさせてくれなかったんです。ただ、彼女と一緒にいるととても落ち着くし、私のことを静かに受け止めてくれるので、私にとっては大切な友人の一人でした」
「付き合っている男性はいましたか?」
「こちらにはいなかったと思います。でも、地元の方にいたんじゃないでしょうか」
僕と遥子はお互いの顔を見合わせて首をかしげた。
「純子さんは、毎週地元に帰ると言って出かけてましたから」
「でも、姉は家にはめったに帰りませんでした。土日はバイトがあるからと言って、夏休みとか、冬休みとかに二、三日ぐらいしか」
「だから、地元の恋人のところに行ってたんじゃないでしょうか。思い当たる人はいませんか?」 逆に質問されて、二人は戸惑った。
「確か、いつも土曜日の昼頃には出かけて、日曜の夜遅くに帰ってきていました。帰りには時々この部屋に寄ってくれたんです。彼女のマンションもここから近かったですから」
「姉はその男の人について何か話しましたか」
「最初の頃は何も話してくれませんでした。どんな人なのって聞いてもただ口元をほころばせて笑っているだけで。でも、一度だけ、まじめな顔をしてこんなことを言いました。あの人をずっと苦しめてやるのって」 彼女はまるで自分のことのように感情を込めた声で言った。
僕は胸に大きな石が投げ込まれたように感じた。おそらく遥子も同じように感じていたに違いなかった。飲みかけの紅茶を置くこともできずに彼女は手を震わせていた。
「それと、こんなこともありました。私が借りた本を返そうと彼女のマンションに行った時でした。友達が来てるけどよかったら入ってと言って彼女はドアを開けたんです。私は遠慮して帰ろうと思ったんですけど、彼女は強く私の腕を引っ張って、中に入って、と言いました。部屋には随分派手な格好をした同世代の女性がいました。確かエミちゃんて呼ばれてました。純子さんにとっては早く帰って欲しい相手みたいでした。だから私を無理に部屋に誘ったんでしょうね。その子は私の姿を見るとそそくさと帰り支度を始めたんです」
僕は自分の心がぐるぐると回転するように感じた。何故、絵美が純子を訪ねてわざわざ東京まで来たのか。何も知らないと言いながら、絵美は何かを知っているのか。もしかしたら、それは山下にもつながっていることなのではないか。しかし、いくら考えても、壊れた万華鏡のように、どこから見てもすべてがばらばらに見えた。
「姉が事故を起こす前に、何か変わったことを言ってはいなかったでしょうか」
「そうですね……。就職してからは、お互い忙しくて、あまり会う機会もなかったんです。だから、彼女が帰省したことも知らなかったんです」
「そうですか、どうもすみませんでした」
「お役に立てなくてすみません」
「いいえ、お忙しいところ、ありがとうございました」
僕は、二人のやり取りをぼんやりと聞いていた。
9
どこをどう歩いたのか記憶もなく、いつの間にか新幹線に乗っていた。
二人はしばらく無言のままだった。遥子は窓の外を流れてゆく闇を見ては吐息をついていた。やがて、新幹線は浜松を通り過ぎた。
「何だかとても疲れましたね」
遥子はそう言った。額にかかる髪がほつれ、まぶたの下が少し腫れていた。
「付き合わせてしまって、ごめんなさい」
「とんでもない。僕の方から行こうって言ったんだから」
遥子は目を閉じて眠り始めた。右左と頭を揺らせながら僕の肩にもたれかかった。香水の香りが漂ってきた。一週間前、純子が亡くなった場所で遥子を抱きしめたときと同じ香りだった。
僕は目を閉じて考えた。純子は一体誰に会いに行っていたのだろうか。まじめな顔をして、苦しめてやるなどという言葉を口にする純子を僕は想像できなかった。山下は、東京へ行ってから純子は随分きれいになったと言っていた。山下は、純子が毎週のように誰かに会いに帰ってきていたことを知らなかったのだろうか。純子が大人っぽくきれいになったのは東京で彼氏ができたからではなかった。真綿で締めつけるように毎週毎週会いに来て苦しめる相手をこの地元で見つけたからだった。
しかし、それは本当に憎しみだけだったのだろうか?愛するという言葉の変わりに彼女は苦しめるという言葉を使っていたのではないだろうか?
そして絵美はどんなふうに関わっていたのだろう。同窓会の時に、まるで他人事のように純子の死を僕に告げた絵美。山下が純子を追いかけて東京まで行ったと言いながら、自分も実はわざわざ彼女のアパートを訪れていた。その理由は一体何だったのだろうか。とても仲が良かったとは思えない二人が一体何を話していたのか。
僕はますます純子のことがわからなくなった。僕が心のなかで大切にしてきた幼い純子は、本物の彼女ではなく、想像で作り上げたものに過ぎないことが今はっきりした。
名古屋に着いた頃には九時を過ぎていた。遥子は笑顔を見せながらも疲れを隠しきれないようだった。二人は高速バスの乗り場に向かった。バスに乗って三十分程で、僕の車が置いてある駐車場に着いた。
「幸田さん、お願いばかりで申し訳ないんですけど」
車に乗ってから遥子は言った。
「絵美さんと、山下さんと、私と幸田さんの四人で会う機会を作っていただけませんか?」
「そうですね。そうすればはっきりしたことがわかるかもしれませんね」
「すみません、お願いばかりで」
「いいんです。僕もこの町にいる間に、事実を知りたいと思ってますから」
「姉のことをずっと思って下さってたことがよくわかります」
ずっと、という言葉が、僕の心に引っ掛かって揺れていた。
僕は左手でそっと遥子の手を握った。遥子のことが欲しいと思った。
「僕と付き合ってくれませんか」
僕の左手の中で遥子の右手が硬くこわばった。道路には数台の車しか走っていなかった。
「どうして私と?私には姉の代わりは出来ません」
「代わりじゃないんです」
信号が黄色から赤になる瞬間、僕は交差点を突き抜けるように車を走らせた。
「両手で運転して下さい。危ないから」
遥子は甘えるような声で言った。
繁華街を通りすぎて、遥子の家へ向かう道に曲がろうとしたときだった。一件の居酒屋から見慣れた人影が出てきた。山下だった。彼に続いて初老の恰幅のいい男が出てきた。僕は一瞬山下と目が合ったような気がした。
「浅倉先生だわ」
「浅倉か。校長になったそうですね」
「でも、随分前に離婚されて、今は一人暮らししてみえるそうですよ。確か娘さんが一人いて……」
「家庭的には失敗したのかな」
「山下さん、先生とどういう関係なのかしら」
「さあ、わからないな。同窓会の時はあまり親しそうにはしてなかったけど」
「見られたわね、私達」
「そうかな?」
僕はわざと否定しようとした。しかし否定できないのは心の奥でわかっていた。
「かえって見られてよかったわ。もう説明する必要もないから」
僕は手に汗がにじむのを感じた。
遥子の家の前に車を止めると、彼女は「ありがとう」と行って僕の頬にキスをした。
「今日のお礼よ」
そう言うと彼女は照れ笑いをして玄関の方に走っていった。
10
帰り道、僕は山下がどこかで待っているような気がした。案の定すぐ近くの車寄せにウインカーを灯している車があった。山下は外に立っていた。僕はゆっくりと車を止めて降りた。
「随分遅かったじゃないか。遥子とどこへ行っていたんだ」
「東京まで行ってきた。純子の大学時代の友達に会いに」
「あれほど約束したのに、お前はまた遥子を苦しませる気か」
「苦しませてなんかいない。本当のことを知れば、彼女もふっ切れると思うんだ」
「お前を見損なったよ。この間の約束を簡単に破るなんて」
「お前にそんなことを言われる筋合いはない。お前はいくつも嘘をついていた」
「なんのことだ」
「事故にあう直前の純子を見たそうじゃないか。遥子が警察まで行って調べてきたんだ」
フウッと山下は息を吐いた。そしてズボンのポケットに両手を突っ込んだ。
「確かに見たよ。純子は親父さんに向かって腕を振り回して何か叫んでいた。でもそれがなんだっていうんだ。ただの親子喧嘩じゃないか」
「ほんとにお前にはそんなふうにしか見えなかったのか」
一瞬の沈黙の後、山下は空を仰ぎながら言った。
「おれは、あの時、純子が死ぬつもりだったんじゃないかと思った。だから、途中でUターンして戻ってみたんだ。でももう遅かった。遠くからでも燃えているのがわかったんだ」
「何故、そんな大事なことを遥子に言わずにいたんだ」
「そんなこと言って誰が喜ぶんだ。あれは事故だったんだ。純子の振り回した手がたまたまハンドルに当たって、親父さんは慌てたんだ。事故と自殺じゃ家族の受ける悲しみも違う」
「そういう理屈で自分を騙し続けてきたのか」
「おれは、遥子を大切にしたかった。それだけのことだ」
「お前は優しいやつだからな」
「いや、不器用なだけさ」
山下はポケットから煙草を取りだして火をつけた。
「中学の頃、俺は純子が好きだった。お前が転校していってから、あいつと仲よくなって、時々デートもした。でも純子は俺の方を向いてはいなかった。いつもどこか違うところを見ていた。それがお前だったのかどうかはわからない。それでも構わなかった。高校受験をやめて一人で勉強している純子を励ましてやれればそれでよかったんだ」
「お前は嘘をついている」
「どういうことだ」
「ほんとは純子を抱きたかったんだ。それなのにきれい事だけを言っている」
「そうかもしれないな」
「純子が東京の大学に行くとき、お前は純子の後を追っていった」
「確かに東京駅まで一緒に行った。でもそれだけのことだ。俺はそのまま帰ってきた。純子と駅の構内にある喫茶店でお茶を飲んだ。たまには田舎に帰ってこいよって言うと、純子はうっすらと笑っていた」
「そうだったのか」
山下は煙草を捨てると右足でもみ消した。そして、僕に背を向け、夜のとばりに包まれた町並みに語りかけるように話した。
「俺は純子のことが好きだった。純子が死んだから遥子とつき合い始めたんじゃない。死んだ純子のためにも、遥子には明るく生きて欲しいと思って……。おれは、間違ってたのかもしれない。遥子の中にいつも純子を見ていた。遥子はそれを知っていたんだ。お前は違う。お前の中の純子はただ優しげに微笑んでいる純子だ。それは、本当の純子じゃない」
「確かに、俺が知ってるのは純子のほんの一部分だ。それでも俺は純子のことがずっと気掛かりだった。ずっとっていうと嘘になるかもしれない。今まで同窓会にも顔を出さず、手紙を書いたり電話をしたりすることもなかった。別の女と付き合ってもいた」
「違うんだ、広之」
振り返った山下の目から涙が一筋流れ落ちた。雨が山の方から近づいて来る音が聞こえた。
「正直言って、俺は純子についていけなかった。あいつは、ちょっと気に障ることがあると叫び声をあげて暴れることがあった。受験のストレスからくるんだろうとは思っていたが、そうじゃなかった。あいつの中にある何かが突然暴れだすんだ。それが何なのか、俺には分からなかった。だから、純子と東京駅で別れた時、俺はほっとしたんだ。でも、純子への思いは変わらなかった。不思議だ。今でもあいつのことが好きなんだ」
雨がにわかに背中に当たったかと思うと、激しい降りになってきた。
「俺が言いたいのは、本当の純子を知らないからこそ、お前の方が遥子を愛せるっていうことだ」
「山下、おまえ」
「俺はもう帰る。浅倉先生から仕事をもらったんだ。うちの会社が大きくなるチャンスなんだ」
山下は車に乗り込んだ。僕は雨しぶきの中に消えてゆく車のテールランプをずっと見ていた。
(つづく)