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筑紫倭国伝

神籠石(こうごいし)



 「記紀」の編纂は、万世一系の大和(ヤマト)王朝支配を創作するためのものであったから、倭国の都である「太宰府」造営の記録など記すことはなかった。同様に大和(ヤマト)王朝以外の勢力が造営した城郭の記事など記すこともない。これが北部九州に残された「謎の神籠石(こうごいし)」の由縁である。


御所ヶ谷神籠石 御所ヶ谷神籠石

 標高247mのホトギ山から西に伸びる尾根の北斜面に全長約3kmにおよぶ列石が確認されている。列石が谷を渡る部分は排水口を備えた石塁が築かれている。写真は7つある城門の中門に併設する石塁と水門。
 福岡県京都郡みやこ町大久保


 神籠石とは、『日本書紀』・『続日本紀』等に記録されない古代山城のことで、正しくは「神籠石系山城」という。山の中腹に、0.7立方メートルほどの整形した石を並べ、これを前面の基礎にして、上に土塁を築いたものである。延長は約2~3kmにおよぶ。列石が谷を渡る部分は排水口を備えた石塁が築かれ、城門も備えている。


 神籠石という名は、福岡県久留米市の『高良大社縁起』にあり、これを明治三十一年に小林庄次郎が、「神籠石」として列石遺構を紹介したことから、広く知られるようになった。


高良山神籠石 高良山神籠石

 耳納山脈西端の高良山山頂に立つと筑紫平野全体が眼下に広がる。高良大社は西暦400年の創建で、奥宮は「高良廟」・「御神廟」と称し武内宿称の葬所と伝わり、高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。
 福岡県久留米市高良内


 神籠石が高良大社内にあることや、神籠石という名称に影響されて、小林庄次郎は「霊地の境界石であろう」と述べた。ところが、明治三十三年(1900年)に八木奘三郎が「城郭を除いて他に、この類の大工事は考えられない。築造年代は、古墳石室の構築法との比較から推古朝(七世紀初)以前」と調査報告を出したことから、以後「神籠石論争」が開始されることになった。


 昭和三十五年(1960年)佐賀県武雄市で「おつぼ山神籠石」が発見され、発掘調査の結果、列石上に幅9mの版築土塁と、列石前面に3m間隔で並ぶ掘立柱穴が発見された。その後、帯隈山神籠石・女山神籠石などでも土塁と列石前面の掘立柱穴が確認され、神籠石は古代山城説で決着することになった。


おつぼ山神籠石 おつぼ山神籠石

 半世紀以上も続いた「神籠石論争」は、この遺跡の発掘調査によって決着することになった。列石の総延長は1.87kmで、高さ約70cmの方形に切りそろえられ、現在1313個が残存している。
 佐賀県武雄市橘町小野原


 半世紀以上の論争を経て、神籠石は古代山城説に決着したが、築造年代については未だ解明できていない。神籠石は、その築造法の統一性から、ほぼ同時期に造られたと考えられる。調査した鏡山猛(九州歴史資料館初代館長)は、列石前面の3m間隔で並ぶ掘立柱穴から、唐尺使用の開始する7世紀中頃以降の築造とした。


 列石前面の3m間隔で並ぶ掘立柱穴は、土塁を築くための工事用柱穴である。これに3.5~4mの木材を横に渡し縛って足場を造り、急斜面の版築土塁を築き上げた。3.5~4mの木材は人力で扱える最大長さで、これ以上長いと重くて扱えない。梁材としての強度も、これ以上長いと木材のたわみや折損のおそれがあり、上部で安全に作業が行えない。そうしてみると掘立柱の3m間隔は、必然的に出てくる数値である。


 八木奘三郎は、古墳石室の構築法との比較から、神籠石の築造年代は推古朝(七世紀初)以前とした。この考証は、その後どうなったのであろうか、この説のほうが合理的に思えてしかたがない。


九州の神籠石系山城の配置


 古代山城には「神籠石系山城」と「朝鮮式山城」がある。いずれも古代朝鮮式山城なのだが、『日本書紀』・『続日本紀』等に記録のない古代山城のことを特に「神籠石系山城」といい、北部九州に10ヶ所、瀬戸内沿岸に6ヶ所(播磨城山・大廻小廻山・鬼ノ城・讃岐城山・永納山・石城山)が発見されている。


 記録の残る古代の山城を単に「朝鮮式山城」といい、大野城・基肄城・金田城・屋島城・高安城がある。これらはいずれも、663年の「白村江の戦い」のあと、唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えて築いたように日本書紀が記している。


基肄城 基肄城

 唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えて築かれたという基肄城から、その侵攻ルートになるであろう博多湾はまったく見えない。眼下に広がるのは筑紫平野で、基肄城は筑紫平野の護りとして「白村江の戦い」以前から築かれていた筈である。
 佐賀県三養基郡基山町


 鏡山猛の「唐尺理論」によれば、「神籠石系山城」も「朝鮮式山城」も、唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えて築いたことになるが、「朝鮮式山城」には、いずれも神籠石という列石は見つかっていない。同時期に造られたとすれば、同じ「朝鮮式山城」でこうした違いがあるのはおかしい。それに、これだけの大工事を「日本書紀」が何も記さないというのも不自然である。


 九州の神籠石系山城の配置にも注目したい。玄海灘を渡ってくる唐・新羅連合軍の侵攻に備えるのであれば、北部沿岸(粕屋郡・宗像郡・遠賀郡・北九州市)付近にあと2~3ヶ所は在ってもよいのだが、未だに発見されていない。たぶんこの地域に防衛上の山城は築かれていない。


九州の神籠石系山城の配置


 527年の「磐井の乱」の後、筑紫王になった「葛子」は物部麁鹿火(もののべのあらかひ)糟屋(かすや)の地を割譲している。これによって粕屋から東の宗像・関門海峡に至る北部沿岸は、豊(とよ)国の物部氏の勢力範囲になっている。


 白村江の戦い(663年)以後に、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて神籠石系山城を築いたとするなら、当然この地域にも堅固な山城を築造できたはずである。しかしその存在は確認できていない。しかも、御所ヶ谷・唐原神籠石は周防灘に面し、瀬戸内海から来る敵、すなわち大和勢力に対峙して築かれた可能性がある。


鹿毛馬神籠石 鹿毛馬神籠石

 鹿毛馬(かけのうま)神籠石は、山と言うより丘陵と呼ぶ方がふさわしいほど低地にある。最も高所で標高が約76m。列石の全長は約2kmである。水門跡の調査で、7世紀前半の須惠器甕破片が出土しているらしい。
 福岡県飯塚市鹿毛馬


 587年の「丁未(ていび)の乱」で蘇我馬子(そがのうまこ)は、物部守屋(もののべのもりや)を討った。大和(ヤマト)王朝の建国から続いた大和の物部政権は瓦解して、筑紫王権の支配から脱却した。


そして蘇我馬子は、配下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って、泊瀬部(はつせべ)王(崇峻天皇)を殺害すると、二万余の軍を豊国物部の地(九州北部沿岸)に派兵し、筑紫本宗家と対峙して政権の移譲を迫った。


このときの筑紫倭王が「阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)」である。筑紫倭国は、任那・加羅諸国の防衛と復興から百済支援に、幾度となく朝鮮半島に派兵を繰り返しており、すっかり衰退しきっていた。「大和蘇我氏の乱」に抗う力はすでに失せており、戦わずして屈服した。


 推古八年(600年)に筑紫王「阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)」は隋の高祖文帝に使者を送り、政権を日(大和)王に禅譲(ぜんじょう)する旨を通告している。筑紫倭国は、中国隋王朝の冊封から離脱した。


 608年に、隋の煬帝は、裴世清(はいせいせい)を使者として大和に派遣し視察させているが、大和(ヤマト)王朝を、筑紫倭国に代わる中国王朝の朝貢国に認めることはなかった。


 612年、隋の煬帝は、200万の大軍で高句麗遠征を行うが、この時、高句麗・百済・倭国は同盟関係にあった。しかし一方で、新羅と大和(ヤマト)の密約もあった。


 結局、隋の三度の高句麗遠征は失敗して隋は崩壊するが、その後に成立した唐においても、高句麗攻撃は引き継がれた。こうした隋と唐の執拗なまでの高句麗攻撃をまのあたりにして、内外に敵をかかえた筑紫王朝は、自国の防衛網の整備が急務となった。


 神籠石系山城は、610年頃から663年の「白村江の戦い」までのほぼ50年間をかけて、筑紫倭国王によって築造されたものに違いない。