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筑紫倭国伝

大和物部政権



 『記紀』解釈によれば、大和(ヤマト)王朝は、西暦紀元前660年2月11日に初代の神武天皇が、畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)で即位したことから始まるらしい。


 天照大神(あまてらすおおみかみ)が、孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に「豊(とよ)葦原の中つ国」を治めさせようと、高天原(たかまがはら)を天降りさせてから、179万2470余年後のこと(『日本書紀』巻第三)だという。もとよりこれは創作神話であり史実ではありえない。


 皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)のモデルは、『魏志倭人伝』に記された邪馬台国の女王「卑弥呼」である。


 卑弥呼は「日の巫女」であり、邪馬台国連合の王に共立され、連合の盟主になって南の山に入った。ここが女王国であって、日本神話では高天原(たかまがはら)となった。


 『日本書紀』によれば、磐余彦(いわれひこ、神武天皇)の東征の前に、饒速日(にぎはやひ)が、天磐船(あまのいわふね)に乗り、河内国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天降りしている。


磐船神社 磐船神社

 祭神 天照国照彦天火明奇玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと) 

 饒速日命は天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨した。舟形の巨岩を「ご神体」とし、拝殿だけが設けられている。
 大阪府交野市私市


 饒速日(にぎはやひ)は物部氏の始祖とされ、その本貫は豊の国である。天降りに際しても、その従者として遠賀川や紫川(北九州市)流域の物部氏を引き連れている。瀬戸内海を渡り、淀川を遡って木津川流域(交野(かたの)市付近)に入った。倭国大乱後の西暦200年頃のことであろう。


 饒速日(にぎはやひ)は、木津川流域の豪族であった長髄彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻にしている。土地の豪族と結びついた物部氏は、大和を拠点にして各地に勢力を拡大していった。


物部氏本貫地 物部氏本貫地

弦田(つるた)物部 ▶宮若市鶴田
二田(にいた)物部 ▶小竹町新多
芹田(せりた)物部 ▶宮若市芹田
鳥見(とみ)物部 ▶北九州市富野
横田(よこた)物部 ▶飯塚市横田
嶋戸(しまと)物部 ▶遠賀町島門
赤間(あかま)物部 ▶宗像市赤間
大豆(おほまめ)物部 ▶桂川町豆田
肩野(かたの)物部 ▶北九州市片野
相槻(あひつき)物部 ▶朝倉市秋月
(きく)物部 ▶北九州市企救
贄田(にへた)物部 ▶鞍手町新北
田尻(たじり)物部 ▶糸田町泌
その他(不明地を含む)
当麻(たきま)物部 浮田(うきた)物部 巷宜(そが)物部 足田(あしだ)物部 須尺(すじゃく)物部 久米(くめ)物部 狭竹(さたけ)物部 羽束(はつか)物部 尋津(ひろつ)物部 布都留(ふつる)物部 住跡(すみと)物部 讃岐三野(みの)物部 播麻(はりま)物部


 いっぽう邪馬台国では狗奴国との戦いが終結し、女王「卑弥呼」が死ぬと、後継の男王に服せず内戦状態になったが、卑弥呼の宗女「台与(とよ)」が新たな女王になって内戦が治まった。


このときに筑紫・豊・肥(狗奴国)を主体にした「倭国筑紫王朝」が成立する。そして再び各地に移民団を送り出した。その長(おさ)の一人が大和に入り、後に「神武天皇」といわれた。饒速日の東征からおよそ50年後の、西暦250年頃のことであろう。


 大きな争乱の後に、こうした集団移民の起こることは、その後の歴史においてもたびたび繰り返されている。


 磐余彦(いわれひこ、神武天皇)東征の出発地が遠賀川河口であったことは、『記紀』ともに書き記している。洞海湾から関門海峡に入り、瀬戸内海を渡った。磐余彦は、大和入りに際して長髄彦(ながすねひこ)の抵抗に遭うが、磐余彦が同族であることを知った饒速日(物部氏)によって、長髄彦は殺されてしまう。ようやく大和入りを果たした磐余彦(神武天皇)は、大和(ヤマト)王朝建国の祖となり、現在の天皇家に連なることになっている。


 『日本書紀』は、神功皇后六十六年に「武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ」という『魏志』倭人伝の記事を引用して、神功皇后(じんぐうこうごう)が「卑弥呼」のこととしている。


 第14代「仲哀天皇」の后(きさき)である神功皇后は、卑弥呼の事績を大和の女王の事績とするために創作された人物である。


 三韓遠征を終えた神功皇后は、皇子を筑紫で出産し、大臣の武内宿禰(たけうちのすくね)と供に大和入りをめざすが、皇子の異母兄の攻撃を受ける。どうにか戦いに勝利して大和に入り、摂政に就いて、百歳で崩御(太歳己丑(つちのとうし))した。西暦換算すると269年で、卑弥呼の死に符合させている。


宇美八幡宮 宇美八幡宮

 祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫・住吉大神・伊弉諾尊
 社伝『伝子孫書』によれば、創建は敏達天皇三年。神宮皇后は新羅より帰国後、応神天皇(誉田天皇)をこの地で出産した。地名「宇美」の由来は「産み」に由来する。
 福岡県糟屋郡宇美町宇美


 神功皇后崩御の翌年に第十五代「応神天皇」が即位する。初代「神武天皇」の東征物語は、応神天皇東征の事跡を再編製して繰り上げ重複記載したものである。つまり、大和(ヤマト)王朝は「物部政権」として、西暦270年から応神天皇を始祖として始まる。


 『日本書紀』に記された第二代の綏靖(すいぜい)天皇から第九代の開化(かいか)天皇は、大和(ヤマト)王朝の創建時期を引き伸ばすために書記編者によって作出されたものである。


 第十代「崇神(すじん)天皇」を「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」というと『日本書紀』は書く。「国の始めの天皇」の意味である。崇神天皇は四方(北陸・東海・山陽・山陰)に将軍を派遣し各地を平定したと記されている。これは饒速日(にぎはやひ)(物部氏)の事跡を、ここで描写したものであろう。


 第十代の崇神(すじん)天皇から第十四代の仲哀(ちゅうあい)天皇の事績は、筑紫の王の事績を転用して改作したもので、大和(ヤマト)王朝に実在した大王ではない。


 第十五代「応神天皇」以降の大王の実在は認められるが、その事績の多くは筑紫の王の事績を転用し混用している。したがって『日本書紀』の記述は、大和(ヤマト)王朝と筑紫王朝の歴史とに読み分けて理解する必要があるが、これがなかなか困難である。


 第二十一代の雄略(ゆうりゃく)天皇(大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと))を「倭の五王の武」だというのが定説のようになっているが、『日本書紀』の編者は雄略天皇を狡猾非道で、けっして好意的には描いていない。中国宋朝の順帝に送った上表文の主だとは、書記編者にもそうした認識はなかった。稲荷山古墳(埼玉県)出土の鉄剣銘「獲加多支鹵」と雄略天皇の諱「幼武」の読みが一致するから、雄略天皇が「倭の武王」だとする解釈は恣意的である。


稲荷山古墳 稲荷山古墳

 墳丘長120mの前方後円墳。昭和43年の発掘調査で、115文字が刻まれた金錯銘鉄剣が出土した。刻まれた「獲加多支鹵」を「ワカタケル」と読み雄略天皇のことだといわれている。
 埼玉県行田市埼玉


大伴金村の失脚


 第二十四代の仁賢(にんけん)天皇(億計(おけ)王)が崩御すると、大臣(おおおみ)の平群真鳥(へぐりのまとり)は、政(まつりごと)をほしいままにして、「日本の王になろうとした」と『日本書紀』は書いている。これは在地(大和)豪族であった平群真鳥の反乱で、物部氏から政権の奪取を企てたが、これを大伴金村(おおとものかなむら)が討って、武烈天皇(稚鷦鷯(わかさざき)王)を即位させている。


 大伴金村の祖先は、日臣命(ひのおみのみこと)といい物部氏の一派である。「神武東征」のとき大軍を率いて神武天皇を導いたので道臣(みちのおみ)ともいう。大和(ヤマト)物部政権の中枢であった。


 第二十五代、武烈天皇は極悪非道の大王として『日本書紀』は書いているが、これは次の継体天皇(男大迹(おおど))即位の正当化のために造作されたものであろう。


 世継ぎを残さずに武烈天皇が崩御すると、大伴金村は、応神天皇の五世の孫である男大迹(おおど)王を越国(こしのくに・北陸地方)から連れてきて、大和(ヤマト)王朝の王にした。


 男大迹(おおど)王は、樟葉宮(くすはのみや・大阪府枚方市)で、第二十六代「継体天皇」として即位(507年)するが、この王位継承には反対勢力の妨げがあって容易に大和入りは果たせなかった。仁賢(にんけん)天皇の皇女である「手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后にし、王統を確かなものにして、三回の遷都と二十年の歳月をかけて、ようやく大和の地に入っている。


 その翌年(527年)に継体天皇は、近江の毛野臣(けなのおみ)に兵六万を率いさせて任那(みまな)に向かわせようとしたが、筑紫の磐井の叛逆に遭った。これを『日本書紀』は「磐井の乱」と書くが、この時期の大和の継体天皇に兵六万を動員して派兵する力はない。これは書記編者の粉飾である。


 「磐井の乱」の実際は、この頃に筑紫王朝にも王位継承争いが起こり、これに豊国王の物部麁鹿火(もののべのあらかい)と肥国王(肥君)が謀って筑紫王家を攻めて、磐井の庶子であり肥国王の孫であった「葛子」を筑紫本宗家の王にした。これが顛末である。


 物部麁鹿火は、葛子から論功行賞として糟屋(粕屋)の地を与えられる。この「糟屋」の地は宗像の西に隣接し、現在の福岡市東区付近までを含む領域である。関門海峡から博多付近までの九州北岸は物部氏の支配領域となった。物部麁鹿火は、近畿から瀬戸内海・玄界灘に至る朝鮮半島との交易ルートを確保した。


 「磐井の乱」のあと継体天皇は、新羅の任那(みまな)進出を止めさせるために近江毛野臣(おうみのけなのおみ)を朝鮮半島に派遣したと『日本書紀』は書くが、近江毛野臣は任那(みまな)に行って百済と戦うなどして加羅諸国をかき乱し、結果、金官国(駕洛国)が新羅に帰服する事態を招いた。


 筑紫(豊国王)の物部麁鹿火(もののべのあらかい)は、一族の物部尾輿(もののべのおこし)を大和に送って、近江毛野臣を朝鮮半島に派遣することを止めなかった大伴金村を責めた。


 大伴金村はその責を負い、子の狭手彦(さてひこ)と磐(いは)を任那(みまな)に派遣して新羅と戦わせている。これ以降、大伴金村は大和(ヤマト)王朝の政権の場から失脚した。


佐用姫伝説 佐用姫伝説

 海原の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用姫  山上憶良(万葉集5-874)
 任那に派遣される狭手彦(さてひこ)との別れを惜しむ佐用姫(さよひめ)は、玄界灘を見渡す領巾振山(ひれふりやま・鏡山)から、この岩に飛び移った。
 佐賀県唐津市和多田


 『日本書紀』は大伴金村の失脚を、二十八年も前(512年)に、百済の武寧王の要請で任那(伽耶)四県を割譲したことを諸臣から責められたからとしているが、これは明らかに不合理である。任那の割譲は筑紫王(磐井)によってなされたものである。


蘇我氏の台頭


 大和で大伴金村が失脚し、豊国の物部麁鹿火(もののべのあらかい)が薨去(536年)すると、倭国筑紫王朝による大和(ヤマト)王朝支配に緩みが生じてくる。


 第二十八代の宣化(せんか)天皇(押盾(おしたて)王)の大臣(おおおみ)となった蘇我稲目(そがのいなめ)は、物部麁鹿火が開いた朝鮮半島との交易ルートを使って新羅との交易を活発化させる。その交易が生みだす莫大な利益が蘇我氏の財政基盤となって、その後の権勢を築くことになった。


 蘇我氏は、『記紀』によれば武内宿禰(たけうちのすくね)を祖としているが、おそらく百済系の渡来人である。蘇我満智(そがのまち)・韓子(からこ)・高麗(こま)・稲目(いなめ)・馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)と代々続く異国風の名が、それを物語っている。また『扶桑略記』によれば、飛鳥寺の仏舎利埋納儀式に馬子と従者百余人が百済服を着て出席したともある。


 蘇我稲目(そがのいなめ)は、その配下の的臣(いくはのおみ)・吉備臣(きびのおみ)・河内直(かわちのあたい)らを任那(みまな)に送って、新羅との通謀を謀った。


 第二十九代、欽明天皇(排開広庭(おしはらきひろにわ)王)の『日本書紀』の記述の多くは『百済本紀』からの引用になっている。ここでいう「日本の天皇」とは、筑紫王朝の倭国王のことである。百済の聖明王(せいめいおう)は「磐井の乱」以降の、筑紫王朝内の政権構造の変化に、まだ対応できていなかった。


 百済と新羅は、この時期まで羅済同盟(らさいどうめい)を結んで高句麗の南下進出に抵抗していたが、加羅諸国の領有争いで、この同盟は553年に破たんする。


 聖明王が任那の復興に際して、「安羅(あら)の日本府の的臣(いくはのおみ)・吉備臣(きびのおみ)・河内直(かわちのあたい)らが、新羅に通じており、早く召還するよう」に再三訴えているが、「天皇は、的臣(いくはのおみ)らが新羅に行ったことは、自分の命じたことではない」(『日本書紀』巻第十九)という。ここでいう「天皇」は、筑紫の倭国王のことである。


 欽明十三年に、百済の聖明王から仏像と経論が、大和の欽明朝に贈られた(仏教公伝)ように『日本書紀』は書いているが、このころ百済の聖明王は高句麗・新羅とさかんに戦っていて、そうした情勢ではない筈である。さらに『日本書紀』の『百済本紀』引用記述から、この頃の百済の聖明王に「大和の欽明朝」の認識があったとは想起しにくい。


 新羅の仏教は、新羅の法興王(ほうこうおう)が528年に公認し、534年には寺院の建立を始めて、仏教を広めることに努めている。これを蘇我稲目(そがのいなめ)が受け入れて、大和における仏教の布教が図かられたと推測する。


 欽明十三年、国に疫病が流行ると物部尾輿(もののべのおこし)は、蘇我稲目が安置して礼拝していた仏像を難波(なにわ)の堀江に流し、寺に火をつけて焼いている。この頃から物部氏と蘇我氏の反目が始まった。


 554年に百済の聖明王は、新羅との戦いに出向いた子の余昌(よしょう)を救うために出陣して新羅に討たれる。このとき「筑紫国造の鞍橋君(くらじのきみ)」が余昌(のちの威徳王)を戦場から救い出している。


『日本書紀』がいう「筑紫国造」とは、かつての「(筑紫君)磐井」もそうであったが、「筑紫倭王」のことである。つまり筑紫王朝の「鞍橋(くらじ)王」がみずから渡海して百済救援に出向いて戦っている。


鞍橋(くらじ)王がこのとき「筑紫国造」だということは、おそらく「(筑紫君)葛子」の子であろう。そして物部麁鹿火の孫だとして蓋然性は高い。筑紫・豊・肥国の連合体であった倭国筑紫王朝は、この頃には統一王朝になったと考えられる。


鞍橋神社 鞍橋(くらじ)神社

 鞍橋(くらじ)は、地名の鞍手(くらて)の起こりになったと伝わる。
 天孫瓊瓊杵尊の可愛の山陵(六ヶ岳)の麓の飯盛山の山頂に祀られる。
 福岡県鞍手郡鞍手町長谷


 562年、任那(みなな)は新羅によって滅ぼされ、加羅諸国は新羅に併合された。朝鮮半島は、高句麗・百済・新羅の三国時代を向かえることになる。


倭国筑紫王朝は「倭の五王」の時代から百年以上続いた朝鮮半島の権益を失うことになり、弱体化していく。


丁未の乱(ていびのらん)


 大和(ヤマト)王朝の第三十代、敏達天皇(太珠敷(ふとたましき)王)は、572年に即位した。欽明天皇の第二子である。物部守屋を大連(おおむらじ)とするのは元のままで、蘇我馬子を大臣(おおおみ)とした。


 蘇我稲目は、欽明天皇崩御(571年)の前年に薨じているので、敏達朝の大臣に稲目の子の蘇我馬子が新任した。物部守屋を大連とするは「故(もと)の如し」としているが、物部尾輿が、子の守屋といつ交代したのか『日本書紀』は記していない。おそらく尾輿は「任那の滅亡」の責めを、筑紫王から負わされて失脚した。 


 加羅諸国が新羅に併合され「任那の滅亡」によって、百済と筑紫倭国の往来は、朝鮮半島南岸域を寄港地として使えない事態になった。そうすると朝鮮半島との交易は、新羅と通じていた蘇我氏のほぼ独占状態になって、それがもたらす収益が、大和(ヤマト)王朝内で蘇我氏は隆盛を極めるようになった。


 敏達十二年(583年)、蘇我氏の新羅との通謀を知る百済の「日羅(肥の葦北国造、阿利斯登の子)」が召喚され暗殺されるという事件が、『日本書紀』に記されている。日羅に随行した百済官人の仕業だとしているが、おそらく蘇我馬子の指示で新羅人によって殺された。「新羅のやったことではない」と、日羅が蘇生して言ったと、わざわざ書いている。


 敏達十四年、大和に疫病がおこると、物部守屋(もりや)は蘇我馬子(うまこ)が造った寺に往き、塔を壊して仏壇・仏像を焼き、焼け残った仏像を難波(なにわ)の堀江に捨てさせた。


三十四年前に物部尾輿(おこし)は、蘇我稲目(いなめ)の寺に火をかけて、今回の守屋と同じことをしている。このときの稲目は、まだ物部氏の勢力に抗えなかったが、馬子は違った。このとき「物部政権」打倒を決意した筈である。


 この年の秋八月に敏達天皇が病(疱瘡)で崩御すると、九月には第三十一代の用明天皇(豊日(とよひ)王)が即位した。欽明天皇の第四子であり、蘇我稲目の孫(馬子の甥)になる。初の蘇我の血をひく天皇である。


 敏達天皇には最初の皇后「広姫(ひろひめ)」の生んだ押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)が太子(ひつぎのみこ)でいたが、次の皇后の炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)が、敏達天皇の遺詔と称して用明天皇を即位させようとした。これは馬子の指示である。


これを覆すべく穴穂部皇子(欽明天皇の第十一子で炊屋姫の異母弟)が、、敏達天皇の殯宮に押し入り炊屋姫(かしきやひめ)を襲おうとした。敏達天皇の寵臣であった三輪逆(みわのさかう)の妨げで、これは失敗するが、三輪逆は物部守屋によって殺される。


 翌年四月、用明天皇も病(疱瘡)に罹り、群臣に「自分は三宝(仏・法・僧)に帰依したい。卿ら議(はか)れ」と言い、群臣が協議を始めると、馬子と守屋は、相変わらず対立した。このとき穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、豊国法師(とよくにのほうし)を連れて内裏に入った。


穴穂部皇子は、用明天皇を三宝に帰依させ、出家して退位させ、自分に譲位させようと、筑紫王朝に根回し画策して、豊国法師を呼び寄せたのであろう。物部守屋は「これを睨んで大いに怒った」と『日本書紀』は記している。守屋は敏達天皇の嫡流である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)に王位を戻そうとしていた。


 在位二年たらずで、用明天皇は崩御した。守屋は穴穂部皇子の王位への強引な執着に辟易していたが、蘇我馬子との対抗上、いったんは穴穂部皇子への王位継承もやむえないと考えたのであろう、「淡路の狩猟」に誘い出して策を練ることことにした。だがこの謀りが馬子に漏れた。


六月七日、蘇我馬子は炊屋姫(かしきやひめ)を奉じて、佐伯丹経手(さえきのにふて)・土師磐村(はじのいわむら)・的真嚙(いくはのまくい)に詔(みことのり)して、穴穂部皇子を殺害させた。


七月、蘇我馬子は諸皇子(泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子)と群臣(紀男麻呂・巨勢比良夫・膳賀陀夫・葛城烏那羅)らとに勧めて、物部守屋を滅ぼそうと謀った。群臣が一緒になり軍勢を率いて守屋の家に往き、守屋を討った。これが「丁未(ていび)の乱」(587年)である。


 八月二日、炊屋姫(かしきやひめ)と群臣が勧めて、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)が第三十二代の崇峻天皇(欽明天皇の第十二子)として即位した。蘇我馬子を前のままに大臣(おおおみ)としたが、大連(おおむらじ)は、物部守屋を最後に置かれていない。


 誉田(ほむた)王(応神天皇)東征から、およそ三百年続いた大和(ヤマト)王朝の物部政権は、こうして終焉した。


 この事態は当然のごとく、倭国筑紫王朝と大和(ヤマト)王朝の緊張状態を作り出した。蘇我馬子は、紀男麻呂(きのおまろ)・巨勢猿(こせのさる)・大伴嚙(おおとものくい)・葛城烏奈良(かつらぎのおなら)らを大将軍に任じて、二万余の軍を筑紫に出兵した。


 『日本書紀』は、この出兵を、崇峻天皇(泊瀬部王)の勅で、新羅に滅ぼされた(三十年前の)任那(みまな)再建のためと書いて粉飾している。


泊瀬部王(崇峻天皇)は炊屋姫(かしきやひめ)の異母弟で、馬子に殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)の同母弟である。つまり馬子の甥になるが、馬子を恨んでいた。


 翌年(592年)、蘇我馬子は、配下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って、崇峻天皇を弑殺すると、炊屋姫を第三十三代の推古天皇として即位させた。大和(ヤマト)王朝の初の女帝である。