更新 

異称倭国伝

奈良の都


新益京


 壬申の乱を制した薩夜麻(大海人)は、母(斉明天皇)の宮であった大和飛鳥(あすか)の浄御原宮(きよみはらのみや)に入った。ここは鸕野皇女(うののひめみこ)の生誕地でもある。『日本書紀』天武天皇二年二月、「天渟中原瀛真人天皇」は、その地で「即位の儀」をおこなったと記すが、これは虚構である。薩夜麻(大海人)は、既に倭国筑紫王朝の「大王」であり、ここで「即位」することはあり得ない。


 『万葉集』に、「壬申の年の乱の平定せし以後の歌二首」の題詞の歌があって、当時の飛鳥の風景がみえる。


大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都と成しつ

皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都 [作者 右大臣大伴卿]
(『万葉集』巻19-4260)


大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都と成しつ

大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通 [作者 未詳]
(『万葉集』巻19-4261)


飛鳥(あすか)は、馬が寝そべり、水鳥の飛び交うような田舎であったが、天皇は神であるから都にできたと歌われている。たしかに、飛鳥の地は狭隘で起伏も多い。筑紫太宰府で政(まつり)を行ってきた「筑紫君薩夜麻(大海人)」にとっては、酷く手狭であった。


 天武天皇十一年三月、天皇(薩夜麻)は舎人(とねり)に地形の視察をさせ、行幸もして適地を求め、新益京(あらましのみやこ)の造都を計画した。やがては倭国筑紫王朝と併合した新生「日本国」の首都とするためである。


 倭国筑紫王朝の皇祖「天照大御神」は、世界の創めに、「クニ」の南の山「高天原(たかまがはら)」で地上を治めた。新益京(藤原宮)は南に「壬申の乱」の出発地となった吉野山を眺めて、新たな首都の適地に選定された。


英彦山 英彦山

 倭国筑紫王朝の皇祖「天照大御神」のモデルは、邪馬台国の女王「卑弥呼」である。女王は、南の山「英彦山」に入って、「日の神」に祈祷して「クニ」を治めた。

 福岡県田川郡添田町英彦山


 新益京(藤原宮)は、『周礼(しゅらい)』という古代中国の文献に基づいて、理想的な都城制を目指して設計されている。


白村江の戦いの後、筑紫君薩夜麻は、六年余りを唐の都「長安」で抑留生活をしている。この時に『周礼』を目にして、長安も筑紫太宰府も『周礼』記述の理想の都城になっていないことを知った。新益京(藤原宮)の建設は、唐の長安や筑紫太宰府に劣らない理想の都城を目指して着工された。


それと並行して難波にも造都を計画している。「およそ都城や宮室は、一処に非ず。必ず両参造らむ。故、先づ難波に都を欲す。是を以て、百寮の者は各往りて家地を請われ。」(『日本書紀』天武天皇十二年十一月)すぐに役人は、おのおの難波に行き住居を用意するよう言っている。


筑紫との連絡に支障を来たさぬよう、難波にも都城を必要とした。難波には天皇の叔父になる孝徳天皇の長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)があり、これが再利用された。


 万葉歌人で舎人(とねり)の柿本人麻呂は、難波から出船して瀬戸内海から関門海峡を抜けると、「潮待ち船溜まり」の洞海湾に入り遠賀川(おんががわ)河口に着いて、「大王(おおきみ)の 遠の朝廷(みかど)と ありがよふ 嶋門(しまと)をみれば 神代しおもほゆ」(『万葉集』巻3-304)と詠んでいる。「嶋門」は、洞海湾に面した遠賀川河口の地名で、「天皇の祖先の地に、幾度も通う嶋門に来ると、神代の時代が偲ばれる」と言っている。


高市天皇


 天武天皇(薩夜麻)は、壬申の乱で全軍の統帥にした高市皇子を筑紫に戻して、自らの後継として「倭国筑紫王朝」の王にした。もちろん『日本書紀』は、このことを伏しているが、「高市皇子命(みこと)」と尊称を加えて、他の「皇子」とは区別している。


また、高市皇子の長男の長屋王(ながやおう)邸宅跡から『長屋親王宮鮑大贄十編』と書かれた木簡が出土している。「親王」は天皇の男子に称されるもので、高市皇子が天武天皇の後の天皇とされたのである。


 筑紫王となった高市(天皇)は、外国船の瀬戸内海への侵入を禁止し、穴門(関門海峡)を封鎖して、外国使節の対応等は筑紫太宰府で行なった。『日本書紀』天武天皇条に、筑紫の記事や外国使節を「筑紫で饗応」の記載が異常に増えるのはこの為である。


 朱鳥(あかみとり)元年(天武天皇十五年)九月九日、新益京の完成を見ることなく、天武天皇が飛鳥浄御原宮で崩御すると、鸕野皇女(持統天皇)が称制(しょうせい)して政務を執った。


翌月、大津皇子が、草壁皇子に対する謀反の罪で討たれた。大津皇子は、天武天皇と鸕野皇女の実姉の大田皇女(おおたのひめみこ)との子である。


草壁皇子は、このとき「年二十五」になっていた。『日本書紀』天武天皇八年の「吉野の盟約」で草壁皇子の皇位継承が決まっていたのなら、鸕野皇后の「称制」は必要ない筈である。


大津皇子(年二十四)は、既に朝政に参加していて人望もあった。これを誅したことの大義名分に「吉野の盟約」が必要であった。つまり、高市皇子も含めた「吉野の盟約」は、後の虚構である。


 持統天皇三年(称制四年)四月八日、草壁皇子が薨去した。鸕野皇后は自らの血統(草壁皇子の子の軽皇子へ)に固執して、既定路線であった高市皇子の皇位継承には断固として応じようとせず、翌年正月、自らの即位式を敢行し持統天皇となった。


高市(天皇)は、このとき筑紫で政務を執っていて、新益京の完成を待って入京し即位することは、天武天皇の生前からの決めであった。それをもって倭国筑紫王朝の遷都とし、新生「日本国」が誕生する手筈であった。


鸕野皇后が、これを覆すことは、高市(天皇)との武力衝突も覚悟しなければならないが、そうしたときに吉野山の、役小角(えんのおづの)を頭目に据えた山伏集団の動向が非常に気がかりであった。


役小角は、「壬申の乱」の前から薩夜麻(天武天皇)の配下にあって、藤原鎌足と天智天皇の暗殺を実行している。これが「壬申の乱」勃発の引き金になった訳だが、鸕野皇后にとっては、わが子の草壁皇子へ皇位継承の望みが開けたことでもあった。


持統天皇は頻繫に吉野へ行幸(三十三回)している。高市(天皇)の入京までに、役小角と山伏集団を懐柔しておかねばならない。そして自分こそが、天照大御神から続く倭国王朝の正当な後継者であることを、他の皇族や豪族にも示しておく必要があった。持統天皇の別名「高天原広野姫天皇」は、こうしたことから諡名された。


吉野山 吉野山

 天智天皇十年(671年)に、役行者が吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し金峯山寺を開いたと伝わる。同年に大海人皇子(天武天皇)と鸕野皇女(持統天皇)も吉野に入っている。
 奈良県吉野郡吉野町吉野山


 『日本書紀』持統天皇四年十月二十九日「高市皇子は、公卿百寮を従えて藤原宮地を観る」、同年十二月十九日「天皇は、藤原に行幸して宮地を観る。公卿百寮を皆従えた」。短期間に二度、公卿百寮が動員されている『日本書紀』の書きぶりには、違和感がある。このときの高市皇子の新益京視察は虚構だと思われる。


『日本書紀』のこうした虚構文の挿入や改変は、最終的な監修に関わったであろう「藤原不比等」によるものであると考えられる。藤原不比等は、後の皇位継承に深く関わっていく人物で、藤原鎌足の次男である。


倭国筑紫王朝の終焉


 持統天皇八年十二月六日、新益京(藤原宮)の造都は、天武天皇の発起から十二年程を経て、ようやく完成したのか、持統天皇は藤原宮に遷った。高市(天皇)の入京は遅れていた。持統天皇の吉野行幸は、藤原宮に遷っても頻繫(約二ヶ月間隔)に繰り返された。


 吉野山の役小角(えんのおづの)は、「呪術(じゅじゅつ)」を使ったと『続日本紀』が書いている。持統天皇は、役小角に高市(天皇)の呪詛を命じていたのではないかと思われる。それに役小角が従ったかどうかは分からないが、後に役小角は伊豆嶋に配流されている。(『続日本紀』文武天皇三年五月)


 持統天皇十年七月十日、高市(天皇)が筑紫で薨去すると、頻繫に繰り返された持統天皇の吉野行幸は止む。約十ヶ月後の翌年の四月七日に吉野へ行幸しているが、それが持統天皇としては最後の行幸になった。


 持統天皇十一年(697年)八月一日、持統天皇は、孫(草壁皇子の子)の軽皇子(文武天皇)に譲位して、太上(だじょう)天皇となった。文武天皇(天之真宗豊祖父天皇)は、年十五での即位であった。


『記紀』に描かれた天孫(てんそん)降臨神話は、この文武天皇の即位事情をモチーフに創作されたと考えられる。持統太上天皇は、自らを高天原(たかまがはら)の天照大御神(あまてらすおおみかみ)になぞらえた。


 倭国筑紫王朝は、高市(天皇)が薨去したことで終焉を向かえる。筑紫王朝と大和(ヤマト)王権は、持統太上天皇で持って統合され、新益京(藤原宮)を都として新生「日本国」が誕生した。『日本書紀』も、ここで終わる。